第2話 (後編)
未だになぜあの本を買ったのかわからない。
そもそも、いつもは終電で帰る事も多くヘトヘトな俺が小説を読む時間などなかったはずだ。だがなんとなく、あの時は買わなくてはいけない、読まなければいけないと思わされた気がする。
俺は二軒隣のお弁当屋で唐揚げ弁当を、スーパーで発泡酒を買って帰った。自宅で温め直した唐揚げをつまみつつ発泡酒を飲むがあまり味を感じない。退屈しのぎにスマホでネットを見ようと思った瞬間あの本の存在を思い出し鞄から取り出す。
夕暮れの空に似た美しい色の表紙に引き込まれるように本を開いてみると、最初のページにはこんなことが書いてあった。
『これは、あなたの物語。あの人とは、あなたのすぐそばにいる人です。離れたくても離れられないあの人の事を思い浮かべて読んでください』
奇妙な前書きだなと思った。それに全く当たっていない。俺のすぐそばになんて誰も居ないのに。俺はボロアパートでの独り暮らしだし彼女はいない歴=年齢。普段忙しすぎて連絡を取らない内に学生時代の友人たちとは縁が切れてしまった。
彼女や友人どころか誰も俺のそばに寄り添う人は居ない。両親は鬼籍だし、ブラック勤めで毎日サービス残業で帰宅は遅いし、おまけに上司がネチネチと俺の頭のてっぺんからつま先までダメ出しをしてくる。
上司の指示で作った資料を「なんでこんなの作ったんだ。俺は頼んでない」と言われて心がぐちゃぐちゃになったり、あいつのミスを押し付けられた事さえもある。でも同僚も先輩もかばってくれない……というか多分皆、自分の仕事で精一杯で俺をかばう余裕までないのかもしれない。俺自身がそうだから。
「あ」
凄く皮肉なことを考え付いてしまった。今、俺のすぐそばにいるのはあのムカつく上司だ。でもあいつを思い浮かべながらこの本を読んだところで当てはまらないだろう……そう思ってページを捲った。
『あの人とあなたがいる、この小さな場所を壊してください。その手に持った手榴弾で。』
最初の行から物騒な文言が記されていた。だが何故か一気に引き込まれ、目を離せない。俺は残りの唐揚げを食べるのも忘れむさぼるように文字を追う。主人公は『あの人』と小さなコンクリートの部屋に二人きりで閉じ込められていて部屋から出るには壁を破壊するしかないと言う設定だった。
主人公は、手榴弾を使うなんて無責任だと主張する『あの人』と何度も話し合い、対立する。だが最後には手榴弾で壁を爆破し、散らばるコンクリートの外にある青空を望む。これでハッピーエンドかと思ったら違っていた。
『俺に逆らうとは。後悔させてやる』
手榴弾で壁だけを破壊したので『あの人』は生きていたが、何故か突然怪物に変身し主人公を襲う。主人公は逃げつつも薬の知識があったのでその場にある毒薬の材料を集め、混合して怪物にそれを投げつける。怪物は悶え苦しむがすぐには死なない。
『このまま逃げられると思うな。お前も道連れだ』
怪物の手が伸び、主人公は捕まってしまう。だが主人公は以前見たプロレスの試合を咄嗟に思い出し、見よう見まねでコブラツイストをかけた。
『うわあああやめろ! やめてくれ!』
怪物は苦しみ、そして毒薬がじわじわと効いてきて事切れた。主人公は晴れて自由の身になったのだ。
なんだか超展開のとんでもない話だったが、一気に読んでしまった。そして最後のページにはこんな後書きが印刷されている。
『どうですか。あの人はもう倒されましたよ。あなたはあの人から離れていいんです。全力で離れてください。その先にはきっと青い空が待っている事でしょう』
ふと気づくとテーブルの上の唐揚げは冷め、発泡酒はすっかりぬるくなっていた。
俺は次の日、会社に出勤するなり退職願を上司に差し出した。
上司は俺を「無責任だ」とか「後悔させてやる」とか「このまま逃げられると思うな」とか喚いていたが、その度に俺はあの本の超展開を思い出しておかしくなってしまい笑いをこらえて対応した。最初は怒り狂っていた上司もニヤニヤ顔の俺を見て徐々に気味悪がりトーンが落ちていった。
そうして有休を貰いつつ引継ぎをして1か月後、俺は会社を辞め転職した。新しい会社は前職よりも少しだけ給料が安かったけれど、きちんと定時に帰れたし問題も早めに周りと共有出来てミスを押し付けられる様な事はない。俺はこの会社で長く働こうと心に決め、通勤に便利な場所に引っ越した。
そこから半年ほど後。俺は唐突にあの本の存在を思い出した。だがどれだけ探しても本が見つからない。引っ越しの時にどこかに紛れて失くしてしまったのだろうか。
何となくあの本をもう一度手に入れたくなりネットで『あの人とあなた』と検索したが、紫とオレンジの表紙には出会えなかった。諦めても良かったが、ひとすじの後ろ髪を引かれるような想いが残る。俺は次の休みに以前住んでいたアパートの最寄り駅まで行ってみることにした。あの本屋に行けばもう一度購入できるだろうと思ったのだ。
「……ない」
明るく活気のある商店街の中、本屋があった場所だけが固くシャッターを閉じている。上を見上げると看板が剥がされた跡しか残っていなかった。ネットで検索してみたが、やはり本屋の情報はない。店の両隣は自販機とATMだったので、二軒先の弁当屋でトンカツ弁当を買ったついでに店員に聞いてみる。
「本屋さん? そういえばあったような……」
「凄く顔色の悪い店主で、本のソムリエサービスをやっていたようなんですが」
「ごめんなさい。覚えていないわ」
「……いえ、すみません」
俺は少しばかり気落ちし、左手に弁当の袋をぶら下げて帰路についた。
思い返すと、あの本屋との出会いは何か運命的なものだったのかもしれない。
好奇心も興味も身体さえも磨り減って、ただただ味気の無い毎日を過ごしていた俺に運命の神がチャンスを与えてくれたような気がする。
だから現状に満足している俺は、もうあの本屋を求めて彷徨う資格を持ってはいないのだ。他の悩める誰かの前にあの本屋は現れるのだろう。
俺はその夜、トンカツをビールで流し込みほっと小さな幸福を感じてそんな結論に至った。
-了-
本のソムリエが物騒な本ばかり選んでくる 黒星★チーコ @krbsc-k
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