エピソード Ⅵ ハマさん最大の事件(後篇)
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「最初に、お断りをしてなかったですが、私はほとんど、この事件には関与していません。話は、坂本刑事や、小政さん、睦実さんから伺った、又聞きです。そして、少し脚色もしています。大丸に『観覧車』が出来たのは、事件の後の事です。まあ、事実でない、小説、フィクションってことにしておいてください」
と、S氏は一旦話を止め、久礼という酒を口に運ぶ。私もつられて、芳醇な香りのする酒を口に運んだ。
「で、その主犯格の男、時影、という男はどうなりました?捕まったんでしょう?」
「いや、それが、巧くいかなかったのです。話を進めたいのですが、その、桂浜の『竜王岬』での、その後の事は、小政さんも睦実さんも、十兵衛さんも知らないとゆうか、見ていないのです。野上刑事の怪我、救急車の手配、そちらの方に集中していて、警察の動きは把握していませんでした。ですから、その場面の証言、いや、物語を語ったのは、坂本刑事なのですが、警察の不手際、になることのようで、言葉を濁していました。そこで、この部分は、坂本刑事の回想をもとに、私の想像を交えてのお話になります」
*
「それで、どうなったがぞね?犯人は捕まえたがかね?」
桂浜の出来事から、二日後の午後、刻屋の玄関脇の長テーブルに、勇さん、お寅さん、千代、S氏が座っている。今日は日曜日である。
お寅さんの言葉に、勇さんは食べかけの、どんぶり飯をテーブルの上に置く。
「勇さん、いつもより、ご飯の減り方少ないよ。おかず、美味しゅうなかった?」
元気のない、口数も少ない、勇次を千代までが、気遣っている。
「いえ、飯は何時もどおり、美味いです。けど、喉を通りません」
「どうしたがぞね?事件解決したがやろう?風野ゆう男、白状したそうやいか」
「ええ、事件は解決しました。結論も出ました。被疑者、死亡、での告発になる筈です」
「じゃあ、その、主犯の時影、って男は死んだがかえ?抵抗して、やむを得ず、拳銃で撃ち殺した、そうゆう結末かえ?」
「いえ、銃は発砲しましたが、致命傷になる処へは当たっていません。腕を掠めたくらいです。僕も、まあ、狙いどおり、肩の辺りに当たったと思います」
銃を発砲したのは、勇さんであった。刑事が一人、凶器により、負傷している。まだ、武器を持っている可能性もある。逃亡を防ぐため、拳銃使用は、正当な行為であった。
腕に、銃弾を受けても、時影は止まらない、石段を、登り、社殿の前までたどり着く。反対側の崖を降りるつもりであったが、そこから、杉下刑事を筆頭に、数名の警察官が、登って来るのが、視野に入った。挟みうちで、逃げ場がない。
そこへ、拳銃を手にした、勇さんが現れる。
「動くな、抵抗はやめろ。もう逃げ場はない」
(ほう、中々、エエ構えしてる。今度は、外さんと、弾を喰らいそうやな……)と、時影は覚悟を決めた。
身体を低くして、刑事――勇さん――の足元に迫る。と見せて、横に走り、転落防止の柵を軽々と越え、
「坂本さん、でしたっけ?さよならですよ」
と、そのまま、荒れ始めた、海へ飛び込んだのである。黒いロングコートが、鳥の羽根のように、翻って見えた。
勇次が柵から、下を覗き込んだ時、波間にコートが揺れていた。杉下刑事が、覘いた時には、そのコートも、沖に流され、波間に消え去ろうとしていたのである。
「ふ、船や、船の手配、絶対、逃がさんでぇ」
と、杉下刑事が、周りの警察官に怒鳴り声を上げる。
(無理や、この冷たい海、この荒れた海、から、泳いで逃げるなんて、スーパーマンしかできんことや……)と、白波の立つ、黒い海面を眺めながら、勇次は呟いていた。
結局、その日は、波が荒れ、日が沈んでしまったため、捜索は打ち切りとなった。ただ、海岸線は、かがり火をたき、非常灯を用意して、万が一、時影が、海から生還した時に備えていた。
翌朝、波はかなり高いが、巡視船が出され、近辺の海、海岸線の捜索が行われた。しかし、時影の遺体も遺留品も発見できなかったのである。
*
巡視船の捜索が続いていた頃、勇次は、県警の取調室で、風野に向かい合っていた。
「風野さん、あんたの相棒、時影、って名乗ってくれましたよ。やったのは、自分や、そう言ってました。まるで、あんたとは、双子、いやそれ以上に、そっくりでしたね。どうゆう関係ですか?双子の兄弟ですか?」
やったのは、自分や、とは言っていない。が、残されたナイフ――十兵衛が指弾で傷つけた、右手から、砂浜に落ちたもの――は、善兵衛さんを刺した刃物の傷と一致した。特殊な刃形のナイフであったのだ。そして、わずかであるが、善兵衛と同じ、血液型の血痕も見つかったのである。状況証拠としては、かなりの物であった。
「あ、あいつが捕まったのか?あいつが……」
風野はガックリと肩を落とし、自供を始めたのである。
「時影のことは、よう知りませんのや。一年ほど前の、寒い晩、わたしが、売れんかった宝石抱えて、宿に戻って来た時、いきなり、宿の玄関脇から、コートを着た男が出て来たんですワ」
風野は、そう言って、時影との出会い、そして、その後を語り始めた。
薄暗い、玄関の街灯に照らし出された顔は、それを眺めている本人である。似ているのではない、そこにもう一人の自分が立っている。そして、薄笑いを浮かべているのである。
「ドッペルゲンガーって知ってますか、刑事さん?自分と瓜二つの、もう一人の自分を見ることやそうですワ。作家の『芥川龍之介』も見たって話ですワ。そして、それを見たら、遠からず、死ぬことになる、って話です。芥川は自殺したそうですワ。いや、わたしが見た、その男が、ドッペルゲンガーやったと、ゆうんやないですよ。そん時、そう感じた、ゆう話ですワ」
その男は、話がある、俺は、あんたの、遠い親戚に当たる者だ。顔が似ているのは、先祖返りの偶然だろうがね。と、まず、自分のことを話した。
二人は、近くの居酒屋に足を運び、隅の席に腰を下ろす。男は、黒い眼鏡を掛けた。
「こうしないと、周りから、妙な眼で見られるからね」
と、男は言った。
「名前は、名乗るほどじゃあない、いや、知らない方がいいかもしれんから、『時影』とでも呼んでくれ、あんた、時次郎さんの影分身の略さ。
実は、あんたと組んで、儲け仕事をしたいんだ。顔、いや、身体付きまでそっくりな、あんたとわたしじゃないと、出来ない仕事さ。かなりの儲けになる。どうだ、乗らないかい?」
当時、金に困っていた、風野は興味を示し、話を聴くことにした。
時影は、かなりの腕の盗賊である。だが、顔を見られたりする、可能性がある。そこで、アリバイ作りのために、風野を利用したい。もうひとつ、見つかった時の逃亡方法にも使いたい、と言うのである。
風野は実際の犯罪には、手を染めない。盗んだ宝石を、加工して、何気なく、売りさばいて欲しい、というのである。それで、儲けは折半で良い、という。
確かに、そっくりな二人が、二人一役すれば、現行犯逮捕でなければ、かなりのアリバイ工作が出来る。自分は実際、犯罪に係わらないのであるから、罪に問われることはない。
「おもろいやないか、その話、乗ったで」
と、時影の杯に徳利の酒を移しながら、風野はそう、承諾の意を表した。
時影は、宝石専門の盗賊である。が、宝石店や、宝石商は襲わない。忍びこむのは、個人の収集家の屋敷である。どんな厳重な警戒も、鍵も、金庫も、彼はあっさり、クリアしていった。本当に、影のような行動であった。
唯一度、急ぎの仕事をしてしまう。セイロンの王族の宮殿から、盗まれた、世界に二つとない「サファイヤ」が、ある貿易商の手に渡ったとの情報を得たのである。いつ、そこから、別の人物に、サファイヤが譲られるか解らない。時間が限られていた。
盗みの現場を、見つけられる可能性があると考え、二人一役の逃亡計画を立てる。年末の警戒が厳しい時期の侵入。引き際に、飼い犬に見つけられた。しかし、予防線が効果を示し、まんまと、盗み、逃亡に成功したのである。
「まさか、あのトリックを見破る刑事が居るとは、思わへんかったワ。あれは、忍者のやり方や、って、影はゆうてた。あいつ、風魔とかゆう、忍術集団の末裔やってゆうてた。そんなら、ワシも、忍者の末裔か?って聴いたら、笑われたワ」
非常線に、引っ掛かった風野であったが、アリバイ工作は完璧である。ほとぼりが冷めるまで、次の行動は起こさないようにして、本来の商売である。宝石の訪問販売に出かけたのである。
「高知に来たのは、南国土佐ゆうから、暖かいやろうと思うたんや。それに、酒も魚も美味いし、別嬪の芸妓まで居る。田舎と思うたが、こりゃ、極楽、いや、竜宮城や。
商売のついでに、盗んだサファイヤの相場が知りとうて、通りがかりの質屋に寄ったんや。正直そうな親爺やったし、盗品とは思ってないようやから、一晩預けることにした。それを知った、影の奴が、危ない、ゆうて、取り返しに行く。その間、ワシは、芸者遊びや。けど、そのアリバイを作るため、忍び込むんが早過ぎた。親爺が起きていて、気がついた。しゃあなしに、息を止めたそうや。そんで、宝石はわしが預かった。靴の踵に細工して、隠してた。そうや、あれも、どうして解ったんや?絶対ばれん筈やのに……」
こうして、質屋の、善兵衛さんの殺人事件の真相は解明できたのである。
「そうだ、風野さん、ある人に頼まれてたことがある、あんたに聴いておきたいことが、まだあるんや。ひとつは、あんた、僕の名前、時影さんに教えたか?こう言う刑事が、ホテルに来たって……」
「いや、そんな暇、なかったワ。電話も危ない、ゆうて、連絡は、大丸のロッカー使う、約束やったから……」
勇さんは、時影が、崖から飛び降りる前に、「坂本さんでしたっけ?」といった言葉が、気になっていたのである。何故、自分の名前を知っていたのか?十兵衛も彼の名前は漏らしていないと言っていた。風野でもないなら、誰が……
「そうですか、それともうひとつ。あなた、ネギが嫌いですか?それと、うどんと蕎麦なら、蕎麦が好きですか?」
「な、何や?それ事件と関係あるんか?ネギは大好物やで、蕎麦なんてダメや。関西風の鰹だしの、うどんが、エイに決まってるやろう。うどんにネギは付きもんや。変なこと聴く刑事やなあ……」
これは、野上刑事を見舞いに寄った時、付き添いをしてくれていた、十兵衛が、確認してくれ、と言っていたものである。十兵衛は自分の変装が、いとも簡単に見破られたのを、訝しく思っていたのである。関西人の風野なら、蕎麦より、うどん、と考えて、桂浜の出店では、うどんを注文した。そのことで、時影に正体を見破られた。忍びの者として、許されない事なのである。
しかし、風野の言葉で、あれは、時影のフェイクだったのだ、とわかった。カマを掛けられたのである。そこは、贋者である方の、弱点でもあったのだ。
そのことを、刻屋に立ち寄る前に、十兵衛に伝えて来た。
「やはり、そうでしたか。わたしの修行が足りてなかったってことですね。惚けていればよかったってことです」
と言った、十兵衛は、先日の「エンタツ」に似た、惚け顔から、新藤英太郎に似た、悪役顔になっていた。
*
「それで、結局、時影って男は、死体も見つからんがかね?」
と、お寅さんが、また、時影の行方を気にして尋ねた。
「ええ、今日も、巡視船と、漁船もチャーターして、捜索に当たってますが、行方とゆうか、死体も、遺留品も見つかりません」
「謎の男が、謎のまま、消えちゃった、ってことか」
「ボ、ボン、それどうゆう意味や?時影は覚悟の自殺や。捕まるより、死を選んだ、忍びの最後って奴や」
「そう、睦実さんや十兵衛さんがゆうてたか?」
「い、いや、睦実さんは、忍びなら、最後まで抵抗するか、誰かを道連れにして、一人では死なんろう、ってゆうてた。海へ飛び込んだのは、逃げれる、と判断したからやと。
けど、無理や、あの海の状況、水温の低さ考えたら、何分も泳いではいられん。まして、潜り続けるなんて不可能や。スーパーマンでもない限り……」
「その、スーパーマンだったかもよ、時影、って男」
「ボ、ボン、あれは、コミックの話や、宇宙人の話やでェ」
「まあ、冗談さ。九十九パーセントは死んでる。そして、遺体は沖に流されたか、自ら、浮かばんように、重しでも、身に付けたか……。ただ、一パーセントの可能性がある、ってことなんよ。唯もんやないきね。十兵衛さんがゆうてたもん、腕は互角やったって、ただ、向うに時間的な余裕がなくて、勝負を焦っていた、その差やったんやって」
「そしたら、死体が浮かばんでも、起訴は出来るの?それで、風野は盗賊の共犯者ってことで、逮捕できるの?」
「そうです、千代さん。被疑者、死亡、で、起訴します。それで、善兵衛さんの殺しは解決します。風野は大阪府警に渡すことになりました。供述、取った後、大阪へ御堂さんが、護送する手配になってます。府警からも、応援来るそうです」
「それで、聴き難いことやけど、浜さんはどうなったが?全然、話に出て来んけんど」
「そ、それです、問題は。浜さん、ずっと、熊蔵に張り付いているんです。僕が、犯人見つけた、桂浜へ向かいましょう、ゆうても、熊蔵を見張るゆうて訊かんがです。何を考えてるのやら、お手上げですわ」
「でも、事件解決、野上刑事の怪我も、大したことなかったし、めでたし、めでたし、でもないか、浜さんの手柄には、どう工作してもできんものね」
S氏の言葉に、はぁ……とため息をつく、勇さんであった。
*
勇さんが、重い足取りで帰って行ったあと、同じ、刻屋のテーブルには、小政、睦実、十兵衛が座っている。
「なるほど、重たい荷物が残ってしまったって訳ですね。勇次さんに同情しますね、宮使いは辛い、って、処ですね」
「小政さん、何か、エイ知恵ない?」
「ボンに思いつかん事、わたしが思いつくはずないやろう」
と、誰かのセリフをそのまま、使わせてもらう小政であった。
「ううん、思い浮かばん、熊蔵とゆう男が、別の悪事をしてくれんかなぁ、それしか解決策ないと思う」
「そ、それや!さすが、ルパンの生れ変りや!」
「誰が?いつから、ルパンの生れ変りになったが?」
「インマさっきから。ボンは、ルパン並の才能を持っちゅう、と再認識したがよ。立派な詐欺師になれる、いや、千代さん、間違わんといてよ、詐欺師になれ、ゆうてんやないからね、そのくらい、才能が豊かや、ゆうてるだけやから……」
「わたしも、そう思ってるワ。この前の、マコちゃんの時、立派な詐欺師やったワ、この子……」
「まあ、ルパンは置いとこう。ボンのゆうた、熊蔵が別の悪事をしてたら、ってやつ、戴きや。あいつなら、叩けば埃が出る、とゆうより、埃だらけになる。そのひとつでも、証拠掴んで、浜さんの手柄にしたら、エエんや。今、浜さん、熊蔵見張ってるんやろう?バッチリやいか。十兵衛さんと睦実さん、ちょっと、手ェ貸してよ。一日あれば、熊蔵の埃はすぐ見つけられるワ」
「そうか、そういう手か。ほいたら、ひとつ、ゆうてエイ?熊蔵、きっと、贋の骨董品、本物や、ゆうて、売りつけてるワ、善兵衛さん処、行ったんも、壺の真贋確かめに行ったんやろう?骨董のほうで、悪どい事、絶対してるって……」
「さすが、ボンや、眼の付けどころがエイワ。そりゃ、簡単に悪事がわかるワ。立花屋で、最近、物買うた人間当たれば、十人中、九人は贋もん、掴まされてるワ。後一人は、贋もんと見破って、タダ同然で、買ってるワ。
そいたら、話は早い、十兵衛さん、立花屋へ客として、行ってもらえるか?何でも、高いもん、買うて来たら、それ、多分、贋もんやから……」
「わたしも行きたい」
と、睦実がはしゃぐ。
「ああぁ、僕は明日も学校や、付いて行けん。面白うないなぁ……」
「ボン、ちゃんと、報告するき。手柄は、ボンのもの、イカン、浜さんのもん、にするんやった……」
*
翌日、黒い着流しに、羽織を粋に、羽おって、本丁筋の質屋「毎度屋」の対面にある、骨董商「立花屋」の硝子戸を横に開いたのは、新藤英太郎に似た、十兵衛である。
薄暗い店内には、壺や大皿、茶碗、徳利、などの陶器類。書画の掛け軸類。西洋アンティックのランプ、机、食器棚、西洋人形。そして、大正か昭和の初めに使われていた、日用雑貨品などが、所狭しと、乱雑に置かれている。
その品物に囲まれるように、店の中央には帳場があり、そこに、老眼鏡を鼻眼鏡のようにずらして掛けている、キツネ顔の小男が、帳簿を眺めていた。
十兵衛が、硝子戸を開け、店に入って来る、その音は聞こえているはずである。が、熊蔵は顔も上げない、「いらっしゃい」とも言わない。
(商売する気、あるんか?)と、十兵衛は思った。
さて、何を選んだらエイかな?と、ゆっくり、店内を模索する。
(あまりにも、一目で「安もん」とわかる物はイカンし、かといって、高価なもんなど、置いてないなあ……)
そう思って、視線を巡らせていると、帳場のすぐ横の棚に、小ぶりの壺があるのが見えた。近づいて良く見ると、白地に花の絵柄の壺である。青い花、と緑の茎と葉、そして、水辺の絵柄である。菖蒲の絵であろう。
(ほう、伊万里焼のようや、これなら、まずまずの品やな)と、十兵衛は眼利きをする。
「親爺さん、この壺は、伊万里かえ?」
「おや、お客さん、あんさん、エライ眼利きやねェ。そうよ、それは、伊万里焼でも、古伊万里ゆうて、江戸は半ばの、柿右衛門さんの焼き物よ。値打ちもんや。けんど、もう、売約済み、ちゅうか、行き先が決っちゅうがよ」
(まさか、これは、そんなに古いもんと違うやろう。どう見ても、大正か、昭和の初めの焼もんや。けど、売りもんにしてないとは、どうゆうこっちゃ?)
「それは、エイもんやき、大事なお客さんに届けなイカンがよ。焼き物やったら、九谷、瀬戸、清水焼、備前焼もあるき、どうぜ、安うしちょいちゃらぁ……」
(おやおや、思ったより、真面目な商売してるやないか……)と、内心、当てが外れた、十兵衛であった。
「いや、焼もんは割れたら困る。お届けもんにしたいんや、ご年配の方で、骨董に趣味があるゆうてたから、なんぞ、珍しいもん、ないかえ?」
「掛け軸はどうぞね。勝海舟、西郷隆盛、の書があるけんど……。
それか、浮世絵はどうぞね?歌麿の版画やのうて、一枚絵の美人画があるけんど……」
十兵衛を上客と睨んだのか、次々と、箱入りの書画を出してくる。
いずれも、一目で贋作とわかる物である。書は印刷物、特に、歌麿はひどかった。
「そいたら、これは珍しいもんよ。坂本龍馬のピストル。龍馬が長崎で買うて、乙女ねえやんに贈っちゃったもんよ。乙女の親戚筋が持っちょったもんやき、確かぜよ」
出してきたのは、確かに古い、アメリカ製の拳銃である。スミス&ウェッソン製、しかも、十九世紀末の六連発銃である。
「まあ、実際に、もう弾は撃てんけど、飾り物としたら、面白いと思うで、滅多に出ん、いや、乙女のもんは、世界にこれだけやき……」
確かに、面白い、乙女の物でなくても、骨董の価値はある。だが、それでは、詐欺行為で逮捕できるほどの物ではないようだ。
やはり、書画にするか……。
「有名な画家の掛け軸はないかえ?美人画やのうて、山水か、日本画の風景画とか……」
「あるある、取って置きのもん、見せちゃお。入って来たばっかりやき、まだ、値を付けてないもんや。一休禅師の山水画、元、大庄屋の蔵出しやき、これは値打もんぞね」
奥の座敷から古びた、桐の箱に入った掛け軸を持ってくる。取出した物は、中国の山水画のようである。七賢人が書かれていた。まずまずの腕の画家が描いた物のようだ。一休禅師作は眉つばである。
「あの有名な、一休さんかえ?そりゃあエイねェ。けど、贋作や、ないろうね?」
「何、言いゆう。出処が確かやし、絵も、力強い。落款も調べたら、同じやった。間違いなし、入ったばっかりやき、安うする。どうぞね、買うかね?」
金額を聴いて、それほど高くはない。本物だったら、その何十倍の値段であろう。
「ちょっと高いねぇ、そうや、この、乙女のピストルと一緒でその値段でどうぜ?それなら、買うてもエイ」
熊蔵は、そりゃあ、あんまりやいか、と言いながらも、最終的には、
「よっしゃ、わしも、エイことがあって、これから、この商売に身を入れるつもりやき、最初のお客さんのあんたに、気にいってもろうた品やったら、その値でエイわ。清水の舞台から飛び降りた気持ちで、売っちゃお。持って行き……」
(そうか、熊蔵さん、質屋殺しの犯人、捕まって、疑いが晴れた、それで、機嫌がエイんか。今朝の新聞、読んだってわけか……)と、十兵衛は納得した。
「贈り物やから、一筆、一休禅師の書、と書いてくれ」と、証明書を付けて貰う。これが、詐欺の証拠となる筈である。
(しかし、殺人容疑よりは、はるかに軽い罪やな。浜さん、ゆう刑事の手柄になるんやろうか?)と、十兵衛は一抹の不安を覚えた。
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「ほう、これが、一休禅師の絵、ゆうんか?」
畳の上に、広げられた、熊蔵の店から仕入れて来た掛け軸を眺めながら、顔役さんこと、山本長吾郎は呟いた。そこは、長吾郎家の居間である。
主人の長吾郎、小政、十兵衛、そして、睦実が畳の上に座っている。
「中々、達者な筆やが、贋もんやな。けど、その値段やったら、惜しゅうない。床の間に飾って、充分、楽しめるワな……」
「そうですね、こりゃ、誰か知らんが、大家の絵を模写して、それに、眼をつけた、悪徳業者が、落款、偽造したんでしょうね。一休の署名が、下手糞すぎますワ。絵はたいしたもんですけど……」
と、小政が自分の推測を語る。
「それでは、熊蔵の『詐欺』とは言えませんね。十兵衛のゆうたとおり、熊蔵は、ホンマもんと思うて、売ってる。悪気がない。骨董の商売には、ありがちなことですものね」
と、睦実も自分の見解を示す。
「そうや、善意の第三者ってことになるな。盗品、贋もん、と知らずに商いした。これは、罪にはならん。大元の、贋作、作ったもんが悪いだけやから」
「小政の狂言も、たまには、外れるか?」
と、顔役さんが笑顔を浮かべる。
「叩けば、埃が出る、と思うてましたが、こりゃ、本当に、心入れ替えたがやろうか?ちと、当てが外れましたワ。何か、他の策、考えな、いきませんね」
「また、ボンに相談しますか?学校から帰ってきたら……」
「そうやなあ、ムッちゃんのゆうとおりやが、ボン頼みも癪やなぁ。まあ、今から、刻屋行って、千代姐さんの知恵でも借りるか……」
「そうですね、小政さん、千代さんの顔見たら、元気出て、頭の回転もようなるみたいやから」
「そらそうや、こいつ、千代さんに惚れちゅうき、千代さんの前では、インテリの能力、全開になるがよ。わしの前では、普通のアンちゃん、やけんど……」
「しゃ、社長、人聞きの悪い。わたしゃあ、人妻に懸想など、しませんき。それに、いっつも、頭は働かしていますき」
「ははは、そう、ムキになる処が、その証拠よ。エイエイ、正直ゆうて、わしも、千代さんに惚れちゅうき。幸雄さんが羨ましいき」
「ほ、ほいたら、刻屋へ行ってきます。ムッちゃんも行くろう?」
小政は、その場を早く退散したくなって、立ち上がる。睦実も笑いをこらえながら、
「勿論です。小政さんが、不倫せんように、見張っております」
「ふ、不倫?ムッちゃんまで、ひどいなあ……」
*
「えっ?熊蔵が来てたんですか?」
小政と睦実が、刻屋の勝手口から声を掛けて、みっちゃんが応対に出て来た時、玄関から、熊蔵が出て行く姿が、ちらっと見えた。
「そうながよ。何でも、疑いが晴れたお礼や、ゆうて、女将さんに、柿右衛門の壺、持って来たのよ。探偵の依頼料だそうですよ」
「そうか、十兵衛さんのゆうてた、菖蒲の絵の壺の行く先は、この、刻屋やったんか。納得したわ。けんど、ありゃあ、まだ、新しいもんで、そう値はせんがやろう?」
「女将さん、鬱陶しいから、何も言わんと、値段も聴かんと、ほな、貰ろうとく、ゆうて、さっさと、追いだしました」
「そりゃ、熊蔵も当てが外れたね。壺のうんちく、喋って、真っ当な商売してる、って、印象付けたかったろうに……。
ところで、千代さん、居るかえ?」
「ええ、二階の物干しで、洗濯もん、入れてます。ひと雨来そうですき、生乾きやけんど、わたしも、台所済ましたら、お手伝いせんといきません。呼んできますき、玄関脇の、テーブル、いつものとこで、待っててください」
「洗濯物、取り入れるの、わたしも手伝います。そうゆうの、うちで、しょっちゅう、やらされてますから、慣れたもんです」
と、睦実が笑顔でそう言った。
「いけません、お客さまに、そんなことさせられません。女将さんに、どやされます」
「誰が、どやすって?」
と、玄関口から、勝手口の方へ、お寅さんが向かってくる。
「みっちゃん、小政さんは、身内同然、石さんの妹さんも同じ。手伝うてくれる、ゆうもんを、断るのも失礼や、物干しへ案内しちゃり。小政さんのお茶は、アテが直々に、淹れちゃるきに、速う、千代さん、手伝いに行き」
みっちゃんは、小政の方に向かって、ペロッと舌を出し、睦実を手招いて、座敷に上がり、二階の物干し場へと連れて行った。その仕草が、小政にはとても可愛く思えた。
「みっちゃん、最近、綺麗になりましたね。元々、明るうて、元気やったけど、最近、女っぽくなった気がするなぁ」
「まあ、女も恋をしたら、綺麗になる、っつうろう?」
「ええ?みっちゃん、エイひと出来たがですか?」
「まあ、エイひとかどうか、まだわからんがよ。それに、小政の兄ィさんの態度が微妙やき、困るがよ」
「ええ?わたしの態度、って何です?」
「あんたも、頭、切れるけんど、女心には、疎いね。モテる男ほど、モテててることに、気づかんがやね?」
「ええ、みっちゃんがわたしに?単なる、興味本位でしょう?京大出てる、ってだけの……。そんな、娘なら、ぎょうさん、知ってますよ」
「まあ、最初はそんなもんや。けど、こうして、あんたとは身内みたいになったろう?そしたら、あんたの良さが、わかってきたがよ。インテリやのうて、気の利く、この近所じゃあ、一番のエエ男。アテが千代の年頃やったら、押し掛け女房になっちゅうよ」
「そ、それは、凄い、褒め言葉ですね。お寅さんが推薦してくれたら、わたしの嫁、高根の花も落とせそうですね」
「けど、みっちゃんはあんたやない、男に惚れちゅう。そこが問題よ……」
まあ、立ち話も、と、いつものテーブルに案内し、お寅さんはお茶を淹れに台所へ入る。
話の途中で、肝心のみっちゃんの相手を聴きそびれてしまった。
(それを言わないところが、百戦錬磨の、ハチキンさんか……)と、小政は、丸椅子の上で考えていた。
「小政さん、お待たせ。睦実さんのお陰で、洗濯物、早う、取り込めたワ。睦実さん、ありがとう、慣れたもん、やったね。お嬢さん育ちやと思うちょったけんど、家事とかもするがやね?」
と、二階から睦実と共に降りて来た千代が、小政に向かって言った。
「田舎の、大所帯の家族ですし、姉たちに怒られながら、やらされてました」
「へぇ、お姉さんって、何人兄弟なが?」
と、丸椅子に腰を掛けて、千代が尋ねる。
「悟郎が五番目、わたしが六番目、まあ、同時に生まれたんですけど。その上、四人が皆、女、姉妹です。だから、悟郎のくせに、長男なんです、あいつ。わたしが五女。下に、弟と妹がいます。これも、双子です」
「えっ?八人兄弟?しかも、続けて、男女の双子?そりゃ、お母さん、大変やったろうね、うちとこ、三人でも大変やから。特に、長男が……」
「うちとこ、双子が多いんです。次女と三女も双子です。顔が似てないから、わたしらと同じ、二卵性、双生児だと思います。忍びの家系は、わざと、そうゆう産み方をしてるみたいです。薬とゆうか、薬草、使うて、多産を誘発するようです。ひとりを影武者的な存在にするためです」
「えっ?影武者?そいたら、例の、風野と時影も、そんな関係……?」
「わたし、そう思ったのですが、十兵衛はちょっと違う気がするって。容姿はそっくり、でも、体臭ゆうか、身体の中身がまるで違う、別世界の人間のようやと」
「そりゃ、生まれた時に、別々の育てかたされたがやろう?環境、違うたら、人格も違うてくる。『王子と乞食』って、話もあるやいか」
「何の話ぞね?童話の話かね?」
と、お寅さんが、人数分のお茶をお盆に乗せて、会話に割り込んでくる。
千代が、睦実の家族の事と、風野と時影の関係の話を、手短に伝える。
「けんど、十兵衛さんは、その時影と戦うたがやろう?それに、忍者の本人が感じたことやき、そっちの方が、信用できる気がするけんど」
「ええ、お寅さんのゆうとおりです。十兵衛の勘は鋭いですから。それと、十兵衛がゆうには、時影の着ていた黒いロングコート、普通の材質、革、じゃなかった、ってゆうんです。特殊な繊維か特殊な獣の革か、わからんかったみたいです。刃物を通さん、そう、防弾チョッキ、そんな役目をしてるみたいやったと。そやから、十兵衛は刃物やのうて、杖で勝負したみたいなんです」
「結局、死体も、そのコートも見つからんがやってね。別世界へ逃げ帰ったみたいやねェ」
「お、お寅さん、そりゃ、どうゆう意味です?別世界へ、逃げ帰る、って……」
「小政の兄ィさん、何、焦りゅう?かぐや姫が『月の世界』へ帰る、お伽噺のことよね。さっきの『王子と乞食』と同じよ」
「いや、お伽噺じゃないかもしれませんき。最近、SFゆうて、外国の空想科学小説が翻訳されて来てますけんど、その中に、別世界から来た人間とか、未来から来た人間とかが、出てくる話がありますき」
「けど、それも、作り話でしょう?外国の作家の……」
「千代さん、作り話が圧倒的に多いですけんど、中に、ノンフィクションゆうて、実話もあるんです。太平洋戦争中にグラマンの戦闘機が靄につつまれて、靄が晴れたら、別世界に――見たことない世界に――飛び込んでたとか、ドッペルゲンガーはもうひとつの世界の自分が、紛れ込んだものだとか、作り話やないものがあるんですワ」
「けど、それを証明することは、不可能よね」
「ええ、その時影の着てたコートがこの世の物ではない、特殊なものと判明したら、ひとつの証拠にはなってたかもしれませんが……」
「天女の羽衣みたいにね……」
「それはそうと、小政の兄ィさん、そんなこと話に来たがやないろう?本題に、そろそろ、移らんかえ?お茶も冷めゆうで」
「そうでした、熊蔵の事で、相談に来たがです」
小政が、熊蔵の店から、十兵衛が購入してきた、一休禅師の贋作の掛け軸の顛末を刻屋の二人に説明する。
「熊蔵、インマ帰って行ったけど、おかげさんで、疑いが晴れたゆうて、お礼やと、柿右衛門の壺、置いて行ったワ。菖蒲の絵柄、まあ、エイもんやき、受取ったけんど、熊公、ペコペコして、心、入れ替えるゆうて、帰ったよ。嵐でも来んかえ?」
「けど、熊蔵さん、その壺、古伊万里と思うちゅうがでしょう?そいたら、相当な値打もん。そんな高価なもん、何でくれるがやろう?今度の事件、わたしらぁ、なんちゃあ、役に立ってませんよ」
「そうや、アテも千代さんもたいしたことしてないし、孫も、今回は活躍の場、なかったもんなぁ」
「けど、井口探偵団はここが、本部ですき、カマンがやないですか。どうせ、仕入れ値は二束三文でしたろうから……」
「そうよね、それにこの壺、善ベエさんに見せた壺やろう?そいたら、善ベエさんが、最後に鑑定した壺や。熊公の処で朽ちて行くんは可哀相やき」
「けど、熊蔵さんは古伊万里で、高価なもん、と思いこんでるがでしょう?何か、引っ掛かるなあ、それが何か解らんけんど……」
「そうですね、相当、人殺しの容疑者にされてるんが、怖かった、ってことでしょうかね?」
「それ、こう考えれんかえ?」
いきなり、玄関の硝子戸が空いて、ランドセルを背負った、S氏が大人の会話に割り込んでくる。
「何やの、あんた、学校は?早過ぎとちゃう?」
「先生らぁの研修とかで、午後からの授業はなし。宿題だけが、盛りだくさん」
「そいたら、まず、『ただいま』やろう?それから、お客さんに挨拶。うちとこの、躾、疑われるやないの」
「千代さん、エエですき、ボンとわたしは、義兄弟。堅苦しい挨拶は抜き。
ボン、ここへ鞄、置き。それから、その考えとやら、聴かせてや。ルパンの生れ変りの考えってやつ……」
ランドセルを丸椅子の上に乗せ、自らは、小政の隣のイスに腰を掛け、S氏の推理が披露される。
「母ちゃんが引っ掛かるんは、探偵の捜査料にしては、熊蔵さん、エライ張り込んだ、そこに何か、下心、ゆうか、賄賂、口止め料みたいなもんが含まれちゅう、そう、思えるんやろう?」
「そうや、相場より高い、謝礼には裏がある。けど、その裏がわからんがよ。唯の気まぐれかもしれん。昔の、琴ちゃんのこともあるし、柿右衛門に含みがあるのかもしれん」
「裏があるがよ。熊蔵さん、今回の事件で、容疑者にされて、何ちゃあ、潔白やったら、うちとこへ依頼に、泣きつきになど、来やあせんき。殺人事件には直接関与してないけど、後ろめたいことがあって、泣きついて来たがよ」
「その、後ろめたいこと、って何なが?」
「そう、それ、ぼくらぁが、想像してたことが、当たってた、ってことやろうね」
「ボン、ぼくらぁが、想像してたこと、って、何や?」
「僕が想像してた、熊蔵さんが、宝石のこと、誰かに漏らした。その誰かが、○○組の関係者やった、ってこと。あれ、図星やったかもしれんで。実際、犯行にまでは至らんかったき、お咎めなし、やったけんど、真犯人が捕まらんかったら、そのことが、○○組から、捜査関係者に漏れてたかもしれんよ。そしたら、また、取調室へ逆戻りや、偽証してた、ってことになるから……」
「そうか、そのとおりや。熊蔵、嘘ついてたの、ばれるんが怖かった。そこで、早うに事件解決して欲しかったんや。それと、ボンの考え、警察に言われんように、口止めも含まれているんやろうな、ヘコスイ(=ずるい)、やっちゃ」
「そら、このまま、ほっとけんやないの。熊公、安心しきっているきに。懲らしめてやらんと。小政の兄ィさん、エエ知恵出して」
「そうですね、浜さんの手柄もあるし、もう一辺、狂言書き直さんといかんですね」
「それでね、僕の意見ゆうてエイ?」
「ああ、どんどんゆうて、ボン頼みで悔しいけんど」
「熊蔵さん、この前の、人身売買事件、係わっちゅうろう?けんど、お咎めなしやろう?それと、○○組との関係、ここを突いてみたら、藪から蛇が飛び出しそうや。そう思わんかェ?」
「あんた、最近、小政さんに似て来たね。もったいぶらんと、早う言い」
「うん、熊蔵さんが、人身売買に関与してるって、知ってるのは誰?熊蔵さんがそう思うちゅう人物は?」
「それ、ウチの悟郎ですね?幸子とかに化けて、連れて行かれたらしいから」
「睦実さん、大正解。どう?今度は、睦実さんが、そのまんまで『幸子』と名乗って、熊蔵さんの眼の前現れたら、どうゆう反応するろうねェ」
「あんた、この前のマコちゃんの時以来、エライ策士になっちゅうね。我が子ながら、末恐ろしいワ。本当にルパンの生れ変りと違う?変な霊が憑いたがやない?」
「多分、小政さんの所為や。小政さんと話してたら、こうゆう考え方を覚えたんや」
「そ、そんな、わたしの所為にせんとってください。わたしは何ちゃあ、ボンに教えていませんき」
「わかってるわよ。この子の、本能、ゆうか、潜在能力が、小政さんにおうて、目覚めたがよ。ああぁ、やっぱり、わたしの育て方が間違うてたんや」
「千代姐さん、間違うてないですよ。ウチとこの悟郎より、数段上ですよ。本当に、悟郎には困ってますから、あいつ、跡取りなんですよ、忍びの一家の。全然駄目。仕方ないから、八郎を次期当主にするかって、父がこぼしてました。あっ、八郎は、一番下の弟です。次男になります。ボンやったら、うちの当主が充分、務まりますよ。父より、立派になりそうです」
「やめて!これ以上、この子を、助長さすような言動は、小政さんもお願いやき」
「大丈夫やき、学校、優先。品行方正な生徒。親孝行な長男。ちゃんと、世間の眼に、そう映るように、心掛けちゅうき」
「そうですよ、ボンは今では、この井口探偵団の頭脳ですき。団長と二人三脚してもらわんと……」
「それそれ、小政さん、それがイカン、って言いゆうろう。探偵団は解散したいワ」
「まあ、ほいたら、ボンの作戦を入れましょう。ちょっと、エイ考えを思いつきました。散髪屋のマッちゃん、あのひとの、噂を広める能力、あれをお借りしたい。お寅さん、頼めますか?これから、狂言の内容、言いますき」
小政は、熊蔵に罠を掛け、旧悪を暴露する、狂言をそこのメンバーに語り始めた。
この狂言が、後に、思わぬ結果を生むことになろうとは、長吾郎一家の「軍師」にも、その時点では、想像もできなかった。
12
翌日、散髪屋のマッちゃんこと、松岡勝次は午前中の客、全てに同じ話題を提供する。昼からは、店を閉め、火曜市へ向かい、知り合いの出店の店主、北奉公人町から本丁筋、升形辺りまで、足を運んで、噂をばらまいたのである。
「お寅さん、広めてきましたで、もちろん、熊蔵さんの耳にも入るようにしてきましたし、○○組のチンピラ連の耳にも入っちゅうはずですき」
「御苦労やねぇ。こればっかりは、あんたの右に出るもんは居らんき」
「これで、あっしも、井口探偵団の立派な一員ですよね?お寅さんの『お墨付き』もろうた、ゆうて、明日も回ろう」
「それより、商売しぃ。今日も午後から、臨時休業の張り紙してたんやろう?先生が、何かあったんか?って、うちへ寄っとったで」
「へへ、商売はいつでもできますき。あっしの腕では、二、三日休んでも、お客が逃げるような、ヘボじゃぁありませんき」
「まあ、床屋の腕は、アテも認めるワ。四国一位になったんやからな」
マッちゃんは、昨年の理髪業者の四国大会で、優勝してしまったのである。これだけは、テンゴウ話ではなかった。
ほいたら、また、噂広める用があったら、いつでも……と、マッちゃんは刻屋を後にした。
(まあ、散髪以外で、あの男が役に立つとは……、この商売始めて、三十年のアテも、思いもせんかったワ。「○○と鋏は使いよう」とは、よう、ゆうたもんよ……)
*
マッちゃんの広めた噂は、翌日には、刻屋へ来る客の間にも、広がっていた。ということは、上町界隈には、充分広がっているということである。
さて、第二段階の開始か。と小政が、噂の広がりを確認し、顎を撫でる。
「そしたら、わたしの出番ですね?」
と、睦実が、そんな小政の表情を見て、言った。
「ああ、ようわかったね。何ちゃあ、ゆうてないに……」
「小政さんの顔、策士の顔ってこんなんや、にんまり顔、ようわかりますわ」
「ははは、わたしは根が正直やから、すっと、顔に出るがやね。けんど、ムッちゃん、少々の危険は伴うよ、まあ、ムッちゃんやったら、大の男、二、三人は大丈夫やろうけんど」
「ええ、それに、十兵衛と、もう一人、才蔵って、若いけど、腕の立つもんが、陰ながら見張ってくれてますから、拳銃、突きつけられても、平気ですワ」
そしたら、出かけます。と、睦実は長吾郎家を出て、東に向かう。十兵衛が少し遅れて、目立たない、作業服姿で後に続く。
(わたしも行きたいけど、わたしの顔は、知られているかもしれんからなぁ。吉報を待つか……)と、小政は玄関先で背中を見送った。
睦実が「立花屋」と横文字の看板が掛かった店の硝子戸を開ける。薄暗い店の中、帳場に、鼻眼鏡を掛けた、小男が座っている。
「小父さん、こんにちは」
と、睦実が声を掛ける。
顔をあげて、客の方を向いた、熊蔵の顔が、見る見るうちに、強張って行くのがわかる。幽霊にでも出会った、そういう表情である。
「あ、あ、あ……」
あんた、と言いたいらしいが、言葉にならない。
「憶えてくれてた?あん時、お世話になった、幸子や」
と、笑顔を浮かべてやる。
「そ、そうや、確か、幸子さんやった。元気にしてたか?」
熊蔵は、客が、怒っていない、優しげな態度に安心したのか、やっと、普段の会話ができる状態に戻った。
「ああ、元気やけど、相変わらず、悪い男に付け回されてる。せっかく、小父さんが、身を隠せて、金になる処、紹介してくれたのに、警察が飛び込んできて、あの豪邸のご主人さん捕まったんやってなぁ。金になるんやったら、ヤーさんでも良かったのに、元の木阿弥、金にもならんかった」
「ああ、けど、良かったわ。ワシ、知らんかったけんど、あのヤクザ、唯の女郎屋稼業やのうて、人身売買しようとしてたんやて。ワシ、危なく、その片棒、担ぐとこやったんや、あんたにも迷惑掛けたな」
熊蔵は、ここでも、人身売買には関与していないことを強調した。
「それで、小父さん、他に、エイ処ない?ストリップでも、妾でもエイで。あんまり、夜の街角、立つんはイヤやけど、その男に見つかったら、殺されそうやから。最近、ほんま、怖いのよ、ゆうこと利かんと、殺す、ほんで、自分も自殺する、って、脅されてるんよ」
「そ、そうか?そりゃあ、怖いねェ。最近はヤクザより、素人が怖いことするきねェ」
いや、やっぱり、ヤクザの方が怖いやろう、と睦実は声に出さず、否定した。
「インマ、ストリップ、ゆたけど、ほんま、エエんか?人前で裸になるんやでェ」
「今の男の、イヤラシさに比べたら、スッポンポンでも、まだマシや。金になるんなら、それで、エイよ。小父さん、顔、広いがやねェ」
今の男、この娘に、どんな悪さしてるんや?と、想像を膨らまして、熊蔵は、生唾を飲み込む。
「ちょうどエイわ。先月、M座でやってた、ストリップに欠員が出来て、何人か欲しい、ゆうてたから、紹介してあげるわ。けど、あんたみたいな美人やったら、どっか外(よそ)の県へ行って、水商売でも雇うてもろうたらどうや?ストリップは、本番もせないかん、っていわれちゅうよ」
熊蔵さん、ほんまに、心入れ替えたのかしら?エライ親切やな、っと、睦実は思った。
罠にかけて、捕まえるの、可哀想になって来たワ……。
*
熊蔵が睦実を連れて行ったのは、毒島(ぶすじま)という、幹部の後を引き継いだ○○組の新しい幹部の屋敷である。虎乃介の豪邸に比べたら、うさぎ小屋である。
「釜渕(かまぶち)さん、この子、ストリッパー志願者や。悪いヒモは付いてエへん。ただ、金稼ぎたいんやて、面倒見たって……」
「ほう、エエ、身体、顔も、一級品やいか。どうや、ストリップせんでも、ワシのイロにならんか?御手当ては、十分払うで……」
釜渕と呼ばれた口ひげを最近生やしたような、まるで貫禄のない男は、睦実の体に、舐め回すような、視線を向けて、そう言った。
「それが、あきまへんのや。この子、身を隠しとうて、一カ所に留まらん、ストリップの旅するんが、エィみたいですねん。悪い素人に、付きまとわれてて、金がないと、逃げれんし、ストリップが最適ですねん。それに……」
熊蔵が、釜渕の耳元で何かを囁く。
「な、何やて?虎乃介、兄きのとこ、連れて行った?そりゃぁ、験が悪いワ。ワシまで、捕まりとうないからな。ほいたら、ストリップでエィわ。
ネエちゃん。けど、ストリップやと、人目につくでェ。その悪い男に見つかるかもしれへんよ」
(こいつも、ヤクザに向いてないな。そやから、毒島の後釜、あっ、後釜の「釜さん」なんか、こりゃ、おもろい、洒落や)
「大丈夫ですわ、踊り子さん、化粧して化けるでしょう?金髪の鬘でも被って、濃い化粧したら、ばれません。その男、眼ェ悪いし……」
「金髪?そらエイ。ちょうど、モンローゆうて、金髪にしてた女が、居らんなったとこや。新モンロー、いや、マリリンさんでいこう。決定や。マリリンさんの誕生や……。そいたら、今晩は、家に泊り。飯、用意させるワ。あんた、売れっ妓、間違いナシや」
釜渕はヤクザとは思えない、優しい口調でそう言って、家政婦なのか、年配の女性を呼んで、睦実を別室へ案内させた。
釜渕と熊蔵が残った応接室の天井裏に、男が一人、うずくまっている。睦実を警護している、才蔵と呼ばれている男である。
睦実の連れて行かれた部屋へ移ろうかと思ったが、睦実に危害は及びそうにない。それより、何やら、釜渕が熊蔵に話しかけている。そちらの会話に、聞き耳を立てることにした。
「熊蔵さん、あんた、妙な噂、耳にしてへんか?」
「噂?れ、例の宝石のことでっか?」
「そうや、あんたから、訊かされてた、質屋へ持ち込まれた宝石や。何でも、サファイヤやったそうやな」
「へえ、アタシは、宝石としか知らんかったがですが……」
「犯人、捕まったそうやが、宝石は出て来んかった。いや、その男、宝石、盗らんと、慌てて逃げたそうやないか?」
「けど、質屋の金庫には、宝石はなかったそうですよ」
「それで、噂が立ってるんや。宝石は、殺された善兵衛が、金庫やのうて、店のどこかへ隠している、ってこっちゃ。しかも、警察も調べてへんとこらしい」
「釜さん、あんた、あの日、質屋、行かんかったでしょうね?あたしゃあ、てっきり、殺したんは、あんたやないかと思うちょりましたきに……」
「お、おい、めったなこと言いなよ。わしゃあ、行っとらん。組の若いもんで、盗みが得意なもんに、ゆうてはみたんやが、そいつ、雲隠れよ」
「へえ、じゃあ、まさか、そいつが宝石持って、逃げたってゆうんですかい?」
「いや、それはない。そいつには、イロが居って、その女にベタ惚れやき、逃げるとしたら、一緒に逃げるか、連絡があるはずや。それに、そいつには、宝石の価値もわからんし、売り捌く能力もない」
「ほいたら、どないしたんです?」
「ひょっとして、消されたんかもしれん」
「消された?誰にです?」
「その、犯人によ」
「まさか、その犯人、大阪の宝石商で、人殺しなど出来そうもない、中年ですよ。アタシ、顔合わせてますから。ヤクザ相手に勝てるとは思えません」
「そうかぁ、ほいたら、盗みが怖くなって、逃げたんか、まあ、どうでもエイ輩やけどな」
「それで、どないしますんや?宝石、まだ、質屋に眠ってるらしいですよ」
「警察はどうしてる?あんた、店の前のことやろう?」
「もう、誰もいませんでェ、店は締め切ったきり。小僧の伸介は怖がって、店には顔出しません。無人状態ですワ」
「そいたら、時間は充分あるってことか?裏の勝手口、鍵、なんぞ、簡単に壊せるわな、どうや、手伝わんか?儲けは折半にしたるワ。うちの組の宝石扱う部門で、銭に替えてもらえる。早うせんと、誰かに先、越されるかもしれんぜ」
「けど、金庫やのうて、何処に隠してますのや?」
「あんた、心当たりないんか?親しいかったんやろう?」
「まあ、それほどでもないですが、善ベエさんの気性なら、大事なもんやったら、寝床まで、持って行ってるやろうな」
「それや、寝室、まあ、寝てる場所や。そこを重点的に探そうやないか、どうや、今晩、寝静まった頃……」
話は終わったらしく、熊蔵が、部屋を出て行く。天井の鼠、いや、才蔵は、移動して、睦実の部屋を探す。匂い、いや、睦実の香りで、その部屋はすぐにわかった。
天井裏から、顔を出し、
「お嬢さん」
と、声を掛ける。
睦実が、部屋の外の廊下を覗いて、誰もいないことを確かめる。
才蔵が音もなく、部屋に飛び降りてきて、耳打ちをする。釜渕と熊蔵の会話を手短に伝えた。
「そうか、やっぱり、宝石のこと、漏らしてたんやな、熊蔵さん。ちょっと、可哀想に思うてたけど、悪人は悪人か。もう、同情なしやな。才蔵、早いとこ、小政さんに伝えてきて、こっちは大丈夫や。夕飯ごちそうになったら、トンズラしたるワ、やっぱり、気が変わったって、置き手紙して……」
*
その日の、夜半過ぎである。防犯灯の明かりさえ届かない、暗い路地から、二人組の男が、質屋、「毎度屋」の勝手口へ忍び込んで来た。
ひとりの男、背の高い方が、ヤットコと釘抜きを手に、南京錠を壊しにかかる。素人の手口だが、中には誰もいないのだ、少々の乱暴さは咎められない。
小さいほうの男は、おろおろするばかり、手伝いもできない。
釜渕と熊蔵である。
釜渕が、強引に鍵を壊した。ゆっくり、木枠の引き戸を開ける。きしむ音が、静まり返った、夜の街に大きな音を立てたかのように、熊蔵はビクッと肩をこわばらせる。
「大丈夫や、近所のもん、みな寝てる。これくらいの音では、気がつかへん。しっかりしてや、寝室の場所、案内してもらわんと、家の配置、ワシはわからへんからな」
釜渕にせっつかれて、懐中電灯を頼りに、部屋に押し入る。
金庫のある場所の隣が寝室である。朝早いうちに、訪ねた時、寝間着姿で、そこから出てきた、善兵衛を憶えていたのである。
寝室は、畳の間であるが、布団は敷かれていない、押入れがあり、そこに、仕舞われたままである。布団を敷く前に、賊が入り、殺されたとゆうことか、と熊蔵は理解した。
枕元に手提げ金庫がある。鍵は空いている。警察が中身を調べて、証拠品として押収したのであろう。中身は空であった。
押入れ、床の間の棚、畳まで捲ってみる。どこにも、宝石は見つからない。時間だけが過ぎて行くのである。
「ないなあ、寝室とは違うたんかな。他に、思い当たる場所ないか?」
と、釜渕がうんざりした声で、熊蔵に問いかける。
熊蔵は、枕元の目覚まし時計まで、探す対象にしていた。布団の中、枕の中、天井裏、隠しそうな場所は、ほぼ当たったのである。
「まさか、金庫の中、ちゅうことはないワな、警察が調べてるやろうから」
「そ、そうや、善兵衛さん、最近、新しい冷蔵庫、電気の奴、買うた、ゆうて、自慢してたワ。何でも、鍵がかかる、冷蔵庫ながやて……」
「そ、そいつや。その中の肉か野菜に、隠してるんや」
ふたりは、懐中電灯を照らして、台所の土間に置いてある、白い箱、最新のナショナル電器の冷蔵庫の前に立った。
「鍵、掛かってますよ」
「平気や、自分のもんやないし、もう使わんし、道具はある、壊したる」
釜渕は、勝手口の鍵を壊した道具を手に、冷蔵庫の扉を壊しにかかる。悪戦苦闘を繰り広げ、やっと、ドアが開いた。
「ぎゃあぁ」
と、声を上げたのは、後ろにいた、熊蔵である。釜渕は、声も出せず、尻餅を搗いている。
「おい、おい、熊蔵さん、女衒は辞めて、泥棒に転向したがかえ?」
と、背中から男の声がした。手に懐中電灯を持っている男が、天井の電灯のスイッチを入れた。
明かりの下に現れた顔は、熊蔵の天敵?である、浜田と名乗った刑事である。
「家宅侵入の現行犯、で、逮捕やな。あっ、逃げようとしても無駄やで、外に警官、五、六人、待機させてるから。熊蔵さん、それから、そっちは、○○組の幹部さんか、釜、釜何とかさんやったな、珍しい名前やったが、忘れてしもうたわ。さて、余罪もあるろう?話は、署でジックリ、聴かせてもらうでェ。
うん、何や、釜さん、腰抜かしてるんか?」
浜さんには、ふたりの陰に隠れた、冷蔵庫の中身が見えていないようである。熊蔵が、恐怖の顔を浮かべ、背中の方を指さす。
「あ、あれ……」
と、言葉になっていない。
「何や、何があるんや?」
と、怪訝そうに、ふたりの背後を覗きこむ。
「こ、こりゃあ、死体やんか、おまんらぁ、殺しまでしちょったがか?」
冷蔵庫には、若い男の死体が、身体をくの字に曲げて、押し込まれていた。心臓辺りに、ジャックナイフが刺さっている。
「ち、違いますき、ワシらぁがやったがやないですき」
と、やっと、熊蔵が言い訳をする。
「ほいたら、何で、こんな処に死体があるねん。しかも、この店とは関係ない奴の死体やないか。おまけに、どう見ても、殺された死体や。心臓一突き、自殺やあらへんワなぁ」
「わ、わかりません。わしらぁ、宝石を探しよったがです。冷蔵庫の中に、肉か野菜の中に、隠してるんやないかと、そう思って、開けてみたら、これですねん。ワシらぁ、知らん死体ですき」
「いや、そっちの、釜さんは、知っちょりそうやな。よう見てみい、ヤクザの兄さんみたいやで、彫もんしてる」
「えっ」
と、腰を抜かしていた、釜渕が、冷蔵庫の中の方へと視線を移す。
「あっ、ほんまや、こいつ、ウチの組のもんですワ。姓は知らんけど、孝夫、って奴です」
「釜さん、ほいたら、雲隠れしたゆう、男かえ?」
と、熊蔵が訊く。
「雲隠れした?妙にわからん。まあ、署まで来てもらおう。死体の方は、鑑識呼ばんとイカンやろう。おおい、こいつら、しょっ引いて行け、ほんで、死体がある、ゆうて、本部に応援頼め」
浜さんが外で待機していた、若い刑事と警察官を呼んだ。釜渕と熊蔵は大人しく、手錠を掛けられ、連行されて行った。
「どうやら、巧く行ったようね」
そう言ったのは、睦実であるが、彼女のいる場所は、質屋の屋根の上である。
その隣には、才蔵が影のように控えている。ふたりとも、黒装束、闇夜に溶け込んで、周りからは、全く、発見できないであろう。
「けど、死体、って言ってたけど、誰のかしら?何故、質屋に死体、しかも、冷蔵庫の中に?これ、刻屋のボンが喜びそうやね。さあ、帰ろう。明日、ボンに報告や……」
13
翌日の昼過ぎ、刻屋の玄関わきのテーブルで、いつものように、どんぶり飯を掻き込んでいる、坂本刑事の前には、お寅さんと千代が座っている。
「慌てんでエイき、ゆっくり食べよ」と、お寅さんが、勇さんの早飯を、心配する。そのくせ、早う、事件の顛末を話せ、と、その眼は催促しているのである。
熊蔵と○○組のヤクザが捕まった――家宅侵入罪ではあるが――ことは、もう、小政さんから、一報があった。詳しいことは、ボンが帰って来た頃に、と言われているのである。
つまり、小政の書いた狂言が、功を奏した、成功したと、いうことである。
勇さんはその作戦のことは知らない。警察に協力を頼んでは、狂言が成立し難い、と小政が考えたからである。何せ、例のサファイヤが発見されず、質屋のどこかに眠っている。それを、別の盗賊一味が狙っている。そういう、ホラ話を、まことしやかに、広めたのである。これは、普段から、そういうことをしている、マッちゃんにしかできない芸当であった。
熊蔵が、まだ、○○組と関係がある、その情報は、長吾郎一家で掴んでいた。宝石のことを誰かに漏らした、そう、S氏が推理したことを受け、宝石がまだ、質屋の何処かにある、と噂を熊蔵の耳に、ごく自然に入れておけば、また、誰かが、動く、と推測できたのである。
幸子に化けて――化ける必要もないのだが――睦実が熊蔵に近づき、○○組との結びつきを揺さぶったのである。ストリッパーの補充、これも、M座の公演が、カルメン、モンローがいなくなり、評判が下がっていることも突き止めての狂言である。この辺りは、長吾郎一家でないと、収集できない、情報である。
「それで、熊蔵は白状したがかね?」
と、飯を掻きこんで、千代の淹れたお茶を飲んでいる勇さんに、お寅さんが尋ねる。
「熊蔵が捕まったがも、早、知っちゅうがですか?それを、報告に来たがやに、噂って早いんですね」
「アテらぁ、井口探偵団、舐めたらイカンぜ。情報集めは、探偵の基本やろうがね」
「お母さん、うちとこ、探偵団と違いますき。まあ、睦実さんの身内の方、あっちからの情報よ」
「ああ、十兵衛さん、忍びですもんねェ」
(違う、才蔵さんゆうて、別のひと……。とは、勇さんには内緒やった……)
「ほいたら、話、早いですわ」
と、勇さんが、取調室での経過を話し始める。
「昨夜、イヤもう、日付変わってましたわ、浜さんから連絡あって、質屋で死体を発見した、応援頼む、って連絡があって……」
死体の身元は、○○組の組員で、吉村孝夫。盗みの前科があった。
冷蔵庫の中にあったため、死亡推定時刻は特定できないが、状況から、善兵衛が殺された夜、ほぼ同時期であろうと思われた。その後は――翌日の朝から――警察の監視下にあったのである。その目を盗んで、死体は持ち込めないのである。
熊蔵と釜渕の供述を合わせて考えると、まず、熊蔵が、釜渕に宝石のことを話す。釜渕が、孝夫に話す。孝夫が質屋へ忍び込む。そして、殺されたのであろう。
「そしたら、その孝夫とゆう人は、時影に殺されたんだね?」
振り返ると、S氏がランドセルを背負って、玄関から入って来たのである。
「あっ、ばあちゃん、ただいま、勇さん、ご苦労さん、挨拶は、ちゃんと、せんと怒られるき。
それともうひとつ、学校は、また、先生の研修で、お昼までやきね」
あっけにとられている、大人たちを尻目に、ランドセルを肩から下ろす。
「ついでに、小政さんとこも、帰りに寄って来たき、すぐ、来てくれると思うで、事件の結末、ここらで、つけようと思うてね」
「あんた、手回しがエイねェ。我が子ながら、感心するワ」
千代がそう呟いている処へ、小政と睦実が、笑顔を浮かべて、玄関から入ってくる。
「二階の客間へ行くかね」
と、お寅さんが、提案し、千代以外の全員が、階段を上って行く。千代は、お茶の用意に台所へ向かった。
二階の「桐の間」は、かつて熊蔵と、幸子に化けた石さんが対面した部屋である。そこに、座卓を置き、座布団を周りに敷いて、テーブルを囲む。
少しの時がたち、千代とみっちゃんが、お盆に乗せた、湯呑を運んでくる。それをテーブルに置いて、みっちゃんは部屋を出て行く。勇さんが残念そうに、後ろ姿を見送っていた。
「ボン、さっき、冷蔵庫の死体は、時影が殺した男や、ゆうてたけど、それどうゆう推理や?警察では、誰の犯行か掴めてないでぇ」
「だって、その時、質屋にいた人間は、主人の善兵衛さん、それと、宝石を取り返しに来た、時影、そして、死体となって発見された、ヤクザ、孝夫、ゆうたっけ、だけやろう?まさか、まだ、第三者、いや、四人目の犯行なわけないやろう?生き残ったんは、時影だけ、冷蔵庫に死体入れられるんも、時影だけ、そしたら、犯行も時影や。善兵衛さんには、無理やろう?ヤーさん刺し殺す、しかも、心臓一突き……」
「エライ詳しいなぁ、現場、見てきたみたいやんか」
「ははは、睦実さんが、現場見ていたんや。浜さんと熊蔵らぁの会話も、全部、聴いちゅうらしいよ」
「えっ?何処に居ったがです?」
「屋根の上よ、そこから、全部、まあ、最初は天井裏に居ったんやけど……」
「天井裏?まるで、鼠小僧ですね、そうか、忍びやもんね。ほいたら、千代さんと、お寅さんには、昨夜の事件、簡単に話しますわ。その後、熊蔵の自供のこと話します」
勇さんは、手短に、昨夜の家宅侵入について、語り始める。
「それで、浜さん、自分の推理、熊蔵が、ヤクザに宝石のこと漏らしてた、ってやつ、本当は、ボンの推理やけど、当たってたやろう、って、そりゃぁ、機嫌ようて……。
まてよ、睦実さん、何で、昨夜、善兵衛さんとこで、事件が起きるって知ってたがです?あれ?ひょっとして、あれは、小政さんの好きな、狂言の結果やったがですか?浜さんに手柄をたせさせる、って、僕が頼んでいたやつ……」
「ははは、やっと、気がついた、これやき、みっちゃん、悩んじゅうがよねェ」
と、千代が笑う。
「えっ、みんなあ、知っちょったがですか?僕だけ?蚊帳の外……」
「ごめんね、勇さん、曲がりなりにも、刑事やろう?あっ、曲りなりって、変な言い方やけど、今回は、嘘の噂を広げることになったから、正義感の強い、勇さんには、伝えられなかったのよ」
「その、噂ってどんなんです?」
勇さんに千代が説明する。
「えっ、そんな噂、そうか、マッちゃんに係れば、お手のもんでしたね。その罠に引っ掛かったんか?どおりで、宝石を盗みに入ったって、サファイヤ以外の宝石があったのかと思ってましたワ」
「熊蔵が、噂を信じて、釜渕って男と一緒に、質屋へ忍び込んだところを浜さんに御用、って筋書きだったんですがね。まさか、死体が出てくるなんて、これは、わたしの狂言ではありませんよ。そこまで、わかりませんから……」
「いや、小政さんの狂言、凄いですワ。おかげで、僕の命、助かりましたワ。浜さん、僕に、ありがとう、って、ゆうてくれました。そうか、小政さんから、前もって、浜さんに情報――質屋に熊蔵が忍び込むこと――流してたんですね」
「ああぁ、それも今頃?勇さん、あんた、修行し直し、手柄立てそうにないワ、このままじゃ……。探偵団、これで解散よ。浜さんに手柄立てさせたんやから」
「まあまあ、千代さん、そんなに責めんと。わたしは、勇さんのその、人を疑えない、純真な心、大好きですよ。人を見たら、泥棒と思え、って、警察官、多いですから、勇さん、貴重な存在です」
「小政さん、それ、褒めてんの?刑事として、失格、ゆうてるのと同じやでェ。僕も、勇さんの性格、大好きやけど、刑事には向いてないワ」
「ぼ、ボン、僕、喜んでエイが?それとも、悲しむべき?ボンにも、小政さんにも、好かれちゅうのは嬉しいけんど、みんなあ、僕は、刑事失格や、そう思うちゅうがやね?」
「いや、勇さん、決して刑事失格やないですよ。わたしは見てますから。勇さん、射撃の腕、確かですわ。二発とも、あの風の強い中で、時影の肩口に当ててますもん」
「そうや、ムッちゃんの言う通りや。あの拳銃の腕、半端やなかったワ」
「ええ、僕、剣道も柔道も、格闘技は駄目ながです。それで、射撃でもと、訓練したら、教官からも、凄い、オリンピック出れる、ゆわれましたわ。僕の唯一の自慢ですワ。けど、本当に、人に向けて撃ったのは初めてです」
「人間、取り柄が、ひとつはあるもんやきねェ」
と、お寅さんが感心する。
「えっ?僕の取り柄、それひとつですか?他にもあるでしょう?お寅さん……」
「後は、早飯だけやろう?早飯、早グ×、芸のうち、ゆうから……」
「ひ、ひどい……」
その場の全員が、笑いに包まれる。
しかし、この唯一の取り柄が、彼の大事な恋を、破滅に陥れる、ひとつの原因になるとは、その場の誰も、思いもしなかったのである。後年、やくざ同士の抗争にこの射撃の腕を買われて、マル暴の手伝いをすることになる。それが、大阪府警への研修としての異動、みっちゃんに心配を掛け、失恋に繋がるのである。
話は、熊蔵の取り調べに移る。勇さんが、淡々と、取り調べのことを語る。
熊蔵は、正直に、全てを浜さんに語る。宝石のことを、釜渕に、話したこと。しかし、それも、自ら進んでのことではなかった。例の、虎乃介の事件で、関わりがあることは、警察にはばれなかった。が、釜渕には知られていた。その弱みに付け込まれ、金を用意せい、という脅しに、宝石のことを話したのである。
まさか、その所為で、善兵衛が殺されるとは思ってもいなかった。熊蔵は、善兵衛を尊敬していたし、頼りにしていたのである。
女衒上がりの、新米骨董屋、誰にも、親しく付き合っては貰えない。毛嫌いされていることは、身に染みていた。だが、善兵衛だけは違った。骨董屋として、商売ができるよう、質屋の経験を伝授してくれたのである。仕入れた品物の鑑定もしてくれたし、値段も付けてくれた。どちらが、店の主人かわからないくらいである。
「熊蔵さん、掘り出しもんなど、めったにお目には、かからんもんや。贋もん、贋作、当たり前、それが、骨董や。けど、正直に商売し、贋もんと思うたら、贋もんや、ゆうて、それでも、お客が気に入ったら、飾ってもろうたらエエんや。そうしてたら、品もんは七十年、百年経ったら、付喪神、やないけど、魂が宿るねん。そしたら、守ってくれる人の処へ寄ってくる。あんた、まだ、還暦前やろう?骨董の勉強して、真面目な商売してたら、モノが寄ってくる。眼利きせんでも、エイもんが見えてくるのよ。頑張りや」
そう言って、熊蔵を励まし、まっとうな商売をするよう、諭してくれたのである。
「熊蔵さん、泣いてましたわ。自分の所為で、一番大事な、親兄弟以上の存在のひと、亡くしてしもうた。わしは人非人や。死んでお詫びせにゃあイカンのや、ゆうて、死刑にしてくれ、とまで、ゆうんですわ。家宅侵入、窃盗未遂、それだけの罪で、死刑はないですろう」
「そうですよね。善兵衛さん殺したんは、時影やから、熊蔵さんの所為やないもん。それに、わたしのことも、エライ気にかけてくれて、ストリッパーなんて辞めとき、ゆうて、心配してくれてました。根は、悪人やないんですわ、熊蔵さん」
「多分、善兵衛さんの優しさで、真人間に戻れたがやろう。善兵衛さん、ほんまに、仏さんの生まれ変わりやったがかもしれんで、悪人救うため、天から降りてきたんや」
「ばあちゃん、エイことゆうねェ、やっぱり『年の功』やね」
「何ね?また、アテを年より扱いする」
「いや、感心してるんや。けど、勇さん、ひとつ確かめて欲しいんやけど……」
「うん?何や、確かめたいことって?」
「その、ヤクザの孝夫の胸に刺さっていた凶器は誰のもんやったが?ジャックナイフ、ゆうてたけど、時影のナイフ、特殊やったって、睦実さんゆうてたよね?」
「ああ、ジャックナイフは、孝夫自身のもんやった。これは、裏を取ってる。多分、孝夫と時影が、質屋で克ち合うた。孝夫がナイフ出して、襲いかかったが、反対にそのナイフで刺されたがよ」
「それは、わかるよ。じゃあ、その時期は?善兵衛さんが殺された、後?それとも、前?」
「えっ?それ、どうゆう意味や?後か先か、重要ながか?」
「ボン、何か、エライ推理を働かせちゅうね。わたしには朧気ながら、ボンの仮説が見えゆうよ。けど、そんなこと、あり得るがやろうか?凄い偶然やと思うでェ」
「えっ、小政さんとボン、何を推理したがです?事件、もう解決しちゅうがでしょう?仮説やとか、推理やとか、何のことです?」
「やっぱり、小政さんも、疑問に思うちょったか、ゆうて、ここは、ホームズさんに譲るわ」
「いや、わたしはまだ、回答は出てない。可能性だけや。裏付けがないからな。けど、疑問点なら言えるし、可能性とゆうのなら、話せる。
まず、疑問点や。時影が、孝夫を刺した。ここまでは、エイワ。けど、その後や、何故、死体を隠したんや?しかも冷蔵庫などと、手間のかかる処へ……。答えは一つ。孝夫の死体の発見を、遅らしたかったからや。そこまではわかる。ほいたら、その、理由は?そのまんま、善兵衛さんの死体の横に、孝夫の死体があっても、エイいんやないか?どう思う、勇さん?」
「その、勇さんって、振るのやめてください。解る訳ないでしょう。取り柄が射撃の腕の刑事やから……」
「勇さん、巧い、切り返しが巧うなってる。出世するわ、その、機転だけで……。
いや、冗談はさておき、これは、時影本人にしかわからん、心理やろうけど、こう思うんや、孝夫の死体が、そこにあってはいけない理由……」
小政は、一旦、話を止め、お茶を啜る。その間の取り方が、策士である。狂言好きの顔が覗くのである。
「ここからは、可能性の話やでェ。もう一回、善兵衛さんの死体の傷、調べ直さなイカンなるろうけんど、おそらく、善兵衛さん、刺したのは、孝夫や、孝夫と善兵衛さんが争っている処へ、時影が現れた。新しい登場人物に、孝夫は焦って刃物を向ける。あっけなく、返り討ちや。血イ出さんように、ナイフは抜かれん。善兵衛さんは死んでない。仕方なしに、自分のナイフで止めを刺す。孝夫の刺した傷口の上から、もう一度、ナイフを入れて、犯行を一人の犯罪に見せかける。ここが、プロのプライドや。死にかけてたもん、殺したとは思われたくない、最初から、自分の犯行としたかったんやろう、ここが、わからん、時影の心理状態や。犯人は一人、そうするためには……」
また、ここで、間を入れる。
「孝夫の死体が邪魔だった、ってことですね?」
と、勇さんが結論を出す。
「あっ、エエとこ、勇さん、ゆうたらイカンやろう。それ、わたしのセリフや!」
と、小政が髪の毛を掻きまわす。
「ああぁ、また、ホームズやのうて、金田一になりゆう。まあ、わたしは、金田一のほうが好きやけどね」
と、千代が茶化す。
「どうや、ボン、わたしの仮説は?確証はないけどな、善兵衛さんの死体の傷、確認してみんと、仮説のままや」
「うん、僕の想像と同じや。けど、それ、調べても、発表せんほうがエイよ」
「どうして?真相解明が、わたしら、探偵団の役目やろう?」
「けど、そうしたら、熊蔵さん、殺人の共犯やのうても、原因、作ったことになるよ。時影、一人の犯行なら、窃盗未遂が最高の罪やろう?」
「そうか、熊蔵の罪、重くしそうやな、本人にその気はなくても、強盗殺人の種蒔いた、共犯の疑いを持たれたら、家宅侵入、窃盗未遂だけの罪の温情も消されるな……。
どうします?お寅さんは、女衒の熊さんは嫌いでしょうけど、ムッちゃんは同情的やったね?」
「アテが嫌いなのは、女衒の熊公よ。骨董屋の熊蔵は真面目に商売しゆうみたいやし、犯罪者作るんが、アテらぁの仕事やないき、勇さん、あんたさえ、胸の中に仕舞っておいたら、熊公の罪、軽うて済むろう?」
「お寅さん、エイこと言いますやいか。ほんで、僕はこの、刻屋が大好きですんや。善兵衛さんの死体の傷、調べ直さんかったら、仮説のままですろう?けど、僕は、その仮説、信じますよ。ひとつ、僕の推理です。善兵衛さんの死体の傷、多すぎません?時影のようなプロが、二カ所ならまだしも、三カ所、四カ所、傷つけてますよ。孝夫は一突きなのに。これ、小政さんが言ってた、孝夫の付けた傷、誤魔化すため、それ以外考えられませんよ。死体の傷、改める、必要なし。結論出ています」
「凄いやんか、勇さん、見直したわ。射撃の腕だけやない。あんた、立派な刑事になれるわ。みっちゃんにゆうとくわ、勇さんの名推理」
千代が、大興奮である。
小政とS氏はアイコンタクトを取っている。ふたりには既に、その推理はわかっていたのである。最後の花を、勇さんにと、黙っていたのである。ただ、一抹の不安はあった。勇さんが、そこに気が付くか?気が付かんかったら、どうやって、誘導しようか、ふたりとも、そこに知恵を絞っていたのである。
それから、数ヵ月後、熊蔵は裁判で、執行猶予付きの有罪判決を受けた。前科がなく、ヤクザの脅迫から始まった行動である、反省もしている。裁判所では、そう判断したのである。
14
その裁判の少し前、三月の末近くである。浜さんの運命の、昇進か、否かの、発表の時である。
結果は、警部に昇進である。目出度いことであったが、同時に異動の発令があり、浜さんは土佐清水の清水署へ転勤が決まった。高知県の西の端、足摺岬のある町である。
「やっぱり、左遷かねェ」
と、異動の発令の、新聞を眺めながら、お寅さんは呟いた。
「そうですろうか?ご栄転ですよ、きっと。だって、清水署の刑事課係長を任命されたがですもん、部下を何人も持つ、大事なポストですやいか」
と、千代は好意的な意見を言う。
「まあ、県警本部の平刑事から係長やき、出世は出世よね。けんど、場所が、西の果て、汽車も通っておらん、田舎の警察署ぞね。殺人なんぞ、十年来、起きてないろう?自殺は多いろうけんど。あのひとが行ったら、自殺者の大半を、殺人事件や、って、言いそうやいか、また、よう、そんなとこ、選んで行かすかえ、県警も……」
もっともな意見である。千代も反論できない。
「まあ、本人次第ですけんど……」
と、その時、旅館の電話が鳴った。みっちゃんが受話器を取ると、勇さんからの電話である。
「女将さん、勇次さんが、女将さんに代わってくれって」
「何やの、電話なんて珍しいやないの?いっつも、飯食うついでに、用事ゆうひとが……」
お寅さんが、電話を替わる。千代は、台所で惣菜作りに忙しい。
「勇さん、何て?」
電話を置き、台所へ帰って来たお寅さんに千代は尋ねた。
「それが、大事(おおごと)よね」
「大事って、何事です?」
「例の浜さんの転勤。ほんで、その送別会を、ここ、刻屋の座敷でやりたいがやと、それも、浜さん、たっての、ご要望ながやて。おまけに、その席に、井口探偵団の面々、みな呼んでくれ、ついでに、こことも関係の深い、売れっ妓の芸者、琴絵姐さんも呼んでくれって、ことらしいで」
「そりゃあ、送別会は結構ですけど、何で警察の送別会に、小政さんや、ムッちゃんが呼ばれるんですか?わたしと、お母さんは、まあ、店のもんやから、挨拶に伺う、それくらいはできますけんど……」
「それが、勇さんの言うことには、警察の送別会は、別にやるらしい、有志の会ってことやな。それで、浜さん、警部に昇進できたのは、刻屋の女将、若女将、初め、井口探偵団のおかげや、ゆうて、署長をはじめ、婦警、派出署の巡査にまで、言い触らしてるらしいんや」
「それ、マッちゃんの二代目やないですか……」
「まあ、清水署転勤も、本人全然めげてのうて、三年したら、本部の刑事課課長でもんてくる。それまで、地方の刑事のレベルアップや、おまんらぁもレベル上げちょれよ。ゆうてたらしい。まあ、落ち込まれるよりはエイけんど、清水署の刑事さんらぁ、かわいそうやねえ」
「けど、探偵団のメンバーって誰、呼ぶんです。まさか、マッちゃんまで?」
「それと、ウチの孫とジョンはイカンやろう、なんぼゆうたち」
「勇さんはどう言いゆうがです?人数とか、人選とか」
「それが、全部、お任せするって、日時だけ、明日の六時、って決まってるって」
「予算は?」
「まあ、適当にやて。本部長から、この前の一連の事件解決で、金一封どころか、送別会の費用、丸々、持ってもらえるんやて。ほんで、琴絵も呼べるんよ。警察の送別会に、芸者って、そりゃ、県民に叱られるで……」
「まあ、琴ちゃんだけやったら、身内みたいなもんですき、来てもらえるろうけんど、どうします?とりあえず、小政さんと睦実さんだけにしますか?先生や顔役さんは呼べんでしょう?本人らぁは、探偵団の一員を自称してるみたいやけど……」
「マッちゃんだけやのうて、分別のある、顔役さんと先生までもがかね。世も末やね」
「それと、今回、大活躍は、睦実さんとこの身内、配下、ゆうんですか?十兵衛さんと才蔵さんでしょう?才蔵さん、顔見たこともないけんど」
「イカンやろう、あの人らぁは、影のひとやき、人前、しかも、酒の席は拙いろう」
「そうですね、とりあえず、小政さんに連絡しましょう。私電話してきますわ。煮物、もうちょっとで、仕上がりです。味、確かめておいてください」
*
小政さんに電話して、そうゆう理由なら、わたしとムッちゃんは参加させてもらいます。との返事をもらった。そして、マッちゃんは外せませんよ。呼ばんかったら、有ること無いこと、噂が舞い散ってますよ。と言われて、マッちゃんにも連絡を入れた。
そうして、電話を置いたとき、玄関に遠慮勝ちに入って来た、和服の女性が眼に止まった。
「あの、こちらが、井口探偵団の本部がある、刻屋旅館さんでしょうか?」
千代が、眼を見張るほどの、上品で、和服の似合う、美人である。胸には風呂敷包みを抱えている。
「はい、刻屋旅館は家(うち)ですが、探偵団はもうありませんよ。一時、冗談で言ってただけですから、事件解決したら、解散しましたから」
まさかではあるが、探偵――捜査や身辺警護――の依頼人ではないよね、と、先に説明をしておいた。
「はい、その事件のことで、主人がこちらさまに、大変お世話になったと……」
(えっ?今度の事件で世話になった?まさか、熊蔵の身内?まさかね……)
「わたくし、浜田内蔵助の家内で、美津と申します」
(ええ?浜さんの女将さん?なんで、こんな美人が、選りにも選って、「外しのハマ」の処へ嫁に来たんや。絶対おかしい、何か弱みでも握られてるんか、それやったら、気の毒や!)と、勝手な想像をしていると……。
「実は、内蔵助は婿養子なのです。わたしが、三人姉妹の長女でして、浜田の家、継ぐために、駆け出しの刑事やった内蔵助さんに婿に来てもろうたがです。そやから、あの人、ずっと肩身の狭い思いしてきたみたいで、いえ、ウチところは、そんな気ないんですよ。出世が遅うても、手柄立てられんでも、息子二人にとって、エイ父親ですき、不満などありません。感謝してるくらいです」
(ご養子さん……、うちの亭主と同じや。やぱり、気ィつこうてるんや、どっこも……)
「本人は、昇進せん、給料も上がらん、こと、気にしてたみたいで、このたび、係長に、いえ、警部に昇進したんが、よほど嬉しかったのか、わたしに、この着物一式、買うてくれましたんよ」
(ああ、それで、和服姿なんか、けど、エイ見立てやんか、派手でなく、地味でなく、小顔の奥さんによう、似合うちゅう。浜さん、センスある。そうか、奥さんにベタ惚れながや、そこも、うちと、同じやな……)
「結婚以来、初めてのことで、地震が来るんやないかと、心配してたら、こちらさんのおかげや、足向けて寝られん、ゆうて、そりゃあ、感謝の言葉、言い続けますのや。女将さんは、ハチキンやが、道理のわかっちゅう、女丈夫やし、若女将さんは美人で賢い、ミス・マープルゆうて、名探偵の生まれ変わりや。その、若女将、慕うて、シャーロック・ホームズか、金田一耕助ばりの、名探偵が居るし、名犬ラッシーより賢い犬を自由に使う、天才少年が、息子や。おまけに、変装の名人、スリの名人も控えている。警察なんて、月とスッポンや、だそうですね?」
(ああぁ、こりゃ、間違いない、マッちゃんの二代目や。清水署まで、こんな、アホな噂が広まるがやろうか?情けないワ、旅館閉めないかんなるワ……)
「それで、お恥ずかしいんですが、主人に代わって、いえ、主人には内緒で、是非、若女将さんにお会いしたくて、若女将さん、いらっしゃいます?」
(ええ?このひと、なにゆうてんの?目の前に居るやんか、眼、悪いんやろうか?)
「あのう、わたしが、その、刻屋旅館の若女将で、千代ゆうもんですが……」
(何でわたしが、こんな、か細い声で、下手に出にゃあ、ならんが?)と、思いながら、相手の反応を覗ってみる。
「えっ、あなたが千代さん?名探偵の?『顔回の生まれ変わり』と言われて、絶世の美女で、周りから女王陛下のように、敬われているとゆう、若女将さん?」
(なんか、腹立つなあ、褒められてる気がせんワ。おちょくられてるんやないか、浜の野郎に……、この奥さんも奥さんや、こんなボロイ旅館に、女王陛下みたいな、上品な女が居る訳ないろう、どんな頭してるんねん、親の顔見たいワ……)
「ご、ごめんなさい、そうよね、それ、仕事着よね、若女将、ゆうても、小さな旅館、働いているわよね。ごめんなさい、女中さんとばかり思ってて。けど、ここの旅館、主人のゆうには、女中さんも一流、美人揃い、ゆうてたから、てっきり、その美人の女中さんやとばかり、失礼なこと申しました……」
(あれ、やっぱり、褒められてるんか、働きもんで、美人、そう見えてるんや。まあ、この格好では、女将とかには見えんわな、そりゃあ、女中さんと同じ格好やもん、みっちゃんのほうが、エイもん着てるかも……)
恐縮している、浜さんの奥さんが、手土産の菓子折を風呂敷包みから取り出し、つまらない物ですが、と千代の手に渡して、それでは、今後とも主人をよろしゅう、と言って帰って行った。
「誰が来てたん?一方的にしゃべってたやないの、あんたの声、ほとんど、聞こえんかったよ」
と、お寅さんが、土間から顔を出す。
(そうや、わたし、心の中で、突っ込んでただけや、殆ど口利いてない。どんな印象与えたんやろう?それが、浜さんに伝わって、また、尾ヒレを付けて、噂になったら、あぁ、ぞっとするワ……)
「どないしたん?気分でも悪いんか?」
「いえ、いえ、思いがけんひとやったから、浜さんの奥さんが、お礼にって。お菓子届けてくれましたんよ。何やろう?あっ、これ、有名な神戸のカステラですよ。高知では、大丸の地下でしか、手に入りませんよ。しかも、値が高いことで、有名な、お店らしいです」
「そら、ありがたいやんか、寿命が延びるかもね。孫と、幸雄さんにも挙げんと。じんまさんは、甘いもんイカンきね。糖尿の気があるき」
「幸雄さん、今日も遅いし、甘いもん駄目でしょう、お酒ばっかりやから、子供らが帰ってきたら、みっちゃんとみんなで食べてしまいましょう」
「あんた、亭主、大事にしいよ……」
*
翌日の午後6時、刻屋旅館の二階の二間の襖を取り外し、二十畳ほどの座敷に宴席をこしらえた。
出席者は、警察関係が、主役の浜さん、勇さん、怪我から復帰した、野上刑事、浜さんの相棒で、若い、河西刑事、それに何故か、マル暴係の杉下刑事の五人である。
探偵団側は、女性が多い。浜さんが、綺麗どころを……、と要望を出し、琴絵のお仲間を呼ぶ予算がなく、探偵団関係者の美人?を集めたのである。
琴絵は、芸者姿、睦実は、質素ながら、和服、真はタキシードの男装、みっちゃんも千代の若い頃の、着物を着ている。お多可さんが、炊事場の手伝いに駆り出されている。
女将のお寅さんも、高級な絹の着物姿である。千代だけが、何故か、普段のままの着物姿。賄の料理や、お酒の用意で、座敷に座る暇がない、動き易い格好、と本人の弁である。
その、地味な格好が、却って、人目を引くことになる。
「ねぇ、石さんも呼ぼう。そいで、睦実さんと同じ格好さす。決して、一緒に座敷へ出んと、交代で座る。きっと、刑事さん、見分けつかん。最後に、一緒に出てきて、種明かし。絶対、受けるよ」
「あんた、出席できん腹いせに、変な狂言、作る気やね?ほんま、策士や。けど、それやと、わたしらぁも、わからんでェ、瓜双つやから」
「そうやな、あぁ、こうしょう、石さんは右目の目尻に、ホクロ、書いとく。睦実さんは、左の目尻に書いとく。これで、見分ける。エイ案やろう?」
「我が子ながら、ほんま、将来が、不安や。ペテン師か、詐欺師か、大泥棒になっても、可笑しゅうないワ、あんた……」
そんな、S氏の提案に、小政が大乗り気であり、石さんは幸子の扮装で、別室に待機している。
そんな訳で、男の恰好をしているのは、真を除くと、探偵団関係者は、小政一人である。マッちゃんは、警察関係者、と聴いて、強く辞退した。
「なんぞ、脛に傷を持ってるんか?」
と、お寅さんが冷やかす。いつもの、マッちゃんなら、適当に、ホラ話で、誤魔化すのに、
「ま、まあ、深うは聴かんように……」
と、言葉を濁してしまった。
宴会は、勇さんの開会の挨拶、浜さんのお礼の言葉、みっちゃんから、花束贈呈、と続き、キリンビールの栓が抜かれた。
乾杯の音頭をとったのは、杉下刑事である。後で聴いたところによると、杉下刑事は浜さんのひとつ後輩、だが、ほとんど、同じような経歴であったらしい。そして、昇進は、杉さん、が、早かったのである。
ビールの瓶が、瞬く間に、空になり、司牡丹の熱燗へと、酒が代わる頃、浜さんのリクエストで、琴絵が、歌を披露することになった。
「そいたら、島倉千代子の歌で、『逢いたいなァあの人に』を歌わせていただきます」
琴絵が、三味線の撥を持ち、音合わせをした後、
「島の日暮れの段々畑……」と、歌い始めた。
一同が、はっと、息をのみ、聴き惚れる。
歌い終わると、盛大な拍手である。
「流石、琴絵姐さんや。プロ顔負けや。このまま、テレビでたら、島倉千代子より、売れるでェ」
と、杉さんが絶賛する。
浜さんは、感動して、涙目である。
「いえいえ、拙い歌で、すんまへん。まあ、おひとつ」
と、主役の浜さんのお猪口に、酒を注ぐ。
「歌なら、わたしより、マコちゃんが上手ですよ。そりゃあ、宝塚、目指してたんやから」
と、野上刑事の横で、お酌をしていた、真に話題を転じる。
「そりゃ、凄いわ。美人で歌が上手い。刻屋さんは、評判どおりの、老舗の旅館ですなぁ、スタッフが、みな、一流ですわ」
と、杉さんが、酔った、赤ら顔で喋る。
「宝塚は受験しただけ、落ちましたんよ。けど、浜さんのご栄転のお祝いやから、下手な歌ですけど、一曲、歌わせてもらいます」
真が立ち上がり、
「越路吹雪の歌った、『愛の賛歌』、エデット・ピアフって、シャンソン歌手が元の歌手ですけど……」
そう言って、ひと呼吸入れた後、
「あなた~の燃える手で……」と、歌い始めた。
歌の途中なのに、思わず、みなが、手を叩き始める。割れんばかり?の拍手である。琴絵が素人にしては、特上、の上手さ、なら、真は、プロより上手い、プロの中でも、上位、という位である。
歌い終わると、また、拍手の渦である。お寅さん、千代も、噂には聴いていたが、これ程とは、思っていなかった。
また、タキシード姿が、良く似合っており、映画スターが目の前にいるようである。
一同が、真に集中している間に、睦実が座を外す。ここで、石さん――幸子――と交代するのである。
「いやいや、ほんま、たまげるワ。さかもっちゃん、おまん、凄いブレーン抱えちゅうにゃあ。探偵だけやのうて、芸能界でも、食べていけるワ。刑事辞めて、マネージャーになったらどうや?」
「ほんまですねェ。琴絵さんは、原節子、真さんは、宝塚の男役のスター。みっちゃんはそうやな、最近、出て来た、浅丘ルリ子、若女将さんは、山本富士子ですね。スター勢ぞろいですワ」
睦実に代わった、石さん――幸子――に酌をされながら、野上刑事が話を膨らます。全く、睦実と幸子の交代に気づいていない。
幸子が、何食わぬ顔で野上刑事の杯に酒を注ぐ。
「忘れてた、睦実さんは、そうや、『赤線地帯』ゆう、映画に出てた、若尾文子や。妖艶で、色気があって、ぼくの好きなタイプや」
「映画スター、ゆうたら、今、話題のスターは、やっぱり、石原裕次郎ですね?」
と、サイダーをコップに入れて飲んでいた、若い河西刑事が初めて話題に乗って来た。下戸なのか、酒を口にしていない。
「そうや、足は長いし、男前、おまけに、歌も上手うて、流行ってるらしいやいか。うちとこにも、ユウさん、居るけど、同じユウさんでも、エライ違いや。神さん、不公平やなぁ」
と、酒に酔っているのか、赤ら顔の杉さんが、話を受ける。
「うちとこの、ユウさんは、どっちかゆうたら、南都雄二のほうですろう?いや、あっちのユウさんも、関西では『男前のユウさん』いわれて、エライもててるみたいですよ。その噂が立って、蝶々さんと、揉めてるらしい。『夫婦善哉』ゆうラジオ番組、おもろいですのに……」
「おい、野上、お前、先輩に対して、なんや。まるで、俺がもてん、みたいやんか」
「あれ?先輩、もてた例、ありました?」
「そう、ゆうちゃるなよ。さかもっちゃん、今、恋の真っ最中なんやから」
と、こちらもだいぶ酔いが回っている、浜さんが、お猪口を置いて喋り出す。
「浜さん、ここで、その話は……」
と、みっちゃんの方を、ちらっと見て、勇次が言った。
(けど、なんで、浜さん、みっちゃんのこと知ってるんやろう?)と、考えていると……。
「それも、片想い。相手が悪いワ、人妻に惚れてしもうたがやき」
(えっ?人妻?)と、首を捻っていると……、
「ちょっと、ご不浄へ行ってきます」
と、みっちゃんが座を外した。
「相手の人妻は、惚れられてることも知らんろう。まあ、言えんわな、山本富士子みたいな、高根の花やき」
(えっ?山本富士子?それって、今さっき、野上さんが、わたしを例えて、ゆわんかった?そいたら、その人妻、って、わたしのこと?)
「は、浜さん、その噂、どっから来ちゅうがです?根も葉もないことですやいか」
「何言いゆう。お前の顔みたら、すっとわかる。お前はすっと、顔に出る、って、言いゆうろうが、これは、ワシの勘よ、間違いない」
(あらあら、その人妻に惚れてるって、のは、「外しのハマさん」のほうの推測か。そりゃぁ、しかたないワ。けんど、外れてもないか、勇さん、わたしのこと、好きや、ゆうてたもん、但し、お姉さんとしてやけどね……)
千代は、これ以上ないというほどの笑顔を浮かべて、浜さんにお酌をする。
浜さんの向かいに、座っていた、小政が、自分の杯を、浜さんに向ける。杯を受取った、浜さんのその杯にも、酒を注ぐ。
「流石、浜さん、最近、冴えてますねェ。熊蔵が怪しいと、最初からゆうてたんも浜さんやし。けど、その勇さんの人妻に恋、ゆうんは、過去のことですよ。まあ、二、三年前までかな?今、勇さんが惚れてんのは、さっき、便所へ行った、みっちゃんですよ。まあ、これもまだ、巧く行くかどうかは、疑問ですがね」
(小政さん、わたしが言おうとしたこと、先取りしなや。けど、わたしがゆうたら、変に取られちょったか?やっぱし、頼りになるねえ、小政の兄ィさん。うちの子も、このくらいで、収まったらエエがやけんど……)
そこへ、みっちゃんが、新しいお銚子をお盆に乗せて運んでくる。
(トイレじゃなくて、お多可さん、手伝うてたんか。気が利くようになったな。勇さん、がんばってよ、こんなエイ娘、滅多に居らんでェ……)
新しい、熱燗に話が止まり、杯が交わされ続ける。テーブルに並べれた、さわち料理や、刺身も粗方、胃に納まっていた。
「それはそうと、この前の事件、ワシには、わからんことが、多すぎるんや」
と、ほぼ、酔い潰れる寸前の杉さんが誰とはなしに語りかけた。
「まず、時影、ゆう、主犯の男よ。行方がわからん、生きちゅうか、死んじゅうか?まあ、これは、誰もわからんやろうけんど、どういて、桂浜に現れるってわかったがな?まあ、そこの小政の兄さんの指図やろうけんど、余りに見事な、情報収集よ。後学のため、教えて貰えんろうか?」
これは、微妙な質問である。正直に話すと、十兵衛達の存在まで、暴露することになる。そこで、
「まあ、企業秘密ですが、うちとこ、長吾郎一家には、そうゆう、輩が居りますのンや。情報屋にも伝手がある。風野そっくりの男の情報集めて、つけさしたら、桂浜行のバスに乗った。そこで、先回りして、見張ってたら、ロングコートの怪しい男。急いで、警察へ連絡、ちゅうことですわ。運が良かったってことです」
(巧い、流石、狂言書きや。見事に、説明できてるワ。嘘が半分やけど……)
「それより、こっちからも、質問させてもろうて、エエですか?」
「何や、質問て?」
「警察は今度の事件、どうゆう解決したんですか?ひとつは、風野の罪、二つ目は、熊蔵の罪、三つ目は、殺された、孝夫と○○組の、幹部の釜淵の罪ですワ。善兵衛さん殺しは、時影と名乗った男、犯人死亡、で告訴でしょうけど、後は、どうなりました?」
「風野は窃盗の共犯者や。大阪の事件と、こっちの事件、両方や。なんせ、時影とは、グルやからな、ただ、殺人の共犯者にはできんかったワ。
熊蔵は、家宅侵入と、窃盗未遂や。こっちも、殺人事件とは関係なし、罪に問えなかったワ。
問題は、後の二人や、孝夫を殺したんは、時影、これは確定的や。けど、それがいつの時点の犯行かが、わからん。まあ、これは憶測やが、時影が、質屋に入って、金庫を開ける。逃げようとした時、善兵衛に見つかり、ナイフでグサリや。そこへ、運悪く、孝夫が忍びこんだ。時影と争うて、自分のナイフで、グサリ……。死体は、冷蔵庫に隠して、逃げる。その後、風野に宝石を渡した。ってことになる。だから、孝夫も、家宅侵入と窃盗未遂や。釜淵はその共犯者、指令を出してたもん。と、熊蔵の共犯、こっちが主犯格の罪に問われるやろう」
「なるほど、じゃあ、時影は、窃盗が二カ所、殺人が二件、傷害が一件って訳ですね?」
「ああ、強盗殺人犯やから、死刑やろうな、生きとったら」
「本当に、死んだがですろうか?死体、挙がらんですろう?」
「女将、あの日の海の状況、水温を考えたら、三十分以上は海の中に居れんですワ。その三十分間は、海岸線、警察が見張ってました。上陸はしてない。これは確かです」
「けど、桂浜の沖に、小型の潜水艦が待ち構えてたら、それに救助されて、逃げたかもしれんよ」
「無理ですワ。潜水艦でも、収容するには、海上へ浮かばにゃならん。我々の眼を掠めて、そんなことはできませんワ。怪人二十面相でも無理ですワ」
「ところで、何で、杉下さん、今度の事件に、関与なすったんです?担当は浜さんと河西刑事さんでしょう?なのに、畑違いのマル暴係の杉下さんが、ってことですよ」
「何でやろうな?自分でもようわからん。ひとつは、暴力団が大人しゅうしてて、暇やったこと。もうひとつは、この井口探偵団の活躍を見てみたかったこと。三つ目は、浜さんが、余りに熊蔵ばっかり、追っかけてるから、河西の助っ人、せにゃイカンと思ったからや」
「浜さんと杉下さん、どっちが、年上ながです?」
「浜さんが一つ上よ。けど、ほとんど、同期と等しい。同じ、刑事畑を歩いて来たし、出世はわしが早かったけんど、嫁さんは負けてしもうた」
「そうそう、浜さんの奥さんが昨日、うちに来てたがよ。そりゃ、凄い、美人、それも和服が似合う、上流社会のマダムって感じの人。浜さん、ご養子さんながやて」
と、千代が昨日の浜さんの奥さんとの対面を話す。
「あんまり知られてないが、浜さんの家、つまり、養子先の浜田家ゆうたら、浜田物産、浜田産業、浜田造船、まあ、大小合わせて、五つ、六つの会社を経営する、財閥よ。その、今の女将さんが、実質社長よ。本来、兄が二人居ったがやけんど、二人とも戦時中に亡くなった。その下の方の兄貴が、警察官よ。それで、亡くなる前に、警察官から養子を貰え、ゆうて、亡くなったらしい。警察官で養子に来れる人間、わしは長男でイカンかったが、浜さん――当時は横倉――は、三男やった。それで、美津さんと、結婚したんや」
杉さんの話の横で、当人は酔い潰れて、鼾をかいていた。
「それと、浜さん、熊蔵に対して何か、異常に執念みたいなもん、感じてましたけど、過去に何ぞあったんですか?」
「流石、よう、観ちゅうにゃあ、小政の兄ィさん。そうよ、過去に、係わりがあるがよ。過去ゆうても、浜さんが刑事になってとかやないでェ。もっと古い、昭和の十年頃、場所も土佐やない、満州よ」
「そりゃあ、エライ昔の、遠いとこの話やいか」
「女将、その頃の満州、ゆうたら、日本人の憧れよ。新天地やき。浜の家族も、いや、横倉一家も、満州で一旗、ゆうて、渡った口よ。
その満州――新京か、大連か知らんで――で、仲ようなった、ちょっと年上のおなごが居った。その子の家は料理屋やったが、経営が巧くイカンと破産。娘は借金の形に、女郎屋行きよ。その仲介をした女衒が若い頃の熊蔵よ」
「そんな遠いとこの因縁ですか?」
と、勇さんが、杯の酒を口に運びながら、相槌を打つように言った。
「熊蔵は、眼先の利く男で、満州は長うない、と朝鮮へ移る。太平洋戦争が始まる頃には、陸軍の将校と仲良うなって、物資の調達、横流しで、ひと財産作って、これまた、終戦前に本土へ逃げ帰る。横倉一家も、満州では巧うイカンと、早々に帰ってきてた。まあ、そこで、また運命の出会いや。片方は、警察官、片方は、軍に幅利かせて、商売の傍ら、女衒を続けてる。今に捕まえてやる、と、ずっと思うちょったがやろう。それが、今度の執念に繋がっちゅうがよ」
「満州、朝鮮、ゆうたら、風野も、そっちからの引揚者らしいですよ。これは、府警の御堂刑事からの情報ですけんど、戦争末期のどさくさに紛れて、あっちから、宝石類、掻き集めてきたんが、風野の商売の始まりらしいですワ」
と、野上刑事が言葉を入れた。
「前の戦争の因果が、まだ残っちゅうがやねェ。戦争はイカン。人の人生、狂わす。善人までもが、悪人に豹変するき」
お寅さんの言葉に、一同が肯く。そして、そろそろ、と、宴会が終了した。
「ハイヤー呼びますか?」
と、千代が杉さんに尋ねる。
「いや、河西が運転手で帰るワ。外に、高級車が待ちゆうき」
千代が先に立ち、皆の履物を揃える。玄関の外は、既に夜の暗闇である。
玄関前の、狭い道路をはさんで、双星製紙所有の空き地がある。燃料にする、石炭の山が、奥の方にあり、その前が少し、空き地になっているのである。そこに、一台の車が止まっていた。街路灯の裸電球に照れし出された車は、ドイツ製のベンツである。
杉下刑事が言っていた高級車とは、このベンツであるらしい。
「どなたのお車ですか?」
と、千代が、杉さんに尋ねる。警察官が買える白もんではないのである。
「ああ、これは、そこの酔い潰れている、今日の主人公の家の持ちもんよ」
と、杉さんが野上刑事と勇さんに支えられている、浜さんを指し示しながら言った。
「わたしはテッキリ、杉下さんのかと思いましたわ。バーバリーとか、レイヴァンとか、高級品、身につけてはるから……」
「ああ、あれ。あれは貰いもんや。ヤーさんからの、いや、匿名さんからのやが、贈り主はわかっちゅう、ってやつよ。賄賂やないでェ。ワシは、そんなもんで、手加減せんきに。まあ。呉れるもんは、貰う、主義なだけや」
と、片目を瞑る。ウィンクのつもりか、気持悪かった。
見送りに、井口探偵団のメンバーが玄関前に集合する。
「あれ?わし、酔うてるかな?」
と、杉さんが言う。
「酔うとりますよ、杉さん、どればぁ飲んだと思うちゅうがです?」
と、勇さんが答える。
「いや、あればぁの酒、では……。けんど、イカン、睦実さんゆう、別嬪さんが、二重に見えゆう」
「えっ?」
と、野上刑事、河西刑事が振返る。勇さんは、睦実と幸子の二人が並んでいることに気がついた。
「しぃ」と、千代が、人差し指を、口に当てる。勇さんは、すぐに察して、ネタばらしは止めにした。
「わ、わたしは飲んでないですが、確かに、睦実さんが二重に見えます」
と、河西刑事が、怯えるように言う。ドッペルゲンガーのことが、蘇えって来たのである。警察内でも、特影は風野のドッペルゲンガーではないかとの憶測が囁かれていたのである。
「ははは、受けたちや。これが、今夜の最大の出しもんぞね。世紀の大魔術、そっくり人間登場の巻……」
お寅さんが、サーカスか魔術団の興行のような口調でネタをばらす。
「さかもっちゃん、おまん、果報もんや、こんな凄い、知り合いがブレーンやなんて、おまん、署長になれるかもしれんぞ。出世間違いナシや!」
杉さんがオーバーな発言をして、一同が笑いに包まれる。主役の、浜さんは、この世紀の大魔術は見えなかった。
ベンツの後部座席の、奥に、酔い潰れた、浜さんを乗せ、隣に野上刑事、勇さんが座る。杉さんが助手席、一番若い、河西刑事がハンドルを握った。
(ああ、この運転手のために、河西さん、お酒、飲まんかったがや。飲酒運転は、ご法度やからなぁ……)
15
その宴会から、三日後である。浜さんは、清水署へ異動となった。例の美人の奥さんが一緒について行ったらしい。エイとこのお嬢さんが、あんな田舎暮らし、大丈夫やろうか?と、千代は心配している。
その、千代の前には、いつものように、どんぶり飯と、みっちゃんの作った卵焼き、それと、今日、初めて作った、昆布巻きを、例の特技?の早飯で平らげている、勇さんが座っている。
「その後、事件は起きてない?あんたの昇進は、大丈夫?」
「ええ、平和そのものです。杉さん、暇や暇や、って、しょっちゅう、うちの課を覘きに来るんです。○○組、また、釜淵、ゆう幹部が捕まって、M座のストリップ公演、中止、次回の公演から、別のテキ屋さんが仕切るみたいです。それで、大人しゅうなったって、言ってましたわ」
「ところで、熊蔵さんの方は?裁判、始まったがやろう?」
「ええ、判決はまだ先ですけんど、一回目の裁判が始まって、罪を素直に認めたそうです。弁護士の先生が気合入れて、無罪は無理やが、懲役刑にはさせん、ゆうとります。検事も、強ようは言わんみたいで、執行猶予になると思いますよ」
「そいたら、善兵衛さん殺しには、係わりない、ことになったがやね?例の、孝夫ゆう、ヤクザが、本当の殺人者、ゆう説は、なくなったがやね?」
「ええ、犯人は、時影、孝夫も被害者、ただ、窃盗未遂だけ、ってことになってます。それで、辻褄がおうて、問題なし、ってことです」
「ただいま」
と、玄関から、S氏が入って来る。学校帰りではない。春休みなのである。
「あんた、宿題は?もうすぐ、新学期やろう?」
「宿題なんてないよ。まあ、三年生の復習、ゆうて、プリントは渡されちゅうけんど、もう、済んだ。
それより、気になることがあるんよ。それで、小政さんとこ行ってたら、今頃、勇さん来てるやろう、すぐこっちへ行く、ゆうて、もんてきたがよ。小政さんと、睦実さんが、すぐ、来るでェ」
「気になること、っち、何ぜ?また、何か、たくらんじゅうがやないろうね?探偵ごっこもエイ加減にしときよ、四年生になるがやき」
千代が詰め寄る処へ、小政と睦実が玄関の戸を開けて入って来た。
「いやぁ、エイ天気ですねェ。桜ももうじき、満開らしい。花身でも行きたいですねェ」
「小政さん、いらっしゃい、睦実さんも、まあ、掛けて、お茶、用意するワ」
と、千代が、席を立とうとすると、
「はい、人数分のお茶です」
と、みっちゃんがお盆を提げて現れる。
「みっちゃん、エライ気が利くねェ。わたしより、凄いわ」
「若女将さん、これ位は、当たり前です。ふふ、本当は、ボンから先に、聴いてたんです。今から、小政さん達が来るってこと……」
「みっちゃん、ばらしたらイカンろう。せっかく、みっちゃんの株、上げちゃろうと思ったがやに……」
「また、あんたの策略かね。よう、思いつくねェ、次から次と」
皆がテーブルに腰を掛ける。勇さんが、最後のご飯と、昆布巻きを平らげる。
「美味しそうな昆布巻きですね、千代姐さんが作ったんですか?」
と、睦実が尋ねる。
「睦実さん、料理にも興味があるが?」
「はい、例の、四人の姉から、色々小言、言われながら、作らされてます。料理も、忍びの修行だそうで、嘘ですよね?自分たちが楽、したいだけですよ、きっと……」
「そうなが、忍びって大変ながやね。でも、さっきの昆布巻き、もう無いけんど、わたしやのうて、みっちゃん作よ。どうやった、お味は?勇さん?」
「えっ?これ、みっちゃん作ながでした?早うゆうてください。そしたら、もっとちゃんと、味おうて、食べてたのに……」
「何や、わたしの料理やったら、味、どうでも、エエんか?今度、唐辛子、たっぷり、入れちょいちゃろう」
「わっ、堪忍、してください。千代さんの料理やったら、何時食べても美味しいき、気にせんと食べゆうがですき」
「ははは、本当に、いつ聴いてもオモロいですねェ。浪花にもこんな、夫婦漫才コンビが居りますけど、中座の舞台、立てますよ、おふたりさん……」
「嫌や、この人と組んだら、わたしが『蝶々』、このひと、『ユウさん』。浮気もんで、泣かされるやいか」
「大丈夫や、こっちの『ユウさん』もてん事で、有名やき」
「ぼ、ボン、ひどい……」
「はははは、もう、笑いが止まらん。
ところで、ボン、何か気になることがある、って、相談、どうなっちゅう?本題に移ろうやいか」
「そうや、あんた、こんな漫才してる暇ないがよ、わたしは……」
「漫才って、勝手に勇さんとふたりで、盛り上がってたのは、母ちゃんやいか。
まあ、話、戻すわ。今朝の新聞読んだ?」
「えっ?何か、変わった記事でてたん?みっちゃん、今朝の新聞、持ってきて……」
「小さい記事やから、見逃すろうけんど……」
と、S氏が指し示した記事はこういう内容である。
大阪地方裁判所に向かう、護送車が、大型トラックと衝突、怪我人が出、護送中の容疑者、Kが重体、病院に運ばれ、治療中、裁判は中止となる。Kは宝石商で、宝石盗難事件の容疑者として告発されている……。
「この、K、とゆう容疑者、風野のことやろう?事故の原因が書かれてないけど、これ、裏があると思わん?」
「えっ、まさか、風野の口塞ぐために、わざと事故起こした、ゆうんか?」
「ああ、タイミング良すぎやろう?裁判、第一回目の当日に、事故、それで、重体。裁判を嫌がってるもんが居る、としか、思えんやろう?そら、偶然、って事もあるろうけんど、護送車が、事故に逢う、しかも、相当な怪我人が出る、それが、風野を乗せた車。こんな偶然、あり得ると思う?」
「そいたら、誰が、嫌がっちゅう、ゆうがぜ?ボン、まさか……」
「小政さん、そのまさか、やと、思うでェ。一パーセント、の可能性が、起こったがよ」
「な、何の話しです?また、ボンと小政さんしかわからん会話ですき、千代さん、わかります?睦実さんは?」
「わかるわ」
「えっ、睦実さんはわかるがですか?」
「勇さん、わからんがは、あんただけよ、ほんま、刑事に向いてないわ」
「千代さんも、わかったがですか?」
「そうよ、風野に色々喋られて、都合悪い人間は、唯一人、九十九パーセントの確率で、死んだはずの男………」
「ええっ?じゃぁ、時影が、生きてるって……」
「その可能性が、一パーセントやなくて、五十パーセント、以上になったがよ。それで、どうやって、あの桂浜の海から生還できたか、考えたがよ」
「えっ?生還できる、方法が、あったがですか?」
「ああ、忍者なら、あるいは、って方法がね。ただ、本当に可能か、睦実さんと勇さんに確認せんといかんがよ。それから、小政さんに、その検証をしてもらいたい。ほんで、集まってもろうたがよ」
「忍者なら、出来るって、まさか、呪文となえて、ドロンと消える、なんて話じゃ、ないですよね?それ、立川文庫の講談ですよね、自来也とか……」
「ドロンとは、イカンけんど、変わり身の術って、あるろう?池の中へ石を放り込んで、水の中へ逃げたと思わせる。自身は、草陰とかに隠れる」
「それ、漫画の世界と違います?現実にできますろうか?」
「どう?睦実さん、できる?」
「ええ、相手が素人なら、充分に……。しかも、時影は大阪の盗難事件の時、それと同じことしてますよ。道の角を曲がって、自らは、身を隠し、風野を身代わりに、走らす。これも、分身の術、変わり身の術ですよ」
「そしたら、竜王岬から、飛び込んだのは、時影やのうて、大きな石、やったがか?」
「大きな石でなくても、あの風の中、波の音なら、ロングコートのポケットに、何か入れてたら、充分やったと思うよ。ただ、その、水面に落ちた瞬間を、勇さん、杉下さん、見ていたやろうか?どう?」
「いや、僕が海面覘きこんだときは、コートが波間に漂っていた。杉さんはその後から、あがってきたから、コートが沖に流されているとこしか見てないと思うよ」
「けど、時影が、崖から飛び込んだのは見たがでしょう?どうやって、途中で止まれるの?しかも、誰にも気づかれず……」
「母ちゃん、そこが、忍びなんよ。多分、事前に、十兵衛さんがうどん食べている間に、竜王岬の手すりに、命綱を括りつけてた。それに、金具を取り付けて、飛び込む。ターザンみたいに、岬の先の方へ、綱が振り子のように流れて行ったがよ。その、後で、勇さんたちが、海面を見る。時影は、視界の外、竜王岬の突端の崖にへばりついている。夜陰にまぎれて、逃げ出したと思うよ。しかも、変装して、警察官かな?地元の漁師かな?」
「どうや?ムッちゃん、できそうか?忍びなら?」
「できます。何で、今まで考えつかんかったがやろう。わたしらぁ、その現場、見てないから、海へ飛び込んだ、としか、考えてなかったんですね。飛び込んだ所を、何人もが見ていたと、勝手に思い込んでいたんですね」
「流石、ルパンの生れ変りや。ボン、見てへん場面を、よう、想像できたな」
「現場に居らんかったから、想像できたがよ。その場にいたら、海へ飛び込んだ、ゆう、警官の声に惑わされちょったろう。けど、話だけ聴いたら、一番先に海面を見た、勇さんが、コートが波間を漂ってた、ゆうてたから、誰も、落ちた瞬間、見てないんや、とその時思ったもん。けど、変わり身の術、なんて知らんかったし、今日、図書館で調べて、やっと、わかったがやき」
「あんた、今朝から出かけたと思うちょったら、図書館へ行っちょったが?そうゆうことはマメやねェ。勉強はせんくせに……」
「勉強したら、一番になるやろう?そしたら、妬まれて、苛められる。程々の成績、目立たないこと、これが、小学校の過ごし方やき」
「なるほど、一番になろうと思うたらなれる。けど、あえて、そうならんように、気を配る。ボン、賢いなァ」
「小政さん、それが、イカン言いゆうろう。勉強して、小政さんみたいに、京大受かって欲しいワ」
「ま、まあ、京大に受かるためだけが、勉強やないと思いますんで、今は、色んなこと見聞するのが、将来のため、なあ、ボン、そうやろう?」
「まあ、エイワ。この子、期待せんとこう。白髪が増えるだけやもん」
「そしたら、時影が生きてて、風野を消すために、護送車の事故を起こしたゆうんですか?そりゃ、大事です。御堂さんに知らせとかないと……」
「駄目だね。もう、時影は死んでる。そう、結論付けて、善兵衛さんの事件は解決しているんやから、今更、犯人、生きてました、って、発表はできんやろう?それと、もうひとつ、疑問点がある。何故、時影はトドメ、刺さんかったがやろう?事故の現場で、風野を殺すことも出来た筈やのに、重体のまま、病院行き、って、おかしくない?」
「ああ、新聞の記事だけではわからんが、事故現場は混乱してたやろうから、充分、殺せたはずや、何でやろうな?千代さんわかりますか?」
「小政さん、ひと、おちょくっちゅうね。わたしがわかる訳ない、そう、思うちゅうろう?お生憎様、わたしの考え、ゆうちゃろうか?きっと、驚くでェ」
「えっ?母ちゃん、マープルの霊が乗り移ったが?」
「まあ、聴き。突飛なことやき、笑いなや。風野と時影、一心同体、みたいなところがあるろう?本体と影、そしたら、いつでも入れ代われるがやない?今、病院に居るのが、風野の本体って、誰が言い切れる?事故装うて、入れ替わる。ホントは重体やない。警戒が薄くなった病院からトンズラ……。どうよ、エイ作戦やろう?」
「凄い、流石、顔回の生れ変り、ミス・マープルより、凄い。千代姐さん、それ、正解ですよ。忍びなら、重体は元より、仮死状態にもなれます」
「そうや、護送車の他の乗組員、運転手や護衛のもんは重体やないのに、風野だけが重体って、おかしいワ。母ちゃん、たまには、凄い推理、発揮するやいか、流石、井口探偵団の団長や」
「たまに、ってなによ。勇さんと一緒にせんとって。それに、探偵団はもう解散。わたしは唯の主婦です」
「千代さん、それ、僕に対して、当てつけですか?さっきから、僕だけ、なんちゃあ、推理ようせんから、刑事失格、ゆわれてるようや……」
「そんなことないよ、勇次さん、わたしも半分付いて行けん。ここのメンバーが、異常なんですって、ホームズ、ルパン、顔回、の生れ変り。常人やないひとばかりや。うちの、家族より、発想が豊かやもん。ボン、大きゅうなったら、ウチとこおいで、一番上の姉さんの娘が今五歳やから、嫁にもろうて。本当は、わたしがお嫁さんにして欲しいんやけど、ちょっと、歳の差があり過ぎやもんね」
「ええっ!、この歳で、もう、許嫁作るの?勘弁してよ。嫁は、自分で選びたいよ、ねえ、勇さん?」
「何で、僕に振るんですか?おちょくられている気がする。堪忍して欲しいのは、こっちですワ」
「ご免、ご免、睦実さんが悪い冗談ゆうからや。それより、時影が、風野と入れ替わちゅうとしたら、前言取り消し、御堂刑事さんに知らせた方がエイ。病院から逃げるつもりやから……」
「そうや、重体は擬態なんや、あっ、これ、洒落やないですよ……」
そいたら、電話、借ります。と、旅館の電話から、大阪府警の刑事課を呼びだす。御堂刑事は運よく、在室であり、すぐに、電話口に出てくれた。
「あっ、御堂さんですか?高知県警の坂本です。先日は、ご協力、ありがとうございました。ところで、その、風野のことですが……」
「えっ、もう、そちらに、連絡入ってるんですか?まだ、極秘に捜査中ですのに……」
「やっぱり、風野になんかあったんですね?病院から逃げたとか……」
「えっ、それも知らんと電話してきたんですか?ほいたら、どうして、風野が逃げたって、知ってるんですか?まさか、また、そちらの探偵団の推理ですか?」
「ええ、今朝の新聞に、風野らしい男が、護送中に、事故に遭って、重体やって、知りまして、これは、偽装や、逃げるための算段やと、推測したがです。それと、主犯の時影ですが、生きている可能性が、出て来たがです。どうも、そちらの事故は、時影の起こしたことやないかと、推測してるんです」
「時影が生きてる?そりゃぁ、確かですか?いや、それならわかる。今度の、逃走劇は、風野が考えたんやない。しかも、病院で寝てた奴は、風野じゃない、そうか、時影、ゆう奴やったんか。手際がエイと思うてましたワ」
「それで、病院で何かあったんですね?差し支えない範囲で、教えてもらえませんか?」
「はい、詳しいことは、県警の方へ、報告書、電送します。昨晩、いや、今日の午前二時前後やと思います。発見したのは、今朝ですが、病室の見張りの交代で、朝、病室へ行った刑事が、見張りの刑事が居らんのに、訝しがって、まあ、便所かと、風野の病室、確認に入ったんですワ。そしたら、ベッドのシーツが血で真っ赤に染まってましたんや。風野の口封じに、誰かが侵入したと思って、シーツを捲ったら、見張りの刑事の死体でした。心臓、一突き。殺されたんが、今言った、午前二時前後、犯人は風野、すぐに、非常線を張りましたが、まだ、たいした情報が入ってません。風野の犯行にしたら、手際が良すぎる、誰かが侵入したんやないか、との疑いもありましたが、出入り口は、他の刑事が見張ってます。病院関係者以外の立ち入りはない、はずです。
坂本さんのゆう、時影が生きていたとしたら、奴の犯行ですわ。ナイフらしい、凶器も、奴が使っていたもんに似ています。凶器は発見できません。病室の前で、後ろから襲いかかって、首を絞め、すぐさま、心臓、一突き。ナイフを刺したまま、ベッドへ運んで、そこでナイフを抜いたようです。廊下には、二、三滴の血痕しか、落ちていませんでした。ベッドは、血だらけでした……」
「プロの手際ですね。ところで、昨日の、交通事故の方ですが、どうゆう、状況だったんですか?こちらでは、トラックと護送車の衝突としか、報道されていなくて……」
「ええ、これが、すこぶる、怪しい。そこで、報道規制してました。風野を裁判所へ護送中、片側一車線の交通量の少ない道路です。急に、交差点から四トントラックが飛び出してきて、護送車が横転したんです。幸い、運転手も、警護の警察官も、軽傷でしたが、トラックは、逃げられました。それで、風野はと見たら、頭から血、流して、苦しそうなんです。脈拍も異常で、すぐさま、救急車呼んで、病院へ収容です」
「では、トラックの行方は……?」
「それはすぐ見つけました。けど、盗難車両でした。前日の夜、盗まれたもんで、こちらは、裏、取ってます。ちゃんとした、運送会社のトラックでした」
「そうですか、これはもう、時影の仕業、としか思えませんね。事故のドサクサに紛れて、風野と入れ替わった。トラックで逃げたのが、風野だったんでしょうね」
「けど、時影がどうやって、あの海から生還できたがです?何か、証拠が出て来たんですか?」
「いや、単なる憶測です。詳しいことは、こちらからも、電送します。協力できることがあれば、何でもゆうてください」
「ええ、頼みます。けど、時影が生きてたら、そっちの、十兵衛さんでしたっけ、変装の名人の、あの人、気をつけた方がエイですよ。時影って奴が、復讐に行くかもしれませんから……」
「わかりました、注意しときますわ、じゃあ、これで」
勇さんは受話器を置き、御堂刑事の情報を、その場の者に伝える。一同に、沈黙が訪れた。
「もっと早く、時影が生きている、って気づいてたら、その刑事さん、殺されずに済んだかもしれんね」
「いや、ボン、その刑事やのうて、他の誰かかもしれんが、犠牲者は出ているよ。防ぎようがない。プロの殺人者や。十兵衛さんくらいの腕前がないと、止められん」
「その、狂犬か陰獣か知らんけど、野放しになってしもうたがやね。うちらぁの手にオエン事件や」
「十兵衛たちに知らせます。もし、時影が十兵衛に復讐に出てきたら、その時が、逮捕の可能性がある時やから」
「ああ、充分注意せい、ゆうときよ。暗闇から、ナイフってこともあるかもしれん」
「いや、時影が出てくるなら、果たし合いやね。もう一回、真剣勝負すると思うワ。腕は互角、と、時影も思うちゅうろうき」
「わたしは違う考えよ」
「へぇ、マープルさんが憑依しちゅう、みたいな母ちゃんはどう思うが?」
「風野がいるもん、逃げるはずよ。へたしたら、海外、それも、国交のない国」
「それって、赤い国旗の国のこと?」
「そう、お隣か、そのまだ、北か、あるいは、中米の、革命が起こりそうな国か」
「考えられますね。そっちの方が、現実的や。わたしも千代さんの推測に乗ります」
「そうやね、時影、十兵衛さんには勝てんと思ってるね。武士やない、忍びやもん、逃げるのも兵法やね。僕も、母ちゃんの意見に乗っとく、勇さんは?」
「ボン、また、おちょくってるな。僕に振るな、ゆうてるやろう。僕は、自分の意見なんて持ってません。皆さんの意見、参考にさせて貰います。それで、昇進して、みっちゃんを嫁さんに貰いますんや!」
「それって、『漁夫の利』って、ゆうんやなかった?」
*
「中途半端ですが、今回の物語はここまでです。その後、風野と時影の行方は、杳として、わかりませんでした。母の言ったように、海外へ逃亡、その線が濃いと思います」
S氏はそう言って、「久礼」という銘柄の酒を飲みほした。
「時影と言う人物は謎だらけの男だったんですね?」
「謎の男でした。もう一度、その正体について、幾つかの説をお話ししましょう。
一つ目は、風野の双子の兄弟説。つまり、幼い――生まれたばかりの――時に里子に出されて、離れ離れになった兄弟という、説です。
二つ目は、整形手術による、そっくりな顔。つまり、作られた顔、説。
三つ目は、ドッペルゲンガー説、これは、いわば、パラレルワールド、別世界の風野がこの我々の世界に、紛れ込んだという説です。
最後の四つ目は、三つ目と似ていますが、パラレルワールドではなく、タイムスリップによる別次元の風野の末裔が現在に現れた、という説です。つまり、近未来から来た男、とでもいいますか、風野の子供か、孫に当たる人物ということです。
まあ、後の二つは、SFの世界、お伽噺ですよ。一番ありそうなのは、整形によるものでしょうが、これは、十兵衛さんが、否定しています。変装や、作り変えた顔ではない。生の顔、とでも言いますか、持って生まれた顔だと、そう言いました。すると残りは、双子説。風野の家系は、ある程度、遡れました。由緒あるとは言えませんが、商売人の家系。双子を嫌う、武家ではありません。そして、かなりの証言を集めた結果、双子など、生まれていないことが、当時の店の奉公人等に確認できています。つまり、一も、二も、否定されているのです。他人の空似ではありません。顔だけでなく、体型まで、声まで、そっくりなのです。今なら、クローン人間とでも、説明がつくかもしれませんが、当時は、そのような技術はありませんでした。
こうなると、残りのSFの世界の話が、ひょっとして、ってことになって来ます。ですから、やはり、時影は謎の人物です。
忍びの『風魔一族』の末裔、と語ったようですが、そのような忍びの集団は、当時も今も存在していませんでした。実は、石さんや睦実さんの『伊賀忍者』の末裔というのも、実は、眉唾物で、睦実さんの曽祖父が、石川の姓を広める目的で、五右衛門の子孫、伊賀の忍びを名乗ったそうです。ただ、残された文献を頼りに、忍びの訓練は行っていたようです。
わたしは、彼が時影と名乗ったことに注目しています。時次郎の影、だから、時影?それだけでしょうか?時を越えて来た、影のような存在、だから、時影なのではないのでしょうか?風野の姓に『風』の字があった、だから、風魔一族の末裔を名乗った。時次郎だったから、時を越えて来た自分に合わせて、時影、と名乗った。
まあ、お伽噺ですが、ひとつ、根拠があります。それは、例の時影が着ていた、黒革のロングコートです。これが、後日、海岸へ打ち上げられました。遠く流されて、四万十川の河口で見つかったのです。清水署に勤務していた、浜田警部が、そのことを知り、県警に届けたのです。そのコートの生地ですが、何の生地かわかりませんでした。革ではない、ナイロンでもない、木綿でも、絹でもない、不思議な繊維だったそうです。
『マトリックス』って映画、知っていますか?ハリウッドの映画で、『キアヌ・リーブス』が主演の、SF映画、コンピューターのバーチャル世界の物語だそうですが、その主人公、キアヌ・リーブスが演じる『ネオ』の衣装、これが、黒いロングコートなのです。その、コートと材質も形も、時影のコートは、そっくりなのです。これは、睦実さんが、映画を見て、わざわざ、わたしに電話をくれたのです。あっ、睦実さんは、ご健勝です。八十五歳になったそうですが……。
その、ネオの衣装ですが、革ではなく、合成、ウールの混成生地だそうです。昭和のあの時代には、存在しなかった生地。しかも、映画の主人公と同じデザインのコートだったんですよ。つまり、時影はマトリックスが上映された、千九百九十九年以降の人物ということになるのではないでしょうか?いや、パラレルワールドのほうでは、その当時に、この映画が作られていたのかもしれませんから、タイム・トラベラーか、パラレルワールドの住人かは、断定できませんが、当時の現実の世界の住人ではなかったのかもしれません。まあ、そのコートだけが、時空を超えて来たものとも考えられますが、それは、可能性が低いでしょうね」
そこで、ふたたび、日本酒を口に運ぶ。わたしは、あっけにとられて、杯を手にしたまま、固まっていた。
「ひとつ、謎が残っているのですが、時影が、竜王岬から飛び降りる前に、坂本刑事の名を言ったそうですね?でも、坂本刑事と時影はその時が、初対面。どうして、刑事の名前を知っていたのでしょう?」
「彼が、時空を超えて来た、未来人、あるいは、読心術、の達人、という考えもあるんですが、わたしは、こう思います。勇さんが、名前を名乗ったのは、金陵閣というホテルの、風野の部屋に『捜査令状』を持って行った時です。ですから、その時、時影は近くにいたのではないかと思います」
「ほう、隣の部屋の客とかですか?」
「いえ、その部屋は、突きあたりの部屋、その階には、他のお客はいなかったそうです」
「では、どうやって?盗聴器でも仕掛けていたのでしょうか?」
「おそらく、部屋まで案内した、ホテルマンが時影だったと思いますよ」
「それなら、風野に事前に、そうか、銭湯から帰って来て、すぐ、踏み込んだ。連絡する、余裕はなかったのですね?」
「ええ、ホテルの従業員に化けたのは、おそらく、近くの喫茶店に刑事らしい二人連れが、つまり、野上刑事と御堂刑事の姿を見て、急遽、行ったことだと思います。その為、風野とは接触できなかったのでしょう」
S氏は、杯の酒を飲みほした。
「わたしの推理をお話していいですか?」
わたしは、手にした杯を降ろして、おもむろに口に出した。S氏は驚いたように、無言で肯く。
「わたしは、時代小説が好きでしてね。山田風太郎の忍法帳シリーズは学生時代に読みふけりました。白土三平の漫画も好きでしたね。それで、忍者、忍術、ってのに、人一倍、興味を持っているんですよ。ですから、今日のお話は、大変、興味深く、聴かせていただいたのです。そこで、わたしの、推測なのですが、時影、と名乗った男は、やはり、風魔の末裔、あるいは、その術、技術の継承者ではなかったかと、推測します。そして、風野と同じ顔、これは、忍者の、顔面の筋肉を自在に動かす、つまり、含み綿や、入れ歯、ハリウッドの特殊メイク、などではなく、自分自身の顔の筋肉を変化させて、風野とそっくりな顔に仕上げたのではないかと思います。顔の筋肉を動かす、そんな術があったような気がするんですが……。
それと、ロングコートの件ですが、あれは、軍服ですよ。陸軍の将校が着ていた、ロングコート、それを、参考に、マトリックスが使用したのではありませんか?ウールの混成生地なら、当時、既に開発されていたと思いますよ。まだ、一般的でなかっただけのことでしょう。如何ですか?これなら、あなたの仮説の、二番目が、正解になるのではありませんか?」
「ほほう、確かに、顔の筋肉を自在に動かして、顔を作り変える。面白い仮説ですが、顔の骨格までは、変えられませんよ。また、耳の形は、まず、無理です。風野と時影は、耳の形まで、同じだったと、十兵衛さんが言っていました。だから、変装でない。作り物の耳ではなく、その耳の形まで、そっくりな人物だったのです。
ですから、わたしの仮説の四つは何れも、正解ではなく、別の回答があるのかもしれません。永遠の謎、ということで……。
最後に、いつもの、蛇足です。
熊蔵さんのことです。
熊蔵さんは、裁判で、執行猶予付きの判決を受け、釈放されました。骨董屋を再び始めることになり、お寅さんは、例の柿右衛門の壺、菖蒲の絵柄の壺を、
「あんたから、預かっていたもんや、これを売って、真っ当な商売の始まりにし」
と、熊蔵さんに渡したのです。
長吾郎さんも、自宅に眠っていた、骨董品を何点か、格安で引き取ってもらい、それを、商売の目玉商品として、「立花屋」を再開させたのです。
その、陰には、実は、もうひとつの、蛇足があって、ほら、善兵衛さん処で、働いていた、小僧さん、伸介さんですが、このひとを、熊蔵さんが、雇い入れて、しかも、毎度屋の後を継がすために、勉強させたんです。夜間ですが、高校にも通わせて、実の息子同様に育てようとしたんです。
善兵衛さんには、相続人がなく、遺言で、伸介さんに跡を譲ることを、残していたのです。けれど、まだ、十五歳では、商売できません。熊蔵さんが、罪滅ぼし、いえ、善兵衛さんに代わって、伸介さんを立派に育てようと、考えたのでしょう。
善人になった、熊蔵さんを、少しは係わりのある、お寅さんが後押しし、お寅さんに恩義を感じている、顔役さんが、ひと肌脱いだ、ってところですかね。
涙を流して、感激してましたよ、熊蔵さん。それから、商売は、真面目に、堅実に続けて行きました。善兵衛さんのお墓参りも欠かさず、伸介さんを立派な商売人に育て上げ、その姿を見届けて、二十年ほど後に、笑って天国に行ったそうです。伸介さんが質屋を継ぎ、伸介さんの息子さんが、骨董屋から、商売を広げ、画廊を経営したり、しているようです。
熊蔵さんは、善兵衛さんの隣の墓に埋葬されたそうです……」
S氏は、わたしの杯に「久礼」という酒を注ぎ、自らの杯にも、酒を入れ、乾杯をするように、杯をさし上げた。
わたしもそれに倣った……。
16
その三日後である。私の携帯電話に、S氏から連絡があり、時間が取れれば、お会いしたい、とのことであった。
午後の遅い時間、S氏宅を訪ねると、居間に通され、
「今日は、急に思い立ったので、お酒の用意がありません」
と、サイフォンで淹れたコーヒーを用意してくれた。
「先日の、風野と時影の関係の四つの説、何れも、今ひとつの内容だったもので、もう少し考えてみたのですがね」
と、ブラック・コーヒーを飲みながら、S氏が話し始めた。
「ほう、では、五つ目の説が思いついたのですね?」
「そうです。あなたが、時影が『風魔の末裔』というのが、本当だったのではないか?と、おっしゃったので、そっちのほうから、考えてみたのです。つまり、忍びの技、いや、術の中に、何か、特別なものがないかと……」
「ほほう、わたしの思いつきから……」
「わたしたちは、つまり、小政さんや睦実さんを含んでですが、風野を本体、時影をその名のとおり、『影』と、見ていたのですが、逆ではなかったのか、と気が付いたのです。つまり、時影と名乗った男が、本体、風野は傀儡ではなかったか?と思ったのです」
「えっ?それって、どう違うのですか?結局、二人一役、には、違いないでしょう?」
「少し違ってきます。時影が本体で、変装も整形もしていない、だが、それに似た、風野の方を、忍びの術で変身というか、顔を変えていたのではないかと思うのです。
時影は作った顔ではない、と、十兵衛さんは言ってました。ところが、風野のモンタージュ写真を見た、睦実さんは、この顔は変装してますね、と言ったんです。つまり、風野の方が、作られた顔、と、最初から、言っていたんですよ」
「そ、そうでした、確かに。でも、それは、眼鏡や口髭……、だけではなかったのか、顔全体が、忍びの変装術、だったんですね?」
「ええ、そう、気付いて、昨日、睦実さんに電話したんですよ。そしたら、睦実さんも、あの時、感じたのは、眼鏡や口髭でなく、顔全体から醸し出す雰囲気が、全て、欺瞞に満ちた顔だと感じていた、と、おっしゃるんです。
それで、時影を本体、風野を『影』と置き換えて、事件をもう一度、再現してみました。すると、とんでもない、仮説を思いついたのです」
「ほほう、それは面白い、是非聴かせてください」
「今となっては、証明のしようもないことになりますが、まあ、架空の物語として、聴いてください。こういう、事件だったのではないかと……」
S氏はコーヒーを一口含んで、話を始める。
*
まず、善兵衛さん殺人の真犯人は孝夫という、ヤクザです。この犯行が、九時から十時の間でした。では、孝夫が時影に殺されたのは何時か?我々は、すぐその後、殆ど同時刻、と思っていました。だが、本当は、もっと遅い時間だったのではないでしょうか?つまり、孝夫の死体は、冷蔵庫の中。死亡推定時間が、死体からは判断できず、犯行現場の状況から、同時刻、とされたのです。しかも、警察は、善兵衛さんを殺したのも、時影、と、したため、同時刻、と、せざるを得なかった。
ここから、わたしの仮説です。孝夫が、質屋『毎度屋』に玄関のガラスを切って、侵入してきた。九時半から、十時前でしょう。その音に、善兵衛さんが気づき、店先で、孝夫を見つけ、慌てた孝夫にナイフで殺害される。孝夫は、当初の目的の、サファイヤの眠る金庫を開けようと、ダイヤルを回す。相当な時間を、要したと思いますよ。そのために、深夜でなく、少し早い時間帯に侵入したのでしょう。
さて、時影は、その時どこにいたか?わたしは『濱長』で、芸者遊び、していたと思います。つまり、時影は、風野として、人前にいたのですよ。
そして、最後の十分ほどを、影武者の風野に代わって、本人は『毎度屋』に向かった。つまり、浜さんの送別会で、石さんと睦実さんが入れ替わったように、最後の部分だけを、アリバイ工作に使ったのです。
時影が、毎度屋に忍び込んだ時は、善兵衛は虫の息。時影は止めを刺し、傷口を、自分のナイフで、もう一度、刺しておいた。そして、金庫を開けるのに、苦戦していた孝夫を一突き、ですよ。おそらく、孝夫のジャックナイフは、善兵衛の身体に、そのまま、刺さっていたのではないかと、想像しますね。
後は、簡単に金庫から宝石を奪う。孝夫の死体を、冷蔵庫に仕舞い、証拠となりそうな、孝夫の足跡なども消し去ったのでしょう。孝夫の死体を冷蔵庫に入れたのは、死亡推定時刻をわからなくする、目的があったと思いますよ。
何故、時影が、濱長にいたか?影武者でよかった、と、思いますよね。それが、今回の仮説の、大きな点なのです。
ところで、風野と時影が同時にいた時は何時だったか覚えていますか?ひとつは、今の毎度屋と濱長。もうひとつは、風野が警察に拘留されていた時と、時影が、桂浜に現れた時、この二回だけです。
それともうひとつ、このふたりをじっくり観察したのは誰だれですか?わたしは、どちらの顔も見ていません。時影を見たのは、十兵衛さんと、勇さんだけです。勇さんは後ろ姿を追いかけて行って、最後に海へ飛び込む、ほんの一瞬、素顔を見ただけです。つまり、時影の顔をじっくり見たのは、十兵衛さんだけ。その十兵衛さんは、風野の顔をじっくり見たのは、風呂屋の中、それと、マジックミラー越しの取調室。こちらは、はっきりとは見ていなかったでしょうね。伸介君を庇っていたようですから……。
さて、また、思い出してください。時影が、海へ飛び込む前に、坂本刑事の名を言って、飛び降りた。この謎の答えとして、わたしは、時影が、ホテルの従業員に化けていた、と推理しましたが、あの時、ホテルの部屋に案内はしていなかったのですよ。もうすでに、部屋はわかっていたのですから、案内の必要はなかったのです。
では、どのようにして、坂本刑事の名を知っていたか?答えは一つ、その場にいたからです。つまり、その時いた、風野は、時影だったのです。いや、ほとんど、風野と名乗って、我々の目の前に現れていたのは、時影だったのですよ。
しかし、警察に連行された、風野が、時影として桂浜に現れるわけがない。そこで、今回の仮説の弱点があるのですが、おそらく、その夜、入れ替えがされています。時影は、警察から脱走し、影武者を身代わりにして、翌日、桂浜に姿を見せたのですよ。
入れ代わりなどせず、そのまま、逃げなかったのは、逃亡の事実を遅らせるため、もうひとつは、警察のあまりに鮮やかな、解決に、今後の犯行への不安があったのでしょう、ですから、桂浜へ、風野の影武者を呼んだのだと思いますよ。警察が尾行してくることを予想して。ところが、尾行でなく、影武者そっくり、いや、自分にそっくりに化けて、刑事がやってきた。警察の能力に、改めて、驚かされたでしょうね。逃亡の方法を確立しておいて、その刑事――実は、十兵衛さん――の前に現れる。最初から、贋者とわかっている。十兵衛さんの変装や、行動に不審を抱いたのではない。本人がそこにいるのですから、眼の前の男は贋者に決まってますよ。
しかも、戦って、十兵衛さんの強さに驚かされ、最終的には、変わり身の術までつかって逃げる羽目になった。
時影にとって、誤算だったのは、肩に、銃弾を受けたことでしょう。そのため、すぐには行動を起こせず、結局、影武者を救出できたのは、裁判が始まる当日だったのです。
裁判が始まって、警察関係者、あるいは、風野を良く知っている証言者が出廷すると、影武者――贋者――であることがばれる、可能性があったため、強硬策に出たのだと思いますよ。
つまり、我々は、ずっと、二人一役、と思っていたのが、実は、一人二役、風野と時影は同一人物。時々、影武者がいた。その影武者は、完璧なものではなかった。だから、時々だけ、それだけのことだったんですよ。
ただ、風野として我々の前に現れた人物は、時影とは違って、忍びの匂いがしない、『素人』と、睦実さんは感じていた。ここに、大きなトリック、謎があるのではと思います。
最後は、本当に、憶測です。彼は、『二重人格者』であった、そう思います。普段は、唯の宝石商の風野。ある時、プロの盗賊、時影に豹変するのです。自分自身、別人と思っていたのかもしれませんね。
それと、風野の血の中には、先祖の、風魔の血が、残っていたのだと思います。いつ、二重人格になったのかは、わかりませんが、時影の時の彼は、武術に励み、技を鍛えたはずです。そのひとつの術が、影武者を自在に扱う、人心操作の術、催眠術の一種があったのではないかと思います。完璧ではないにしても、かなりの、変身術を施して、影武者を使っていたはずですから……。
如何ですかな?わたしの仮説、最初の四つよりは、現実に近いと思いませんか?
いやいや、本当は、時影は別世界の人間、時空を超えてきた男のほうが、ロマンがあって、面白いのですが……。
S氏はにっこり笑って、日本酒ならぬ、ブラック・コーヒーを飲みほした。
エピソード Ⅵ 了
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