エピソード Ⅵ ハマさん最大の事件(前篇)

 

      1

「今日の酒は『久礼』って銘柄の酒ですよ」

 S氏はそう言って、黒褐色の一升瓶を取り出した。小さなカットグラスに酒を注ぎ、

「久礼は土地の名前、須崎市の西、中土佐町、久礼って所の酒造メーカー『西岡酒造』が出してる酒です。

 久礼は小さな港町ですが、カツオ漁で有名。昔、『ビッグコミック』で連載されていた、青柳裕介の『土佐の一本釣り』っていう漫画の舞台になったところです。

 西岡酒造は、小さな蔵元ですが、現存する土佐の酒造メーカーでは、もっとも古い、老舗の蔵元さんです。『土佐の一本釣り』の主人公の名前を銘柄にした『純平』って銘柄もあるんですが、この『久礼』が、今、人気があるようです」

 いつもの、土佐酒のうんちくが終わり、今度は、いつもの「小鉢」の一品料理の登場である。

 今回は、魚ではない。野菜のようである。

 ひとつは、緑色をした、小さな竹のような、節がついている。

 もうひとつは、濃い茶系のツルのような、茎のようなものである。

「いつも、見慣れないものが多いですが、今回は、特に、何なのか、解らないですね。私は、野菜や、植物には詳しくないもので……」

「そりゃあ、そうでしょう。余所の県では、まず食べない物ですから。

 緑の、大きいほうの茎は『イタドリ』、東京の方では『スカンポ』と言うのかもしれません」

「ああ、スカンポですか。よく、田んぼの畦とかに、生えていますね。でも、あれって、雑草でしょう?」

「ははは、たいていの人は、雑草と思うでしょうね。土佐では、これを栽培している農家もあるそうですよ。食用として、です。

 新芽を折って、皮を剥ぎ、そのまま齧る、あるいは、塩を付けて食べる。子供の頃は、おやつ代わりでしたよ。春から、初夏にしか食べられないものですから。

 今回は、油でさっと炒めて、胡麻と塩で味をつけていますがね。

 もうひとつのツル状の物は、サツマイモのツル、茎の部分です。余所では、芋は食べるが、茎は食べませんよね、飢饉でもない限り。

 まあ、土佐の人間は、好奇心が強いのか、雑草でも、捨てる部位でも、食べてみるんですなあ。酒の肴になるろう?とゆうことかもしれませんが……」

 S氏に勧められるまま、イタドリを食べる。シャキッとした歯ごたえと、少しの酸味。苦味はあまりない。ゴマの風味とマッチして、かなり、美味い。

 続いて、イモのツルの方である。醤油ベースで煮込んであるのか、甘辛い味である。思ったより、柔かい。咬むと、旨みが出てくる。

「いやいや、想像してた味と、まったく違いました。蕗やカイワレとは、また別物の立派な野菜ですね。味付けも上手ですが、奥様の料理ですか?」

「いやいや、味付けは、私がしてますよ。素人ですが、料理の趣味がありましてね。これも、はちきんばあさんの影響かな?」

      *

 さて、今回の話は、と、S氏の昔話が始まった。

「前の、『玉水町・心中事件』のあと、すぐのことですが、また別の事件が起こります。その事件、そのものは、うちの近所で起きた事件じゃないのですが、担当した刑事が、例の『外しのハマさん』と呼ばれている、浜田内蔵助刑事で、坂本勇次刑事も係わっていたため、家の祖母や、母にも、影響が伝わって来た話です。

 まあ、この前の、事件の、後日談から物語を始めましょう。最初から、蛇足の話になるかもしれませんが、話の繋がりが解り易いと思いますから……」


      2

「千代さん、エエ知恵、貸してください」

 刻屋(ときや)の玄関横のテーブルで、いつものように、どんぶり飯を頬張りながら、湯呑のお茶を入れ替えている、刻屋の若女将、千代に話しかけたのは、県警の刑事、坂本勇次――通称勇さん――である。

「ああ、駄目よ、わたし、探偵ごっこから、足洗うことにしたから、勇さんのお役にはたてないわよ。小政さんに相談したら……」

「そ、そんな、冷たいこと言わんと、事件の話じゃぁないがです。人間関係の話ですき、探偵とは、違いますき」

「人間関係?みっちゃんとの恋話なら、直接、みっちゃんにゆうたらエイよ。ほら、今日も卵焼き、みっちゃん作なんやから、エイ傾向よ。今なら、オッケイかもよ」

「ほ、ほんまですか?いやいや、みっちゃんも大事やけんど、それ以上に、僕の命に係わる問題ですき」

「い、命に係わる?何よ、誰かに脅迫されてんの?」

「脅迫?そう、脅迫みたいなもんですわ」

「みたいなもん?さっぱり、要領えんわ、何ゆうてんの?」

「まあ、聴いてください。この前の『玉水町・偽装心中事件』ですわ」

「ええ、あんたのお手柄やったろう?金一封、出たんか?」

「金一封はまだですけんど、僕の手柄になったんはなったんです」

「そら、よかったやないの。昇給、昇格の第一歩や。嫁さんもらえるやないの」

「それ、その昇格ですわ。それが問題なんですわ」

「なんで?警察も実績が大事やろう?手柄立てたら、それだけ、昇格にも影響するやろう?」

「ぼ、僕の昇格はそれで、エエんですが、元々、あの事件、担当は、僕じゃないんです」

「あっ、そうか、『外しのハマさん』やったね、担当。けんど、同じ刑事課やし、コンビくんでたんやから、なんちゃあ、問題ないろう?」

「千代さん、それ、言われん、言いゆうでしょう。浜さんの綽名。本来、刑事課内だけの、もんやったがです。それを、山田巡査が、口滑らして、困ったもんです」

「えっ?本人、そのこと知っちゅうが?綽名が知れわたっちゅうこと。それと、山ちゃんが広めたがやないよ。山ちゃんが、例の『村田さん』の事件で、目撃情報を訪ねて回りゅう時に、散髪屋の『マッちゃん』にポロっと、ゆうたんが、広がったがやき。元凶は、マッちゃんながよ。ほとんどの、噂話の元凶、発信元は、マッちゃんながやき、この界隈では」

「そうながですか?けんど、山ちゃんにも責任ある。やっぱ、叱っとこう」

「山ちゃん、エエ子よ。真面目やし、熱心やし、人付き合いもエイし、話も面白いし。この辺の奥様連には人気者よ。勇さんより、上かもよ。あっ、イランことゆうた。勇さんも人気者よ、気さくな刑事さんゆうて……」

「エイですよ。僕は、千代さんやお寅さん、それに、みっちゃんに気に入ってもらえたら、他の奥さんに嫌われても、平気です。

 いかん、いかん。話がだいぶ、それちゅうやないですか。その、浜さんが問題ながです」

「そうやった、命に係わる問題やった。それが、浜さんと関係してるんやね?」

「そうです。浜さんの昇格問題が絡んでるんです。浜さん、今、警部補なんですわ。同期は、ほぼ、警部になっちゅうがです。この春、昇進せんかったら、ほぼ、最下位ですわ」

「えっ?そんなに、遅れてんの、昇格?」

「運も悪いんでしょう、面倒な事件ばっかり、担当になるし、『村田さん』の事件も、お宮入り、になりそうやし……」

「まあ、運のない人はいるわよ。でも、実力があれば、運なんて……」

「そ、そのとおりなんですが……。けんど、浜さん、事件解決は巧く行ってませんが、取り調べは結構巧いんですよ。今度の事件でも、僕が検挙した、あの、虎乃介の、女房ゆうか、イロゆうか、の女。結構、早ように自白したでしょう?それで、偽装心中の実行犯、逮捕できたがですけんど、あの女の自供をさせたんは、浜さんですよ。僕が、脅かしても、透かしても、横向いて、黙秘するんです。そこで、浜さんが代わったる、ゆうて、女と話しだしたら、アッとゆう間に自白しましたわ」

「何それ?魔法使いみたいやな。詳しゅう話し、その場面」

 千代が興味津々に詰め寄る。勇さんは肝心な――自分の命に係わる――話はどこかに置き忘れて、千代のリクエストに応えて話を進める。

      *

 県警の取調室の裸電球の下である。机を挟んで、女と浜さんが座っている。女は、不貞腐れているように、スカートの膝を重ねたまま、横を向いている。

 坂本刑事と代わって、浜さんが、椅子に腰かけて、両肘を畳むように机に乗せ、下から女の横顔を覗き込む。

「ネエちゃん、よう見たら、可愛い顔してるな。目鼻立ちがこんまいき、解らんかったけど、横から見たら、エイ格好の鼻や。それに、こんまい眼も、こけしみたいや。こら、虎乃介が惚れるわけや」

 浜さんの穏やかな声に、女は驚いたように、顔を正面向けて、浜さんの顔をじっと見つめた。

「虎乃介に脅かされたんやろう?ゆうこと利かんと、エライ目に合わす、とか、言われて、女たちの見張り役、やらされてたんやろう?」

「ふん、虎乃介?あんな男に脅かされてたまるもんか。あいつは、単なる金蔓よ。金、持ってるから、傍に居っただけよ。女、見張る役目も私が進んでやったことよ。大事な金の種やからね。

 けんど、刑事さん、あんた見る眼あるね。私の顔、こけしみたいや、ゆうたの、あんたで、ふたり目や。特徴のない顔やから、かえって、化けやすいんや。化粧の仕方で、派手な顔、目立たん顔、思い通りになる。便利な顔や。ストリッパーの時は、派手に化粧して、そりゃあ、マリリン・モンローにも化けれる。舞台に上がる時は『モンロー』って名乗っていたわ。金髪のカツラかぶって・・・」

「そ、そうか?そりゃ、いっぺん、見たかったな。ほんで、カルメンに会いに来た、『太田』ゆう男、どないしたんや?あんたが、アヤシイ、ゆうて、誰かに、ご注進したんやろう?」

「何や、そこまで、知れてんのか?何も解ってへんと思うて、黙ってたけど、そこまで、知られてんやったら、もうエイわ。洗いざらい話したる。

 ヌード劇場の元締めは、虎乃介とは、チンピラ時代からの仲間で、毒島、ゆう男や。ヤクザゆうても、色々や。毒島は脅しは利かん奴やから、金儲けの方を担当してるんや。興行の上前撥ねるんが、主な仕事や。まあ、テキヤの真似ごと、テキヤの領域を侵していく、そんな役どころかな。

 こう見えても、あたし、日本舞踊をやったこともある。まあ、かじっただけやけど。踊りができるから、ストリップもできる。女らぁが逃げんように、見張りをやったってわけよ。そんで、カルメンが逃げようとしてると睨んで、毒島にご注進。あとは、知らんよ。毒島の子分がやったんやろう。心中にみせかけたんは、毒島やろうね。あいつ、変なところで、探偵小説好きやから。

 役に立たんなった、ノンちゃん、殺したんは毒島の子分で、矢島って野郎だね。太田って男をやったんも、矢島さ。人、殺すの何とも思わん、兵隊上りやから……」

「そうか?ありがとう。あんたのおかげで、殺人事件、解決できるわ。弁護士には、捜査に協力的やった、ゆうとくわ。少しは刑が軽うなるろう。ほいたら、モンロー姿が、見れるかもしれんなぁ」

「あんた、おもろい、刑事やなぁ。犯人逮捕より、ストリップ観たいんか?」

      *

「それで、一気に○○組の幹部、組員、逮捕できたんですわ」

 と、坂本刑事の話が終わった。

「そりゃあ、浜さん、大手柄やないの。昇格間違いなしでしょう?」

「それが、取り調べは僕の担当でしたから、僕が自白させた、と思われているんです。いや、いや、課長には、ちゃんと言いましたよ。浜さんのおかげやと。課長、笑ってるだけ。巧く伝わってないみたいなんです」

「そりゃあ、可哀想やね。何か、お礼せんとイカンね」

「そこですよ」

「えっ?どこ?何の話?」

「その、お礼。浜さん、僕にこう言ったんです。次の事件が起こったら、手柄、俺が獲れるよう、必ず、手を回せよ。巧くでけんかったら、命ないでぇ、って……」

「そ、それが、あんたの命に係わるってこと?」と、千代が吹き出し笑いをする。

「千代さん、笑い事やないですよ。次の事件って、どんな事件になるか解らんがですよ。どんな、難事件でも、解決して、手柄を浜さんに譲る、とゆうか、浜さんの手柄にせんとイカンがですよ。そうせんと、浜さんに、殺されることはないにしても、どんな目にあわされるか、想像したら、飯も喉に通りませんよ」

「その割に、よう食べるね。卵焼き、もう完食やいか」

「ああ、ここの飯は特別です。千代さんもみっちゃんも料理は最高です。いやいや、料理だけやない、女としても、人間としても、最高です」

 勇さんは残りのおかずと、飯を掻き込んでしまった。

「あんたも、小政さんみたいに、口が巧うなって来たね。昇進間違いないわ」

 千代は、湯呑のお茶を継ぎ足してあげる。

「けんど、起こってもない事件、どうやって協力するの?無理な話やでェ」

「ええ、今は無理です。けんど、刻屋には、伝手がありますよ。お寅さんが号令掛けたら、町民、みんな、協力してくれるし、千代さん初め、先生や、何といっても、顔役さん一家には、小政さん、石さん、大政さん、精鋭が揃うちょりますき。頭脳明晰、行動活発、どんな難事件でも、解決できる、探偵団が組織できますき」

「それと、家の息子とジョンもおるきね」

「そうです。僕が一番期待しているのは、ボンとあの大きな犬君ですわ。警察犬より、凄い能力、持っているみたいですから。

 そう考えたら、警察より、凄いかもしれませんよ、この、井口の探偵団」

「勝手に『探偵団』作らんといて。うちの子、学校あるし、わたしは、探偵ごっこは辞めたんよ。顔役さんとこも、商売、本業があるでしょう?前の事件は、客人の仁吉さんとカルメンさんが係わっていたから。それと、亀ちゃんが、変な『駆け落ち』騒ぎ起こすから、しょうこと無し、ってとこよ」

「そこですよ」

「また、そこ?どこのことよ?わたし、顔回の生まれ変わりと違うよ。話、飛ばしすぎよ、勇さん」

「いや、その、千代さんの頭脳、活かしてください。次回の事件だけでエエんです。引退はその後。千代さんが、事件解決に、積極的やったら、小政さん、きっと、協力してくれます。小政さん、千代さんに惚れてますから、絶対、間違いなし」

「な、何、ゆうてんの?小政さんが、わたしに惚れるわけないやないの」

 勇次の指摘に、泡を喰った千代は、思わず、顔を赤らめる。

「歳、考えて。私、ミソジ越えてんのよ。しかも、満年齢で。小政さん、まだ、二七、八でしょう?惚れるわけないやろう?しかも、小政さん、大モテしてるんよ、近所の若い娘連から……」

「歳は関係ないし、モテるんも関係なし。『恋は盲目』ゆうでしょう?特に、小政さんはインテリやから、その辺の、若いネエちゃん連中では、話が合いません。その点、千代さんは、小政さんとは、話が合う。傍で見てて、よう、解りますもん。小政さん、正直もんやから、顔に出ます。千代さんと話す時の顔、そら、普段と違いますき。

 まあ、惚れてる、ゆうても、男女の仲と違う。友情?いや、兄弟愛に近いかも」

「なんや、兄弟愛か。そんなら、解るわ。小政さん、わたしのこと、姉みたいに、思うとるんやろう?龍馬と乙女ネエやん、みたいなもんや。それなら、わたしも、小政さん、弟みたいに好きやでェ。わたし、弟、おらんき、あんな弟、欲しいもん」

「けんど、ちょっぴり、『恋愛感情』もありますよ、血ィ繋がってないから。男と女ですから、どう転ぶかは、解りませんよ」

「もうエイわ。それより、話の続き、わたしが、協力したら、巧ういくんか?」

「ええ、千代さんが、事件解決に乗り出したら、まず、お寅さんがほっときません。ボンも学校が休みの日なら、絶対、あの犬君を駆り出します。そして、小政さん、石さんも協力してくれます」

「石さん、無理よ。マコちゃんと『ラブ・ラブ』で、一時も傍、離れられんみたいやから」

「エエなあ。羨ましい。けんど、石さんのあの特技、あれは、貴重ですよ。警察には居りませんから」

「だ、駄目よ。あの特技、使うたら、石さん、お縄になるよ。マコちゃん泣かすことになるから……」

「大丈夫ですよ。警察公認ですから。しかも、あれは、現行犯でないと、捕まえられませんから。

 まあ、とにかく、千代さん次第。よろしゅう、頼みますよ。僕の命に係わることやから、ひいては、みっちゃんの未来の旦那さんに係わることやから……。

 あっ、もうこんな時間や。仕事に戻らんと。暇ゆうても、いつ事件が起きるか、解りませんきに……」

      *

 出先から帰って来た、お寅さんに、勇さんの話をしているところへ、散髪屋のマッちゃんが、

「みかん水、ちょうだい」

 と、店にやって来た。

 まずい、このひとに聴かれたら、大事、と思って、ふたりが、口を噤む。

「おふたりさん、何の話です?ちらっと、聞こえたけんど、刑事の勇さんがまた、難事件持ち込んできたがですか?それを、おふたりが、名探偵『明智小五郎』で、解決しちゃろう、って話ですね?駄目ですよ、隠し事は。隠したら、余計、根も葉もないこと、言い触らしますよ。正直に、あっしに話した方が……」

「あんた、脅しかね?あんたに話いたら、結局、『根も葉もないこと』になるろうがね」

「お、お寅さん、あっしは『正直もんのマッちゃん』で、とおってますよ。根も葉もないことは言いません。煙が立たないと、『火事だ』とは、言えませんき」

「なにが、『正直もん』で、とおっちゅうぞね。『センミツのマッちゃん』でとおっちゅうろうがね。けんど、まあエイわ。隠すこともない。話、膨らまさん、と約束するなら、話しちゃろう。どうぞね、約束するかね?」

 あてにはならないが、約束するという、マッちゃんの言葉を信じて、千代が、勇さんとの話を、簡単に語り終える。

「なるほど、勇次さん、賢いですねぇ。千代さんを引きずり込む。そいたら、周り、みんなぁが協力する。こら、凄いアイデアですわ。あっしもその『井口探偵団』に加えてください。お客さんから、情報集めるのは得意ですき、役に立てますよ」

 ほいたら、と、みかん水を飲み終えて、マッちゃんは店を出てゆく。自宅の方ではない。東に向かう。

 ああ、失敗やった、と、残ったふたりは、無言で顔を見合す。

「多分、先生処へ、直行ですね」

「そうや、それから、顔役さんとこも。闇市まで、広がってるな、明日の朝には……」

「まあ、小政さんたちに、勇さんのこと、話す手間は、のうなりましたけど、マトモに伝わるかが、不安ですね」

 ふたりは、同時にため息をついて、「さあ、仕事、仕事」と、それぞれの持ち場へ入っていった……。


      3

 その勇次が、勢いよく刻屋の玄関の硝子戸を開けて、

「ち、千代さん、居りますか?」

 と、駈け込んで来たのは、月が改まった、節分の朝であった。

「何事です?そんなに慌てて。女将さんに見られたら怒られますよ、戸が壊れる、って」

 そう言ったのは、玄関の土間掃除と、テーブルの拭き掃除を終えた、みっちゃんである。

「あっ、みっちゃん、ちょうどエイ。水、一杯、頼むわ。本部から、自転車、漕いできたから、喉がカラカラや」

「一杯って、バケツに一杯、持ってきましょうか?」

「き、きついこと言わんと、コップ一杯でエエのや。それと、千代さん、居る?呼んできて、急用や、ゆうて……」

 みっちゃんが、冗談を言うのも、勇さんのこと、気になりだしたからであるのだが、鈍い男はそれには気づいていない。

「はいはい」と軽く返事をして、みっちゃんは奥――台所の方――へ入って行く。

 入れ違いに、お寅さんが出てくる。

「朝から、騒がしいと思うたら、あんたかね。仕事、しいや。給料上がらんと、みっちゃん、嫁にもらえんぞね」

「い、いや、仕事ですき。それも、殺人事件……」

「ええっ?殺人?またかね、この前の事件から、まだ、ひと月もたっちゃあせんぞね……。

 まあ、掛け、立ち話する話やないろう」

 勇さんを、玄関脇の、いつものテーブルに導く。そこへ、千代が、前掛けで、手を拭きながら、現れる。その後ろに、水の入ったコップをお盆に乗せた、みっちゃんが続いている。

「殺人事件、ち、何処で、誰が殺されたがぞね?」

 コップの水を、一気に飲み干した、勇さんが、コップをテーブルに置くと同時に、お寅さんが尋ねた。

「事件は、昨夜、おそらく、九時前後でしょう、本丁筋の質屋で、『毎度屋』ってとこなんですが……」

「ああ、毎度屋やったら、善ベエさんとこや。谷口善兵衛、ゆうて、六十過ぎたくらいの、禿げた、じいさんがやりゆう。確か、丁稚みたいな、若い児を雇うちょったと思うけんど……」

「さすが、お寅さん、近所のことだけでなく、あの辺まで、詳しいんですね。

その、善べエさんが、殺されたんです」

「ええっ?あのひと、『仏の善ベエ』ゆうて、ひとがエイことで、とおっちゅうよ。ひとに恨まれるようなひとやないきに」

「う、恨み、怨恨ではないみたいです。まだ、詳しい状況は判っていませんが、おそらく、強盗殺人ではないかと……」

「質屋に、強盗が入ったがかね?」

「強盗というより、泥棒でしょう。盗みに入って、主人に見つかって、持ってたナイフのような凶器で、刺し殺した、そんな事件と思いますよ」

「それで、その事件を、勇さんが担当することになったの?」

「千代さん、それやったら、ここへは来ませんよ。僕は、『マッちゃん』とは違いますき。いちいち、事件が起きる度に、ここへ来るわけないでしょう」

「そしたら、担当は、『外しのハマさん』ながやね?」

「さ、さすが、顔回の生まれ変わり」

「顔回は違う、言いゆうろう。けんど、当たりながやね?ハマさんが担当ね?」

「そうです。だから、この前の話。次の事件が起きたら、浜さんの手柄にせんと、エライ目に遭わされるんです。そやき、まずは、第一報ですわ。

詳しい事件の状況は今、調べてますき、現場へ、浜さんが行ってますき、今晩でも、また報告にあがります。千代さん、約束ですよ、よろしゅう、頼みましたよ。

僕は、すぐ、現場に戻ります。

 みっちゃん、お水、ありがとうな。おいしかったよ」

 そう言うと、勇さんは、玄関脇に停めてあった自転車に跨り、「ちとせ劇場」の方へ向って行った。

「唯の、水道水が、おいしいかった、やなんて、どうゆうことよ。味音痴なんか、あのひと……」

 コップをお盆に戻して、みっちゃんが、誰に言うでもなく呟く。

「勇さん、こんな、忙しい時でも、みっちゃんのこと思ってるんやね。エエなあ、若いとゆうことは、わたしも、二十歳に戻りたいわ……」

      *

「何か、事件のようですね?」

 と、入れ替わるように玄関から入って来たのは、長吾郎一家の「軍師」、小政――本名は政司――である。後ろに連れが一人いる。

「あら、小政さん、それに、石さんも一緒?あれ、石さん、また、女装してるの?また、探偵することになったの?」

「ははは、やっぱり、千代さんでも、そう思いましたか。無理もない、誰もが、このひとを、女装した石と思うんですよ」

 小政さん、わたしのこと、前は「千代姐さん」って呼んでたのに、「千代さん」になってる。どうゆう心境の変化やろう?「千代さん」の方が、エイけんど……。

「石さんやないがかね?どう見ても、こないだの、『幸子』に化けた、石さんやろう?アテらぁをペテンに掛けゆうろう?小政の兄ィさん」

「お寅さん、いや、女将さん」

「お寅で、エイきに。あんたは、他人やないきに」

「はい、ほいたら、お寅さん。この子は、石の妹ですわ。しかも、双子の……」

「い、妹?そりゃあ、よう似ちょらぁ。双子ちゅうかえ?並んでも解らんろうね?」

「石が、真さんと所帯持つ、ゆうて、邦(くに)の両親に知らせたら、相手の顔見に来るゆうて、出てきたがです。

 ほら、挨拶しぃ。ここの女将さんと、若女将さん、それと、みっちゃんゆうて、気立てのエイ女中さんや」

「わ、わたし、お茶、淹れてきます」

 憧れの小政さんに褒められて、みっちゃんは頬を紅く染め、台所へ走って行く。

 あらあら、勇さん、また、黄ィ信号の点滅や。と千代はその背中を見送った。

「初めまして、悟郎の妹で、睦実(むつみ)と申します。兄がひと過多ならぬ、お世話をお掛け致しまして、両親からも、こちらさまには、くれぐれも、よろしゅうにと、言い遣ってまいりました」

 あまりに丁寧な挨拶に、刻屋のふたりは顔を見合す。お寅さんが、目配せして、(あんたが返事しィ)と、千代に促す。

「ま、まあ、丁寧なごあいさつで、家は、なんちゃあ、お世話など致しておりませんよ。こちらが、お世話になってるくらいで……」

「いえ、兄からも、伺っております。ここの家族は、命の恩人。加えて、最高の伴侶を迎えることが出来たのも、こちらの、方々のおかげ、やとか?」

(命の恩人?そうか、ジョンに助けられたことか。伴侶、ゆうのは、マコちゃんと結ばれる、あの作戦のことか。ほいたら、全部、うちの子がしたことやいか……)と、千代の頭の中で、回想が始まっていた。

「ま、まあ、真さんはエイ子でしょう?石さんとは、相性抜群や。私どもが、イランおせっかいせんでも、きちんと、収まるとこへ収まってましたよ、ねえ、お母さん」

 急に、話を振られて、お寅さん、言葉に詰まる。

「そうそう、アテらぁ、なんちゃあ、しやあせん。成り行きぞね。縁があったゆうことよね」

「いえ、あの、奥手の、女の人と口も利けんような男が、嫁を貰う、と聴いたときは、天地がひっくり返ると思いました。縁もあるでしょうが、こちらの方々が、背中をおもいっきり押してくれたおかげです。あいつ、人付き合いが下手で、それで、歌舞伎役者、辞めてしもうて、こんな田舎、いや、ごめんなさい、田舎やない、遠いとこへ、流れてしもうて。我が家の、恥でしたわ。それが、一人前に嫁貰う?どんな、アバズレ、かと思うたら、まあ、可愛い、別嬪さん。しかも、むこうが、悟郎に惚れて、勝負までして、決まった話やそうで、ほんま、驚き、桃の木、山椒の木、ですわ」

 石さんの双子、ゆうたけんど、こりゃ、まったく、性格違うわ。妹やのうて、姉さんやないの。石さん、絶対、喧嘩したら負けるわ。と、千代は、言葉が出ないまま、お寅さんの顔を覗う。

「ムっちゃん、石の悪口はそのくらいで」

 と、小政が、苦笑いをしながら、口を挟む。

 そこへ、みっちゃんがお茶の用意をして、帰ってくる。

 五人がテーブルを囲んで座り、お茶で、一息入れる。みっちゃんも離れず、千代の隣に座ったままである。

「ところで、千代さん、今、勇さん来てましたね、事件ですか?」

「あら、勇さんが来たら、何で事件なの?ご飯食べに、しょっちゅう、来てるやないの」

「とぼけるなんて、千代さんらしゅうないですよ。今、何時です?朝の、この時間に、飯は中途半端やし、あの慌てよう、事件としか考えられんでしょう?」

「千代さん、小政の兄ィさんには勝てんちや。話たらエイやんか。内緒の話やないろうき」

「そうですよ。事件が起きたら、町内上げて、協力して解決するんでしょう?マッちゃんがそうゆうて、うちの社長にも伝わってますよ」

「ええっ?マッちゃん、そこまでゆうてんの?あのホラ吹き、エイ加減にせい、って、ゆわんとイカンなっちゅうね」

「わたしにも、協力させてください。恩返しやないけど、出来ることはさせてもらわんと、両親にわたしが叱られますから……」

「む、睦実さんまで、何ゆうてんの?ただの、迷子探しとか、迷い猫、探すんと違うのよ。殺人事件なのよ」

「ほう、やっぱり、殺人ですか?まあ、勇次さん、刑事課でも、一課の方やから、担当は殺人とか、凶悪犯が多いですよね」

「それが、担当は例の『外しのハマさん』ながよ」

 と、お寅さんが説明する。

「ほう、それで、また、無茶苦茶な、仮説でも立てましたか?宇宙人の仕業や、とか?」

「あんたも、口が悪うなったね。そこまでは、ゆわんろう、いくら、ハマさんでも……」

「そう、それに事件は昨夜起きたみたいで、まだ、捜査始まったばっかりなのよ。勇さん、第一報、ゆうて、事件が発生したことだけ、伝えに来たの。今頃、犯人捕まっているかもしれんし」

「まあ、解決したならエイですけんど、ジンクスってあるでしょう?ハマさんが担当したら、拗れてしまう、ってことが多いらしいから……。

 まあ、何かあったら、知らせてください。千代さんやお寅さんには、全面的に協力せい、仕事はどうにでもなる、ゆうて、これ、社長命令ですき。僕も会社員ですき、社長命令は、絶対ですき」

 そいたら、今日は、睦実の挨拶に寄っただけですき、また来ます、と、小政さんは笑顔を浮かべ、刻屋を後にした。

「けんど、あのマツのやろう、ホラ吹きすぎや。今度、しばいたろう」

「あ、あんた、それ、誰の真似?東映の映画にそんな怖い女優、居った?」


      4

 その日の夜、八時近くなって、勇さんは事件の報告に訪れた。

「エライ、遅いご帰還やね。事件、難航してるんか?」

 と、お寅さんが、テーブルに勇さんを招き入れ、お茶の用意を千代に頼んだ。

「事件そのものは、単純みたいですわ。質屋へ忍び込んだ賊が、主人に見つかって、泡食って、持ってた凶器で、刺し殺した。そんなとこですわ」

「そいたら、千代の出番はないがかね?」

「いえ、それが、捜査会議で、意見が割れまして」

「意見が割れた?それどうゆう意味?」

 千代が、お茶をお盆からテーブルの上に乗せながら尋ねる。

「つまり、可能性が、三つ、あるんですわ。

 一つ目は、単純に、流しの犯行。金のありそうな質屋と思って、常習犯が忍び込んだ、ちゅう説ですわ」

「それ以外にあるの?泥棒の仕業ながやろう?」

「二つ目は、同じ泥棒でも、最初から、盗む物を決めていて、それを狙った犯行という説」

「何処が違うの?同じ泥棒やいか」

「いや、千代さん、違いますんや。最初の方は、金目のもの、或いは、金そのものが目的。何でもエイんですわ、金になったら。

 二つ目は、狙いを絞っているんです。その日に質に入れた、高価なものがあったみたいなんです」

「その日に入った、高価なもの?それ何?」

「まあ、事件の詳細を話した方が、解り易いでしょうから、まず、聴いてください」

 勇さんが、今朝の続きを語り始める。

      *

 現場は、本丁筋の質屋「毎度屋」の玄関口の土間。その店の主人、「谷口善兵衛」が、胸と腹を複数個所刺されて、血に染まった状態で発見された。朝六時四十五分、通いの小僧さんが勝手口から入ってきて、発見したのである。

 前日、八時には店を閉め、小僧さんは戸締りをして、勝手口から帰って行った。店には、主人一人が、寝起きしている。

 通いのお手伝いさんが、来るのは朝、七時頃である。茫然自失の小僧さん――まだ十五歳の子供である。名を伸介といった――をお手伝いのおばさんが見つけ、その後、警察に連絡したのも、このおばさんである。

 本丁筋の交番から、山ちゃんこと、山田巡査が駆け付け、現場を保全する。その後、県警から、浜田内蔵助警部補と警察官、鑑識係が駆け付けた。

 検死の結果、死亡推定時刻は前日の八時から十時の間、腹部、胸部への刃物による、刺殺と断定された。抵抗した様子はなく、最初の、腹部のひと刺しが、ほぼ致命傷。その後、胸、再度、腹、と刺したようである。

 現場の状況は、玄関のガラスの引き戸の一部が、割られている。つまり、賊は、ガラス切りで、鍵の横のガラスを切り、手を突っ込み、ねじ式の錠前を開けたようである。

「手際の良さは、プロのようやが、時間が微妙やな。九時前後、ゆうたら、まだ、宵の口や、寝静まる時間やない。被害者も、寝間着やない。寝る前の時間帯や。泥棒にしたら、早い、ご出勤時間帯やな」

 浜さん、中々の、洞察力である。

 現場検証の後、店の二人の証言を聴きとる。お手伝いのおばさんは興奮気味ではあるが、きちんと、応答ができる。が、目ぼしい証言は得られない。夕飯の支度後、七時前には、店を出ている。変わったこと、気になったこともないとのことである。

 小僧の伸介には、手を焼いてしまう。泣き出して、止まらない。話も要領を得ない。気が動転しているのである。無理もない、主人が朱に染まって、死んでいる現場を目撃したのである。しかも、中学を出たばかりの、年齢である。

「ちょっと後にしよう。鎮静剤でも飲まさんとイカンろう」

 と、浜さんは、取り調べを一旦、中止した。警官たちに、近所の目撃情報を聴き込みに走らせた。

 そこへ、坂本刑事が遅れてやってくる。刻屋へ寄っていたのである。

「浜さん、刻屋へ寄っとりました。若女将さんにゆうときましたき、捜査に協力は間違いなしです。

 ところで、どんな状況です?犯人に繋がるもんとか、ありましたか?」

「今、鑑識が調べゆうが、指紋も出てこん。目撃情報もなし。ガイシャと最後におうた――犯人以外で――と思われる小僧さんは、興奮状態で、さっぱりや。物取りのようやが、何を取られたか、小僧さんが、シャンとせんと、解らんろうねえ。あぁあ、また、面倒な事件になりそうや。さかもっちゃん、たのむでェ。今回は失敗なしやでェ、解ってるな。

 そうや、あの犬、アメリカさんの軍用犬の成りそこない、あれ連れて来いよ。この前の事件もあの犬、大活躍やったそうやいか」

「む、無理ですよ。刻屋のボンしか、ゆうこと利きません。ボン、もう学校へ行ってますから」

「そうか、残念、明日でも、エエわ。駄目元やから、いっぺん、現場の匂い嗅がしとき。とにかく、出来ることは、何でもしとく、エエな、手抜きは許さんで、今回は特に……」

      *

 小僧の伸介の聴き取りは、昼からになった。鎮静剤が効いたのか、やっと、興奮状態が収まった。そこへ、伸介の姉と名乗る少女が駆け付けてきた。近所の老舗旅館「城西館」で、仲居をしている、十八歳、少し目と目が離れているが、口元の可愛い、美形の少女である。

 少女に立ち会ってもらい、伸介から、前日の状況を聞き取ることができた。

 昨日、店を訪れた客は、三人。寒い日だったせいで、客が少なかったのである。

 ひとりは、いつも用もないのに訪ねてくる、近所のご隠居さんである。商売の話ではないが、掘り出しモンがないか、ちょくちょく、顔を見せるのである。

 ふたり目以降が、事件に関係ありそうであった。

 そのひとりは、昼過ぎに店を訪ねてきた、中年の男である。中肉中背、短髪、黒縁のメガネ、口髭を生やしていたようだ。ダークグレーの背広姿だったらしい。

「エンタツ・アチャコの眼鏡をかけた方に、似ていた。少し、背は低く、痩せてはいないけど」

 と、伸介が言う。横山エンタツ、似の男らしい。

 伸介が、取次、主人の善兵衛が応対したようだ。

 男が取り出したのは、羅紗のハンカチサイズの布に包まれた、蒼い宝石である。

「サファイヤですね?」

 と、善兵衛が言ったのを覚えている。

 その後、伸介は上客と判断して、お茶を用意しに、裏に入って行ったため、その後のやり取りを見ていない。

 お茶を用意して、店先に戻って来た時には、お客が、硝子戸を開けて、帰るところであった。

 主人は、少し、顔をしかめながら、手提げ金庫に、羅紗の布に包まれた宝石を仕舞おうとしていた。

 三人目の客は、その客と入れ替わるように、硝子戸から、店に入って来た。

 つまり、その三人目の客は、善兵衛が宝石を、手提げ金庫に仕舞うところを見ていたのである。

 その客は、顔見知りである。電車道を挟んで、向かい側で、骨董屋「立花屋」を営む、熊蔵という、キツネ顔の小男である。

「善ベエさん、見て欲しいもんがあるねん」

 と、熊蔵が重たそうに、風呂敷包みを店先の畳の上に乗せる。

 善兵衛は、慌てて、手提げ金庫の蓋を閉じて、伸介に奥の金庫へ入れておくように命じる。

 伸介は、お盆に乗せたお茶を、畳の上に、お盆ごと置いて、手提げ金庫を店の奥の金庫に仕舞いに、その場を離れた。

 店先で、善兵衛と熊蔵が口論をしている声が聞こえた。どうやら、熊蔵が持参した、壺か、花瓶かが、年代物か、新しい物かで、意見が食い違っているらしい。善兵衛は新しい物、と言っているのだが、熊蔵が、喰い下がっている。伸介はその口論の場が、怖くて、店の奥で、じっと、聴き耳を立てていた。

「もうエイわ」

 と、熊蔵が、怒りを露わにした口調で、品物を木箱に入れ、風呂敷で包み直した。商談は不成立であったようだ。

 伸介が店先に顔を出すと、熊蔵が硝子戸を閉めて、出て行くところであった。お茶は?しっかり飲んで帰っていた。

「旦那さん、何か揉めてましたが……」

 と、尋ねると、

「何時ものこっちゃ。まあ、あの人にしたら、エエもんやった。伊万里焼の小ぶりの壺や。時代が新しいから、骨董の価値はない、ゆうたら、そんなはずない、江戸中期以前のものや、ゆうてきかん。どう見ても、大正か、昭和の初めの焼き物やのに、目利きのできんひとや。困ったもんや……」

「それで、その前の、宝石は?」

「ああ、あれは、預かりもんや。値段、すぐにはつけれん、ゆうたら、明日来るさかい、それまでに鑑定しとってや、ゆうて、置いて行ったわ」

「大阪のひとですか?気障な、口髭でしたな……」

「まあ、お客さんやから、悪うは言われんけど、怪しい感じやったな。自分は宝石商や、ってゆうてた。アタッシュケースにいくつか、宝石入れて、商売してるって。その商売で、大層な掘り出しモン見つけたから、手付けを打たないかん。けど、手持ちがない。手元で一番高価な『サファイヤ』を金に替えたい、ってゆうんや。まあ、出張販売してたら、たまにあることやから、絶対、怪しいとも言えんけんど……」

 善兵衛はその客の残した、預かり証の控えを眺めながら、ふうっと、ため息をついた。

      *

「で、その宝石が無くなってる。つまり、犯人は、その宝石を狙って、店に侵入し、現場を主人の善兵衛さんに見つかって、凶行に至ったってことのようです」

 勇さんが、事件のあらましを語り終えた。

「その、サファイヤが『高価なもの』なわけね?他に、盗まれたものはないの?」

「無いようです。店は、それほど、荒らされてない。金庫が開けられていただけです。それと、その宝石の預かり証の控えが見当たりません」

「ほいたら、その、大阪弁のお客が一番怪しいやないの?」

「けど、自分で預けたもん、盗んで、どうするんです?まあ、翌日、引き取りに来て、無かったら、弁償せい、ってことになるろうけんど、ひと殺したら、請求に来れませんよ」

「そこまで考えんと、犯行に及んだがやろう。それで、その男の身元は?宝石の出張販売員やったら、どっかのホテルか、旅館に泊っちゅうろう?」

「今、モンタージュ写真を作ってます。小僧さんと、立花屋の主人が顔見てるようやから、協力させてます」

「ところで、確か、もうひとつ、可能性があるのやなかった?あんた、三つの可能性がある、ゆうてたやろう?三つ目は?」

「そうそう、それが、問題ですわ」

「どう問題ぞね。勇さん、あんた、最近、勿体ぶっちゃあせんかえ、話が長いちや」

「お寅さん、そう言わんと。ここが問題ながですき。

 三つ目の可能性は、立花屋の主人、熊蔵さんの犯行、ゆう説ですき」

「熊公が犯人?そりゃあ、ありえん。あいつは、女騙すんは得意やろうけんど、人は殺せん。殺そうとしても、返り討ちに合う。老人、子供でも、熊公には勝つろう」

「まさか、その説、唱えたのが『外しのハマさん』やないろうね?」

「千代さん、その、まさかです。ほんま、頭痛いわ……」

      *

「お母さん、そう言えば、一昨日まで、お泊りやった、お客さん、大阪の方でしたよね?」

 勇さんが、帰った後、湯呑茶碗を片付けながら、千代が何気なく、お寅さんに尋ねた。

「私、子供の学校のことで、家、空けてましたから、よう、お接待してないけど、どんな方でした?」

「そういやぁ、あのひと、黒い鞄、大事そうに持っちょった。黒い眼鏡は掛けちゃあせんかったけんど、中肉中背、短髪、チョビ髭、スーツ姿、大阪弁。他は、全部一致しちゅうやないの」

「そうながですか?わたし、お風呂へ行く、丹前姿しか見てないから、髭、生やしてることは憶えてますけど……」

「まさか、……?」

「ええ、まさかですよね?」

 思いつきで、喋った言葉が、大きな意味を持っていることにふたりは気づいた。

「明日、勇さんにゆうて、モンタージュ写真、見せてもらいましょう。きっと、別人ですよ。人殺すような、悪い人には見えんかったもの」

「それと、ジョンに現場の匂い嗅がすよう、ゆうときよ、朝の早い方がエイやろう?」

 ふたりはそれぞれの仕事に戻った。


      5

 翌朝、学校へ行く前に、ジョンを連れた、S氏は、本丁筋の交番に寄り、山ちゃんこと、山田巡査とともに、毎度屋を訪れた。

 玄関前に、警察官が見張りをしている。山ちゃんが、一言、声を掛け、玄関の硝子戸の鍵を開けた。

「現場は、殆ど、変わっていないはずや。死体がない、くらいやと思う。死体があったのは、そこ、白線が書いてあるとこや」

 と、山ちゃんが説明する。

 ジョンが土間や、上がりがまち付近の匂いを嗅いでいる。

「金庫は奥ですか?」

 と、S氏が尋ねる。

 宝石が入っていた、金庫が破られ、中の宝石が盗まれたのである。犯人の匂いが、そこに残っている、可能性が高いのである。

 ジョンを連れて、座敷に上がり、金庫の周辺の匂いを嗅がせる。

「指紋なんか、ないですよね?プロの泥棒のようやから」

「ああ、殆ど、犯行の遺留品とかの、証拠になるもん、見つからずや。確かに、プロの仕業としか、思えん」

「凶器も、足跡もないんですね?おまけに、金庫も、壊さんと開けてる。錠前破りに人殺し、どっちも、手際がよすぎる。ベテランですね、前科もんでしょうか?」

「ああ、ただ、金庫は、簡単に開くみたいや。善兵衛さん、番号、よう憶えん、ゆうて、差し込みの鍵だけにしてたんやて。小僧さんがゆうてた」

「でも、それ知ってるの、善兵衛さんと小僧さんだけでしょう?犯人、金庫開ける、腕があったんですよね」

「そうや、ボン、相変わらず、名推理や。浜さんと代わって欲しいわ」

「山ちゃん、それ、言われんよ。山ちゃんが、口滑らして、マッちゃんから、浜田刑事の綽名、広がっちゅうき、勇さん、怒りよったよ。

 それより、この現場見たら、とても、熊蔵ゆう、骨董屋さんの犯行とは思えんけんど、何故、浜さん、熊蔵が怪しいなんて、思いついたがやろう?」

「そこが、浜田刑事の凄いとゆうか、突飛なところよ。

 この金庫に、宝石があると知っちゅうがは、店のもん以外では、熊蔵だけや。宝石、質に入れに来た客は、手提げ金庫に入れたとこまでしか知らんはずや。と、こうゆうんよ」

「なるほど、そこは、正しいね。流石、ベテラン刑事さんや。けど、熊蔵さん、金庫破りはでけんやろう?人殺しは、勢いってこともあるろうけんど……」

「熊蔵って男は、前がよう解らん。骨董屋始める前は、闇の物資を横流しして、儲けたらしいし、本職は、女衒やろう?この前の、ヤクザの幹部の人身売買にも、絡んでいたらしいき、裏の顔を持っちゅうがやろう、って浜さん、睨んじゅうがよ」

「そうか、確かに、裏の世界と繋がっちゅう可能性はあるね。本人が犯行に及ばんでも、裏の関係のもんに、ここに、高価な宝石が眠っちゅう、ゆうて、やらしたかもしれん、共犯の可能性は充分ある、ってことか。今度は、外してないかもよ、ひょっとしたら、大手柄かもしれんよ」

「そうか、共犯者で、実行犯が別に居る、と考えたら、熊蔵も怪しいね。浜さん、実行犯が熊蔵と思うちゅうがやけんど……」

「えっ、そうなが?せっかく、褒めちゃったに、やっぱり、外しの方やったがか。

 イカン、学校へ行かな、僕、帰るわ。山ちゃん、容疑者見つかったら、教えてよ。ジョンに合わせたら、犯人かすぐ判ると思うで、金庫の中の匂いも嗅いだき……」

      *

「お、女将さん、居られますか?」

 キツネ顔の小男が、玄関の硝子戸を開けて、入って来たのは、その日のお昼前である。その時、玄関先にいたのは、みっちゃんである。みっちゃんも熊蔵のことはよく覚えている。

(例の、琴絵さんを助けた事件、ここの土間のコンクリートへ土下座した時、大きなたんこぶ拵えたおっさんや)と、気づいたのである。

「居りますけど、何の御用です?女将さん、忙しくしてますから、急用ですか?」

 いやな奴、と解っているから、追い返そうと考えた、みっちゃんである。

「き、急用や、居るなら、早よう、呼んできて。熊蔵が急用、ゆうたら、通じるはずや、例の、殺人事件、ここの、若女将さんが、担当してる事件や」

「若女将さんが担当?うち、警察と違いますよ」

「警察やないけど、探偵団ながやろう?井口探偵団、ゆうて、ここの若女将が団長らしいやないか。ほいで、質屋の善ベエさん殺し、捜査してるんやろう?早よう、呼んできて、できたら、ふたりとも」

 かなり、焦っている風である。

(まあ、こんな男に騙される女将さんやないし、わたしが対応するより、任した方がエイな)と、腹を決め、

「ほいたら、伝えてきますき、そこのイスに座って、待ちよってください」

 と、熊蔵を玄関わきのテーブルへ案内し、奥の方へお寅さんを呼びに入って行く。

 数分後、割烹着姿のお寅さんと千代が現れる。台所で、惣菜を作っていたところだったらしい。

「熊蔵さん、どういたぞね、珍しい、あんたから、家へ来るらぁ、今までないことやいか。立て込んじゅうき、早う、用件言いや」

 お寅さんに、いきなり、捲し立てられて、熊蔵は、言葉に詰まる。

「女将さん、助けてください、熊蔵、一生一度のお願いですき」

「あんたを助けないかん、義理などないけんど、まあ、話は聞いちゃらあ。何ぞ、質屋の善ベエさんとこの事件のことやて?」

(女中さん、ちゃんと、話、伝えてる。流石、刻屋は女中の躾けが行きとどいているワ)と、感心する熊蔵である。

「そ、そうでんねん。話が早い。その、善ベエさん殺し、の犯人に、あたしが、されそうなんです。浜田ゆう刑事が、しつこいんですワ。多分、今も誰か、見張ってますワ」

「ほう、あんたが、人殺しの犯人。あり得るやないの。悪いこと、随分してるから、今度は人を殺すまで、出世したか、悪の道、極めたかってとこやね」

「そ、そんな、ばかな。あたしは、そりゃあ、女衒はしてましたよ。けんど、今度の売春禁止法ができて、もう、女衒なんてできんし、足、洗いましたよ。今はまっとうな、骨董屋に専念してます。人殺すなんて、冤罪ですがな」

「けんど、疑われる、何かがありやぁせんかえ?善ベエさんと、口論しよったらしいやいか……」


「へぇ?そこまで知っちゅうがですか?流石、井口探偵団や。けんど、口論ゆうても、柿右衛門の壺の作成時期の見解の相違、ってやつですよ。ある田舎の蔵で、眠っていた壺が、柿右衛門の壺で、それが、以前、こちらで見た、例の牡丹の壺にそっくりながです。牡丹やのうて、アヤメか、カキツバタか、ちょっと、地味ですが、名品に間違いありません。箱もついとって、柿右衛門の文字もあるんです。ここにあったもの、古伊万里でしたよね?江戸中期以前の……」

 やばい、あれが、新しいもんとバレそうや、とお寅さんは、次の言葉を探している。

「か、柿右衛門さんゆうたら、代々、名前継いじゅうき、どの時代か、解らんこともあるろう。それに、昔の作品を模って、新しゅう作ることもあるらしい。まあ、素人が、手ェ出すもんと違うよ。アテのとこは、出処がはっきりしちゅうき……」

「そうながですか?善ベエさんもそうゆうとりました。流石、女将さん、骨董にも詳しいんですなぁ。

 いや、骨董の話はエエんですがな。それだけやない、盗まれた宝石、サファイヤ、ちゅうんですか?それが、金庫に仕舞われるのを見て、知っているのは、あたしだけや、と、こう、刑事が詰めるんですワ」

「そうらしいな。あとは、店の小僧さんだけやそうな。小僧さん、まだ子供やから、人殺しは無理や。しかも、死体見て、茫然自失。あれは芝居やない、ゆうてたから、家に寄る刑事さんが……」

「そ、そんな、あたしは、何か大事なもん、手提げ金庫に入れてるとこは、確かに見ましたでェ。けんど、それが、サファイヤなんて、知りまへんがな。ましてや、金庫のことなんか……」

「いや、金庫に、その手提げ金庫を仕舞うように、小僧さんにゆうたの、聴いてたはずやで。そういう、嘘をつくから、かえって、疑われるんや。正直に話さんと……」

「お、女将さん、勘弁してくださいよ。取調室で、机挟んで、怖い顔で、睨まれるんですよ。記憶違いも起こしますよ。矛盾することも言いますろう。平常心では居れん場所ですき」

「まあ、あんたは肝っ玉が、こんまいきね。

 けんど、こうゆう説もある。あんたがやったがやないにしても、誰かにやらした、あるいは、誰かに、情報を流した、あんた、共犯者の疑いは消えんぞね!」

 お寅さんは、孫が学校へ行く前に話してた仮説を、あたかも自分の考えのように話す。

「そ、そんな、だ、誰に話したりしますんや」

「例の、○○組の誰かよ。あんた、この前の人身売買事件で、係わっちゅうらしいやいか。アテが頼んだ、幸子ゆう娘、危のう、売られるとこやったそうやないか」

「あ、あれはあたしも知らんことですき。ただ、あの虎乃介ゆう男が、女の子、集めて、何か新しい商売するって聴いてましたんや。まさか、海外に売飛ばすやなんて、知りませんでしたワ……」

「あら、海外へなんて、警察ゆうてないよ。新聞にも、人身売買を企む、だけしか報道されんかったはずよ。熊蔵さん、何で、海外、って知ってるの?」

 と、千代が初めて、口を挟む。

 熊蔵は、顔色が変ってしまう。

「い、いや、あたしの勝手な想像ですがな。外国へ売飛ばす。東映の映画見すぎたかな……?」

 寒いのに、汗をかいている。冷や汗を拭う仕草をする。

 あぁ、また、この机も替えなアカンな、と、お寅さんはため息をつく。

「ほいたら、神に誓って、あんた善ベエさん、殺しには、爪の先ほども、係わってない、と言い切れるんやな?誰にも、話してへんのやな?」

「ち、誓います。神さんにも、仏さんにも、キリストさんにも誓います。ついでに、毛沢東さんにも……」

「毛沢東はエエわ。そいたら、犯人は別に居る、っちゅうことや。まあ、アテらぁが犯人突き止めるき、あんたは大人しゅうしより。これに懲りて、あくどい商売は辞めるこっちゃやな」

「は、はい、今後は、心入れ替えて、骨董屋に専念します。ちゃんと、骨董のことも勉強しますさかい、よろしゅう頼みますワ。疑いが晴れて、犯人見つけてくれたら、お礼に、柿右衛門の壺、進呈しますワ。探偵の依頼料の代わりですワ」

(うちは、探偵事務所やないでェ、けんど、お礼は貰うワ)と、お寅さん、口に出さず、心の中で呟いた。


      6

 昼過ぎ、遅めの昼食を食べに、勇さんが刻屋の玄関脇のテーブルに座っている。みっちゃんの作った、卵焼きが、瞬く間に、胃袋へと消えて行く。

「相変わらず、早飯やねェ。身体にようないよ、物はよう噛んで食べんと、消化に悪いらしいよ」

 千代の心配をよそに、どんぶりのご飯が、消えて行く。

「まあ、忙しいのはわかるけど、身体が資本やろう、刑事ゆう商売は?そんなんじゃあ、若死にするわ。みっちゃん、嫁にやるの考えるなぁ……」

「えっ?早飯したら、みっちゃんと結婚できんがですか?ほ、ほいたら、辞めます。ゆっくり食べます」

 と、残り少ない、ご飯をゆっくり食べ始める、勇さんであった。

「はい、お茶。早飯、辞めたからって、あんたの嫁に行くとは限らんよ」

 と、みっちゃんが、新しい湯呑にお茶を入れて運んできた。そして、そのまま、台所へ帰って行く。

「な、何か、僕、悪いことしました?みっちゃん、いつもより、機嫌悪そうや」

「うん、周りが、あんたの嫁にって動き始めたの、敏感に察知して、おまけに、小政さんに、気立てのエイ女中さん、ゆうて褒められて、乙女心が、揺れ動いてるのよ」

「えっ?小政さんがみっちゃんに言い寄ったがですか?」

「いやねぇ、お世辞よ、ちょうど、石さんの双子の妹さん連れてきてた時やったから、妹さんに紹介する時、そう言っただけよ。いつもの、社交辞令。小政さん、気配り上手やから……」

「そ、そうですよね、小政さん、好きなのは、千代さんですき。僕も、女としてなら、千代さんが、みっちゃんよりずっと、素敵やと思いますもん。けど、恋人、いや、結婚となると、レベルが違いすぎて……」

「レベルっち、何よ、わたし、普通じゃないみたいやないの?」

「いや、普通じゃないですよ、顔回の生まれ変わりですから、ぼくらぁ、足元にも及びません」

「あんた、終いに怒るでェ。そんな眼で、わたしを見よったが?」

「いや、たとえですき。僕は、普通に千代さん、大好きですき。ただ、僕では、千代さん、物足りんことも自覚してます。そうゆうことですワ」

「あら、勇さん、わたし、もし、若い頃、勇さんと知りおうてたら、わからんかったよ。今の亭主やのうて、勇さん選んでたかもよ?」

「ええ、ほんまですか?それ、す、凄い褒め言葉ですよ。人生で一番褒められた気がします」

「あっ、冗談が過ぎたわ。落ち込んでたから、元気づけちゃろう、思うただけやったけど、冗談に取れんかったか?御免、御免」

「や、やっぱし。期待した分、がっかりしますよ。人が悪い」

「御免、そうや、話変わるけど、モンタージュ写真できた?例の、宝石持ってきた客とゆう人の……」

「あっ、そうや、その件があって来たんやった。それと、今朝、ボン、現場へジョン君、連れて行ったがですよね。その時、熊蔵に共犯者がいる可能性もある、ゆうてたそうで。山ちゃんが、現場を見に来た、浜さんに話したら、そうやろう、わしもそう思うちょったがよ、熊蔵が怪しいのは、最初からお見通しよ、って、エライ鼻息で……」

「そうや、それを言い忘れちょった。その熊蔵さんが、うちとこ、来たんよ。助けてくれって」

 千代が、先ほど帰って行った、熊蔵とのやり取りを話す。勇さんはご飯を食べ終え、お茶を飲んでいる。

「熊蔵は、白や、と、自分でゆうとるがですね?信用できますか?」

「まあ、あの態度からみたら、白やね。あのひとには、ひと殺せんワ。泥棒入って、見つかったら、慌てて逃げるタイプやもん。ナイフで刺す、これは、無理やね。ただ、誰かに宝石のこと話した、ってのは、まだ、否定できんよ。けんど、話しても、なんちゃあ、得にならんき、可能性は少ないと思うよ」

「けんど、あのひと、○○組と繋がっちょったがでしょう?○○組のもんに脅かされて、金儲けの口、ゆうて、ぽろっと、口にした、って考えられません?」

「あんた、珍しゅう、鋭い、推理やねェ。それ、ありうるわ」

「いや、いや、これ、浜さんの推理ですわ。熊蔵が怪しい、その理由が、ポンポン出てくるんですわ。浜さん、頭はエイです。ただ、実際の事件では、飛躍しすぎるんですワ」

「なんや、浜さんの仮説か、そりゃ、また、外れやね。これで、完全に、熊蔵は白やね」

「そいたら、怪しいんは、こいつですか?」

 胸ポケットから、一枚の写真を取り出す。モンタージュ写真である。

 その、白黒の、不鮮明な写真を、千代が眺める。黒縁の眼鏡に、チョビ髭。エンタツに似た、ひょうきんな顔の中年である。

 千代の、ちょっと悩んだような顔を見て、

「千代さん、何か、心当たりでも?」

 と、勇さんが尋ねる。

「ちょ、ちょっと、みっちゃん呼んでくる。お母さん、火曜市行ってるから、みっちゃんに確かめるワ」

「な、何を……?」

 と、言う、勇さんを置いて、台所のみっちゃんを連れて、帰ってくる。そして、モンタージュ写真を、テーブルの上に置いて、みっちゃんに指し示す。

「どう?似てると思わん?」

「そうですね、確かに、眼鏡をとったら、そっくり、とは言えんけど、特徴はよう、出てますね。頬の膨らみとか、髪の生え際とか、こんな感じでしたワ」

「えっ?誰に似てるんです?ふたりだけで、確認せんとって下さい」

「御免、御免、三日前まで、家に留まってた、お客さんに似てるんよ。昨日も、お母さんと、まさかね、って噂してたんよ、大阪のひとらしかったし、中肉中背の、髭生やした男、ゆうてたから……」

「ほう、そんな客が、泊っていたんですか?」

 と、勇さんの背中の向こう側から、優しい声が聞こえてきた。玄関の硝子戸を開け、小政さんと、睦実さんが入って来たのである。

「あれ?石さん、また、女装して、探偵するんですか?」

 どこかで聞いたセリフを、勇さんが、振り返りながら言った。

 ぷっ、と、千代とみっちゃんが同時に吹き出す。

「やっぱり、勇さん、名刑事になれんね、お嫁に行くの考え直そう。小政さん、お茶入れますき、座ってください」

 と、みっちゃんが、再び、台所へ向かう。

「な、何なんですか、今のセリフ?わからんことがいっぱいでしたよ」

「まず、名刑事になれん、ゆうたのは、さっき、石さんの双子の妹さんが、うちへ挨拶に来た、ゆうたの、早、忘れてるからよ」

「ええ?じゃあ、このひと、いや、このお嬢さん、石さんの妹さんですか、双子の?いや、そっくりですやいか。幸子さん時の、石さん、瓜二つですよ。妖艶さ、ゆうか、色っぽいとこも……」

「それと、みっちゃん、今、意味深なことゆうたよ。勇さんのお嫁に行くこと、考え直そうって。これ、お嫁に行くこと、考えてた、ってことよ。勇さん、思ってたより、あんた、もててるやないの」

「えっ?そ、そうながですか?」

 と、勇次が顔を染める。

「何か、お邪魔みたいですねえ。千代さんと勇次さん、こうして見てたら、仲のエイ姉弟みたいですね、そう、思わんか、ムッちゃん?」

「はい、うちとこの、兄妹より、ずっと仲良しにみえますワ。

 初めまして、石川睦実、いいます。兄が、このたびは、ひと過多ならぬ、お世話を掛けたそうで、命の恩人さんのひとりやそうですね、坂本さん……」

 美人の丁寧な挨拶に、言葉が出ず、ぼうっとしている、勇さんのところへ、みっちゃんがお茶を持って現れる。睦実に見とれている、勇さんを見て、

「何や、早、浮気か?ほんと、考え直そう……」

 と、お茶を置いて、奥へ帰って行った。

「み、みっちゃん、ご、誤解や……」

「ああぁ、これは完全に、黒星やね。この代償は大きいな。石焼きイモじゃあ、足りん。浜幸のショートケーキかな?」

「ほんまに、おふたりさん、面白いですねえ。いつまでも、聴いていたいけど、先に、要件、済ましましょう。

 勇さん、あんた、水臭いやろう、同じ、彼女、居らん仲や、ゆうてたのに、事件のこと、全然、報告ないやんか。わたしじゃ、役不足、ゆうんか?これでも、長五郎一家の軍師、言われてるんやで……」

「あっ、決して、小政さんを邪魔にしてるわけやないですよ。いや、本当に一番頼りにしてるんは小政さんです。次が、ジョン君。ジョン君、喋れませんき。それから、ボンと千代さんですき」

「あら、わたしは、息子と同じなの?ああぁ、辞めようかな、協力するの……」

「な、何てこと、千代さんは、団長ですき、要の人物が居らんなったら、お終いですき、お願いします、このとおり……」

 と、千代を拝む、勇さんであった。

「わかってるわよ、小政さんには勝てんから、発想が違うもん。小政さんはシャーロック・ホームズ。わたしは、ミス・マープル。あっ、ミスじゃないわ、子持ち、マープルや……」

「ところで、その、モンタージュ写真、容疑者ですか?」

 と、小政が、話を本題に引き戻す。

「そうなが、まだ、容疑者までは行ってないかもしれんけど、事件の中心人物よ。勇さん、説明、任したよ!」

「は、はい。小政さん、事件の経過、簡単に説明します」

 と、勇さんが、顛末を説明する。

「ほう、それで、この、宝石を質に入れに来た人物と、刻屋に泊っていた人物が、同一人かもしれん、とゆうがですね?」

 呑み込みの早い、小政である。既に、事件のあらまし、流れを把握し、犯人の可能性を幾つか頭に描いている。

(熊蔵の実行犯説はない。流しの犯行も薄い。熊蔵から、情報を仕入れた誰か、あるいは、このモンタージュの男か、その仲間。犯人は絞れるな……)と、そこまでは、推測出来ていた。

「それで、その客は、何処の誰です?宿帳は?それから、ここを出て、何処へ行く、って言ってました?」

「ちょっと待ってて」と、宿帳を取りに、千代が、玄関わきの畳の間にあがる。そこから、新しい宿帳を持ってくる。

「このひと」と、宿帳の文字を指し示す。

「名前は『風野時次郎』住所は、大阪府堺市×××か……。どんな人物でした?何か、商売人風とか、職人風とか、ただの、観光旅行者とか……」

「わたしは、応対してないのよ。だから、お母さんに聴かんとわからんけんど、最近、旅行客はうちみたいなとこ、泊らんよ。ホテルが出来ちゅうき。職人とゆうより、商売人風と思う。何かの販売員。富山の薬売りとは違うけど、雰囲気的には同じや」

「そしたら、宝石の訪問販売員、ってことも、考えられますね?質屋で、そう言ったそうですから、ホンマ、やったってことかもしれませんね?」

「うん、お母さん、黒い小さ目のケース、大事そうに持ってた、ゆうてたから、その中に、宝石、入れてたんやろう、きっと……」

「それで、宿払いしたのが、事件の前日ですね?ここから、何処へ行くか、聴いてませんか?」

「みっちゃん」と、大きな声で、奥にいるみっちゃんを呼ぶ。

「この前の、お客さん、見送ったの、みっちゃんやったやろう?聴いてないか、何処へ行くか……」

「何でも、お街の方のホテルに泊まって、上客さんとの商談がある、ゆうてましたよ。うちじゃあ、格が違うみたいに、嫌味っぽく……」

 みっちゃんが、玄関奥の、土間から、説明する。勇さんに近づきたくない、そういう、態度である。

「ほいたら、事件当日、まだ、高知に居ったんや。これは、解決、早いかも。さっそく、高知中のホテル、旅館、問い合わせますわ。ほなら、これで……。みっちゃん、卵焼き、美味しかったよ。また、頼むでェ」

 勇さんが、慌てて、玄関から飛び出してゆく。

「あっ、また、飯代、忘れちゅう。おまけに、モンタージュ写真も……」

「いや、これは、置いて行ったがです。写真は何枚もありますから、お寅さんにも見せないかんでしょう。

 それより、これからどうします?探偵団、結成しましょうか?この男が、犯人で、すぐ、自供してくれたら、お終いですけど、この顔、変装してる顔やし、犯行の手口もプロやし、一筋縄ではいかんですよ」

「おまけに、『外しのハマさん』の担当やきねェ。すっと、解決せんと思うわ。小政さん、協力したってね、迷惑やろうけんど」

「いえいえ、社長命令ですき、大事な仕事です」

「わたしも、手伝います。この男、唯もんや、なさそうですよ。ウチの知ってる、ある、集団にこんな顔の輩、ようけ、いますから……」

「何?その睦実さんが知ってる、集団って?」

「あれ?悟郎のやつ、我が家の家系のこと、ゆうてないんですか?てっきり、ご存じやと、思うとりました。すみません、話が、紛らわしゅうて……。家の家系、石川、ゆうて、五右衛門さんの末裔ですねん」

「えっ?あれって、冗談じゃあ、なかったが、けんど、石川五右衛門って、釜茹での刑で、処刑されて、奥さん、子供まで、殺されたがやろう?子孫なんて、居らんはずやろう?」

「流石、顔回の生まれ変わり、言われる、おひとや。博学ですね。歴史に詳しい。けれど、石川五右衛門って、唯の泥棒やないことも、ご存知ですよね?」

「ああ、泥棒する前は、忍者、やったがやろう?何流か忘れたけど……」

「伊賀ですワ。信長の『伊賀攻め』で一族が、壊滅状態にされて、その仇討ち、ゆうて、信長の後継者の秀吉の御殿に忍び込むんですワ。本当は、泥棒やのうて、秀吉暗殺、が目的やったらしいです」

「へえ、そうなが、歴史も複雑やね」

「だから、元々は、伊賀の住人、石川郷って、今はない村の出身なので、石川五右衛門と名乗ったんですワ。ですから、五右衛門、直系の子孫は居りませんが、石川郷から出た、傍流、親戚筋は何人か居ります。それが、家の祖先です」

「えっ?じゃあ、石さんも睦実さんも忍者の末裔?」

「ええ、末裔ゆうか、今も忍者ですねん」

「えっ?今も、忍者って、居るんか?」

「まあ、平和な世の中には、要らん存在ですけど、この前の戦争とか、有事には、諜間として、動きますんや。代々、半農、半分は行商とか、身分隠してますけど、わざの鍛錬はしていますのや」

「そしたら、石さんのあの、スリの技も、その鍛錬、ゆうか、修行の賜物?」

「あっ、あいつの技、子供騙しですワ。まあ、ちょっとは、他の子と比べて、覚えが早い、とゆうか、才能はあったんでしょうが、あんなん、ウチもできます。それより、あの、ヤクザの豪邸、わざと捕まって、入り込むやなんて、ウチなら、鉄条網の三メートルの塀、軽々、乗り越えてますよ。やり方は企業秘密ですけど……。まあ、あいつは、忍者より、役者になりとうて、子供ん時、家、出ましたから、修行が足りません。忍者にはもう、なれませんワ」

 驚きの家系である。戦国時代から、江戸の初めならまだしも、この二十世紀に忍びの者が存在するなんて……。

「ほいたら、さっきの、ある集団って、もしかして……」

「そうですねん。うちとこと違う、別の忍びの集団がありますねん。甲賀流も、根来流も。それから、これは、噂の域ですけれど、北条氏が使うてた、風魔一族の末裔も、まだ、忍びの鍛錬してるらしい、そうです。その輩、こんな、ありふれた容姿してますのんよ。ウチと悟郎みたいな容姿は、本当は忍びにむかんのです。目立つから……」

「この男が、ムッちゃんのゆう、忍びの者やったら、この事件、簡単に解決できませんよ。手ごわい相手になりますよ」

「そやから、わたしにも手伝わしてください。いえ、わたしだけやない、ウチの、身内のもん、何人か集めます。きっと、役に立ちますから、許可してください」

「そ、そりゃあ、忍者が味方に居ったら、まあ、役に立つろうけんど、わたしには使いこなせんよ。睦実さん、あんたの命令で、その人たち動くの?」

「ええ、ウチとこが、まあ、家元ゆうか、上忍の家系ですので、呼ぶんは、部下に当たるもんですから」

「ほいたら、いざとゆうとき、頼むワ」

「それと、ここのボン、に紹介してください。ジョンゆう犬、あれは、忍犬、なんやないですか?普通の犬が、小政さんのゆうこと理解して、あれほど、動けるなんて考えられません。忍犬はもう、いないんです。少し前に、最後の一匹がノウなって、絶滅してしまって……」

「忍犬って、ジョンはまあ、特殊な犬よ。アメリカの軍用犬の研究所で生まれたんやから、現在の、忍犬作りの結果かな?けど、ジョン、使うの?」

「ええ、忍者相手やと、人間以上の能力がある、ジョンのような犬はとても戦力になります。ここのボンはそれを知ってる。賢い子ですね、悟郎も真さんも、あんな子が欲しい、ゆうて、どうも、毎晩、励んでいるみたいですワ」

「な、なんやの、子作りに励んでるの、石さんとマコちゃん。イヤやワ、家の子みたいなの、あの子でたくさんよ。親、苦労するから、石さんにゆうといて、アカンって……」

「ウチもはよう、逢ってみたいんです。小学二、三年生で、乳首の先に神経集中やなんて、凄いワ。ウチの忍びの集団にもそんな発想できるもん、居りませんよ。天才ですね。ウチ、絶対、話し、合うと思います。年が、十年、喰っていたら、絶対、旦那さんにしますよ、今、九歳か、ウチ、二十三やから、一回り以上違うもんなあ、残念……」

 千代は、わが子の評価に眼を丸くする。

(そんな馬鹿な、あんな子と結婚したら、不幸になるの眼に見えてるやいか。わたしは絶対、イヤや!)と、心で叫んでいた……。


      7

 坂本刑事の報告により、市内のホテル、旅館を警察官による一斉捜査が実施され、風野時次郎と名乗る男を任意同行して、県警の取調室へ連行できたのは、翌日の昼過ぎであった。

 事件は、これで解決、と思われたが、彼は事件当日のアリバイを主張したのである。

 事件当日、二月三日の夜、七時から十時頃まで、彼は、高知市の有名料亭「濱長」で、芸者をあげて、遊んでいたのである。得意先を接待する予定が、先方の都合で、逢えなくなり、ひとり、宴席を楽しんだとのことである。その席には、琴絵も芸妓として、三味線、小唄を披露し、ずっと、座敷にいたのである。店の者は買収できても、琴絵は買収できない。完璧な、アリバイがあった。

 そして、不思議なことに、彼は、毎度屋へは、行っていないと証言した。毎度屋の小僧、伸介に、マジックミラー越しに顔を確認させると、眼鏡をかけていないが、このひとに間違いない、と証言した。

 拘束する、証拠はない。事情聴取であり、その日は、解放したのである。

「そいたら、よう似た、別の男が、居る、ちゅうことかね?」

 その日の夕方、刻屋を訪れた、勇さんの報告に、お寅さんが、疑問を呈した。

「それか、風野が嘘をついちゅう、か、どっちかでしょうね……」

「完璧なアリバイ、却って、不自然やね。その時、事件が起きる、って解ってたみたいやもん。取引先が来れんなったら、キャンセルするか、早めに切り上げるよね。それを、三時間以上、ひとりで芸者遊び、不自然過ぎる、アリバイ工作としか考えられん」

 小学生のS氏が、大人顔負けの理論を発信する。誰も、納得する理論である。

「それで、風野ゆう男は、身元は、はっきりしちゅうがかね?偽名とか、ヤクザがからんじゅうことはないがかね?共犯者が居るとしか考えられんろう?」

 お寅さんも、中々の、探偵ぶりである。

「身元は確かでした。宝石の訪問販売してる、堺市の男で『風野時次郎』、大阪府警に照会しました。前科はないそうです。ただ、担当の刑事さんが、何かの盗難事件で、容疑者やないかと、疑うたことがあるそうです。その件で、府警から、刑事さんが明日来るそうですワ」

「じゃあ、大阪でも、疑わしい行為があったがやね?けんど、捕まらんかった。何か、共通してるとこあるね。やっぱり、ばあちゃんがゆうたとおり、共犯者が居る。ふたりか、三人かわからんけど、組織で悪さしているね」

「ボン、どうゆうことや、組織で悪さって?」

「うん、このモンタージュ写真、どうみても、嘘っぽい、本当の顔じゃなく、変装した顔や。だから、よく似た体形、顔の仲間が、みんな、この顔に変装する。そしたら、アリバイ作れるし、逆に、犯行もできる」

「そうや、石さんの妹さん、ムッちゃんもゆうてた。この顔、作ってる。しかも、忍びの集団の一員かもしれんって」

「し、忍び?忍者ってことですか?この二十世紀の世の中に?時代劇の見過ぎやないがですか?」

「勇さん、あんたが昨日帰った後、ムッちゃんが話してくれたがよ。石さんの家系、伊賀の忍者の末裔、戦時中は、諜報活動してたって、今も現役の忍者らしいよ、石さんは違うけど……」

「ほいたら、石川五右衛門の子孫って、ほんまやったが?そうか、そんな気がしてた。あの、幸子さんに化けた時も、火曜市の農家のおっさん姿も、唯の変装とは違ってたもん、あれ、忍者の変装術なんや」

「ボン、石川五右衛門って、泥棒やのうて、忍者やったんか?」

「あたりまえやんか、唯の泥棒を、秀吉が『釜茹での刑』なんかにするわけないろう。見せしめと、仲間への忠告のためや。秀吉の首、狙うてた、って説もあるくらいやから」

「あんた、詳しいね、ムッちゃんもそうゆうてた。あんた、ムッちゃんと気が合いそうや、ムッちゃん、あんたに会いたいゆうてたで、それとジョンにも……」

「そうや、ジョンや、ジョンとその風野、ゆう、おっさんを会わせよう。ジョンがどうゆう反応するか、それで、ある程度、真相に近づけるかもしれんよ」

「それはエイけんど、あんた、学校やろう?」

「うん、それが、問題よ。しゃあない、小政さんに頼むわ。小政さん、前の事件で、ジョンを使うた経験あるし、ジョンも小政さんに懐いているし、僕の代役はできるろう」

「ほいたら、明日、風野が泊っている、金陵閣、ゆうホテルへジョンと小政さん連れて行きますワ」

「あっ、一緒に、ムッちゃんも連れて行ってあげて、あの子に風野ゆう男、実際に見てもらうんよ。忍者かどうか、わかるかもしれんよ、歩き方とか……」

      *

 翌朝、先生宅前で、小政と睦実、S氏がジョンを囲んでいる。ジョンはS氏に向かってしっぽを振っている。

「ジョン、小政さん、憶えてるやろう?今から、小政さんについて行って、協力しちゃってよ」

 と、頭と背中を撫でてやる。

 ジョンが、小政の顔を見上げ、しっぽを振る。了解した合図である。それから、ジョンは小政の隣にいる、睦実の傍により、匂いを嗅いだ後、大きくしっぽを振った。

「あれ?ジョン、小政さんより、睦実さんが気に入ったみたいや。初対面のひとに、こんな態度したことないよ。うちの母ちゃんにも、こんなにしっぽ振らんよ」

「ジョンも男の子やき、若い女性が好きながやろう?」

 と、小政が笑う。

 睦実が、S氏がしたように、ジョンの頭と背中を撫でる。ジョンが嬉しそうに、身体を寄せてくる。

「へぇ、睦実さん、犬の扱い慣れちゅうね。犬、飼いゆうが?」

「ううん、ボンより小さい頃、家にも犬、居ったけど、その子が死んで、飼ってないねん。けど、動物は好きやし、猫は飼ってたよ、家族がやけど……」

「こりゃ、わたしより、ムッちゃんのほうが、ジョンと相性良さそうや。まあ、これで、何とかなるな、ボンが居らんでも」

 ほいたら、僕、学校があるき、とS氏がもう一度、ジョンの頭を撫でて、刻屋の方へ帰って行く。小政と睦実がそれを見送り、

「そしたら、少しジョン君をつれて、散歩するか。ジョン君と、もっと仲ようならんとイカンきね」

「この犬、首輪に綱、付けんでエイの?勝手に走りだしたりせえへんの?」

「大丈夫、唯の犬と違うんや。名犬中の名犬、わたしもこんな犬、見たことないワ。人の言葉、いや、心の中まで、見えとるのかもしれん。悪いこと企んだら、エライ目に合いそうや」

「ふうん、やっぱり、忍犬に近いんやね。楽しみや、家で飼ってた、ハヤトより、凄いかな?体形見たら、鈍そうやけど……」

 睦実のその言葉に、ジョンが反応して、「ワン、ワン」と吠えた。

「あっ、悪口に聞こえたんや、怒ったか?違うよ。鈍そうに見えるんも、忍犬として大事な特徴よ。相手が油断するから。わかった?褒めてんのよ、ジョン」

「ワン」

「あっ、理解してる。賢いわ。ウチ、この犬、大好きになりそう。家に連れて帰りとうなりそうや。ワンと一回が『イエス』、二回が『ノー』か。うん、わかったよ、ジョン」

「ワン!」

「おいおい、ムッちゃん、凄いやんか、ジョンと会話してる。ボン以外で、初めてや……」

      *

 坂本刑事に案内されて、小政と睦実、それとジョンが、ホテル「金陵閣」のロビーに入って行く。ジョンには、首輪ではなく、胴体に、盲導犬用の器具が取り付けてある。睦実が黒い色眼鏡をかけて、盲目の格好をしている。ホテル内にジョンを入れるための対策である。そこは、軍師、小政の発想である。

 フロントに警察手帳を見せ、風野時次郎の部屋に案内させる。五階の端の部屋、非常階段に近い部屋である。

「ふうん、こんな部屋、取るってことは、プロかも知れへんね。警察が、上がってくる前に、非常階段から逃げる、そうゆう考えを持ってるね」

「ええ?そうなんですか?全然知りませんでした。睦実さん、ご家族に、警察関係が居るんですか?エライ、詳しそうですね」

「勇さん、静かに、敵陣の中ですよ。風野、ひとりと思うたらいけません。共犯者が居る、可能性が高いんですよ。何処で、聴き耳立ててるか、相手は、プロ集団かもしれないんですから」

「そ、そうや。ほんま、どっちが刑事かわからん。小政さんと睦実さん、うちの署に欲しいわ。検挙率、全然違うてきそうや」

 勇さんの言葉を無視して、ホテルのボーイに、ドアをノックさせる。

 少し間があって、ドアが小さく開けられる。

「何や、ボーイさん、呼んでないでェ」

 と、風野の声がした。

「風野さん、警察です。すみません、お寛ぎのところ、事件のことで、もう一度、確認したいことがありまして……」

 と、勇さんが、手帳を提示しながら、ドアを広げる。

「事件って、昨日、全部話したやろう。質屋なんぞ、知らんでェ。行ったことない、ゆうたろう」

「それが、風野さんを現場近くで見た、ゆう証言者がいまして、ご近所を通っていたのか、確認したく、それと、宝石について、お聞きしたいこともありまして、少し、エイですか?時間、取らしませんき」

「あの近所?いや、行った憶えないなあ、何かの間違いやろう。まあ、人違いって、ようあるからな。ワシみたいな顔、世間にはいっぱい居るさかい。まあ、ちょっとやったらエイワ、中、入り。な、何や、その犬?盲導犬か?ねえちゃん、眼、悪いんか?けど、何で、盲導犬連れた女が一緒やねん?」

「こ、この方は、宝石に詳しいひとです。眼が悪いけど、捜査に協力してもろうてます」

「ふうん、まあ、お入り。それで、宝石について、何が知りたいねん?」

 ベッド脇のイスに勇さんを座らせ、自分はベッドに腰をかける。小政はドアの近くに陣取っている。逃亡を防ぐためである。

「ええ、ちょっと、サファイヤについて、お聞きしたいんです」

「ほう、サファイヤ。サファイヤがどうかしたんですか?」

 と、言葉使いが、少し丁寧になる。宝石商の商売人の顔になったのか?

「昨日、お尋ねした、事件ですが、質屋から盗まれたんが、サファイヤゆう、宝石とわかったがです」

「ああ、昨日、ちらっと、サファイヤ、扱うてないか、って聴いてたんは、そのことやったんか。サファイヤも扱うてる、ってゆうたはずや、まあ、ちっちゃいもんやけど」

「そのサファイヤですが、主な産地は何処ですか?それと、日本で出回ってるもんで、高価なもんは、幾らぐらい、の価値があるんでしょうか?」

「サファイヤの産地ゆうたら、インドの端、セイロン島や。アフリカの方でも取れるようやけど、日本に入ってくるんは、ほぼ、セイロン産やろうな。それと価値は千差万別。相場があって、無いようなもん。高いのは、家、一軒より高い。刑事さんの安月給じゃあ、まあ、ワシが、扱うてる、ちっちゃい指輪がエエとこやろう。恋人にでも贈るんか?安うしといたるでェ、これも、縁やから……」

 そんな会話の間に、睦実がジョンの背中を軽くたたく。風野の匂いを嗅ぐように命じているのである。

 ジョンは少し歩みを進め、風野の足もとを覗う。そして、睦実を振り返り、小さく「ワン」と声を上げる。

「な、何や、この犬、近づきすぎや、主人は、あっちやでェ」

「あら、ごめんなさい、ジョン、こっちへおいで」

 と、睦実がジョンを呼び戻す。

 勇さんが小政の方に目配せをする。小政が頷く。

「風野さん、ありがとうございました、参考になりました。こちらの先生と同じご意見でしたわ。いや、ちょっと、疑うてましたんよ、風野さん、宝石商って、嘘やないかと……」

「あっ、そうか、ほんで、この女性が居ったんか。ボロ出さんでよかったワ。宝石商は間違いないでェ。ちゃんと、登録してるんやから、大阪に照会したらエイワ」

「ええ、宝石商に風野さんの名前は確認してます。唯、ご本人かは、わかりませんから、確認させていただきました」

「何や、調べ、ついてたんか?警察もやるもんや。それで、疑い晴れたんやな?」

「ええ、宝石商の風野さん、ゆうことは、確認できました。でも、まだ、事件の容疑者ですき、しばらく、所在はきちんとしといてくださいよ、逃亡と間違われんように……」

「よ、容疑者って、ワシ、関係ない、ゆうてるやろう、何で、容疑者になるねん?」

「大阪での、件もありますき、まあ、すぐ、疑いも晴れるでしょうから、少しだけ、ご辛抱、願いますワ。では、これで……」

「お、おい、大阪の件、って何や?あの事件やったら、もう、疑いは晴れてるはずや!」

 風野の言葉を無視して、三人は部屋を後にする。ジョンが睦実を見上げて、前足で、トントンと二度床を叩いた。そして、足元に鼻を寄せる。不思議に思ったが、意味はわからなかった。

      *

「どうでした?ジョン君の反応、僕には、ようわからんかったがですが……」

 三人はホテル近くの喫茶店に入った。ジョンは店の前に繋がれている。

「ウチにも、よう、わからへんねん。ワン、と一回啼いたけど、犯人や、とは言わんかった気がする」

「そうやな、犯人やったら、飛びついてたはずやから。けど、二回吠えん、ちゅうことは、白でもない、ってことや。やっぱり、ボンやないと、ジョンの気持ちは解らんがやねェ」

「困りましたね、ジョン君、喋ってくれんし……」

「ウチが見た限り、あいつ、忍びとは違うワ。歩き方も、隙だらけの態度も、素人や。今度の犯罪のプロ並みの犯行には、そぐわんなぁ」

「睦実さん、そこまでわかるんですか?やっぱ、うちの署に、就職してください。女刑事、第一号になれますわ。署長に推薦しますき」

「それより、部屋出るときのジョンの仕草、気にならんかったか?」

「そう、小政さんのゆうとおり、あれ、何の合図?小政さんにもわからんのん?」

「ええ?何です、ジョン君なんかしたんですか?」

「勇さん、気付かなかったか?ジョンが部屋出るとき、前足で、床、叩いたんや、それも二回……」

「それと、ウチの足、嗅ぐ仕草もしたよ」

「そ、そうながですか?何か意味ありますね、名犬ジョン君やから……」

「うん、絶対、何か教えてくれたんよ。ああぁ、ウチじゃアカンのや。やっぱり、ボンやないと、代わりは務まらんかった」

「いや、ムッちゃん、ジョンを上手う扱うちょったよ。盲導犬の金具も嫌がらんかったし、ちゃんと、風野の匂いも嗅いだし、あとは、我々が、ジョンの言葉ゆうか、仕草を読み取る能力の問題やろうね」

「そうですね、やっぱ、ジョン君の言葉わかるんは、ボンだけですもんね」

「まあ、嘆いてもしゃあない、学校から帰ったら、ジョンの仕草、説明しよう。何かわかるかもしれん。あの子は、どこか普通の子と違うき」

「ええ、今朝、短い時間やったけど、小学生とは思えん態度でした。噂どおりの賢い子ですね。それと、考え方が、普通と違います。理論的やけど、直観的でもある。ルパンが探偵している、そんな物語あるでしょう?あの、ルパンみたいです」

「ホームズと違う、そうやね、直観力が凄いよね。わたしや、千代さんと、そこが違うとこや」

「で、これからどうします?ボンが帰るまで、まだ、時間ありますよ。今日は平日やから、四時過ぎですよ、早くても……」

「そうやなあ、ボン頼みやなんて、恥やな。ちょっと、コーヒー飲んで、考えるわ、今後のことについて……」

「お願いします。小政さん、一番期待の星やから、軍師ですき」

「ああ、勇さんの期待に応えんと、プレッシャー掛かるなぁ」

「ウチの意見ゆうて、エイですか?」

「何や?もちろん、ムッちゃんの意見、大いに結構やでェ」

「風野が、犯人やない、としたら、どうなります?他の犯人、考えられます?熊蔵ゆうひとは、違うやろうし……」

「そうや、風野が犯人やないとしても、係わりはある。おそらく、共犯者が居るはずや。それを突き止めるんが、まず、課題やな」

「まあ、見張りは付けてます。誰かと接触したら、すぐ、わかるように手配はしてますき。今のところ、誰も接触、無いようです」

「うん、気長に待つか。けど、その間に、宝石、どっかに行ってるやろうな」

「それ、その宝石、どうするつもりやろう?最初から売飛ばす気やったら、質屋へは持って行かんでしょう?何で、質屋持って行ったんか、そこがわからんのですけど」

「うん、ボンやったら、すぐ答え出すけんど、わたしはちょっと、考え込むなぁ、ムッちゃんはどう思う?勇さんは?」

「ぼ、僕は無理です。小政さんがわからんこと、僕がわかるわけ、ないですろう」

「ウチ、風野と共犯者、こいつを、A、とします。このふたりの意思疎通が、巧く行ってなかったんやないかと思うんです」

「ほう、それはどうゆうことや?」

「つまり、風野が急に金がいるようになって、サファイヤを売りに行った。いや、違うな。そうや、サファイヤの相場、いくらで売れるか、探りに質屋へ行った」

「そうや、それは当たってる。おそらく、あのサファイヤ、盗品や。だから、正規のルートでは売れん品もんやったんや。そこで、質屋なら、いくらで引き取るか確かめに行った。ムッちゃん、当たっているよ」

「けど、善ベエさん、正直もんやから、盗品かもしれんもん、買い取れん。そこで、預かることにした。風野はそれを承諾して、預けて行った。それを知った、Aが、危ないと思った。盗品とばれて、警察に通報されたら……」

「そ、そうですワ。善ベエさん、質屋のベテランやから、盗品らしいとわかったら、警察に一報は入れますワ。仏の善ベエの名を汚すことしませんから……」

「そこで、Aは取り返す算段をする。風野に絶対的なアリバイを作らせ、Aが犯行に及ぶ。Aは盗みのプロでしょうね、金庫なんて、お手のもんでしょう。ただ、アリバイ工作をするため、盗みに入る時間帯が、狂った。宴会してる時間に仕事せなならんかった。普通の盗みの時間より、早い時間帯。これが、仇になったんですね。善ベエさん、起きてたから、現場を目撃された。仕方なく、ブスッ、ですね」

「す、凄い、辻褄合いますやいか。泥棒に入るには、時間帯が変や、って、浜さんもゆうてました。そうや、宴会、十二時過ぎは、無理ですもんね」

「そしたら、宝石はまだ、風野かそのAが持ってるな。相場がわかってないんやから、売り捌けんのや。裏取引に進めんのや」

「わ、わかった!」

「えっ、睦実さん、何、興奮してるんです?何がわかったがです?」

「ジョンの仕草よ。あの前足で床叩いて、足元嗅ぐ仕草。あの意味が、小政さんの言葉でわかったんよ」

「えっ、わたしの言葉で、仕草の謎が解けたんか?そりゃ、凄い。ううん、わたしにはわからんけんど、勇さんは?」

「だから、小政さん、無理ゆうてますやいか。おふたりの頭の良さに、僕はついていけませんき。小政さん、わざとでしょう?それ、おちょくっているとしか、思えませんよ。年上の僕に対して、失礼ですよ、まあ、ひとつ違いやけど」

「悪い悪い、勇さんも刑事やき、経験値で、ひょっと、と思うちょったがよ。決しておちょくってないき、そこは理解してよ。わたしは勇さん、大好きやきね」

「男の小政さんに、大好き、ゆわれてもなぁ。そりゃ、嫌われちゅうよりは、嬉しいけんど……」

「ふたりして、漫才せんといて、話、脱線してるよ。土佐のひとって、大阪より、おもろいワ」

「ああ、そうや、ムッちゃん、推理の続き聴こうか……」

「何処まで、話したか忘れたやんか、そうや、ジョンの仕草や!小政さん、確かめたいんやけど、勇次さんにも……」

「何や?確かめたいことって?」

「あの、風野って男の靴やけど、踵、普通のより、高いことなかったか?ウチ男性の靴、ようわからんけど……」

「ああ、あいつ、背の低いの気にしてたんやろう、踵の高い靴履いてたよ」

「けど、あいつ、中肉中背やろう?小政さんより、背、高かったよね?何で、それ以上、高こう、見せなイカンがやろう?」

「まあ、ひとそれぞれやからな。彼女が大女かもしれんし、雪乃さん以上に……」

「けど、そうやない、背を高く見せるためやのうて、踵に何か隠すためやとしたらどう?」

「何やて、そ、そうか、わたしにもわかった、ジョンの仕草が……」

「えっ、やっぱ、僕だけですか、わからんの?」

「勇さん、ゆっくり考えたらわかるろうけんど、時間が勿体ないき、説明するわ。ジョンはわたしらぁに、宝石の隠し場所、教えてくれたんや。

 エエか、ジョンはまず、風野が殺人の犯人やないと教えてくれた。ワンと一回だけ吠えたんは、殺しの犯人ではない、が、宝石は隠し持ってる。そう、教えてくれた。けど、わたしらぁはわからんかった。そこで、最後に、宝石の隠し場所を教えてくれたんや。前足で床叩く、足元嗅ぐ、靴に隠してある、って行動で示してくれたんや。凄い能力や。わたしらぁの理解度まで考えて、わかりやすう、教えてたのに、それさえ、わからんなんて、ジョン、笑ってるやろうな」

「そうやったがですか、そしたら、靴、調べたら、宝石出てきますね。今から、踏み込みましょう」

「あかん、拒否されたら、終いや。令状がいる。そしたら、その間に、隠し場所替えられる。ううん、エイ方法ないかな?」

「幾つか方法はありますよ。任意同行で、署へ呼んで、持ち物検査する」

「駄目や、警戒して、別のとこへ隠すわ」

「そしたら、盗むしかないですね、靴ごと……」

「えっ、盗むって、誰がやるんです?」

 勇さんの言葉に、睦実が自分の顔を、自分の指で指す。

「えっ、睦実さんが……?」

「そうや、石川五右衛門の子孫やもん、簡単や。真夜中に忍び込んで、ベットの脇に抜いている靴、取ってくるだけやもん、容易(たやす)いもんや」

「駄目や、靴盗んでも、それは自分のもんと違う、ゆうて言い逃れる。靴には名前書いてないもんな。他人の靴やゆうて、しら、切るで、あいつなら。それより、巧い手がある。ホテルに頼まないかんが、風呂、シャワーが壊れた、ゆうて、ほら、そこに銭湯あるやろう、あそこへ行ってもらうんや、銭湯代、ホテルが持つってゆうて。そしたら、靴を脱ぐ。下駄箱の鍵くらいは、簡単に開けられるから、踵から、宝石だけ取り出す。替わりに贋もんの石入れとこう」

「小政さん、好きですねぇ、そうゆう、芝居めいたこと、この前の、石さん使うて、狂言書いたり……」

「そんな、めんどいことせんでも、部屋忍び込んだら、すぐやのに……」

「あかん、理由はどうであれ、盗みは犯罪行為やき、ムッちゃんにはやらせられん」

「そうですよ、僕もそれは反対です。刑事として、見逃せませんき……」

「わかったワ、面倒でも、風呂屋へ連れ出す作戦、協力するワ。下駄箱の鍵くらい開けるのは見逃してよ、勇次はん……」

 睦実の流し眼に、勇さんがドキッとする。

(みっちゃん、御免、浮気やないき……)と、心で叫んでいた。

      *

 勇さんは、喫茶店のピンク電話から、県警本部へ連絡を入れる。風野が怪しいことを話し、風呂屋作戦を説明すると、課長が承認してくれた。

「ちょうど、エイワ。今、大阪府警から、担当刑事が来てる。応援のもんと一緒に、そっちへ行かすき、頼むでぇ。それと、風野が風呂行ってる間に、ホテルの部屋、調べさせるわ。

 さかもっちゃん、最近、やるねぇ。エエ、ブレーンが居るそうやいか、人徳かえ?例の旅館のばあさんのおかげかえ?」

 課長の言葉に、返事が出来ず、ほいたら、と、受話器を置く。

 睦実は、喫茶店を出て、ジョンの背中を撫でている。ジョンに、靴に宝石、隠してるんやな、と、小声で尋ねると、ジョンが、小さく「ワン」と啼いた。「イエス」である。

 小政は、テーブルを、指で叩いている。ピアノを弾くように、リズムを取っている。ホームズが、バイオリンを弾く、そんな感じで、次の作戦、事件の展開を、考えているのである。勇次が指摘したように、小政は、狂言を書くのが、好きなのだ。そして、その才能があり、冷静に、現実的な作戦と、突発的な、リスクへの対応を練っている。

「問題は、その、A、とゆう男やな。得体の知れん、プロらしい男。そいつが、この近辺に居るかもしれん。いや、危険は冒さんから、何らかの、連絡方法があるんやろうな。そいつも掴まんと、宝石手に入れても、事件は解決せん。ううん、何ぞ、エイ方法ないか、そいつを誘い出す手立て、浮かばんなぁ……」

「小政さん、何、ひとり言、言いゆうがです?応援頼みましたよ。それと、大阪の担当刑事も来るそうです」

「ああ、わかった、ホテルの方は、勇さんらぁに任す。下駄箱の鍵は、任しちょいてくれ。それと、適当な小石も探しとくワ。

 それより、共犯者、いや、殺人の主犯の方や。どうやって、おびき出すか?風野に連絡さすしか手がないがやけんど、そこの狂言が、まだ、思い浮かばん」

「それ、ウチに任して。エイ手があるんよ。もうすぐ、来ると思うから……」

「ムッちゃん、誰が来るんねん?」

「ウチとこの、配下のもん、呼んでるねん。そいつ、風野と体形似てる。ちょっと、特殊な化粧したら、本人そっくりになれる。宝石見つけたら、風野を警察へ引っ張る。それから、解放されたように見せかける。出てくるんが、ウチの手のもんの変装した、風野や。共犯者は、風野と思うて、連絡してくるはずや。警察の状況、知りたいからな」

「そ、そりゃあ、面白いけんど、そんなにそっくりに化けれるもんかエ?」

「忍びの技術(わざ)、舐めたらイカンぜよ、て、土佐弁、どうや?」

「か、格好エイです。石さんの、弁天小僧より、エイかも……」

「勇さん、ありがとう」

 にっこり笑う、睦実の視線に、またまた、勇さんは、メロメロである。みっちゃん御免も、今度は浮かばなかった。

 そこへ、店の入り口から、コート姿の二人づれが入ってくる。

「ひと目で、刑事とわかるな。勇さん、あれはイカンでェ。課長さんにゆうとき、犯人に警戒されるき」

 と、小政が笑いながら勇次に囁く。

 刑事二人は、車は目立たぬ、自家用車であったが、服装は、いつものままである。

(確かに、ひと目で、刑事とわかるワ)と、勇次が、頷く。

「坂本さん、こちら、大阪府警の、御堂刑事です。御堂筋の、御堂だそうです」

 と、勇さんの傍に寄って来た若い刑事が、連れの男を紹介する。

「初めまして、大阪府警の御堂慎一です。坂本さんの噂は、府警でも有名ですよ。○○組、幹部の野望、打ち砕いた、名物刑事やそうで……」

 と、府警の刑事が、右手を出して、握手を求める。年は、勇さんと同じくらいの青年刑事であるが、額が広い、若禿げの傾向やな、と、睦実が、値踏みをする。

「は、初めまして、坂本です」

(勇さん、相手が府警やゆうて、ビビってどないすんねん。土佐の男やろう、坂本龍馬の末裔です、ぐらい、ホラ吹かんかい!)

 睦実は、勇さんを応援してるのか、けなしてるのか、わからない。まあ、勇さんを気にかけているのは、確かである。

 御堂と名乗る刑事が、傍のふたりを不思議そうに眺める。

(勇さん、早う、紹介せんかい。ウチらぁ、怪しいと思われてるやん!)

「あっ、こちらは、小政さんと睦実さん、捜査の協力者ですワ。まあ、私立探偵、ホームズさんと、ワトソンさん、いや、ミス・マープルさんのような方たちですワ」

(全然、駄目や。小政は通称やろう。それに、ミス・マープルはウチやのうて、千代姐さんやろう、既婚者やけど……)

「ははは、小政は、通称です。本名は、政司です。山長商会ゆう、会社の従業員ですワ。坂本さんとは、以前から、懇意にしてもろうてて、お手伝いできること、とても、ホームズ、とはいけませんが、ほんの、使い走り、銭形平次の『ガラッ八さん』ですワ。まあ、よろしゅう」

(巧いなぁ、小政さん、尊敬するワ。どんな相手でも、態度変えん。媚を売るでもなし、偉そうにもせんし……。ウチ、このひとでもエイワ、結婚の相手、ボンは無理やから、二番目にしとこう……)

「ああ、例の長吾郎一家の方ですね?土佐の次郎長、有名な?」

「えっ?いや、ウチとこは、土建屋ですき」

「いやいや、唯の土建屋やない、先代は有名な侠客。今の社長さんも、警察の上層部も頭上がらん、大物やそうですろう?なあ、野上さん」

 と、一緒に入って来た、若い県警の刑事に確認する。野上と呼ばれた刑事は、返答に困っている。

「それより、御堂さん、大阪の事件、って、どんな事件ながです?風野、ゆう宝石商が、絡んでいた、いや、疑われた、そうですけど……」

「ああ、そうですワ、まだ、銭湯へ誘いだす作戦には、早そうやから、簡単に説明します」

 御堂刑事と、野上刑事が小政たちのテーブルに腰を下ろす。六人が座れるスペースに五人。テーブルには、小政の飲みかけのコーヒーカップがあるだけである。

 睦実が気を利かし、「コーヒーでいいですか?」と、二人の刑事に尋ねる。肯く仕草に、手を上げ、ウエイトレスにコーヒーを五つ、と注文する。小政のコーヒーは、冷めていたのである。

「実は、大阪市内で、盗難事件がありました。去年の暮れの事です。ある、貿易商の豪邸に夜中、賊が忍び込んで、何かを盗んだようです」

「何かって、何を盗まれたんです?」

「それが、盗難にあった本人が、言わんのです。いや、結果的には、盗まれたもんはない、ってことで、被害届は出ませんでした。賊が侵入した、それだけの事件です」

「へえ?それだけの事件で、この土佐まで、刑事さんが来るとは、おかしいですねェ」

「流石、長吾郎一家の軍師さんや」

「えっ?私が、軍師、って、どうして……?」

「いやいや、小政さんのことは、県警の課長さんから聴いてますよ。この前の『偽装心中事件』と『人身売買事件』。坂本さんの陰で、指令出してた人物がいる。それが、山本長吾郎一家の、通称、小政、ゆう、切れもん。お会いできて、光栄ですワ。

 いや、小政さんのご指摘どおり、被害届の出てない事件で、土佐まで来ることはありません。実は、事件発生時、ちょうど、年末の警戒に当たっていた、警ら中の警察官が、泥棒、とゆう、叫び声を聴きつけ、現場に直行したんです。それも、二人の警官です」

 御堂刑事の話は、こうである。

 二人の警察官が、声のした方向へ駆けつけると、黒装束の男が、高い塀を乗り越えて、道路へ飛び下りて来たところであった。

 警官の靴音と手に持っている、懐中電灯の光に気づいて、賊は反対方向へ走り去って行く。警官二人が、その後を追いかけた。

 足の速い男である。が、こちらの警官のひとりは、高校の府の陸上大会で、百メートル競技、二位の実績の持ち主であった。

 追いつける、と思った、そのあと、四辻を曲がった賊に迫って、角を曲がる。

 二、三十メートルもなかった距離が、角を曲がった時には、五十メートルほど、差が付いていた。そして、賊は、次の角を、曲がって行ったのである。

 五十メートル先の角を、元、陸上部の警官が曲がった時には、賊の姿は、もう、見えなかった。小さな路地が、そこからは、沢山あり、どの路地へ入ったか、見当がつかなかったのである。

 しかたなく、元の屋敷前に戻って、泥棒、と声を上げた者を捜す。それが、その屋敷の使用人であり、そこが、かなり有名な、貿易商人の豪邸だとわかったのである。

「その使用人は、賊が、ベランダから侵入し、寝室の金庫を開け、中の物を盗んで行った、と警官に告げたのです。そこで、非常線を引いたのですが、その後、帰って来た、貿易商の主が、金庫の中を検め、盗まれた物はない、と証言して、家宅侵入罪の容疑だけになったんです。その後、それも、被害届を出さず、事件とはなりませんでした」

「えっ、では、何故、風野が疑われたのですか?」

「その、非常線に引っ掛かったのが、風野です。ただ、本人は、宝石の訪問販売のあと、近くの飲み屋で飲んでただけや、と証言して、確かに、その店にいたことは、判明しました。が、そのアリバイは微妙でした。犯行時間、金庫を開ける時間を含めると、アリバイが成立する、そのくらいの時間なんです。警官が、賊と出会った時間には、店を出ていたようなんです。が、犯行におよぶには、時間が足りそうにない、それで、逮捕できなかったところ、被害届が取り消された訳ですから、無罪釈放です」

「いやいや、それでも、おかしいですよ。それなら、こうして、御堂さんが、ここにいる、理由がないことになりますよ」

「ええ、実は、その貿易商に、別件の疑いが出て来たんです」

「別件とゆうと?」

「密輸です。海外から、宝石を密輸していた、疑いが、別の捜査の過程で浮上してきたのです。その、密輸品が、『サファイヤ』なのです。かなりの大きさの物らしいのです」

「つまり、盗まれたのが、密輸した『サファイヤ』だったため、被害届が出せなかった、とゆうわけですね?」

「そうです。と、断定はまだできないのですが……」

「そして、やはり、盗難事件に風野が関係しているって、判断したのですね?」

「ええ、盗まれたのが、宝石、風野は宝石商。偶然の一致とは、考えられません。それと、犯人の異常な足の速さ、こいつも、首を捻っているんです。あの警官より、足の速い泥棒が、大阪にいるとは、思えないんです」

「それ、トリックですよ」

 と、睦実が口を挟む。

 御堂刑事が、訝しそうに睦実の顔を覗う。

「ほう、トリック?どんなトリックですかな、ミス・マープルさん?」

「一人二役、ならぬ、二人一役ですよ。

 つまり、賊は二人、あるいはそれ以上いたのです。警官に見つかった、屋敷に侵入した賊、これを、A。それとは別に、同じ格好、おそらく、体型も良く似たもう一人、B……。

 Aが塀沿いに走り、角を曲がる。そして、塀際に隠れるんです。Bはそこから、数十メートル先に待機していて、追手の警官が角を曲がった時、猛然と走りだす。警官は、賊に離されたと思って、Bの後を、全力で追いかける。Aはその隙に、別方向へ逃げる。警官は、Bには追いつけず、賊を取り逃がす。そういう展開ですね」

「しかし、Aが、隠れる場所なんてありませんよ。高い塀が続く屋敷町でしたから……」

「でも、電信柱はあったでしょう?そして、暗闇だったし、塀の色と同じような色の、布を広げて、電信柱の陰で、それに身を包むように隠れる。穏形の術、ですね」

「ば、ばかな、それじゃあ、賊は、忍者じゃないですか、マープルさん、立川文庫の講談本、読み過ぎですよ。この、二十世紀の世の中に、忍術使いが居りますか?」

「まあ、まあ、御堂さん、そうゆう、考え、推測もできるってことですよ」

 と、睦実が、自分の家系の話をするのを、牽制するように、小政が、場を繕う。

「今回の、事件でも、どうも、共犯者がいるようなんですよ。もし、風野が、その大阪の事件に係わっているなら、おそらく、風野は、共犯者の方ですね。実行犯は、プロの盗賊でしょうから」

「そうですよ、アリバイ工作も、今回の事件とよく似てますもの。同じく、酒の席が使われています」

 と、睦実が、小政の推理を補足する。

「そう言えば、そうですね。その、マープルさんが言ってた、Bの方が、風野なら、アリバイは、崩れますから……。いや、坂本さん、あなたには素晴らしい、ブレーンがいたんですね、こりゃあ、警察、顔負けですわ。その推理、戴きます」

「ただ、その、主犯格のAとゆう人物、多分、風野によく似た体形をしている男でしょうが、そいつの正体が解らない、警察では、どうながですか?前科のあるもんで、そうゆう、盗みのプロの絞り込みとかは……?」

「ええ、前科もんは、リストアップしてます。居場所が解っているもんを消して行って、残ったもん、ですが、絞り切れん。いや、該当者が居らん、とゆうのが、実情です。まあ、もう一回、風野に似た体形の男、洗い直すことになるでしょうが、前科のないもんかもしれません」

「そこで、御堂さん。その男を、誘いだす、手立てがあるんですが、ご協力、とゆうか、我々に任してもらえませんか?決して、非合法なやり方はしませんから。坂本刑事には、了承、得てますから……」

 いや、まだ、詳細は話していない。勇さんは承認していないが、目配せをして、勇さんに黙っていろ、と、小政が伝える。そこは、勇さんも小政の性格は充分、把握している。

 勇さんが軽く、肯く。それを、御堂刑事は、承認している、とゆう、肯きと勘違いしてくれた。

「なるほど、坂本さん、承認の計画ですか。それは、是非、拝見したいな。いや、おそらく、秘密の部分が、お有りでしょうな。だから、任してくれ、であって、協力してくれではないんですね?わたしは、地元の警察の捜査には口出ししませんよ。坂本刑事の思うようになさってください」

「ところで、ホテルの方は?」

 と、勇さんが野上刑事に尋ねる。

「ホテルとの交渉は、杉下さんが行ってます」

 と、緊張した声で、若い刑事が答える。

「杉下さん?何で、マル暴の杉下さんが出てくるんや?」

「そ、それが、坂本さんの電話、杉下さん、傍で聴いてて、坂本の活躍、是非、見させてくれ、あいつのお陰で、マル暴、暇になってるんや、ゆうて、勝手に、役、決めてしまったがです」

「マル暴が暇?」

「ええ、○○組、最近、大人しゅうしてるみたいで、この前、幹部、二人と、組員数名、逮捕されましたき、坂本さんのお手柄で……」

「けど、杉下さんやと、刑事、モロ、わかってしまうやないか、あの人ほど、刑事らしい人居らんから……」

「そ、それが、着替えて、髪型、オールバックで、油で固めて、黒シャツに、白ネクタイ。スーツは、バーバリィー、って言ってました。バーバリィーって何です?」

「野上、俺らぁには、一生縁がない、イギリスのメーカーやき、知らん方が、幸せよ。

 けど、その格好、まるで、ヤーさんやいか。いっつも、杉下さんがおわえゆう方の格好やいか」

「そうながです、おまけに、レイヴァンのサングラスで、完璧、ヤクザですわ。ホテルの支配人、ビビってますよ、きっと……」

      *

 その時、店先にいた、ジョンが吠える声がした。

「あら、ジョンが啼いてる、どないしたんやろう?ウチ、見てきます」

 と、睦実が立ち上がり、店先へ出て行く。

「ジョン、どうしたん?」

 と、睦実は尋ねながら、ジョンの視線の先を見つめる。ジョンは店の前の電線を見上げているのである。そこに、黒い鳥が止まっている。

「あっ、九ベエや。あの鳥、ウチのもんが飼ってる、カラスやない、九官鳥と思う、鳥や。ジョン、よう、気づいたな。九ベエが居る、ちゅうことは、十兵衛も居る、ちゅうことや。あっ、あそこの、電信柱の陰に居るんが、十兵衛や。ジョン、ありがとう、ほんま、賢い犬やな、おまえ……」

 街角の電信柱の陰で、電柱の広告を眺めている、中年の、中肉中背、黒い着流し姿の男の方へ、睦実は小走りに近づいて行く。

 その男と、二言、三言、小声で話し、ふたりは元の喫茶店に入って行った。

「小政さん、ウチのもん、で、十兵衛、いいます。こいつ、無口で、喋りませんけど、役に立つ男です。例の件に使うてください」

 睦実が、連れの男を紹介する。男は無言で、深く頭を下げる。まるで、渡世人のようである。無口なのは、声を聴かれないためのものらしい、つまり、忍びの心得というものなのである。

「なるほど、体型が、似てますね。うん、あとは、技術、とやらを見せて貰いましょう。そうだ、十兵衛さんに、まず、お願いしよう」

「えっ、何を?」

 と、睦実が尋ねる。他のメンバーは、小政の会話の意味が、良くわかっていないように、キョトンとしている。作戦を知っているはずの勇さんまで、理解できていないのだから、無理もない。

「今から、少ししたら、あのホテルから」

 と、金陵閣を指さす。

「男が出てきます。その男は、こっちにある、銭湯へ行くはずです」

 と、今度は、松の湯という、銭湯を指さす。

「その男に付いて、十兵衛さんも銭湯へ行ってください。その男を見張ると同時に、合図をお願いします」

 つまり、風野が銭湯へ行き、湯船の方へ入ったところへ、小政と、睦実が、下駄箱から、靴を盗むのである。そのタイミングを知らせるため、そして、風野の裸を眺め、変装のための、幾つかの事柄、身体のアザ、歩き方の特徴、癖、などを観察するのである。

 その意を察して、睦実が、十兵衛の耳元で、小声で伝える。刑事達には聞こえない、囁きである。

 十兵衛が肯き、

「合図に、『お富さん』歌うそうですわ」

 と、睦実が、笑顔で小政たちに告げる。

 十兵衛が、少し、顔色を変える。驚いた顔であるが、一瞬で元に戻る。

(ムッちゃん、勝手に決めたな)と、小政は、すぐに察した。

「じゃあ、そうゆうことで、我々は次の準備に掛かりますき、風野の方は頼みます。三十分後にまたここへ来ますき」

 小政は、睦実と十兵衛、そして、店の前のジョンを連れて、一旦、店をあとにする。

 電線で、「カァ」と鳥が鳴く。

「小政さん、あれ、九ベエゆうて、十兵衛が飼ってる、カラスですねん」

「へぇ、いや、カラスやのうて、九官鳥やろう、嘴、黄色いで」

「だけど、喋りません。色も黒すぎるし、ひょっとしたら、合いの子かも……」

「そうかぁ、合いの子って、居るんやろうか?まあ、エイわ、それより、準備や。十兵衛さん、着替えと、化ける準備。それと、贋の宝石、見繕わないかんきね」


       8

 杉下刑事の完璧なヤーさん姿に、ホテルの支配人はビビってしまって、小政の計画、銭湯誘導作戦はすぐに応諾、開始された。

 ボーイが、各、客室を廻り、シャワー、給湯の工事のため、使用できない旨を通知する。そして、近所の「松の湯」の入浴券を配ったのである。

 風野は、怪しむ事もなく、夕食前の時間帯に、ホテルを出て来た。車で待機中の、野上刑事が無線で勇さんに知らせる。

「ここからは、わたしらぁに任してくれ」

 と、小政が言った。

「はい、僕らぁは、ホテルの風野の部屋、捜査しますき、よろしく頼んます。ジョン君、連れて行きますき、もし、サファイヤを置いてたら、すぐわかると思います」

「ジョン、頼んだよ」

 と、睦実がジョンの頭を撫でる。

 小政、睦実、十兵衛の三人は目立たない服装にしている。十兵衛は作業着姿である。山長商会の従業員用の物である。小政と睦実は、一見、新婚の夫婦のような、お揃いのセーター姿、それぞれ、銭湯用の手桶を抱えている。

 風野もタオルを肩にかけて、ホテルから出てくると、まっすぐ、松の湯に向かう。予定どおり、と、思われたが、風野は松の湯を通り過ぎてしまった。

「おや、素通りやな。一応、警戒してるみたいや。やっぱり、唯の宝石商とは違うな」

 小政は、こんなこともある、と予想していたようだ。尾行を悟られぬよう、三人は離れて歩いている。十兵衛などは、まったく、風野に注意を払っていないかのように、のんびり、街の風景を眺めながら歩いている。睦実も、商店があると、ウインドウ越しに、商品を眺めたりしている。

 尾行のプロのようやな。と、小政は感心する。自分一人が、風野に集中し過ぎていることに気づかされたのである。

 ジョンがいれば、もっと離れて、尾行できる。しかし、万が一、風野がサファイヤを、靴の踵から、別の場所に移している可能性を考え、ジョンは勇さんのほうに預けて来たのである。

 だが、風野の行動を見て、サファイヤは、まだ、靴の踵にある、と、小政は確信した。

 風野は、少し足早に、街角を廻り、もう一軒の、銭湯に入って行った。そこは「吉野湯」と看板のある銭湯である。

 十兵衛が足早に、小政を追い越し、目配せをして、「吉野湯」の暖簾の掛った硝子戸をあけ、中に入って行った。

 風野は靴を脱いで、一番上の、一番端の下駄箱に踵の高い、皮靴を仕舞い、鍵を掛けるところであった。鍵が掛かっているのを、もう一度確かめて、男湯と書かれた、暖簾を潜り、番台に座っている、年寄に、小銭を払う。

 十兵衛はゆっくりした動作で、それに倣うように、下駄箱の鍵を掛け、同様に小銭を年寄に手渡した。

 小政と睦実は、まだ硝子戸の前で待っている。

 数分後、

「粋な黒塀、見越しのまぁつに……」

 と、「お富さん」の歌が、中々、渋い節回しの声で聞こえて来た。小政にとって、初めて聴く、十兵衛の声である。

「へえ、十兵衛さん、歌、上手ですね」

 と、隣にいる睦実に話し掛ける。睦実は唯、笑っている。

 ゆっくり、硝子戸を引き、中に入る。

 下駄箱の、一番上、端の扉に、赤い頭の針が刺さっている。十兵衛の目印である。そこに、風野の靴が入っていることを伝えている。

 小政はその隣の箱に自分の靴を入れようとして、まごついている、振りを装う。下駄箱の鍵は簡単な構造になっている。睦実と石さんから、開け方を伝授してもらった。細長い、金属棒で、鍵を操作し、何なく、風野の下駄箱を開けるのに成功した。時間は掛けられない。一旦、風野の靴を取出し、別の箱に移す。そうして、何事もない振りをして、番台へ進む。

「あっ、いけねえ、銭、忘れた、ちょっと、取って来るわ」

 と、踵を返し、下駄箱から、風野の靴を履いて、表へ出て行く。

 睦実は、外で待っていた。

 すばやく、靴の踵を調べると、踵が、踵の先を中心に、右へ百八十度、回転するようになっている。右足の靴に、皮の袋に入った、宝石があった。サファイヤである。

 小政はズボンのポケットから、小石のようなものを取出す。いくつか、片手に乗せて、重さを量ってみた後、「これにしよう」と、その中の一つを、袋に入れ、踵を元に戻した。

「左も見てみます?」

 と、睦実が言う。

 小政が急いで、左の踵を開ける。同じような、皮の袋があり、中には鍵が入っていた。

 取敢えず、鍵を取出し、小さい石を入れ、元に戻す。そして、ふたたび、硝子戸を開け、今度は、ふたりで、下駄箱の前に入って行った。

 そして、風野の靴を元の、一番上の端の下駄箱に戻し、鍵を掛ける。開けられた、形跡は、一切残っていない。

「あんた、銭湯代もたんと、慌て過ぎや」

 と、睦実が、少し、大げさな芝居をする。

 番台の年寄が、その言葉に笑顔を浮かべ、

「旦那さん、尻に敷かれてますなぁ」

 と、小政に囁いた。

      *

 小政が、脱衣場から、浴室へ入って行くと、カランの前で、風野と十兵衛が並んで座っている。何と、十兵衛が風野の背中を流しているのである。初対面の男に対し、風野が背中を預ける、どういう術を使ったんやろう?と小政は不思議に思った。

 自らは、少し離れたカランの前に座り、桶にお湯をため、身体を洗い始める。

 身体を洗い終わった、風野と十兵衛が広い湯船に一緒に入って行くのが、横目に見えた。どうやら、春日八郎や、三橋美智也といった、歌謡曲の話をしているようだ。例の「お富さん」が、思わぬ効果を生んだのかもしれない。

 小政は、すばやく、身体を洗い終え、湯船につかる。カラスの行水で、

「おさきに」と声を掛け、浴室を出て行く。客は、他に、白髪頭の年寄がひとりであった。

 脱衣場で服を着ていると、女湯の方から、

「マサさん、もう出ますか?」

 と、睦実の声がする。睦実も、カラスの行水らしい。

「おや、夫婦揃って、速い湯だね。ゆっくり、浸かってりゃぁいいのに、一時でも、離れているのが、寂しいのかい?若いっていいねえ」

 いつの間にか、番台は、初老の婆さんに代わっている。さっきの老人は亭主のようだ。少し早い、夕飯、なのだろう。

「ええ、側にいないと、心配でね。分不相応のきれいな女房をもらったもんで……」

 小政が、愛想笑いをしながら、女将さんに話しかける。

「いい湯でしたよ」と言って、小政が一足先に下駄箱から、今度は自分の靴を取出し、玄関の硝子戸を開け外に出る。

 続いて、睦実が、濡れた髪を気にしながら、表に出てくる。ふたりは手を取り合って、夕暮れ近い街並みを、金陵閣のほうへ歩いて行った。

       *

 ホテルの前の喫茶店で、ふたりは、冷たい飲み物を飲んでいる。小政は「レモンスカッシュ」睦実は「ミックスジュース」である。

 そこへ、勇さんが入って来る。

「どうでした?」

 と、さっそく、作戦の成果を聴く。

「ああ、思ったより、簡単やったき。そっちは?」

「ええ、ジョン君のおかげで、黒ぶちの眼鏡、ベッドの隙間から見つけましたワ。これで、質屋へ来た客は風野に間違いないです。あと、灰皿に、紙を燃やした跡があって、焼け残りを採取しました。どうも、質屋の預かり証のようです。文字は見えませんが、紙質とか、検査したら、同じもんかわかると思います」

「そら、すごいやんか。ほいたら、逮捕状、貰えるかな?」

「杉下さんが、まだ無理やろうって、言ってます。けど、家宅捜査の令状は降りる。そこで、もう一度、この部屋を調べる振りをして、眼鏡、紙切れを発見したことにすれば、任意で、署へ同行願えますか?って出来るそうです」

「そいたら、ついでに、この宝石も、部屋で見つけた事にしよう。靴を調べさせてください、ゆうたら、そりゃぁ、観念するかもしれんぜ」

「そ、そうですね。今、令状、貰いに行ってます。風野が帰ってきたら、すぐに踏みこみますき、小政さんらぁはどうします?」

「そうやな、わたしは、刑事の振りして、入れて貰おう。ムッちゃんと十兵衛さんは、ジョンと待機や。ひょっと、共犯者が、いや、主犯格が、様子見に来てるかもしれんきね」

「それと、例の鍵は?」

 と、睦実が尋ねる。

「うん、手に入れたけど、靴、調べる時に、一緒に見つけたことにして、何処の鍵か、問い質すんも手かな……」

「一応、型とっときましょう。合い鍵、作らないかんと困るから……」

 睦実は手提げのバックの中から、粘土状の物を取出し、小政の持っている鍵の型を取る。

「へえ、何でも持ってるんやな、たいしたもんや」

 、と小政が感心する。

 そこへ、十兵衛が店に入って来る。風野がその後方を帰って来ているのを、知らせに来たのである。

 睦実は、今、型を取った、粘土を渡して、十兵衛の耳元で何かを囁く。十兵衛はすぐに店を出て行ったが、すぐに帰って来た。手に粘土はない。

「もうひとり、仲間がいますねん。そいつに合い鍵作るよう、頼んどきました」

 小政の訝しげな顔を察して、睦実が先に説明する。

 そう言えば、何人か配下のもんを呼んでる、と言っていたことを思い出した。その者たちの気配は、まったく、小政には解らないのであるが……。

 野上刑事が入って来る。

「令状、届きました。杉下さん、張り切り過ぎてますよ」

「は、ハマさんは?」

「それが、連絡したんですが、俺は、熊蔵から眼を離せれん、ゆうて、こっちは、さかもっちゃんと、そこの、小政さんに任す、って、言ってます」

「まあ、エイか。最終的に犯人逮捕して、その手柄、ハマさんのもん、ってことにしたらエイんやから。ほいたら、行くで、廻りは、固めてあるな?逃亡はせんやろうけんど……」

「だ、大丈夫です。坂本さんも気ィつかいますねェ」

「お前も、そのうち、こうなるちや、年功序列の世界やき……」

       *

 杉下刑事はシャツをワイシャツに着替えているが、バーバリーの背広、レイヴァンのサングラス、オールバックの髪型はそのままである。刑事というより、やはり、ヤーさんである。

 その杉下刑事を先頭に、坂本刑事、野上刑事、小政、そして、大阪府警の御堂刑事の五人が階段の陰の廊下に並ぶ。風野の帰りと同時に、坂本刑事が部屋をノックした。

「風野さん、県警の坂本です。家宅捜査の令状です。しばらく、お付き合い願いますよ」

 唖然とする、風野をよそに、五人の男が、部屋の捜査に入る。野上刑事は、備え付けの引き出しや、クローゼットを捜査する。御堂刑事は、浴室を覗う。

「ほう、こんなとこに、妙なもんありますね、これ、風野さんのですよね」

 と、白々しく、杉下刑事が、ベッドの隙間から、黒ぶち眼鏡を取出す。

「あっ、そんなとこに落ちてたのか、捜してたとこですわ」

 と、風野が、杉下刑事から、眼鏡を受取ろうと手を伸ばす。

「おっと、大事な証拠品です。この眼鏡、質屋の客が掛けてた眼鏡、そっくりですなぁ。普段、眼鏡なぞ、掛けてないようにお見受けしてましたが、なるほど、変装用ですか?預かっておきますワ」

 風野が、何か言い訳をしようとしていると、

「杉下さん、灰皿にこんな焼け残りの紙が……」

 と、野上刑事が、焼け焦げた紙を抓んで持って来る。

「ほう、これも、質屋の預かり証と、ように似た、材質の紙ですなぁ。今、ここに、同じもん、持って来てるんですワ、比べてみましょうか?」

 と、ポケットから、一枚の白紙の用紙を取出す。

「全く同じ、材質ですなあ。これ、どうゆうことですろう?風野さん、あんた、質屋へは行ったことないって、言ってましたよねェ。指紋も採取できるかな?殺された、質屋の主人のもんが、出てきそうや。

 そうや、ついでや、今、履いてる、靴、ちょっと、脱いでくれますか?それと、身体検査もさせて貰いますわ。状況、かなり、変わってますからねェ」

 有無を言わせない、杉下刑事の強面の顔、いや、サングラスで、本当の表情は、測れないのだが、風野は大人しく、靴を脱ぎ、小政に手渡した。小政も刑事と思っている。

 小政は、靴を弄りながら、偶然を装い、踵の操作を発見する。そして、革袋に手を突っ込み、握っていたサファイヤをそこにあった物のようにして、取出して見せた。

「ほ、ほほう、凄いお宝ですなあ?風野さん、説明してもらえますか?何で、靴の踵にこんな高価な宝石があるんですか?」

「と、盗難除けや。アタッシュケースに入れてたら、追剥に逢う可能性もある。夜中に、泥棒が入る可能性やて、あるんや。そのため、一番高価なもん。こうして、隠してるんや。自己防衛や、何が悪いねん?」

「中々、の言い逃れですなあ。けど、あきませんでェ。こちらに居る、大阪府警の刑事さんが、この宝石、盗難届が出ている宝石や、って、証言してくれますきね……」

「な、何やて、盗品ってゆうんか?どこに、盗品、って、書いてるねん。これは、正規のルートで仕入れたもんや」

「残念ですね、風野さん。一般的な、大きなサファイヤやったら、そう、言い逃れもできましたろう。けれど、こいつは、世界に二つとない、宝石ですねん。蒼いサファイヤの中に、白い線が入っている。猫の眼のような、大変珍しい、宝石ですねん。インターポール、知ってますか?国際警察機構ってとこから、照会が来てましてね。盗品が、密かに、日本へ持ち込まれた、って、情報が、去年の暮に入っているんですワ。この前、事情聴取した、盗難事件、憶えてますか?あの屋敷に、この宝石が運び込まれていた。そこまで、大阪府警は調べ付いてるんですワ。風野さん、観念して、詳しい話、署で、聴かせてもらえますか?逮捕状いるなら、すぐにでも、出してもらえますよ。これだけ、証拠あるんですから、いかがですか?」

 御堂刑事の説明に、風野は何も言えない。野上刑事が肩を叩き、連行する運びとなる。

「あれ、片一方の足には鍵が入ってましたよ。何処の鍵ですか、風野さん?」

 部屋を出て行こうとしていた、刑事と風野に小政がそう問いかける。

「し、知らん」

 と、風野は呟き、廊下へ出て行った。


      9

 県警の取調室。風野は黙秘を続けている。いや、宝石は、ある人物から預かって、金に換えてくれと頼まれた物である。出処は、詮索しない主義である。その人物の名は、言えない。商売上の、守秘義務がある。と、そこまで供述し、あとは、ダンマリである。

 靴の踵に入っていた、鍵についても、知らない、袋のまま、大事な物として、預かった物だと、主張した。

「ワシには、アリバイがあるんやでェ。犯人なわけないやろう、冤罪や」

「ええ、実行犯やない、かもしれませんが、共犯者、ってことは、充分証明できますよ。それなら、アリバイは成立しません。あなた方の、やり口は、とっくに、判明しているんです」

 御堂刑事が、大阪の事件の二人一役を、さも、自分が発見した推理のごとく、風野に話す。そこから、風野の黙秘が始まるのである。

 別室のマジックミラー越しに、黒ぶちの眼鏡を掛けている――杉下刑事が、掛けるよう指示した――風野の顔を、毎度屋の小僧、伸介に確認させる。

「こ、このひとです」

 と、伸介は震えながら、そう、証言した。

「これで、風野が事件の共犯、てのは、確実ですね。あとは、主犯の男を、どうやって逮捕するか、小政さん、エエ知恵、浮かびましたか?」

 別室には、坂本刑事、小政、睦実、そして、十兵衛が伸介を庇うように、マジックミラーを覘いているのである。

「このままでは、埒、明きませんね。十兵衛さんにお願いしましょう。それと、例の鍵、合い鍵、作りましたから、何処の鍵かわかれば、こちらで、何とかなりますよ」

 十兵衛の顔は、既に、風野の顔に変えられている。今は、黒ぶちの眼鏡ではなく、サングラスを掛けているが、完璧な変装術である。しかも、風呂屋で確認した、右肩の痣、左腕の、内側にある、傷跡も、かなりの正確さで、再現している。

「今、捜査員、挙げて、鍵の場所、当たっています。おそらく、ロッカーの鍵やと思いますき、駅、百貨店、その辺から、捜してますワ」

「そしたら、風野はこのまま、拘留。鍵の場所がわかったら、十兵衛さんが、風野の振りして、その、ロッカーへ行く。主犯の男は、きっと、連絡してくるはずです。あとは、十兵衛さんと、どう連絡するかやが……」

「大丈夫、九ベエが居りますから」

 と、睦実が言う。

「あの、カラスと九官鳥の合いの子?けど、鳥やから、夜は無理やろう?」

「大丈夫ですよ、夜でも。それと、十兵衛の周りには、他のもんが、人目につかんよう、常に行動してます。そこが、我々の組織ですから」

「へえ、忍びの組織って、凄いんですね?」

「そうや、勇さん、頼りにしてエイよ。それに、十兵衛は、武道百般。素手で戦うたら、負けることないよ」

「まあ、いざとなったら、ジョンも居るき、心配はいらん。下手に、尾行など付けんと、十兵衛さんに任しておこう」

「坂本さん、鍵の場所、わかったそうです」

 と、静かにドアを開け、野上刑事が、報告に入って来る。

「何処や?」

「大丸の、屋上にある、ロッカーだそうです。どうします?すぐ、押さえますか?」

「いや、課長には承諾貰ってる。ここからは、隠密行動や。この十兵衛さんにお願いする」

「坂本さん、エイなあ、こんな、捜査員、どこの警察にも居りませんよ。今度、僕が担当する事件が起きたら、お願いしますよ」

「野上、今回は特別や、ハマさんの昇進が掛かってるんやから。僕も、しょっちゅう、お願いするわけにはいかんのや、会社員なんやで、小政さん」

「ははは、まあ、千代さん次第ですね。わたしらぁは、千代さんに付き合うちゅう、ってところですき……」

       *

 翌日の、午前の時間、警察署の玄関から、風野に変装した、十兵衛が現れる。一晩、事情聴取を受け、朝の取り調べの後、釈放された、そういう、設定である。

 十兵衛は足を、帯屋町の方へ向ける。大丸へ向かうのである。刑事の尾行があるはず、それをまくのに、おそらく、風野がするであろう行動を起こす。

 朝から開いている、喫茶店に入り、奥の席を捜すようにして、裏口から出るのである。そうして、遠回りをして、大丸の北口から入り、エスカレーターを利用して、屋上へ上って行った。

 大丸の屋上には、観覧車が廻っている。小さな遊園地のような、娯楽施設がある。今日は平日で、子供の姿はない。昼休みには、まだ少し早い時間帯である。だから、何人かの主婦らしい女性と、就学前の子供が連れだって、遊具の前にいるくらいであった。

 問題のロッカーは、階段口の側のロビーに並べられていた。鍵は、その内の、十三番のものと判明している。

 十兵衛はさり気なく、周りに注意を払いながら、鍵を鍵穴に差し込み、右に捻る。鍵の外れる音がする。ゆっくり扉を開くと、中には折り畳まれた、白い紙が入っているだけである。

 指紋を消さないように、注意深く、端っこを指で摘み、紙を取出す。ありふれた、横書きの便せんである。二つに畳まれた、その用紙を注意深く開くと、定規を当てて書いたような、四角い文字の列がある。

「二月八日、午後四時、桂浜、竜王岬にて」と書かれていた。

 八日は今日である。時間は、まだ充分、間に合う。大丸前からすぐの堺町バス停から、桂浜行の県交通のバスが出ている。十兵衛は、昨日、睦実と落ち合う前に、高知市中心街を探索していたのである。事前の準備を怠らない、これも、忍びの性(さが)、かもしれない。

「早めに行って、周りを確認しておくか」

 と、すぐに、バス停に行くことにした。

 ロッカーの鍵を閉める。鍵をポケットに入れて、階段を降りて行った。

 遊具の陰のベンチに、白髪の老人が、杖の頭に顎を載せて、座っている。十兵衛が階段を降りて行ったのを確かめるように、エレベーターに向かって歩き出す。

 その老人を、また、見守るように、若い、薄汚れた、浮浪児のような、靴磨きの箱を抱え、鳥打帽を被った男がエレベーターに近づいて行く。

 エレベーターのドアが開き、エレベーターガールが、

「下へ参ります」と、可愛い声で案内する。

 老人が乗り込むが、靴磨きの男は、乗り込まず、すぐ横の、階段の方へ、足を運んだ。階段わきに、トイレがある。そこに飛び込むと、靴磨きの道具を、トイレの道具入れの中に放り込み、薄汚れた、上着のジャンバーを、裏返す。裏の生地は、縞模様のきれいな物になっている。鳥打帽を、ポケットに突っ込むと、もう、もとの、浮浪児と間違えられそうな、靴磨きではなくなっていた。

 十兵衛は、堺町のバス停に立って、桂浜行きのバスを待っている。十五分程待つと、桂浜方面から来た、朱色のバスが、Uターンして、バス停に停まった。

 ボンネットバスの行く先が、堺町から桂浜に換えられる。バスの発車は、十分後であった。乗客は、十兵衛と中年の女性、労働者風の男の三人である。

 バスが発車する、寸前に、若い男が、飛び乗って来て、四人になった。

 十兵衛は進行方向、右側の真ん中辺りに座っている。女性と労働者風の男は前方の運転席近くに、左右に分かれて座っている。最後に飛び込んできた男は、最後尾に腰を下ろした。

「発射いたします」と、車掌の制服姿の女性が声を上げた。

 若い男は、頻りに、バスの後方を気にしている。バスガールが、行先を尋ねて、前の乗客から、切符を発券して行く。十兵衛は、終点の桂浜までの切符を買った。若い男は、迷った顔をして、

「えぇっと、桟橋まで」

 と答え、料金の小銭をポケットから取り出した。

「次は桟橋通り五丁目」と、バスガールが案内の声を上げる。

「あっ、降ります、降ります」

 と、若い男は、慌てて、席を立つ。慌て過ぎたのか、足がもつれたように、身体を泳がせ、十兵衛が座っている、座席に、手をついた。

「あっ、どうも失礼」と言いながら、小さな、紙片を座席の上に乗せた。そしてそのまま、中央付近のドアから、降車して行ったのである。

 紙片は手帳を破いた物である。鉛筆の走り書き、

「注意、バイクで追跡の男、大丸では、老人、今はチョビ髭の男」と書いてあった。

 ニンマリ笑って、バスの後方を振り返る。オートバイに跨った、男がバスの後方を走っている。今降りた男が、そのバイクの後方から、それに向かって、腕を指し示した。

「主犯の男か、その仲間か?どっちにしても、やっと、登場してくれたか。睦実お嬢さんには、あいつから連絡するやろう。わしが、桂浜まで切符買うたんも、わかっているはずやし」

 十兵衛は、窓の外の変わりゆく景色を楽しむかのように眺めていた。

       *

 バスを降り、石の階段を上がると、桂浜、その先の太平洋が一望できる。季節はずれであり、観光客はいない。地元の人間が、一人、二人、浜にいるくらいである。

「そうや、まだ時間がある、有名な、坂本龍馬の銅像を拝んで行こう」

 と、足を、浜へ降りる道の反対方向に向けた。松林の先の、高い台座の上に、懐に手を入れた格好の幕末の志士「坂本龍馬」の銅像が、太平洋を見下ろしている。その先は、室戸岬らしい、いや、アメリカ大陸かもしれんな、と、十兵衛は思った。

 銅像の先に、浜に降りる石段がある。十兵衛は、そちらの方から浜に降りることにした。

 降りた浜辺の対岸は、種崎という場所らしい、ここから、浦戸湾が始まっているのである。指定場所の「竜王岬」は反対側である。

「しもうたな、ここからやと、砂浜を歩かないかん。靴に砂が入るな」

 と、独り言を言う。なるべく、砂の少ない、崖沿いを歩く。

「へえ、こんなとこに、滑り台があるんや。コンクリートの滑り台や。珍しいな。いや、子供が滑るには、こりゃ、怖いくらい、長いわ」

 崖の上から、砂浜まで曲がりながら降りてくる、滑り台を見つけて、不思議そうに眺める十兵衛であった。

 砂浜の中央近く、桂浜水族館のすぐ横に、店が開いていた。夏には賑わいを見せる、小さな土産屋、兼、食堂になっている。この寒い季節でも、店は開いているようだ。まだ、指定の時間には間がある。腹ごしらえしとこう、と、店に立ち寄り、うどんを頼んだ。

 うどんを食べ終え、お茶を飲んで、辺りを見回す。さっきまでいた、地元の者も姿を消している。つまり、視界に入る浜から、竜王岬まで、人影はないのである。

 時刻は、三時五十分。短い冬の太陽は、西に傾いている。沖には、黒い雲が湧いている。波の音が、さっきより大きくなって来たようである。

「さて、行くか」と、一度、靴の中の砂、小石を叩き落とし、立ち上がり、勘定を払って、再び、砂浜へと歩き出した。

 弧を描くように、崖寄りを岬に向けて歩く。眼の前に、赤い、竜王宮の社殿と見事な松の木を乗せた、竜王岬の、険しい崖が見えてくる。そこに繋がる、石段の前で、もう一度立ち止まり、周囲を見回す。やはり、人影はない。ゆっくり、石段を上って行った。

 鳥居から社殿の周りには、転落防止のための、柵が設けてある。その柵の強度を測るように、両手で押してみた。

 その時、急に、背後に人の気配がしたのである。殺気がない。十兵衛はゆっくり振り向いた。

 そこには、風野そっくりの男が、中折れ帽を被って立っている。黒革のロングコート、同じ色の革手袋をしている。

「お待たせしましたか、時次郎さん?」

 と、風野によく似た男が口を開く。声の質も、風野そっくりである。ただ、関西訛りではない。

「いや、今来たとこや」

 と、十兵衛が、同じ声で、関西訛りで答える。

 どうやら、その男は、別の登り口、岬の西側、長浜の方から、上って来たらしい。あまり人が通らない、険しい、崖道が、男の後方に続いていた。

「ここは、寒いですなあ、浜へ降りましょうか。ちょうど、誰もいないようですから」

 男は、十兵衛を先に石段へ誘い、自分は、その後方に続いた。

「背中を見せるんを嫌うとるんか?やっぱり、プロや、唯もんやないな」

 と、十兵衛は背中からの視線を、感じながら、ゆっくり歩を進める。

 石段を降り、元の出店の方に足を向ける。その出店の手前に来た時、男が急に、十兵衛の左腕を掴み、手首から、肘までの内側を確かめるように上着とシャツの袖を捲った。

「ほう、ちゃんと、傷跡がありますね」

 どうやら、風野の贋者かどうかを確かめるためのようだった。

 十兵衛がゆっくり、袖を元に戻す。

「時次郎さん、あなた、さっき、この店で、何か食べましたか?」

 と、男が、何事もなかったように尋ねた。

「ああ、昨夜、飯食う前に、警察へしょっ引かれて、親子丼、喰うたけど、朝飯抜きやったさかい、あんた、待つ間に、うどん食べたわ」

「ネギ入りですね?ネギの匂いがしますから。けど、おかしいなぁ。あなた、ネギが嫌いだったはずですよね?それに、うどんより、蕎麦好き、そこには、蕎麦も売ってますよ。もうひとつ、あなた、いつから、隙のない歩き方、憶えたんです?背中から、襲いかかろうにも、全く、隙がなかったですよ。腕掴みに行った時も、わたしが、攻撃的でないことを察して、わざと、腕、捕らした、そう感じましたが、如何ですか?」

「何や、バレてたんか?結構、上手う化けたつもりやが、そっちも、中々のプロやね。まあ、しゃあないワ。ほいたら、どないしますねん?そうや、あんさん、名前聞いてなかったな、何て呼んだらエイねん。ワシは、十兵衛って、ゆうんや」

「名乗っても、仕方有りませんよ。生きて、帰れるとは思わないでくださいよ、ここまで、わたしを誘き寄せた、手腕は買いますがね、刑事さん」

 相手は、十兵衛を警察官と思っている。そこに付け入る隙がある。

「まあ、そう言わんと、冥土の土産に、聴かせてくれへんか、風野の贋もん、って、言い難いやろう?」

「贋もん、は困りますねェ。いいでしょう、私の事は、時影、と呼んでください。時次郎の影、って意味ですよ」

「トキカゲさんか、まあ、あんたには相応しい、名かも知れんね、どうも、一般人とは違う、特殊な訓練を受けた人みたいやから……」

「ほほう、あなたも刑事にしておくのは、もったいないようなお方ですね?いやいや、おしゃべりが過ぎた、日が暮れそうですし、天気も悪くなってきた。お気の毒ですが、天国か、地獄かへ、ご案内させていただきますよ」

 その言葉が、終わらない間に、時影と名乗る男の右手が、十兵衛の喉元に迫る。その先には、鈍く光る、ナイフが握られていた。

 いや、それは、フェイントである。左の手に、もう一本、ナイフを握って、十兵衛の脇腹を狙っていた。

 ドッと、砂浜に、尻餅をついたのは、時影の方である。十兵衛の右足が、斜め横に伸びて、時影の腹を、蹴っていた。

 まともに食らっていたら、そのまま、悶絶していたかもしれない。攻撃を途中で辞め、咄嗟に、身を挺したお陰で、尻餅程度のダメージで終わった。

 時影は素早く、後方に転がり、間合いを取る。中折れ帽が、風に乗って、海岸線の方へ転がって行く。

 時影は、ゆっくり、立ち上がり、砂を払う。

 十兵衛は両腕を、垂らして、無防備のまま、突っ立っている。

「余裕ですか?何故、二次攻撃、畳掛けて来ないのですか?」

「いや、あんさん、まだ本気やない、迂闊に近づいたら、どっから、刃物が出てくるかわからんからね、まずは、様子見よ」

「今の蹴り、空手とは違いますね?拳法?少林寺のほうですか?それとも、古武道系の技ですか?あなた、本当に刑事さん?警察学校では、そんな技、教えてないでしょう?」

「あんさんも、唯の泥棒と、ちゃうやろう?ナイフの二刀流なんて、珍しい技や、戦国時代の技みたいやな。けど、今の蹴りは、子供騙しや。他にも、技がある。こうゆうのんは、どうや?」

 十兵衛の言葉が終わるや否や、時影のおでこにに何かが当たった。かなり、痛みを生じるものである。思わず、右手で、次の攻撃を防ごうと、顔に手を上げる。その、右手の手袋とコートの隙間の甲側、手首に、またもや、何かが飛来し、打撃を与え、血が滴る。痛みに、ナイフが、砂に落ちて行った。

 十兵衛は微動だにしていない。正面を向いて、両手を垂らしているのである。

ヒューと、かすかな音と、何かが、身体に向かって飛んでくる気配に、時影は左手のナイフを素早く、振った。カチッと、ナイフが何かをはじき落とした。その物体を、眼で追い、砂の上を捜すが、砂交じりの小石の他に、凶器となるような、物は落ちていない。

 いや、それ以上に、その物体は、どのようにして、己の身体に向かって飛んできたのか?十兵衛の技であることは、わかっているが、十兵衛は動いてないのである。

「ああ、捜しても無駄ですよ。放った、ワシ、本人も捜せません。何故なら、ほら、あんさんがはじき落としたもんは、これですねん」

 十兵衛は垂らしていた右手を前に伸ばし、手のひらを開いて見せる。そこには、桂浜の砂の中に混じっている「五色の石」と呼ばれる、白、黒、赤、緑、灰色の小さな石が載っていた。

 足元にも、白や、黒、赤みがかった石――と言うより、砂利程度の大きさ――が転がっているのである。

「指弾、言いますねん。こうやって、親指で、石や鉄球を飛ばしますんや。訓練したら、パチンコ玉くらいは、飛ばせますよ。そしたら、人も殺せる、でしょうねェ」

 十兵衛が、手のひらの赤い石を、親指で弾く。時影の頬をかすめて、十メートル以上後方に飛んで行った。

「き、きさま、何もんじゃ。そんな技、使う人種、思い当たるんは、ひとつしかない、まさかと思うが、きさま、忍びの末裔か?」

「そうゆう、あんさんも、それと近いんやないでっか?同じ、匂い、してまっせ」

「な、何流や?そ、そうか、伊賀か。甲賀はもう、お遊び程度の技しか、伝わっていない。根来など、ほぼ、途絶えている。伊賀だけが、まだ、続いていたのか……」

「そ、そしたら、あんさん、ま、まさか、風魔?」

「ほう、そこまで、知ってるのか。これは、風野なんか、関係ない話だね。どうしても、ここで、決着をつけないと、一族の秘密まで、脅かされそうですね。わたしを本気にさせたのは、あなたで、二人目ですよ」

 時影は、ナイフを口に咥え、両手を背中にまわす。ロングコートの襟から、白木の棒状の物を取出す。仕込杖と呼ばれる、日本刀である。

 それほど、長くはない。短刀よりは、長いが、一般的な、日本刀に比べれば、短い。しかも刃が薄く、切れ味が凄そうである。

 鞘に当たる、白木を砂の上に棄てる。青眼に構えている。

「ほう、隙のない構えでんなぁ。一流の剣客や。こりゃぁ、素手では難しいなぁ」

 十兵衛は笑顔を浮かべている。切羽詰まった様子はないが、かなり、手間が掛かるなぁ、と思案していた。

「十兵衛、杖や」

 と、出店の陰から、女性の声が聞こえた。睦実の声である。

 ふたりは、勝負に集中していて、睦実の近づく気配に気がつかなかった。どうやら、小政初め、応援が駆けつけたらしい。

 十兵衛は素早く、間合いを取り、睦実の差し出す、棒状の物を受取った。

 それは、木刀に似ているが、剣の形はしていない。丸い、いや、楕円形の切り口を持った、樫の棒である。

 杖術という、武道がある。槍は槍術、棒は棒術、棒より短い、杖程の棒を使うのが、杖術である。

 十兵衛の使う杖術は、普通の物とは違うようだ。行者や山伏の持つ、錫杖とも、金剛杖とも違う、木刀の柄の部分が、そのまま棒状になっている、そんな形態である。長さも、一般の杖より、短いようだ。

 杖をまるで、剣のように、青眼に構えた。つまり、木刀のように、杖を使おうとしている。杖の長さは木刀より長い。そして、重たいはずである。一般に杖は棒術と同じく、突く、ことを主体にしている。勿論、叩くこともできるが、剣のように、振り回すには、その形態は向いていないのである。

 しかし、十兵衛は、その向いていない方を選択した。剣には、剣で、ということか?あるいは、別の思案があっての事なのか?

 時影も迷っている。相手の意図が見えないのである。真剣と杖、長さでは劣るが、その分、速く操作できるのである、しかも、殺傷能力は、格段の差がある。剣士としての腕前には自信があるのである。

 時間がない、警察が間もなく到着するのであろう。小娘一人が、応援に来るわけがない。一気に勝負を決めてやる。

 時影は剣を逆手に構え直した。そして、身体を捻り、半身になり、腰を沈める。剣を、後方に引き、相手の視線から、隠すような構えである。忍びの剣。相手の受け方により、千差万別の動きをして、傷を負わす。一撃、必殺、の剣ではないが、防ぎ難い剣法である。

 ズズッと、擦り足で、相手に近づき、下手から、切り上げる。相手がのけ反る処へ、次々と切っ先を振るうのである。と、思って、切り上げた、剣が、音を立てて、折れてしまっていた。

 十兵衛はのけ反って、逃げる処か、踏みこんで、上段から、杖を打ち降ろし、下から襲ってくる、真剣を、樫の杖で、真っ二つに、折ってしまったのである。

 なお、踏みこんで、留めの一撃を狙ったが、時影は、折れた剣を投げつけた。それを軽く払う間に、時影は踵を返して、走り出す。

「お嬢さん、杖は返しますよ」

 と、十兵衛は杖を後方に放り投げ、身軽になって、後を追う。ふたりとも、いつの間にか、靴を抜いて、靴下で、砂浜を掛けて行く。雨が急に降りだした。風も、正面から、西寄りの風が吹き始めていた。

 ロングコート姿の時影、スーツ姿の十兵衛、睦実には同じ顔の、同じ人物が、二重になっているように見えていた。

 その睦実の背後から、坂本刑事と野上刑事が飛び出して行く。野上刑事は、俊足である。走り難い砂浜を、飛ぶように走って行き、みるみる差を縮めて行った。

「もう、逃げられんよ。向う側から、杉下刑事を初め、警察官が、岬へ上って行きゆうき、挟み打ちや」

 と、小政が、睦実の肩を叩きながら言った。

 睦実の眼には、時影が岬へ続く、石段にたどり着いたのが見えた。すぐあとに、野上刑事が、十兵衛を追い越すように、辿りつく。

 時影が、石段の途中で振り向いた、手が振り下ろされるのが見えた。そして、野上刑事が肩を押さえ、倒れ込んだ。石段から転がりそうなところを、十兵衛が支えた。

「ナイフを投げやがったんですね。それが、野上さんの肩に刺さったようだ。大丈夫かな、ここからだと、良くわからない、近づいてみるか、邪魔にならんとこまで……」

 小政の言葉に頷き、睦実と二人は、岬に駆け寄って行く。勇さんが、ようやく、石段に到着し、十兵衛に何かを頼んで、石段を駆け上がって行く。

 左の鎖骨の横にナイフが刺さったまま、右肩を十兵衛に支えられて、

野上刑事が、砂浜を歩いてくる。

「お嬢さん、救急車を呼んでください。傷は深くない、命には別条なさそうですが、すぐ手当をしないと、出血が心配です。ナイフは抜かない方が、出血は少ないはずですから、このまま、病院へ、お願いしてください」

「よっしゃ、そこの出店に、電話があった。すぐ、手配する。野上さん、気を強うもっちょってください。傷は浅いです。雨に濡れんように、血が流れますき」

 小政が出店に向かおうとした時、パン、パンと二発の銃声がした。

   後篇につづく……

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