第6話 



 午前0時44分



 雨風が、バタバタと窓ガラスを叩きつける。目の前の湖が、ゴォーと暗く大きな畝りをあげて、今にも飲み込まれそうだった。

 時折、チカチカと強烈な稲光が照らすだけの真っ暗なリビング。陽子の座る籐の椅子が、拍動のように、ゆらりゆらりと規則的に揺れている。


「術後バイタル問題ありません、陽子お嬢様。」


「ええ……。」


「紅茶でもお入れしましょうか?」


「ええ……。」


 相変わらず一本調子な返事に微笑むと、ケトルに水を注いだ。

 


「……高橋。」


「はい?」


 雨音に掻き消されそうな静かな声で、聞き逃してしまうところだった。


「父親なら、自分の子供のためなら命を掛けてもいいと思うものか?Dr.オリヴァーがそう言っていた。」


「そうですね。どんなことをしてでも、助けたいと思うかと。」


「あの時のパパや、お爺さまも、そうだったんだろうか……。」


「……。」


 スマートフォンの低いバイブ音が響いた。細い指が、テーブルに置かれたスマートフォンを捉える。



「……はい。……えぇ、……ええ。わかりました。では、異常時の点滴を。1時間ほどで向かいます。」



 電話での会話を簡潔に終えると、緩慢な動作で立ち上がり、キッチンで湯を沸かす高橋の横を通り抜けていった。

 蛇口から勢いよく水が流れ出る音が、雨音と混ざる。洗面台で華奢な体を折りたたんで、ごしごしと顔を洗っているその背中に声をかけた。


「……お出かけですか?」


「……。」


 きゅっ、と音を立てて蛇口が閉められた。また、雨の音が大きくなったように聞こえた。顔からポタポタと垂れてくる水の雫が、排水溝に吸い込まれていく。


 ゆっくりと顔を上げ、洗面台の鏡に映ったのは、陽子ではなく京一の顔だった。



「……高橋、の患者が急変したようだ。悪いが車を表に回しておいてくれ。」



「かしこまりました、京一お坊ちゃま。」



 高橋が鏡越しに頭を下げて、一歩下がろうとした。

 そこに「あぁ、そうだ」と、京一が思い出したように声をかけた。


「あの女性の身体は処分しておいてくれ。もう用は済んだ。今は肝移植や腎移植予定は入っていないからな。」



「かしこまりました。」



 誰もいなくなった暗いリビング。

 水槽内に低く響く、酸素の送られる音。

 色とりどりの熱帯魚が泳ぐ水底で、1匹のティラピアが、じっと息を潜めていた。

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