第2話 中編
生活するだけなのに、ここまでお金が必要だとは思わなかった。
そこまでの大金を望まなくても、夜遅くまで仕事をしなければいけない社会の一員として、帰宅ラッシュの電車に揺られている。
みんな、顔が死んでいる。
しかも、今日は水曜日。
多くの人が明日も仕事がある曜日だ。
私も例外ではない。帰ったらご飯を食べて早く寝なければ。
でも、多少の睡眠時間を犠牲にしてでもやりたいことがある。
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『加藤理佐選手 北九州マラソン大会優勝』
マラソン専門雑誌という、どうやって採算を取っているか分からない雑誌を定期購入している。
理由は2つある。
走る習慣がなくなった今でもマラソンを見るのは好きだから、読んでいて楽しいというのと、理佐の記事を切り取るためだ。
今や、理佐は日本のマラソン界のスターとなっていた。
テレビにもたまに出ている。
スポーツ選手が多く出演するバラエティ番組で、理佐は中学と変わらない明るいキャラで愛されていた。
無理に笑いを取りに行くわけでもなく、ただシンプルにテレビに出れたことが嬉しいといった天真爛漫さに、ファンも増えた。
『加藤理佐って良いよな。本当に性格良いんだろうなって思う』
『顔も良いから推せる』
『芸能界に染まってほしくないなー』
『大丈夫。俺が守る』
『いや、俺が守る』
このように、ネットでも大人気だ。
そんな書き込みを読んでから、私は《理佐部屋》に向かった。
その部屋には、理佐の写真を拡大して壁一面に貼っている。
他にも、理佐が大会で履いていたスパイクを履きもしないのに飾っている。
スパイクを見る度に、私がしようとしたことを思い出して、これからも理佐の信者でいようと決心する。
できれば、実物を見に行きたい気持ちもあるが、万が一、億が一、理佐が私のことを覚えていたとしたら、いらない気遣いをさせてしまう。
私なんかが、理佐の時間と労力を奪ってはいけない。
そう自分に言い聞かせて、写真の理佐を食い入るように見る。
海外の競技場で走っている理佐。
表情がリラックスしているから、アップの段階だろうか?
たくさんの企業のマークが入っているユニフォームを着て、しなやかに足を動かしている姿は、まるで天使のようだった。
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「え!」
職場のトイレの便座に座った状態で、私はつい声を上げてしまった。
スマホの画面には、『加藤理佐 情熱大陸出演決定』と書いてある。
スターが密着される番組に、理佐が出る。
「‥‥‥ヴオェ」
かつて、理佐に記録を迫られた時よりも強い吐き気を催す。
あの時は、自分のことを心配しての吐き気だったが、今回は、理佐のことを思っての吐き気だった。
このまま、スターの最前線に行ってしまうのだろうか。優しい理佐にイジワルするひとも増えるのではないだろうか。
そんなことを考えていたら、吐き気が増した。
「えゔぅぅぅっ」
ここがトイレで良かった。
ケロケロケロケロ。
吐いた。
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吐いたらスッキリして、いつもより仕事が捗った。
そのせいか、帰りの電車で油断し、寝過ごして、最寄駅を過ぎてしまった。
気づいた時には、ずいぶん遠くまで来てしまった。
「やっちゃった。ここどこ?」
駅の名前を確認する。
「‥‥‥」
理佐と過ごした、懐かしい街だった。
明日も仕事なのだから、すぐに引き返して今の家に帰った方が良いのは分かっていたが、自然と私の足は改札を抜けた。
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私はまだ21歳なのに、もう「懐かしい」という感情に囚われている。
毎日通った通学路。
よく立ち読みをしていたコンビニ。
理佐に連れてこられた駄菓子屋。
休日にお世話になっていた図書館。
そして、理佐と過ごした中学校。
校門で満足して立ち去るべきだ。
もう、私は「若さゆえの過ち」で許される年齢ではない。
確かにそう考えたはずなのに、校門を飛び越えて、学校に進入する。
校舎には見向きもせずに、全速力でグランウドに向かう。
理佐と私が、短い間だけど繋がっていた場所へ。
とにかく、理佐の痕跡を少しでも確認したい。
時刻は深夜1時。こんな時間の学校に人がいるわけないのに、声がした。
「誰?」
「え!?」
まさか、先客がいる?
お前こそ誰だ!私の人生のピークかもしれないシーンを邪魔するのは!
ガンを飛ばすと、見慣れた顔が見えた。
いや、ここ何年かは、写真や動画で見ていたので、まるで100年ぶりに会ったかのように感じる。
言いたいことがたくさんあった。
謝りたいことがあった。
お礼を言いたかった。
もう、会えるはずのないその女性の名前を呼ぶ。
「‥‥‥理佐?」
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