エピソード Ⅴ 玉水町・心中事件(後篇)

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「○○組の幹部が、そんなことしゆうがか?」

 大島紬の袖に両腕を組んで、顔役さん――長吾郎―――が唸る。ここは、長吾郎家の居間である。十畳の和室に長方形の座卓、その周りに、座布団をしいて、男たちが集まっている。お多可さんが、それぞれの前にお茶を配って、部屋を出て行った。

「それで、小政、どういう狂言するつもりや?」

と、これまでの経緯を聴き終わった後で、長吾郎が、袂から、煙草を取出した。『いこい』である。

「ちょっと待て、子供――ボン――に聴かせてエイ話か?」

 と、小政が話し出そうとするのを、一旦止めて、長吾郎が確認した。石さんが、長吾郎の『いこい』にすかさず、火を点けた。石は今日も、女性の着物姿である。

「大丈夫です。この子は見た目以上に大人ですき、頭もエイ。今のうちに私と『義兄弟』の杯、交わしたい位ですき」

「そらあ、凄いにゃあ。小政兄ィが、『義兄弟』つうかえ」

 と、石が驚いたように言う。

「こら、小政、うちはもう任侠の世界とは縁切っちゅうき、妙なこと、子供に吹き込みな。そりゃあ、あの千代さんの子やき、頭はエイろう。お寅さんの教育もエイき、世間も知っちゅうろう。けんど、子供は子供やき、そこはわきまえや」

「はい、心得ております。私が『義兄弟』になろうゆうても、断られました」

「そら、そうやろう。刻屋の跡継がな、いかんもんな」

「いえ、本人、探偵になるそうです。探偵になれんかったら、逆に、アルセーヌ・ルパンか鼠小僧みたいな、義賊になって、貧乏人助けるそうです」

「そら、人助けはエイけんど、旅館はどうするがぜよ?大事な跡取りやろうが、お寅さん、許さんやろう?」

「ばあちゃん、旅館は、ばあちゃんの代で辞めるみたいです。最近、街の方に、大きなホテルや旅館が出来て、うちみたいな街外れの小さいとこは、その下請けみたいになってますき。うちは、家族的な雰囲気の旅館ですき、他と同じようには接待、できません。中には、『玉水町』と間違えちゅう客もおる、ゆうて、ばあちゃん、怒ってました。ほんで、空いてる部屋は、下宿みたいに、長期で貸そうと、思うてるみたいです。女中さんの数も少のうて済むし。惣菜屋の方が、儲かるみたいです」

「えらい、経済的な話、よう理解できちゅうのう。そう言えば、よさこい祭りとか、南国博とかでホテルが出来ゆうらしいのう。そうか、淋しいけんど、時代の波や、それがエイかもしれん。

 いかん、また話が逸れゆう。小政、続きを話さんか」

「はい、ちょっと、石にも協力してもらわんと、イカンがですが、それと、お寅さんたちにも……」

 小政は、○○組の幹部の屋敷から、カルメンこと雪乃を救出し、○○組の野望?を打ち砕く計画を、皆に語った。一同が驚く内容であったが、ひとり、石だけが、笑いを浮かべ、

「そりゃあ、面白い。こいつは、私以外、できん役や」

 と、手を打って喜んだ。

「あほ、言いな。命がけやぞ。どんな目にあわされるか、解らんがぞ」

 と、長吾郎がたしなめる。

「元より、覚悟の上です。けど、自信ありますき。やっと、この一家の一員として、お役に立てる日が来ました」

 と、石は胸を張る。

「何言いゆう。おまんは死んだ鶴太郎の面倒、しっかり診てくれたし、それからも、ちゃんと店の商売手伝おちゅう。役に立たん訳がない」

「いや、親分、是非、やらせてください。この、石の一世一代のお願いです」

(一世一代の使い方、この一家、みんなあ間違うがや)と、S氏はお寅さんから聴いた話を思い出した。

「親分はいかん、社長と言え、とゆうちゅうろう?ほんまに、任侠道の癖が抜けん一家やのう……。

 よっしゃ、ワシも腹を決めた、小政のゆう、狂言、皆で書こうやないか。エイな?そうと決まったら、さっそく、手分けや。ワシは、お寅さんを口説きに行く。ボン、一緒に行こう。小政、細かいことは、おまんに任す。おまんが、軍師や、諸葛孔明、楠正成、真田幸村、どれだけやれるかやってみい……」

        *

 長吾郎は刻屋を訪れ、お寅さんと何やら話し込んでいた。S氏はジョンを先生の家に置いて来た。

 翌日、そのジョンの訓練を小政が始めた。ジョンの訓練ではなく、ジョンに、意志を伝える、小政の方の訓練である。講師はS氏とアラカン先生である。小政とジョンはすぐに、打ち解けて、どんな命令にも、従うようになっていった。

「ジョンは人を見るき。小政さんが悪い人やないとわかったから、素直に指示に従うがよ。悪い人なら、噛みつかれちゅうで」

 と、S氏は笑った。

 そして、その日の午後、刻屋をキツネ顔の男――骨董屋「立花屋」の主人――熊蔵が訪れた。二階の部屋は、五年前の部屋ではなかったが、嫌な思い出が、彼の脳裏をよぎる。

 お寅さんと、若い女が部屋に入って来る。

「熊蔵さん、よう来てくれたな、何年振りかいな?久しぶりやが、元気そうやいか、エエこっちゃ。忙しいろうき、単刀直入に用件ゆうわ。この子、お金がいるんよ。訳は聴かんといて、複雑やき」

 お寅さんの隣に座っている若い娘が顔を上げる。薄い化粧をしているが、肌が、透き通ったように白い。その上、眼力が強い。妖艶という言葉がぴったりである。年甲斐もなく、熊蔵は、生唾を飲み込んだ。

「あんた、売春禁止法が出来て、中々、難しいやろうけんど、この子、何でもする、もちろん、男と、あっちの方もオッケイや、ゆうとる。金になる処、紹介したって、あんた、そういう方面には顔広いやろう?」

「まあ、広いと言やあ、広いですけんど、エエんですか?ここの女中さんや、ないんですか?」

 前に懲りている熊蔵は、半信半疑である。こんな別嬪やったら、掛川町の路地に立っとったら、一晩で、充分稼げるやろう。と値踏みしている。

「いや、うちの子やない、知り合いから頼まれたけんど、うちは、玉水町とは違うゆうても、伝手(つて)は有るろう、ゆうて、置いていったがよ。伝手なんかあるもんか。そこで、あんたを思い出したがよ。今度は、割れもんと違うき、預かってもろうて大丈夫ぞね。ああ、変な紐はついちゃあせん。れっきとした、生娘やき、心配しな」

「そ、それで、如何ほど、必要なんで?」

 と、探りを入れてくる。

「エエねん、そっちの相場で……。本当ゆうと、金より、身を隠したいがよ。悪い輩に狙われちゅうき、身を隠して、銭になる、そうゆう訳よ、察しちゃりや。悪いゆうても、ヤクザやないで、素人や。じゃき、よけい、タチが悪いがよ。金で話がつかんき」

 渋っていた熊蔵であるが、金は後でいい、とにかく匿うてくれ、といわれて、引受けた。

(こんな上玉やったら、そら、引き手数多や。仲介料でぼろい儲けや)と、算段していた。しかも、今、ある筋から、「上玉を集めてくれ」とゆう、依頼が入っているのである。それが、相場の倍の金になる話である。

(お寅さんが絡んでなけりゃあ、すぐにでも乗る話やけんど……)と、心の中で叫んでいた。

 取敢えず、ついてきたら、エイ。どっか、働くとこ、紹介するワ。と、今回は『証文なし』で預かることとなった。

「よろしゅう頼むでェ」

 と、お寅さんは熊蔵の背中に声をかけた。

 若い娘は、石さんの女装である。昨日、一日で、○○組の幹部が、秘密裏に若い女性を集めている、という、確かな情報を得た。そして、その仲介に熊蔵も関与していることも調べが付いているのである。蛇の道は蛇、長吾郎一家の顔は、昔も今も変わっていないのである。

 熊蔵と女装の石――名前を幸子(さちこ)にした――の後を、小政が、ジョンを連れてつけて行く。尾行と気付かれないよう、相当な距離を保っているが、ジョンは二人の匂いを見失うことはなかった。

 案の定、二人が向かった先は、○○組の幹部の例の豪邸である。呼び鈴を、複雑に鳴らし、門の中へ消えて行った。小政が、それを確認し、足早に元の道を引き返した。

        *

「ここから先は、後に、小政さんから聴いた話ですから、正確かどうかわかりませんよ。まあ、小政さんはマッちゃんと違って、話を盛ることはないでしょうから、まずは、本当の話と思って、聴いてください」

 S氏は、長い話を一区切りするように、瀧嵐の辛口の酒を口に運んだ。

 ○○組の幹部は名前を大垣虎乃介と名乗っている。本名かどうかわからない。威勢の良い名にしている気もする。

 その虎乃介の前に、乱暴に幸子は連れ出された。か弱い女のように、肩を震わせ、胸を両手で庇うようにしている。

「おい、顔をあげて見せろや」

 と、ドスの利いた声を上げる。

 幸子がゆっくり顔を上げ、虎乃介を睨む。虎乃介の背中を電気が走る。

(こ、これは、妖艶や、魔性の匂いがする女や。今度の取引にぴったりや。こいつは拾いもんや)と、心の中で呟き、生唾を飲み込む。熊蔵と大して変わらない輩である。

 今度の取引とは、人身売買である。外国のシンジケートに、日本の若い女を人形のように売買するのである。そのため、年明けから、女を集めている。

(そろそろ、数も揃った、早いとこ、売り渡しの日を決めて、取引成立といかないかんな。その金、運上金にしたら、もう一段、出世や。幹部やのうて、分家の組長になれるかもしれん。エエ商売思いついたもんや。売春禁止法、様々や……)

「よっしゃ、エイ女や、熊蔵に銭渡して、いつもんとこへ、放りこんどけ」

 と、部下らしい男に命令する。

 幸子は乱暴に腕を掴まれ、部屋を後にする。連れて行かれたのは、離れの蔵か倉庫のような、頑丈な建物である。

 そこは、薄暗いが、畳が敷き詰められてあり、七,八人の若い女が、疲れた顔――諦めた顔――で横になったり、座っていたりしていた。

「ほら、新入りや」

 と、部下の男が誰にゆうでもなく、女たちに話しかけ、幸子の背中を押すと、扉を閉め、鍵をかけて、遠ざかって行った。

「けっ、刑務所やあるまいし、新入りたあ、ご挨拶だね」

 と、幸子は啖呵を切る。

「あんた、ムショ帰りかえ?」

 と、眼鼻立ちのくっきりとした、洋風の美人が、幸子に尋ねた。身長も、他の女性より、首一つは高そうである。

「いや、知り合いにはいるけどね。ところで、姐さん、ひょっとして、カルメンさんかい?いや、雪乃さん、の方がいいか?」

 と、尋ねる。

「なんで、わたしの本名まで、知ってるの?あんた誰?唯のおぼこやないね?」

「あたしゃ、あんたの知り合いの、仁吉って人が厄介になってる、長吾郎一家のもんさ」

「えっ?仁吉さんの知り合いかい?」

「そうさ、あんたが、この○○組の幹部の家に拉致されてるらしいのを突き止めて、助けに来たって訳だよ」

「それで、反対に捕まっちまった、って訳かい?」

「ははは、そうガッカリしなさんな。捕まった訳じゃない。自分から捕まえられたのよ。そうしないと、この厳重な屋敷には入ってこれんからね」

「でも、入って来ても、これじゃあ、出ていけないじゃないの。同じ、籠の鳥になっちまっちゃあね」

「へん、こんな蔵なんざあ、わたしにとったら、笊みたいなもんさ。そこらに、逃げ道がある。ほら、天井近くに、空気窓がある。ちょっと、手が届きそうもないが、柱と梁を伝えば、行ける。ちょっとした道具があれば毀すのは簡単さ。木の枠だからね。そこから、一旦、屋根に出る。それから、表の鍵を開ける。これも、針金の一本、ありゃあ、一分も掛りやあしない。ここから、裏の門まではすぐだ。そこの門は、中からの閂、すぐに開く。外へ出れば、私の仲間が車――トラックだけどね――で待っている。という寸法さ。わかったかね?」

「あんた、梁を伝うとか、鍵を針金で開けるとか、まるで、泥棒みたいやないの?」

「みたいやのうて、泥棒さ。『浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ』って辞世の句詠んだ、石川五右衛門の子孫、石川悟郎ったあ、俺のこったあ!」

 まるで、歌舞伎の弁天小僧の一幕である。それが、見眼美しい、女性の口から出てくるのであるから、一同、呆気にとられていまった。

「あ、あんた、男なんかい?」

 と、やっと、雪乃が声を出す。

「流石の、カルメン姐さんでも、見抜けなかったかい?こりゃあ、自慢できるな、小政さんに……」

「小政さんって?」

「ああ、わたしの組の兄ィですよ。仁吉さんの友人で、本当は『政司』ってゆうんですが、うちじゃあ、『小政』で通ってます。なんせうちは『次郎長一家』で、長吾郎親分が次郎長、番頭さんが大政、それと、小政に私が石松役の『石』って訳ですよ。仁吉さんは客人で、『吉良の仁吉』って、あるばあさんが命名してくれましたがね」

「政司さんって、京大出の、背は低いけど、ちょっとした二枚目の男かい?」

「へえ、姐さん、小政の兄ィとも御知り合いで?」

「いや、直接は知らないよ。けど、仁吉さんからは、よく聴かされたもんよ。俺が惚れたのは、女じゃわたし、男なら、政司だって。どっちを取る?って訊いたら、ううん、と考えて、政司って答えたの。張り倒してやったワ」

「おお強、仁吉さんなら、エエけんど、わたしだったら、死んじゃうわよ。そのでかい手で叩かれたら。あ、ごめん、ごめん、悪口じゃあないのよ。わたし、背が低いから、大きい人に焼餅やいちゃうの」

 しおらしく、女言葉になっている、石であった。

「取敢えず、今からちょっと、上って、空気窓、毀しときます。暗くなったら、そっから出て、鍵開けますから、静かに出て行ってください。トラックが待ってますき」

 石は身軽に柱から、梁へと登って行き、空気窓を、隠し持っていた七つ道具――折たたみのナイフなどがセットになった軍隊からの払い下げ――を使って、窓枠を外した。

 その後、夕飯の差し入れがあり、すぐに、日が暮れた。

 時計は九時に近い。

「じゃあ、そろそろ、行きますか。皆さん、準備してくださいよ。忘れもん、せんようにね。引き返せんからね」

 そう言って、石は身軽に空気窓に到達し、そこから、屋根伝いに移動して、樋を伝って、庭に降りる。蔵の正面に戻って、南京錠に針金状のものを差し入れ、ほんの数秒、カチカチと音をさせたと思うと、鍵が、かちゃっと開いた。

 静かに、蔵の戸を開け、中の者に声をかける、

「さあ、早く、出て左に行ったら、裏門があります。閂はすぐ開きますき、順番に出て行ってください。トラックがすぐそこに居る筈です」

 石が、女たちを促す、雪乃が先頭に立って、皆を導き、閂に手を架ける、

 その時、一番最後に出てきた女が、

「女が逃げたでェ」

 と、大声を上げた。

 石は、咄嗟に何が起きたか、判断に迷ったが、その女の容姿の醜さに、こいつは、売られる女やない、見張り役の女や、と気が付いた。が、その時はもう遅い。母屋の方から、音がして、数人の強面が、現れる。声を上げた女が、その方へ逃げて行く。

 雪乃は閂を開けて、何人かを救出した。が、石と、雪乃の背中に、

「動くんやない、動いたら、背中から、血ィ吹き出すぞ」

 虎乃介が、軍のお下がりの南部製の拳銃を構えている。他の連中もそれぞれ、刃物を持っているのが、暗い庭の電灯でもはっきり分かった。

(俺一人なら、何とかなるが、まだ、雪乃がおる。どうしようもないな。おとなしゅう捕まるか)と、石が、覚悟を決めた時、足元を何かが走り抜けて行った。でかい弾丸のような塊が、虎乃介の腕に飛びかかる。銃声が響く。が、弾は上空に向けて飛んで行った。

 その後のことは、石にはよく解らない。薄暗い、灯りの下で、雪乃のほうが、状況をよく記憶していた。

 まず、雪乃の側を、弾丸のように走り去ったのは、長毛種の大きな犬であった。ジョンである。その犬が、眼にも止らぬ速さで、虎乃介の腕に飛び付き、南部製の拳銃を払い落した。そして、虎乃介を押し倒したのである。

「銃刀不法所持、現行犯で逮捕する」

 と、言う声が、すぐ後ろから聞こえた。一人の若い男が、警察手帳を指し示しながら、裏門から入って来たのである。続いて、警察官が、ピストルをかまえて、それに続く。

 坂本勇次刑事と派出所の山田巡査である。

 一瞬、○○組の男たちは、ひるんでしまったが、

「何、躊躇ってるの、相手は二人よ。ドスは何のために持ってるの、やっちゃいなさい」

 と、例の大声を上げた女が叫ぶ。どうやら、虎乃介の若い女房らしい。

 虎乃介も、ジョンに圧し掛かられた状態のまま、

「やっちまえ」

 と、檄を飛ばす。

 山田巡査が、一発、空砲を空に向かって放つ。それを合図としたように、数人の男が、裏門から飛び込んできた。先頭は、仁吉である。小政、以下、長吾郎一家の精鋭たちである。空砲であるが、ピストルの音に怯んだ隙をついて、仁吉が空手の技を繰り出す。あっという間に、三人が、地べたに倒れている。

 もう一人、少し年配の男は、柔道の有段者らしく、触ったかと思うと、相手が宙を舞っている。「空気投げ」ってこんなんかしら、と雪乃は思った。

 二人――仁吉と大政である――の活躍で、○○組の男たちは、全員戦闘能力を失った。女一人、逃げようとするが、小政が足払いを掛ける。虎乃介は、ジョンの身体の下で、動けない。

 そこへ、新たに、私服の刑事二人と、警察官が数名、傾れ込んできた。

 次々と、○○組の組員に手錠が掛けられ、連行されて行く。

「おい、おい、さかもっちゃん、抜け駆けはいかんぜよ。せっかく、わしらぁ、マル暴――対暴力団特別班――が張り込んじょったに、手柄、横取りかや?」

 と、刑事の一人が笑いながら言った。

「杉下さん、マル暴がどうして?」

「わしらを甘うみなや。この虎乃介が若い女集めて、人身売買しゆう、情報は前から仕入れちょらあよ。ほんで、今日も張り込みしよったら、この兄さんらぁが……」

 と、小政や仁吉を指さして、

「不穏な動きしゆう。こらなんぞある、ゆうて、警戒しちょったら、銃声や。来てみたら、おまんがおる。一課の連中に出し抜かれたかと思うたら、おまん一人やいか。こっちが、説明してもらいたいわ。おまん、なんで、ここにおるんや?」

「それが、自分も状況はようわかってないがです。ただ、顔なじみの旅館の女将さんが、先日の『玉水町の無理心中事件』で、大きな動きがある。この場所で騒ぎが起きるかもしれんき、巡査一人連れて、待機しちょり、言われまして。それに、この地区の町内会長からも、この屋敷に、女が連れ込まれちゅうき、注意しちょってくれ、との通報もありまして、山田巡査と見張っていたら、銃声ですわ」

「そうか、別のルートから、同じ事件に係わっていたんか。そりゃあ、しゃあないな。手柄は、折半や。うちの係長にゆうとくわ。坂本刑事、大活躍ってな。

 おい、虎乃介、詳しい話、署で、きっちり、聴かせてもらうで。他にも、余罪がようけありそうやな?密輸の疑いもあるきに。徹底的に取り調べさせてもらうわ」

 やっと、ジョンの身体から、自由になった虎乃介は手錠を掛けられ、連行される。その顔を見て、仁吉が驚く。

「お、お前、五年前、俺らぁに絡んで、俺がぶちのめしてやった、安やないか?一番弱かった、安治、ゆうたろう?なんで、虎乃介ながな?」

 その言葉に、雪乃が反応した。

「こいつが、あの時のチンピラ?そしたら、あたしを拉致して、組の組長に差し出した男やないの。エロうなったもんやな?あん時、あたしに金玉蹴られて、使いもんにならんなったがやったね?」

 その言葉に虎乃介は、顔を硬直させ、何か言おうとしたが、言葉にならず、「ウワウワ」としか、聞こえない。

「こいつ、名前が『安』じゃあ、エロうなれんゆうて、強そうな名前にしたがよ。虎乃介、名前負けしちゅうにゃあ。猫乃介、ぐらいが良かったんと違うか?」

 杉下刑事は、にやりと笑って、虎乃介――本名、安治――の背中を押し、裏門を出て行った。

 ほっとした、沈黙の後、やっと気付いたかのように、どちらからともなく、仁吉と雪乃が、熱い抱擁をする。小政が、石とジョンを促して、大政に頭を下げ、裏門を出てゆく。大政、他の一家の男が、後に続く。

 残された二人の、抱擁が続いている。

「もう、エイか?」

 と、数分後、小政が声を掛ける。

「トラック出るでぇ。ふたりして、夜道、歩いて帰るんか……?」


        11

 翌日、約束通り、事件の顛末を報告に、小政が刻屋を訪れたのは、午後も晩くであった。

 朝から、警察の事情聴取を受けていたのである。拉致された女性を救出するためとはいえ、やや、強引な――家宅不法侵入等のおそれがあった――やり方であったことを、咎められたのである。ただ、S氏の提案で、坂本刑事にある程度の情報を流していたことから、警察を軽視した暴挙とは扱われずに済んだ。捜査一課の課長から、小言を言われて――犯罪捜査は、警察に任せなさい――で、解放されたのである。

「大変やったねぇ。警察のお咎めはなしかえ?」

 と、お寅さんは小政を居間に上げ、座布団を勧めながら、尋ねた。千代が、お茶を運んでくる。お茶菓子を、みっちゃんが運んでくる。千代が運ぶというのを、わざわざ、断って、小政に顔を見せに来たのである。

「まあ、ここのボンが坂本さんに情報流しておいたらエイ、ゆうてくれたのが、功を奏しましたわ。ほんま、賢い子ですなぁ。千代姐さんの血ィですろう。それとも、お寅さんの教育がエイがですろうか?」

「あんた、ほんと、口が上手いねえ。京大出のインテリとは思えん。根っからの商売人や。あんた、独立したら、大社長になれるわ」

「いえいえ、お寅さんほどじゃあ、ありません。それに、千代姐さんほどでも。まだまだ、修行中ですきに……」

「その、謙遜するとこが、また憎い。うちの、みっちゃんがソワソワするわけや」

 小政は、その、みっちゃんから後の言葉は無視して、

「ところで、その、ボンは?学校ですか?」

「今日は、半ドンで、いんま、帰っちょったけど、そうや、ジョン迎えに行っちゅうがや。ジョンが大活躍やったそうやいか。美味いもん喰わしたって、ゆうて、連れに行ったわ」

 そう言っているうちに、勝手口から、ジョンを連れたS氏が帰って来た。

「丁度よかった。小政さん、今来たとこよ。ジョン、そこへ置いて、手、洗うてき」

 と、千代が言った。

「ボンに頼みがあるねん」

 と、いきなり、小政が、手を洗って、居間に入って来たS氏に言った。

「ほら、離れのお二人さん、まだ居るろう?今からの話、聴けるように、隣の部屋へ呼んどいてくれへんか?その話、聴いたら、亀さん、帰りとうなると思うで。それと、二人の結婚の話、巧うゆく方法、考えついたんや。それも、こっそり、二人に聞こえるよう話したいから、ボン、巧いこと頼むわ。これ、千代さんより、ボンの方がエエねん」

「小政さん、すっかり、関西弁になっちゅうよ。仁吉さんと雪乃さんの所為やね?」

「あっ、そうや。あいつら、イチャイチャし過ぎで、こっちが恥かしゅうなる。

 それより、頼んだでェ」

「オッケイ、今から、巧う、隣の部屋へ連れてくるわ。あの二人も退屈してるから、話、早いでェ」

 S氏は階段を駆け上がり、離れへ続く渡り廊下を進み、二人に内緒のお話、聴きに行かんか?と、誘い水を巻く。案の定、退屈気味の二人は、その提案に乗ることになった。

 居間の隣の部屋に二人を招き入れ、

「静かに、聴いときよ。ばれんように」

 と、念を押して、S氏は居間へ入っていく。

 小政に目配せをして、二人が、隣に入ることを伝えた。

 小政が、昨日の事件の顛末を、面白おかしく、話す。大半は、石や雪乃からの又聞きであるが、見ていたように、流暢に話を進める。

(このひと、小説家になっても大成しそうや)と、千代は思った。

 小政が、昨夜の虎乃介、逮捕までの話を終えると、

「ほいたら、ジョンは大活躍やったがやね?」

 と、S氏は土間で横になって、焼き芋を貰っている、大型犬の方を横目で見ながら、そう言った。

「そうよ、そうよ。ボンに言われて、半信半疑やったけど、訓練して、連れて行ったら、あわやという場面で、飛び込んで行って、石と、雪乃さんの命救ったがやき、一番のお手柄は、ジョンよ。虎乃介のピストルが使えんなったき、少々の刃物相手やったら、仁吉と大政さんがおるき、こっちのもんよ」

「そん時、小政さん、どうしよったが?大活躍の場面の話がないけんど……」

「いやあ、私は、暴力は嫌いやき、人を殴る、蹴るはようせんき、表へ連れ出した女たちを、庇いよったがよ。深う訊きな……」

「そうよ、小政さんは、諸葛孔明ながやき、軍師は後方から指示出して、戦闘には参加せんがよ。けんど一番大事な人よ、勝つか負けるか、軍師に係っているんよ」

 千代が、小政を庇うように、息子に教える。

「わかっちゅうよ。小政さんは肉体やのうて、頭脳で、貢献しちゅうくらい、僕でもわかる。けんど、主役やき、ちょっとは、活躍の場面が欲しかったがよ。最後に、『これにて、一件落着』くらいのセリフゆうても良かったんやない?」

「なにそれ、片岡千恵蔵の『いれずみ判官』遠山の金さん?あんたまで、東映の時代劇かぶれになっちゅうがかえ?」

「ははは、ボンにも、千代姐さんにも勝てんなあ。まあ、うちには、個性の強い連中がようけおりますき、私は私ですワ」

「いや、いや、東映やったら、何で、顔役さん、現場へ行かんかったがぞね?つけ髭生やして、杖ついて、月形龍之介、水戸の黄門さん、演ったら良かったのに。年は喰うちゅうけんど、大政さん、助さん、仁吉さんが格さん、エエ、配役やったにねェ。けんど、亀が居らんかったもんなあ。中村錦之助が……」

 と、お寅さんが、隣の部屋を、横目で覗うように、話題を変えて行った。

「そうですわ。若が居ったら、一番先に乗り込んで、大立ち回りでしたのに……」

「そうよねぇ。錦之助の一心太助、亀ちゃん、似合いそうや」

 東映時代劇の話で、場は盛り上がる。小政も、千代も、隣の部屋に居る、亀次郎に当てつけるように喋っているのである。

「それより、まだわからんことがあるでェ」

 と、S氏が話を元のレールに戻す。

「ほら、玉水町の『心中事件』あれはどうなっちゅうが?犯人は誰なが?それと、死んだ女の人は、雪乃さんやなかったがやき、何処の誰かわかったが?」

「そうよ、そうよ、亀の事はエイき、密室殺人事件の解決を知りたいがよ」

「ああ、そうでした。そっちは、警察に任しましたから、面白い話はありませんよ。後で、勇次さんに聴いた方がエイでしょうが、私も、雪乃から聴いてますから、簡単に、事件を振り返ってみましょう。雪乃の言うには……」

 小政が、事件の真相を話し始める。

 雪乃が、カルメンの源氏名で、ヌードダンサーとして、出演していた劇場の楽屋に義彦が訪ねてきた。楽屋で再会を喜び、雪乃は身の上を話した。

 例の、仁吉の傷害事件の判決の後、雪乃は被害者?のチンピラ――虎乃介となる前の安治たち――に因縁をつけられ、揉めているうちに、とうとう、力ずくで、拉致されてしまった。安治が雪乃の身体に迫って来た時、雪乃は長い脚を蹴りあげ、安治の股間を厭と言うほど、痛みつけた。おそらく、彼の一物は使い物にならなくなったであろう。悶絶してしまった彼の代わりに、残りの二人は、雪乃を連れて、組の頭へ雪乃を献上したのである。

「この、頭――組長――がガタイはいいんですが、背が低い。大女の雪乃は持て余しますワ。そこで、手もつけんと、ストリッパーに仕立て上げたんですワ。まあ、スタイルは抜群やし、野性味たっぷりやから、ある意味、はまり役かもしれませんね。それに、彼女、踊って、服、脱ぐだけで、御触りも、本番もなし。バタフライも大き目だったそうです。あっ、ボン、ここは耳、ふさいどき」

 まあ、幸か不幸か、肉体的には汚れなく、生きて来られたらしい。しかし、籠の鳥であることは間違いない。働いても――踊り子として――収入は全てピンはねである。

 その状況を聴いて、義彦は、足抜けを計画する。長吾郎一家に頼めば、何とかなるだろうと、その足で、仁吉に連絡を入れたのである。

「ところが、その計画を楽屋裏で聴いてた女がいましたんや。例の、虎乃介のイロやった、大声出して、女が逃げるゆうた、あの女ですワ。あれも、ストリップ、踊ってたんですワ。多分、踊り子たちの見張り役を兼ねていたんでしょう」

 その女の注進で、義彦たちの計画は破たんを迎える。義彦は、組の若い物に、腹を刺され、命を落とした。雪乃は、まだ、使える、が、他の踊り子が、義彦と雪乃が知り合いで、親しげに話をしているのを知っていた。全員の口は防げない。

「まあ、その組にもちょっと、賢い――探偵小説マニア――が居ったんですワ。心中に見せかけて、煙草の火で、そこが、焼けてしもうたら、身元もわからんなる。『偽装心中』に『顔のない死体』。おまけに、『密室』にしたら、こら、警察でも謎解けんで。ゆうて、病気で死にかけてた――ヒロポン打ち過ぎの――踊り子を縊り殺して、義彦の死体の首に、新しう、刺し傷つけて、心中の偽装したそうです。それを、雪乃に見せつけて、逆らうと、お前もこうなる、と、脅かされたそうですワ」

「そいたら、湊旅館で一軒家の鍵、借りたんは、義彦さんやなかったがやね?アテの思うちょったとおりや。浪さん、眼ェ悪いき」

「そうですわ、よう考えたら、土地勘のない、義彦が、そんな一軒家があるなんて、知る訳ありませんもん。警察も最初っから、『心中』って決めつけてるから、見落としがいっぱい、出てくるんですワ」

「じゃあ、あの一軒家は、殺人現場ではなく、死体を心中に見せて、焼き殺して、『顔のない死体』を作って、『密室状態』を偽装したのね?」

「そうですねん。やり過ぎて、実行したもん、困ったやろう。煙草の火じゃ、顔が解らんほど、焼けんと思うて、ガソリン掛ける。『密室』にするために、玄関に閂かけて窓から逃げる。運よく、消防団の連中が、窓も開かんかった、ゆうてくれたけど、本当は『密室』に出来てなかったんですワ。あそこまでしたら、却って、偽装の匂いプンプンしてしまいますワ。そうでなくても、女の方の死体、背格好が、違い過ぎますもん。間に合わせやったし、雪乃の知り合いが、こんなとこに義彦以外におると、思わんかったがでしょうけんど……」

「ほんで、殺人、実行したんは、やっぱり、虎乃介の手のもん、やったが?」

「それが、同じ組のもう一人の幹部が、ヌードショウの元締めしてて、偽装殺人はそっちの方らしい。警察が今日、逮捕状取って、捕まえに行ったらしいワ。ただ、同じ組で、虎乃介が人身売買、企んでるの知ってるし、なんとゆうても、例の大声の女が、ダンサーにおるろう。一旦、雪乃の身柄を虎乃介の屋敷へ連れて行ったがよ。ほんで、実行犯も首尾を報告に、虎乃介の屋敷に入ったがよ。その車の跡をジョンが辿って行った、って訳やな」

「ジョンの貢献度、高いねぇ。亀さん居っても、役に立たんかったろうねェ」

 と、S氏まで、隣の部屋の亀をイライラさせる言葉を発する。

「もう、そろそろ、エエんと違う?亀ちゃん達、出てきたら?」

 と、千代が、隣の部屋との境の襖に向かって、話しかける。小政も、お寅さんも笑顔で肯いている。

 ガタゴトと音がして、隣の部屋から、亀次郎と琴絵が、現れる。亀次郎が、照れたように、頭を掻きながら、千代たちの側に胡坐をかく。琴絵はその後ろに正座している。

「亀ちゃん、聴いてたやろう?うちに隠れていたせいで、前代未聞の大捕り物、大活劇、に参加、でけんかったねえ、残念やったね」

 と、千代がからかうように言った。

「小政、ひどいやんか、おまえ、俺がここに居ること、察しちょったがやろう?なんで、誘うてくれんがな。一世一代の晴れ舞台、逃してしもうたやないか」

 あっ、やっと、「一世一代」の使い方、おうちゅう、とS氏は可笑しくなった。

「小政さん怒ってもイカンろうがね。心中があったことは、知らせちょったがやき、あんたの判断が間違うちょったがやろう」

 と、お寅さんが、まず、釘をさす。

「そうですよ、小政さんは二人の駈落ち場所が、顔役さんにばれん様に、気ィ使うてくれたがやき。逆に、お礼言わんと、全部、亀ちゃんの『早合点』が悪いがですよ。顔役さん、二人の結婚、一概に、反対してませんよ」

 と、千代が追討ちをかける。

 亀は、余計、照れくさくなって、髪の毛を引っ掻き回す。フケが飛んでくる。金田一耕助――復員者事件の「探偵さん」――を千代はふと、思い起こした。

「まあ、エイですき、私の事は……」

 と、小政が話を引取る。

「若、真面目な話ですが、若は琴絵さんと所帯持って、長吾郎一家の跡を継ぐ、その決心はついとるがでしょうね?」

 と、亀次郎に詰問し始める。

「そ、そうや。琴絵と一緒になって、一家は盛り立てて行く。それを、親父さんに認めて欲しいんや」

「わかりました。では、それが、巧ういかん、と思われる、つまり、障害になる事柄は何やと、思うてますか?社長は、まだ、反対はしてませんでぇ、千代姐さんの言うとおり……」

「そ、それは、我が家の『因果話』や。親父が気にしてるんは、親父のじいさまの旧悪による、女の『生き霊』の祟りが怖いんや。鶴太郎兄さんが死んだのも、そのせいやと思うとる」

「そうですね。ここに居られる方は、みんなさん、多少なりともご存知ですよね?ボン以外は……」

「いや、僕も少しは知っちゅうよ。ばあちゃんらあの話、内緒で、聴きよったもん」

「あんた、大人の話、盗み聞きしよったがかね?」

「ははは、お寅さん、怒らんといてください。ボンは探偵になりたいらしいき、その位は、して当たり前ですよ。けど、やっぱり、驚かされることばっかりやな、この、ボンには……。ほいたら、話は早い、続けさせてもらいますよ」

 と、小政は一同を眺める。推理小説の事件解決場面、探偵が謎を解く。

(そうや、あの時の「探偵さん」と同じ表情しているわ、小政さん。小柄やし、人懐っこい顔をしてるし、けど、やっぱ、小政さんの方が、男前やし、格好エイなあ) と、千代はひとり、感心していた。

「その、『生き霊』か『怨霊』かをどうにかしたら、エエんですよね。そいたら、社長も反対できんですもんね?」

「その、どうにか、ができんき、困っちゅうがやろう?」

「お寅さん、そうですろうか?諦めちゅう、だけでしょう?できんと思うて……」

「ほいたら、なんか、手があるの?」

 と、千代が、せき込む。

「千代姐さんらしゅうない、手はいっぱいありますよ。まず、社長が、『そんなもんない』と思い込んだら、それで、仕舞いですワ。そやから、そう、思い込ませる手段を講じたらエイ、それだけです。シンプルでしょう?」

「シンプルって何?」

 と、S氏はまだ、英語は苦手なので、尋ねる。お寅さんも良く解らない。

「シンプルゆうたら、簡単とか、素朴とかゆう意味の英語やけんど、この場合は、複雑やない、面倒くそうない、の反語の意味やね」

 と、千代が説明する。

「そう、そうです。大げさに考えんと、的を絞って、そこだけに集中する、そうゆう意味もあるんです」

 と、小政が、補足するように、説明する。

「けんど、その、シンプルが難しい。どうやって、顔役さん、納得させるが?騙すしか、手がないけんど、簡単に、騙されん、お人やろう?」

 と、千代が、小政に迫る。

「さすが、千代姐さんや、それですワ、社長を騙して、祟りなどない、と思い込ます、信じ込ます、それが、唯一の解決方法ですワ」

「そんなん、俺でもわかるワ。けんど、その騙す手が思いつかんのやないか」

 と、ここで、初めて亀次郎が、口を挟む。

「そうです、そこで、知恵、絞らなあかんがです。あの、堅物の社長、ころっと、騙す手を、考えついたんですワ」

「何々、その手って?」

 と、S氏が、身体を乗出すように尋ねる。千代も肯く。 

「社長が、信じているもんを逆に、利用するがです」

「親父が、信じてるもん?なんや、それは?あの人、自分しか信じとらんと思うで、根っから、いごっそうやから……」

「そうでしょうか?そもそも、『生き霊』やら、『祟り』やら、どうして、信じたがです?そんな、非科学的なこと、信じる人やないはずでしょう?」

「そうや、うちのお母さんならわかるけど、昔の人やから……」

「なんね、ひとを年寄扱いと、迷信信じる、時代遅れみたいに言いなや。アテも科学は信じちゅうで、ただ、世の中、科学で証明できんことがある、ことも事実やろうがね」

「お寅さんの言うとおりですワ。その科学で証明できんもの、それに、社長は惑わされちゅうがですろう?ほいたら、その科学で証明できん方法で、祟りは無くなった、と思うてもろうたら、それで、エエんです。科学的やのうて、エエんですワ」

「ようわからんなぁ、小政は頭、良過ぎや。姐さん、わかるか?」

(あれ、こんな場面、前にあったな。そうや、探偵さんの話、GHQが手を引いたとゆう話の時に、顔役さんが、同じように、わたしに訊いたワ)と、千代はまた、「復員者事件」のことを思い浮かべていた。

「ううん、わたしもちょっと、ついて行けん」

「僕、わかるよ」

「えっ?ボン、わかるんか?」

 と、亀次郎が驚く。

「うん、小政さんの言いたいこと、つまり、迷信には、迷信でってことやろう?毒には毒やないけど。何か、そういった、超自然現象、使うて、顔役さんを納得させる。ほら、冒険小説で、未開人に日食見せて、昼を夜に変える、そんな話あったやいか……」

「ボン、偉い読書家やな。それ多分、『ソロモン王の洞窟』って、話やろう」

「そう、そんな感じで、顔役さんに何かを示して、怨霊が退散した、と信じ込ませたらエエのやろう?」

「えらい。大人顔負けや。その通りや。小政、ボンの言う通りやろう?これが、正解やろう?」

 と、亀次郎は、自分の手柄のように、捲し立てる。

「けど、顔役さん、未開人と違うでェ。私らより、ずっと、常識のある人や。それ、迷信で騙せるんか?」

「ははは、今回は、姐さんの負けですな。ボンが一枚上手や。常識に囚われてぇへんから、発想が豊かや。

 姐さん、一つ忘れてますよ。うちの社長が、鶴太郎さんが亡くなる前、何をしたか?思い出して御覧なさい。私と姐さんがちょっとした、議論になった、ほら……」

「そ、そうや。顔役さん、あの日、お母さんに紹介された、太夫さんに、御祓い、してもらいに行ってたんや。小政さん、あん時、『姐さんもそんな非科学的なこと、信じますのンか』って、わたしにゆうたね」

「そう、それで、社長、その御祓いが、少しは効いた、って思い込んだでしょう?姐さんの顔見て、鶴太郎さんが、一時、元気になったことを、御祓いのお陰と思っとったでしょう?」

「そうや、顔役さん、あの太夫さんの力、信じてるんや。非科学的な力を……。

 そうか、その力を使うんやね?太夫さんの力使うて、怨霊は消えた。祟りはもう起こらん、そう、信じ込ましたらエエんや」

「ちょっと待って、太夫さんに、嘘、つけゆうんか?そりゃ、できんろう?」

 と、お寅さんが、疑問を呈する。

「嘘をついてくれ、ゆうんやないです。事実、もう、怨霊はないんです。実は、私と石が、探偵の真似ごとしてるって言いましたよね。あれ、仁吉の恋人、つまり、雪乃さんを捜してた、と皆さん思うてはるでしょうけど、実は、それも兼ねて、先々代、つまり、武吾郎さんの相手の女性――生き霊になったお人――の捜索をしてたんですワ。雪乃さんのほうは、義彦さんが、追ってましたから、私らは、こっちの、ばあさん探しですワ」

「それで、見つけたの?」

「見つけたゆうか、なんとか、名前と、生まれは突き止めました。ほら、若のお母さん、琴絵さんのお母さんの伯父さんが、その女の許婚やったがでしょう?それを手がかりに、そっちの方の、知り合いの年寄、片っぱしから当たって行って、女の人担当が、私、男のじいさん担当が石――女装した――ですねん。まあ、石が訊いたら、じいさんらあ、憶えてないことまで、思い出すみたいで、なんとか、幾つかの証言集めたら、それらしい人が見つかりましたんよ」

「そりゃあ、苦労したねぇ。石さんの女装は、そうゆう理由やったがかね。けんど、男っちゃあ、美人、ゆうか、妖艶なおなごに弱い生き物やねェ」

 と、お寅さんは感心している。

「それで、その人、見つけて、どないしたん?」

「ええ、名前と生まれで、戸籍当たったんですが、戦争で、戸籍が、途切れてる――焼けていた部分を後で訂正したんですワ――らしゅうて、歳は八十二歳になってるはずです。生死不明。けんど、戸籍係のゆうには、死んでるはずやってことです。現住所とされてる場所にはおらんそうですし、近しい縁者もおらんき、そのままやけんど、もう、一年もしたら、行方不明から、死亡認知となるそうです。死んでると確証がないから、行方不明で置いてるだけや、その期間がすぎたら、死亡と判定されるそうですワ」

「ほいたら、九十パーセントは死んでる、ってことね?」

「おそらく、百パーセントに近いですろう。

 名前と、生年月日、出身地がわかってますから、その太夫さんに占うて――神さんのご神託かもしれんけど――もろうたら、死んでるかどうかもわかるでしょう?そしたら、御祓いもできる。御祓い出来たら、社長も納得する。そうでしょう?」

「そうや、もう生き霊やないもん、死んでたら。死んで怨念が残ってたら、御祓い出来るって、太夫さんゆうてたそうやから、どっちにしても、御祓い出来る。顔役さん、納得するワ。すごいやんか、小政の兄ィさん、あんた偉い。さすが、京大出のインテリや。頭、エエワ。負けました……」

「ところで、その太夫さんって、まだ生きてるの?相当な年と違う、ばあちゃんの知り合いやから……」

「なにゆうてんの、あんたまで、アテを年寄扱いして。大丈夫や、太夫さん、元気にしてる。薫的さんの近くの庵で、御祓いしてくれてるよ。ますます、腕上げたそうやから、怨霊なんぞ、すぐ、祓うてくれるワ」

「そこで、順番、これからの計画ですが、まず、若には、うち帰ってもろうて、琴絵さんとの所帯の話、社長にしてもらいます。お寅さんはすぐその後で、おめでとう、亀ちゃん嫁とるんやて、と、お祝に行ってください。」

 小政の計画に、一同、うん、うんと肯く。

「社長が、きっと、怨霊の心配すると思います。お寅さんには、胸の内、正直に話すはずです」

「そら、そうや。アテに隠し事しよったら、江ノ口川のどぶの泡ん中へ、放り込んじゃるきに……」

 お寅さんの言葉に、一同が、どっと笑う。「しかねない」と、千代は思っている。

「そいたら、今の話、太夫さんにもう一回、相談、御祓いを受けるよう、勧めてください。絶対、社長、乗って来ますき。私がついて、太夫さん所へ行きます。相手の名前なんかをしっかり、伝えて、祓うてもらいますき」

「そしたら、俺らぁの結婚、許してもらえるがやね。よかったなぁ、琴絵」

「ウチ、どうでもエエねん。結婚、今すぐやのうても。芸妓の仕事も面白いし、あっ、勘違いしなよ。亀ちゃんと結婚するんは、絶対するよ。亀ちゃんを他の女には渡さへんから、絶対……」

「そやねえ、琴ちゃん、芸妓になって、一年も経ってないもんね。でも、顔役さんに、将来一緒になる気でいます、って伝えといたら、顔役さんも、亀ちゃんも、周りの皆――大政さんたち――も安心するよ。亀ちゃんは、エエ年やから……」

 千代のアドバイスに、琴絵も肯く。一同も納得顔である。

「よっしゃ、善は急げや、今から帰るでェ」

 と、亀次郎が立ちあがる。

「ほいたら、宿代、精算しようかね、何泊やったかねぇ、千代さん?」

「えぇ?ばあちゃん、俺から宿代取るがかよ?」

「当たり前や、うちは旅館やで。タダで、離れの上等な部屋貸すかいな」

「けんど、俺は、身内やろう?孫みたいなもんや、ゆうてくれたやないか……」

「若、諦めな。お寅さんの勝や。後で、石にでも、金持って来させますわ。勘定しといてください」

「はい、おおきに……」

 渋い顔の亀次郎と笑顔の小政、琴絵が、刻屋を出て行く。荷物は――ほとんどないけれど――後で取りに来るわ、と、亀次郎は言って、東の方へ足早に歩いて行った。


        12

「お寅さん、居りますか?」

 と、坂本刑事が刻屋を訪れたのは、その翌日のお昼すぎである。

「あら、勇さん、今日は遅いねえ。昼のご飯、食べてきたが?」

 と、玄関先で、千代が出迎える。

「まだ、これからですワ。みっちゃんに、何か見つくろうて、飯食わしてって、ゆうてください。腹ペコで、死にそうですワ」

「昼飯、食べんと、仕事してたの?」

「昨日の晩、例の『偽装心中事件』の主犯、共犯合わせて、五人ばかり、逮捕しましたきに、その取り調べで、ほぼ、徹夜ですワ。今日も朝から、検察へ出す、書類作ってましたから、飯食う暇なし。朝から、あんパン一個、と牛乳、だけです」

「はい、どんぶり飯とみそ汁、豚肉入りの野菜炒め、卵焼きも付けちゃったよ」

 と、面倒くさそうな顔をして、みっちゃんが、お盆に載せた、惣菜を運んできた。

「おお、これは豪勢や。みっちゃんが作ったんか?」

「お生憎様、卵焼きだけが、わたしよ。あとは、若女将さん」

「そうか。みっちゃんの作った卵焼きか、美味そうや」

 と、勇さんはさっそく、箸で卵焼きを抓む。

「う、美味い!みっちゃん、腕上げたなぁ。これやったら、いつでも、嫁にいけるでェ」

「お世辞、ゆうても、あんたの嫁にはいかんよ!」

 べぇー、と言って、台所へ帰って行く。

「あかん、また、振られた」

「何ゆうてんの。脈あるやないの。あんたのために、卵焼き作ったんやでぇ。これ、特別や。今日、勇さん、絶対、昼飯食べにくる、って、うちの子が、ゆうて学校行ったから、それ信じて、みっちゃん、卵焼き作ったんよ。あの子、料理はまだ、教えてないねん。そやから、初めての料理なんよ。感謝しぃ」

「ほ、本当ですか?ほいたら、脈、あるってことですか?小政さんやのうて、僕でエエんですか?」

「さあ、どうかな?あとは、勇さんの努力次第やろうねえ。今度の事件頑張ったみたいやし、給料上がるかな?」

「いや、そこまでは、わからんですが、課長からは、褒めてもらえましたよ。若い女の人、何人も救うことが出来たから、本部長にゆうて、金一封くらい、出してもらえるろう、ゆうてました」

「そら、良かったやないの」

「けんど、それも、ここのボンと小政さんのお陰ですき、それと、あの大きな犬」

「ああ、ジョンね。名前、覚えときなさいよ、ジョン万次郎の『ジョン』やき。それで、事件はどうなったの?解決したみたいやけど……」

「そう、それですき。それを報告に来たがです。ほんで、お寅さんは?」

「ああ、お母さん、亀ちゃんたちのことで、顔役さんとこ。それから、ちょっと、ようじで、薫的さんへ行くって言ってた」

「へえ、亀次郎さん、帰って来たんですか?駈落ちしてたんでしょう?琴絵さんと……」

「なんで、あんたが知ってるの?」

「マッちゃんが言ってましたよ。ちょっと前に、顔役さんが、『亀、見んかったか』って、散髪屋へ来たって。琴絵さんも一緒に居らんなったらしいき、駈落ちやろう、って、マッちゃん、言いふらしてましたよ。おまけに、顔役さんとこの、『因果話』、熱病で、次々と、家族が亡くなるって、怪談……」

「あの、ホラ吹き、本当に困ったもんや。想像力が逞しすぎるワ」

「ほんで、駈落ちやったがでしょう?」

「駈落ちなもんかね。それこそ『偽装駈落ち』やき。うちの離れの二階で、寝よっただけよ。あほらしいやろう?」

「ええ?ここに居ったがですか?そりゃあ、駈落ち、ゆわんワ。駈けてもないし、落ちてないもん。琴ちゃんの里帰りに付きおうただけですやいか」

「勇さん、やっぱり、来たね。みっちゃんの手料理、美味かったやろう?」

 二人の会話に飛び込んできたのは、ランドセルを背負った、S氏である。

「あら、あんた早いね、今日、土曜日やったか?」

「インフルエンザが流行って、早退でもあるんや。学級閉鎖になるかもしれん」

「イカンやないの、はよう、うがい、と手洗い、ちゃんとしてき。予防接種しといても、かかる人はかかるき」

 わかってる、と言って、S氏は奥の間に入って行った。

「風邪、流行っちゅうがですね?」

「勇さん、あんたも、気ィつけや。寝不足も良くないらしいき」

 坂本刑事は、黙々と、昼飯を平らげて行く。千代は熱いお茶を入れ替えてやる。

「さて、勇さんの手柄話、聴かせてもらおうかな?」

 と、手を洗ってきたS氏がイスに腰を掛ける。

「手柄やなんて、ボンも人が悪いなぁ。お寅さんそっくりや」

「いや、嫌味やないで、あの時、勇さんと、山ちゃんが飛び込んで来んかったら、石さん、いきなり、撃たれてたかもしれん」

「そ、そうか?石さん、そう、ゆうてたか?」

(ゆうてへん、僕の勝手な想像や……)と、心の中で、答えていた。

「とにかく、相手はピストル持ってるし、匕首がズラッと並んでた。山ちゃんが、拳銃取出して、空砲を打っても、平気な輩ばっかしやったから、肝、冷やしましたワ。まあ、あの、仁吉とゆう人、凄いですわ。大の男、刃物持ってる男を、一撃ずつ、あっとゆう間に、五人がノックアウト。それと、大政さん、噂には聴いてたけど、あの年で、あれ、空気投げゆうんですか?講道館の三船久蔵十段の得意技でしょう、あれは?触ったかと思ったら、ばったばった、と転がってましたワ。畳やのうて、石ころのある地べたですき、起き上がれませんワ。そこへ、マル暴の杉下刑事と警官が傾れ込む。あっとゆう間の、捕り物でしたワ。僕は、逃げようとした、女一人、捕まえただけですワ」

「えっ、女捕まえた?それは、大手柄よ。その女が、義彦さんらぁの計画、密告して、義彦さん、殺される元作った女よ。魔女みたいな女。石さんもその女の所為で、危うく、撃たれるとこやったもの」

「そうらしいですねェ。取り調べで、白状しましたワ。その女、スパイみたいなことしてたんですワ。悪い女ですワ。

 それで、女の口から、殺しの実行犯、家に火ぃ点けた奴、皆、白状して、後は、マル暴と協力して、一網打尽ですワ。

 拉致されてた、若い女たちは、身元引受人が居るもんは、すぐ、帰して、後のもんは、ホテル泊めてます。ただ、その中の一人が、困ってるんです」

「なに?なんか、悪い事したが?」

「違うんよ、その女、レズっ気があって、あっ、ボン、耳、ふさいどき。女装した、石さんに惚れてしもうたがです」

「ええや、ないん?石さん、本当は男ながやき、女の人に好きになられてもエイやんか」

「それが、そうもいかんがよ、その女、石さんが警察のもんと思いこんじゅう。石さんが『長吾郎一家のもん』ゆうたがを、聴いちゃあせん。ただただ、その容姿に眼がいって、ひと目ぼれよ。『あの人に会わせろ』ゆうて、利かんらしい。担当の巡査が困っちゅうき、何とかせい、ゆうて、課長に命じられて。石さん連れて行かんと、大目玉喰らうことになる。千代さん、お願いできんろうか?ちょっとでエイき、石さんとその女を逢わせちゃってもらえんろうか?」

「警察も後始末までさせられるがやねぇ。わたしより、この子とジョンに頼みや。石さん、ジョンを命の恩人と思うちゅうき」

「そうやね。ジョンが一番偉いきね」

 刻屋の親子の言葉に、勇さんは返す言葉がない。親子は顔を見合わせ、笑い合うと、

「ほいたら、一緒に行こうか、ジョン連れて、顔役さんとこへ。小政さんは居らんろうけんど、石さんは留守番してると思うでェ」

「留守番って、顔役さんとこ。何か取り込んでるのか?まさか、○○組の報復って、噂でもあるがか?」

「勇さん、考え過ぎよ、今、○○組、そんな力ないわよ。幹部二人捕まって、組員も捕まって、長吾郎一家と事、構える余裕なんかある訳ないやろう。別件や。お目出度い話かもしれんよ」

 と、千代が意味深な事を言う。

「目出度いって、誰か、結婚するがですか?」

「そうよ、しかも、二組……」

「二組?わからん、誰と誰と、誰と誰です?」

「鈍いなあ、亀ちゃんと琴ちゃん」

「えっ、若すぎません?特に琴絵さん、芸妓として、これからでしょう?そいたら、もうひと組は?」

「仁吉さんと雪乃さんに決まってるやろう」

「えっ、ふたり、もうそんな深い仲になっちゅうがですか?再会して三日でしょう?」

「なに、言いゆうぞね。仁吉さん五年も待ったがぞね。それに、こっちは、二人ともエエ年やから、早う所帯持って、子供作りたいやろう」

「そ、そうですね。早いに越したことないですもんね」

「あっ、勇さん、焦ってるね?自分もみっちゃんと、早う結婚せんと、と思いゆうろう?一人じゃあできんよ、結婚は。思い切って、告白するしかないやろう。『みっちゃん、俺の嫁さんになってくれ』ってね」

「ボン、大人をからかいな……」

 ほら、早う、行くで、ジョンが待ちゆうき、と、S氏は先に我が家を飛び出す。勇次もつられて、表へ出て行く。

「あっ、飯代、忘れちゅう。まあエイか。今日は勇さんの、手柄のお祝いと思うて、タダに、しちょいちゃろう、お母さんには内緒で……」


        13

「この長い物語も、そろそろ、最終章なんですがね」

 と、S氏は残っていた、オキニロギを頬張り、グラスの酒――瀧嵐――を口に運ぶ。

「その、顔役さんが、怨霊の祟りをどう解決したか?その話が残ってますね?亀次郎と琴絵さんの結婚もどうなったか?事件とは関係ないことかもしれませんが……」

「そうです、そうです。そこを説明しないと、この物語は中途半端になります。探偵物語ではなくなりますが、続きをお話しいたしましょう……。そこで、話は少し、時間が逆行します……」

 と、物語の続きを語り始めた。

 亀次郎と琴絵が長吾郎家へ帰って行った時、長吾郎は留守であった。

「親父さん、何処行ったんや、このセワシイ時に……」

 と、お多可さんに愚痴を言う。セワシイのは、自分の思い込みの所為であることに、気づいていない。

 その時、長吾郎は大政を連れて、○○組の組長を訪ねていたのである。一種の手打ち、というか、長吾郎一家への報復、嫌がらせをしないよう、釘を刺しに行ったのである。組長と言っても、新興ヤクザである。貫目が違うのである。長吾郎一家が、手を回せば、国家権力さえも動かせる。GHQにも懇意があったのである。○○組を潰すことも可能であることを、組長も良くわかっていた。

「わ、わかってますがな、悪いんは、うちの組の幹部二人や。いや、すぐ、破門にしましたワ。もう、うちの組とは関係ない輩ですき。お宅とは、これからも、仲ようさせてもらわんと……」

「うちは、おまんとこと、仲ようする気はないで。今後、悪さが目立ったら、容赦せん、それを言いに来たんや。ほな、帰るで」

 長吾郎は組長を睨みつけ、○○組を後にした。

 結局、琴絵はその日は長吾郎には会えず、刻屋に世話になることにした。長吾郎が帰って来たのは、日が暮れてからである。長吾郎は警察にも顔を出し、本部長にも筋を通してきたのである。本部長も、長吾郎の貫禄には勝てない。丁寧な対応をし、長吾郎一家――仁吉を含めて――には、何のお咎めなし。今回は、相手が刃物を持って、しかも、犯罪を隠匿するために、掛かって来たのであるから、正当防衛である。却って、犯人逮捕、人身売買の未然防止に協力いただき、と、礼を言われたくらいであった。

「何や、亀、帰ってたんか?旅は楽しかったか?」

 長吾郎は、亀次郎が「駈落ち」をしたとは思っていない。琴絵と何処か、保養の旅行をしてきたと思っている。まあ、心中と聴いて、慌てたこともあったが……。

 亀次郎は、拍子抜けである。全然、思惑外れである。

(親父さんは、なんちゃあ、心配してへんがや、こりゃ、今晩、琴絵との結婚話してもあかんな、明日にしよう)と、計画の変更を余儀なくされた。

        *

 その翌日、亀次郎は神妙な顔をして、長吾郎の前に座っている。そこは、長吾郎家の居間、「狩野探幽」の掛け軸の前である。亀次郎の後ろに、琴絵も正座している。

「大事な話がある」と、朝の時間に長吾郎に申し出たのである。

「大事な話っち何ぜ?琴絵も一緒かえ?」

「親父さん、わしらあ、一緒になろうと思うちゅう。結婚するがじゃ、どうぞ、承諾してくれ。この家の跡はきちんと継いでゆくき。お願いじゃ、この通り……」

 亀次郎は、畳に頭を摺りつけるように、そう言った。琴絵も深く頭を下げる。

「け、結婚話か?そりゃあ、目出度いことやが、えらい、急やな。琴絵はまだ、芸妓になった、ばっかりやろうが、芸妓、辞めるんか?」

「わしは、二十五や、決して早ようない。琴絵も二十二.千代姐さんもその年には亭主迎えちゅう」

「そ、そらそうやった。けんど、まあ、待て、今すぐ、返事せんでエイろう?わしもちくと、考えがあるきに、ちょっとばあ、猶予をくれ」

 長吾郎の慌てぶりに、可笑しくなった、亀次郎であるが、小政の計画通りである。ここは、グッと堪えて、

「わかった、けんど、早う返事をくれ。二、三日の内に頼むわ。琴絵の座敷の事もあるき」

 と、言って、座敷を出て行った。

 二人の後を見送って、長吾郎は腕を組み、考える。例の「生き霊」「怨念」がやはり心配である。いつか、こんな時が来る、それは、鶴太郎の初七日の後、千代と話をした時から覚悟していたことである。

「やっぱり、ここは、ハチキンばあさんに相談かな?」

 と、結論を出した。

 そして、着替えを済ました時である。お多可さんが、

「刻屋の女将さんがお見えです」

 と、伝えてきたのである。

 渡りに船やな、とニンマリして、

「そうか、早う、お通しし」

と、お多可さんに申し渡す。

 それが、小政の計画通りの筋書きとは、長吾郎は気づいていない。

「顔役さん、おめでとうさん。亀ちゃん、結婚決まったがやてなぁ」

 と、いきなり、部屋に入って来た、お寅ばあさんのその一言に、長吾郎は大慌てである。

「な、何で、お寅さん、知っちゅうがぜ?」

 これも、小政の計画通りの「セリフ」、「状況」である。

「知ちゅうもなにも、本人と琴絵から、インマ、さっき、聴いたぞね。目出度いことやし、琴絵はうちの子同然やき、挨拶に来たがよね」

(あいつら、早、お寅さんとこ、行ったがか、まだ、わしがエイとゆうてないに……)と、心の中で呟く。

「どういたぞね?浮かん顔して?目出度いやないの。亀と琴の仲やったら、顔役さんも知らんことなかったやろう?ゆくゆくは、こうなることは、わかっちょったやいか」

 お寅さんに捲し立てられて、長吾郎は切羽詰まってしまった。

「お寅さん、聴いとおせ、我が家の恥やが、これを聴いちょいてもらわんと、話が進まんき」

 と、因果話、生き霊の話を始めようとした。

「ああ、例の、じいさんの武吾郎さんの因果話かね?生き霊の怨念、何人もが熱病でノウなった、ゆう話やろう?」

 と、先を越された。

「何でわかる?それより、何でその『因果話』お寅さんが知っちゅうがぜ?」

「あんた、アテを、誰やと思うちゅうがぜ。鶴ちゃんが、危ないゆうて、あんた、アテに『太夫さん』紹介してくれ、ゆうて掛け込んできたやないの。理由は言わんかったけど、アテがそのまんま、訳知らんと居ったと、思うちゅうかね?この辺りのことは、何でも知ちょらなあ、商売できんぞね」

(顔役さんとこの、「因果話」はマッちゃんが、話、広げて、知らんがは、顔役さんだけぞね)とは、言えないお寅さんである。

「それと、あんたが、じいさんから引き継いだ、女郎屋、人に譲って、組も解散、堅気の商売始めたんも、じいさんが、女、泣かしたから、そんな商売しとうなかったがやろう?ほんで、あんたところ、女っ気が少ないんやないの」

 お寅さんの一気な説明に、すぐに言葉が出て来ない。

(そうじゃ、この人は、唯の人やない。天下の「ハチキンばあさん」やった……)

「そ、そんなら、話が速い。わしも、おまんに相談しに行こうと思うちょった処よ。どうしたらエイろう?」

「初めに聴くけんど、あんた、二人の結婚どういても、許さん、とは思うちょらんろうねぇ?琴絵はアテらぁがきちんと躾けしちゅう。そんじょそこらぁのオナゴとはちがうぜよ。千代の次ばぁ、エィオナゴぜよ。わかちゅうねぇ?」

「わ、わかっちゅう。琴絵に何の異存はない。ただ……」

「皆まで言いな。その『生き霊』が怖いだけやろう?」

「そうや、エィ歳して、と、笑われるかもしれんが……」

「アテも古い人間やき、その辺は、おまんの気持はようわかる」

「そうやろう?若いもんにゆうても、わかってもらえん」

「ほいたら、こうしょう」

「なんか、エイ手があるんか?」

「例の『太夫さん』。あの人に頼もう。あの人、まだ元気にしとるし、御祓いの腕、上げたらしいで、ちょっと、電話して、相談乗ってもらえるか、予約しとこう。客がひっきりなしで、相談する時間、取ってもらえるかわからんき」

「そんなに、流行ってるんか?」

「世の中、訳わからんもんで悩んじゅう人が多いがぞね。けんど、アテの依頼やったら、優先的に訊いてくれる。そればあ、御布施をやりゆうき」

 お寅さんは着物の上から、ドンと胸を叩く。

(頼りになる人や。近所にこんな人が居って、よかったワ)と、長吾郎は思った。

「けんど、御祓いで、巧ういくろうか?前の鶴太郎の時は、一っ時しか利かんかったぜ」

「何、言いゆう。腕、上げた言いゆうろう。それに、鶴ちゃん元々、戦争で、身体壊しちょったやないの。亀ちゃんも琴絵も、元気いっぱいやで。生き霊も歳とっとる。もう、生きてないかもしれん。そう考えたら、こっちが有利なことばっかしやいか。あとは、おまんの気持だけや。生き霊か死霊かわからんけど、こっちの気合が強かったら、絶対勝ちやないの!」

「ほんまや、あんたのゆう通りや。あの時と状況、違うワ。ほんまに、あんたも千代さんも強い人や。わしの命の恩人や」

「千代と一緒にしな。アテの方が、何倍も強いで。それに、命の恩人って、アテらぁ、あんたの命は救うてないでェ」

「いや、亀の命は、わしの命と一緒や。この恩は長吾郎、一生忘れん。いや、わしだけやない、孫の代まで、恩に報いる」

「ほいたら、亀ちゃんと琴絵の子まで、ちゃんと話しといてや。うちの子にゆうとくき……」

        *

 その日の午後、電話で予約した、薫的神社の側の庵に向かったのは、長吾郎、お寅さん、小政である。亀次郎と琴絵がいないのは、二人には「因果話」を知られとうない、と、長吾郎が言ったからである。二人が承知していることを、知らないのは、長吾郎だけである。

 庵には、白髪頭に白装束、赤い袴をつけた、老婆と、その弟子か、白装束にポニーテールの髪型の若い娘が待っていた。

 祭壇の前に客の三人が座る。

「ほう、あんた、前に来たことがあるね。生き霊が家族に憑ちょった人やね?」

 巫女装束の老婆が、片目で長吾郎を睨む。左の眼は見えてないらしい。お寅さんによると、神さまに御祓い等の能力を授かる代わりに、左目を捧げたそうである。霊能力者に左目が不自由な人が多いと、小政は訊いたことがある。

(こら、ホンマもんかもしれん)と、小政は思い始めている。

「今日もその生き霊の件やね。けんど、安心し。もう生き霊やない。その人、亡くなってるワ」

 小政は、顔色を変える。どうしてわかるのか?俺らぁが、何日も掛けて調べて、九十パーセントは死んじゅうとわかったことが、一目でわかるんか?まさか……。

「アテはなんちゃあ、教えてないぞね」

 と、隣のお寅さんが、小政の顔色を見て、先に囁く。小政は、お寅さんが、事前に情報を流したか、と、疑ったのである。それを、先に読まれた。このばあさんにも、霊能力があるんやろうか?ますます、小政の顔色が青くなる。

「こんなことで、ビックリしよったら、身体もたんぞね。小政の兄ィさん、ここは、あんたの常識、科学では追いつけん領域やき」

 と、小声が続く。

 そうか、この庵自体が、異常な空間ながか。そう思うと、背中がひんやりとしてくる。部屋の空気が、常温と違うようでもある。

「まあ、大丈夫やろうけんど、折角、来たがやき、元の生き霊が、死んで、死霊にならん様に御祓いはしちょこう。それで、今後、一切、災いは起こらん。逆に、商売は繁盛する。悪いことの後は、必ず、エイことがあるき。『塞翁が馬』ゆうろう?」

 小政は一言もない。完敗である。

(俺の出番ないやないか。社長に褒めてもらえん。ボンにも自慢できん……)

 長吾郎一家の名軍師も頭を掻くしかなかった。

        *

 御祈祷の後、お札を貰い、充分過ぎる「お布施」を渡した帰りしなに、

「何ぞ、悪いことがあったら、何時でも、相談に来いや。商売の事でもエイきに。けんど、私が生きちゅう内には、そんな心配もないねェ」

 と言って、太夫さんは三人を見送った。その予言通り、長吾郎は二度とこの庵を訪ねることはなかったのである。

「小政、何、浮かん顔しちゅう?これで、何もかも巧う行くやないか。亀と琴絵も結婚できる。そいたら、亀は『長吾郎一家』を継ぐ、言いゆうき、バン万歳やないか?」

「顔役さん、小政さん、本当は、太夫さんの能力、疑うちょったがですよ。御祓いなんて、『非科学的』やとか、『トリック』があるとか、そう思うちょった処、アテらぁが何ちゃあ言わんうちに、全部お見通しやったでしょう?グウの根も出ん、ちゃ、このことですワ」

「ははは、流石の京大出も太夫さんの霊能力には勝てんかったか。そりゃあ落ち込むにゃあ、今まで、負け知らずの『小政兄ィさん』やき」

 豪快に、長吾郎に笑われて、却ってスッキリした小政であった。頭を掻きまわす。

「おやおや、うちの千代が好きな『金田一耕助』になりゆう」

「ほうじゃ、昔、GHQがらみの事件の時の探偵によう似ちょらあ。小柄で、愛嬌のある顔、そっくりじゃ。けんど、小政の方が男前じゃのう」

 老人、二人に褒められても嬉しくない。千代姐さんかボンに、褒められたい。あれ?俺、千代姐さんに、惚れちゅうがやろうか?大分、年上やし、三人の子持ち、ミソジ過ぎちゅうに……。けんど、話が合うがは、一番や。ボンも同じや。そうか、話が合うんや、あの二人ぁりとは……。

 そう、気がついて、また、髪の毛を掻きまわす。老人二人が、それを見て、ますます、豪快に笑う。夕焼けが美しい冬の日であった。


      14

「亀次郎さんと琴絵さんの結婚式は、その年の春、盛大に行われました」

 と、S氏はふたたび、酒を口に運ぶ。

 二人の仲人は、アラカン先生夫婦である。亀の親側には、長吾郎と母親役に、お多可さんが座る。お多可さんはその役を何度も辞退した。「唯の女中風情が……」と、本人は身分違いを気にしているのである。しかも、琴絵が嫁に来るということは、自分の仕事がなくなる、長吾郎一家から出て行くことになると、覚悟を決めていたのである。お多可の亭主は戦時中に亡くなっている。子供も居らず、親戚と言えば、姪がいるが、遠くへ嫁に行っている。天涯孤独の身の上であった。そんな自分が、大事な跡取りの「母親役」なんて、大事や、バチが当たる、そう思っていたのである。

 その、気持を変えさせたのは、番頭の大政こと、政五郎である。政五郎の女房も、戦後間もなく亡くなっている。こちらは、二人の子供がいるが、二人とも女の子で、最近、下の娘が嫁いで行った。大政も一人身となったのである。

 大政が、勇気を出して、お多可を口説いた。後添いにと願ったのである。お多可の性格、人柄、全てに惚れていたのである。

 それを、長吾郎一家、全員が後押しした。お多可は長吾郎一家の女中ではなく、姐さん、いや、女将さんの存在であったのである。

「こんな、私で、エイがですろうか?」

 お多可は、涙ながらに、長吾郎に尋ねた。ここでも、身分違いを気にしていたのである。

「何、言いゆう。あんたを悪うゆうたら、刻屋の悪口言いゆうも同じや。あんたは、お寅さんの秘蔵ッ子やいか。一番信頼できる、ゆうてうちに来てもろうたがや。鶴の世話から、亀の世話まで、本当に、頭の下がることばっかしよ。あんたにとって、大政じゃあ、割が合わんかもしれんが、大政はうちじゃあ、一番信頼できる男よ。歳は大分喰うちゅうけんど、子もみんな、片付いちゅうし、エイ話と思うで。刻屋とうちの一番同士やき」

 長吾郎の言葉に、お多可は涙を浮かべ、大政に「よろしゅう、お願いします。」と頭を下げた。お多可も、大政の人柄には、前々から、憎からず思っていた。いや、理想の男として見ていたのである。

 そんな訳で、亀次郎の結婚式では「母親役」を務めた。

 琴絵の両親役は、千代と幸雄である。

「うちのじんまさんが、もうちょっと、元気やったら、アテがやっちょったに……」

 と、お寅さんは、自分の亭主の健康を悔やんでいた。

 琴絵は、結婚後も、しばらくは芸妓として、お座敷に出たりしていた。子供が出来るまで、という約束である。亀次郎が、子作りに精を出したかは、定かでないが、翌年の夏には、玉のような女の子が誕生した。

        *

「亀次郎たちと同時に、もうひと組、夫婦が誕生したんですがね」

 と、S氏が意味深に、酒を口に運ぶ。謎を問いかけているのである。

「大政とお多可ではありませんよ」

 と、釘を刺す。

「ああ、仁吉さんと雪乃さんですね」

 と、私が答える。

「仁吉と雪乃は結婚した筈ですが、その前に、大阪へ帰りました。雪乃さんは天涯孤独の身ですが、仁吉は、軍隊時代の恩師もいる。親戚、知人も多い。おまけに、義彦さんの遺骨を持って、きちんとお弔いをする必要がありました。そのため、亀次郎の結婚も知らないうちに、長吾郎の元から、お暇してしまいました。まあ、おそらく、二人が結婚したことは間違いないでしょう」

「では、当てましょう、坂本刑事とみっちゃんですね?巧く行ったのでしょう?坂本刑事の求婚……」

「やはり、そうきましたか」

 と、S氏は嬉しそうに、また、酒を口に運ぶ。

「えっ?違うんですか?他には、カップルいませんでしたよ、今までの話の中では。小政さんは千代さんに惚れてるみたいでしたけど、それは無理でしょう?」

「坂本刑事は、みっちゃんに振られました。でも、それはもう少し後の話で、彼が、大阪府警に転勤――実際は一年ほどの期間の研修ですが――になる時、やっと、告白したんです。大阪へ付いてきてくれって。で、そこで、みっちゃん、悩んで、御免なさい、になりました。三年くらい後の事です」

「では、誰です?さっぱりわかりません」

 と、私は手を挙げた。

「石さんですよ」

「えっ?女形の石さん?そんな、お相手いましたか?」

「ええ、ほら、坂本刑事がうちに来て、石さんに逢わせろとゆう、被害者――虎乃介に拉致されてた――がいたでしょう?」

「ああ、坂本刑事が困っていた話ですね。続きを聴いてなかったですね?」

「事件とあまり関係なくなりそうで、お話ししなかったのですが、この女性、本気で、石さんに惚れたらしい。しかも、男としてです」

「えっ?でもその女の人、石さんの女装、つまり、幸子の時しか知らんのでしょう?本当の顔、見たことないはずなのに、何処に惚れたのですか?」

「話が、長くなりますが、石さんのロマンス、聴きたいですか?」

「ここまで聴いたら、辞められません。どうぞ、続けてください」

 私の言葉に、それでは蛇足になりますが、と、S氏は私のグラスに酒を注ぎ足し、話を進めた。

        *

 話は、S氏と坂本刑事が、刻屋を飛び出し、千代が、それを見送った場面に戻る。

 二人が――放し飼いのジョンは何処かへ出かけて、留守であった――長吾郎一家を訪れた時、玄関先で、見知らぬ女が、声を荒げていた。

 当時としては珍しい、短髪で、男物のシャツにジャンパー、スラックス姿である。見た目は男装であるが、瞳は大きく、愛嬌のある、顔立ち、美人の部類と言ってよい。まだ、二十歳を幾つか過ぎた位の若い女性である。

「幸子、いや、悟郎さんか、ここに居るんやろう?話があるねん、早う逢わせてんか。なに、愚図愚図してんねん、おばちゃん」

 その娘は、お多可さんと揉めているらしい。どうやら、石さんに逢わせろと、言ってるようだった。お多可さんが、奇妙な風体を訝しく思い、○○組の報復も考えられるので、躊躇しているらしい。

「勇さん、あの人、勇さんが言ってた、石さんに一目惚れして、逢わせろ、ゆうてゴネてる人やない?」

「そうや、確か、男みたいな恰好してる、って聴いてたワ」

「ほんなら、ちょうどエイやんか。勇さん、行って、お多可さんに説明し。ほんで、石さんに逢うだけ、逢わせちゃったら、本人納得するろう?」

「そうや。その為に来たんやから、ちょうどエイ、僕がゆうワ。

 お多可さん、刑事の坂本です。その人、怪しい人と違います。石さんに、昨日のお礼言いに来たがです。逢わしちゃってください」

 勇次の声に女性二人は同時に振り向く。お多可さんは笑顔に、若い女は、ふくれっ面をみせる。「お礼やない、惚れてしもうたがや!」と、その顔は言っている……。そう、S氏は判断した。

「そうゆうことでしたか。この人、石さん居るろう、早よう出し、って、脅すようにゆうもんやから、喧嘩ふっかけに来たかと思いましたんよ。ほいたら、呼んできますき。ちょっと待ちよってね」

 お多可さんは、娘に笑顔で会釈して、門から母屋へ急ぐ。

 女性の方は、勇次を睨みつけるようにした後、S氏に視線を移し、

「この子は何ね?あんた刑事ゆうたろう?子連れの刑事か?初めて見たわ」

 と、トゲのある口調で言う。

「この子は、近所の子や。石さんに用が合って、連れて来たんや」

「石さんに用?あかんで、うちが先客や、どんな用か知らんが、うちは一生の問題や、あんたらぁ、後回しやで、帰った方が、エエんとちゃうか?」

「お姐さん、大阪の人?関西弁、巧いなあ。エンタツ、アチャコの漫才、聴いてるみたいや」

 S氏の笑顔のその言葉に、一瞬、戸惑いの色を見せたが、その女は、すぐに、笑顔を浮かべ、

「ボク、エンタツ、アチャコのファンか?大阪のラジオ聴いてるか?」

「うん、東京の漫才より、大阪の方が面白い。ダイマル・ラケットも大好きや」

「エエ子や、ネエちゃん、気にいったで。仲ようしような。ボク」

 と、右手を差し出す。握手をするつもりらしい。

 そこへ、石さんが玄関先に現れる。今日は、男装、山長商会の制服――半被――を羽織っている。この姿も似合う。歌舞伎役者になった方がエイのになぁと、S氏は思った。

「私に、ご用の娘さんとは、そちらさんですか?」

 と、小政同様、腰の低い、丁寧な応対である。長吾郎一家の躾けの良さであろう。

「あ、あんたが、あの時の幸子さんか?全然、別人や。凄いわ、惚れ直したわ」

 娘が、本来の石さんを見たら、百年の恋も一瞬で醒める、と思っていた、S氏と勇次は顔を見合す。

「ウチ、あん時、ヤクザの家に拉致されてた一人や。真(まこと)ゆうねん。真実の真で、マコトや。男か、女かわからん名前やろう?」

「ああ、あの時、カルメンさんのすぐ後ろに居った方ですね?憶えてますよ。とても、男っぽい人が居る。私と正反対やと、思うたことです。いや、悪口やのうて、素敵な方やと、印象に残ってます」

「うれしいわ、憶えててくれて。カルメン姐さんとは、同じ劇場に出てたから、顔見知りよ。ほんで、カルメンさんの背中にひっついてたんよ。こう見えても、怖うて、震えよったんよ。根は、か弱い女やから……」

 えっ?じゃあ、この人も「ストリッパー」なんか、と、S氏は少し、身を引く。けど、この人も、カルメンさんのような事情があるんや。ヤクザに縛られてたんや。と思い直した。

「それで、私にご用とは、どうゆう?」

「大事な話なんや、立ち話も何やから……」

「ああ、では、お入りなさい。生憎、主人は留守ですが、離れを使わしてもらえますから、どうぞ、遠慮のう……」

 石が、真と名乗る女性を招き入れる。S氏と坂本刑事がそれに続こうとすると、

「なんやね、刑事は用ないやろう?この子は可愛いからエイけど、あんた、帰り」坂本刑事を邪魔者扱いする。

「その刑事さんは身内です。今回の拉致事件でも、内密に協力してくれた方です」

「ああ、あん時、何もできんと、ボーとしとった、刑事か。何か『逮捕する』ゆうて手帳、見せただけで、ひとりも捕まえられんかった男やろう?一緒に居った、巡査のほうが、活躍してたで。警棒で、ひとり叩いて、手錠掛けてたわ」

「あんた、あの現場に居ったんか?」と勇次は顔を赤くする。

「そうや、怖かったから、カルメンさんの背中に隠れてた。逃げ遅れたんや。警察やない、男衆が、ヤクザ、バッタバッタと倒してるのに、あんた、一番弱そうな、足払われて、倒れた女ひとり、手錠はめただけや」

 よく、怖いと言いながら、現場の状況を、しっかり記憶している。気の強い人なんだ、とS氏は思った。

 ははは、と石さんに笑われて、勇次も一緒に離れに向かった。

「それで、私に大事な用とは?」

 離れの座敷で、お多可さんの淹れてくれたお茶を飲みながら、石さんが真に尋ねる。

「あんた、ウチと、結婚してくれへんか?」

 いきなりの求婚である。当時、女からの求婚は珍しい。真以外の三人は、驚きの表情を隠せない。

「い、いきなり、結婚の話ですか?こりゃあ、驚かされますなぁ。確かに、大事な話には違いないけど……」

「真さんゆうたかね?姐さん、石さんを命の恩人や、と、思うてそんな気になっちゅがやない?一時の興奮状態で、自分を見失のうたらいかんよ」

 まるで、お寅さんが乗り移ったかのような口調で、S氏が真に釘を刺す。

 真も、ちょっと、身を強張らせる。

「ボク、エライ、大人の口調やね。けど、ちゃうねん。命の恩人とは思うてないねん。理想の男に巡りおうた、そう、思うてるねん。ウチの境遇、話すワ。そしたら、事情、わかってもらえるやろう」

 真は、ゆっくりと、自分の生い立ち、今までの境遇を話し始める。

「ウチの、父ちゃん、歌舞伎の『女形』やねん。関西では有名な役者さんの弟子になって、頑張ってたんよ」

 と、どこかで聞いたことのある話を始める。

 驚きの事実が判明する。真の父は、石を苛めて、追いだす原因を作った、女形、その弟弟子であった。石は、それに気付いたが、話を止めず、真の話に耳を傾ける。

「子供の頃から、友達に『女形の娘』ってからかわれて、苛められた。その所為で、女が嫌いになったんよ。男になりたい、そう思うて、髪も切った。服も男もんにした。言動も男っぽくした。そしたら、苛められん様になった。女の子に、慕われ出した。変な世の中や」

 わかる、と男三人は肯く。

「大きゅうなったら、宝塚へ入ったらエイ、とも言われて、その気になったけど、宝塚は狭き門。受験に失敗して、周りに合わす顔がない。そんな時、悪い男に引っ掛かって、ヌード劇場で『レズビアン・ショー』やる、あっ、ここから、ボク、耳ふさいどいてな」

 大人は、皆、同じセリフゆう。と、S氏は肩をそびやかす。

「そのショーに出たら、お客に大受けや。宝塚の舞台やないけど、スポットライト――ほんまはミラーボールゆうらしいけど――浴びてる気がして、お金になるし、しばらく、やってみようと地方回りに出たんよ。そこで、カルメンさんにも出会うし、殺されたノンちゃん――あっ、ゆうてなかったけど、例の偽装無理心中で殺された踊り子がノンちゃん――も一緒やった。ノンちゃん、薬やってた。それで、きちんと踊れんさかい、ウチと組んで、レズビアンショーをしてたんよ。ウチが、男役、ノンちゃんが女役。何とか、客の受けもよかったんやけど、薬が辞めれんで、身体壊して、ここ――土佐――へ来た頃には、舞台へ立てん状態になってた。うちも相方おらんと、舞台に立てん。ノンちゃんの他にレズ、やる人居らんかったから……」

 それから、例の「偽装心中事件」が起こり、ノンちゃんはお役御免で、心中の片割れとして無残に殺される。事情を知っていそうな、真は人身売買を企てた、虎乃介の元へ連れて行かれた。そして、石による、救出作戦に出会うのである。

「うち、こんな形してるけど、気持は女やねん。男の人と恋もしたい、子供も欲しい。けど、男の人に相手にされん」

 そんなことはない、美人の部類やし、形(なり)、以外は正常や。と三人は思っている。真の思い込みである。子供の頃の「トラウマ」で、一種の男性恐怖症であろう。

 話を詳しく聴くと、真にはヤクザのヒモは付いていない。ヌードショーを紹介した男は、芸能関係の男で、その後、縁が切れている。レズのショーだけの出演であり、大した露出もなく、未だ、男を知らない身体らしい。歳はまだ、二十二歳とのことである。琴絵と同い年である。

「幸子さん、いや、石川悟郎さんが、石川五右衛門の子孫って、まるで、弁天小僧吉之助、みたいなセリフゆうた時、お父ちゃん思い出したんよ。カッコエイなあ。うち、本当はお父ちゃんの晴れ姿、見たかった」

「えっ?お父さん、歌舞伎の舞台出てたんでしょう?」

 と、石が尋ねる。

「ううん、なんか、お父ちゃんの兄弟子の人が、有望な弟弟子をイビリ出して、その責任をお父ちゃんに押し付けたんよ。自分がやったこと、全部、お父ちゃんがしたことにして、親方さんに告げ口して。その所為で、決まっていた、弁天小僧の役、できんまま、お父ちゃん歌舞伎辞めさされたんよ……」

(えっ、それじゃあ、俺が我慢できんと飛び出した所為で、この娘の父親、職を失うた、しかも、晴れ舞台の寸前に……)と、石は自分と真の深い因縁に驚いてしまった。

「その有望なお弟子さん、ウチもちらっと見たけど、ほんま、綺麗な人やった。そんな人苛めて、追いだして、その罪、お父ちゃんに着せるやなんて、酷い奴やろう?けど、その人も、親方にばれて、歌舞伎界から追放されたそうやから、少しは溜飲、下がったワ」

「その、追いだされたお弟子さん、どうなったか、知ってます?」

 と、S氏が尋ねる。

「いや、全然、名前も知らんもん。どないしてるやろう?」

「それ、眼の前に居るやんか」

「ぼ、ボン、ゆうたら……」

「えっ?ま、まさか、石さんがあん時のお弟子さん?」

 真は言葉に詰まってしまった。

「どうも、そうらしいですわ。私の境遇と、ぴったり合うてます」

 その親方、○○でしょう?と訊くと、そうだと答える。間違いない、あん時のお弟子さんや。と真はもう、涙目である。

 石――悟郎――と真も不思議な縁で結ばれていた。偶然と言いきれない、縁である。

 座敷の中が、ひと時、沈黙に包まれた。

「刻屋のボン、来てるんやって?」

 と、障子を開けて、小政が、入って来る、そして、座敷の中の連中――四人の男女――の沈黙状態に、次の言葉を詰まらせる。

「ど、どないしたんや、石、静まり返って。そこの、お嬢さん、どなたさんや。泣いとるやないか。おまん、なんか、悪さしたんか?それとも、勇次さんか?」

「ち、違いますよ、僕は、何もしてません。泣かしたのは……、石さんでも、ボンでもないし……。真さんが勝手に泣いたんです」

 と、勇さんが言い訳をする。

「マコトさんゆうんか?そのお嬢さん。状況が、ようわからんなぁ」

「小政さん、まあ、座り。ちょっと、一言では説明ようせんき、座って、石さんの話聴いて……」

 一番若い、と言うより、大人を差し置いて、小学生のS氏がその場を取り繕う。小政は、困ったような、可笑しいような、中途半端な笑顔で、勇次の隣に腰を下ろす。

 S氏に指名された石が、事情を説明することになった。

「ほう、そりゃあ奇遇やのう。こりゃ、運命的出会いぜよ。石、ほんで、おまん、どうするがぜ。真さん別嬪さんやき、一緒になる、ちゅう選択もあるぜよ」

 小政が、二人の関係に驚きの表情を浮かべ、石に判断を迫る。皆が、その答えに注目する。

「いや、真さんとの縁には、正直、驚いてます。兄ィのゆうとおり、運命的なもんも感じますが、さて、所帯を持つとなると、私も、まだ、若いですき」

「若いって、幾つなが、石さん?」

 と、S氏が尋ねる。

「二十三です。若より、二つ下です」

「真さん、二十二ゆうたね?ひとつ違いか、エイ年頃や。うちの母ちゃん、二十一で結婚してるよ」

「そうですよ、歳なんて関係ない。縁です!縁が一番大切です!」

「勇さん、エライ、縁を強調するネェ。なんかあったん、過去に?」

「な、なんもないです。ないから、縁があるうちが、大事やとゆうんです。縁がないと、この歳まで、恋人一人、おりませんよ」

「ああ、勇さんエイ歳やもんね。わかるワ、その気持ち……」

「何、この子、けったいな子やなあ。大の大人が、負けとるやないの」

 と、涙が止った真が、不思議そうにS氏を見つめる。

「そうですねん。この子、大人顔負けの頭してます。この中で、勝てるんは、小政兄ィくらいですワ」

「まあ、ボンのことは、エイワ」

 と、比べられた、小政が話題を変える。

「歳はこの際、関係ない。勇次さんのゆうとおりや。けんど、今日、知り合うて、今日、結婚の話、段詰める、ちゅうのは、無理な話かもしれん……」

「厭です。今、返事が欲しいんや。駄目なら、駄目で、諦めるワ。待てん、ウチ、心の中が、張り裂けそうなんや……」

「ううん、困ったなぁ」

 と、小政が腕を組んで、考え込む。名軍師でも、すぐには、良い手――解決策――は、思い浮かばないようである。

 ふたたび、座敷に、沈黙が降りる。

 しばらく、考えた後、小政が切りだした。

「実は、今日、不思議な体験したんよ」

 と、太夫さん処での出来事を話し出す。

「ワシも神さまなんか、信じんほうやけど、今回は、驚いた。神さん、居るかもしれん。そこでや、二人の運命、神さんに託してみんか?」

「神さまに託すって、その、太夫さんに占ってもらうんか?」

 と、真が不安そうに尋ねる。

「いや、運命の女神さまや。勝利の神さまかもしれん」

「勝利の神さま?」

「そうや、石、ちょっと、例の技、見せてみい。真さん、あんた、財布持ってるか?」

「さ、財布ですか?ええ、男物の服やから、内ポケットに……」

 と、ジャンパーの胸元から、可愛い、札入れを取出す。

「エエわ、それ、元に仕舞って、ちょっと、立ってみてくれんか?」

 小政の言葉に従って、訳がわからないまま、真が立ちあがる。小政が、石に目配せをする。S氏には何をするかがわかったが、勇次と真には何が始まるか、さっぱりわかっていない。

 石が、立ちあがり、左手で、真の肩を、背中の方から軽く叩く。真が、

「なんやねん?」

 と、言ったその目の前に、今さっき、自分が取出して見せた、財布――札入れ――が石の右手の中で揺れていた。

「えっ?それ、うちの財布」

 と、胸の内ポケットを探る。そこにある筈の物がない。

 呆気にとられたのは、真だけではない、勇次も同じである。S氏もこれほど凄いとは思ってなかった。

 石は左手で、真の肩を叩き、真の意識が、左肩に集中した、その一瞬の隙に、財布を抜き取ったのである。眼にも留らぬ、神業である。

「驚いたやろう?これが、石の得意技や。勇さん、スリの現行犯で逮捕しなや。石は一度も、人さまの懐から、盗みはしたことないき。これは、訓練した、賜物やき」

「スリの現場、初めて見ました。いや、見えんかったけど、凄い。感心するだけです。プロの技や。相当な訓練した筈ですわ」

「それで、真さんにスリの技見せて、どうするん?こんな技持ってる人やき、結婚せんほうがエイ、ってゆうつもりなが?」

「流石の、ボンもこれからの展開は読めんろう?」

「いや、ちょっと待って、考える。ううん……。わかった」

「ええ?もうわかったんか?」

「うん、わかった。だって、小政さんの考えやろう?他の人が思いつかんこと考えるやいか。ほいたら、常人が思いつかん事、それが正解やろう?」

「ま、まあそうや。けど、その答えを、ボンには出せるんか?」

「うん、多分やけど、ゆうで。石さんの今の技で、真さんともう一回、勝負をするんやろう?だって、さっき、勝利の神さまに任す、ってゆうてたもん、勝負をするんやろう、何かで。そこで、石さんの技見せた、ってことは、それ使う、ってことやいか」

「す、凄い、完敗や。ワシ、兜脱ぐワ。ボン、千代姐さん越えたワ。名探偵になれるワ」

「な、何、二人、盛りあがってるんです?さっぱり、意味、わかりませんよ」

 と、勇次が二人の会話に割り込んでくる。石も真も同じ表情である。

「はは、悪い悪い、凡人には難しすぎる話やった。ボン、のゆうたとおりや。石と真さんに勝負してもらう。勝ったほうの意志を尊重する。負けたもんが、従うちゅうことや。その勝負の内容が、スリや。石が真さんの財布、抜けたら、石の勝、抜けんかったら、負けや」

「そりゃ、あきませんワ。石さんの凄技、誰も止められません。石さん、勝つに決まってますやいか。勝負になりませんき」

「勇さん、小政さんの話、最後まで訊き。きっと、ハンディーがあるんよ。石さんに不利な条件が……」

「はは、ボン、やっぱ、凄い勘してる。その通りや。ハンディキャップ、付ける。日時と場所、それに制限時間もつける。しかも、石の技、今、経験したろう?それもハンディの一つや」

「それって、怪人二十面相の予告盗難と同じや。不可能に近いき。だって、掏られるとわかっちょったら、掏れんように、財布、服に縫いつけたり、紐付けてたらエイもん。スリって、人の隙をつくんやろう?警戒されてたら、難しい、その上に、対処法を講じられたら、無理やろう?どう思う、刑事として、勇さん?」

「そ、そら、いくら石さんでも無理やろう。条件が悪過ぎる」

「はは、服や財布に小細工はせん、それも勝負の条件や。今から、幾つか条件ゆうワ。その条件の基で、二人に勝負してもらう。条件としたら、やや、石が不利と思われる程度にしとくワ」

 そこで小政は、他の三人に視線を巡らせる。

「場所と日時は、今度の火曜日、北奉公人町、火曜市の中や。時間は客の多い、お昼前の時間。真さんは胸ポケットに、さっきの財布入れてもらう。小細工なしや。服装は何でもエイが、胸をきっちり締めたらいかん。締めたら、剃刀使うて、開けることになる。それはそれで、スリの技やけんど、そこまで、させとうないき、そこは条件とする。

 真さんには、火曜市の東の端から、西の端まで歩いてもらう。唯、歩くんじゃない、店をひとつひとつ確認しもって、一般のお客のように歩いてもらう。物は買うても、買わんでもエイ。西の端に着たら、電車通りへ出てくれ。映画館があるろう?そこがゴールや。その間に、石が財布を抜き取ったら勝ち、取れんかったら負けや。開始時間を十時にしよう。十時に真さんが東からスタート。いつ、映画館前に辿りつくかはわからんが、一時間は掛からんやろう。その間、二人の勝負や。エエか、二人だけの勝負や。助っ人は頼めん。ただ、ここにいる、他の三人は立会人、勝負の見届け人になる。どうや?俺の提案?」

「ウチが勝ったら、石さん、結婚してくれるんか?」

「どうや、石、負ける気はないやろうけど?」

「エイですよ。その条件で、真さんさえ良ければ。けんど、ハンディが少なすぎますね。私の勝が眼に見えてます」

「エライ強気やなぁ。エイわ、その条件で、ウチも受ける。大口叩いたからには、逃げんときや。不戦勝は嫌やで、きっちり、白黒つけるんやでェ」

 真の男っぽい啖呵に石は苦笑しながら、応諾の意を示した。

「どうや、勇さん、ボン、この勝負、立会人になってくれるか?あっ、学校があったな」

「エイよ。どうせ、インフルエンザで学級閉鎖やもん。勇さんは?仕事、大丈夫?」

「ああ、僕は大丈夫。市中見回り、ゆうて出かけるわ」

「なんや、江戸時代の同心さんみたいやな」

「よっしゃ、勝負は、三日後の火曜日や。それでいこう……」

         *

 その三日間、行く宛のない――ヌード劇場へは帰れない――真は刻屋に泊ることになった。S氏が「友達として、タダで泊めてあげる」という申し出をしたが、

「エイワ、金はあるねん。ショーで稼いだ金、ほとんど、郵便局へ貯金してるねん」

 と、一般客として宿泊することとなった。

(何て説明しよう。「ストリッパー」「レズビアンショーの踊り子」なんてゆうたら、ばあちゃん、例の「江ノ口川のドブん中へ放りこむ」って言いそうやからなぁ……)

「何ブツブツゆうてんねん。はよ、案内し。どうせ、汚い旅館やろう?大丈夫、ウチ、どんなとこでも平気や。どこでも寝られる。心配せんでエイよ」

(そうやない、あんたの職業や!なんて、宿帳へ書くんや!しかたない、無職って書かそう、今は、本当に「無職」やから、エイワ……)

 S氏の心配をよそに、真は軽い足取りで進んでゆく。

「ねえ、真さん」

「うん、なんや?マコでエイよ。友達やろう、ボンとウチは。呼び捨てにしぃ」

「じゃあ、マコちゃん」

「エエワ、ちっちゃいけど、男の人から、そんな風に呼ばれるの、久しぶりや、小学校以来かもしれん。もっとゆうて」

「マコちゃん、石さんとの勝負、勝てると思ってるの?」

「当たり前やんか、掏られること、事前にわかってるんやでぇ。神経、左胸に集中してたら、掏られることなんかない。油断するから、アカンのや」

「ああぁ、駄目だ。絶対負けるワ」

「えっ、何で?何で、ウチが負けるの?」

「その、過信。おまけに、石さんの技、甘く見てる。今日見せた技、あれ、基本形だよ。肩叩いて、その隙にスリ取る。あれは、一番最低の技。何もせんと、抜き取ることも出来たはずだよ。身体に触れることなく。それと、条件の中に、普通の買い物客と同じように、店廻れ、ってあったでしょう?あれ、凄い、条件だよ。つまり、集中できない、商品眺める別の動作がいるんだよ。これ、隙が出来る、一つの状況だよ。そこへ、何かのハプニング、例えば、誰かが、喧嘩を始めるとか、水を掛けられるとか、『火事だぁ!』なんて、声をあげられたら、それこそ、隙だらけだよ」

「ぼ、ボク、何で、スリのこと、そんなに詳しいねん?ボクも修行した口か?」

「まさか、でも、それくらいは、常識。時代小説、捕り物帳を読んだら、わかるよ」

「うち、読書嫌いやねん。子供の頃から……」

「それで、よく、宝塚、受験したね。落ちるの当たり前や!」

「そうやねん。歌上手いだけじゃ、あかんねん」

「まあ、過ぎたことはしゃあないワ。けんど、今度は落ちる、いや、負けられんやろう?一生の問題や」

「そうや、後がないねん」

「後がないことないろうけんど、マコちゃん美人やし、これから、エイ男と出会う可能性高いと思うけど、石さん程の人は、多分出て来んよ」

「そうやろう?石さん最高やろう?」

「ぼ、僕がゆうのは、マコちゃんにとって、最高の人、って意味だよ。男としてなら、小政さんが上と思うよ。けど、マコちゃんには石さん。これ、本当に運命的やと思うよ」

「ボク、ようわかってるやん。そのとおりや。運命の人なんよ」

「そいたら、絶対、勝たないかん。その為には、念入りな作戦が必要や。必勝の作戦、軍師が必要や」

「どうしたらエエん?ウチにそんな軍師は居らんよ」

「うちの、母ちゃんに頼むわ。小政さんほどやないけど、相手が、小政、石のコンビや、ゆうたら、ない知恵が不思議とエイ知恵に変わって来る気がする。僕も考えるき、スリから、逃れる方法」

「頼むわ、ボク、一生のお願いや」

 あっ、この人「一世一代」って言わんかった。と、S氏は変なところで感心している。


         15

 千代に、真を紹介し、事情を説明したS氏である。お寅ばあさんも一緒である。やはり、勝負の話になると、女同士で、話が盛り上がる。

「絶対、石さん、小政コンビに勝つのよ。こんな勝負しようとした小政さん、石さんと真さんの結婚反対なのよ。自分より年下の、弟分が先にエイ娘と結婚するなんて、許されんのよ。おまけに亀ちゃんも、年下やし、負けてるもん、小政の兄ィさん、その部分だけ」

「そうぞね、あの兄ィさんインテリやき、負けず嫌いや。石さんに先越されるの、我慢できんがぞね。こうなったら、女の執念、見せつけちゃろうやないの。千代さん、エエ知恵出しや。小政の兄ィさんの野望、打ち砕いてやろうやいか!」

 S氏の想像以上に母と祖母は熱くなっている。

「こりゃあ、変な意見ゆうたら、どやされる、しばらく、静観しとこう。ひとつ、エエ案あるがやけんど、これゆうたら、ばあちゃんに江ノ口川へ放りこまれる。子供の考えることやない!ってなるんは見えとる。まあ、際どい作戦やき、最後の手段や」

 と、口に出さず、考える。

「後は、頼むよ。学級閉鎖で宿題あるき。」

 今度は口に出し、部屋へひきこもる。

 女三人は、ああだ、こうだ、と白熱した議論を展開している。

「そうよ、琴絵ちゃんにも意見聴こう。あの子、マコちゃんと同い年やし、頭もエイき、みっちゃん、琴絵ちゃん呼んできて」

 刻屋の女子連、総出での合戦準備である。初対面の、男装の真なのに、全然、違和感がないのか?十年来の知人、いや、家族のように膝を交えて、議論を戦わしている。

 S氏は「僕の出る幕ないかも……」と思い始めた。

 前日の月曜日の夕飯時になっても、作戦は纏まらない。物理的な細工はご法度なのである。とすれば、心理的な物しかないが、こちらは、防御側である。心理作戦は、相手が仕掛けてきそうな罠である。その全てに対処はできない。

「駄目だわ。相手の手の内が読めないもの」

 と、千代が嘆く。

「こうなったら、太夫さんに頼んで、盗難よけのご祈祷と、お札を貰うかね」

 お寅ばあさん、最後の神頼みである。

「今からじゃあ、間に合いませんよ。それに、二人の勝負ですき、太夫さんの力借りるのルール違反でしょう?」

「そうやねぇ、エイ知恵がうかばんねェ」

「ばあちゃん、お母ちゃん、怒らんと聴いてくれる?」

 と、S氏がゆっくり話を切り出す。温めていた作戦を話す時が来たのである。

「なんやね?こづかいの値上げかね?」

「ばあちゃん、何で、こんな緊急時にこづかい値上げの話するかいね。そりゃあ、上がるもんなら、上げて欲しいけど、給料安いがやろう?教師って。まあ、それはエイきに、作戦の話よね。マコちゃんもよう聴きよ。ほんで、絶対、怒りなよ」

「怒られるような作戦ながやね?けんど、この際やき、ゆうてみぃ、怒らんき」

「うん、ようするに、あれこれ考えてもイカンがよ、シンプルが一番。小政さんが前に言いよったろう?」

「そうや?けんど、今度の作戦、シンプルにできるんか?」

「戦は、相手の弱点攻める、ゆうろう?それと、自分の特徴――長所――を生かせ、ともゆうやいか?」

「そうや?それが、戦の必勝作戦や。けど、それが、どう、シンプルになるねん?」

「そこでや、石さんの弱点、マコちゃんの長所、考えたんよ」

「なんぞね、その弱点と長所ち?」

「さあ、これからや、怒られんで……」

 と、S氏はシンプルな作戦の全容を語る。

「あ、あんた!こ、子供のくせに……」

 と、千代が、顔を真っ赤にして怒りだす。

「お、怒らんゆうたろう?」

「そうや、千代さん、怒られん。うん、エエ作戦や。これで行こう。マコちゃん、あんた、覚悟出来ちゅうね?」

「お母さん、そんな、エエんですか?恥かしゅうないがですか?」

「エエですよ。ウチ、普段からそんなもんやから、全然平気。とゆうより、それ、格好エイ気がします。やってみたい」

「本人がそれなら、わかりました、今から、調達してきます」

 千代は、電話へ走り、何処かへ電話をしている。

「ありますか?ほいたら、今からゆきますき、お願いします。

 お母さん、あるって……。今から行くわ。マコちゃん一緒に行こう」

 千代と真は出かけて行く、その姿は、仲の良い姉妹のようであった。

「けんど、あんた、ようそんなこと思いついたな。それも、江戸川乱歩かえ?」

 と、お寅さんがしみじみ孫に話しかける。

 まさか、この案の出処が、散髪屋のマッちゃん処にあった、大人向けの雑誌だとは、口が裂けても言えない、S氏であった。

        *

 運命の火曜日の朝が来た。朝食に「クジラのカツ」が添えられた。勝負に「勝つ」のカツである。縁起を担ぐのが、お寅さんである。

 当の真はやや、蒼ざめているものの、落ち着いている。ソワソワしているのは、千代である。昨晩、慌てて調達した物をもう一度、点検しているのである。

「ホントに、エエの、こんなんで?」

 と、千代が、真に確認する。

「昨日、試したやないですか。エエ感じでしたよ。ウチ、気にいってます」

「そうか?私には無理やワ」

「そりゃあ、そうさ、三人の子持ちやもん、二十二才のお嬢さんの真似はできんろう。これは、マコさんやき、できる作戦よ」

「あんた、本当に、どこで、考えついた?変な場所、行きやあせんろうねえ?」

「行くわけないろう、ち、変な場所って、どこぜ?」

「マコちゃんの元の勤め先よ。掛川町近辺……」

「知らん、そんな場所、聴いたこともない!」

「まあエイわ、小政さんや仁吉さんと付き合いゆうき、ひょっと、と思うたがよ」

「それより、作戦の最終確認せんと、エイかえ?昨日、北奉公人町、歩いてみたがよ。三丁目から、五丁目まで、どこで、石さんがマコちゃんに近づくか……」

「あんた、実地検証かね?」

「うん、でも、市が開いてないき、今日の状況は想像しかない。まあ、火曜市は何回も行ちゅうき、店の数も、どんなもん売りゆうかも、わかっちゅう。近づくとしたら、緊張が、途切れる、後半以降、沖歯科辺りから、後やと思う。ほんで、その辺までは、少し速めに歩いて、来て欲しい。あの辺の少し手前に、よっちゃんの野菜売りゆう店があるろう?あそこに、ばあちゃんを配置する。石さんの動きがわかったら、合図するんや、買い物する振りして」

「それ、ルール違反やない?手助けになるよ」

「エエんよ、世間話で。そういやあ、長吾郎一家の石さんがさっき、通ったぞね、くらいなら、世間話やろう?」

「あんた、策士やなぁ。立派な軍師になれるワ」

「けんど、石さん、見つからんようにしてるでェ、きっと。変装してるワ。女やのうて、多分、相当男臭い格好してる」

「ほいたら、見かけん、男臭い、人に注意やな?」

 と、お寅さんが、自分のことのように確認する。

「一番可能性のあるんは、店員さん、しかも、目立たん、店主やなく、手伝いの人。そんな人には、気ィつけや」

「うん、わかった、目立たん格好の、男臭い、人やな?」

 と、今度は、真、本人が確認するように言った。

「それで、よっちゃんの店過ぎたら、例の作戦決行や。ゆっくり歩きよ。石さんを釣りださんといかんき。そこからが、本当の勝負処やき」

 真が、無言で肯く。

「エエな、耳や眼を当てにせんこと。肌で感じた瞬間、手を押さえる。昨日練習したこと、思い出してな」

「あんた!何、練習したん?」

「千代姐さん、エエんです。ウチが頼んだんです。ボンは悪うない。ウチのために、一生懸命。ありがたいワ」

「よっしゃ、後は、自分を信じて、そして、勝つこと、つまり、財布を抜き取る、石さんの手を捕まえること。エエね、手を捕まえる。それに集中や」

「ほんま、わが子ながら恐ろしいワ。わたし、教育、間違うたみたい。後の二人の子、絶対、こんな子にさせんとこう。放任主義が過ぎたワ」

「千代姐さん、ウチ、結婚して、子、できたら、ボンみたいな子に育てたい。育て方、教えてください」

「アカン、アカンよ。マコちゃん、こんな子になったら、いっつも、ハラハラ、し通し、何時先生の呼び出し来るかって、そればっかしよ。髪の毛、白髪になるよ」

「母ちゃん俺、学校では、優等生、品行方正、で有名やき」

「俺やないろう、僕やろう。それに、あんた、愛読書は『江戸川乱歩』しかも、『屋根裏の歩行者』が好き、とかゆうたろう?怪人二十面相なら、まだ許すけんど、『屋根裏』はイカン。あれは大人の読み物やき。先生から、読まさんように、ってお叱り受けたワ」

「そうか?名作やと思うけど……」

「名作や、けんど、まだ早い。十年は早いワ」

「あっ、そろそろ時間や。マコちゃん、着替えんと……」

「そ、そうや、着替えて、出陣や。エイエイオーや……」

         *

 火曜市の東の外れに一台のKAWASAKIのバイクが停まった。後ろのシートから、黒い革のツナギを着た人物が降りてくる。身体にフィットしたそのツナギの胸の脹らみは、その人物が、女性であることを、表わしていた。フルフェイスのヘルメットを脱いだ頭髪は、男のような短髪、リーゼントである。

 その、異様な様相に、市場に訪れた人々が、物珍しいそうな視線を向けてくる。その視線を振り払うように、「ありがとう」と、バイクのハンドルを握ったままの人物、――こちらもフルフェイスのヘルメットで、顔は見えないが、男であることは、その肢体から判別できる――に声を掛け、決心がついたように、ほっと息を吐き、胸を張って、歩き始める。ヘルメットを受取って、バイクは反転して、遠ざかって行く。

 革のツナギ姿の真は腕時計に眼をやり、十時を確認すると、市場の中へ歩みを進めた。簡単ではあるが、一軒、一軒、店を覘いて、西の方面へ歩いて行く。

 市場を歩く人は、彼女を不思議な眼で眺め、道を開けるように、彼女を避けるように、遠のいて行く。彼女の周りだけ、混雑が発生しない状況が続いていた。

 「沖歯科」と書かれた看板が見えて来た。その近くに、福井のよっちゃんの店がある筈である。そこに、お寅さんがいる、筈である。

 その時、真は、S氏の言葉を思い出した。緊張を解く、その瞬間を狙われることを……。

「まだまだ、半分や。ここからが勝負や。あのボンがゆうてたとおり、ここまで、なんも起こらんかった。あの子のゆうこと、信じよう」

 注意深く、よっちゃんの店を捜す。野菜を売ってる店である。本人の顔は知らないが、ベテランらしい、中老くらいの歳か?と並ぶ店舗に眼を向けた。

「あっ、いたいた、お寅さんが、中年、いや、初老の、姉さんかぶりの女性と話をしている。あの人が、よっちゃんなんや」

 と、真は、もう一度、辺りを見渡し、ゆっくりと、その店に近づいた。周りに不審な人物はいない。

「なんか、変わったもん、売ってる?」

 と。店先で声を掛ける。これは、前もって決めていた、合い言葉である。

「大して、変わったもんないで。まだ、よう捜さん」

 と、お寅さんが答える。変な会話であるが、これも、暗号である。石さんの姿を市場の中で、見つけていない合図である。

「ウチも、変わったもん(=石さん)よう見つけん」

 と、真が答える。

「今のところ、変わったことない。孫のゆうたとおり、こっから、先が勝負やき。そろそろ、例の手でゆくかえ?」

 と、真が野菜を物色している側に、お寅さんが寄り添い、小声で、話しかける。周りから見れば、野菜の説明をしているように見えるはずである。これも、S氏の提案である。

「うん」と肯いて、手にしていた野菜を元の位置に戻すと、胸の、いや、首近くにあった、ジッパーをゆっくり降ろし始めた。胸、両乳の谷間近くまで、ジッパーを降ろす。

「これくらいで、エイ?」

 と、お寅さんに訊く。

「そ、そこまでせんじゃち、エイろう」

 少し屈むと、胸の谷間が覘けそうである。白い肌が、露出している。古い女である、お寅さんには、耐えられない姿態である。

「ばあちゃんが、その位の反応やったら、これくらいでオッケイやね?ボンが、そう言いよった」

「ほんまに、エエんか?あの子のゆうこと、真(ま)に受けて……」

「エエんよ。諸葛孔明の『空城の計』ゆうらしい。隙をこれでもか、と見せつけたら、却って、デキル人間は戸惑うって……。ボン、ホントに賢い子や。お寅さんの血ィ引いてるんやな」

 いや、血は繋がってない、とは言えないお寅さんである。

「ほいたら、頑張ってきぃや。くれぐれも、気ィ抜いたらいかんよ。相手は、あの石さんやき」

 と、激励するしかない、お寅さんであった。

 真の格好は、スリにとって、財布、掏ってください、とゆう格好である。胸を開けているのである。財布は胸の内ポケットに入れる、その条件を守っている。そして、罠を仕掛けているのである。

 だが、あの神業に、その罠が通用するのか?

「ボンは一点に集中しろ、ゆうてた。左胸の……」

 顔が赤くなる、小学生のセリフとちゃうやろう、と思い出して、笑ってしまう。

「いかん、集中や、一点に集中。それが、石さんに勝つ、石さんと結ばれる、たった一つの、うちに出来ることや。一生の賭けや!」

 真は、気を引きしめ、市場を西に歩む。市場の店を眺めながら、少しづつ、ゴールに近づいているのである。

 何も考えまいとすると、余計、色んなことが、頭をよぎる。

 真の父は、女形である。が、世間は「女形」と「おかま」を同じ目で見る。父は同性愛者ではない。普段は普通の男である。真にとって、父は男らしい男であった。だが、クラスメートは「おかま」の子、と、なじるのである。

 今、思えば、そんな陰口、笑い飛ばせばよかったと、思う。が、子供心に、父親の商売――役者としての――を嫌っていたのかもしれない。それ故、彼女は自分を男っぽく見せようとした。本来、女らしい容姿なのに、胸の脹らみも、人一倍あるのに。それが、自分らしいと勘違いをして、生きて来たのである。

 その真が、石に出会った。いや、その時は、幸子であったが、幸子の啖呵、芝居じみたセリフが胸に染みた。嫌っていた父親の姿が浮かんだ。ああ、わたしは、この人と一緒になるんや。父ちゃんが、逢わせてくれたんや、と本能的に感じていた。

 だから、この勝負、勝てる。石さんと結ばれるのは、運命やもん。ボンもはっきり、そうゆうてくれた。ほんまに、賢い、エイ子や。あんな子が欲しい。石さんとわたしの……。

 ほんの少しの油断であった。市場の店が途切れる最後の店先、急に大きな声がした。

「へ、蛇や、大きな蛇や」

 と、男の声がした。

 その声に、気を取られる。大きな、青大将が、足元に近づいてくる。

 その時、店先にいた、小柄な男――真はその男を店の店主と思っていた――が真の側に寄って来た。大声を聴いて、その男の気配を感じる時間は、わずか、1秒であったろうか? 

「あっ」

 と、声を上げたのは、その男の方である。石である。

 石の右手は、真のツナギの胸の中で、停まっている。真の右手が、ツナギの上から、石の手をしっかり、掴んでいるのである。

 勝負は、真の勝である。

 石が、ゆっくり、右手を抜く、その指の先には、財布がある。しかし、勝負はついていた。

 石が、真の顔を正面から見据え、ゆっくりほほ笑んだ。真は、その時初めて、石の顔を見たのである。石は黒ぶちの眼鏡につけ髭をして、薄汚れた、農家服を着ている。スリの行為を眼に――いや肌に――感じてなければ、眼の前の人物が、石とは全くわからなかった。

 真の眼に、大粒の涙がこぼれ始めた。どうしても、こらえきれない。いきなり、石の胸に飛び込んで行った。その胸に顔をうずめ、思いっきり、泣きだしたのである。

「おい、おい、勝ったのは、そっちだぜ。泣きたいのは、私の方さ」

 石は、廻りの人目を気にしていた。

「ははは、石の完敗やね」

 と、背中で、声がする。いつの間にか、小政とボン、坂本刑事に、千代、おまけにアラカン先生と、ジョンまでいる。

 誰も、石の変装姿は知らなかった。だが、S氏も小政も、石がこの辺り――最後の局面――で勝負に出る、と踏んでいたのである。

「やっぱり、僕の予想どおりやったね。この辺におったら、一番エイところ、拝めると思うちょった」

「けど、予想以上やで。真さん、号泣やいか。周りの人が、訝しがっちゅうき、どっか、行こう。そうや、そこの喫茶店『オリンピック』って店行こう。そこやったら、コーヒーだけやのうて、美味しい、ソフトクリームがある。ボンはそれがエイろう?」

「わたしも、ソフトクリームがエイです」

 と、言ったのは、涙を拭きながらの、真の言葉であった。

 S氏と小政は、まるで、兄弟にように、同時に顔を見合わせ、同時に「はははは」と愉快そうに笑った。

 石だけが、仏頂面である。財布を握った手が、そのままなのだ。返すべきか、そのまま、預かるべきか、悩んでいる。

「石、おまんもエイろう?なんな?財布、まだ握っちゅうがか。眼にも留らぬ早業で、元へ返しちょき」

 その言葉が終わるか終わらないうちに、石の手から、財布が消えた。真が驚いた顔をする。今度は気づかれず、元の内ポケットへ戻したのである。

「さあ、行こうか。新しいカップルの誕生や。これで、三組目か。勇次さん、ワシらぁ、置いてけ濠、喰わされゆうにゃあ。頑張らんとイカンぜよ」

 坂本刑事は、余裕のある小政さんとは違う、自分が一番、あせっちゅうと、顔を強張らせていたのであった。

         *

「この。石さんと真さんの勝負ですがね」

 と、S氏が話を区切り、酒を口に運ぶ。

「ええ、私から質問して良いですか?あなたが真さんに授けた『空城の計』今一つ、どんなものかわからないのですが?隙を見せるっておっしゃいましたが、真さん隙など見せてないですよね?」

 と、私も酒を口に運び、先に問い正した。

「そうでした。そこの部分も曖昧でしたね。隙とゆうのは、服装の事です。胸を大きく開けることです。

 革のツナギの胸を大きく開ける。と、どうなります?胸が見える。つまり、バスト、おっぱいが、露出しそうになるのですよ」

 S氏の言葉に、私は言葉を失ってしまった。

「ははは、子供の考えることじゃありませんよね?これは、例の散髪屋のマッちゃんの店の、プレイボーイという、男性週刊誌の表紙の、モデルさんの衣装から思いついたんですよ」

 そうか、当時、アメリカ直輸入のグラビア雑誌があった、その後、日本版もできたようだ。

「石さんの弱点、それは、女性です。おそらく、石さんは女性との経験が浅い――ほとんどない――はずです。女性の悩殺的な格好、廻りの人が、眼を見張る、いや、驚いて、避けるほど、大胆なスタイルなら、まず、石さんは心理状態を平常に保てないと見越しました。そして、最後の罠です」

「そう、それですよ。『空城の計』以上の罠とは何です?」

「これは、今になっても、お話するのが恥かしいのですが、逆に、無知な子供だからこその発案でした。革のツナギの下、つまり、地肌ですが、何も付けない、いや、パンティーは履いてますよ、つまり、ブラジャーはしない。ツナギ一枚の衣装だったのです。そして、財布は左胸、手を入れると、自然に乳首に触れますよね?だから、真さんに、左胸の乳首の先だけに、集中しろ、と助言していたのです。母親が、顔を赤くして怒るのも無理ありませんよ。小学校低学年の子供が、乳首の先ですから……」

 確かに、財布を掏ろうとすれば、如何に素早くても、財布には手を触れる。その周辺にも。そこが、女性の、かなり、敏感な部分で、しかも、集中していれば……。

 私は、S氏の発案に兜を脱ぐしかなかった。

「でもね。いくら真さんが、乳首の先に集中していても、石さんの早技は止めれませんよ。石さんが、乳首の感触に、驚いて、手を止めない限りはね。財布を掏るのに、懐へ手を入れる。そこに、女性の柔らかい乳首があったとしても、手は止まらない。本能的に、掏ってますよ。そしたら、勝負は、おそらく、逆だったでしょう」

「でも、結果は、真さんが石さんの手を押さえたのでしょう?」

「だから、石さんは本能的じゃなく、意志を持って手を止めたのです」

「えっ?わざと負けた?」

「そうとも、言えます。小政さんはそう取っていました。石、おまん、わざと勝ちをゆずったな?と後に、石さんに言ったそうですから。石さん笑って答えなかったそうです。ですから、真相はわかりません。私の想像になるのですが……」

「おう、いつもの、最後の名推理、どんでん返しですね?」

「いやいや、そんな大したもんじゃあ、ありません。私は期待していたんですよ。石さんも真さんが好きであると。結婚まではいかなくても、一人の特別な女性と見ていたはずです。自分と正反対の境遇。しかし、自分と同じ、種類の人であることに気づいていたはずです。だから、真さんが、命を掛けて、石さんとの勝負に挑んでいる。半端な気持ちではない、そのことを、伝えられれば、石さんが、負けてくれると思って――いや、そうなってくれと期待して――いたんです。

 あの、眼を覆いたくなる格好――おばあちゃんは酷過ぎたと後で怒ってましたが――が、真さんの必死の訴えでした。こんな恰好をしてまでも、勝負に勝ちたい、貴方と結婚したい、とアピールしたのです。それを、わかってくれる、石さんだと思いました。真さんはそれまで、男らしい格好はしても、はしたない格好はしてません。舞台の上は別ですが。まして、女としての武器を使うなど、生まれて初めてだったでしょう。それは、石さんには良くわかる筈です」

「そこまで、考えて、あなたはあの勝負を計画したのですか?小学校低学年で……。いやいや、そっちの方に脱帽します。真さんが、ボンのような子供が欲しいと願った気持、ようくわかりますよ。私もそんな子が欲しい」

「きっと、その思いが、石さんに伝わった。そこで、石さんは少しゆっくり目に動作をしたのです。わざとでない振りをして。それが、真さんにわかった。だから、あの号泣になったのです。勝負の勝ち負けでなく、本当に自分を選んでくれた。それが、真さんに伝わった。素敵な結末となりました」

「わかります、わかります。わざとじゃない。勝負の勝ち負けでなく、お前に惚れて、お前を選ぶと石さんが態度で示したのですね?本当に素晴らしいお話でした。蛇足なんかじゃない。今日の話のクライマックスです。涙が、出てきました」

「そう、言って戴くと、私も話をした甲斐がある。でも、ここからは、本当に蛇足です。石さんと真さんのその後ですが、石さん、長吾郎一家を去ることになります。真さんの勧めで、もう一度、役者になることにしたのです。歌舞伎役者には戻れませんが、東宝、日活など、新興の映画会社が、新人を募集していました。石さんは京都でその募集に受かり、俳優として活躍しました。主役にはなれませんが、中々のバイ・プレーヤーと、なったそうです。

 そして、もう少し蛇足です。

 坂本刑事とみっちゃんが、何故、巧く行かなかったか?後で、みっちゃんから聴いた話です。みっちゃんも勇次さんのこと、好きやったらしい。けれど、刑事と言う危険な職業、しかも、その当時、ヤクザ同士のドンパチ合戦があって、坂本刑事もその弾の下、潜っていたんです。みっちゃん、その時、心配で、飯も喉を通らん、夜も眠れん、そんな日が続いたそうです。まだ、付きおうてもないうちに、こんな心配させられるなんて、女房になったら、大事や。そう思ったそうです。お寅さんも、母親の千代も、その言葉には、頷くしかありませんでした。勇次さんも納得して、大阪へ行きました。

 みっちゃんは私にとって、姉のような存在でした。母親の放任主義の隙間を埋めるように、私を可愛がってくれて、私が、まともに育ったのは、母親や、祖母のお陰、以上に、みっちゃんの存在が大きかったのです。

 みっちゃんは、うちが、旅館業を辞め、下宿屋と惣菜屋になった頃、縁あって嫁いで往きました。うちの両親が、結婚式での親代わりを務めました。琴絵さんとみっちゃん、二人の血の繋がらない『娘』を嫁に出したのです。

 それと、もうひとつ、うちの母親ですが、私の真さんへの発案に眼を丸くし、こんな子に育ったのは、自分の放任主義の所為だと深く反省したのか、探偵ごっこには興味を示さず、子育てに専念し始めました。妹、弟はいい迷惑だったでしょうね……」

 S氏は痛快に笑って、グラスの瀧嵐を飲みほした……

    エピソード Ⅴ (了)



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