分身
花野井あす
分身
ブクブクと音をたてて、少年は湧いては消え、そしてまた別の姿と名って現れる。
それは静かに、偶発的に。
激しく細やかな泡となって現れることもあれば、一つの大きな泡となって現れることもある。
少年が朝食を頬張っているときもあれば、授業で指名されて、教科書の文章を読み上げているときもある。
少年は水泡となって現れ、そして静かに音を立てて消えていく。
気が付けば、少年は机に向かっていた。
手元には広げられた国語の教科書と、作文用紙。
「この文章を読んで、あなたが感じたことを自由に書きなさい」
自由?自由って何だろう。
少年はぼんやりと考えた。
自由とは自由意志のことか。
自由意志は存在するのか。
存在?存在とは何か。
ぼくが此処にいるってなんだ。
ブクブクと小さな泡が水面に向かっていく。
しかしその泡は小さく、外界へ届くことは無い。
少年はふと、教科書の図録に目を留めた。
なんと美しい、夕焼け空。
一面がこんなに真っ赤に染まって、涼やかで穏やかな風が吹いていたら、どんなに心地よいだろう。
美しい。
先生の書いた僕の名前の、緩やかに膨らんで、すっと払った筆跡が美しかったな。
美しい、綺麗。
お隣にきれいなお姉さんが越してきたな。お姉さんのピアノの演奏は本当に素敵だった。
美しい、綺麗、可愛い
ぼくの飼っていた猫のチャロは本当に愛らしかった。何時も僕の傍へやってきて、ごろごろと音を立てて、すうすうと寝息を立てていた。
チャロ?
猫のチャロ。
悲しい、悲しい。
ブクブクと水面へ向かっていた泡の下から、大きな泡がごぼり、と音を立てて現れる。
少年は大きな泡になった。
大きな泡は小さな泡を飲み込んで、静かだった水面を大きく揺らす。
大きな波が更に小さな泡を作って、水面を掻きまわす。
死は恐ろしい。
もう会えなくなるのは寂しい。
ぼくもいつかは誰にも会えなくなる。
ぼくのいない世界はどんな世界?
悲しい、恐ろしい、寂しい。
「あ、いけない。」
ぱちんと音を立てて、泡は消え、水面は再び静けさを取り戻した。
少年は一掬いの水となった。
手元には広げられた国語の教科書と、一文字も書かれていない作文用紙。
「この文章を読んで、あなたが感じたことを自由に書きなさい」
そしてまた、少年はいくつもの小さな泡になって世界を外を目指し始めた。
分身 花野井あす @asu_hana
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