ティラピアの涙

第7話


「木南さん、師長が連絡しても全然つながらないんだって……。どうしたんだろ?」


「フツーにバックれたんじゃなぁい?あんましヤル気なかったじゃん?あの人。ドクターに色目使うのだけには熱心だったけど。」


「そうだけど……。」


 ナースステーションは突然行方をくらました木南百合の話題で持ちきりだった。

 どこの病院も、病棟看護師の人員は豊富ではない。1人いなくなったことで、シフトや休日の変更を余儀なくされたスタッフは、心配半分、恨み半分といったところだろうか。病棟師長も勤務の調整に頭を抱えているようだ。


「灯野先生はどう思いますー?」


「心配ですねぇ。事故や事件に巻き込まれてなければいいんですが……。」


 電子カルテに入力する手を止めて、京一が振り返った。そもそもの原因を作った本人は、まったく動揺する様子もなく、いつもと変わらない柔和な笑顔を浮かべている。

 灯野京一は、表向きは温厚で、患者やスタッフからも信頼されている内科医師だが、人の臓器を奪い、違法な移植手術を請け負う、灯野陽子としての顔も持っていた。そして、何食わぬ顔でこうして社会に溶け込んでいる。

 

「近頃、物騒ですからね。女性の皆さんは、特に気をつけてくださいね。」


「はーい。」


 日本では、毎年数万人が行方不明となっている。

 1人の成人女性がいなくなったとして、恋人のところに行ったのだろう、家族と連絡を取りたくないだけだろうと警察に判断されて、捜査されることはほとんどない。そのことは、京一がよく分かっているのだろう。



 定時で病棟を後にした京一は、白衣をロッカーに掛けて、スーツの上着の羽織った。

 地下一階の駐車場まで続く真っ直ぐな廊下は、患者もほとんど立ち入らないためか、一年を通して薄暗く、ひんやりとしている。京一はここを、病理解剖室か霊安室にでも続いているかのようだと評している。

 出入り口の守衛室にいる年寄りの守衛が、無言で京一に頭を下げた。 

 駐車場に出たところで、スマートフォンに高橋から着信が入る。


「お疲れ様です、京一お坊っちゃま。」


「あぁ、今から病院を出るよ。Dr.オリヴァーの様子は?」


「今のところ拒絶反応もなく、バイタルも安定しており問題ありません。今朝から人工呼吸器を外しましたが、さっそく起き上がって仕事のメールを確認していますよ。」


「へぇ、欧米人のくせに仕事熱心だな。」


「彼は小児期における発達専門の精神科医としてドイツ国内では有名らしくて、とても忙しいようですよ。彼の書いた論文もいくつか見せてもらいました。」


「ふーん……。まぁ僕には到底理解できない分野だな。」


「あぁ、今日の夕飯はビーフシチューですよ。いい頬肉が手に入りましたので。そういえば京一お坊ちゃま、赤ワインを切らせていたことに気づかなくて……」


「あぁ、そうだったな。帰りにデパートに寄っていくよ。他は何か大丈夫か?」


 イグニッションキーでポルシェのロックを解除して、運転席のドアに手をかけたときだった。


「灯野京一先生……ですよね?」


 振り返ると、黒いパンツスーツ姿の女性が近づいてきた。ヒールの乾いた音が、駐車場に反響する。

 控えめな化粧と、一つにまとめた長い黒髪。アクセサリーひとつ身につけていない華やかさに欠ける装いは、まるで就活生か新社会人のようだ。だが、その表情や立ち振る舞いに初々しさはすでに感じられない。年齢も、京一とそれほど変わらなさそうだ。


「すいません、どなたでしたでしょうか?」


 向こうが顔を知っていても、こちらはそうではない・或いは失念しているなんてことは、医者なら往々にしてあることだ。それは自分の患者ではなく、医薬品の業者や患者家族でよく起こる。彼女は周囲に目を配ると、一歩だけ京一に歩み寄った。


「警視庁公安部の結城柘榴ゆうきざくろと言います。」 


 控えめに警察手帳を開いて見せた。


「刑事さん?」


 僅かに首を傾げる京一の表情は、相変わらず一ミリの変化もない。風のない海のように、心の中も普段と変わらず穏やかなものだっただろう。


「はい。お話を伺いたくて。少し、お時間よろしいですか?」


「ここではなんですから。どうぞ、車内で良ければ。」


 助手席側に回り、ドアを開けた。その姿は、まるで女性をエスコートする紳士のようだった。




      第7話 「柘榴」



 京一は運転席に座り、失礼、と断りを入れると、車のオーディオを起動した。車内にドイツのハードロックバンド、Rammsteinの音楽が鳴り響く。


「すいません、僕、こうしていないと落ち着かなくて。」


 野太いボーカルの重低音や激しいギターのリフも、京一にとっては喫煙やカフェインなどといった嗜好品に等しい。

 京一の振る舞いは明らかに変人の部類に入るのだろうが、刑事だけあって慣れているのか、柘榴は「構いません」と、驚く様子もなかった。


「僕に話というのは?」


「……灯野陽一氏のことです。」


「祖父のこと?」

 

 想定外のことだったようだが、それでも京一の表情はまったく変わらない。


「陽一氏は、世界的に有名な医師だったようですね。戦後、ドイツで開業されていたとか?」


「ええ。たまに年配のドクターだと、祖父のことを噂で知っている方がいて、色々と興味本位で聞かれたりしますが……まさか刑事さんも、その類ではないでしょう?」


 京一のやや挑発的な笑みに、柘榴の猫のような目つきが険しくなる。


「灯野先生は、N事件をご存知でしょうか?」


「ええ、もちろん。」



N事件

 終戦間際の1945年。日本軍の戦闘機、紫電改に追われた米軍のB29爆撃機が長崎県山中に墜落した。そこに搭乗していた米兵2人が、地元住民によって捕えられ、日本軍に引き渡された。

 その後、彼らは灯野陽一のいた大学病院に送られるが、陽一はその2人のを、生きたまま摘出したらしい。


 「らしい」、というのは、当時の記録やカルテが存在していないから、詳細は一切不明。何らかの人体実験だと言われている。


 灯野陽一の戦争犯罪を、最も印象付ける事件だ。


 ただ、当時の大学病院は軍の管理下にあった。つまり、陽一個人の考えに基づいて行われたわけではない。実験を主導したとされるのは、帝国陸軍中将・五十嵐征四郎だが、五十嵐は敗戦翌日に拳銃自殺。

 戦後のGHQの捜査では、その決定的な証拠も押さえられなかったが、結果的に陽一は訴追され、死刑判決を受けた。



「実は、当時の陽一氏が書いたN事件に関するカルテが存在していたことは、ご存知ですか?」


 今までどこか薄ら笑いを浮かべていた京一の顔から、すっと表情が消えた。


「……それは本当ですか?」


 ようやく傾聴する気になったのか、オーディオの音量を少し下げた。

 

「えぇ。2人の米兵が実験に選定された経緯などが書かれていて、その中には執刀を担当した陽一氏のカルテも含まれていたようです。我々はそれを五十嵐文書と呼んでいますが……お爺さまからは、何も?」


「祖父は、戦時中のことは何も話してくれませんでしたから。……ですが祖父は、手術の記録に関しては病的なくらい神経質で、緻密であったと聞いたことがあります。どんな簡単な手術でも、紙いっぱいに細かい字で、その経過などを書いてあったとか。だから、そのときの記録も確実に存在していたのでしょうね。」


 京一は深く息を吐くと、腕組みの格好で前のめりにハンドルにもたれた。


「原爆投下時に焼失したか、戦後に証拠隠滅のために処分されたものだと思っていましたが……。それは、どこから出てきたのですか?」


「……ある場所で保管されていたようですが……、捜査に関わることなので、詳しくはお答えできません。」


「今、カルテがどこにあるのかも?」


 柘榴が無言で小さく頷く。


「では、あなたは僕のところに何をしにきたというのですか?」


 京一の言葉に、嫌味の色が混ざり始めてきた。

 京一は予定外の出来事を嫌う。頭の中はすっかりワインの買い出しと、高橋の作ったビーフシチューのことでいっぱいだったのに、予定外の訪問者に狂わされたのだ。

 そんな京一の僅かな苛立ちに気がついたのか、柘榴は若干、ニュアンスを変えてきた。


「……正確には、五十嵐文書は再び所在不明となってしまいました。ある人物に、持ち出されたあとに。」


 なるほど、と自らの唇に触れるその指は、男のそれとは思えないような、白くて細い指。


「あなたのその答えで、大体分かりましたよ。その持ち出した人物が、死んでしまったんでしょう。その人物の死にはやや疑問の残るもので、そのうえ文書も所在不明に。それには公安がマークしていた組織の犯行が疑われ、陽一の孫である僕にもそういった者が接触してきていないか、あなたは確認しにきたというわけですね?」


「……!」


 1のことを言えば10を理解するような京一の勘の良さに、柘榴はたじろいだ。脳の中を覗かれているような居心地の悪さを感じただろう。


「残念ながら、そういったものはありませんよ。なにせ、祖父の書いたカルテが存在していたことも初めて知ったのですから。まぁ、でも、なんとなく、想像できますけどね。」


「えっ……?」


「例えば五十嵐文書に書かれていること……史実とは異なる、まったくの事実無根だったとしたら、祖父の戦争犯罪はなかったことになりますよね?これは、戦後の日米の歴史にとって大変重要なことですよ。きっと祖父のカルテには、どこかの誰かにとって都合の悪いことが書かれていたのではないでしょうか?」


 今までその考えに至らなかったのか、柘榴はハッとしたように顔をあげた。カバンから手帳を取り出すと、急いでペンを走らせた。


「それにしても、陽一の孫が僕だと、よく分かりましたね?」


「長崎まで行きましたから。お爺さまのことを調べている最中に、知り合いの方に偶然お会いできて、お墓も長崎にあることを知りました。名義人のお名前をネット検索したら、この病院のホームページがヒットして、先生に辿り着きました。」

 

 柘榴は手帳を鞄にしまうと、名刺を取り出して京一に手渡した。


「灯野先生、もし何か思い出したり分かったことがあれば、私に連絡して頂けませんか?」


「それはプライベートで、という意味ですか?」


「はい?」


「あなたは僕のことを、祖父の墓の名義人で知ったと仰いました。警察官なら、墓の所有者である僕の住所、或いは運転免許証の記録を簡単に照会できたはずです。自宅に来ないで、わざわざここにやって来たということは、何か期待していたのでは?」


「心外です。」


 柘榴はきっぱりと言い放った。


「先生はとーってもお綺麗な顔をされているし、お医者さんだし、さぞ女性におモテになるんでしょうけど、私はそのつもりはまったくありませんのでっ。失礼しますっ。」


 嫌味たっぷりにそう言うと、やや乱暴に助手席側のドアを閉め、さっきよりやや強めにヒールを鳴らしながら立ち去っていった。


「ふふふ……いいですねぇ、柘榴さん。思い通りにならない女性は気になります。高橋、聞こえていたか?」


「はい……。」 


 京一の手元のスマートフォンが、スピーカーモードに切り替えられていた。


「誰がお爺さまのカルテを保管していて、誰が持ち出したのか。そして今、どこにあるのか……。見当はつくか?」


「いえ……。ですが、京一お坊っちゃまもご存知の通り、陽一先生はとても高名な医師であられました。なので、戦時中に書いたカルテを個人的興味で欲しがるような人間がいても、おかしくはないような気がします。」


「ある種のマニアみたいなものか?」


 京一が鼻で笑った。

 

「京一おぼっちゃまの見立て通り、仮に陽一先生が……」


「いや。やっているよ、お爺さまは。手術の腕は紛れもなく天才だったけど、頭のネジが取れていたからな。でないと、僕も陽子もこんな体にはなっていない。常人が思いもつかないようなことを思いつく狂人。それは高橋がよく知っているだろ?」


「……。」


 電話の向こう側の高橋は、京一の手前、肯定もしないが、否定もできない様子だった。

 

「でも、僕もそのカルテとやらを是非、拝読してみたいものだな。……知りたいのは、事実の有無より、その理由。」


 右足でアクセルを緩やかに踏んで、地下駐車場を出る。西日が差す交差点を通り過ぎると、駅の方角に歩いていく柘榴を追い抜いた。柘榴もまた、車種で京一だと気づいたようだ。ルームミラーに映った柘榴は嫌悪感に似たような目つきを向けていて、京一は思わず唇の方端を持ち上げた。


戦後70年。

メフィストフェレスの種は芽吹き、その毒は遅効性にじわりじわりと駆け巡る。

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