エピソードⅦ 古写真の謎事件

      1

「今日の酒は『南』って銘柄の酒ですよ」

 S氏はそう言って、黒褐色の一升瓶を取り出した。小さなカットグラスに酒を注ぎ、

「南は酒造メーカーの名前、安芸市と室戸市の間、安田町の酒造メーカー『南酒造』が出してる酒です。

安田町は小さな町ですが、酒造りは有名で、土佐鶴酒造も安田町です。

 南酒造は、小さな蔵元ですが、『玉の井』って銘柄のお酒を造ってましてね。関東地方に出荷する際に、『南』って名前にした。これが、思わぬ評判を呼んで、高知県では『玉の井』県外では『南』と、同じ酒が、違う名前で売られているんですよ。最近では、高知の地元でも、『南』として、販売してるようですが。特選純米吟醸酒、辛口の、中々いい酒になっていますよ」

 いつもの、土佐酒のうんちくが終わり、今度は、いつもの「小鉢」の一品料理の登場である。

 今回は、魚である。

「いつも、見慣れないものが多いですが、今回は、解りますよ。生シラスですよね?『ちりめんじゃこ』の……」

 と、わたしが紹介される前に言う。

「ははは、今日の目玉は、魚の方じゃあ、ありませんよ。その横の、緑色した代物の方。そちらが、土佐ならではのものです」

「エエ?このドレッシングのようなもの?これが、土佐料理ですか?」

「そう、たいていの人は、普通のドレッシングと思うでしょうね。土佐でしか作らない、特殊なドレッシングですよ。まあ、少し舐めて、何で出来てるか想像してください。幾つかの調味料も入っていますがね」

 恐る恐る、指先に緑の粘っこい液体を付け、舌の上に乗せる。いろんな味がする。酸味、辛味、甘味、胡麻の風味、柑橘系の香り、一番は、味噌の味である。

「どうですか?解りますかな」

 首を傾げているわたしに、S氏が尋ねる。

「ええ、味噌と胡麻、それと酸味があるから、お酢が入っていますね。高知だから、柚子の汁ですね。あと、砂糖の味もある。だけど、この鮮やかな緑色は……何かの野菜でしょうね?辛味があるけど、唐辛子ではないし、参りました、ここまでです」

「いやいや、そこまで解るとは、中々なもんですよ。これは、土佐では『ヌタ』と言います。県外では、今、おっしゃった、味噌とお酢と砂糖、これで作ったものを、そう呼びますが、土佐では、そこに、ニンニクの葉を摩り下ろして、作ります。『ニンニク葉のヌタ』というものです。生シラス――こちらではドロメと言いますが――や、ブリの刺身にもつけて食べますよ。ニンニクは鰹に合う。だから、葉っぱを使えば、他の魚、少し、味の薄い魚に合うと考えたのかもしれませんね。まあ、土佐の人間は、好奇心が強いのか、イモの茎でも、ニンニクの葉でも、捨てないで、食べてみるんですなあ。酒の肴になる?とゆうことでしょうね……」

 S氏に勧められるまま、生シラス(=ドロメ)にヌタを付けて食べる。辛味と酸味が、シラスの生臭さを消して、魚の旨味を引き立てる。

「いやいや、想像してた味と、まったく違いました。シラスの味が生きてきますね?柚子の香りもいい、砂糖や味噌、胡麻との配分も見事ですね。あとで、レシピを作ってください。他の料理にも使えそうだ」

「これも、はちきんばあさんの直伝ですよ」

      *

 さて、今回の話は、と、S氏の昔話が始まった。

「今回は、事件と言う程ではなく、人探し、と、思ってください。時代は、この前の一連の事件から、二、三年後だったと思います。ちょうど、勇さん(=坂本刑事)が大阪府警へ研修に行っていた時期です」


      2

「勇さん、元気にやってますかね?連絡ありますか?」

 刻屋旅館の玄関先の土間、テーブルと丸椅子。テーブルの上には、冷たい麦茶と、羊羹を乗せたガラスの器が置いてある。その麦茶を飲みながら、ふたりの男女が世間話をしているのである。

「全然、便りも、電話もないわ。みっちゃんに振られたショックが大きゅうて、うちとこに連絡する気が起きんがやろうか?」

 顔役さんこと、山本長吾郎一家の「軍師」と言われている、小政さん――本名、政司――、その問いに答えているのは、刻屋(ときや)の若女将の千代である。

「千代さん、淋しいでしょう?いつも、この時間帯、勇さん、どんぶり飯、掻き込んでいたから」

「淋しいことはないけど、旅館の方も、辞めようって言ってるし、暇は暇ね。

 ところで、小政さんも、石さんとマコちゃん、京都へ帰ったし、亀ちゃん、美智子ちゃんが可愛ゆうて、気もそぞろ、お相手が居らんがやろう?」

 美智子というのは、二歳になる、長吾郎の息子、亀次郎とその妻の琴絵の長女である。親に似て、二歳なのに、美人で評判である。亀次郎は、眼に入れても痛くない、親馬鹿ぶりを発揮している。

「ええ、若社長、仕事もせんと、まるで、子守役です。琴絵さん、ふたり目が出来たみたいで、悪阻がひどいらしいんです。美智子ちゃんときも、ひどかったから、若も心配ながです」

 亀次郎は今、山長商会の専務、兼、別会社、「山本雑貨店」の社長である。雑貨店と言っても、今でいう、ホームセンターの奔りである。建設資材、木工製品を初め、日用雑貨などを扱っている。業績が良ければ、支店を出す、そんな計画もあるらしい。

「ああ、それと、ムッちゃん、また出てくるそうですよ。石の就職先が決まって、少しは落ちついたって。家にいると、姉さんにこき使われる、それが嫌で、こっちへ来たいみたいなんです」

「そうやないやろう?小政さんに会いに来るがやろう?どうするの?そろそろ、決めんと。小政さんも三十路超えたろう?」

「えっ、まだ、ふた月ありますき、けど、そろそろ、年貢の納め時かな?千代さん以上の奥さんを探しちょったけど、居りませんものねェ」

「何言いゆう。睦実さん、美人やし、賢いし、それに、特技が凄いやんか。あんな人、何処にも居らんよ。まあ、上のお姉さんがどんな人か知らんけんど、わたしより、絶対上よ。決めちゃいなさいよ。向こうは、乗り気なんだから」

「でも、石の義理の弟になるんですよ。今まで、兄貴風、吹かしていたのに、結婚したら『おにいさん』って呼ぶんですか?抵抗あるなぁ」

「何も、今までどおりでエエのと違う?年も上やし、小政さんが兄貴でエエんよ。石さんやマコちゃんが困るよ、そんな呼び方されたら」

 はぁ……と、小政はあまり乗り気ではないようだ。理想が高すぎる、いや、理想の相手が、あまりにも身近にいて、全ての女性を、その人――千代――と比べてしまう。

 小政自身がよくわかっているのである。このままでは、結婚はできない。いや、いっそう、生涯独身を通して、千代の傍にいたい。今のままの関係で、お互い年を重ねたい。そんなことも考えている。小政は次男であり、子を作って、家系を守る、そんな必要はないのである。

「ごめんください」

 と、開け放しの玄関から、若い女性の声がした。

「あら、お客さんかしら?はあい、ただいま、参ります」

 千代が慌てて、玄関に向かう。そこには半袖のブラウス、縞模様の淡いフレアスカート、日除けのつばの広い帽子を被った、二十歳前後に見える女性が立っていた。

「あの、こちら、刻屋旅館さんですよね?」

「ええ、うちが刻屋ですけど、お泊りながですか?」

 まだ、看板は外してない。一階の屋根瓦のうえ、軒廂に、「刻屋」と、大きな看板があるはずである。しかも、その女性は、小さなハンドバックを抱えているだけ、とても、旅行者とは思えない、つまり、旅館の客とは思えないのである。

「いえ、宿泊の客ではありません。お尋ね、いや、ご相談したいことがあって、こちらは、以前、探偵事務所をしていたことがあるとか……、いえ、事件の調査ではないんですが、お願いしたいことがあって……」

 うちは、探偵事務所やない、と言おうとした時、

「千代さん、立ち話も何やき、ここへ座ってもらい。ちょうど、小政の兄ィさんも居るき、相談事なら、頼りになるでェ」

 刻屋の女将、「ハチキンばあさん」のお寅さんが先に声を掛けた。客を見る眼は、千代とは比べ物にならない。この道、三十有余年、何か深い事情がある、そう、判断したのである。

 ほいたら、と女性を、小政のいるテーブルに案内する。備え付けのグラスに麦茶を入れ、差し出した。

「ありがとうございます」

 と、女性は帽子を取り、遠慮勝ちに丸椅子に腰を掛ける。その前に、お寅さん、千代、小政の順で並んで座る。

「うちは、探偵事務所は、やってないんです。ある事件で、警察に協力したことはあります。そのことで、探偵団、なんて、噂を立てた人が居るみたいですけど、相談に乗れるかどうかはわかりませんよ」

「はい、その辺は、よくわかっています。ただ、旅館に関することで、しかも、人探しなので、こちらで情報を頂けるかと思いまして、お話だけでも聞いてもらえんかと……」

「旅館に関すること?まあ、家は戦前から、この場所で旅館、やりゆうき、旅館についてなら、少しはわかることがあるかもしれんぞね」

「はい、今、泊っている、旅館の方から、ここへ相談に行ったら、と勧められました。女将さんが、顔が広いし、若女将さんが、美人で賢くて、謎解きの名人や、って、教えられました」

(何処の旅館や、そんな噂ばら撒いてるの。マッちゃんの知り合いか?ははん、「羽衣」さん辺りか……)

「あっ、すみません、名前も名乗らんと、わたし、東(あずま)ひかり、言います。こんな恰好してるけど、高校三年生、今、十七歳、もうすぐ十八歳です。高校生やと、旅館で色々聞かれるんで、家出人と思われて……、それで、二十歳やと、しているんです。化粧も初めて、してます。今、夏休みなんです」

「それで、相談って何なんです?どうやら、県外の、イヤ、関西の方やと思いますけど、高知まで来る、そこまでして、知りたいことがあるんですね?」

 小政が、優しく、話を進めるように尋ねる。ひかりと名乗った少女は小政を旅館の従業員、番頭さんと思ったらしい。

「あっ、はい、まず、これを見てください」

 と、ハンドバックから、紙片を取り出す。それは、少し黄ばんだ、手札判の古い写真である。

 その写真を、刻屋の三人の前に、見易いように上下を入れ替えて差し出す。六つの眼が、テーブルの上の、小さな紙片に集中する。

 白黒の写真に写っているのは、若い、男女二人である。冬なのか、男性は、ウールの厚手のコート、女性は、和服で、羽織を着ている。日本髪ではないが、髪を纏めて、髷(まげ)上げている。

 ふたりとも、カメラに向かって、微笑んでいる。新婚の夫婦か、恋人同士であろうか?

 背景は、人物にピントが合いすぎていて、完全にぼやけている。どこか、建物の前のようだが、建物らしい、とわかる程度、どんな建物なのか、判別できない。

「この写真が何か?」

 と、千代が尋ねる。

「この女性の方は、あなたの親族の方、おそらく、お母様ですね?」

 千代の質問に、少女が答える前に、小政がそう指摘した。

 千代は、驚いて、もう一度、写真を眺める。

 そう言えば、この女性、眼の前の少女と、眼鼻立ち、いや、全体の雰囲気が、よく似ているのである。年頃も、同じくらいか?

「ええ、そうです。わたしの母の、若い頃の写真です。おそらく、父と結婚する前の、二十歳前の写真と思います」

「では、隣の方は、お父様?」

「ではないんですね?この人物が、あなたのご相談に係わる方、そうではありませんか?」

 またしても、小政が、千代の質問を遮る。

「よかった、やっぱり、ここは、わたしの思っていた、いや、それ以上の凄い探偵団なのですね……」

「えっ?じゃあ、このひとは、あなたのお父様ではない、けれど、あなたにとって、何か謎のある人物ってことなのね?」

 うちは、探偵団ではない、と言いたかったが、それ以上に、写真の人物――男性――がどういう関わりがあるのか、そちらへの好奇心が大きい、千代であった。

「はい、戸籍上の父親ではありません」

 と、答えて、少女は言葉に詰まる。

「戸籍上の?ということは、もしかして、この男性が、あなたの、本当のお父様、の可能性がある、そうゆうことなの?」

「は、はい、可能性だけです……」

「しかし、それなら、お母様に確認すれば、間もなく、成人を迎えられるお嬢さんなら、本当のことを打ち明けてもらえるんでは?」

 と、小政が尋ねる。

「ひょっとして、お母様、お亡くなりになったの?」

 と、今度は、千代が、小政の質問を遮るように少女に尋ねた。

「ちょっと、あんたらぁ、少し、黙っちょき、この子が、何ちゃあ、説明せんうちに、推理合戦は迷惑やろうがね!」

 お寅さんが、千代と小政に釘を刺す。

(そのとおりや、小政さんと張り合うて、このひとの話、折っぱなしや……)

「本当に、何から何まで、お見通し。嘘はつけませんね……。

 この写真、母が亡くなる前に、渡してくれたものです。一年前、癌で亡くなりました。父とは、十年ほど前に離婚しています。弟を連れて、実家の家業を継ぐために、新潟に帰りました。毎月、養育費は送ってくれますが、顔は会わしてません。

 母が、亡くなる前、枕元にわたしを呼んで、この写真と、この写真を撮った場所を教えてくれました。そして、この男性は、初恋のひと。そのひとの故郷へ行った時、宿泊した場所の前で写したものだと、そう言って、息を引き取りました」

「その、男性の故郷とゆうのが、高知なんやね?」

 と、お寅さんが尋ねる。

「はい、そうです。それから、写真の場所は、本丁筋ゆうところの周辺、それだけです。旅館の名前も、男性の名前も、何時のことなのかも、語ってくれないまま、旅立ちました。それで、母の一周忌が終わって、最後の夏休み、どうしても、この場所と、男の方の、正体、いえ、どういう、お方なのかを知りたくて、高知へ出向いたのです。本丁筋の旅館に泊って、写真を見せたのですが、建物の輪郭もわからんのでは、特定できん。この辺り一帯は、空襲で焼け野原、昔の建物は、ほとんど残っていない、そう言われました。ただ、五丁目から、西は焼け残っている。そこに、ちょっと、有名な女将の居る、旅館があるき、そこへ行ってみいや、と、親切に教えてくれました」

(やっぱり、「羽衣」さんか、親切なのか、お節介なのか、わからんワ、あそこの女将……)

 と、千代は、坂本龍馬の生誕地近く、水通町にある、老舗旅館の女将さんの顔を思い浮かべていた。

「なるほど、よくわかりました。ここへ来たのは、大正解ですよ。ここの女将さん、若女将さんは、困っている人をよう見捨てん方やから、あなたのご相談、出来る範囲で、協力してくれますよ。ねえ、お寅さん?」

 小政が、勝手に決めつけてしまって、駄目とは言えない。

「そ、そうや。困っちゅうひとを、放っておくなんて、ハチキンの名が許さん。出来ることはしちゃお。この、小政の兄ィさんも頼りになるき……」

 お寅さん、流石、百戦錬磨である。小政に責任を転嫁してしまった。

「でも、この写真、バックの風景、まるで見えませんよ。場所、特定できませんよ。昔の旅館、ゆうても、今はほとんど、元の場所にはないし、本丁筋界隈、ゆうても、広いですよ。小政さん、エイ知恵ある?」

「いや、わたしは、幡多の生まれですき、お城下のことは、お寅さんでしょう。範囲も、県庁前から、この辺りまで、北と南もあるし、特定は難しいですね。かえって、この男性の方から探す、ってのが、早いかもしれませんね。生きてたら、四十代の男性でしょう?」

「そうね、でも、名前もわからん、はたして、この界隈の住人かも……」

「いや、この当時は、この、写真の場所近くに住んでいたはずですよ。駅前や、はりまや橋付近でなく、本丁筋近くに泊ったのは、この男性の住所に近かったから、そう思います」

「流石、シャーロック・ホームズの生まれ変わり。千代さんの負け、小政兄ィさんの勝ちやね」

「はいはい、負けました。それで、どうする?何かエイ手、思いついた?」

「まず、この写真から似顔絵作ります。それも、この若い時の顔と、年を取った、今の顔の想像した顔の二種類。それを持って、マッちゃんに噂を広めてもらいます。大事件の重要人物ってことにして……」

「小政の兄ィさん、相変わらず、策士、いや、狂言、書くの得意やねェ。よう、こんな短時間にそんなこと思いつくワ、ほんま、感心するちや」

「でも、年取った、似顔絵って、できるの?」

「ええ、肖像画の絵描きさん、そうゆうこともできるそうです。警察でも、そうゆう依頼したことあるって、前に、勇さん、言ってました」

「よっしゃ、そうと決まったら、さっそく、行動開始ぞね。似顔絵作って、マッちゃん呼んで、顔役さんとこの従業員に配ってもらおう」

「あのう……、わたしはどうしたら……?」

 刻屋のメンバーの盛り上がりに、言葉を失くしている、少女が、おずおずと、そう切り出した。

「あっ、そうや、ひかりさんやったね?あなた、『羽衣』さん、引き払うて、うちとこ、泊り。そのほうが、捜査の経緯もすぐわかるし、お母さんたちのことで、何か思い出すこととか、あるかもしれんき、ここの方が、便利やろう?ああ、宿賃は安うしとく。ご飯代だけでエイわ、ねえ、お母さん?」

「ま、まあ、宿代はタダでもエイくらいやけんど……」

「あの、それで、探偵の依頼料は?幾らほどお支払したら……?」

「依頼料?そんなん、いるわけないろう、うちは、旅館、探偵事務所やないき。これは、ボランティア。無料奉仕よね、ねえ、お母さん?」

 千代の一方的な判断に、お寅さんは言葉が出ない。

 そこへ、玄関から、

「今日は、小政さん、こちらにお邪魔しているそうですね?」

 という、元気な女性の声がした。石さんの双子の妹、睦実である。

「あら、睦実さん、お久しぶり、あれ、お連れさん?どなた?」

 千代が、尋ねた、睦実の傍らに、学生帽を被り、坊主刈り、半袖の白いシャツ、黒い学生ズボンを履いた少年が立っていた。

「ああ、この子、ウチの弟の八郎です。一番末っ子、今、高校三年生、野球部やったけど、県予選で負けて、引退ですわ。それで、最後の夏休み、高知へウチが行く、ゆうたら、一緒に行きたい、ゆうから、連れてきました。ほら、挨拶しぃ、いっつも、話ゆう、女将さんと若女将さんや」

 学生帽を取り、頭を下げ、

「石川八郎と申します。和歌山県簑島高校野球部三年、ピッチャーをやってました。よろしくお願いします」

「何や、プロ野球のスカウトの前で言ってるみたいやな。けど、予選で負けるような学校のエースやのうて、二番手やから、プロは無理やな」

「へえ、簑島、ゆうたら、名門ですろう?和歌山は土佐以上に野球王国やから、二番手でもベンチ入りやったら、大したもんですワ」

 余談になるが、この時の八郎の女房役――捕手――は後に、簑島高校の野球部監督となる、名将、尾藤公である。

「あら、小政さん、野球にも詳しいの?」

 と、スポーツは得意そうでない、頭脳派の小政に、千代が尋ねる。野球については、亭主の幸雄(ゆきお)が、中学野球の監督をしている関係で、少しは詳しいのである。

「まあ、京大で、野球部の友人、ようけ、いましたし、和歌山出身、和歌山中の先輩も居りましたよ。わたしは、応援団のほうですけど……」

「何や、応援の方か、名内野手かと思うたワ、長嶋茂雄みたいに……」

「長嶋は凄いですね、去年は新人で、首位打者にはなれんかったけど、本塁打王、打点王、新人王。今年は、天覧試合で、阪神の村山から、サヨナラホームラン。打率、三割五分は行くんと違いますか?彼のおかげで、プロ野球の人気が凄いらしい。一昨年の春の選抜甲子園で、高知商業が決勝戦で負けた、早実の王貞治も、ジャイアンツやし、プロへ行きたい、ゆう、高校生が増えたそうですよ」

「そうか、八郎君も、ジャイアンツ、目指してるんや」

「いえ、南海ホークスで、杉浦さんのような、投手になりたいんです。下手投げなのに、凄い球、投げるんです」

 杉浦はこの年のパリーグを制する原動力となり、長嶋、王のいるジャイアンツとの日本シリーズでも、四勝0敗で南海ホークスが日本一になる時の中心選手であった。

「ああ、長嶋と立教大で同期だったピッチャーね。去年の日本シリーズは西鉄の鉄腕、稲尾が凄かった。パリーグもエイかもね」

「ところで、そちらの、お嬢さんは?御客様ですか?」

 と、睦実が、話について行けない顔をしている、お寅さんに尋ねた。

「ああ、まあ、お客さんやね、探偵団の方の、やけど……」

「探偵団?また、何か、事件ですか?是非、手伝わせてください!」

「あんた、事件と聴いたら、眼の色変えるね。ほんまに、警察官になったら、どうぞね。女刑事になれるぞね」

 まあ、座り、と、睦実と八郎を丸椅子に腰を掛けさせて、ひかりさんの人探しの依頼について、説明する。

「似顔絵作るんですか?是非、僕に描かせてください。僕、野球より、そっちの方が得意なんです。この写真の、男性ですね?鉛筆と画用紙あります?」

「あっ、はいはい、ウチの主人、美術の教師やき、画用紙、置いてあるよ。取ってくるわ。鉛筆は、濃い方がエイ?2Bか4B、6Bもあったと思う」

 千代が座敷に上がり、奥の部屋から、画用紙と鉛筆を数本持ってくる。八郎はそれらを受け取ると、写真を眺めながら、スラスラと鉛筆を走らせる。

 わずか、五分で、少し、斜めを向いた、青年の顔が、陰影をつけられて、写真よりも鮮やかに描き出された。

「じゃあ、次は、四十五歳くらいの顔にしてみます」

 そう言って、二枚目の画用紙に鉛筆を走らす。こちらは、三分ほどで仕上がった。少し、額が広がって、髪の毛が後退している。そして、ホウレイ線、目尻の皺。なるほど、年を重ねた顔である。

「見事なもんやな」

 と、小政が感心する。

「もう一枚、髪型を変えてみましょう」

 と、三枚目に挑戦する。

 二枚目が、若禿げの傾向、三枚目は、黒々とした、オールバックの髪である。随分、印象が違って見える。

「へえ、想像だけで、こんなに簡単に描けるがやねェ」

「髪型は、よく、散髪屋さんのモデルにあるでしょう?ですから、意外と簡単なんです。顔の皺の状況とかは、まあ、年相応、ってとこにしてますから、苦労してたら、もっと、老けてるかも知れませんよ」

「いや、これは凄いワ。まさか、こんなに早う、似顔絵が出来るとは……。これでエイ。これを、写真印刷して、ポスターかチラシのように配ろう。それから、マッちゃんのテンゴウ噺を広めてもらおう。三日あれば、何かの情報が入ってくると思うよ」

「ええ?わたしの活躍の場面は?」

「ムッちゃん、チラシ配ってくれるか?」

「ううん、それだけ?そうや、ジョン連れて廻ろう。そしたら、ジョンが先に見つけてくれるかもしれん」

「そりゃあ、いくらジョンでも無理やろう。写真や似顔絵では、匂いがせんもの」

「そうか、犬は、眼はようない、ってゆうから、厳しいか……」

「でも、やってみたら?ジョンはただの犬やないもん。写真と似顔絵、それと、娘かもしれん、ひかりちゃんの匂い、嗅がして、ムッちゃんと、町、歩いたらエエわ。犬も歩けば、より、可能性はあるよ」

 と、千代が言う。

「そうか、ひかりさんの遺伝子の匂いって、あるのかな?いや、血統、いうから、血の匂いが、親子なら似てるかもしれん。それと、雰囲気、醸し出す、魂か霊魂か、どうやろう?その辺り、ジョンが嗅ぎ分けれるろうか?」

「おもろいなあ。小政さん、頭エイけど、それ以上に、想像力も凄いね。

 あっ、そうや、ボンは?今、夏休みでしょう?」

「あの子は、海浜学校、安和の海岸近くのお寺さんに泊りこみ。明後日くらいには帰ってくるはずよ」

「よし、ボンが帰る前に、捜査完了、と行きたいね。ほいたら、写真印刷、頼んできますワ。ウチとこの関連会社ですぐやらせますき、夕方、まあ、今夜中には仕上がります。マッちゃんに打ち合わせを、よろしく……」


       3

「ふうん、僕が居らん間に、そんな事件が起きちょったがか……」

 真っ黒に日焼けした顔のS氏が、海浜学校から帰ってきて、アイスクリンを食べながら、みっちゃんに語りかけた。

「わたし、詳しゅうには知りませんよ。女将さんが、マッちゃんに何やら頼んでいたみたいですけど、内容までは……」

「それで?その依頼人の、ひかりさんは?どうしてるの?」

「人探しの、情報は、顔役さん処で受付けてるらしいんです。ですから、顔役さんとこ、行っていると思います」

「何か、手掛かりがあったようなの?」

「それが、幾つかの情報はあったみたいですけど、どれも、お礼目当ての……」

「ああ、ガセネタ、ってやつか。と、ゆうことは、まだ、僕の出番がある、ってことやね?それで、ジョンは?睦実さんが使ってるの?」

「ジョンは、その写真の男性かもしれん、って、訪ねてくる人を首実検、やないけど、匂い嗅いで、全部、違う、って、吠えてるみたいですよ。写真や似顔絵で、本人かどうかわかるがでしょうか?」

「さあ、僕もそこまで、ジョンにさせたことないき、わからんね。けど、嘘ついちゅう人はわかるよ。汗の匂い方が違うき」

 ちょっと、様子見てくるか……。と、アイスクリンを食べ終えた、S氏が、野球帽を被って、表へ出て行った。

       *

「女将さん、居りますか?」

 S氏と入れ違うように、警察官の制服を着た男性が、そう言いながら、開いたままの玄関から入って来た。

 本丁筋の交番の巡査、山ちゃんこと、山田巡査である。その背後に、女学生と思われる少女が、うつむき加減で、控えている。

「あっ、はい、女将さんは、出かけてます。旅館組合さんへ、旅館の廃業のことで……。若女将さん、洗濯物干してますから、呼んできます。そちらへ掛けて、お待ちください」

 二階から、千代が下りてくる。みっちゃんが代わりに洗濯物を干しているようだ。

「あら、山ちゃん、珍しいわね、何か用?」

「ええ、この子のことで」

 と、背後の少女を紹介する。

 おずおずと、少女が顔を上げる。誰かに似てる、と千代は思った。

「旭駅で、不審な子が居る、家出人かもしれん、ゆうて連絡があり、ちょうど、旭の交番へ用事で寄っちょった僕が狩りだされたがです。この子が、『刻屋』って旅館に知り合いがいる、って言ったらしくて、ここの担当は僕なもんで、ちょうど、エイってことになったがです」

 山ちゃんの話を纏めると、高知方面からの列車で、旭駅に降りた客の中に、家出少女のような子がいる。刻屋という名の旅館を探しているらしい。と、交番に連絡があり、山ちゃんが駅に向かったのである。事情を聴くと、関西方面から出てきた少女、高校三年生とのことである。姉と弟が先に高知に来ている。そのふたりが、刻屋旅館の知り合いの家に滞在しているはずである、というのである。家出少女の可能性が捨てきれず、山ちゃんが一緒について来たのであった。

「あっ、そうか、睦実さんと八郎君のことやね?」

「千代さん、心当たりがあるがですか?」

 と、山ちゃんが尋ねると同時に、

「はい、わたし、石川菜々子(ななこ)、いいます。睦実の妹、八郎の姉です」

 と、急に元気になって、笑顔を見せた少女が、自己紹介をした。

「ああ、石さんの、兄妹さんか?こんな、可愛い妹さんが居ったがやね。みんなあ、妖艶な女性ばっかりやと、思うちょった」

 山ちゃんのいうとおり、睦実とは、違う、少女というより、女の子、といったほうがぴったりの可愛い子である。ポニーテールの髪がよく似合っている。陽に焼けた小麦色の肌も健康的であり、笑うと八重歯が覗けている。

「ああ、よかった、ほいたら、後はよろしゅう」

 と、山ちゃんが立ちあがる。

「あっ、待って、冷たいもんでも飲んで行き」

 と、業務用の冷蔵庫から、麦茶を冷やした、ヤカンを取り出し、テーブルの上の、備え付けのコップに入れてあげる。

 冷たい麦茶を一気に飲み干し、ごちそうさま、と挨拶して、山ちゃんは、本丁筋の交番の方へ帰って行った。

 菜々子と名乗った、少女にも麦茶を入れてあげる。そこへ、みっちゃんが、階段を下りてくる。

「どなたですか?」

 と、みっちゃんが、菜々子のことを尋ねる。

「睦実さんの妹さんらしい」

「えっ、じゃあ、八郎さんの双子の、お姉さん?似てないですね……」

 そうなのだ。睦実と石さん――悟郎――はそっくりである。しかし、この菜々子は、先日来、よく見かける、八郎とは、まるで似ていない。睦実の面影はある。姉妹だと、言われれば、そう思う。だが、双子なのに、八郎とは、姉弟と、言われても、首をかしげるくらいなのだ。

 年上の女性二人に、ジロジロと顔から、上半身を眺められていることに気づいて、麦茶のコップをテーブルに置き、また、俯いてしまう。

「あっ、御免御免、ジロジロ、見過ぎやねェ。菜々子ちゃん、ゆうたかね?わたしは、この旅館の若女将で千代、ってゆうのよ。こっちは、女中さんでみっちゃん。睦実お姉さんとは顔見知りやき、安心して。ほんで、お姉さんは、菜々子ちゃんが、こっちへ出てくること、知ってるの?うちとこには、何もゆうてなかったんやけど……」

「千代さん、ああ、顔回の生まれ変わりゆう、美人で賢い、お姐(ねえ)さんですね?」

「だ、誰に聴いたの、そんなデマ……」

「兄です、それと、兄嫁の真(まこと)さんから……。真さん、素敵な方です。わたしにも、凄く優しくて、その真さんが、理想の母親や、って言ってました、千代さんのこと。息子さんが凄く賢い、あんな子に育てた母親は凄いって……」

(ああ、ここにも、マッちゃんの三代目がおったか。どこまで、尾ヒレが付いて、わたしの噂が広まるがやろう。エエ加減にして、って言いたいわ……)

 横を見ると、みっちゃんがクスクスと笑っている。

(みっちゃんにもわかるんやろうなぁ、噂の怖さ……)

「じゃあ、その顔回の生まれ変わりが、ゆうでェ。菜々子ちゃん、おうちに、内緒で出てきたがやろう?荷物が少ない、それと、顔役さんとこ知らんと、うちを訪ねてきた。どうや?図星やろう?」

「ご、御免なさい。ご迷惑かけるつもりじゃなかったんです。でも、八郎だけつれてくるなんて、ムッちゃん、ひどいです。そりゃ、わたし、女子寮にいたから、出発の時も知らんかったけど、高知へ行きたい、って前からゆうてたのに……」

 菜々子の弁明は、こうである。睦実が高知へ行く、そんな話は度々あったらしい。それについて行きたい、と前々から菜々子は言っていた。それが、夏休み、菜々子が寄宿している、女子高の寮から帰ってくる前に、睦実が出発したのである。しかも、別に行きたいと言ってなかった――甲子園を目指していた――弟の八郎を連れて行ったのである。これは裏切り行為だと、母に、自分も行く、と抗議したが、ひとりでは駄目、と言われ、父親、姉にも反対された。

 残された手段は、黙って出て行く、それだけである。貯めていた、おこずかいを手に、列車に乗った。行き先は、高知市の井口町にある「刻屋」という旅館。そこに行けば、姉の宿泊先もわかるはずである。刻屋は、何度も、兄や兄嫁から聞いた物語の舞台であった。

 井口に一番近い、最寄りの駅、それが、旭駅、ときいて、駅を下りたは良かったが、駅員に見咎められて、家出人の疑いを持たれてしまったのである。

 やって来た巡査が刻屋を知っており、一緒についてきてくれた。頭ごなしに、家出少女と決めつけず、冗談を言ったり、とても優しい巡査であった、と、山ちゃんを褒めている。

「まあ、山ちゃんは、女性には優しい、とゆうか、マメやからね。運が良かったね。本来なら、交番へ連れていかれて、事情聴取やったかもしれんよ。けんど、ご両親、心配しているよね……」

 と、千代が言った時、刻屋の電話が鳴った。

 みっちゃんが、慌てて受話器を取る。

「あっ、はい、今ここに来ています」

「えっ?誰から?」

「若女将さん、睦実さんからです。実家から電話があって、菜々子さんが家出したって……」

「まあまあ、タイミングのエイこと。替わるわ」

 と、受話器をみっちゃんから受け取る。

「もしもし、睦実さん?はい、はい、今、着いた処よ。巡査の山ちゃんが、送ってきてくれたから、無事着いたって、ご両親に知らせてあげて、うん、こっちは大丈夫、迷惑なんて、全然よ。可愛い妹さんね。あっ、それと、うちの子はそっちに居るの?はよう、帰ってき、ってゆうといて、今から、そっちへ案内する。なんちゃあやない、みっちゃんに行かすきね……」

 千代が受話器を置いて、菜々子に微笑む。両親には、睦実から連絡を入れてくれることを伝えた。

「そしたら、わたし、案内してきます」

 と、みっちゃんが菜々子を促して、立ち上がる。

 ご迷惑を掛けました、と、菜々子が深々と頭を下げる。

(ほんま、可愛い子やなぁ。うちの娘も、あんなに育てたいわ……)と、千代はその後ろ姿を見送った。


       4

「それで、何人くらい、候補者が来たの?」

「似顔絵配って、今日で二日目、八人は来たな。全部、賞金目当てや」

 刻屋に、菜々子が現れた頃、長吾郎一家の玄関横の応接室で、S氏と小政、ひかりが、ソファーに座って、話をしている。

 似顔絵を配ると同時に、マッちゃんが噂を広めた。この男性に、多額の遺産相続の話が持ち上がっており、情報提供者には、賞金、或いは、お礼の品物が出る、というのである。その、賞金を目当てに、わたしが、その本人、という者、自分の兄弟が、この男だ、いや、自分の亭主が、と、押し寄せてくる。噂の広がる速さに、小政も驚いているのである。

「マッちゃんの、噂をばらまく能力は、凄いね。床屋やめて、宣伝の会社作ったら、大儲けできそうやね」

「わたしも、呆れているよ。世の中、そんなに暇人が多いのかね?県庁前から、西だけだよ、噂、広めたの……」

「で、結局、どれも外れ?」

「ああ、こっちも、理論武装している。まず、この写真の場所、そして、相手の女性の名前、つまり、ひかりさんのお母さんの名前、それを尋ねる。誰も答えられないよ。中には、記憶をなくしている、なんて、言い訳する奴もいたけどね。ジョンが吠えたら、慌てて、逃げて行ったよ。困るのは、本人じゃないから、わからない、ってゆう、人たちさ。そこで、年齢を聴く。何年生まれ、何処に住んでいたか、そうやって、聴いてゆくと、ボロを出す。矛盾だらけさ。それで、違うようです、お引き取りを、と、タオルを一枚あげて、帰ってもらっている。どうも、範囲を広げないといけないかもしれない」

「この場所、全くわからないの?」

 と、写真を見つめながら、S氏が尋ねる。

「ああ、ここまで、ピントが合ってないとね、輪郭すらわからない」

「けど、旅館でしょ?そんなに多くはないよ、幾ら戦前だからって、旅館組合はあったはずだし、まさか、玉水町の旅館に泊るはずないし……」

「ああ、そっちはお寅さんを通じて、うちの従業員が当たっている。今のところ該当がない」

「このバックに微かに見える、陰影、山のような輪郭だよね」

「ああ、そういえば、山の稜線かな?」

「これ、城山だよ、高知城の……。ただ、どっちから見た高知城かはわからない。けど、大高坂山が写るくらいの近くにあった建物だよ。だから、この辺りじゃない。本丁筋でも、升形に近い区域だよ」

「さすが、ボン、よくわかるね」

「それと。ちょっと、虫眼鏡貸して。気になる部分が幾つかある」

 小政が、大きなルーペを持ってくる。それを手に取り、写真を眺める。

「まず、男性の後ろの建物らしきもの、ここに、看板のような、輪郭がある」

 S氏が指摘したのは、男性の右側の後ろ、建物と思われる白い壁の一部が、少し、違う濃さになっており、それが、縦に綺麗な長方形を描いているように見えるのである。

「なるほど、長方形だね。看板とゆうか、大きな、表札、って感じかな」

「旅館の看板としたら、おかしいよね?会社か、建物の表示に使う看板みたいだから」

「えっ?じゃぁ、ここは旅館ではない?けど、ひかりさん、お母さんは、旅館の前、っておっしゃったんでしょう?」

「えっ?ええ、泊った場所の前だと……」

「そうか、泊った場所なんだ。旅館とは限らない」

「えっ?ボン、そしたら、どこなが?」

「それともうひとつ、この写真から想像できること」

 と、次にS氏が指さしたのは、男性の手元である。コートの袖から、その下の服の袖がわずかに見えているのである。

「小政さん、石さんから、長距離電話ですよ」

 と、そこへ、家政婦の、お多可さんが、慌てて伝えに来た。

「へぇ、石から電話?何やろう?」

「睦実さんに用があるみたいでしたけど、出かけている、とお知らせしたら、小政の兄貴に代わってくれって。急用みたいです」

「よっしゃ、ボン、ちょっと待ちよってよ」

 と、小政が部屋を出て行く。

 S氏はもう一度、写真を拡大鏡で眺め始める。

 そこへ、睦実と八郎が帰って来た。似顔絵を配り、情報を集めに行っていたのである。

「あら、ボン、帰ってきてたの?お久しぶり、随分、焦げてきたね?海水浴?」

「あっ、睦実さん、今、石さんから、電話が架かってきちゅうよ。小政さんが出てくれてる。急用みたいやき、行ってきて」

 睦実が慌てて、電話のある部屋に向かう。

 少しして、小政が帰ってくる。

「何やったの、石さんの電話?」

「妹さんの菜々子さん――八郎君の双子の――が、家出したみたいなんや。石の実家から、石のとこへ来てないか、問い合わせがあったらしい。石のゆうには、ムッちゃんと八郎君が菜々子さんに黙って、高知へ向かったことを怒っていたらしい。自分も行きたい、ゆうたら、親に反対されたらしゅうて、おそらく、こっちへ向かっていると思う、ってこっちゃ。ただ、この、山長の場所は知らん。知っているのは、刻屋だけらしい。それで今、ムッちゃんが、刻屋に電話してる」

 小政がそう説明し終わると、すぐ、睦実が帰って来た。

「菜々子、刻屋に居るって。今から、こっち来るって。悟郎には、そう電話しといた。親には、悟郎から連絡さすワ。ウチがしたら、また、小言言われるから……」

 そして、急に思い出したように、もうすでに、傍に腰かけている、八郎を、S氏に紹介した。

「ところで、睦実さん、何か、この写真の男性の新しい情報、仕入れてきた?」

「ううん、さっぱりよ。ジョンも全然、やる気なし。写真、似顔絵では、ジョンでも、無理やろうね」

「ああ、それは、見当外れの場所、行ってるからだよ。ジョンがそんなやる気がない態度する時は、無駄なことするな、って、合図なんよ」

「へぇ、そうなん?やっぱ、ボンやないと、ジョンの気持ちはわからんのんやねぇ……」

「で、どの辺、廻ったの?そこは違うとわかっただけでも、成果と言えるよ」

「毎度屋ゆう、質屋から、南側、中島通り、ってゆうとこ……」

「そうか、やっぱり、お城の西か、北か、の範囲かな?」

「えっ?何で、そんなに範囲を絞れるの?」

「うん、この写真の背景の山の形。城山と思うんよ。それで、この角度は、城西か城北。城東となると、追手筋のほうになるから、本丁筋界隈とは、言えんなる。南から城山見ると、こんな感じには見えんし、今日のジョンの様子からみて、南側はない。そういう理由からよ」

「さすが、ルパンの生まれ変わり。ところで、さっき、服の袖口、見てたけど、そこになにかあるんか?」

 と、小政がS氏に尋ねる。

 S氏が答えようとしたところへ、お多可さんが、少女を案内して、部屋に入って来た。

「あっ、菜々子。あんた、勝手に家出てきて、お母さん、心配してたでぇ……」

「菜々子さんか、疲れたやろう、荷物置いて、ここへ座り、僕の隣がエイかな……」

 睦実の説教を上手くかわして、S氏が可愛い少女を自分の隣に導く。

(たいしたもんや、菜々子さんをさりげなく守っている。女性に優しい。やっぱり、ルパンの生まれ変わりやな……)と、小政がにんまりと心の中で呟いた。

 菜々子は遠慮がちに、S氏の隣に座り、睦実の妹の菜々子といいます、と自己紹介をする。悪びれるところのない態度に、

「そうか、菜々子さん、七番目のお子さんながやね?」

 と、小政が、歓迎の意を表す。

 S氏が、もう一度、写真に指を伸ばす。

「古い写真ですね?何処か、石造りの建物の前ですね?」

 と、菜々子が言った。

 えっ?石造り?そんなもの、どこにも写っていない……、と、他の者、全員が菜々子に視線を向ける。

「菜々子、何か見えるのね?」

 と、睦実が声を上げる。

「ムッちゃん、どうしたんや?大きな声で……」

「あっ、ごめんなさい。いえ、実はこの、菜々子、特殊な才能、ゆうか、能力があって、人が見えんもんが見えるんです。写真に写っていないもんとか……」

「姉ちゃん、これは、写っているよ。そうか、みんなには、ピントが合ってないから、写ってないように見えるんか……」

「そしたら、この建物の輪郭、それ以上のもんが、菜々子さんには見えてるんやね?」

 と、S氏が確認する。うん、と菜々子が頷く。

「教えて、どんなに見えてるの?」

「エンピツあります?わたしが見えてる画像をエンピツでなぞってみます」

 小政がエンピツを持ってくる。菜々子がそれを受け取り、写真にエンピツを走らせる。絵の上手さは、双子の八郎に似ているのか?それとも、ただ、なぞっているだけなのか?背景の建物、山の稜線、いやいや、高知城の天守閣の一部――下の部分――まで描きあげて行く。

 仕上がった写真、イラストを全員が眺める。

(そう、カメラが見ていた風景は、これやったんや……)と、S氏は心の中で呟いた。

 レンズを通し、フィルムに焼かれた時、この景色が消された。人間の眼からは見えなくなったのである。

「これは、旅館やないでぇ。立派な建てもんや。このアーチ型の玄関、その横の看板、役場か、学校か、そんな感じの建てもんや」

 と、小政が言った。

「菜々子さん、あと一カ所、この男性の袖口の服、コートの下から見えてる、背広のような服の袖口、どんな模様かわかる?何か、線が入っているように見えるがやけんど……」

 S氏の質問に、無言で、エンピツを走らせ、書き終えたイラストを見せる。

「そうや、これや!」

「何?ボン、何を見つけた?」

「この袖口の模様、普通の背広と違う気がしていたんよ。これ、軍服の袖口だよ」

「軍服?じゃあ、この男性は、軍人さん?そうか、この建てもんは軍の施設や。軍の管理していた、宿泊施設。そこへ、ひかりちゃんのお母さんが泊ったんや」

「ほ、本当ですか?そこまで、わかるんですか?すごい。井口の探偵団って、すごい能力のひとの集団なんですね?」

 ひかりが興奮して隣に座っていた、八郎の腕を何度も揺すっていた。

「いや、菜々子さんは、探偵団のもんやないけんど……。まあ、エイか、みんなぁ身内みたいなもんか……」

「ボン、これで、この場所はほぼ、わかったね。軍の宿泊施設。今はもうないけんど、図書館で資料調べたらわかるろう、多分、城西、刑務所から、今の裁判所辺りにあったはずや。あとは、この男性。軍人さんとしたら、戦死している可能性もあるけど、名簿探せば、知ってる人に行きつくかもしれんね」

「けど、それやと、時間がかかる。エイ手がある。菜々子さんの特殊能力と、お城の近くで思いついた。例の、薫的さんの太夫さん。あのひとに、この、イラストまで描いた写真見せたら、居場所がわかるかもしれんよ」

「そ、それや。お寅さんに頼もう。明日にでも、太夫さんに見てもらおう。それで、ほぼ、範囲が決定する。あとは、我々、いや、ジョンが見つけてくれる」

「何や、太夫さんとジョン任せか。京大出のインテリさんが言うセリフやないね。非科学的過ぎん?」

「まあ、ムッちゃんは知らんだけや。ジョンも凄いけど、太夫さんはもっと凄い。おまけに、人の言葉が喋れる……」


       5

 お寅さんが、薫的神社近くの庵にいる、太夫さんに電話を掛けた。電話に出たのは、弟子にあたる女性であった。

「太夫さん、体調を悪うしてて、お祓いや、ご祈祷はできんそうやて。けんど、相談くらいやったら、訊いてもらえるってことや。どうするぞね?」

 と、電話口でお寅さんが小政に言った。

「まあ、今回は悪霊退散のご祈祷やないから、相談、ゆうか、透視をしてもらいたいだけやから、それで、お願いしてください。体調のエイ時間帯にお伺いしますってことで……」

 それなら、明日、午前中の涼しい時間帯に、という返事をもらい、翌朝、七時に山長商会の車に乗り込んで、小政、S氏、ひかり、睦実、菜々子の五人が、庵へと向かうことになった。

 小政以外は初めての体験である。案内された、祈祷場に座椅子にもたれかかった、太夫さんを見たとき、数年前の姿とあまりに違っていたことに、小政は驚いた。

 当時は、福よかな、優しい面立ちであった、と記憶している。今、眼の前にいるのは、痩せ細り、自力では歩けないのではと思えるくらいの老婆である。しかも、容貌が、仏の顔から、鬼女の顔のように変貌していた。

 後で、弟子の少女から聴かされたことによると、かなりの量の悪霊を祈祷により、退散させた。成仏したものもいるが、怨霊として現世を彷徨うモノもいる。それらが、成仏したいがため、太夫さんに取りついているのである。これ以上、お祓いを続けると、太夫さんの身体が持たない、そこまできているのであった。

 お寅さんの紹介でなければ、こうして、会ってもらえなかったかもしれない。それは、皆が座敷に腰を降ろした後の、太夫さんの最初の言葉でわかった。

「お寅さんは元気にしゆうかね?」

 と、太夫さんは言ったのである。

 そして、S氏のほうに視線を向けて、

「ほう?その子は、お寅さんの身内の子かね?血は繋がっちゃあせんが、魂はしっかり繋がっちゅうね。賢い子やね」

 と言った。

「それと、兄さん」

 と小政に視線を向けて、

「兄さんとその子は、前世では兄弟やったようやね。そこの、お嬢さん」

 と、今度は、睦実と菜々子を指さして、

「あんたらぁも、前世ではこの子と深い関係で結ばれちょったよ。主従関係かな?」

 と言った。

 一同が驚きの表情で、お互いを見合す。

「そこのお嬢さん」

 と、最後にひかりに視線を移し、

「その子のことで相談があるんやね?」

 と、ずばり見とおされた。

 小政が、訪問の理由を説明する。そして、菜々子が手を加えた、ひかりの母親たちが写っている、手札判の写真を太夫さんに手渡した。

「ほう、この鉛筆で、なぞったがは、その子かね?」

 と、菜々子を指さす。

「中々の才能やね。修行したら、アテの後継者になれるかもしれんね。けんど、よう薦めん。こんな商売はせんほうがエイき」

 と言った。

「その、男性のことを知りたいがです」

 と、小政が言う。

「ひ・か・り、ちゃん、ゆうかね?あんたの名前?」

 と、誰も教えていない、ひかりの名前まで、言い当ててしまった。

「あんた、この人のこと知ってどうする気ぞね?親子の名乗りを上げたいがかね?それが、不幸な結果になるかもしれんと、わかっちょっても、会いたいかね?」

「それは、知らん方がエイ、ゆうことですか?」

 と、小政が尋ねる。

「いや、不幸になるか、ならんかは、その子の気持ち次第。ただ、どんな結果になろうと、受け入れる気持ちがないなら、知らん方がエイ、かもしれん、ちゅうことよね」

「どんな結果になろうと、受け入れます。母が亡くなった時、わたしは強く生きないとイカン、そう心に決めました」

 まっすぐ、視線を太夫さんに向けて、ひかりが、そう言い切った。

「よしよし、その心がけが大事よね。今から、いくつか、謎めいたことをゆうちゃお。それをあんたらぁが読み取って、この男性を見つけなさい。今、この人のことを洗いざらい、教えたら、エイ結果にならん。少し、苦労して探して御覧。そいたら、結果も変わってくる。エイかね?周りの仲間を信じること、それができんと、不幸になるよ。あんたは、前の父親を恨んじゅう。けんど、その父親は、あんたを愛しう思うちょるよ。人の気持ちは、表面だけやないきね」

 自分の内面の気持ちまで指摘されて、ひかりは言葉を失う。

 そして、気を落ち着かせ、よろしくお願いします、と、太夫さんに頭を下げた。

「この男性は、あんたの父親や。兵隊さんやったき、結婚を躊躇ったがよ。戦地へ行くことが決まっちょったがやろうね。

 さて、これからが、謎々よね。この人のことが知りたかったら、柳に関係する場所へ行くこと。それも、夜やね。週末、金曜日か、土曜日。あと、さお、が係わるかも知れんね。こればあや。アテが教えられるのは……」

 そう言った後、苦しそうに咳き込み始めた。弟子の少女が慌てて背中を擦る。

「御免なさい、これくらいで……」

 と、対話を終わらせた。

「最後に、ひとつ……」

 と、咳き込む息を我慢しながら、太夫さんが言葉を発する。

「犬が居るろう?そのワンちゃんが、きっと、エイ結果を導いてくれるき、必ず、連れて行きよ……」

 と言った。

       *

「さて、これからどうするか……」

 太夫さんに何度も頭を下げ、お礼のお布施を差し出して、顔役さんの家に帰って来た一同に小政が首を捻りながら言った。

「謎々、を、解かんとイカンね」

 と、S氏が言う。

「そうや、この人が、ひかりちゃんの本当の、お父さん、とゆうこと、それから、兵隊さんやった、とゆうこと、それは、わかった。けんど、その後は、微妙やったね。生きてるのか、死んでいるのかも、はっきりしてくれんかったし、何処へ行けばいいのか、謎が残ったもんね」

「柳、夜、週末、さお、この四つが謎を解くカギか。太夫さん、僕らぁが、そうゆう謎解きが好きで、得意と知っていたみたいやね。意地悪かと思ったけど、これが、ひかりちゃんにとっては、試練とゆうか、考え方を改める、好い機会になるってことながやろうね、きっと……」

「わたし、どんな結果になろうと、覚悟はできています。ただ、皆さんにご迷惑になったら、それだけが、気がかりです」

 と、ひかりが真剣な顔で言った。

「いや、太夫さんは、わたしらぁに、何か災いが掛かってくるとは言わんかった。それより、仲間を信じろと、つまり、ひとりの力では解決できん、特に、ジョンの力がいるって、言ってたよね?」

「小政さんのゆう通りや。それぞれの能力を出し合わんとイカンがやと思うよ。菜々子さんの能力も見破っていたしね」

「本当に不思議な人でしたね。あんな人がこの世にいるんですね。わたし、安心しました。自分は異常やないかと思ってましたけど、それ以上の能力、見せられましたから……」

「菜々子はエイよ。けど、わたしは?何の取り柄もない、唯の凡人や、この中では……」

「いや、ムッちゃんは行動力がある。それに、闘争力も。もし、やばい場面がでてきたら、わたしらぁを守ってもらわんとイカンかもしれん」

「そうか、危険を伴うかもしれんよね。よし、任しといて、わたしの杖術、見せてあげるワ、十兵衛、お墨付きやでぇ」

 睦実はいつも、樫の木の杖を携帯している。以前、十兵衛が時影と戦った時に使った杖である。唯の樫の棒ではないらしい。樫の木を切りぬいて、中に鉛か鋼鉄かを仕込んでいるらしい。時影の刀が折れたのは、その金属が仕込まれている部分で、刀を打ち砕いたからだと、睦実は言っていた。

「とりあえず、刻屋へ報告に行こう。お寅さんと千代さんにも結果を知らせなイカンし、ジョンをどう使うか、これも問題やし……」

 小政の提案に、全員が頷き、八郎も加えて、刻屋へと足を運んだ。

       *

「ふうん、柳に関係する場所。はりまや橋に、柳が植わっちゅうよ」

 話を聞き終えて、千代が自分の考えを言う。

「けんど、柳と夜、ゆうたら、あれやろう?『うらめしやー』のほうやいか」

 と、お寅さんが話を広げる。

「お母さん、そいたら、ひかりちゃんのお父さん、亡くなってて、週末の夜になったら、柳の下へ、ヒュー、ドロー、ゆうて現れる、ゆうんですか?」

「まさか、そんなことはないろうけんど、柳、ゆうたら、そっちを思い浮かべるろう?」

「やっぱ、ばあちゃんは古い人間や、柳イコール幽霊、ありきたりすぎるね。母ちゃんの意見を採用しよう。柳の木のある場所、そっから、スタートや。今夜から、はりまや橋近辺を探索しよう」

「あんた、子供は駄目よ、夜は……」

「けんど、ジョンを連れて行かんとイカンがよ。太夫さん、ワンちゃんの力がいる、ゆうてたから……」

「千代さん、わたしが同伴しますき、保護者同伴ってことで、認めてください」

「まあ、小政さんがついてるなら、大丈夫か、今回だけよ、わかってるね?」


        6

 はりまや橋は、昭和三十三年に開かれた南国高知総合大博覧会の際に、朱塗りの欄干が登場した。この物語の時は、下を堀川の水が流れ、向かい側には、土電会館がオープンしていた。

 金曜日の夜、ジョンは首輪にロープを付けられて、小政にそのロープの先を持たれている。井口町と違い、人の通行量の多い、この近辺では、放し飼いにはできないのである。

 先日、この界隈を歩いてみた。柳の木は、浜幸の横、堀川沿い、東側にも植えてある。夏の夜、青々とした葉を風になびかせていた。だが、それ以外に、ひかりの父親に関することは、何も得られなかった。似顔絵のビラも、配っては見たが、反応は薄い。マッちゃんの噂は、この辺りには広がっていないのである。

 七月最後の金曜日、睦実たち石川家の三人と小政、S氏、ひかりの三人とジョンは、ふた組に分かれて、情報を集めている。時刻は午後九時になろうとしている。

 圧倒的に、サラリーマン風の男性が眼につく。仕事帰りか、一杯、引っ掛けた後か、次第に酔っ払いの数が目立ってきた。

「柳、夜、週末、は条件に合っているけど、さお、って何のことやろう?小政さん、わかる?」

「はっきり言って、ボンにわからんこと、わたしにもわからんよ。何か、竿の先に、看板のような旗でも立てているんやろうか?」

「ノボリ、やったら、ありそうやね?けど、さお、ってゆう?」

「さお、釣り竿かな?あっ、そうや、もうすぐ、月遅れの七夕やろう?笹の竿かもしれんでェ」

 この地方では、七夕祭りを月遅れ、八月七日に飾る風習があった。

「来週の金曜日か、ありうるけど、週末って言ってたから、土曜日は八月八日になるよ。何か、違う気もする」

「ノボリ、釣り竿、笹の七夕飾り、後は、物干し竿、くらいしか浮かばんよ」

 とにかく、その辺を頭に入れて廻ろう、と小政がジョンのロープを引く。

「ジョン、全くやる気ないね。ロープに繋がれてるんが、不満ながやろうか?」

「そうか、小政さん、ジョン、この辺は違う、って、言いたいがやない?この前の、睦実さんが、電車通りの南側を調べていた時みたいに……」

「ほいたら、ここやない、ってこと?じゃあ、何処を探せ、ってゆうんや?柳のある場所、他に思い当たるか?」

「わからんけんど、ジョン、ここやないがやね?」

 S氏がジョンの頭を撫でながら、尋ねると、ジョンが「ワン」と一回吠えた。イエス、ここではない、と言っているのである。

「そうか、ここやない。太夫さん、ジョンがカギになる、ゆうてたもんね。さて、仕切り直しか。ムッちゃんたちにも知らせて、今日は帰ろう。もう一回、柳を考え直しや」

 小政がロープを引いて、向きを変えた時、ひとりの酔った中年男性が、

「柳を探しゆうんかね?柳町は中央公園から北へ、帯屋町のひとつ向こう側ぞね。安い店がこじゃんとあるき、たるばあ、呑めるぞね」

 と、呂律の回らない言葉で、そう言った。

「えっ?柳町?そんな町名があるんか?」

「そうよ、帯屋町ならぬ、『飲み屋町』とも言われてるけんど……」

 ほいたら、エイ夜を……と、その男は、離れて行った。

「ボン、柳が見つかった。柳町、間違いない」

「うん、ジョン、柳町で、おうとる?」

「ワン」とジョンが吠えた。

 そこへ、石川家の姉弟がやってくる。収穫がなく、疲れた様子がありありと見える。

「ムッちゃん、柳の謎が解けた。柳町って場所があるそうや」

 今日は遅い、明日出直そう、と、小政が言う。ジョンが「ワン」と吠えた。

       *

 翌日の土曜日、日付は、八月になっている。午後七時、中央公園北側の帯屋町商店街は、そろそろ、店仕舞が始まっていた。

「さて、柳町もここからだと、東側と西側があるね。どっちから行こうか?」

「ジョンに聴こう。ジョン、右?」

 と、S氏が尋ねる。

 ジョンが「ワン」と吠える。

「よし、東側から行ってみるか」

 と、小政が、ジョンのロープを引く。

 北に進んで、次の通りを右に折れる。ネオンや、赤ちょうちん、派手な看板がずらりと並んでいる。歓楽街、というより、飲み屋街である。小さな店が、競うように並んでおり、土曜の夜ということもあって、中年男性ばかりでなく、学生っぽい若い男女の姿もある。南側の「帯屋町」が店を畳むのと、逆に、店が開いて行く。夜の街がそこに輝いていた。

「さて、あと、残された謎は『さお』やね。さお、とゆう名の店は?なさそうやね」

 小政の言葉に、皆、微笑みを浮かべ、店の名前、看板を見て廻る。小さな路地の奥に、何軒かの飲み屋が並んでいる。

 少し東に歩くと、ひときわ目立つ看板がある。

『とんちゃん』と大きく、平仮名で書かれた看板である。その店先に何人かの三十代、四十代の男たちが暖簾を潜ろうとしていた。その中の一人が、ジョンに気がついたかのように、こちらを向いた。ジョンが「ワン」と吠えた。

「と、父ちゃん」

 と、S氏が言った。

「なんな、子供が、こんな飲み屋街へ、何しに来た?」

 と、丸顔に黒縁の眼鏡、日焼けした黒い肌に、半袖の白いワイシャツ姿のその男が言った。

「父ちゃんこそ、今日は野球の試合、言いよったろう?なんで、こんなとこに居るが?」

「今日から、中学校の選手権大会よ。大会の無事、成功を祈願して、懇親会よ」

 S氏の父親、幸雄は中学野球の監督であり、大会の運営委員、審番員も兼任している。朝から、球場に出かけ、夜は夜で、付き合いなのか、好きなのか、宴席に、はせ参じているのである。

「そうや、父ちゃん、この辺には詳しいがよね?こんな感じの人知らん?」

 と、S氏はひかりの父親と思われる男性の似顔絵を若い頃から、三枚を幸雄に差し出した。

 一枚目の若いコート姿を一瞥し、二枚目の若禿げタイプも無視した後、三枚目のオールバックの似顔絵をじっくり眺め始めた。

「中々、上手な絵だねぇ。うん、よく描けてる」

「父ちゃん、図画の採点やないがでぇ……」

 幸雄は中学校で美術を教えているのである。

「僕が描きました」

 と、傍にいた八郎が嬉しそうに答える。

「うん、これならわかる、多分、お吉(きち)さんやろう。面影が残っている。まあ、今は、全く、別人になっているけどね」

 美術の教師で、自らも絵を描く幸雄には、その絵から、その人物の本性が見えていたのかもしれない。

「お吉さん?その人、この辺に住んでるの?」

「いや、住まいは、今、何処かな?越前町辺りが実家のはずだが、実家は出てるだろうから……。けど、何で、お前がお吉さんを探してる?」

「この人が、ここにいる、ひかりさんのお父さんかもしれんのや。いや、太夫さんが、言ってたから、間違いない。この人、生きているんやね?ほいで、何処行ったら、会えそう?会う方法、教えて」

「ほう、お吉さんに娘が居ったんか?いや、初耳、初耳。お吉さんやったら、そこの、居酒屋横町に居ったら、八時か九時には会えるよ」

 と、幸雄が今通って来た、小さな酒場が集まっている場所を指さした。

「先生、始めますよ」

 と、幸雄の連れの若い男が声を掛ける。

 おう、じゃあな、と幸雄は片手を上げ、「とんちゃん」の暖簾を潜って行った。

「と、父ちゃん……」

 話、途中やのに…、とS氏は、その背中を見送るしかなかった。

「ほんまに、薄情な親や、『お吉さん』って、通称やろう?本名、教えてくれてないやいか。しかも、住所はわからん、飲み屋街に現れるって、どんな情報や?太夫さんの謎掛けと同じやいか」

 と、S氏はぼやいた。

「あれが、ボンのお父さん?野球部の監督さんで美術の先生、八郎、あんた、教師になったら?美術と野球、両立できるワ」

「む、睦実さん、そっち……?肝心な、ひかりちゃんの情報は?」

「ははは、相変わらず、幸雄さん、お酒が好きですねぇ。けんど、ボン、流石、美術の先生や。今まで、誰もこの男性のこと知らん、ゆうてたのに、幸雄さん、知ってるみたいやし、しかも、今日の八時か九時には会えるって、情報くれたやない。場所もわかってるし、あとは、ジョンを信頼したらエイ。こりゃ、先が見えてきた。見つけられるよ。通称でも、『お吉さん』って、わかったんやから、頼むでェジョン……」

「けど、例の『さお』のこと、訊けんかった。お吉さんと『さお』、何か関係あるがやろうか?」

「まあ、会えばわかるんやないか?あと、二、三十分後や、この辺、ぶらついとこう。そうや、カキ氷でも食べよう。そこに、氷屋のノボリがあったよ」

 長方形の白地に青い波と千鳥模様、真中に、大きく赤い字で「氷」の文字が書かれた小さめのサイズのノボリのある店先の縁台に腰をおろし、六人はそれぞれの好みのカキ氷を食べている。

 一番に、白蜜――みぞれ――を食べ終えた小政が、ガラスの器を店の主人に返しながら、

「小父さん、この辺で『お吉さん』ゆう、有名人、居るかえ?」

 と、何気なく尋ねてみた。

 尋ねられた主人は、一瞬、顔をしかめたように見えたが、商売用の愛想笑いを浮かべながら、

「あんたらぁ、お吉さんの知り合いかえ?」

 と、逆に質問してきた。

「いや、知り合い、ゆうこともないけんど、人探ししよって、その人が、お吉さんゆう人に似いちゅう、って聞いたもんでね、この似顔絵のひとやけんど……」

 小政が、オールバックの髪型の似顔絵を主人に見せる。

「あんた、警察の関係者かえ?」

「まさか、女、子供連れた、刑事も居らんろう?知り合いのひとに頼まれちゅうがよ」

 小政の言葉を信じたのか、主人は掛けていた眼鏡をずらして、似顔絵を眺めた。

「こりゃ、何時の時の顔ぜよ。この年ごろやったら、こんな髪型はしちゃあせん。眼もと、口元は似いちゅうけんど、こりゃ、別人かもしれんぜよ」

「じゃあ、お吉さんって人は、こんな髪型やないがですか?ツルっぱげ、ってこと?」

「ははは、ボク、中々、おもしろいことゆうねぇ。お吉さんがどんなになっちゅうか、見てのお楽しみや。別人か本人か、おうてみんとわからんねえ。まあ、もうすぐ、この前を通るき、訊いてみいや、本人に……」

 そう言って、主人は、店の奥に帰って行った。

「何か、変やね?みんな、謎掛けみたいな答えしか返ってこん。ムッちゃんどう思う?今のご主人の反応?」

「小政さんのゆうとおりや。ボンのお父さんも、ここのご主人も、お吉さんについて、はっきりとは教えてくれん。教えられん、何か秘密、あるいは理由があるんでしょうかね?」

「ボンはどう思う?」

「髪型が違う、オールバックでもない、ましてや、禿げてもいない。ほいたら、ロング・ヘヤーなんか?この年で?」

「そうや、幸雄さんも、この似顔絵とはイメージが違う、別人になってる、ゆうてたし、ここのご主人も、別人かもしれん、ゆうてたから、この似顔絵からは想像でけん、風貌ながや」

「やっぱり、長髪、髭、ボウボウ。まるで、ルンペンやな」

「ま、まさか、乞食してるってことないですよね?ごめん、絶対ない、って、わたしは思っているんよ、ひかりちゃん」

 と、睦実が、ひかりに気を使う。

「姉ちゃん、それは言われん。けど、太夫さん、おうたら、不幸な結果になるかも、ってゆうたやろう?いやな予感がするなぁ」

「菜々子、あんたがゆうと、その通りになりそうや、なんか、感じるか?ウチらぁに見えんもん、見えてないか?」

「睦実さん、菜々子さん、あんまり、悪いほうの想像は辞めようよ。ひかりちゃんの気持ち次第、って太夫さん、ゆうてたから、そこまで、酷くない……、そう、思いたいけんど……」

「なんや、ボンまで弱気か?大丈夫や、もし、乞食かルンペンやったら、わたしが社長にゆうて、うちの会社で働けるようにする。そいたら、ルンペンから卒業や」

 小政の言葉に反応したのか、大人しく、寝そべっていたジョンが「ワン」と吠えた。

 立ち上がり、通りの東方向に顔と鼻を向けている。何か、異変を感じたようである。

「小政さん、ジョンが何か見つけたみたいだよ」

 と、ジョンの動作に気づいたS氏が言った。

 ジョンが今にも、走り出そうとしている。

「小政さん、綱、貸して。先に行っとくよ。勘定を早う、済ましてきて……」

 ジョンの首輪に繋がっている縄を小政から受取り、ジョンの好きなように行動を開始させる。人波の中へ、飛び出したジョンに引っ張られるように、S氏は走り出した。

 睦実、菜々子、八郎、ひかりがそれに続く。小政は、かき氷の勘定を慌てて、支払っていた。

 ジョンが向かった先に、人垣が出来ていた。その人垣を掻き分けるように、前に進むと、三人の若い男に囲まれて、朝顔の花が染め上げられた浴衣姿にオレンジ系の派手な帯をしめた、日本髪の人物がいる。

「おう、てめえ、鬱陶しいんだよう。眼ざわりなんだよう」

 派手なアロハシャツを着た、若い男がその人物に難癖をつけている。

 因縁をつけられた方は、黙って、荷物を大事そうに胸に両手で抱え、俯いている。

 反応のないことに、業を煮やしたのか、白い半そでのカッターシャツ姿の背の低い男が、

「おい、何とか言えよ」

 と、浴衣姿の肩を押した。

 浴衣の人物がよろめく。それをきっかけに、アロハシャツが、足払いを掛ける。もう一人の背の高い男がそれに続いて、足蹴りをした。

 浴衣姿の人物は、それでも、荷物を胸にしっかり抱いたままであったが、三人が、次々と蹴りを入れて行くため、とうとう、地面に丸くなって、伏せてしまった。

 その上から、なお、足蹴りを繰り返す。

「ワンワン」とジョンが吠える。

「ちょっと、あんたたち、どんな理由か知らんけど、無抵抗な人を足下にするなんて、男のすることとちゃうやろう」

 と、遠巻きにしている人垣の前に出て、睦実が、三人の若者に言った。

「何やと?おい、ネエちゃん、変な仏心は怪我の元やで、関係ないもんはサガっとき、これは、制裁や、黙って、見るだけにしときよ」

 と、三人の中では兄貴分なのか、アロハの小太りの男が、睦実を睨むように言った。

「制裁、って何よ?その人が、制裁されんとイカンような振舞いをしたって言うの?」

「やい、煩い女やなぁ。見てわからんか?この格好?こいつ、変態やで。こんな奴、野放しにしてたら、毒、ばら撒いてるようなもんやろう?害虫や、害虫の駆除してるんや、わかったか?」

「変態?害虫?」

 睦実は意味が解らず、少し前に足を運び、あとの二人に足下を喰らっている、浴衣姿の人物に視線を移した。

 背の高い男が、脇腹に蹴りを入れる。その勢いで、浴衣姿の人物の日本髪の頭髪が壊れた。いや、鬘(かつら)が外れたのである。その下からは、少し前に流行った『慎太郎カット』の短い髪が見えていた。

「お、男の人?」

 と、睦実が驚きの声を上げる。

「そうや、やっと気付いたか?こいつ、オカマや、お吉、ゆうて、気色の悪い奴や。害虫や」

「お吉さん?えっ、この人が、お吉さん?」

「な、何や?知り合いか?この変態の……」

「ちょっと、オカマが、何で、害虫なのよ。そりゃあ、世間では肩身が狭いかもしれへんけど、何も悪いことしてないし、この人、この辺りじゃ、有名なんやろう?何で、あんたらぁが制裁せんといかんのよ。あんたらぁ、何もん?そんな権限、与えられてる人間とは思えんし、そんな権限、誰も持ってないやろう?」

「いちいち、煩いにゃあ。邪魔する気か?おまんも痛い目に合わすぞ」

「へえ、痛い目に合わす?おもろいなぁ。やってみるかえ。無抵抗なオカマさんをいたぶるより、ちょっとは楽しいかもしれんよ。けど、大怪我するかもしれん。カマンがやろうね?」

 睦実の挑発に、蹴りを入れていた二人も睦実の方に視線を向ける。

「ネエちゃん、エライ、威勢がエイけんど、わしらぁを嘗めたらイカンぜよ」

「誰が、そんな汚い顔、舐める、弱いもんしか、よう苛めん輩やろうが、そっちこそ、女と思うて、嘗めたら、痛い目に合うよ」

「このアマ……」

 顔面を硬直させて、アロハシャツが睦実に殴りかかる。その拳を軽くいなして、同時に手首を掴む。体を捻るように、わずかに動くと、アロハシャツが宙に舞った。

 受け身を知らない素人らしく、地べたに背中から落ちて、呼吸困難になってしまう。

 残りの二人は、眼を丸くして、無暗に向かってこない。ふたりで、眼と眼を合わせると、小男の方がズボンのポケットから、折りたたみのナイフを取出し、刃を開いた。

「ネエちゃん、覚悟はできたかえ?そのきれいな顔に、醜い傷がつくかもしれんきね」

 と、気持悪い声で、脅かすように言った。

「ヤメとき、刃物出したら、打ち身じゃ済まんよ。こっちも本気になる。骨の二、三本、折れると思うよ。下手したら、一生、片輪になるかもしれんよ」

「ええい、煩い、もう遅いわ、とことんやっちゃる」

 白シャツの小男が、ナイフを手に突きかかる。睦実は、軽くそれをかわし、

「ボン、杖、貸して」

 と、片手を出した。

 S氏が、睦実から預かっていた樫の杖をその手に渡す。

 白シャツの小男は、気色ばんで、

「へん、年寄の杖なんかで、驚かされてたまるか。もう、遠慮はせんでぇ、覚悟しいや」

 と、ナイフを上段から切り降ろすように、睦実に襲いかかった。

 睦実は、今度は体をかわさず、振りおろしてくる男の手首を樫の杖で下からはね上げるように叩いた。

 ナイフが宙に舞う。そのナイフが地に落ちる前に、睦実の杖は、白シャツのみぞおちを、強く突いていた。

「グゲェ」と、獣のような声を上げ、腹を押さえて、男は膝から地面に崩れ落ちて行った。

 残ったのは、ノッポの男一人である。

 男の眼が、泳いでいる。どうやら、ガタイは一番良いのだが、喧嘩慣れしていないようである。とても、睦実には敵わないと理解が出来ているらしい。ただ、この場から一人、逃げる、という選択が出来ないのである。

 そこで彼が取った行動は、最初に、地面に叩きつけられた、アロハシャツの小太り男を介抱することであった。

「あ、兄貴、しっかりしてくれ」

 と、身体を揺する。

 アロハの男が、眼を開ける。そこへ、ジョンが近づき、

「ワン」と、大きな声で、吠えた。

「ワ、ワワワ……」

 ゴジラにでも出くわしたかのように、アロハの男は恐怖の色を顔表に露わにして、後ずさるように身体をずらすと、立ち上がり、一目参に走り出した。

「あ、兄貴……」

 と、ノッポがその背中に、声を掛けるが、振り向きもしない。

「ワン」と、ジョンが、ノッポにも威嚇の声を上げる。

「あんた、この、白シャツの小男、忘れんと連れて行きよ。それと、今度、また弱いもん苛めしてたら、これ位では済まんよ。一月くらい、入院する破目になるからね。よう、憶えときよ」

 睦実の言葉に、怯えるように、ノッポは白シャツの小男を抱えるようにして、アロハの男が走り去った方角へよたよたと逃げて行った。

「ワン、ワン」と、その背中に、ジョンが威嚇の声を再度発していた。

 群衆、いや、傍観者たちは、何事もなかったように散らばって行く。その中の一人に、S氏は視線を向けた。ほとんどの人間が、酔っ払いか、飲み屋の従業員かのどちらかであるのに、その男は、どちらでもない。しかも、この騒ぎの結末を快く思ってないように、「ちぇ」と、舌打ちをして、立ち去ろうとしていたのである。

「ジョン」

 と、S氏が、綱を引き、その男の足元にジョンを向かわした。

「な、何や、この犬」

 と、男が驚きの声を上げ、身を引く。

「ひ、ひろしちゃんやないの?」

 と、裏声のような声が、S氏の背中から聞こえてきた。

 その声に、驚いたように、急に男は、ジョンを避けるようにして、駆け出して行ったのである。

 声のした方を振り返ると、小政に介抱されている、三人に苛められていた、浴衣姿の人物が、まだしっかりと、胸に荷物を抱えたまま立っていた。

 日本髪の鬘は、地面に転がっている。慎太郎カットの髪と、濃い化粧、女物の浴衣と帯が如何にもちぐはぐであった。

 小政が、浴衣についた土埃を払っている。蹴られた背中や腹はたいした怪我ではないようである。

 S氏の視線は、大事に抱えている、荷物の方に注がれていた。

 縮緬の袋に包まれているのは、ひと目で、三味線とわかった。大事な商売道具なのだ。それ故、身を挺して、その袋を、暴漢から守っていたのである。

「さお、これが、太夫さんが言ってた、さおか。三味線の棹のことやったんや」

 その場にいるのは、睦実たち、石川三姉弟、小政にS氏、あとはひかりと浴衣姿の人物、それに、犬のジョンだけである。

S氏の言葉は、浴衣姿の人物以外には、容易に理解できたはずである。

「ワン」と、ジョンだけが、その言葉に反応した。


       7

「それで、どうなったがぞね?」

 翌朝、朝の惣菜作りや洗濯がひと段落したころ、この春、皇太子明仁殿下と、正田美智子さまのご結婚パレードの中継を見るために買ったナショナル製のテレビの前に座っているS氏にお寅さんが声を掛けた。

 お吉さんと呼ばれている、暴行を受けていた人物は、オカマの浪曲師、流しの演歌歌手、と言ってよいのか、三味線片手に、飲み屋で一曲歌い、小銭を稼ぐ生業をしていたのである。

「最近、『南国土佐を後にして』が流行っちゅうろう?お吉さん、元鯨部隊に居ったがやと。だから、元歌も知っちょって、評判になっちゅうがやと」

 この年の四月に発売された、ペギー葉山の歌う、「南国土佐を後にして」は、大ヒット中であり、ラジオから聞こえない日はない。

 元々は、陸軍第四十師団歩兵第二百三十六連隊――通称「鯨部隊」――の中で歌われていた曲であったらしい。前年十一月に「NHK高知放送局」テレビ開局の「歌の広場」と言う番組で、彼女は、嫌々歌ったようだ。ところが、それが、全国から、思わぬ反響を呼び、レコード化され、空前のヒットソングになったのである。

 浪曲の一節を歌っていたりした「お吉さん」であったが、元歌を知っていることもあり、両方を披露すると、これが、大受けである。すっかり、「柳町」の名物男ならぬ、名物オカマになったのである。

「それで、ひかりさんと、親子の対面はできたがかね?」

 昨晩、遅く帰ったS氏は、ひかりの父親らしい人物を突き止めたことは、お寅さんと千代に話したが、詳しいことは話せていないのである。

 いや、三人の暴漢から、お吉さんを解放出来たまでは良かったが、そこへ、巡査が現れて、騒ぎに対する事情聴取を受けたのである。

 巡査への対応は、小政が得意の雄弁で、巧く処理が出来た。

 だが、お吉さんは怪我の具合がわからないため、病院へ搬送されることになったのである。

 で、結局、ひかりは自分の名前も、母との関係も、何もしゃべれず、何も訊けないまま、帰って来たという次第であった。

「顔役さんのほうから、警察へ連絡入れて、お吉さんの病院も突きとめちゅう。幸い、検査の結果、骨折もしてないし、内臓や頭にも傷はないそうや。お昼過ぎには、退院する。そしたら、ここへ来てくれるよう頼んであるらしいよ。野上刑事さんが、引受けた、ゆうてくれたらしい」

「えっ?ほいたら、二階の部屋、キチンとせな。花でも飾っとこう」

       *

 その日の午後、刻屋の二階、「桐の間」には、ユリの花が生けられ、床の間には、山水画が飾られていた。作者は不明。お寅さんに言わせると、誰かの贋作であるらしい。

「じんまさんの実家から、持って来たもんよ。先代さんが、骨董好きで、どうせ、騙されたがやろう。けど、家にある掛け軸の中では、まあ、見栄えだけはするき、飾っちょくには、ちょうどエイワね」

 お寅さんは、お吉さんをヴィップと思っているらしい。そこで、見栄を張っているのである。

「おじゃまします」

 と、玄関から声を掛けて来たのは、長吾郎一家の「軍師」、小政である。後ろに、睦実を初め、石川三姉弟、ひかりの後ろに、なんと、顔役さんこと、長吾郎までが控えていた。

 ひかりは同年齢の菜々子、八郎と意気投合し、顔役さん宅に逗留しているのである。

「おやまあ、顔役さんまで、お揃いかね」

 と、お寅さんは笑顔ながら、驚いて見せる。

「お寅さん、わしも『井口探偵団』の一員やき、今回の結末ばぁは、きちんと知っちょこうと思うてね」

「顔役さん、探偵団は、もう、とっくに解散していますよ」

 と、千代が笑顔で言葉をつなぐ。

「いやいや、事件が起こったら、いつでも再結成や。小政が千代さんと腕比べしとうて、ヤキモキするき、付き合うちゃってよ」

「しゃ、社長……」

「何な、その通りやろうが、ここ、一週間、おまん、軍師の顔になって、エンジン最高潮やないか。千代さんと絡めて、そりゃあ、エイ気分やろうが」

「まあまあ、そう、小政さんを苛めんと、ウチも小政さんの狂言が楽しみで、おかげで、三つばあ、若返りますき。

 ところで、肝心の、お吉さんゆう方は?」

 と、千代が尋ねる。

「ああ、警察の野上刑事から連絡があって、さっき、病院を出る、ってゆうてた。すんぐ、来るろう」

「ほいたら、二階の部屋、用意してますき、上がって待っててください」

 と、千代が一同を「桐の間」へ案内する。

 みっちゃんが、間をおかず、冷たい麦茶を運んでくる。そこは、「阿吽の呼吸」である。

 玄関前の空き地に車の止まる音がして、

「ごめんください」と、若い男の声がした。

 千代が慌てて、階段を降りて行く。

 玄関の開いたままの硝子戸の前に、顔見知りの野上刑事の笑顔があった。

 その後ろに、着物姿の痩せた男性が立っている。縞柄の粋な着流し風の装いである。

 背中には、三味線を入れた縮緬柄の袋を、肩から掛けている。髪型は「慎太郎カット」。化粧はしていない。その頬には、火傷なのか、古いミミズ腫れの傷が浮かんでいた。

 あらあら、今日は「オカマ」さんやない、立派な男衆さんや、と千代は、初めてお目にかかる、お吉さんを見て、心の中で呟いていた。

「千代さん、こちらが、吉村小吉(こきち)さん。通称、お吉さんです」

 と、野上刑事が紹介する。

 男は無言で頭を垂れる。

「まあまあ、お暑い処、わざわざ、ご苦労様です。お吉さん、怪我は?昨夜は大変やったそうですね?いやや、こんなとこで、立ち話なんて、はよう、上がってください。皆さんお揃いですから」

 ふたりを、桐の間へ案内する。その間、お吉さんは無言である。千代はふと、仁吉や十兵衛を思い浮かべた。暗い過去か、特殊な人生を選択した男、そう感じていたのである。

       *

「昨夜はお助けいただき、ありがとうございました」

 と、座敷に入るなり、畳の上に正座して、両手をついて、一同に深々とお辞儀をする。

「私、吉村小吉と申します。しがない、流しの浪曲師でございます」

 と、自己紹介を続ける。

「いやいや、硬い挨拶は抜きにしいや。わざわざ、来てもろうたんはこっちや。遠慮はなしにして、そこへ座り。まあ、冷たいもんで、喉を潤してからや」

 そう言ったのは、顔役さんである。

(そうか、この場を纏める、貫禄があるのは、顔役さんか、うちとこのハチキンさんや。お母さんやと、ちょっと、角が立つ。そこで、小政の兄ィさん、顔役さんを連れてきたんか。流石、軍師や……)と、千代は思った。

「おじゃまして、エイかな?大人の会話に混ぜて貰っても?」

 と、S氏が廊下から声を掛ける。

「おう、ボン、主役が居らんと話にならん。遠慮せんと、入ってき。流石にもう一人、いや、一匹のジョンは連れて来れんろうけどな」

 と、顔役さんが笑う。

 刻屋の長男です。と、S氏が畳の上に頭を垂れ、お吉さんに自己紹介をする。

「そうや、自己紹介せにゃあ。わしは、近所で『顔役』ゆわれゆう、山本長吾郎というもんや。小さな会社を経営しゆう。こっちの男が、従業員で切れもんの、政司、通称小政、ゆう男や。

 おい、小政、あとは、おまんが紹介し」

 と、顔役さんは小政に言葉を投げかけた。

 小政が、お寅さんから千代、睦実、菜々子、八郎と紹介し、最後に、

「こちらは、東ひかりさんいいます。訳あって、人捜しに土佐に来ていますんや」

 と、ひかりを紹介した後、間を取るように、お吉さんを見つめる。

 お吉さんとひかりの視線が、交差する。

 沈黙が座敷の中を漂う。ユリの花の香りが流れてくる。

(上手いなぁ、これも小政さんの狂言なんや)

 そう感じているのは、千代だけではない。S氏と睦実も小政の、場の盛り上げ方に感心していた。

「ちょっと、これを御覧戴けますか?」

 と、ひかりの持参してきた、手札判の写真――菜々子が鉛筆で修正したもの――をお吉さんの前に差し出す。

「そこに写っている、女性は、このひかりさんのお母さまです。捜しているのが、その横に写っている、男性の方なんですが、お心当たり、ございませんか?」

 答えは、ほぼわかっている。が、本人の口から、これは自分である、と言ってもらいたかったのである。

 写真を手にしたまま、お吉さんは、言葉を発しない。じっと、写真を見つめたまま、何かを頭の中に巡らせているかのようである。

 ひょっとして、記憶喪失?と、千代は思った。戦争の後遺症で、記憶の一部分が喪失している。そんな事例も聞き及んでいたのである。

「心当たりなら、あるにはありますが、この男を捜し出して、どうするおつもりですか?」

 お吉さんの反応は、一同の予想とは、かなり違うものであった。

 感動的な、親子の対面、それを期待していたものが大半であったのだ。

 ひとり、S氏は、こんなことになるかも、と予想していた。それは、太夫さんが、この人捜しの結果を楽観視していなかった、何かまだ試練のようなものが起きる、そんな予感がしていたのである。

 すんなり行かんとは、思うちょったけど、さて、どんな結末になるかな?と、隅に控えて、一同の顔に注視しているS氏であった。

「この男性は、ひかりさんのお父さまと思われる方です。このおふたりは、正式に結婚されておりません。どんな事情か、わかりませんが……」

「この男性が、ひかりさんのお父さま?どなたが、そう、おっしゃったのですか?」

 と、お吉さんは落ち着いた口調で問いかける。

「この女性の方、つまり、ひかりさんのお母さまがそう、おっしゃられたのでしょうか?」

 と、念を押すように問いかける。

「いや、確定的ではないのです。可能性が高い。そう、考えているのです」

 小政は、太夫さんが断言したことは言えなかった。証拠はないのである。血液検査でもしない限りは、憶測の域を脱してはいない。

「ただ、お父さまでなくても、お母さまの『初恋の人』ということは、訊いております。そこで、本人を捜しだし、その辺の事情、お母さまとの思い出など、お訊きしたいと、そう願っているのです」

「この、建物や、背景の絵はどなたが描いたのですか?写真とは違う、鉛筆画のようですが?」

 中々、肝心な処へ話は進まない。時間稼ぎをしている?と、S氏は、お吉さんの横顔を眺めながら、そう感じていた。

「それは、この、菜々子さんが描いたものです」

 と、小政が答える。

 会話、問答は小政とお吉さん、ふたりのものとなっている。他の者は、息を潜めている、という処である。

「想像して描いたのですか?」

「いえ、ピンボケの写真を、じっと見つめ、その画像が頭に浮かんできたそうです。この菜々子さんは特殊な能力をお持ちです。常人には見えないが、確かにそこに写っている風景が見えたそうです」

 小政の説明に、お吉さんは無言で肯いた。それは、真から、菜々子の能力を肯定しているようであった。

「お心当たりがある、とおっしゃいましたが、それは、どのようなことでしょうか?」

 少し間を取って、小政が問答を再開する。

「心当たりはある。しかし、それをお話して、よいものか?この娘さん、ひかりさんでしたか?にとって、よい、心当たりとは思えないもので……」

(太夫さんと同じこと言ってるなぁ……)と、S氏は次の展開を予想しながら、考えていた。

 そこに、予想外のひとから、予想外の発言が飛び出すのである。

「吉村小吉さん、仰いましたな?間違いなく、あなたのご本名ですな?」

 小政とお吉さんの問答に割って入ったのは、腕を組んで聴いていた、顔役さんである。

「はい、何で、わたしが偽名を使わな、ならんのです?」

「いや、結構、それを確認しておきたかっただけです。それと、この子」

 と、ひかりさんに視線を移して、

「この子は、充分な覚悟を持って、ここに座っている。どんな結果になろうとも、受け入れる。そう言っているんです」

 と、ここで、少し間をおく。

「覚悟が出来ていないのは、小吉さん、あなたの方でしょう?」

「えっ?何故、わたしが……」

 と、長吾郎の指摘に、お吉さんは驚きと動揺を隠せない。

「この写真に写っている方は元『鯨部隊』所属の、吉村小吉中尉、この当時は、少尉さんだったかもしれませんが、そのことは、確認が取れておるのですよ」

 この場の、他の誰も知らない事実を、顔役さんはあっさりと披露したのである。

「鯨部隊には、わし処にいた、組のもんも所属しておりましてね。生きて帰ったもんは少ないが、知り合いも居る。昨晩、この小政からあんたのことを訊いて、元鯨部隊に居ったらしい。そこで、知り合いにこの写真を今朝方、見てもろうた。三人が三人とも、吉村中尉に間違いない、そう、ゆうてましたわ。まさか、同姓同名の吉村さんが、同じ部隊には居りませんよね?と、ゆうことは、この写真の人物は、あなたですよね?」

 お吉さんの顔色が変わる。無言のままである。

「しゃ、社長、何時の間にそんなこと調べてたんですか?」

 と、小政が驚きの声を上げる。

「わしも『井口探偵団』の団員やで。情報集めるんは、探偵団の常識、違うか?」

 もう、探偵団は解散してます。と突っ込みたい、千代であったが、この場で、顔役さんには言いだせない。それより、顔役さんがわざわざこの席に顔を出したのは、単なる好奇心からではなく、この情報を持っていたからであることに、今、気付いたのである。

「なあ、吉村さん、訊けば、あんた、かの、吉村寅太郎(とらたろう)の縁戚らしいやないか?しかも、軍隊では、勇猛果敢、部下からも慕われる、男丈夫やったそうやな?」

 吉村寅太郎は、土佐が生んだ幕末の志士である。龍馬に脱藩を奨め、自らは、龍馬に先んじて藩を捨て、天誅組を組織し、大和の地で倒れるのである。

「この写真の男は、あんたで間違いない。この写真を手掛かりに、探偵団が、あんたに辿り着いた。そして、名前も過去の経歴も確認した。覚悟を決めるんは、あんたやろう?戦争が終わって、今日まで、どんなことがあったか知らん。おそらく、人生が、百八十度、変わったやろう?わしも息子や組の若いもんを亡くした。お国の為、ゆうて、天皇陛下の為、ゆうて、大勢のもんが死んでいったワ。それで、戦に敗れたら、それまでの考えが間違うてた、戦争しかけた日本が悪い、軍人が悪い、そうゆう世間になってしもうた。確かに、戦争は悪い、悲惨や。けど、若いもんは本当にアジアの国々を欧米列強から解放する、その理想を持っていたと思うで。価値観ゆうんは、その時々で変わる。普遍の価値観など、ありはせん。理想はあるが、現実との乖離は必ず起きる。共産党が悪とも言えん。資本主義が悪かもしれん。それは、後世の歴史家が判定するもんや。

 いや、話が、年寄の愚痴になってしもうた。

 小吉さん、小吉さんゆうたら、おそらく、勝海舟の父上の名を、親御さんが授けてくれたんやろう?男らしい立派な名前や。このひかりさんの父親、そう名乗りを上げて、エエんと違うか?覚悟を決めたらどうや、男らしゅう」

 長吾郎の説得に、お吉さんは俯いたまま、頷く。その眼には光るものがあった。

「昨晩」と、お吉さんは言葉を発した。詰まりながらも、話を始めたのである。

「昨晩、こちらの方々にお助けいただいた折、ひかりを見て、ひと目で和子の娘と解りました」

 和子というのは、写真に写っている、ひかりの母親のことである。

「そして、自分の娘であることも、一瞬に解りました」

 そこで、言葉を区切り、お吉さんは帯の間から、一枚の紙片を取り出す。それは、眼の前に置かれていた、手札判の写真と全く同じ、菜々子が書き足す前の写真であった。

「先ほど、写真に心当たりがある、と言ったのは、これです。同じ写真をわたしも持っていたのです。和子さんと一緒の唯一の写真です。戦地への便りの中に同封されておりました。結婚を親に承諾してもらうため、土佐に招いたのですが、頑固もんの父に反対され、その日の午後には、召集が来て、結局、別れる事になりました」

 お吉さんの打ち明け話が途切れ途切れながら始まった。

 お吉さん、いや、当時は小吉である、は、吉村家の次男坊。早くから、軍人を志望しており、陸軍の志願兵であった。ひかりの母親の家系も軍人を輩出する家系であり、その関係から二人は知り合い、結婚を考えていたのである。和子の両親は何ら反対をしていなかった。ところが、小吉の両親、いや、祖父や親族一同、この結婚を反対したのである。

 その理由は、和子の家系が、吉村寅太郎を自害に導いた、天誅組事件、その敵方の幕府役人の家系だったのである。

 何年前の話や?と、小政は思った。しかし、当時の結婚は、本人同士ではない、家同士の結びつきが大きいのである。和子の家では寅太郎のことなど知らない。家の中でも、そんな話は伝わる訳がない。当時の幕府の役人として、職務を忠実に全うしただけであり、誰かの遺恨を買うなど、思いもよらなかったであろう。

 しかし、吉村家では、祖先の寅太郎は英雄であり、志半ばで、この世を去った無念の思いは、龍馬以上であったかもしれないのである。その仇ともいうべき、幕府の役人の末裔と縁を結ぶ、到底、容認できるものではなかったのである。

 召集を理由に、小吉は和子との縁を切ってしまおうとした。苦渋の決断であった。が、ひと夜の関係が、ひかりという命をこの世に誕生させた。

「わたし、自分の子供の名前は決めているんです。男の子なら、ひかる、女の子なら、ひかり、この世を明るく照らす、そんな人間になってもらいたいのです」と、和子は言った。

 女の本能で、子供が授かったことを確信していたかのようであった。

 召集を受け、鯨部隊の一員として、小吉は戦場を駆け巡り、それなりの戦果もあげた。部下からも慕われる立派な軍人に成長していった。

 が、彼らの奮闘もむなしく、行音放送が流れ、彼らは敗残兵となったのである。

 多くの部下、同僚が命を落とした。同じ、土佐の人間が多かったのである。生き残った自分を彼は責め続け、収容所から、内地へ帰還した頃には、男丈夫の面影はなかった。

 いや、男を捨てようとしたのである。男は賤しい、卑劣であり、裏切りものである。女は気丈で、賢く、命の大切さを良く解っている。そんな心の葛藤が、彼を「オカマ」と呼ばれる、路へと進ませたのである。むしろ、半分、人間を捨てた、と言った方がよいかもしれない。

 実家の吉村家は兄の代になっていた。兄は病弱で、兵役にも取られなかったが、戦後の食糧難で、ますます、健康を害していた。

 息子が一人いる。小吉にとっては、甥にあたる人物である。

 兄は、その後見人になってもらいたいと、小吉に頼んだが、小吉は首を横に振り、家を出て行った。妻もめとらず、長屋暮らしを始め、化粧をし、鬘を被って、「お吉さん」と呼ばれるようになった。

 世間の目は冷たかったが、誰も、余裕がない時代である。人のことなど構っていられない。男だろうが女だろうが、オカマだろうが、生きて行くことで必死なのは、みな、変わりなかったのである。

 小さな飲み屋で働き、幼い頃に習った三味線と、小唄、浪曲を披露する。これが、受けた。物珍しさもあって、評判となり、生計が立てられるようになった。と、同時に、風当たりも強くなっていった。

 世の中に少し余裕が出来てきたのである。贔屓してくれる者と、変態扱いされ、毛嫌いする者が顕著になった。昨晩のように、殴りかかる者、石をぶつける者まで出てきた。が、応援してくれる、飲み屋街の者が増えてきたのである。

 オカマは市民権を得ていなかったが、お吉さんは、町の人気者、特に、去年の暮れ辺りからは、持ち歌の「南国土佐を後にして」が、人気を博し、柳町界隈では、有名人になっていたのである。

 しかし、所詮、流しの浪曲師であり、日銭稼ぎの渡世人である。しかも、世間からは白い眼で見られる、「オカマ」である。ひかりの顔を見たとたん、自分の姿を恥じてしまった。とても父親と名乗れる人間ではないと、思いこんでしまったのである。

「できれば、『吉村小吉』その写真の人物は、死んでしまった、そう伝えたかったのですが、こちらの探偵団は優秀ですね、嘘は通用しませんでしたね」

 お吉さんの身の上話が終わった。

「だが、こうしてお話を覗うと、あんたは俗に言う『オカマ』やない。同性愛者でもない。ただ、女を演じているだけ、まあ、歌舞伎の『女形』にもなりきれていないが、そこらへんを芸風としているだけやな」

 と、顔役さんが総括をする。

「そうですよ。なんちゃあ恥じるこたぁない。戦後を立派に生きてきた、その生活の方法が、少し、世間様と違うちょっただけ、本質は立派な男丈夫やないの。何を恥じることがあるかね」

 と、お寅さんが繋ぐ。

「そしたら、ひかりさんに、『父親の小吉や』と言ってもらえますね?」

 最後に千代が、お吉さんの背中を押すようにそう言った。

「はい」

 と素直にうなずいて、お吉さんはひかりの前に膝を進め、

「わたしがあなたの父親の吉村小吉です。こんな親で申し訳ないが、許してもらえますか?」

 と、上擦りながら言ったのである。

「はい、想像以上の素敵なお父様です。お母様が本当に好きだった人、それが、今、良く解りました」

 ひかりの眼から一筋、その名前どおりの「ひかるもの」がこぼれていった。

       *

「本当にありがとうございました。こんなに早く、古い写真の謎を解明してもらえて、おまけに、絶対無理と思っていた、お父さまに名乗りを上げてもらえるなんて、『井口探偵団』って、本当に優秀です。これからも、わたしのような相談を受け付けてあげてください」

 ひかりは感動のあまり、何度も畳の上でお辞儀をする。

「それじゃあ、警察は役に立たん、言われてるみたいですなぁ。確かに、ここの連中、いや失礼、お歴々は、才能豊かなことは、認めてますがね」

 と、今まで出番のなかった、野上刑事が、頭を掻きながら言った。

「ひかりちゃん、何度もゆうようやけど、探偵団はもう解散してるんよ。そりゃあ、人助けは、いつでもまかしちょいて、って言いたいけんど、今回みたいなことは、例外中の例外よ」

 と、千代が、野上刑事の言葉を無視して言う。

「母ちゃん、事件はまだ終わってないよ。探偵団、解散できんと思うよ。野上さん、ひょっとしたら、警察の手を借りることになるかもしれんよ」

「な、なにゆうてるの?」

「ボン、引っかかるもんがあるんやな?」

 同時に声が掛かる。千代と小政の言葉である。

「うん、昨晩のチンピラ三人組。お吉さんに確認したいがやけんど、あの三人、顔見知り?以前から難癖付けたりしてたの?」

 と、S氏がこの場の主導権を握った。

「いや、初めて見る顔でした。いきなり、変態だの、制裁やだのと、喰ってかかってきて、殴られたんです。商売道具の三味線を持ってたから、抵抗もできませんでしたし」

「最近、そうゆう輩、居った?」

「いえ、最近は、歌が評判になって、誰も苛めるような、言動は無くなっておりましたのに」

「お吉さん、武道の経験、あるよね?軍隊にいたし、昨日の暴行でも、ほとんど軽傷やったし、防御が完璧やったもんね」

「はい、殴られ蹴られても、急所は外していますし、呼吸の仕方で、怪我も負い難い技術も身につけています」

「そうやろうね。あいつら大した腕やなかったよね、あっ、睦実さんの腕が凄すぎたのかもしれんけんどね。

 それより、気になったのは、あの時の野次馬の中に、お吉さんの顔見知りが居ったろう?確か『ひろしちゃん』って、呼んだら、慌てて逃げていった若い男、あれ誰?どうゆう知り合いながです?」

「そうや、ジョンに威嚇されてた男が居った」

 と、小政がひざを叩く。

「ああ、あれは私の甥です。実家の兄の息子です。兄は三年程前に亡くなって、本家はあの洋が継いでます。まだ独身です。三十にはなってないけど、ブラブラしてますワ、職にもつかずに……」

「甥ごさん?そしたら、身内が怪我してるかもしれんのに、声を掛けられて、逃げだすなんて、常識では考えられん行動やない?」

「まあ、本家とは縁が切れてますし、わたしを毛嫌いしていると思いますよ」

「けど、あのひと、三人のチンピラが睦実さんに退治されたのを見て、『チィ』って舌打ちしたよ。だから、ジョンを嗾けてみたがやけんど、どうも、あの三人とグルやった気がしてならんがよ」

「ボン、それどうゆうことや?」

「小政さんなら解るろう?洋、ゆう人が、黒幕、つまり、三人を雇うて、お吉さんを襲わせたがやないかと、疑いの眼を持ってしもうたがよ」

「まさか、洋ちゃんがわたしを襲うても、何の得にもなりませんよ。却って、吉村の名を汚すってことになりかねない。だから、今まで、わたしには近づいたこともないくらいですから……」

「その、近づいたこともない人間が、何故、あの場面に居るがやろうね?しかも、舌打ちをして悔しがる、これはおかしいと思わん?」

「けど、お吉さんがゆうたように、動機がないですよね?」

 と、野上刑事が、警察官らしい発言をする。

「うん、動機ね?それが、あるかもしれん、いや、これは、この探偵団が作ってしもうた動機かもしれんよ」

「あっ、まさか、マッちゃんのテンゴウ噺……」

「小政さん、流石、ホームズの生まれ変わり、まあ、自分が播いた種でもあるけどね」

「何々?テンゴウ噺って?」

「あっ、そうか、母ちゃん、顔回の生まれ変わりでも、一を聴いてないから、十は解らんよね」

「あんた、わたしは顔回の生まれ変わりやない、言いゆうろう、あんたはルパンの生まれ変わりかもしれんけんど……」

「いや、千代さん、わたしから説明しますワ」

 と、播いた種を刈り取るように小政が話を受ける。

「今回の人探し、似顔絵をばら撒いたのは、知ってますよね?そこに、マッちゃんが噂を付け足したがです。そのテンゴウ噺が、似顔絵の男性に巨額の遺産相続の話が持ち上がっている、とゆうもんです。つまり、お吉さんに、夢のような大金が渡る可能性があると噂をばら撒いて、探しだす情報を収集したがです。

 いや、わたしは、当初、重大な事件の関係者にしよう、ゆうたがですよ。けど、それじゃあ、誰も関わりを恐れて、ゆうてこん、金が絡まんと、儲け話やないと、と、マッちゃんがゆうもんで……」

「ははあん、その口車に小政さん、乗ってしもうた、ってわけね?そこの辺は、マッちゃんが一枚上手ながやね。それで、その、洋、ゆう甥ごさんがどう係わってくるの?」

「母ちゃん、そこまで聴いたら、あとは九つを知りや、顔回やろう?」

「顔回やない、唯の主婦です。けど、解って来たわ。甥の洋さん、お吉さんの唯一の相続人やもんね。ひかりちゃんが現れんかったら。巧う行けば、その相続権で、大金が転がり込む……」

「えっ?そいたら、似顔絵で、洋、ゆう男は、お吉さんやと気づいてたんか?」

「ばあちゃん、甥やで、お吉さんの若い頃も、オカマに、いや御免、女装する前も知ってて当たり前やんか」

「ほいたら、顔役さん処へ情報持ってきて、お礼をもろうたら……。そうか、お礼より、遺産を横取り、と考えたわけか……」

「ばあちゃん、そこまではまだ確定できんがよ。そんな狙いがあったかは、これから調べてみんとね。ただ、動機はある、ってことだけ、だから、事件はこれから、ゆうたがよ」

「洋が……、いや、あいつ、金に困ってるかもしれんなぁ。なにせ、本家の財産、食いつぶしているだけやから、それに、博打にも手ェだしているみたいやから……」

「博打?それ、競輪、競馬、パチンコ程度ですか?」

 と、野上刑事が確認する。

「いや、やくざが絡んだ、野球賭博や非合法の賭博場にも出入りしているみたいで……」

「そりゃ、例の○○組の新しい財源ですワ。これ、内緒の話、杉下さん、今、そっちの件で、忙しそうでしたから……。こりゃ、思わぬところから、エイ情報を頂きましたよ。その洋を見張って、何処かにある賭博場を手入れできたら、大手柄ですワ。やっぱり、ここへはちょくちょく顔を出しとこう。坂本先輩、出世するわけや」

「どう思う、小政さん、ヤクザの賭博の手入れで、この事件終わりにする?」

「ボンは物足りんがやね?よっしゃ、もうひと捻り、狂言を描こう。その、洋君をご招待しよう。遺産相続の関係者ゆうてね。それで、ちっくと、いたぶって、いや、脅かして、色々白状してもらおう。その話の中に、賭博の話も入れて、杉さんに情報を流そう。そいたら、警察のメンツも立つ、洋君を罪に着せんで済むかもしれん。できるだけ、悪人は作りとうないきにね」

「さすが、軍師の小政の兄ィさんぞね。アテも、罪人はなるべく少ない方がエイと思うぞね。洋、ゆう子も、魔が差しただけやろう。博打も早うに辞めれたら、傷口も軽うて済むろう?」

「ほいたら、野上さん、警察は、少しの間、傍観を願いますよ。手柄は、野上さんに行くようにしますき」

「いや、暴力団は僕の担当やない。しかもここでは、僕は単なるオブザーバーやから、見守らせていただきますワ。小政さんの狂言、ほんま、楽しみですワ。坂本先輩、大阪で、苦労してるやろうなあ。こんなブレーン、あっちには居らんやろうし……」


        8

 翌日、新たな狂言を胸に、お吉さんに教わった、越前町の吉村家の本家を訪ねてきたのは小政と睦実である。場所は、城西中学校の近く、桜馬場に隣接するあたりである。

 小政は薄いベージュ色の麻の背広にカンカン帽を被り、手には扇子を握っている。

 少し、後方を歩く睦実は、白いブラウスに、黒の細身のスカート、大きめの眼鏡を掛けている。髪型も纏めて、お団子にしており、一昨晩の暴漢を退治した女性とは、まず解らないであろう格好である。そして、手には黒い事務鞄を抱えている。

「ごめん」

 と、教えられた地番、『吉村』と、濃い墨で書かれた表札を確認して、門前で声を掛けた。

 少しの間があり、奥の玄関の引き戸が開く音がして、家政婦と思われる、中年の女性が、割烹着姿で、急ぎ足でこちらに向かってきた。

「こちらは、吉村洋さまのお宅でしょうか?」

 無言で、会釈する女性に、睦実が先に声を掛けた。

「はい、左様ですが、どちらさまでいらっしゃいますか?」

「私、こうゆうもんですが、洋さま、ご在宅でございましたら、重要な用件がございます。お取次を願いたい」

 小政が胸を張りながら、つまり、威厳を表に現わして、一枚の名刺を差し出す。

「弁護士の都筑さま……」

 と、女性は名刺の肩書を確認し、少しお待ちください、主人に取り次いで参ります。と、踵を返した。

 日本家屋の客間であろうか、広い座敷の間に案内され、大きな一枚板――欅か、橡か――の座卓の前に、これまた、分厚い座布団が敷かれ、その上に、小政と睦実は腰を降ろしている。

 天井と鴨居の間には、吉村家の祖先の写真、肖像画が、男女合わせて七名ほど飾られている。その中に「寅太郎」の肖像画があることに、小政は気がついた。

 先ほどの割烹着姿の女性がお茶を運んでくる。麦茶でなく、熱そうな緑茶である。

 女性が一旦、座敷を離れ、すぐに扇風機を抱えて戻って来た。

 ブーンという羽根の音と共に、部屋の空気が新鮮なものに代わって行った。

「いやぁ、お待たせしました」

 と、一昨晩、柳町でちらっと見かけた、軽薄そうな二十代後半の男が、半袖シャツ姿で入ってくる。鴨居の肖像写真の誰にも似ていない、品のない顔である。

(ご先祖さん、泣いてるか、苦虫潰しているな)と、小政は心中呟いた。

「弁護士の都筑さん言いましたか、何の御用ですかな?悪い知らせでしょうかな?わたしの友人が、悪さをして、その弁護の件とか……」

(どんな友人と付き合ってるんや?この前の、チンピラ連中、あんなんばっかりなんやろうなぁ)と、これも、心中の呟きである。

「いやいや、刑事事件ではございません。民事、遺産相続のお話です」

「ほう、遺産相続?うちに、まだ、そんな親戚、居ったかな?」

「御親戚ではありませんが、洋さまの叔父上、小吉さまに、ひとかたならぬ、ご恩を受けたお方が、御遺言を残されまして、いや、小吉さま、と解るまで、随分、苦労させられたのですが……」

 例の、マッちゃんの「テンゴウ噺」をここでも狂言に取り込んでいるのである。

 少し間を取り、洋の様子を覗う。

「ほほう、叔父にそんな、遺産を残してくれる、奇特な方が居ったんですか?」

 そんな、洋の反応を見た小政は、

(やっぱり、知ってたんやな、知らんかったとゆう芝居が見え見えや)と、またまた、心中での呟きを発する。

「で、何故、そのことで、我が家にいらっしゃったのですかな?叔父はここには居りませんよ。もうずいぶん前に、我が家とは縁を切った状態ですから」

「はい、状況が少し変わってまいりまして……」

 と、言葉を止める。

 ここからが、新しい狂言の始まりである。

「私どもの依頼人が探している人物、それが、吉村小吉さまと判明いたしまして、さっそくご本人さまにお目にかかり、遺言書の内容をお話しいたしました。もちろん、小吉さまには、お心当たりがある。が、そんな大金を受け取る訳にはいかない、と、仰られるのです。自分は世捨て人であり、金はまあ、今の仕事、流しの浪曲師で生活できるくらいは稼げている。蓄えも少しはある、とのこと。しかし、それでは、こちらの依頼人に申し訳が立たない、と申し上げると、それなら、甥にでも譲ろう、こう、おっしゃいました。甥とゆうのは、洋さま、唯おひとり……」

 言葉を切り、洋の顔色を覗う。あからさまに、表情が崩れていくのが解る。

(こんな単純な、ホラ噺を信じるとは……、却って、面白みに欠けるなぁ)と、狂言師としては、手応えを感じているのか、いないのか……。

「僕に、譲るとゆうのですか?そんな大金、いや、幾らか、聴いてなかったですが……」

「はい、但し、幾つか条件がございましてな」

「じょ、条件?」

「おい、君」

 と、傍らに座っている、睦実に声を掛ける。

「条件をご説明してあげなさい」

「かしこまりました」

 と、睦実は、眼鏡を指で持ち上げるようにして、黒い鞄から取り出した書類を読み上げる。

 一昨晩、仲間の三人を、軽くあしらった、女丈夫と同一人物とは、まるで気づいていない、洋である。

「条件、その一、洋が、正業につくこと。その二、妻帯すること。その三、ギャンブル等、悪癖を止め、悪友と、縁を切ること。その四、先祖の霊をまつり、本家の繁栄に努める約束をしたためること。その五、今後は、世のひとのため、正義を貫き、悪を断つ、行動を起こすこと。以上でございます」

「つまり、五カ条の誓約を設け、これ全てが達成できた段に、相続権が発生する、そうゆう条件付きでございます。如何でしょうか?それほど、難しい物はございませんな、ようするに、正義感を持って、妻をめとり、普通に暮らせば善いわけですからな。ただ、気になりましたのは、第三条、ギャンブルと悪友、ですな。洋さまには、現在、こうゆう、お心当たりがお有りですかな?小吉さまがご心配なさるような、悪癖、悪友が、お有りとは思えないのですが……」

「い、いや、その、悪友とかは……」

「正直におっしゃっていただきたい。これは、重要事項ですぞ。条件に違反しておれば、相続権は無くなりますから、もし、お心当たりがあれば、隠さずにおっしゃってください。そして、何か不都合、縁を切れない理由がお有りなら、当方にて、解決のお手伝いもいたします。もちろん、内密に、費用はこちらの負担で……」

「じ、実は……」

 と、洋は観念したように告白を始める。

(ああぁ、もう少し、しらばっくれるとか、粘って欲しいなぁ。まるで、手応えのない奴や)小政の心中の呟きが続く。

「実は、悪い輩に纏わりつかれておりまして……。

 吉村孝夫という、親戚、遠縁の男がいたんです。年は二、三歳、上でしたか……」

(うん?吉村孝夫?どっかで聞いたことがある名前やな……)と、小政は、ふと思った。

 洋の告白は次のようなものだった。

 その、孝夫は不良少年であり、親戚の中では極潰し、と毛嫌いされていた。ただ、妙に、洋とは気が合い、彼も、洋には優しく、また、色々世話を焼くし、面白いことも教えてくれた。まあ、親戚の中で、年が近く、扱いやすい洋を、弟分にしたかったのであろう。

 この孝夫、成人する前に、盗みの罪で捕まった。初犯であり、未成年であったため、重い罪にはならず、放免されたが、吉村家からは絶縁である。

 孝夫は、悪癖から抜け出せず、○○組の庇護下に入ってしまう。

(ああ、例の、質屋の善兵衛さんの事件で、時影に刺されて殺された、○○組のチンピラか……)と、小政は二年前の事件を思い出した。

 洋と孝夫の関係は、続いていた。つまり、善からぬ方向へ、洋は歩みを進めていたのである。

 金をせびられ、ギャンブルにのめり込まされ、孝夫の仲間にも紹介され、ずるずると、今日に至っているのである。孝夫が、殺された後も、その仲間との縁は切れないでいた。但し、洋は○○組の構成員にはなっていない。

(おそらく、まるでヤクザの才能?なし、使い走りにもならんがやろう……)と、小政は、洋の話に、頷きながら、想像していた。

「それで、ギャンブルと仰いますのは、どのようなことですかな?」

 と、小政が追及する。

 洋は言葉に詰まってしまう。正直に話せない部分があるのであろう。

「何事も、包み隠さず、お話しいただかないと……、お解りでしょうね?」

 小政が顔を突き出すようにして、念を押す。

 おずおずと、洋が、野球賭博と、サイコロ賭博の現状を話す。

「いけませんなあ、競輪・競馬なら、公営ギャンブルですが、それは非合法、法律に触れる行為です。叔父上が心配するのも当然ですなぁ。

 まあ、大丈夫、私どもにお任せくだされば、洋さまがそうゆう場所に出入りしていたことをもみ消して、なお且つ、そうゆう、いかがわしい場所を、この世から抹消しておきましょう。その、賭博場を教えていただけますかな?少し荒療治になりますが、悪い芽は、早々に、しかも、徹底的に摘んでおく必要がありますからなぁ。

 それと、悪友、とおっしゃる方たちにも、お灸を据えとく必要がありますなぁ。こちらも、包み隠さず、教えていただけますね?後々、不都合が起きんように、徹底的に……」

       *

「それで、洋とゆう男は、ベラベラと白状した、ゆうことかね?」

 その日の午後、刻屋の玄関先、土間のいつものテーブルに、お寅さん、千代、S氏、小政と睦実が座っている。

 お寅さんの質問に、小政が、ため息交じりで、

「はい、いとも簡単に。却って、拍子抜けですワ。もうちょっと、捻くれてるかと思ってたんですが、これでは、もう、我々の出番、無くなりました」

 と、答えた。

「それで、警察に通報したわけ?」

 と、千代が尋ねる。

「そうです、野上さん通じて、杉下さんに情報流して、今夜にでも、一斉摘発ですワ。○○組の資金源を断つ、いうて、杉さん、張り切っているそうです」

 洋は、小政――弁護士の都筑と称している――に、今夜、某所で賭場が開かれることを正直に話し、その場所、そこへ出入りできる、合い言葉を伝えたのである。

 警察の内定でも、ほぼ、その辺りと目星をつけていたらしく、摘発準備は、迅速に行われているようである。

「それと、洋の悪友、三人組の方は……?」

「そっちは、まだ確定的ではないんですが、今夜の摘発で、捕まったら、それまでですが、賭場に出入りしてなかった場合には、こっちで、面倒見ることになりますね」

「面倒見るって、どうするがぞね?」

 と、お寅さんが尋ねる。

「まあ、うちのもんが、ちょっと、脅しかけます。それで、大人しゅうなりますよ。ほんの、三下、それ以下の、ひよっこですから……」

「それで、この相続の話、嘘やった、と洋にバレたらどうするの?いつかはバレるでしょう?こんな、テンゴウ噺……」

「まあ、すぐにはバレんけど、その時は、お前の為を思って描いた狂言や、と、お吉さんに言って貰いますわ。洋にしたら、賭け事の借金、無くなるんやから、損したわけやないし、悪縁から手が切れる訳やから納得するでしょう。それに、条件のうち、正業に就く、と、嫁を貰う、が達成できませんき、まだしばらくは、嘘はバレませんよ。時間が経ったら、遺産をくれるゆうてた、本人の気が変わったことにすればいいわけですし、まあ、洋を丸めこむことぐらいは、何とでもなりますよ」

「弁護士の都筑先生には……?迷惑掛からんがやろうね?」

「大丈夫です。うちの会社の顧問弁護士ですき、事情を説明して、洋から問い合わせがあったら、甥の担当や、ってことにしてくれてます。わたしは先生の甥っこ、って、設定です」

「そいたら、後は、今夜の手入れ、の結果待ち、ってとこやね」

 と、話を聴くだけであったS氏が初めて、言葉を発した。

「ああ、あんまり、面白うないほど、すんなり、事が運んで行くけど、現実はこんなもんやろう……」

 すんなり事が運んで行くことに、却って一抹の不安を覚えたS氏であった。太夫さんの予言での、ひかりに対する忠告――不幸な結果になるかもしれん――が気になるのである。

 ○○組の秘密の賭博場は、杉下警部以下、マル暴と県警の精鋭たちの活躍により、一網打尽の捕り物が行われ、組員数名と、賭博客数名が逮捕された。

 例の洋の悪友三人組はその中には含まれなかったようである。

 その情報は、野上刑事からのお礼の電話によるものであった。

「洋さんの悪友、ゆうんは、○○組の構成員にもなっていない、チンピラ、不良のたぐいですわ。ケチな強請りとか、万引きとかしてるみたいで、杉さんに話したら、ちょっと、お灸をすえておく、ってゆうてましたき、任しちょいてください。杉さん、井口の探偵団には世話になったき、ちょっとばぁの恩返し、ゆうてましたよ」

 と、最後に付け加えた。


         9

 その、逮捕劇――手入れ――から、数日後の金曜日、月遅れの七夕――八月七日――の七夕飾りが方々の軒先に飾られた夕刻のことである。

 刻屋の玄関口にひとりの中年の紳士が訪れた。小柄であるが、引き締まった体、七三に分かれた、ポマードの匂いのする頭髪、気障な口髭、着ている洋服も、麻ではあるが、安物でない、白い背広である。

「ごめん」

 と、横柄な態度、物言いで声を発し、被っていた、中折れ帽を片手に、その紳士は玄関を入って来た。

「はい、どちらさまでしょうか?」

 と、対応に出たのは、みっちゃんである。

「こちらに、東ひかりとゆう、高校生が宿泊しておるはずですが、今、居られますかな?」

 ひかりは、顔役さんところに滞在中である。しかも、今夜は帯屋町で七夕夜市が開かれており、小政、石川三姉弟とS氏と共に出かけているはずである。

「ひかりさんとゆうお方と、どうゆうご関係ですろう?」

 と、二人の間に割って入って来たのは、貫禄充分のお寅さんである。

「ああ、申し遅れましたが、アテはこの刻屋旅館の女将で、寅於(とらお)、申します」

 お寅さん、旅館の女将としての威厳を披露するかのように、慣れない標準語と、土佐弁が入り混じっている。

 さっさと、名を名乗れ、と、その顔は言っているのである。みっちゃんの「どちらさまでしょうか?」という問いに、男はまだ、答えていないのである。

「ひかりの知り合いの者です」

 と、男は少し怒ったような口調で言った。名前は名乗らない。

「知り合いとはどうゆう知り合いですろう?御親戚の方?いや、それより、お名前を覗いたいですね」

「居るか、居らんか、それをゆうたらエエんじゃ」

 男は、とうとう怒りだして、大声を上げ、詰め寄って来た。

「おい、兄さん、ひとんちの玄関先で、なに、大声で喚きゅうぞ。名前を名乗らん、おまんの方が、どうみても、分が悪いろう?お寅さんは、旅館の女将として、用件を訊きゆうだけや」

 男の後方から現れたのは、着物姿の顔役さんである。

 男は、その声に振り向いて、顔役さんの貫禄に気後れしたように、一歩身を引き、それから、もう一度視線をお寅さんに移して、「チェ」と舌打ちをしたかと思うと、無言のまま顔役さんを避けるように、玄関を飛び出していった。

「みっちゃん、塩、撒いとき」

 と、お寅さんは、男に聞こえるような声を上げた。

 男は小走りに、ちとせ劇場の方――電車通り――に消えていった。

「なんやのあいつは……。ひかりちゃんの知り合いって、この辺に居る訳ないし、名前も名乗らんち、怪し過ぎるやないの」

 と、ひとり言のように呟いた後、

「あっ、顔役さん、どうも、お見苦しい処を……。なんぞ、ご用ですろうか?」

 と、笑顔に変わった声で、長吾郎を招き入れた。

「見苦しい、ち、久しぶりにお寅さんのハチキン、いや、女将っぷりを見せてもろうた。出しゃばって、すまんかったのう。丁度、よさこい祭りの準備で、本丁筋の会場のメンバーと打ち合わせがあって、今、帰りよ。冷たいもんでも飲んで行こうと寄ってみたら、変な男が因縁付けゆうみたいやったき……、お節介やったのう」

「お節介やなんて、助かりましたワ。まあ、立ち話も何やき、座ってください。冷たいもん、何がエイですろう?ラムネにしますか?みかん水?どうせなら、土佐鶴の冷酒にしますか?」

 長吾郎とふたりで話すのは久しぶりである。今は邪魔な?千代も孫もいない。

 座敷に上がってもらおうと、勧めたが、それほど時間がある訳ではないようなので、いつもの玄関脇のテーブルに腰を下ろした。

「甚(じん)さんはどうぜよ?」

 ラムネの栓を音を鳴らして、空けた後、泡が垂れてくるのを、慌てて一口含んだ後、長吾郎が尋ねた。

 甚さんというのは、お寅の亭主、刻屋の主人である。

「相変わらず、ゆうか、もう大分、弱ってきましたワ。便所も、よう行かんなりゆうき、後、何年もつろうか?」

 お寅の亭主は脳梗塞で倒れ、一命は取り留めたが、寝たり起きたりの状態が続いていた。近所では有名な「いごっそう」であったが、今はその影もない。

「そうか、まあ、年は年やき、大変やろうが、大事にしちゃり」

 と、長吾郎はしんみりとした口調で言った。

「昔は随分、生意気ゆうて、叱られたもんよ」

 と、付け足した。

「それはそうと、さっきの男のことやないけど、ひかりちゃんとお吉さん、どうなってます?親子の名乗り上げた後、ちっとも、情報が入ってきませんけんど……」

「うん、それよ。お吉さんはひかりちゃんを養女にしたいみたいながやけんど、言い出せんがよ。ひかりちゃんは、まだ、高校生やき、今の暮らしを続けないかんろう?」

「そうですねぇ、すぐには結論、出せませんよね。一緒に暮らす、ゆうても、どっちの方で暮らすか、色々問題がありますもんねぇ」

「そこに、金も絡むと、余計大変よ」

「金が絡む?あの、遺産相続は、マッちゃんのテンゴウ噺ですろう?」

「いやいや、お吉さんやない、ひかりちゃんのほうよ」

「ひかりちゃんのほう?」

「そうよ、詳しいことは解らんが、ひかりちゃんのお母さんの実家はまあ、たいした資産家らしい。お母さんが亡くなった後、実家の方でも、おじいがのうなって、遺産分配で、ひかりちゃんにも相当額の遺産を残したらしい。それが解って、お吉さん、養女の話、止めにする気になっちゅうがよ。金目当て、と思われとうないきに……」

「世の中、そう、事は思い通りにはイカンゆうことですかいねぇ」

「小政もこればっかりは、手の打ちようがない。成り行きを見守るだけや……」

 お互い、ふっとため息をついた後、少しばかり世間話をして、顔役さんは帰って行った。

        *

「ふうん、ひかりちゃん訪ねて、怪しい男が来てたんか」

 その夕刻、少し遅めの晩御飯の席で、お寅さんの話を聞き終わったS氏は、卵焼きを箸で摘みながら、そう呟いた。

「それと、ひかりちゃんとお吉さんのことやけど、取り敢えず、来年の春、ひかりちゃんが卒業するまでは、結論を保留にするみたいだよ。ひかりちゃんは、本当の父親に会えた、それだけで、今回の旅行の目的は達成した、と言ってたし、お吉さんも、娘さんと暮らすとなると、今の稼業も、どうかってことになるし、時間を置いた方が良いのは、お互い解ってるみたいだよ」

「それで、ひかりちゃんの『遺産相続』って、幾らぐらいなの?」

 と、千代が尋ねる。

「いや、そこは、聴いてない。生活は、元の父親から送られてくる生活費と、お母さんの蓄え――お祖母ちゃんが亡くなった時にも、相続した分があるらしい――で、充分賄えることは訊いたけど、そっちの遺産相続は、初耳やね」

「ひかりちゃんは、いつまでこちらにいるの?」

「うん、よさこい祭りを見て帰るって。十二日の朝に出発かな?明後日、花火大会があるろう?それで、親子で見物に行く予定だよ。水入らずにしておこうって、小政さんが言ってたから、僕らは別行動やけどね」

「大丈夫なが?例の三人組、まだ、捕まっちゃあせんろう?お吉さん、狙われたりせんろうか?」

「それよ、僕もそれが気がかりながよ。洋、ゆう男、三人組とは連絡取ってないみたいやき、当初の依頼、お吉さんを痛い目に合わす、ってやつ、まだ、キャンセルになってないと思うで……」

「キャンセル、って、あんた、英語を話せるがかね?」

 と、お寅さんが驚く。

「いや、この言葉、小政さんの口から出た言葉ながよ。取消、解消、ゆうより、格好エイやろう?

 それで、僕等ぁも、お街へ出かけることにした。ジョンも連れてね」

「また、夜の外出?あんた補導されるよ」

「お祭りやき、子供もようけおるよ。それに、小政さん、父兄同伴やもん、大丈夫よ。ただ、ジョンはいつもより短い綱で繋がんと、迷惑になるき、ちょっと可哀相やけどね」

「まあ、止めても無駄やし、ひかりちゃんに何かあったら困るき、ジョンは絶対必要ね。今回だけよ。って、もう何回ゆうたろうね……」


       10

「凄い人やなあ」

 八月九日の夕刻、まだ、日差しは強く、残暑が厳しい中、扇子で顔に風を送りながら、小政が呟いた。

 グランド前の電停で路面電車を降り、南に道路を渡って、鏡川方面へ向かっているのである。

 まだ、花火大会の開始時刻には、一時間ほどあるのだが、高知市の人口の一割が集結したかのように、鏡川河畔に人の群れが続いている。鏡川の北岸は大原町の沈下橋から、下(しも)の天神橋まで、花火見物でごった返しである。

「これじゃあ、お吉さんとひかりちゃんを見つけられんよ」

 と、沈下橋、南国橋の上――そこは通行止めで、人は入れない――、忠霊塔の前から、河川敷を見回しながら、うんざりした顔で小政が言った。

 現在、沈下橋、南国橋は姿がないが、当時、今の柳原橋上流に掛かっていた橋である。

「大丈夫、ジョンがいるから」

 と、S氏が答える。

「ワン」

 と、ジョンが吠える。

 ジョンは睦実の手に繋がれている。電車に乗るため、盲導犬の金具をつけられているのである。

「もう、綱に切り替えてあげる?」

 と、黒いサングラス――眼が不自由な振りをするためのもの――を外しながら、睦実が言った。

 S氏が頷き、背中に背負っていた、ナップサックから、通常の首輪とロープを取出し、盲導犬用の金具と取り換えた。

 ブルッと身体を震わせて、ジョンがS氏を見上げる。次の行動に移りたい、その許可を貰う為である。

 S氏が、ポンと背中を叩く。ジョンが速足で、川下に向かって歩き出した。

 人ごみを縫うように、ジョンを先頭に、S氏、睦実、八郎、菜々子、しんがりが小政の順で川岸を進んで行く。

 山内神社辺りには、夜店の屋台が何軒か店を開いている。祭りのテキ屋が商売しているのである。

「ひかりさんたち、大橋通りの方から来るんかな?」

 と、睦実が尋ねた。

「多分ね。お吉さんと大橋通りの電停で待ち合わせ、って聴いてたから……」

「ますます、人が増えてきたね。ジョンが見つけても、傍に行けないかもしれんよ」

 と、小政が周囲を見回しながら言った。

 天神橋の上にも、人垣が出来ている。川岸はその天神橋方面から来る人波で、道が埋め尽くされていて、反対側から向かっている、一行を遮るような状況となっていた。

「一旦、この辺で、待ってみよう。むこうも、こっちへ来るろうし、人の流れも、間もなく止まるろう。このままじゃぁ、わたしらぁもはぐれてしまいそうや」

 小政の提案に一同肯き、人の流れを避けて、河原に降りて行った。

 次第に、夕闇が近づいてきて、花火大会開始の時刻が迫っている。

 人の流れが、一段落し、歩いている人は疎らになって来た。見物客は、それぞれ、場所を決めて、夜空を見上げる態勢になっている。

「ワン」

 と、ジョンが少し控えめに、啼いた。天神橋の方向ではなく、今いる背中の方、山内神社と三翠園ホテルとの間の道から、浴衣姿の男女二人づれが談笑しながら、歩いて来たのである。

「あれ?ひかりちゃん、浴衣なんか持ってた?」

「ああ、ボン、多分、お吉さんが今買うてあげたんや。ひかりちゃん、手に大丸の紙袋、提げてるやろう?あれに、出かけた時の洋服入れてるんや。紺地に朝顔の模様。前にお吉さんが着てたのと、色違いみたいで、可愛い柄や。よう、似合おちょる」

 河原からは、お吉とひかりを見上げるようになる。ふたりは、小政たちには気づいていない。

「ウー、ワン」

 と、今度は、低いうなり声をジョンがあげた。何か、注意を促すような声である。

「あっ、二人の後ろに、例の三人組のノッポが居るよ」

 談笑するふたりから、数歩離れて、ズボンのポケットに手を入れた、白地に黒の縦縞の開襟シャツ姿の男は、あの夜、抵抗せず、仲間を抱えて逃げて行った、ノッポの男である。

「ボン、ジョンを貸して。わたしが、様子を見てくる。後の二人も近くにいるかもしれん。危ないから、みんなは離れてて」

 睦実がS氏から、ジョンの綱を預かる。右手には、樫の木の杖を持っている。少し遠回りして、岸に上がり、ひかりたちと背後のノッポに見つからないように、夜店の陰に隠れた。

 お吉とひかりは三叉路の川岸に立ち止り、そこから花火を見ようとしているのか?河原には、もう、入り込む隙間がないように思えた。

 夜店の陰から、覘いていた睦実の眼に、アロハシャツの小太りと白い半そでシャツの小男、残りの二人組が汗をかきながら、三翠園の門の前から、こちらに向かってくるのが見えた。

 お吉とひかりが方向を変え、夜店の並ぶ通りを引き返し、その隙間の、山内神社の境内へ続く道に入って行く。山内神社からも、花火が見える。木陰も有り、新聞紙でも敷けば、座ることもできそうであった。

 ノッポと合流した、アロハと白シャツは目配せをして、軽く肯くと、お吉とひかりの後を追うように、境内に入って行く。

 睦実も慌てて、ジョンの綱を握って、その後を追いかけた。

「おい、オカマ野郎、ちょっと待ちな」

 アロハ男がお吉の背中に声を掛けた。お吉が、その声に反応して、ひかりを庇うように、ひかりを自分の背後に廻して、振り向いた。

「この前は、変な邪魔が入ったき、充分な挨拶ができんかったけんど、続きをさせて貰うで、害虫退治を、な……」

 アロハ男は、折りたたみのナイフを取出した。

 白シャツとノッポが素早く走り込んで、お吉たちの背後に回り込み、逃げ場を塞いだ。手には同じようなナイフを握っている。

 アロハ男が、一歩前に進んだ時、

「ワンワン」

 と、犬の吠える声がした。その鳴き声に振り向く先に、

「ヤメとき、また痛い目に合うよ」

 と、逆光でシルエットになった人物の声がした。

 ドォーンと大きな音がして、花火の大輪が、夜空に広がった。花火大会が幕を開けたのである。人々の歓声と重なるように、

「お、おまんは、こ、此間の……」

 と、睦実に気がついて、アロハは驚く。

 睦実がジョンの綱を離すと、ジョンはアロハ男には目もくれず、お吉とひかりを庇うように、白シャツとノッポを威嚇に走った。

「やれ」

 と、アロハ男が、命令を発した。そして、自らは無謀にも、ナイフを片手に突きだしながら、睦実に向かって行った。

「グゲェ」

 と、蛙が潰されたような声をあげて、アロハ男が、膝から崩れて行った。

 睦実の杖が、みぞおちに突き刺さったのである。

 杖を上から倒れかけている、アロハ男の首筋に叩きこんで、完全に気を失わした後、ゆっくりとした歩調で、ジョンに威嚇されて、足が震えている、ノッポと、やたらと、ナイフを小刻みに振っている白シャツの前に進んでいた。

「ジョン、ご苦労さん。あとは、ウチに任しとき」

 と、ジョンを後ろに下がらす。

 杖を青眼に構えて、まず、白シャツの眼前に突きつける。ノッポは戦闘能力「0」と解っている。白シャツを倒せば、この前のように、降参する筈である。

「おい、左右から同時に行くんや」

 と、白シャツが、ノッポを促す。

 ノッポは腰が引けたまま、長い両手を前にのばして、睦実の右側から襲いかかる振りをし始めた。

「ハッ」

 と、気合を込めた息を吐き、睦実の身体が右に反転したかと思うと、ノッポの首筋から肩のあたりに、痛烈な一撃が撃ち込まれた。

 返す杖で白シャツに迫ろうとした時、

「ひかりちゃん、危ない」

 と、聞き覚えのある声が、背後から聞こえたのである。

 睦実が振り向くと、お吉の背後にいたひかりのすぐ後ろに、黒い人影が近づいており、そのまだ向うの、神社の入り口に、S氏と小政の顔が見えた。

 ジョンが猛烈な勢いで、ひかりの方に駆け出した。

 黒い人影が、手に光る物を振りかざして、ひかりに迫って来る。ジョンは間に合わない。礫のようなものを投げるには、お吉が邪魔である。

「ひかりちゃん、逃げて」

 と、睦実が叫んだ。

 ひかりは、背後の人間に気付いたが、身動きが取れず、しゃがむような態勢になった。お吉が、咄嗟に庇うように身を乗り出した。

 刃物が、二人のどちらかの身体に迫った時、不意に、頭上の木から黒い物体が、落ちてきて、その刃物を持った手を、撃ちつけていた。

 黒い物体は地面に降りると、黒い人影に代わった。スラリと痩せた、黒ずくめのシャツとスラックス姿の長髪の若い男が立ち上がった。その手には、黒い鉄扇が握られている。

 ひかりを襲撃した方の黒い影は、素早く、身を反転させ、S氏と小政のいる入口の脇を飛ぶように走り去った。地面には、薄い刃を付けたナイフが落ちていた。

「さ、才蔵?」

 と、黒シャツの背中に睦実が声を掛ける。

「お嬢さん、気を付けてくださいよ」

 と、笑顔を浮かべ、男は、襲撃した黒い影の後を追うように走り去って行った。

 S氏が「ひかりちゃん、危ない」と声をあげてから、わずか十数秒の出来事である。夜空に最初の連発花火が音と光を描き始めていた。

「ワン、ワン」

 と、ジョンが吠えた。

「あっ、忘れてた、もう一人、毒虫が居ったんや」

 睦実が振返り、白シャツに視線を移した。白シャツはもう、戦意喪失であった。

「ジョンこっちへ来て」

 と、S氏がジョンを呼ぶ。

「あの男を逃がさんように、見張ってて」

 と、夜店の陰にいる、中年の男を指さした。

 小政がその言葉に素早く反応し、その中年の側に駆けつけ、腕を掴んだ。

「な、何すんねん」

 と、その男が腕を払おうとする。

「さっきの男に、ひかりちゃんを襲うように命じてたのは、その男だよ。襲った男はひかりちゃんとは面識がなくて、その男がひかりちゃんを知っているはずだよ」

 七三に分けた、ポマードの匂いの強い頭髪、気障な口髭、白い麻のスーツ、一昨日、刻屋を訪ねて、ひかりの所在を確かめに来た男の風貌をS氏は見つけ、その行動に眼を光らせていたのである。

 そこへ、巡査の制服姿の一団と、見覚えのある、野上刑事、杉下警部が、三翠園の方から駆けてきた。

 小政が、野上刑事に、無言で会釈をする。

「ちょっと事情を聴かせてもらいますよ」

 と、野上刑事が、警察手帳をポマード男の眼の前に提示して、強い口調で言った。

 男は、小政の手を振り払い、不満そうな表情を浮かべたが、無言のままであった。小政と野上刑事が知り合いであることに気づき、小政も私服刑事と思ったらしい。

 杉下警部と巡査二名が、睦実にあしらわれた、三人組を確保する。

「タケ、ゲン、ヨシの馬鹿三銃士ならぬ、三馬鹿トリオか」

 と、杉下警部が、うんざりした表情で、手錠を掛けられている三人に言った。

(そう言えば、ダルタニアンの三銃士も、デブとチビとノッポやったな)と、小政はデュマの物語を思い出していた。

「おまんらぁ、今度は、傷害罪、いや、殺人未遂やぞ。インマも、そこの屋台で、イカ焼きの代金払わんかった、無銭飲食、それに、通行中の女性の尻を触った、痴漢行為。まあ、その辺は可愛らしいもんや。まだまだ、余罪があるぞ。脅迫罪、麻薬の売買にも係わっちゅう疑いもある。たっぷり、お灸を据えてやるき、覚悟しときよ。花火なんぞ、当分見えんと思うちょきよ」

 杉下警部は、例のバーバリーの背広――夏用の新しい仕立ての物らしい――と、レイヴァンのサングラス――夜は見えにくいだろうに――をかけている。

 ヤーさんより怖そうである。三人組もビビって、身を引くようにして、連行されていった。

「これで、ひとつ探偵団の借りは返したよ」

 と、サングラスを外しながら、杉下警部が一同に向かって、宣言するように言った。

「さてと、もうひとつ『殺人未遂』がありそうやな?襲われたのは、そこのお嬢さんか?」

 お吉さんに抱かれている、ひかりに視線を移しながら、杉下警部が呟く。

「どうも、複雑な事情がありそうや。お嬢さん、この男、ご存知ですか?」

 と、ポマード男を指さし、ひかりに確認する。

 ひかりは、まだ、ショックから立ち直っていない様子で、無言のまま、首を横に振った。

 ひとりの背の高い中年の男が、野上刑事の後方から近づいて来た。

「に、兄さん?いや違う、そんなはずないわ……」

 と、お吉さんがその男性を見つめて、驚いたような声をあげた。

「ひ、ひかり、大丈夫か?」

 と、その男性が、ひかりに声をかけた。

 そして、野上刑事と小政に挟まれている、ポマード男の前に立ち止ると、

「安村さん、これはどうゆうことですか?何故、あなたがここにいて、ひかりの命を奪うように誰かに命令したのですか?」

 と、早口に捲し立てた。

 一同――ポマード男と新たに登場した人物を除いて――は呆気にとられている。

「お父さん、お父さんが何故、ここに居るん?」

「ええ?この人、ひかりちゃんのお父さん?」

 と、傍にいた睦実が驚きの声をあげた。


       11

「話が、ややこしゅうて、よう解らん。何がどうなったがぞね?」

 花火見物もそこそこに、帰って来たS氏が、お寅さん、千代、みっちゃんに今日の出来事を話している。ひかりの父親――戸籍上、離婚はしておらず、別居しているという――が登場したところまで話した時、お寅さんが理解不能に陥ったのである。

「僕にもよう解らん」

 と、S氏が首を振る。

 あの後、事情聴取のため、ポマード男とひかりの父親は警察に連行された。

 小政、睦実、お吉さんも同行したが、子供たち――ーひかり、菜々子、八郎――と、ジョンを連れたS氏はパトカーに分乗して、井口町へ帰って来たのである。

「その、ポマード男とひかりちゃんのお父さんは顔見知りながやね?安村って、呼んだがやね、ポマード男を……」

 と、千代が確認する

「そうや、けど、ひかりちゃんのお父さん、新潟の実家へ帰ったって言ってたやろう?ほいたら、新潟から出てきたんかな、その、安村ゆう男も……」

「その可能性が高いね。安村ゆう男は、他所もんやったし、おとうさんも高知とは、縁がないろうし……」

「まるで解らんちや。事件は解決したがかね?それとも、まだまだ続くがかね?」

「ばあちゃん、ひとつ、つまり、お吉さんの方は三人組が捕まったき、まあ、終わったみたいなもんながよ。ところが、今度はひかりちゃんの身の回りで、別の事件、ゆうか、事態が発生してるみたいながよ。それが、何かは、まだよう解らんがやけんど……」

「たぶん、お祖父さんの遺産がらみね」

 と、千代が推理を働かす。

「母ちゃんもそう思う?それしかないよね」

「でも、それやと、ひかりちゃんを襲うように依頼するのは、相続権のある、戸籍上の父親ですよね?」

 と、みっちゃんが珍しく、会話に参加する。

「そうよ、動機から考えると、黒幕は、戸籍上の父親、ってことになるわね。だとしたら、安村と父親はグルなのかもね?自分が疑われないように、あの場では、安村との関係を誤魔化したのかもしれないわ」

「いや、その時の安村の顔、不味い処を見られた、って、渋い顔してた。ふたりが共謀していたとは思えん。安村がどうゆう関係の人物か解らんけど、もし、黒幕がいるとしたら、父親じゃあなく、別の人物だね」

 まあ、明日、小政さんたちから、事情を聴けるろう、と、話を打ち切った。

       *

 翌日、八月十日、遠くから「よさこい鳴子踊り」の歌が聞こえてくる。本丁筋五丁目から四丁目付近までが、よさこい踊りの西の外れの会場――演舞場――になっている。

 鳴子の音と、踊り子たちの「よいやさのさのさの」という掛け声も耳を澄ませば聞こえてくる。

 顔役さんの応接間で、その音を聴きながら、冷たい麦茶をS氏は飲んでいる。

 小政は、本丁筋の演舞場に――審査員として――いる、顔役さんに用があり、出かけている。

 睦実たち石川三姉弟とひかりも演舞場に行っている。

 それで、応接間に座っているのは、S氏の他に、お吉さんと野上刑事という、長吾郎一家とは関係ない面々なのである。

「すぐ帰ると思います」

 と、お多可さんが、人数分の麦茶のコップをテーブルに置いてから、三十分は経過している。

「待ちゆうあいだに、昨夜のこと、聴いてもエイかな?」

 と、痺れを切らしたように、S氏が野上刑事に尋ねる。

「そうや、ボンは事件の経緯知らんかったがやね」

 と、野上刑事が、読んでいた雑誌を傍らの本棚に還して、姿勢を正した。

「どうも、話が複雑になってね。巧く説明できんかもしれんけんど……」

 と、話し始めた野上刑事の説明は、凡そ、次のようなことであった。

 昨晩、事情聴取のため、署に連行していった、ポマード男は安村という、新潟の税理士事務所の従業員である。つまり、ひかりの父親の実家――老舗の酒造会社――の経理を担当している税理士の助手であった。

「ひかりさんのお父さんは、染谷賢(そめやまさる)さんゆうて、蔵元の次男さんやそうな」

 と、野上刑事の話が続く。

 賢の兄は剛(つよし)といって、酒造会社の五代目を継いでいる。その剛が、病に倒れた。その為、次男の賢が実家に呼び戻されたのである。

 それから、十年、賢は兄に代わり、蔵元の経営に尽力していたが、不況の風、日本酒離れと、逆風が吹き、また、先代からの杜氏が亡くなり、味の継承が不十分になってしまった。加えて、兄が信頼して、経理を任していた番頭が、店の金を着服し、逃げだしたのである。

 つまり、染谷酒造は今や倒産寸前なのであった。

「その危機を救う手立てを、何処から聴き及んだのか、安村が、ひかりちゃんが多額の遺産を相続したことを知って、この金を使おうと考えたわけや」

「ええ?単なる、税理士の助手が、そんな大胆な行動起こす?」

「そこや、どうも、主人の剛が黒幕のようや。安村はまだ、黙秘しているけど……」

 剛という男は、先祖から譲られた蔵元を守ることだけが、自分の使命と思っている、そういう人物であると、ひかりの父親、賢が証言した。賢とひかりの母親の和子を離婚させ、賢を実家に呼び寄せたのも、家を守る為であったらしい。賢の立場は、剛に代わる、店の主ではなく、現場監督のような役目だった。従業員と同じように、長屋に住まい、わずかな給料で働かされていたのである。主人の弟、ということで、従業員の監視ができると考えていたのであろう。

 そんな境遇にも、賢は耐えた。稼業を守りたい、その気持ちは、賢にもよく理解できたのである。

 そんな賢に、現場で働く従業員は心を許し、盛り立ててくれるようになった。傾きかけた商売が上向き始めたと思ったその矢先、ベテランの杜氏が亡くなり、それに加えて、剛の嫉妬が始まった。

 病が少し改善し、活動できるようになっても、従業員はもう、自分の手から離れていたのである。主人の座は賢に移っていた、と剛には思えたのである。

 現場は、杜氏の交代があっても、一枚岩で頑張っている。しかし、営業担当の方は、剛の賢に対する感情をそのまま反映するように、ピリピリとした空気の中にあった。

 何が切掛けか、解らなかったが、経理の番頭が、多額の資金を着服し、店を出ていった。おそらく、悪い女に騙されたのだろう、警察に捕まった時には、一文無しであったらしい。

 その着服事件は賢の管理不行き届き、だと、剛が言い出した。もうその頃は、剛の精神状態は異常な状態になっていたのである。ヒステリー状態が続いていた。

「まあ、状況からすると、剛がヒステリー状態の中、安村に、ひかりちゃんの遺産を賢さんが貰えるようにして、その金を、着服された金の埋め合わせにする、そんな妄想を話したんやろう。それを安村が実行した。もちろん、殺し屋を雇うて、やけどね……」

「その、殺し屋ってどうなったが?」

 と、S氏が尋ねた。

「それそれ、実は、昨夜、警察に通報があって、刑務所近くの江ノ口川に、死体が浮いてる、て。それで、河西君らぁが現場に向かったんよ」

 河西君というのは、県警の野上刑事の後輩である。

「どうも、その死体が、小政さんから聞いた、ひかりちゃんを襲った男と思われるんよ。黒っぽい開襟シャツに、黒のズボン。おまけに、右手に、打ち身の痣があった」

「ええ?殺し屋が、殺されてた?」

「いや、殺されてたんやないと思う。自殺の可能性が高いそうや。なんせ、舌咬み切っていた上に、毒を飲んでいるようなんよ。今、検死をしゆうき、まもなく、死因が解るがやけんど……」

 その時、応接間のドアが開いて、

「御免御免、エライ待たせたねェ」

 と、小政が入って来た。後から、石川姉弟、ひかりが続いている。

「今、野上さんから、殺し屋らしい男の、自害したと思われる死体が見つかったって話を聞いた処」

 と、一同がソファーに腰を掛けたところで、S氏が話を始めた。

「ああ、それ、わたしから説明します」

 と、話しだしたのは睦実である。

「警察へ通報したのは、わたしの身内で、才蔵ゆう男ですねん」

 と、話を続ける。

 才蔵は、菜々子が家族に黙って家を出てきたため、菜々子の父親が心配して、部下の才蔵に護衛を頼んだのである。いつも陰ながら、睦実たちを見守っていたそうである。

 ひかりの危機一髪の場面で、山内神社の木の上から飛び降り、殺し屋の右手を鉄扇で打ち据え、襲撃を防いだ。その後、逃げだした殺し屋を追いかけて行ったのである。

 升形から、刑務所前の江ノ口川の橋の上で、賊を捉えて、格闘の末、捕縛の一歩手前まで行った時、賊は舌を噛み切ろうとし、続いて、隠し持っていた錠剤を口に含んだのである。そのまま、橋の欄干から、川面に身を投じ、そのまま息を絶えた。

 才蔵は警察に通報し、その後、睦実に連絡を入れたのである。

「才蔵のゆうには、身のこなしから、プロのようやって。しかも、使こうてたナイフも特殊なもんらしくて、ほら、一昨年に起きた、質屋殺しの犯人の時影が使こうていたナイフと似てるんやって、どう思う?」

「た、確かに押収したナイフ、あの事件の時、僕の肩に刺さった凶器に似てましたわ。見た時、ゾッとしましたもん」

 と、野上刑事が当時の怪我を負った時の場面を思い出したように、顔をしかめて言った。

「でも、今度の賊は時影とは全然似てなかったでしょう?」

「ああ、でも、あの事件の時、時影は、風魔の末裔、しかも、一族とゆうか、組織があるような口ぶりやったと、十兵衛さん、言ってた。ひょっとしたら、その組織の一員かもしれんね」

「小政さんのゆう通りやとしたら、組織の秘密が漏れんように、自殺した、そう考えられるよね?」

「ああ、ボン、状況から判断して、その仮説で間違いないやろう。組織の方は闇の中、ってことになるろうね。安村ゆう男が、自白しても、組織には繋がらん、そうゆう、システムができちゅうがやろうね」

「クソお、その組織、何とかしたかったですね、殺しのプロ集団なんて、許せませんよ」

「野上さんの気持ちはよう解るけんど、田舎の警察の手には負えんろう」

 小政の言葉に、野上刑事は唇をかみしめて、頷いた。


       12

「その事件の顛末なんですがね」

 「南」という酒を口に運びながら、S氏が結末へと話を進めた。

「結局、安村とゆう男も、証拠不十分で、起訴できませんでした。自殺した殺し屋と安村の関係を立証できなかったのです」

 S氏の話を纏めてみよう。

 安村は黙秘をしていたが、殺し屋が死体で発見されたのを知って、安心したのか、S氏や小政が証言した、ひかり襲撃前に殺し屋の男と会話していたのは、道を聴かれただけだ、と答えた。全然知らない男、面識はない、と言う。

 高知に来たのは、観光を兼ねて、ひかりを警護するためだと答えた。

「殺し屋かなんか知りませんけど、もし、そんな輩を雇うとしたら、そりゃあ、賢さんではないんですかな?わたしが、ひかりさんを如何こうしたところで、何の利益もありませんよ」

 と、犯行は、賢の計画だと、うそぶいたのである。

 事情聴取で、連行したのであり、逮捕状は請求できなかった。そのまま、釈放となり、安村は、そそくさとホテルに帰って行った。

「さて、その安村に罪を着せられそうになった、賢さんですがね」

 と、ドロメを口に運んだ後、S氏が話題を変える。

 賢が高知までやって来たのは、兄である剛が亡くなったからである。いや、臨終前に、ヒステリー状況の剛が、ひかり暗殺―――通り魔に偶然殺されると見せかけて――を依頼したことを口走ったのである。

 つまり――賢の話が真実だとすると――剛が殺し屋を雇い、安村がその補佐に当たったことになる。

 剛は、そのまま、クモ膜下の血管が破れ、病院で息を引き取った。通夜、葬儀を済ましたその足で、急遽、高知入りをし、現場に駆け付けた。安村の宿泊場所を税理士事務所に確認していて、そのホテルから、安村の後をつけてきたからである。ただ、花火客の人ごみに紛れてしまい、安村の姿を一時見失ったりもしたのである。

 警察の事情聴取を受けた後、賢は、ひかりと、初対面である、お吉――本名、小吉――に面会を求めた。

 場所は、刻屋旅館の「桐の間」をひかりは指定した。ひかりにとって、刻屋が一番気が休まる場所であり、お寅と千代のひとを見る眼を通して、賢の本心を鑑定してもらいたかったのである。

 よさこい祭りが終わった翌日の午後、「桐の間」には、ユリの花と百日草が大ぶりの花瓶に活けられている。その背後には、掛け軸が飾られているが、この前のものではない。赤富士の絵である。と、いっても、有名な北斎ではない。作者不明の作品である。

 その座敷に漆色の座卓が置かれ、周りに座布団を敷き、男女七人が座っている。

 床の間の方に向かい合って、お吉と賢、お吉の横にひかりが座っている。賢の側に小政と睦実、ひかりの隣にお寅さん。千代は座卓から離れ、出入口の襖近くに腰をおろしている。

 「桐の間」の隣の部屋、「桂の間」に、S氏と菜々子、八郎がいて、「桐の間」の会話を襖越しに、盗み聞きしているのである。

 会話はまず、小政による一同の紹介から始まった。賢にとって、ひかり以外は初対面という人間ばかりである。

「このたびは、娘のひかりが大変お世話になりました」

 と、賢が頭を下げる。そして、視線を一同に向ける。

 千代は、その時初めて、賢の顔を正面から、じっくり、観察したのである。

(あれ?賢さん、どこか、お吉さんと似てる)と、思った。

 その時、息子――S氏――が、賢と遭遇した時、お吉さんが「に、兄さん?」と口走った、と話していたことを思い出したのである。

(そうや、お吉さん、賢さんの顔を見て、亡くなった、お兄さんが出てきたー丁度、お盆も近かったしーと一瞬思ったんや。つまり、賢さんはお兄さんに似てるんや。ということは、兄弟である、お吉さんにも似ている、そういうことか……)と、顔回の生まれ変わりの思考回路が働いていた。

「吉村さん、と仰いましたね?和子とご縁のあった方やと、覗いましたが、はっきり申し上げます。ひかりは、わたしと和子の間に生まれた子です。決して他人さまの血はひいておりません」

 賢は、お吉に向かって、きっぱりと宣言したのである。

「しかし……」

 隣に座っていた小政は、(太夫さんが……)と、反論しかけて、口を閉ざした。ここで、非科学的な推論は披露できない、いや、披露するべきでない、と、とっさに判断したのである。

「何か、確証がお有りなのですか?ひかりさんがお生まれになった時期とかに、疑わしいことはなかったのでしょうか?」

 面と向かって、宣言された、お吉さんもひかりも言葉が出て来ない。それを察して、千代が、少し離れた場所から、賢に問いただしたのである。

「確証も何も、ひかりはわたしと和子が結婚して、九か月で生まれておるんですぞ。その間、和子が誰と契りを交わすと言うんですかな?」

 賢はそう、言い切った。

       *

「さて、ここで、ひかりさんの生年月日が問題になってくるんです」

 と、S氏はグラスを傾ける。

「ひかりさんはその時、十七歳、十一月に十八歳になるところでした。

 お吉さん――吉村少尉――と和子さんが写っている写真は、十八年前、昭和十六年の二月に撮られたものです。賢さんと和子さんが結婚したのは、三月……。

 どうでしょう?どちらの可能性もある、微妙な時期ではないでしょうか?」

「それで、血液型とかは?」

 と、わたしはグラスを座卓に置きながら尋ねた。

「賢さんも、お吉さんも、同じA型です。今なら、DNA鑑定が出来るのでしょうが、当時はありませんでした。しかも、賢さんとお吉さんは、お話ししたように、容貌も良く似ている。もちろん、血の繋がりなどではなく、他人の空似ですけど……」

「では、結局、どちらが、本当の――血の繋がった――父親なのです?」

「もちろん、お吉さんですよ。これは、多分、賢さん以外のその場にいた全員がそう確信していました。何せ、例の、太夫さんが、そう言ったんですから……。

 でも、科学的な証拠はないのです。戸籍上はひかりさんの父親は賢さんです。両親は離婚していますが……。

 おそらく、和子さんは、お吉さん――吉村少尉――の子供を宿したことを確信した。その子の出生の秘密を守るため、血液型も同じ、風貌も良く似た男性と結婚――しかも、時間を措かずに――なすったんだと思いますよ」

「それでは、ひかりさんの相続された遺産は賢さんの手に渡ったのですか?」

「いえ、賢さんには、ひかりさんの相続した遺産など、全然興味がなかったのです。ただ、兄の剛さんのヒステリックな言動に驚いて、ひかりさんのことを心配して、高知へやってきただけだったのです。

 賢さんは、和子さんと離婚する気はなかったそうです。剛さんが、危篤と聴いて、慌てて、実家に帰った。実家の困窮を見兼ねて、蔵元を手伝った。軌道に乗れば、和子さんの元に帰る気でいたのです。

 ところが、剛が裏で工作して、和子さんに『離婚届』を送りつけた。和子さんは離婚届に添えられた、手紙――剛の偽筆でしょう――を鵜呑みにして、離婚届に判子を押し、届け出をしたのです。賢さんも事情を確かめず、長い間、別居を余儀なくさせていた所為で、愛想をつかれたと思い込んだらしいのです。

 ただ、ひかりさんへの愛情は変化なく、和子さんが『いらない』と言った、養育費を、欠かさず送ったそうです」

「では、ひかりさんはその後、どちらの親を選んだのですか?選んだとゆうか、どう結論を出したのでしょう?」

「太夫さんが、おっしゃっていた、不幸になるかもしれん、という、言葉の意味が、解った気がしました。暴漢に襲われる、これも大変怖い出来事だったでしょう。けれど、二人の父親のどちらかを選ぶ、これは、高校三年生の少女にとって、大変な難問でした」

 S氏はここで、一息入れる。まるで、当時の小政さんの得意技のような、焦らし作戦である。

「ひかりさんの採った行動は、実に意外なものでした……」

      *

「ボン、お願いがある」

 と、「桂の間」との間の襖に向かって、ひかりが言った。

「ジョンを連れてきて。それから、皆さん、表へ出てください。そこで、わたしの気持ちをお答えします」

 と、何かを決意した顔で言ったのである。

 S氏が慌てて、階段を下りていく。後のメンバーは――菜々子、八郎を含めて――首をかしげながら、ゆっくり階段を下りていった。

 S氏が、ズックを履いて、玄関を飛び出すと、

「ワン」

 と、聞き覚えのある声がした。

 玄関脇の花壇の傍に、放し飼いにされている、ジョンが寝そべっていたのである。

「ジョン、来てたんか?そうか、事件の関係者が集まっている、その臭いがしたんやもんな、流石、名犬や」

 と、S氏はジョンの頭を撫ぜてやる。ジョンが、嬉しそうに、身体を擦りよせてくる。

「あら、もうジョンを連れてきてくれたの?」

 と、ひかりが玄関先に出てきて、驚いた声を上げる。S氏は黙って肯いた。

「お父さん、お吉さん」

 と、ひかりは賢を「お父さん」と、呼んだ。

「ふたりとも、表へ出てきて、お父さんは右へ、お吉さんは左へ歩いて行って」

 ひかりの言葉に、男ふたりは、右と左に分かれる。

 賢は、朝日湯の前、お吉は、小さな橋の上まで歩みを進めた。

「はい、そこで停まって」

 と、ひかりが言う。

 二人が歩みを止めて、振り向き、お互いを見つめあう。

(なに?これ、西部劇の決闘シーンみたいやないの……)と、千代は思った。

 ゲーリー・クーパーと、カーク・ダグラス?そんな感じがするのである。まだ、日差しは強く輝いている。

(真昼の決闘やないの……)

「ふたりとも、そこから動かないでね。これから、わたしの運命を決めるから」

 と、ひかりがお吉を見つめ、また、賢に視線を投げかけた。

「ボン、ジョンに命令して、わたしの選ぶべき父親の方へ、走れって……!」

「ええっ……?」

 その場の一同が、S氏と同じ感情であっただろう。驚くしかない、ひかりの宣言であった。

「太夫さんが言ってたろう?ジョンがエイ結果を導いてくれるって。わたし、あの言葉を信じる。だって、太夫さんの言うとおり、お吉さんに会えたもの。仲間を信頼したら、命まで救われた。最後は、ジョンが教えてくれる、わたしの選ぶべき道を……」

「解った、ひかりさんの覚悟、それも大事や、って太夫さん、言ってたもんね。覚悟ができたんや。よし、ジョンに任すで、結果を恨みなよ、お吉さんも、賢さんも。ジョンには何の小細工もさせん。ジョンの本能に委ねる。

 さあ、ジョン、聴いてたろう?ひかりさんの選ぶべき、父親の方へ、走れ……!」

       *

「そ、それで、どちらを選んだのですか、ジョン君は……?」

 と、わたしはいつの間にか、こぶしを握りしめ、身体を前のめりにしていた。

「わたしが、背中を、ポンと叩くと、ジョンは走り出しました。わたしは何の小細工――つまり、ジョンにどちらか一方に走るように命じるような行為――はしていません。

 いや、ひかりさんの言動には驚かされましたが、その時、採った、ジョンの行動にも驚かされましたよ」

 と、S氏はにやりと笑って、話を止め、グラスに残った「南」を飲みほした。

「ジョンは、右にも走らず、左にも走らず、まっすぐ、西のほうに走りだしたのです」

「ええっ!何ですって?」

「もう、あっけにとられましたよ。一同、眼が点になってました。

 ジョンが走り去った西の方を、我々はずっと見つめていたのです。およそ、五分ぐらいだったでしょうか、突然、『わっ』という、驚きの声が聞こえたのです。

 それは、橋の上にいた、お吉さんの声でした。その背中に、ジョンが飛びかかっていたのです。

 つまり、ジョンは、まっすぐ、お吉さんには向かわず、わざと、遠回りして、背後から、お吉さんに飛びついたのです。ジョンにしてみたら、最初から、お吉さんに向かっていたら、第一歩で結果が解ってしまうでしょう?そこで、一旦、姿を消して、突然現れて、判定を示したのですよ。小政さん以上の策士ですよね、ジョンは……」

 わはは、と笑って、S氏はグラスに酒を注ぎ、わたしのグラスにも返す手で、酒を継ぎ足した。

「いや、その後の賢さんの態度は立派でした。そんな、非科学的と言える、父親選びに異を唱えることもなく、お吉さんに歩み寄り、『ひかりをよろしく頼みます』と、まるで、娘を嫁に出す父親のように、お吉さんの手を握りしめたのです」

       *

「ほんとにエエがかね?ジョンはそりゃあ、名犬やけど、人生の選択を、犬に決めてもらうなんて……」

 と、お寅さんが、賢とひかり、どちらに言うでもなく、言葉を発した。

 もちろん、千代も、小政も、睦実も同じ気持ちである。

「はい、すっきりしました。これが、人の意見の集約やったら、何か納得できない点が出ていたと思います。けど、この犬君。ジョン君いいましたか?は、全く、賭け目なし。純粋に本能で、結論を示してくれました。しかも、わざと、遠回りまでして……。人間の理論より、遥かに信頼できます。ひかりの幸せを、純粋に選んでくれたんや、と、納得できました」

「お、お父さん……」

 と、ひかりは賢の胸に飛び込んで行った。

 父親の愛は想像以上に深かったのである。太夫さんの言葉が甦ってくる。

「あんたは前の父親を恨んじゅう。けんど、その父親は、あんたを愛しう思うちょるよ。人の気持ちは、表面だけやないきね」と、いう言葉である。

 一方的に、母親を捨て、手紙一枚で離婚した、そう思っていた。だが、それは誤解であった。ひかりの将来の為、毎月、仕送りをしてくれていた。義務でなく、愛情からだったのだ。そして、今、酷いわがままを、ひかりはしたのである。父親選びという、人非人のするような行為を……。その結果さえ、よかったと、肯定してくれる。

(ああ、母は、隠れ蓑として、この人――賢――を選んだのではない。優しく、愛情にあふれた人柄に惚れて、結ばれたんだ)と、母親の選んだ男を見直していた。

 そうなのだ、離婚が決まった後も、母は父の悪口は言わなかった。

「わたしがわがままゆうて、新潟に付いて行かんかった、それがイカンやったんよ」

 と、離婚の原因は自分にあると言っていた。いや、母親には、年老いた――病弱の――母がいたのである。兄は仕事が忙しく、母親――ひかりにとっては祖母――の面倒をみる役目は、ひかりの母、和子に任されていたのである。

 お互いの一族の状況が、別居の道を選ばざるを得ず、そこに、暗い陰謀が働き、離婚となったのである。

 ひかりは父親に対し、娘としての愛情を示していなかったことを今になって悔やんでいた。だが、賢は決して、恨み事は言わない。そして、ひかりは真実、自分の種だと信じているのである。それなのに、お吉さんを選んだ結果を笑顔で受け入れたのであった。

 その夜、賢とひかりは刻屋の離れに泊って、最後のひと夜を過ごした。お吉さんは、夕御飯を共にし、「南国土佐を後にして」を披露して、刻屋を後にした。

 ひかりと賢が夜通し何を語らったかは、誰も知らない。

 翌朝、晴れやかな顔をして、賢は新潟に帰って行った。

ひかりはもう一晩、菜々子たちと過ごし、翌日、高知駅発の列車に乗り込んだ。

出発に際し、ひかりは、お寅さんと千代に何度も頭を下げた。

「感謝の言葉しかありません。本当の、おばあちゃん、おかあさん、みたいに親切にしていただいて、このご恩は、一生忘れません」

 と、涙をこぼし、別れを惜しんでいた。

       *

「肩の荷が下りた、ゆうより、がっくり来たねえ」

 と、ひかりを見送って、玄関脇のテーブルに腰を降ろし、お寅さんが呟く。

「本当に、この二週間、可愛い娘ができたみたいやったですもんねえ、琴絵ちゃんが居った時以来みたいに、楽しかったわ」

 と、千代もため息をつく。

「お寅さん、千代さん、居りますか?」

 と、玄関から小政が、飛び込んでくる。

「何やの?小政の兄ィさん、血相変えて……」

「お寅さん、千代さん、今、野上さんから連絡があって、例の、安村ゆう、税理士事務所の男……」

「ああ、あの悪党かえ?あいつが如何した?」

「そ、それが、死体で、堀川に浮かんでいたそうなんです」

「ええ?」

 と、お寅も千代も同時に驚く。

「し、しかも、殺されて……、ナイフで心臓ブスリ、そのナイフが、例の殺し屋の使こうてたのと、同じ型のナイフやそうです」

「そ、それじゃあ、口封じ……?」

「それしか考えられませんね」

「けど、安村、まだ高知に居ったん?」

「ええ、ひかりちゃんの行動が気になって、うろちょろしてたらしいです。野上さん、殺し屋の集団とコンタクト取るかもしれんからと、見張りをつけていたそうですわ。それが、ちょっと、眼を離したとゆうか、まかれてしもうて、そのわずかな時間やったらしいですわ、犯行は……」

「それで、逆に、殺し屋集団から、邪魔者、とゆうより、危険人物として、殺されたってわけね」

「ええ、これで、殺し屋集団への糸が完全に切れた、って、野上さん嘆いてましたわ」

「それで、睦実さんたちは?」

 と、千代が尋ねる。

「はい、高知の旅、満喫したって、今日帰りました。いや、お姉さんから、嫌味の電話が掛かってきたみたいですよ。ムッちゃんとこ、父親が関白さんで、右の物、左に移すのも、いちいち娘呼びつけて、やらすみたいで、ムッちゃんがいないと、お姉さんがこき使われて、もう、我慢の限界らしいです」

「あらあら、あっちにも『いごっそう』が居るんやね、うちのおとうさんと同じや」

「ほいたら、睦実さんのお母さんは『ハチキン』ながやろうか?」

「まさか、そこまで、うちと一緒やないでしょう?それやと、お姉さんたち、早いとこ、逃げだしてますよ」

「何ね?あんたも逃げ出したかった、ゆうんかね?」

「ええ、しょっちゅう……」


       13

「最後に、いつもの蛇足です」

 と、グラスの酒を口に運びながら、S氏は言った。

「例の、洋さん、お吉さんの甥で、吉村家の当主ですけどね。マッちゃんのテンゴウ噺から、小政さんの狂言に踊らされ、真人間になれば、大金が手に入ると思い込んで、あれこれ、頑張ったみたいなんです。

 まず、博打と悪友からは縁が切れた。後の条件は、正業に就くことと嫁を貰うこと。これが形に出る条件で、後の二つは、精神論、誓いの言葉で、解決ですから、この二つが難問です」

 そこで、洋君、都筑弁護士――つまり小政さん――に依頼に来た。職を世話して欲しいと。

 まあ、やる気はあるようやが、期待はできん。滅多なところには紹介できん。そこで、小政さん、亀次郎さんが社長をしている『山本雑貨店』へ、見習いとして、放りこんだ。周りは、山長商会の怖いお兄さん方がいっぱいである。もちろん、優しい、女性従業員もいるのだが、ほとんど、それも、見た目、怖い、おばさん連中である。

 吉村家の跡取り、と甘やかされてきた洋君、逆に、その環境が新鮮だったのか、おばさん連に甘えて、意外と受けが良い。ひと月、ふた月と、思ったより、音を上げず、仕事に励んでいる。失敗は多々あるが、それほど重要な役割は与えていない、売り物の鉢を割るくらいである。そのたび、

「給料から、引いとくワ」

 と、おばさんに軽く、いなされている。

 さて、仕事に慣れてきた頃である。最後の条件、嫁取りの話が、洋の口から飛び出したのである。

「実は前から、好きな女が居ったんです。彼女に別の男が居って、まあ、わしの入る隙がなかったがやけんど、今、その子は一人らしい。エエ年やから、結婚を考えているらしい。なんとか、巧く、話を纏めてくれんやろうか?お願いします」

 と、小政が扮する、都筑弁護士に頭を下げる。

(おいおい、恋愛問題まで持ち込むんかよ、仕事の斡旋までやろう、こっちに頼めるんは……)と、小政は呆れかえってしまう。

 だが、付き合ってる?うちに、洋はひとが良い、つまり、ボンボンの世間知らずで、付き合う相手が悪くて、その悪に染まっていただけだと、解って来た。改心させるのは、容易いことであった。

「それで、どうゆう方ですか?いや、いっそう、名前と住所を教えていただきましょう。内密に調査いたしまして、洋さまに相応しいか、また、周りに怪しい男の影はないか、確かめましょう。そのうえで、問題なければ、愛のキューピット計画を考えましょう」

 と、いつもの狂言好きが、顔を出してしまった。

 女性の名前は、篠原麗子、年は洋と同い年、昼間、洋裁学校に通い、夜は、バーで女給をしているとのことである。

 さっそく、身元調査が始まった。野上刑事にも協力を依頼する。

 結果はあっさりと判明した。彼女は、洋の遠縁、時影に殺された、吉村孝夫が惚れて、貢いでいた彼女であった。だから、その頃から、洋とは顔見知りであったのだ。

 麗子の別の男とは、孝夫のことであった。孝夫が殺されて、麗子は悪い連中とは縁が切れた。働きながら、洋裁の技術を身につけようと、夜の街で働いている。だが、そろそろ、トウが立つ年に差し掛かっている。しっかりした相手がいれば、家庭に入ることも視野に入れ始めていた。

 そこまで調べて、小政は自ら、麗子を観察に出かけた。麗子の勤める、バーへ足を運んだのである。

「わしも行くでぇ」

 と、言ったのは、亀次郎である。琴絵の悪阻(つわり)が収まって、心に余裕ができたのと、今までの禁欲の反動――憂さ晴らし――である。

「費用は、会社の経費や、接待費で落とすワ」

 と、長吾郎に聴かれたら、ドヤされそうなことを言う。

 イケメンの亀次郎と、インテリの小政のコンビ、バーの扉を入ったとたん、女性陣の視線が集まった。

「麗子、ゆう娘は居るかえ?」

 と、亀次郎は、ボックスのソファーに腰をおろし、おしぼりで顔を拭きながら隣に座った、化粧の濃い若い娘に言った。こういう場に慣れているのであろう、小政と比べ、余裕がある。

「麗子ちゃん?」

 と、この店のマダムらしき、和服の年増が首をひねる。

「社長、本名じゃ、駄目ですよ。ホラ、源氏名は、ホタルさんやったか……」

 と、小政がフォローする。

「ああ、ホタルちゃん、社長さん、ホタルちゃんをご指名?珍しいなあ、お知合いながですか?」

 と、不思議そうに、亀次郎を眺めながら、若い子に、ホタルちゃん呼んどいで、と小声で命じる。

 亀次郎が背広のポケットから、外国製の煙草、ラークの箱を取り出し、一本口に咥える。すかさず、マダムがジッポのライターで火をつけた。

 そこへ、地味なドレス姿の痩せた女性が現れた。そのドレス、どうやら、自家製らしい。洋裁学校で習った技術で作ったもののようだが、センスが疑われた。

 マダムは他の常連に呼ばれ、席を後にする。化粧の濃い、若い女と、麗子――ホタル――がボックス席に残った。

 ホタルは口数が少なく、周りの会話に相槌を打つばかり。化粧の濃い女性は、よく喋る。ホタルへの問い掛けも、九割はその女が答えてしまうのである。

 取敢えず、本人と化粧の濃い女から、いくつか麗子――つまり、ホタル――の情報を仕入れた。

 独身であること、一人暮らしであること、恋人――付き合っている男性――または、意中の人はいないこと。そして、結婚への憧れをもっていること、などを訊き出したのである。

「エライ、会話が弾んでますねェ」

 と、マダムが席に帰って来た。

 独特の、化粧、香水の匂いが鼻につき、小政は辟易してしまう。

「社長、次の予定が……」

 と、時計を気にするようにして、小政が亀次郎の袖を引く。

「ああ、もうそんな時間か」

 と、亀次郎も、マダムの匂いを避けるように、立ち上がった。

「あら、もうお帰りですか?」

 と、マダムが愛想笑いの顔を作る。

「また近いうちに来てくださいね?ホタルちゃん、お送りして……」

 マダムの決り文句を聴きながら、ふたりは店のドアを開けた。

 ドアの外まで、見送りに来た、ホタルに、小政はチップとして、千円札を握らせる。

「店を抜け出せるかい?少し話がしたい」

「あっ、はい、大丈夫です」

「そうか、じゃあ、そこの、『ルノアール』って、喫茶店で待ってる」

「はい、ママに断ってきます。着替えますから、十五分ほど、お待ちください」

 そう言って、ホタルは店の中に消えて行った。

「二度と来たくないな」

 と、店を離れ、亀次郎が呟く。

「女の質も悪いし、酒も不味い。その割に、料金は、一流クラブ並み。最悪なのは、マダムの化粧やな。今に潰れるわ、あの店……」

 小政は、無言で、笑顔で肯き、通りの反対側にある、「ルノアール」の扉を開けた。

 約束通り、十五分で、麗子に変わった、地味なブラウスと黒のパンツ姿の女性が、店のドアのカウベルを鳴らして入って来た。小政が手を挙げて、合図をする。

「用件を、単刀直入に言います」

 麗子がコーヒーを注文し、ウエイトレスが席を離れると、小政が、話を切り出した。

「おたくら、刑事さん?」

 と、麗子が疑わしい眼で、小政を睨む。

「いや」

 と、答えると、

「店に居る時から、妙に、ウチのこと根掘り葉掘り聞くし、エライ、チップもはずんでくれるし、刑事やなかったら、何?ウチの身体目当てとは思えんけんど」

「まあ、そりゃあ、怪しまれるのも無理ないなぁ」

 と、亀次郎が、両手を頭の後ろに回し、伸びをするようにして、笑顔を浮かべる。

「まずは、我々の自己紹介から行こうか、小政、名刺出しちゃり」

 イケメンの亀次郎の笑顔は女性を安心させる。麗子は小政の差し出す名刺を素直に受け取った。

「弁護士?都筑政司さん?」

 偽名の方の名刺を差し出した小政は肯いて、麗子の顔を覗き込む。

「ある人物から依頼を受けて、あなたの身元調査をさせていただいております」

 と、口調まで、事務的に変わった。

「ある人物?誰やの?」

「まあ、それは後ほど……。悪い話ではありません。その方、男性ですが、あなたに恋心を抱いていらっしゃる。まあ、弁護士を雇えるくらいですから、裕福というか、まずまずのご家系の方、と思ってください。その方は、ご結婚、つまり、適齢期を迎えられ、お相手を捜しておられる。周りの者から、縁談を勧められるが、どうも、煮え切らない。そこで、追及すると、あなたに恋をしている、と、打ち明けてくれたわけです」

「わたしに恋心?まさか、こんなミテクレの女に惚れる男がいる訳ないろう?人違いと、ちゃうの?」

「いえいえ、さっきのお店の中では、最も素敵な方でしたよ」

「おい、そりゃ、褒め言葉になってないぞ。あの店の女と比べたら、お寅さんでも、美人の部類やぞ」

 と、亀次郎がまぜ返す。

「お寅さんって?」

「い、いや、失礼、お寅さんは知り合いの、旅館の女将さんです。六十を超えた、ばあさんで、ハチキンで有名な方です。

 まあ、お寅さんは関係ない、話を戻しましょう。あなたは、自分が思っている程、魅力に欠ける女性ではない、そう申し上げたかったのですが、例えが悪すぎました。こちらの調査では、以前、あなたに惚れて、随分貢いでいた男がいたそうですね?」

「えっ?ど、どうしてそこまで?」

 孝夫という、ヤクザな男との過去を知られているのか?と、麗子の顔色が変わった。

「まあ、調査の中で判明したこと、別に悪いことではありません。その男とは縁が切れている。しかも、一方的な、男の思い込みのようですし、ご縁談に影響はありません」

(孝夫の過去までは調べてないのか?)と、少し安堵の表情を浮かべる。

「どうでしょう?いちど、私どものご依頼人さんと、お会いしてもらえませんかな?」

「つ、つまり、お見合いをしろと……?」

「そうゆうことになりますかな。今までの調査で、我々といたしましては、合格点を麗子さまに出しております。あとは、麗子さま次第。お相手が気にいらなければ、お断りして構いません。我々の仕事は、そこまででございます。無理やり、婚姻届にハンコを押させる、そんなことは、依頼の範疇にはありませんから……」

 少し悩む表情を浮かべていたが、麗子は「会うだけなら」と、承知した。

「あまり、大げさにしたくないので、どこかの喫茶店にしましょう。ここは、お店に近いから、そうだ、『皇帝』って、店にしましょうか、ご存じでしょう?」

        *

「蛇足の話が、長くなりましたね。その、『皇帝』でのお見合いも面白おかしく、小政さんが語ってくれたのですが、まあ、結論から言うと、洋さんの求婚は、大成功。もともと、ふたりは友達同士でしたし、孝夫と比べれば、洋さんはボンボンで人が良い、奥手で、女性関係もマッサラです。麗子さんも憎からず思っていたようで、

『なんや、洋やないの、あんたが見合いの相手?弁護士にまで頼まんでも、好きや、結婚してくれ、で、お終いやろう?ウチが断るとでも思うてたん?』と、言ったそうですよ」

 ははは、と笑って、S氏は「南」を口に含む。

「この二人の結婚を祝って、お吉さんは例の、マッちゃんのテンゴウ噺を、本当のことのようにして、洋さんにポンと、十万円をあげたそうです。当時の十万円、今の貨幣価値だと、二、三百万円、いや、もっとでしょうかね?何でも、お吉さんの父親から、遺産分けで、現金でなく、骨董品を貰っていたらしくて、それが、相当な値打もんだったそうです。詳しくは訊けませんでしたけれどね……。

 その、骨董品を処分した後、お吉さんは高知を離れました。

 ここから、また蛇足のお話です。翌年の春、ひかりさんが無事、高校を卒業した後、お吉さんとひかりさんは、何と、新潟に向かったのです。いや正確には、ひかりさんは、京都の大学に進学したのですが、実家から離れ、新潟の染谷家に世話になることとなりました。いや、世話になったのではない、逆に、ひかりさん達が、染谷酒造という、蔵元を救ったことになります」

 染谷酒造は、番頭の資金着服により、苦境に立たされていた。銀行からも融資を受けられない状況であった。その中、ひかりが自分の相続した資産を使ってくれと申し出たのである。

「あげるのではないわ、貸す、融資するのよ」

 と、ひかりは賢に言った。

 条件として、小吉を従業員として雇うこと、そしてもうひとつ、新しい杜氏を雇うことであった。

「この杜氏さんというのが、実は、うちの祖父の関係者でしてね」

 と、S氏が説明を加える。

「祖父の実家も、蔵元だったんですが、その当時、もう、経営縮小していたんです。昔堅気の杜氏さんも首にしないといけない状況でした。そこで、その腕の立つ、杜氏を遠く、新潟まで送りだす計画を立てたんです。これには、うちのハチキンばあさんと、顔役さんの、いや、小政さんも含めての陰謀だったようです」

 と、笑いながら、再び、グラスの酒で喉を潤す。

「新潟と土佐では、気候が違う、酒造りもおそらく、違っていたでしょう。ところが、この杜氏さん、うちのじいさんに輪を掛けた『いごうっそう』で、

『酒造りはどこでも同じよ、アメリカでも、ヨーロッパでも、その気になれば、酒は造れる。まして、日本、しかも、米どころの新潟なら、美味い酒が作れんわけがない、わしを甘う見んとってよ』と、逆に大乗り気でした。

 家族も、息子たちは独立してたようで、気楽な一人身、勇んで、新潟に向かったそうです。

 その後、染谷酒造は新しい銘柄の酒を作ったり、果実酒や焼酎を作ったり、その杜氏さんの意見を取り入れて、商売が上向き、数年で、ひかりさんから借りていた借金を返済できたそうです」

 お吉さん――吉村小吉――は酒屋の経理を担当し、無駄を省き、宣伝にも力を入れ、営業活動まで、店の者に指導した。軍隊時代の厳しい中にも、愛情ある指導方法は、皆から信頼され、生産だけでなく、販路の方でも、新しい血が入って、染谷酒造は発展して行った。

「それと、もうひとつ、ハプニングというか、意外な結末があるんです」

 と、S氏がニンマリと笑顔を浮かべ、一口酒を含んで、話を続ける。

「ひかりさんですがね、京都の大学へ進んだのですが、そこで、同じ大学に、石川八郎君がいたんです。睦実さんの弟さんです。彼は、野球と美術の教師の二足のわらじをはくべく、教員を目指していて、偶然、学部は違ってましたが、ひかりさんと再会する。八郎君、ひと夏のあの出会いで、ひかりさんに一目惚れしてたらしくて、猛アピールしたそうです。

 で、結局、ふたりは卒業後、二、三年で結婚、本来なら、石川家の後継ぎになるはずの八郎君が、これまた、新潟に行ってしまったそうです。新潟で、中学校の教職の仕事に就いて、美術と野球を教えたそうです。

 あっ、肝心なことが抜かっていましたね、ひかりさんは、まず、お吉さんの養女になりました。東ひかりから吉村ひかりになり、そして、石川ひかりになったのです。それで、お吉さんと八郎君と三人で、小さいながらも、一軒家を借りて、幸せな家庭を築いたそうです」

 S氏はそこで、もう一度、「南」を口に含む。それから、少し間をおいて、

「これは、もう、今回の話から、脱線してしまう、エピソードなんですがね」

 と、話そうか、話すまいか、迷っている口調で、わたしに問いかけた。

「いえ、関係ない話でも、どうぞ聴かせてください」

 と、わたしが勧めると、

「では」と、酒の入ったグラスをテーブルに戻した。

       *

「例の、太夫さんのことですがね」

 その言葉に、わたしは、太夫さんの最後、お亡くなりになる話かと身構えた。

「あっ、いや、悲しい話ではありませんよ」

 と、わたしの態度を察してか、S氏が言葉を挟む。

「逆に、おめでたい、というか、不思議な話になるんですが……」

 と、少し、上向き加減で、話の切出し口を探るような表情を浮かべた。

「実は、後で知ったのですが、うちのばあさんと太夫さんは同じ村の出身だったそうです。そう近所でもないようですが、年齢も近くて、子供のころから顔見知りで、遊んだこともあったそうです」

 太夫さんは、その村の有名な神社の禰宜の娘で、年少の時から、異常な才能を見せていた。つまり、見えないものが見えるのである。「見鬼」と呼ばれるものである。

 その為、周りの子供たちからは、気味が悪いと敬遠されていた。ただ、お寅さんは、子供のころから「ハチキン」ぶりを発揮して、見えないものが見えるという、太夫さんの怖い話にも笑って、恐怖心を誤魔化し、仲良く遊んだのである。

 太夫さんにとって、唯一の友達がお寅さんであった。歳を重ねると、太夫さんは修行に励むことになり、お寅さんは、旅館で働くことになる。

 縁が切れた二人が再び出会ったのは、お寅さんが、刻屋の女将になるかどうか、思案していた時である。思案しかねて、知り合いに相談すると、

「よう当たる、八卦見が居る」

 と、紹介され、訪問すると、八卦見―――占い師――ではなく、祈祷師――太夫――であった。その弟子に、幼馴染の太夫さんがいた。

 修行中であるが、その師匠に負けず劣らずの才を発揮していたようである。

 その、年寄の師匠から、刻屋の女将になることを推奨され、

「不安なら、わしと、弟子の二人が祈禱した、お札をあげよう。これを身につけておれば、どんな災いからも身を守れる」

 と、何やら複雑な梵字が書かれたお札を貰った。

 結果、お寅さんは、刻屋の女将になり、幸せな一生を過ごすことになる。

 そして、師匠が亡くなって、太夫さんが独立した後、もう一度、お札を貰うことになる。それは、千代を養女に迎える決断をする時である。

 幼い、千代を連れて、太夫さんの庵を訪れた。

 ひと目、千代の顔を見て、

「これはエイ子じゃ。お寅さん、あんた、果報もんじゃ」

 と、太夫さんが言った。

 その上、千代にも災いが起きないように、お札をくれた。

「つまり、我が家には、二枚の『お札』があったわけです」

 と、S氏が一息入れる。

「さて、ここからが、今回の事件との係わりのある、エピソードです。随分前置きが長くなりました」

 ひかりや石川姉弟が高知を離れ、安村という、悪党が殺されたと、小政が報告に来た、その後の話である。

       *

「ええ、しょっちゅう……」

 と、千代が笑いながら、答えた、あの場面からである。

「それはそうと、太夫さん、具合はどうながやろう?」

 と、今言った冗談を誤魔化すように千代が話題を変えた。

「小政さんが逢うた時は相当、具合悪そうやったがやろう?」

「ええ、今にも……って感じです。相当きつい、御祓いを続けていたようです」

「こりゃあ、どうもイカン、アテが行って、様子を見てこよう」

 と、お寅さんが立ち上がる。

「えっ?今から行くんですか?」

「ああ、手遅れにならんうちに、渡したいもんがあるきに……」

「ほいたら、わたしが車で送りましょう、あそこは、電車、バスの便が悪いし、歩いて行くには、ちっくと、遠いですから」

「そりゃあ、すまんねェ。ほいたら、遠慮のう、厄介掛けようかね。ちくと、準備するき、待ちよってよ」

 と、お寅さんは奥の座敷に入って行く。

「ほいたら、車廻してきます」

 と、小政も立ち上がる。

「御免ね、仕事に差し支えん?」

 と、千代が気遣う。

「なんちゃあじゃない、お寅さんと千代さんの用事なら、社長命令で、何でも訊くように言われてますき。それに、わたしも太夫さんのこと気になっていましたし、今度の件のお礼にも伺わんとイカンかったですき、丁度、エイ機会です」

 そう言って、小政は刻屋の玄関をあとにした。

 お寅さんは着替えを済まし、一度電話で、庵に出向くことを事前に伝えた。

 手に小さな風呂敷包みを提げて、玄関を出ると、小政がダットサンを運転してきた。

 その後部座席にお寅さんを乗せて、車はちとせ劇場の方へ走りだした。千代は車が電車通りを左折するまで、心配そうに見送っていた。

       *

 薫的さん――薫的神社の愛称――近くの庵脇に車を停め、砂利道を庵に向かう。ツクツクボウシとアブラゼミの声が、蝉しぐれのごとく、響いていた。

 庵の玄関口で「御免ください」と声を掛けると、顔見知りの、弟子の少女が白衣の巫女装束にポニーテールの髪型で現れ、「どうぞ」と、祈祷場へ案内される。そこに、太夫さんの姿はない。

「少し、お待ちください」

 と、言って、少女は襖を開け、隣の部屋へ入って行く。

 数分後、少女に手をひかれ、と言うより。半ば抱えられる様にして、太夫さんが祈禱場に入って来る。そして、用意されていた、座イスに身体を預ける。

「お寅さん、よう来てくれたね。そろそろ来る頃やと、思いよった」

 と、しゃがれた声で太夫さんが言った。

「あ、あんた、大丈夫かね?」

 お寅さんの問い掛けに、太夫さんは答えず、弟子の方に向かって、

「何か騒がしゅうないかね?」

 と、尋ねた。

 蝉の声が煩いのかな?と小政は思ったが、

「はい、ザワついていますね、いつもと様子が違います。何かに怯えているような……」

 弟子の少女が、意味不明――小政にとって――な答え方をした。

「そうかね、あんたにも解るぐらいなら、相当なもんやね」

 と、肯いた後、

「お寅さん、あんた、何か、変わっちゅうもんを提げて来んかったかね?」

 と、視線を客の二人に移して尋ねた。

 小政には全く理解に苦しむ会話である。ところが、お寅さんの反応は違っていた。

「よう解るね?流石、トミさんや」

 と、太夫さんを幼名で呼んだ。

「あんたの顔色が、次第に善うなりゆうね?」

 と、話を続ける。

 えっ?そんな、変化があった?と、小政は太夫さんの顔を覗き込む。

 そう言われれば、太夫さんの顔に赤みが差してきた。しかも、表情が、鬼女のような雰囲気から、昔のお多福のような柔らかい顔に変わって来ているのである。

 な、なんやこれは……?

「これを返しに来たがよ」

 と、お寅さんは手元の風呂敷包みを開いていく。

 取り出したのは、半紙に包まれた、梵字のお札である。

「これは、アテが、刻屋に嫁に行く時、あんたのお師匠さんとあんたの二人でご祈祷してくれたお札よ」と、そのお札を、弟子の少女に手渡す。

 少女の手から、太夫さんの手に、そのお札が渡った時、一瞬、部屋の中が、特殊な光――写真撮影のフラッシュのような――に包まれた気が、小政には、したのである。

 そして、部屋の中の空気が、匂いと言うか、肌触りと言っていいのか、確かに変化したのを小政は感じていた。

「もう一枚、千代にくれた、お札も持ってきたけんど……」

 と、お寅さんが手元にもう一枚のお札を広げる。

「いや、この一枚で充分ぞね。ありがとう。その一枚は、お寅さん、あんたが持っちょいてよ。アテとあんたを繋ぐ、大事なもんやき」

 そう言った、太夫さんの眼――見えない左眼――から、涙の粒が落ちていた。

 お寅さんは無言で肯いた。

 こ、こりゃ、お寅さんのパワーなんか?と、小政は声を出せないまま、驚くばかりである。

 庵の中が浄化され、太夫さんの顔が、昔のお多福顔――痩せていて、お多福には見えないが――に戻って、優しい笑顔を浮かべるのを見て、

「もう、大丈夫やね、ほいたら、アテは失礼するぞね。長いこと、座っちゅうと、膝が痛うなるき、小政の兄ィさん、あんた、早う、用事済まし。お礼を言いに来たがやろう?」

 と、お寅さんは言いたいことを一度に喋った。

「あっ、はい……」

 と、我に返った小政が慌てて、先日のひかりに対する助言のお礼を言い、顛末を簡単に話した。

「ああ、解っちょったよ。あの娘の決意の強さは、あの時に充分見て取れた。それに、あの時、一緒に居った仲間を見てたら、結果は手に取るように解った。まあ、エイ結果になってよかったわ、アテはなんちゃあ、役に立ってないぞね」

 太夫さんの笑顔を見ていると、小政は自分の周りが不思議な光に包まれていくのを感じていた。

(役に立ってないどころか、この人のパワーは恐ろしい。それに負けんくらい、ハチキンばあさんのパワーも恐ろしい。いや、驚異的やが、頼もしい……)と心中で呟く小政であった。

「お互い、長生きしようね」

 と、太夫さんは――なんと、自力で立ち上がり――お寅さんの手を握りしめて、そう言った。

「トミちゃんもね……」

 と、また、幼名で太夫さんを呼んで、お寅さんと小政は、庵をあとにしたのである。

      *

「不思議なお話ですね。でも、世の中には、そういった、奇跡に近い話はよく聞きますね」

 と、わたしは物語を語り終えて、グラスの酒をまた含んでいる、S氏に向かって、しみじみとした口調で言った。

「ええ、小政さんは、すっかり、太夫さんのファンになってしまいましたよ。理論的で現実主義の小政さんでも、眼の前の出来事は、奇跡と思えたのでしょうね。

 その後、太夫さんは、すっかり健康を取り戻して、長く、人様の災いを取り除く、仕事を続けたそうです。

 あっ、そうそう、弟子の女の子も、その日を境に、能力が花開いたかのように、見えないものが見えるようになって、立派な後継ぎになったそうですよ。お寅さんが持参した、お札には、どんだけのパワーが秘められていたんでしょうかね……?」

 S氏はニンマリと笑って、グラスに残った「南」という酒を飲みほした。

         了

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「はちきん」おばあさんの事件ファイル @AKIRA54

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