「またね!」と言えなかったあの日

彩芽綾眼:さいのめ あやめ

第1話 《社畜》

「またね!」

 そう言って彼女は後ろを向く。

 もう、カラスの音楽が町を彩る時間。背景には夏の虫がうるさいくらいに鳴いている

『また』彼女のこの言葉は僕の心に重たく響いた。僕は明日、引っ越しをする。

 そんな、俺にとって苦い話。

 それを伝えられずに僕は立たずんでいて、好きと言えずに口ごもっている。

 彼女を悲しませたくないから『また』がないことを伝えられずに苦しんで、この夏休みで感動を育んだ関係が何か別の形になってしまうことに足踏みをしていて。

 到底冷めやらない激情を、心の温もりを…好きな気持ちを言えずにいる。

 僕は夕焼けの空を背にして、気持ちを抱え込んでしまっていた。

 俺はそんな自分を俯瞰ふかんして眺めていた。

「あのね!」

 僕はそんなひと言すら言えずにいる。そんな勇気すら振り絞れていない。あまりにも未熟すぎる時代。

 僕は彼女が好きだ、でも悲しませたくは無い。きっと僕は彼女の1番には成れないのだから。


 でも、このまま終わらせたくない! 好きだと伝えたい! この思いは真実だった。それでも、それでも…僕の足は声は勇気は。――1歩も動かなかった。



遠坂えんさかくん! 遠坂くん! 起きろっ」

 そんな、女上司の声が聞こえる。その声が女上司のものだと気づくまでに時間がかかり、気づいてからはメガネをかけ直して身なりを整えPCの状況確認とせわしなく動き、あっと気づいて女上司を見上げる。俺は仕事中に寝ていたのだった。

「はぁぁ、入社後1年目で初の繁忙期だからって、寝て良い理由にはならないからね?」

 とお叱りを受け、俺は再びPCに向き合ってブックマークに入れているサイトの市場価格から見積もりを組む作業に戻る。

 俺はあの後すぐに上京して、彼女とは疎遠。俺はあの時から動けていない。僕の1番は彼女のまま、時が止まったように不完全燃焼な火種を不発弾のように抱えている。

 今の俺は、彼女に合わせる顔がない。


 『遠坂えんさかかおる』24歳、社会人一年目。と取り立てるほどの特技も趣味もなく、社会の流れに揉まれながら東京の建設会社に就職した。特にブラックということもないが、既に激務に追われて社畜と化している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

「またね!」と言えなかったあの日 彩芽綾眼:さいのめ あやめ @0ayame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る