身投げしたら川の神様に愛されました

鳥柄ささみ

身投げしたら川の神様に愛されました

「志乃。結婚しよう」

「ですが、茂平さん。私は片親ですし、きっとご両親が反対するかと」

「誰に何と言われようがかまうものか! 俺は心からキミを愛しているから一緒になりたいんだ。だから、志乃。結婚してくれ!」

「……はいっ、喜んで!」


 あのときは幸せだった。そう、あのときまでは。



 ◇



「まだ掃除が終わってないのかい?」

「申し訳ありません。先程洗濯を終えたところでして」

「ほんっと、グズでノロマだね。さっさとしておくれ。やだやだ。親なし子はこれだから」

「申し訳ありません」


 吐き捨てるように言うと、義母はわざとゴミ箱を蹴って散らかしていく。

 それを見て志乃は内心溜め息を吐くが、顔に出すと先程の倍以上の嫌味が返ってくることがわかっていたので、顔には出さずに頭を下げ続けた。


「あら、お義姉さんここにいたのね! この櫛、借りていくわね!」

「え!? それは母の形見なので……っ」

「えー、なぁに? 何か言った? ちょーっと借りるだけなのだもの、文句ないわよね?」

「……っ、はい」


 義妹は口元を歪めると、そのまま楽しげに去っていく。


 今まで義妹が借りたといって志乃の物を持っていったことは数知れず。

 簪や帯留などの細々としたものから着物や姿見など大きなものまで彼女が気に入ったものはことごとく奪われ、返してもらった試しはなかった。


 既に何度か返してほしいと進言しているが、「今使ってる」「くれるって言ったじゃない」と言われ、しまいには姑が出てきて罵詈雑言を浴びせられて、志乃は返してもらうことを諦めた。


(お母さま、ごめんなさい)


 内心で亡くなった母に詫びを入れてると、不意に臀部を撫でられ、ぞぞぞっと背筋を悪寒が走る。


「っ! 何をなさってるんですか……っ」

「あぁ、目の前に尻があったからな。こんだけでかけりゃ立派なやや子が産まれそうだな」

「やめてくださいっ」


 咎めているにも関わらず、臀部を撫で回す手は止まらない。


 その手がだんだんとあらぬところに向かおうとするのを志乃が止めると、先程まで下卑た笑みを浮かべていた義父の表情が一瞬で不機嫌そうに歪んだ。


「誘っておいてその態度は何だ?」

「誘っておりません」

「色目使ってワシを見てたじゃないか」

「そんなことしておりません」

「嫁のくせに減らず口を叩くんじゃねぇ!」


 バシッと頬を打たれる。


 志乃はあまりに強く叩かれたことで、崩れるように畳に突っ伏した。


 痛みで涙が滲む。


 けれど義父はそんな志乃に構わず、今度は尻に蹴りを入れると、そのまま部屋を去っていった。


「……志乃。お前、なに朝から寝てるんだ」

「茂平さんっ! 聞いてください、お義父さまが」

「あー、どうせまた志乃がろくでもねぇことしたんだろ? そんなこといいから早く飯の支度してくれ。腹が減った」

「そんなことって、私は」

「はぁぁぁぁ。なぁ、腹が減ったとご主人様が言ってるんだ。言葉がわかんねぇか? さっさと飯を用意しろって言ってるんだよ」

「っ、ただいま用意します」


 不機嫌そうにつけたばかりの煙草をこちらに向けられる。

 以前、腕に煙草を押しつけられたことを思い出し、びくりと身体を跳ねさせると志乃は慌ただしく台所へ向かった。


(どうしてこんなことに……)


 理不尽な仕打ちに、どうしてこんなことになってしまったのかと思い返す。


 志乃は元々資産家の娘で何不自由なく暮らしていた。


 だが、幼少期に父を事故で亡くし、女手一つだった母も志乃が嫁いですぐに病気で亡くなってしまった。


 志乃の両親の遺産は志乃に全て相続されたのだが、親なし子を引き取ってやった、仕舞家に嫁に来たのだから、と勝手な理由をつけて家や金など義家族に全て奪われた。


 最初は抗議していた志乃だが、抗議するたびに殴られ蹴られ、大事な物を奪われ燃やされ。

 寝る間もなく働かされ、だんだんと思考が鈍っていき、正常な判断ができなくなっていった。


(私、何で結婚したのだろう)


 結婚したばかりの頃は義家族全員から誉めそやされ、大切にされていた。


 けれど、だんだんと金品を要求されたり奉仕を強いられたりするようになり、それを断ると過剰な暴力や暴言の嵐。


 そこで初めて、義家族は自分の資産目当てで結婚を許可したのだと志乃は悟った。


(気づいたところで後の祭りだけど)


 女の地位は低い。


 しかも両親という後ろ盾が全くなく、持ってたはずの資産を全て奪われた志乃は離縁を求めることすらできなかった。


 そもそも志乃という使い勝手のいい存在を仕舞家が手放すわけがない。


「朝食はまだか!?」

「はいっ、ただいま!」


 慌てて朝食を用意する。


「はぁ。眠ぃ。これ食ったら風呂入ってまた寝るから、風呂と寝床を用意しておけ」

「わかりました」


 朝になったばかりだというのに、茂平はうつらうつらしている。

 というのも、ここのところ帰りが遅く、昨夜出かけた茂平が帰ってきたのは今朝のこと。


 志乃の資産があるからと勤めを辞めたはずなのに、日中ふらふらとどこかへ出かけては甘い匂いをさせて深夜か明朝に帰ってくる。

 浮気ではないのかと志乃が咎めると、茂平は逆上し、殴られて持っていた煙草を腕に押しつけられた。

 その跡は今もまざまざと残り、目に入るたび当時の苦痛が思い起こされて胸が痛くなる。


(苦しい)


 既に傷は塞がったはずなのに、じくじくと痛むような気がした。



 ◇



「結婚して三年経つというのに、いつになったら子ができるのかねぇ」

「申し訳ありません」

「バカの一つ覚えみたいにそればかり。他に何か言えないのかね?」

「申し訳ありません」


 義母に頭を小突かれながらもそれ以上何も言えず。


(そもそも茂平さんがほぼ家にいないのだもの。子ができるわけがない)


 文句を言いたくても言ったら最後、後悔するほどの罵倒が待っているのはわかっていた。

 だからこそ、志乃はただじっと大人しく時が過ぎるのを待っていた。


「畑が悪いからじゃねぇか?」

「たしかに。いくらタネ撒いたって畑が悪かったら育つものも育たないし」

「あーあ。長男の嫁なのに石女じゃあな。ワシが一肌脱いで子がなせる身体か試してみるか」


 好き放題言う義家族の面々。


 怒りと苦しみと悲しみで感情がグチャグチャになる。


「聞いてるの?」

「なんとか言ったらどうだい」

「申し訳ありません」

「またそれ? いい加減聞き飽きたわ」

「とうとうイカレたんじゃねぇか?」

「元々でしょ。ずっとポンコツだし」

「そりゃ違いない」


 あはははは、と楽しげに笑う義家族たち。


(いっそ狂ってしまいたい)


 何も考えずにいられたらどれほどよいか。

 この状況から抜け出せたらどんなによいか。


 ぐるぐると頭の中で考えるも、答えは見つからなかった。



 ◇



「学生時代の旧友が今晩遊びに来る」

「今晩、ですか」


 久々に今日はどこも出かけない茂平を見て、やっと家にいてくれるのかと喜んだのも束の間、来客があるからもてなすようにと厳命される。


「いいか? 見映えのよい肴や名のあるよい酒を出せよ。あいつはいいとこの坊ちゃんだからな。味がわかるやつに下手なもん食わせたら俺がバカにされる」


 珍しく上機嫌でペラペラと話す茂平。


 どうやらその旧友とは仲がよく、迎えるのを楽しみにしているらしい。

 ぷかぷかと吸うタバコもいつもより多くふかし、声色も明るかった。


「わかりました。あの、茂平さん」

「何だ?」

「さっきお義母さんが、子供はまだかって。私たちも、その、結婚して三年経ちますし、そろそろ」


 今なら言える、と志乃は意を決して言った。

 普段はなかなか言えなかったが、上機嫌な今なら言いにくいことでも言えるのではないかと。


 けれどそんな甘い考えはすぐさま消え去った。


 一瞬で重くなる空気。


 この話題を出すのは失敗だったと志乃はすぐに理解した。


「はぁぁ。またその話か? 授かりもんだろ。俺にどうこう言う意味あるのか?」

「そう、ですけど。まずは茂平さんがおうちにいてくださらないと、授かるも何も」

「はぁ? 志乃。一丁前に俺に文句か?」

「いえ、そんなわけじゃ」

「そんなに抱いてもらいたきゃ、そのみすぼらしいなりをどうにかしろ。そんなんじゃ勃つもんも勃たねぇわ。顔も身なりもババアじゃねぇか。そんなんで俺を誘おうなど片腹痛ぇわ」


 茂平が志乃を見て嘲笑う。

 ふと横を見ると、壁にかけられた鏡に映る自分。

 そこには確かに生気なく、ところどころ痣や傷があるみすぼらしい格好をした生き霊のような老婆がいた。


(これが、今の私)


 まだ十八とは思えない姿にゾッとする。


(そういえば、オシャレをしても義母に人妻のくせにはしたないと言われて、義妹には櫛も反物も全て奪われてしまって、最近は身綺麗にする気力も湧いてなかった)


 昔は着道楽と言われるほど着物が好きだったのに。

 着物に合わせて簪や帯、帯留などを選ぶのが好きだったのに。


(かつての私はどこに行ってしまったの)


 もうそんなことも思い出せないほど、志乃の心は荒んでいた。



 ◇



「じゃんじゃん、飲めよ」

「あぁ、歓待感謝するぞ。茂平」


 来客は茂平の言った通りいいとこの倅らしくかっちりとした背広を着た青年だった。

 旧帝国大学の同期だったそうだが、たまたま仕事でこちらに寄ったらしい。


「そういや、茂平。若い嫁さんもらったんだって? この子がそうかい? 随分と別嬪さんだね」

「いや、これは俺の妹だ。嫁は人前に出せるなりじゃねぇからな」

「別嬪だなんてお上手ですこと。ささ、一献どうぞ」

「妹さんは別嬪な上に気が利くねぇ。嫁に貰いたいくらいだよ」

「まぁ、嬉しい」


 客間から歓談の声が聞こえる。


 茂平に「お前は作るのに専念しろ。決して表に出てくるんじゃねぇぞ」と言われ、義妹には「私が玉の輿になれるかもしれないんだから邪魔しないでよ」と睨まれ、志乃は大人しく厨に篭ってひたすら忙しなく夕食や肴を作っていた。


(私は人前にすら出せない嫁なのか)


 漏れ聞こえる会話の中で料理を褒める言葉が出たが、それを義妹が自分の手柄のように話しているのが聞こえる。

 義妹の「大したものではないですが、お口に合って何よりです」という猫撫で声を忌々しく思うも抗議する気力もなく、志乃は粛々と料理の準備をした。


「お義姉さん。次は天麩羅。ほんっと手際が悪いんだから。早くしてちょうだい」

「すぐに用意します。お先にこちらを」


 このペースだともうすぐ酒瓶が空になるだろうと日本酒の瓶を差し出すと、義妹はひったくるように受け取ったあと「早くしてよね!」と吐き捨てるように厨を出て行った。


 ぱちんっ


「熱っ」


 天麩羅の油が弾けて頬に当たる。


(痛い。熱い)


 そう思っても誰も志乃の心配などしない。


(何のためにこんなことをしているのだろう)


 無気力になりながらも、せっせと天麩羅を盛り付ける。


(熱々のうちに持っていかないと、きっとまたどやされるかも)


 客前にさえ出なければよいはずだと、志乃は天麩羅を盛った器を持って客間の近くまで行く。

 だいぶ酔いが進んでいるのか賑やかな声が聞こえ、その声はだんだんと大きくなっていった。


「んあ? 俺が何で結婚したかって? あいつ資産家なのに親なしなんだよ。後ろ盾がなかったら好き勝手できるだろ? だから好青年を演じて結婚したんだ。まんまと引っかかってくれて、金も家も手に入って万々歳だよ」


 耳に飛び込んできた会話に、志乃は目の前が真っ暗になる。


 声は間違いなく茂平だった。

 そして、あいつというのは確実に自分のことを指していた。


「志乃さん、ここ段差がありますからお気をつけて」

「志乃さん、お荷物お持ちしますよ」


 過去の茂平を思い出す。

 優しく気遣いができて、何より志乃のことを第一に考えてくれていた。

 だからこそ、志乃はこの人とだったら結婚できると思い、夫婦になったのだ。


 それが幻想だったと知って、打ちのめされる。


(私はただ利用されただけ)


 資産と家。


 それだけのために自分は結婚相手として選ばれた。


 その事実に呆然とした。


(私の価値は資産と家だけなの……?)


 何もかもがバカらしくなって、そっと天麩羅を盛った皿を床に置く。

 そして裸足のまま、志乃はふらふらと家の外へと出て行った。



 ◇



「ここでなら死ねるかしら」


 近所にある暴れ川と名高いミゾレ川。

 過去に何度も氾濫を起こし、多くの死者を出している恐ろしい川だ。


 流れも速く、川の水がミゾレのように冷え切っているとのことからミゾレ川と呼ばれていて、昔からミゾレ川には近づくべからずと近隣の人々はミゾレ川には近づかないようにしていた。


 そのミゾレ川にかかる橋の上から見下ろすように身を乗り出す志乃。

 深夜だからか、辺りには誰もいない。


(今なら誰にも見つからずにひっそりと死ねるわね)


 志乃はゆっくりと、橋の欄干に手をかけた。


(お母さま。お父さま。私もそちらに参ります)


 ぐいっと勢いよく橋から身を投げ出す。


 そのまま川に引っ張られるように、志乃の身体は真っ逆さまに川に向かって落ちていった。



 ◇



「あ、れ?」


 凍てつくほど冷たいはずの川は、なぜかとても温かった。


「またゴミでも投げ込まれたかと思えば、まさか人間とはな」


 声をかけられ顔を上げると、そこには眉間に皺を寄せた美しい男性の顔があった。

 髪は長く、透き通った水色のような色をしていて、瞳は黄金に輝き、肌は陶器のように滑らかで乳白色。

 さらにこめかみからは黄金に輝く二本のツノが生えていて、人間離れしたその容貌に志乃は目を見張った。


「貴方、は……?」

「随分と太々しい人間だな。名乗れというなら先に名乗るのが礼儀では?」

「も、申し訳ありません」

「別に謝らんでもよい。それで、お主の名は?」

「私は志乃と申します」

「ほう、シノか。よい名だ」


 美しい青年は目を細めると口元に笑みを浮かべた。


「我の名はミゾレ。お主たちが呼ぶミゾレ川のミゾレだ。川の神と言えばわかりやすいか」

「川の、神様……」

「ただの概念だ。神など仰々しい呼び方でなく、ミゾレと呼べばいい。それで? シノはどうして身投げなぞした」

「それは……」


 志乃は一瞬躊躇ったあと、今まであったことをありのまま話す。

 ミゾレは黙ったまま志乃の話を聞き、何か考え込むような仕草をしたあと、さらに眉間の皺を深くした。


「仔細承知した。それで、シノはどうしたい?」

「どうしたい、とおっしゃいますと……?」

「このまま死ぬこともできるが、シノがよければ我がシノを身請けすることもできる」

「身請け、ですか」

「あぁ。死ぬくらいなら我のところに来ないか?」


 まるで求婚のような甘い言葉。

 人ならざる者だからか、志乃には甘美に聞こえるその言葉に心が揺れた。


「ですが、私は人妻の身ですし」

「義理堅いな。だが、お主に狼藉をはかった者とはもう縁が切れている。今更義理もないだろう。それに、お主の両親がずっと片時も離れずお主を心配しておるぞ」

「え、両親が!?」


 とうに死んだはずの両親がずっと側にいると言われ驚く。


「何を驚くことがある。ずっと心配だ心配だと周りをうろちょろとしておるぞ。シノが今まで大きな怪我や不埒なことをされてないのは両親のおかげだ。ずっと守っていたようだからな」


 言われて、かつて階段で突き落とされそうになったり熱湯を浴びせられそうになったりしたことを思い出す。

 いずれもたまたま手すりを掴んでいたり、落とした物を拾おうとしゃがんだり、と運良く回避できていたのだが、あれは全部両親のおかげだったのかと思い至る。


「せっかく両親が守ってくれた命を粗末にするのはよくないのではないか?」

「ですが、私がミゾレさまのところへ行ってご迷惑にはならないでしょうか?」

「ならん。なるのであればそもそも我のところへ来いなどとは最初から言わぬ。それでどうする? 我のところへ来るのか、来ないのか」


 ジッと瞳を見つめられる。

 美しく輝く黄金の瞳はあまりに浮世離れしていて、視線が外せなかった。


「行きます。ミゾレさまのところへ」


 志乃がまっすぐ答えると、ミゾレは先程までの険しい顔をふっと緩めて微笑んだ。


「そうか。であれば、その不要な枷は外してしまおう」


 ミゾレが志乃の額に口づけると、志乃の身体から痣や傷がみるみるとなくなっていく。


「すごい……」

「このくらい造作でもない。……うむ。やはり我の見立て通りだ。シノは美しい」


 ミゾレから優しい眼差しと言葉を向けられて志乃は赤面して俯く。

 褒められ慣れていない志乃はどう反応したらよいかわからなかった。


「あ、ありがとうございます」

「照れる姿も愛らしいな」


 ミゾレはそう言うと、ひょいと志乃を抱き上げた。


「そ、そんな褒められましても……って、立てますから、降ろしてください」

「このくらい大したことではない。それにシノは軽すぎるくらいだ」


 そう言いながらどこかへ歩き出すミゾレ。


「ミゾレさま!? あの、降ろしてください」

「家はすぐそこだ。それにここはうつつとのさかいだから今降ろしたら地獄へと堕ちてしまうかもしれぬぞ?」

「地獄!?」


 びっくりして志乃がミゾレの首元に引っ付く。


「驚く姿も愛らしいな。そのまま落ちぬようしっかりと掴まっておれ」


 ミゾレは満足した様子で笑ったあと、志乃を抱えたまま彼の言う家へと向かって歩き出した。



 ◇



「広い……」


 真っ白い空間にぽつんとある大きな一軒家。

 平屋の大きなそれは、大名屋敷よりも広かった。


「昔は大所帯だったからな。今はもうどんどんと減ってしまってここに住んでいるのは我一人になってしまった」

「減った、というのは神様がですか?」

「あぁ。信仰が失せるだけでなく、森林伐採や川の埋め立てなどと人間のせいで消えた神は多い」

「そんな……申し訳ありま……んぅ」


 いつものごとく謝ろうとすると、ミゾレに口付けられる。突然のことに驚き、固まる志乃。


「シノのせいではないのだからシノが謝ることではない。シノは謝るのがクセになっておるな。かつてはそうならざるを得なかったのかもしれぬが、そのクセは直せ。むやみやたらに謝るのであれば、今回のように口を塞ぐぞ」

「は、はい。申し訳……あ」

「ほれ、もう一度だ」


 そのままたっぷりと口付けられて目が回る志乃。優しく甘く今まで味わったことのない口付け。

 こんなにも口付けは心地よいのかと、志乃の心は満たされていった。


「シノは口吸いが好みか?」

「はっ、いえ、あの」


 甘美な口付けに思わず惚けると、ミゾレが覗き込んでくる。

 その表情はとても好奇心に満ちていて、まるで子供のようだった。


「我に嘘は通用せぬぞ。素直に申せ」

「あ、え、っと、その、ミゾレさまとするのは好きです」


 恥じ入るように言って手で顔を覆う志乃。

 不埒なことを思い言ってしまった羞恥心で顔を熱くさせていると、「愛い愛い」とミゾレは満足気に笑って再び唇を重ねるのだった。



 ◇



 志乃がミゾレの家に暮らし始めてからどれほど経っただろうか。


 ミゾレは志乃を大事に大事に可愛がり、それはそれは寵愛した。

 志乃をこの世界に閉じ込めておくのではなく、たまに彼女を現世へと連れ立っては人里に降り、団子や抹茶などを味わったり、釣りや紅葉狩りなどに出かけたり。

 当初はしてもらってばかりで気後れしていた志乃も、ミゾレといるうちに申し訳なさを感じることなく一緒に楽しめるようになっていった。


「シノー! シノー!」

「はい、ただいま!」


 ミゾレは志乃の姿が見えないと、すぐさま志乃を呼ぶ。

 元々ミゾレの家は大所帯だったのに志乃が来る前はずっと一人だったようで、彼はとても寂しがりやであった。


「また掃除をしていたのか? よいと言っているのに」

「だって、何もしないと落ち着きませんから」

「シノは何もせずともよいと言っているだろう? 綺麗なのはありがたいが、我はシノと一緒にいたい」

「いつも一緒にいるではありませんか」

「それでも一緒にいたいのだ。ほら、掃除などもうよいから、我と共に桜を観に行くぞ。麻ヶ谷山の桜がちょうど見頃らしい」

「わかりました。ってミゾレさま……んっ」

「シノは歩くのが遅いからな。こうしたほうが早い」


 ひょいっと抱き上げられて、すぐさま唇を奪われる。


「私、謝っておりませんよ?」

「我がしたかったからしただけだ」

「では、私も」


 そうして再び口付ける。


「桜の精にうつつを抜かさないでくださいね」

「我は暴れ川の主人だぞ? 桜の精には恐れられている。それに、我はこう見えて一途なのだ。目の前に愛しい者がおるのにうつつを抜かす暇はない」


 以前のような、感情を抑え、何にでも謝る志乃はそこにはもういなかった。

 彼女は変わり、だんだんと自分の気持ちを素直に言えるようになっていた。


「シノこそ、その愛らしい姿を人間どもに見せてはならぬぞ。人間なぞに横恋慕されたら敵わん」

「私のことを愛らしいというのはミゾレさまくらいですよ」



 ◇



「志乃!?」


 今日は夏祭りがあるからと夜になってからミゾレと共に人里に降りてきたときだった。

 ミゾレが露店に行っている間、路地裏の人目につかないところで志乃が待っていると突然声をかけられ、振り返るとそこには茂平がいた。

 志乃は自分の名を呼ばれたことに戸惑っていると、茂平は詰め寄るように志乃に近づいてきた。


「志乃、志乃だよな!?」

「そう、ですけど……」

「ならちゃんと返事をしやがれ! 随分と見違えたから人違いかと思ったぞ! さぁ、うちに帰るぞ! お前がいなくなったせいでこっちは散々だったんだ!」

「……っ」

「聞いてくれよ。お前がいなくなった日、旧友が来てただろう? あいつ、詐欺師だったんだ。俺らの財産全部掻っ払っていきやがった。妹も手篭めにされて、嫁入り前だってのに傷物にされちまった。そのあと、お前の親の親類を名乗るやつが家に来て、俺らが家を乗っ取っていると大騒ぎしたんだ。まるで俺らが泥棒かのように! 信じられないだろう!? しかも、俺らの言うことが信用ならないからすぐに志乃を出せと煩いんだ」

「えっと……」

「ずっとお前が行方不明だと説明してるのに、奴ら、俺らが志乃をいびって追い出しただの殺しただの言い出して。近所の奴らもみんな好き放題言いやがって、俺らの肩身が狭いんだよ! そのせいで母さんは寝込むし、父さんは志乃と間違えて近所の娘に手を挙げちまったもんだから、警察に連れて行かれちまうしで酷いありさまなんだ! だから早く帰ってきて、俺らが無実だと証明してくれ!」


 グイグイと強い力で腕を無理矢理引っ張られて志乃は顔を歪める。腕が折れそうなほどの痛みに、志乃は「やめてください!」と思いきり腕を振り払った。


「っ!? おめぇ、亭主に向かって何するんだ!」

「さっきから、何の話をなさっているんですか? 貴方、どなたですか?」

「はぁ!? ふざけるのも大概にしろ!」


 茂平は立ち上がると拳を振り上げる。志乃は殴られる、と咄嗟に腕で顔を庇った。


「我が妻に何の用だ」

「ミゾレさまっ」

「いてっ! いててててっ!!」


 ぬっと志乃に立ち塞がるように割り入り、茂平の振り上げた拳を捻り上げるミゾレ。


「遅くなった。すまない。大事ないか?」

「はい。ミゾレさまのおかげで」

「つ、妻? 志乃は俺の妻だぞ!」

「シノ。この者を知っておるか?」

「いえ。見覚えはあるような気がするのですが……どこかでお会いしました?」

「志乃、お前何を言って……」

「だそうだ」


 ミゾレが蔑むような瞳で見下せば、茂平はびくりと身体を震わせた。


「シノ、行くぞ」

「はい」

「志乃! 待て! 待ってくれ、志乃! 後生だから、待ってくれ……!!」


 二人が背を向け、歩き出す。志乃はもう振り返ることはなかった。



 ◇



 家の縁側で志乃に膝枕をされながら、うたた寝をするミゾレ。その姿は誰がどう見ても仲睦まじい夫婦であった。


「シノ」

「何ですか? ミゾレさま」

「シノはここに来て幸せか?」

「えぇ、とっても」

「そうか。だが、現世に戻りたくはならぬか?」

「いいえ。それよりも寂しがりやの神様のことが心配ですから。きっと私がいなくなったら寂しくて暴れてしまうかもしれませんし」

「シノ。言うようになったな」


 志乃がミゾレの髪を撫でる。

 そのまま優しく手のひらを滑らせ、ミゾレのツノに触れると、その腕を大きく引かれてあっという間に志乃はミゾレに押し倒された。


「物申す私はダメでしょうか?」

「そんなくだらないことを我が言うと思うか?」

「いいえ」


 ゆっくりと唇が重なる。

 志乃はミゾレの背に腕を回し、ミゾレからの愛を一身に受けるのであった。



 ◇



「仕舞家のこと聞いた?」

「聞いたわよ。何でもお嫁さんの実家を乗っ取って、資産総取りしてたって」

「しかも、そのお嫁さんをいびって殺しちゃったんでしょ? 怖いわよねぇ」

「やってない、殺してない、って言い張ってたらしいけど、お嫁さんがずっと虐められてたの近所中見てるもの。今更そんなわかりきった嘘ついたところでねぇ」

「その仕舞家、なんとこの間の豪雨の大氾濫で家ごと全部流されちゃったって」

「え、それは初耳だわ」

「仕舞家の人達みんな中にいたみたいで、全員流されちゃったみたいよ」

「えぇ!? 確か旦那さん、ちょうどその日出所だって言ってたわよね?」

「そうそう」

「あの日はミゾレ川が氾濫するって警報も出てたのに」

「因果応報ってやつねぇ」




 終

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