漣を飲む
鹿衣 縒
漣を飲む
「大切なものは?」
「………遊び心」
ややあってそう言うと先輩は楽しげに笑う。
何故か胸がチクリと傷んだような、気がした。
*
それなりに名の通る大学に通い、留学までしてきた人間が就職して三年目で転勤だと聞くとよほどのブラック企業か出世コース外れるようなやらかしをしたか、それとも覚悟がない、これだから学生気分のままでいる新人は、と思われるものかもしれない。車窓に目をやると、今までの森林とベッドタウンよろしくな団地地帯を抜け海が広がっていた。すぅ、と吸い込んだ空気が車内なのに清々しく感じられた。
新しい勤務先は海に囲まれている南房総だ。こんな所にでも支社はあるのだな。業務拡大の先行きは増加した支社数を見れば明らかだ。久方ぶりに訪れるその地はかつて母の実家ということでよく来ていた場所であり、俺の人生の中でいつまでも色褪せない記憶を植え付けるあの人のいる場所だった。
初日はまずまずと言ったところか。地方とはいえこの県の中では都会な場所での支社勤めを追え、電車に揺られている。支社でも年配の方が多いのかと思いきや若い人もそれなりにいて、全体的に静かな支社だった。うまくやれそうだ。他には備え付けと見られるお菓子の中に博多通りもんとかありあけのハーバーが並んでいるのが興味を引いた。まぁそれはそれとして。
びゅう、と冷たい風に頬を刺されながら下車する。この場所を選んだきっかけの毎年夏になると会っていた赤を探しに。暑そうな赤いジャンパーを着こなして、黒いスキニーを履いて、濡れ羽のようなロングヘアを靡かせる。コーヒーが飲めもしないのに好きで、推理小説、とりわけジュブナイルミステリーが好き。彼女のせいでコーヒーを飲むようになってしまったなぁ。練乳のようなあの甘いコーヒー、都心の自販機にあまり見かけないのなんで。
漁港近くまで行ってそこで降りた。久々の潮の香り。前髪が張り付く感覚。田舎ならではと言えるだろう、このスナックと居酒屋と美容室の多さは。前者二つの賑わいが光とともに漏れていた。漁師だろう身なりの者が多くもう終業しているようだ。いやそれはそうか、初日とはいえ支社を出たのは夕方と呼び始める時間だったから。
あの赤を、うろうろとまわり探し初めて半時ほどが過ぎたが見つからなかった。いつもは夏に会っていたしな。そう言い聞かせるも少し胸がざわつく、嫌な予感だった。彼女はいなくなっていてもおかしくは無いのだ。否、その方が本当は正しい。仕方が無いという言葉はとても狡いもののように思えるが、それでも、諦める時が来てしまったのだろうか。今日のところは海沿いのアパートにでも帰ってしまおうか。
「棗君?」
その時、後ろから掛けられたのは聞き覚えのある声。どんなタイミングだよと独りごちる。ゆっくり振り向くと、想像した通り、彼女はいつもの服装で居た。
ヒュ、と一瞬変な声が出る。あまりにも変わらないその姿に押し込めてきたいろんな感情が溢れて、ぶちまけてしまいそうだった。俺はいつこんなに依存したんだ。こんな気持ちは予想外。
「桔梗さん」
声が震えていなかったか、心配だ。
「久しぶりだね。あ!……大切なものは?」
ふと思い出したかのように________実際、いまさっき思い出したかのだろうが________それは、ここに来た時いつも言い合っていた言わば合言葉のようなもので。
「………………………っ、」
数行前の俺へ。答えた俺の声は震えたどころでは無かったかもしれないぞ。
「仕事はどう?」
「転勤になってこんな片田舎に飛ばされたけど?」
「あぁ、なるほど。だからしばらくぶりに会えたのか。お母さんの実家が近いんでしょ」
その為に選んだのではないけど。
「そうだな、君に会いに来られるし」
からからと笑われた。どこか彼女は先輩風を吹かせたがる気がする。初めて会った小学生の時から姿が変わらないのだから先輩なのは間違いがなかった。
「大変だった?会社事情知らないけど、働き出してすぐ環境変わるなんて」
はは、と笑ってみせるが彼女は俺の作り笑顔に少し怪訝そうにした。
「……本当に辛いと眠れなくなるもんなんだ」
まだ俺が都内の支社に勤めていた頃のことだ。その日も残業続きだった。ようやく帰れたとシャワーを浴びるのも億劫で、服だけ着替えてベッドに潜り込んだ。家族の誰もが寝静まった家で静かに孤独を噛み締めながらベッドの中で必死に目を瞑り、そうやって寝ようとしても眠れない。仕方なく風呂に入って体を清めてみても寝付けなかった。
どうしよう、眠れない。なんで?
明け方、起こしに来た弟はベッドに腰掛けぼうと佇む俺に吃驚していた。
それから家族の分の朝食を作り、父、母の通勤と弟の通学を見送って。フレキシブルタイムで今日は早くしてみたんだとおどけたように笑い、昼頃に帰ってきてくれた父の作ってくれたカレーを食べながら、家族の優しさが沁みて泣きそうになった。その日、眠りにつけたのは夕方をすぎた頃だった。
辞めよう。
一眠りして冷静になった俺はそれが自然なことようにそう思った。
上司に辞職届を提出するととても驚かれ、なんども引き留められた。高槻くんは大学もいいし英語、ドイツ語も出来る様だし、そっちの支社の担当も考えていたんだけどねぇ、と言われて心が痛んだが、辞めないのなら移りたい場所は決まっている。数年前の学友のいるベルリンの地にまた行きたい気持ちが無いでも無かったが、そこで仕事をするなんてあの時の俺には到底難しいように感じた。
「そう。頑張ったんだね。大人になって会社勤めて……いつの間にか背も追い抜いてこのやろ」
掻い摘んで話すと茶化してくる。彼女らしい優しさだ。頭を挟んでぐりぐりとしようとしているようだがすり抜けていて笑いがこみ上げてきた。いや待って普通にグロいぞ、やめろやめろ。
体をすり抜け、自動販売機からMAXコーヒーを二つ贖う。
「覚えてくれてたんだ」
「あー、そりゃいつも好き好きって語ってたし。温くなったのを胃に押しこめるのが上級者なんだっけ?えっと、最後に会ったの
「七年前」
言葉の途中で重ねられてハッと横を向く。その顔が少しだけむくれているように思えた。
「ごめん」
「謝ることじゃないよ」
部活とか受験とか、大学入ってからもバイトとか留学とか。そういうのを理由にしてなんとなく疎遠になってしまっていた。まるで、街で見かけても話しかけるか迷って互いに億劫さにかまけスルーしてしまうクラスメイトのように。街で見かける度、話しかけるタイミングを失った彼らにいちいち久しぶり、って言いたくなる自分もいる。一時の気の弱さが招いたことに、あの時話しかけていたらと思ってしまうこともある。最近は知り合いには話しかけるようにしていた。
ものを飲めない彼女の分を買っても俺が飲むだけなので。二缶目に突入したのを見て笑う彼女を見やる。本当に変わらず不敵な笑みの似合う奴だ。あぁそれと、いくら手を伸ばそうと触れられないのも変わらないのだが。
自動販売機の光が夜暗に眩しい。来たのが遅かったから、もうそろそろ帰らないと危ない時間だろう。それにしても、こんなの練乳入りコーヒーと言うよりコーヒー入り練乳だと思う。二缶は結構キツいのだ。この糖分のどこが好きだったんだよ。自分が好んで飲んでいることは横に置いておく。
一等強く風が吹き込んだ。
刹那、彼女は潮風に舞う。
そんなありもしない光景を何度も夢想している。佇む彼女は本当に飛んでいってしまいそうだから。彼女がまだ土地に縛られていなかったころ、学生のときはどうだったのだろう。いつも身に着けている服装からして亡くなったのはきっと冬だ。そういえば、幼い頃彼女が教えてくれた秘密基地はまだ残っているんだろうか。
横を見ると当の本人はまた看板に腕を通して遊んでいた。透けているとはいえ気味の悪い光景に破顔する。彼女のこういうところが俺は結構好きだった。
うん、きっと悪戯ばかりしていたに違いないな。多分こんなことをしたら面白そうと提案するだけで実行しなさそうな。それも教師からは評判がいいタイプの。いちばん性質が悪いじゃん。心の中でそっと笑った。秘密基地は今度見に行こう。
「あ、今なにか失礼なこと考えたでしょー」
………たまにこの人、心の内を読むようなこと言ってくるよな。けっこう怖いのだけど。
生ぬるくなったコーヒーを全て飲み干して、空の缶を二つぐしゃりと潰した。
思い返してみれば、会社勤めを始めた頃から彼女と遊んだ毎年の記憶、どころか遊び心さえ思い出さなくなっていた気がする。大切だと言っていた遊び心でさえ。結局のところ休みもなく清濁を飲み込み続けるのは辛かったのだ。だから今はさざ波の打ち付けるこの海岸で、すこしずつ選んでいくから。今はまだ。
明日はもっと早い時間に来るよ。そう言って缶を振りかぶった。
カラン
Fin.
漣を飲む 鹿衣 縒 @y_csk_
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