エピソード Ⅴ 玉水町・心中事件(前篇)

        1

「今日の酒は瀧嵐という酒の中で、『純米原酒・バリカラ』ってやつにしましたよ」

 S氏はそう言って、褐色の一升瓶を取り出した。小さなカットグラスに酒を注ぐと、

「土佐の酒、というと、『土佐鶴』、『司牡丹』ときますが、当時――私の物語の戦後から高度成長期――で土佐の酒と言えば『花の友』という銘柄の酒がありました。高知酒造というメーカーで、戦前、高知市周辺の酒蔵が合併して作ったメーカーですがね。今でも、古い酒屋の看板に『清酒・花の友』ってのが、残っていたりして、私くらいの歳の者には、懐かしいもんですよ。

 話が脱線しましたね。『瀧嵐』は、その『高知酒造』が作っている酒でして、『花の友』って名称が、商品登録の関係で、使えなくなって、『瀧嵐』の名前で売り出したみたいですよ。何でも、詩人の『吉井勇』に因んだとか。このメーカーも、昔は高知市の『九反田』って所にあったのが、水質の関係で、『亀泉』と同じ、仁淀川水系へ移りましたがね。『仁淀川』って銘柄もあるんですが、今回の酒は、土佐酒の中でも『超・辛口』らしいですよ。私も、初めて飲むんですが、『バリカラ』って、博多弁のバリ――博多ラーメンの麺の固さで『バリカタ』ってあるでしょう?――から来てるんでしょうね」

 S氏は、書家の書いた、『瀧嵐』のラベルを眺めながら、うんちく話を終えた。

「今日の、肴(あて)は見た通りに、魚ですよ」

 と、彼がテーブルの上に取出したのは、いつもの、小鉢でなく、少し大き目の皿である。そこには、2種類の魚が数匹ずつ、乗っている。

「魚の干物を炙った物ですね。ひとつは、鰯の皮をはいだようなものですが、もうひとつは、アジ・ジャコに似ているが、違いますね?いつも、土佐にしかないような珍しい物ばかりですから、鯵のような、ありふれた物じゃあないはずだから……」 

「ははは、中々、名探偵並の名推理ですなぁ。流石です。『土佐ならでは』では、ないと思いますが、小アジのジャコのような魚は『オキ・ニロギ』。『沖ヒイラギ』とも言いますがね、土佐では『オキニロギ』が一般的です。ニロギ――ヒイラギ――には二種類あって、内海にいる『内ニロギ――普通にニロギと言います――』と、沖の定置網で獲れる『オキニロギ』。ニロギは骨が硬くて、丸ごとは食べれない、澄し汁なんかにすると、出汁がよく出るんで、煮て食べますね。オキニロギは、小さくて、柔らかいので、一夜干しにして、炙って食べる。作家の『檀一雄』が『美味放浪記』だったかな、エッセイで書いてますよ。紀州辺りでも、食べるでしょうが、やはり、土佐名物です。これも酢醤油、ポン酢なんかで、まるごと齧ってください。

 もう一つのほうは、鰯の一種ですがね。皮を剥いでいるんじゃない、剥がれているんです。『はだかイワシ』って名前らしいですが、土佐では『ヤケド』って呼んでますよ。海面から上がって来た途端、鱗どころか、皮まで、自然に剥がれてしまうらしいですよ。不思議な魚ですね。これも、高知市の浦戸――よさこい節の『みませ、みせましょ、浦戸をあぁけて』の浦戸ですよ――の名物です」

 S氏は「よさこい節」の一節で、自慢ののどを披露した。

「どちらの魚も、小さいけれど、脂がのって、辛口の酒には、最高ですよ。まあ、熱いうちにお上がりなさい」

 勧めれるままに、酢醤油で『オキニロギ』を抓む。程良い、塩味と歯応え、魚の旨味が酢醤油とマッチして、

「これは美味い。確かに、酒に合いますね」

 と、思わず、言葉が出た。

 続いて、少し、グロテスクな『ヤケド』を抓む。なるほど、火傷をしたような魚である。ネーミングが面白い。これも、頭から丸かじりである。

「美味い。イワシはイワシですね。でも、脂がのってて、大き目のウルメイワシと遜色ない美味しさです。いやぁ、高知の魚は凄いなぁ。鰹だけじゃない、こんな小魚でも、美味いもんの宝庫ですね」

 私の感想に、S氏は満面の笑みを浮かべ、さあ、さあ、とグラスに『瀧嵐』を注ぐ。超辛口の酒が、舌から喉、胃まで沁み渡って来る。


         2

「さて、今日の話は、少し長くなるかもしれませんよ」

 と、S氏は一口酒を飲んだ後、いつものように、昔話を語り始めた。

「前に、顔役さんの跡取りの『亀次郎』のことをお話しましたね。あの時、亀次郎と琴絵の『駈落ち事件』を、また後ほどの話としていましたが、今回は、その駈落ち事件に纏わって、大きな事件へと展開するお話です。

 事件の発端を何処にするか、難しいところですが、本題――事件そのもの――を語る前に、幾つか、その当時に起きた事柄をお話しましょう。そのほうが、結局、お話を理解しやすいと思いますので……。

         *

 琴絵が刻屋の見習いとして、住み込み始めた、あの事件から、三年ほど経った頃である。

 顔役さん――山本長吾郎――の長男、鶴太郎は戦地での怪我の後遺症から、寝たり、起きたりの状況が続いていた。発熱が続く、食欲がなくなる。風邪をひきやすい。こうした状態が続いていたのである。

 旅館、刻屋(ときや)の若女将、千代と鶴太郎は幼馴染みである。年は三、四歳、鶴太郎が上である。鶴太郎は美男、という枠からは外れている。目は細く、ダンゴ鼻である。が、眉は凛々しく、口元が閉まっている。とにかく、体が大きい。柔道の有段者であり、相撲も強い。その辺の、チンピラは避けて通る。「気は優しくて、力持ち」と、唄われた金太郎のような男である。

 一方の千代は、子供の頃は痩せて、大きな眼ばかり目立つ娘であった。身体も丈夫な方でない。風邪をひいては、熱を出す、そんなタイプであった。だが、近所では、評判の美人――子供たちの間ではあるが――で、勉強もできる。クラスの人気者であると同時に、いじめにも合い易い。そんな千代を庇ってくれるのが、誰よりも強い、鶴太郎であった……。

 鶴太郎が帰還後、静養をしていたある日、急に発熱し、肺炎の疑いがあり、入院して、一週間程した頃である。長吾郎一家の『小政』――本名は『政司』――が刻屋を訪れ、鶴太郎が、「千代に会いたい」と言っているので、お越し願えないか、と伝えに来た。

 入院したことは聴いている。病状がよく解らないので、まだ、見舞いにも行っていない。

「鶴ちゃん、退院したの?」

 と、千代が尋ねると、

「はい、病院の先生は、まだ様子を見た方が良いと、おっしゃるんですが、若がゆうことを聴きません」

 小政は鶴太郎を『若』と呼び、次男の亀次郎を『ボン』と呼んでいる。

「それで、病気の方は?発熱の原因は解ったの?」

「いえ、それが、肺炎の疑いはあるみたいなんですが、どうも、それだけじゃない。いろんな検査をしてますが、これといった、病気は見つからないようです。戦地での怪我から、ずっと、体調は悪いままですから……」

「本当に、早く元気になって、昔の鶴ちゃんに戻って欲しい……」

「私は新参者で、昔の若を知らないんですが、評判の男丈夫だったそうですね?」

「そうよ、『土佐の金太郎』って言われてたわ。小政さんは、お邦(くに)はどこ?」

「私は、幡多の方で、四万十川で、産湯の口です。まあ、構わなければ、今から、若に会ってもらえますか?」

「そうね、お母さんにことわってから、すぐ行くから、小政さんは先に帰ってて、お宅の離れにいるんでしょ、鶴ちゃん?」

「へエ、さようで。では、私は先に帰って、若にそう伝えておきます。では、失礼いたしました」

 小政も、千代とほとんど年は変わらない。少し、年下のようである。「京大を出た、インテリ」と、亀次郎が言ってたけど、全然、お高くない。むしろ、子供の時から丁稚奉公をしてきた、苦労人のような、気配りと、腰の重みがある。

「若いのに、できた人や」

 そう呟きながら、千代は、小政の背中を見送っていた。

        *

 お寅さんに事情を伝え、仕事着を着替えると、千代は勝手口から、東に向かって行った。

 松の木――見越しの松というのか――が見事な玄関の門を開け、声をかけると、顔見知りのお多可さん――元、刻屋のベテラン女中――が現れた。「お久しぶり」と、挨拶を交わす。すぐ、離れに案内された。母屋を通らず、庭伝いに離れに向かう。庭は、植木やコケむした石――岩と言うべきほどの大きい物も含め――が、この家の主(あるじ)の趣味の良さを表わしている。

 縁側のたたきで、下駄を脱ぎ、多可が障子越しに声をかける。

「おう、待ちよった。遠慮う、せんと、はよう入ってきぃや」

 障子越しに、男の声がする。思ったより、元気な声や。と、千代は鶴太郎の声に安堵した。

 多可が障子をあけ、千代を促す。

「今日わ、お邪魔します」

「なんな、その、京都の舞妓みたいな言い方は。おまんらしゅうないぜ。まあ、風が入るき、はよう入って、戸を閉め」

 鶴太郎は、布団の上に丹前を着た格好で、足元は布団の中に入れて座っている。傍に、女性と見間違いそうな――ナヨっとしているのではない、佇まいとその美貌がである――小柄な若い男が座っている。薬を飲ましていたらしい。さ湯の入った湯呑と病院の名前の入った、紙の薬袋が畳の上のお盆に置いてある。

「では、私はこれで。何かあったら、手を叩いてください、すぐに参ります」

 男の声は、鈴を鳴らしたような、優しい声である。これで、着物着せて、お化粧したら、女性と間違いそうや、と千代は思った。

 男と多可が障子の向こうに消えて、鶴太郎の方へ視線を移すと、

「女みたいな奴やろう?」

 と、にこやかに鶴太郎が言った。

「ええ、私より、女っぽい。どちらさんですか?」

「ははは、千代ちゃんには敵わんけんど、そんじょそこらの女衆より、女っぽいやろう。うちの若いもんで、石川悟郎いうねん。親父が『長吾郎』、番頭さんが『政五郎』、ほんで、今のが『ただの悟郎』。うちの『三・ゴロウ』の一人や。通称は『石』。名前やのうて、姓のほうやけんど、『悟郎』と呼び捨て、でけんやろ、うちでは……。ほんで、『石』にしたんよ。ちょうど『石松』に合(お)うた『石』やき、次郎長一家にはちょうどエイろう?」

「それは、エイけんど、ほんま、歌舞伎の『女形(おやま)』やった人と違うの?素――化粧なし――であれやったら、化けたら絶対、わからんでェ」

「本人から聞いたわけじゃないけんど、生まれながら、そっちの『気(け)』があったらしいで。ほんで、関西の有名な歌舞伎役者に弟子入りしたけんど、あんまり、綺麗やから、先輩の役者――女形役者のほう――が焼餅やいて、いじめられたらしい。我慢できんなって、飛び出して、ここへ流れ着いたがよ。これは、噂の部類やき、本人に言われんし、聴かれんでぇ。

 それと、もうひとつ、これも噂やけんど、多分、名前から来ちゅうがやろうけんど、一族は昔は大泥棒やったらしいで。『石川五右衛門』の子孫やそうな」

「そら、単なる語呂合わせや、石さんに失礼や。女形くずれの方が、まだ信用できるワ」

「けんど、あいつの得意技見たらそうとも言えんで」

「何よ、得意技って?力道山の空手チョップ?」

「おまん、プロレスらぁ見ゆうがか?」

「この前、街頭テレビで評判になっちゅうよ。シャープ兄弟対力道山・木村組って……」

「木村って、あの『鬼の木村』さんやろう?」

「なに、『鬼の木村』って?おまけに、『さん』づけ……」

「あほ、いいな。力道山なんて、せいぜい、関脇やろうが、木村さんは柔道のチャンピョンや、戦前から、柔道の試合では、無敗や。俺らぁ柔道やったもんにとっては、神様や。それなのに、プロレスなんて、八百長の試合に出て、力道山の引立て役やいか。真剣勝負したら、力道山なんか、三分もたんで、ノックアウトや」

「そんなに、強い人なんか?昔の鶴ちゃんより?」

「あたりまえや、日本一を連続十二回やで、俺なんざぁ、秒殺よ、一分、もたんと、畳に叩きつけられるか、寝技で、参ったよ」

「そんなに強い人なが?鶴ちゃんも県で優勝したやいか」

「レベルが違うっち」

「けんど、この前の『シャープ兄弟』戦では、フォール負けしよったよ。プロレスは弱いんや」

「あほぬかせ。じゃから、八百長、言いゆうろう。ありゃあ、ショーよ。初めから、勝敗を決めちょって、筋書きどおりにやって見せるが。ほんやき、力道山が格好良く、強う見えるがよ。あんなもん、見るもんやない。目が腐る……」

「まあエイわ、鶴ちゃんがプロレス嫌いでも。それより、石さんの得意技は?話がだいぶ逸れちゅうでぇ……」

「そうやった、石の得意技。まず、身が軽い」

「そら、歌舞伎役者目指してたんやから、身も軽いやろう」

「話の腰折るやっちゃな。子供ん頃と同じや。ほんなら、二つ目の特技、聞いて驚くな……」

「もう、大概の事では驚かんよ」

「絶対やな?」

 念を押す鶴太郎に「うん」と肯く。

「石の得意技は『巾着切の早業』や」

「キンチャッキリの早業?何それ?」

「スリや、掏り。他人さんの懐から、財布貫きとって、金奪うやつや。それの早業、目にも留らんってやつや」

「目にも留らんって、それを見たの?」

「ああ、試しに『大政さんとすれ違って、懐から、巾着貫いてみぃ』って、やらしたら、ほんまに、見えんかった。大政さん、ああ見えても、昔は喧嘩強かったし、隙のない人や。俺の柔道の先生でもある。その人が『気付かなかった』ゆうんや、これは本職や、プロや」

「ほいたら、掏りの前科者やないの?」

「それが、修行はしたけんど、一度も人様の懐には手ぇ出さんかったんやて……」

「歌舞伎の『女形』と『掏りの早業』。東映の時代劇ならありそうやね?」

「あかん、あかん、石の話が長うなった。本題忘れちゅう。おまんを呼び出したがは、こんな話するためやない。おまんの顔見たら、こんまい(=小さい)頃に戻(も)んて、要らん話が過ぎる」

「けんど、思うたより、元気そうやいか。『話がある』ゆうたき、遺言かと、思うちょったぜ」

「おまんの顔見たら、急に元気になった。どんな名医の薬より、おまんの笑顔が俺には一番や。けんど、本当に『遺言』になるかもしれんき、真面目に聞いとおせよ」

「なんやの、初めのほうはうれしいけど、後の『遺言』からは、聴きとうないセリフや」

「悪い、悪い、おまんやき、冗談言えるがよ。けんど、大事な話やし、他言無用にしてくれよ」

「他言無用っち、顔役さんにも、亀ちゃんにも、うちのお母さんにもかえ?」

「そうや、できたらやけど。そのうち、誰かと相談せんといかんことになるかもしれんけんど、それまでは秘密や。話したら、笑われるか、嫌われるか、どっちかや……」

「なにそれ、変な話やな?」

「そうや、変な話や。『怪談』みたいな話やから……」

「怪談?それって、円朝の『牡丹灯籠』みたいなやつか?なんで、そんな怖い話、ウチにするねん。ウチ、怖がりやで、小さい頃から……。知ってるやろう?」

「千代、おまん、3人目の子ができたってなあ。子沢山で、エエわ。けんど、それが、俺の子やったら、もっと、エエのやけんど……」

「な、なにゆうてんの?」

 いきなり、話が飛んで、しかも、不倫めいた話になって、千代は慌ててしまった。

「ち、ちがう、誤解、せんとってくれ。子供の頃、おまん、『鶴ちゃんのお嫁さんになる』ゆうてくれたやいか。俺も、おまんを嫁にしたかったがぜよ。けんど、おまんは『刻屋』の一人娘、養子をもろうて、跡継がないかん。俺はここの跡継。嫁もろうて、子を作らんといかん。家があるき、親が許さん。駈落ち、しようかとさえ思うたぜ。まあ、今となったら、こんな身体やし、おまんも幸せそうやし、せんでよかった、と思えるけんど、やっぱり今でもおまんのことが好きや。ほやき、話しておきたいんや。けったいな話、怖い話やけんど、俺ひとりの胸に収めきれんき、おまんに聴いて欲しいがよ」

「うん、鶴ちゃんの気持ち、よう解るし、うれしいよ。よっしゃ、どんな怖い話でもエイ、私もお寅さんの娘になって長いき、『ハチキン』は無理でも『三、四キン』くらいには、なれるろう。ドンとこいよ」

        *

 鶴太郎は、湯呑に残った、さ湯を一口飲み、語り始める。

「これは、亀次郎にも係わってくることや。そして、おまんくにおる、琴絵にも……」

 と、千代の顔を覗き込むようにした後、視線を上に向ける。何から話そうか、話の糸口を考えているようだ。

「これは、我が家――山本家――の因果、あるいは、因縁話や」

 そこで、もう一度、さ湯を口に含み、話を始めた。

「うちの親父は、三代目やろう、初代は親父の祖父、俺の曽祖父や、ほいたら、二代目は、俺のじいさま、親父の親父や、けんど、この人、若死にしてるんや。後継ぐ前に……。そやから、親父は本来、二代目なんや……。

 この、俺のじいさまの死に方が、変わってるんや。と言っても、俺が直接、見たわけやないぜ。まだ生まれてへんからな。じいさんの名は武吉、武士の武に吉凶の吉や……。

 その武吉さんが死んだんは、親父――長吾郎――が生まれてすぐらしい。突然、熱が出て、三日三晩、うなされて、そのままやったそうや。そんなん、変わった死に方やないって?そら、普通の人やったら、そうや。けんど、武吉さん、俺と一緒で、大男、腕っぷしも強いし、風邪もひいたことがない、病気が逃げて通るって、言われてた人や。その人が、何の前触れもなく、流行病でもない、食当りでもない、原因不明、医者もさじ投げた、そんな熱病でポックリや。誰もが訝った。「何かの、祟りか、誰かの呪いやないか」と、言いだすもんがおったんや……。

 武吉さんはまだ若い。人に恨まれるような事もしてへんし、狐や狸が憑いたわけではない。けんど、父親の――俺の曽祖父――武吾郎には、沢山思い当たることがある。悪どい商売はしてへん、けど、女郎はおる、商売敵はまた、数え切れん。

 ほんで、誰かが聴いたがよ、「思い当たる節はないか」と……。ほいたら、あった。その少し前に武吾郎に女が出来た。出来たやのうて、手込にした、つまり無理やり、自分の女にしたんや。まあ、その娘も女郎に売られる寸前やったらしいき、武吾郎に女にされて、女郎にならんと済んだがやき、却ってよかったとも言えるけど、その娘には許婚者(いいなずけ)がおったらしい、武吾郎とは親子以上の歳の差がある。妾になるか、許婚の元へ帰るか、娘は悩んで、やっぱり、好きな男の元へ帰ったがよ。武吾郎も承知して――元々、ちょっとしたつまみ食いの気持ちやったんやろう――少々の金を渡して別れたそうな。それで終われば、目出度しやが、帰ってみれば、許婚者は、首括って死んでたんや……。

 諦めきれん娘が、鬼になった。武吾郎を怨んで、呪ったんや。丑の刻参りか、陰陽師か知れんで、兎に角、呪われたのは間違いない。その呪いが、息子の武吉に降りかかった。そう、周りは考えたんや。武吉とその許婚は同い年の同じ日に生まれてたんやと……」

 鶴太郎は一息入れるように、さ湯を口に運ぶ。

「そら、ちょっと怖い話やけんど、亀ちゃんや琴ちゃんに何の関係があるの?」

「話はここからや。まだまだ、因縁話が続くんや」

 鶴太郎は、ふたたび、天井の方に視線を移し、語り始める。

         *

「俺のじいさんが原因不明の高熱で死んだんは、その娘の生き霊のせいや、っちゅう噂が立った、まあ、それはそれで、噂で終わったんや……。

 けど、続きがある。うちの親父の奥さん、つまり、俺の母親も、俺を生んで、すぐに死んどる。産後の肥立ちが悪うて、イカンなったがやろうけど、やっぱり、高熱が出て、亡くなったそうや。その、俺の母が亡くなってすぐに、先々代、つまり、武吾郎じいさんも、熱にうなされて、あの世へ行った。まあ、これはかなりの年寄やったき、寿命やけんど、これで、三人、高熱で死んどる……」

「ちょっと待って、けんど、最初の武吉さんが死んで、後の二人が、亡くなるまで、何年経ってるの?あんたの親父さん、つまり、顔役さんが生まれた頃が最初で、あんたが生まれた時が次やろう?二十年以上経ってるやないの。そんな、悠長な呪いってある?その娘さん、当時、まだ生きとったん?」

「ああ、普通はそうや。誰もまた、生き霊の所為やとは思わん。俺も違うと思うで。単なる偶然や。その娘さんのことは、詳しゅうは解らんが、生きとったはずや。まあ、これは、これの話や。そういうことがあった、ちゅうことや」

「ほいたら、まだ続きがあるんか?」

「おまん、亀次郎の母親、知っちゅうか?」

 と、鶴太郎が話題を変える。

「直接は知らんけんど、噂は、よう聴いちゅうで。眼が醒めるばあの別嬪さんの売れっ子、芸妓さんやったがやろう?」

「ああ、そうや、 その芸妓さん、名前は小春さん、源氏名は『秀丸』姐さんゆうんやが、何で、親父の正式な後添いにならんかったと思う?後妻になっても、何も反対するもん、おらんし、周りは、大歓迎やったがぜ。俺も子供ながら、新しい母親が、こんな別嬪さんやったら、鼻が高いって、喜んでたわ」

「相手が、つまり、秀丸姐さんが、頑として、首を縦に振らんかったがやろう?そう、お母さんから聴いちゅうでぇ……」

「そうや、けんど、何で、断ったがやろう?どう思う?」

「ううん、難しいけんど、考えられるんは、家柄やね。秀丸姐さん、元はお武家さんの出やそうやろう?顔役さんは、こうゆうたら悪いけんど、侠客一家の末裔やろう?今は、大きな会社の社長さんやけど……」

「まあ、それは言えとる。うちは、自慢できる家柄やない。けんど、あっちも、武家、ゆうても、下級武士、しかも、落ちぶれて、芸妓にならんといかんような境遇やで。子まで出来ちゅうに、何で、今更、家柄に固執せなあかんねん?」

「ほいたら、他になんか理由があるのんか?」

「ああ、これは、絶対内緒やで。俺、軍隊行く前に、探偵雇うて、調べたがよ。秀丸姐さんの家系、ご先祖のこと。調べて、何も問題なかったら、俺が直接、小春さん――その頃は、芸妓、辞めとったから――に、親父の嫁さん、俺のお母さんになってくれ、って頼もうと思ったんや」

「けんど、頼まん、いや、頼めんかったがは、何かあったがやね、結婚、つまり、籍を入れれん、深い理由が?それが、また、因縁話になるが?」

「おまん、やっぱり、頭エイねえ。『一を聞いて十を知る』孔子の弟子の、顔回の生れ変りか?」

「そんな、偉いもん、ちゃう。普通に考えて、話の流れで、そうなるろう?」

「そうか、そうか、まあ、どっちでもエエわ……。

 ほんで、その探偵の調べた結果やが、小春さんのお母さんゆう人は、例の、生き霊の娘の許婚、つまり、自殺した男の妹やったがよ」

「ええ?ほいたら、敵同士の末裔やんか。向うの一方的なもんやけど……」

 鶴太郎の話の意外さに、思わず、声を荒げてしまった千代である。

「しぃ、声がデカイ。親父に聞こえるやないか。親父は知らんことや。ひじいさんの悪行が、ここまで繋がっちゅうとは、思いもよらんやろう?」

「そら、籍入れるんは無理やね。入れたら、生き霊の娘――その頃は、婆さんか――の祟りが復活するよね。『ロミオとジュリエット』より怖いよね……」

「何な?その、ロミオと、うん、うん、ちゅうのは?」

「えっ、知らんの?シェイクスピアの有名な悲劇の物語やないの。『オォ、ロミオ、貴方は何故、ロミオなの』って、有名なセリフ。子供でも知っちゅうと思うちょった」

「あほう、戦時中は、そんな敵国のお芝居なんぞ、ご法度や。俺らぁ、そうゆう教育を受けてきたがぞ」

「そうか、悲しい世代やね……。

 それはエイけんど、結局、小春さん、籍入れんかったがやき、生き霊の怨念は起きんろう?何が怖いが?」

「けんど、亀が生まれとる。両家の『血ィ』ひいちゅう、唯一の子供や」

「ええ?亀ちゃんに何かあったが?」

「まだない。けんど、これから起こるかもしれん。特に、もう一人、小春さんの血ィ引いちゅう、琴絵が絡んできたら……。

 亀は、琴絵に惚れちゅう。誰が見てもすぐ分かる。琴絵も、亀が好きや。これも、誰でも分かる」

「分かる、分かる。ウチでも分かる。将来、一緒になるろう、って、皆あ言いゆうよ。ほいたら、亀ちゃんと琴ちゃんが、『ロミオとジュリエット』になるかもしれん、これは悲劇や、可哀相や」

「まあ、悲劇になるかどうかは解らんぜ。小春さんのお袋さんのことは、探偵と俺以外、今はおまんも入れて、三人しか知らんことやから、二人の結婚に反対するもんは居らんやろう。けんど、結婚したらどうなるか、これは、誰も解らん……」

「取り越し苦労や。そんな昔の因縁話、少なくても、武吾郎さんが亡くなった時点で終わっとる。亀ちゃんと琴ちゃんに及ぶはずないきに……」

「そうであってくれ、と願うばかりや。俺も、ふたぁりは夫婦になって、この『長吾郎一家』を守って欲しいんや。俺は、もう、長いことない。そんじゃき、こんなこと話して、おまんにふたぁりを見守って欲しいがよ……」

「いやぞね、なに縁起の悪いこと言いゆう。鶴ちゃん、静養して、元のように元気にならんと。今も、こんなに元気に喋りゅうやんか。すっと、ようなるちや。ほいたら、私らぁ二人で、若い二人を見守ろう。ええな、気弱いこと言わんと、病は気から、ゆうろう。しっかりしいや」、

「ははは、おまんと話しよったら、病気のことも忘れらぁよ。けんど、もしものことがある、そん時は頼むで、おまんしかおらんき、こんなこと頼めるんは……」

 そう言った後、鶴太郎は急に「ごほ、ごほ」とせき込みだした。顔が赤く染まる。慌てて、千代が側に寄り、背中を擦る。少し、落ち着いたようなので、手を叩いて、石さんを呼んだ。

 石さんが音もなく、障子を開け、すばやく、鶴太郎の側に駆け寄る。煎じ薬を飲ませると、どうやら、落ち着いたようである。

「長う、話し過ぎたんやね。ごめんね」

 と、千代は鶴太郎にも、石さんにも頭を下げた。

 鶴次郎は、布団の中に横になり、まだ少し苦しそうな息を吐きながら、

「なんちゃあないき、心配しな。おまんの所為やない。おまんと居ったら、面白うて、元気が出てくる。今日はホンマにありがとうな、楽しかったでぇ、また来てな……」

 と、精一杯の笑顔を浮かべた。

        *

 千代は、鶴太郎と石さんに別れの言葉を述べ、離れから出て行った。お多可さんに声を掛けたが、表へ出ていると、小政さんが教えてくれた。

「姐さん、本日は、ありがとうございました。主人に代わって、このとおり、お礼申します」

 と、深々と頭を下げる。

「なんやの、大層な挨拶やね。ウチとこと、ここは親戚みたいなもんやで、他人行儀なことゆうたら、ハチキンのお寅さんに大目玉喰らうよ」

「はい、承知しております。けど、今日は特別です。若は本当に、明日も判らん状態でした。それが、姐さんの顔見たら、あんなに元気になって……。感謝の言葉もありません。ほんまに、よう来てくれました」

「そ、そんなに悪いんか?」

「へえ、医者がサジ投げて、病院から帰って来たがです。いつ、お迎えが来ても、おかしゅうない状態でした」

「そんな、嫌や、縁起の悪い、何処のお医者さんや、藪医者やないの、病院替り。国立病院の偉いお医者さんに診せたらエイ」

「その、国立病院で、あかん、言われたがです。そこで、三ヶ所目です。肺をやられちゅううえに、熱が下がらん。肺炎から来る熱とは違う、急に上がったり、下がったりで、原因が解らんそうです。熱のために、物が喰えん状態です。お粥も、重湯も喉を通りません。栄養剤を飲ませたり、点滴したり、手の打ちようがないんです」

「そんなに悪いんか?どうにかならんの、長吾郎一家の力で……」

「こればっかりは、どうにも。主人は、お宅のお寅さんに教えられた、太夫さんに祈祷してもらうゆうて、出かけました。何でも、薫的神社の近くに、よう当たる、偉い太夫さんが居るとのことで……」

(うちのお母さんの紹介か。最後の神頼みやな。怨霊を払うんと、病気の治療とは違うやろう。平安時代や江戸時代やないで、祈祷で病気治るんか?)

 そう思っているうちに、ふと、さっき聴いた、鶴太郎の『因縁話』が蘇えって来た。

(そうや、亡くなった三人、皆、原因不明の『発熱』や。まさか、まさか、鶴ちゃんにまで、生き霊の祟りやなんて。そうか、亀ちゃんと琴ちゃんの仲が、決定的になって来てるんや。祟りが、始まったかも知れんのや。鶴ちゃん、気がついたんや。ほんで、うちを呼びだして、あんな「因縁話」話してくれたんや……)

「太夫さん、お願いや、鶴ちゃん助けたって……」

 と、その部分だけ、声に出してしまった。

「あ、姐さん、姐さんまで、神頼み、そんな非科学的なこと、信じてますのんか?姐さんはもっと、現実主義かと思うとりましたけんど……」

 と、小政さんが驚いて口にする。

 千代は顔を赤らめ、

「エエのよ、この際、非現実的でも、非科学的でも、鶴ちゃんが元気になるなら。私、キリスト教に鞍替えしてもエイよ。キリストさんが助けてくれるなら……」

「キリスト教は救えんでしょうね。宗教ってのは、ほとんど、来世のことやから。死んだらどうなるか、死んで、天国いける、死ぬことを恐れんように、民衆を指導するんが宗教ですきに、願い事叶えるんやったら、日本の神さん、八百万(やおろず)の神さんが居りますき、一人ぐらいは願いを聴いてくれる神さんも居るかもしれません……。

 あとは、仏教でも、密教の方ですね、それか道教。こっちは、来世でなく、現世をどう生きるかを教えてくれますからね。でも、病気の治療には、きかんと思いますよ」

「小政さん、宗教家?京大にそんな学部あった?」

「いや、いや、これは、大学とは関係ないですよ。単なる豆知識。雑学です。だから、正確じゃない。深う考えんとってください。姐さんは頭が良いから、かえって、話ぬ(に)くいなあ。さらっと、流してくれんと。うちの一家のもんは、『へえ』って感じで、納得するんですがね、こんな、小噺程度でも……」

「ウチが、あほやから、小政さんの話によう付いていけんがよ」

「何をおっしゃる。姐さんはこの近所じゃあ、先生と同格か、事に寄ったら、上かもしれん、って、主人がゆうとりますよ。私もこうしてお話させていただいて、その通りやと感心しています。『一を聞いて十を知る』そんなお方や……」

 鶴太郎に、ついさっき言われた言葉がまた出てきた。

(ひょっとして、ウチらぁの話、皆に筒抜けやったがやないろうか)と、疑いたくなる。

(この小政とゆう人は、デキル。恐ろしいほどに頭が切れる。味方にしたら、こんな頼もしい人は居らん。敵にしたら、大事や。顔役さんエエ人雇うたな。これで、亀ちゃんの代になっても、大丈夫や……)

 千代は、小政にもう一度、頭を下げ、「鶴太郎をよろしく」と、言い残して、長吾郎の家を後にした。

 玄関先の電線に、カラスが止っている。見上げると、「カア」と啼いて、飛び去って行った。


       3

 その二日後、亀次郎が血相を変えて、刻屋に飛び込んできた。鶴太郎が、危篤の知らせである。

「姐さん、お寅さん、琴絵も早う来てくれ、間に合わんかもしれん」

 亀次郎の顔色は蒼い、切羽詰まっていることが伝わってくる。

「お母さん、先、行っときます」

 と、着替えなど、形振り構わず、表へ飛び出す。ジョンを連れた、息子が母親の慌てた後ろ姿を見送っていた。

 長吾郎一家の玄関を、挨拶ぬきで通り過ぎ、裏の離れへ、庭伝いに走る。庭に面した、たたき口から、障子の閉った離れに声を掛けると、障子が開き、小政さんが、現れ、すぐに、千代を招き入れる。

 部屋の中央に、布団があり、鶴太郎が、眠っている。その周りにいるのは、長吾郎、大政、石さん、お多可さん、そして、白衣の医者と看護婦である。小政が千代の後ろで、障子を閉める。

「千代さん、よう来てくれた、鶴太郎が逢いたがっちゅう。早う、側へ来ちゃってくれ」

 顔役さんに、せかされて、皆に挨拶もしないまま、鶴太郎の枕元へ腰を下ろす。

「鶴よ、千代さんが来てくれたぜ」

 と、長吾郎が、息子の耳元に口を近づけて言った。

 その言葉に反応して、鶴太郎が、うっすらと目を開ける。顔が赤い、相当な発熱である。唇が渇いて見える。顔は、二日前より、さらに痩せて、骸骨の上に皮だけがかぶさっているようだ。思わず、涙がこぼれた。

「ち、千代、よう来てくれた。後を、亀を、た、たのむで……」

 やっと、口が利けたかのように、しわがれ声で、それだけ言うと、静かに微笑んで、目を閉じた。それが最後の言葉となった。

 医者が、鶴太郎の脈をとり、瞳を開いて、また閉じた。

「ご臨終です」

 静かに、そして厳かに、そう宣告した。

 千代は声をあげて泣きたかった。涙は止まらない、後から、後から、その大きな眼からこぼれて、着物を伝って行く。だが、声が出なかった。

(慟哭すると思っちょったに……)

 そんな自分を見ている、もう一人の自分がいるようであった。

 周りの人の、すすり泣きが聞こえる。お多可さんが一番、声が出ている。男たちは涙をこらえているが、こらえきれず、こぼしている。

 そこへ、障子を開けて、亀次郎が現れた。後ろに、お寅さんと琴絵がいる。

「に、兄さん……」

 亀次郎の言葉が止る。

「鶴ちゃん……」

 と、お寅さんも声を止める。その場の空気は遅れてきた、三人には、充分に伝わっていた。

「お寅さん、琴絵ちゃん、よう来てくれた。たった今、鶴太郎は天国へ旅立った。千代さんと最後に口を利けて、笑顔で行ったよ。ありがとう。千代さん、鶴太郎にとって、あんたはやっぱり、特別な人やった……」

 顔役さんの言葉がキッカケとなった。千代は、声を上げて泣きだし、母親の、お寅さんの胸に飛び込んで行った……。

        *

 鶴太郎の葬儀は、しめやかに、且つ、盛大に行われた。誰もが早過ぎる、男丈夫の死を悼んでいた。普段は陽気な先生も、ひょうげもんのマッちゃんも、この日ばかりは、真妙であった。

 無事、告別式を終え、初七日の法要が終わった後、千代の元へ、小政さんが訪れた。長吾郎が、折り入って話があるとのことである。お寅さんでなく、千代だけ、というのに、引っ掛かる処がある。鶴太郎の事とは分かっているが、何故、私だけをご指名なのか?お寅さんに内緒の話なのか?それなら、黙って出かけねばならない。そう思って、手早く着替えをして、小政の後に続いた。

 今日は、母屋の方へ通された。床の間に、例の『狩野探幽』の水墨画が掛かっている。

 お茶を持った、お多可さんがテーブルにお茶と茶菓子を置いて、退出すると、ほぼ同時に、大島紬の着物姿の長吾郎が現れた。

「すまんのう、忙しいろうに。本来なら、わしが、刻屋へ挨拶に行かなあ、ならん処じゃが、あんまり、人に聴かれとうない話もあるき、わざわざ、来てもろうた。まあ、楽にし、ここは、親戚のおじさんの家と思うてくれ。あんたは、わしにとって、可愛い姪御のようなもんじゃ。いや、本当言うと、嫁に――鶴のやぞ――来てほしかった。ゆうても、せんないことやが……。いかん、いかん、そんな話やない。忙しいあんたに要らん話は無用じゃ……。

 今日、来てもろうたんは他でもない。鶴の事じゃ。この前もゆうたが、あんたのお陰で、鶴も笑顔で天国へ逝けた。臨終にあんたにひとこと言えて、安心したがやろう。ホントに、穏やかな死に顔やった……。

 けんど、気になったがは、その最後の言葉よ。鶴は、あんたに『亀をたのむ……』ゆうて、逝ったろう?あんたにそれが通じた。そやき、安心して笑顔で逝った……。あれはどうゆう意味や?その前に、あんたと二人で、長いこと話をしよったらしいが、わしが留守の間やった、あの日よ。何ぞ、鶴の遺言を聴いちゃあせんかえ?それが知りたいがよ」

 千代は迷っている。鶴太郎は「内緒の話」と言っていた。だが、それは、誰かに相談しなければならない時までである。顔役さんに今、相談すべきか?これは顔役さんに係わる、重大な話である。まともに話したら、怒られるか、呆れ返るかのどちらかかもしれない。

 千代が、躊躇していることを察して、

「何か、二人だけの秘密の話か?『ワシには内緒にしろ』と、鶴に言われたんか?」

 と、ズバリ言い当てられた。

「はい、内緒の話でした……」

 千代の腹は決まった。

(真実を話せば、顔役さんは怒ったり、呆れたりする、お方やない。どんな、現実離れした『怪談』であっても、ちゃんと、聴いてもらえる。酸いも、甘いも、人生の経験が、うちや、鶴ちゃんとは別格の人やった。何を躊躇する必要があるねん)

 そう、思ったのである。

「あの日、離れに呼ばれて、鶴ちゃんに聴かされたのは、この家の『因縁話』でした。怒らんと聴いてください。鶴ちゃん、真剣やったがですき」

「怒りゃあせん、鶴の性格は、わしが一番よう知っちゅう。熱があろうと、ホラ話などはせん。特に、あんたを相手に嘘も言わん。さあ、話してくれ。『因縁話』っち、どんな話ぞね?」

 千代は大きく肯いて、あの日の鶴太郎との会話を長吾郎に語った。長吾郎は、時々頷きながら、話を真剣に聴いている。

 話が、小春さんの母親に関する、探偵の調査結果に及んだ時、初めて、言葉を挟んだ。

「鶴の奴、探偵雇うて、そんなことまで調べたがか。なんちゃあじゃない。わしにゆうたら、教えちゃったに……」

「ええ?顔役さん、知ってたんですか?敵同士――むこうが一方的ですけど――の家柄やったってこと……」

「当たり前やないか。理由も知らんと、子まで作ったオナゴを籍も入れんと、放っちょく、ワシやないでぇ。あんたと、鶴と同じよ。ふたぁりの内緒、で黙って居ったがよ」

「そ、やったんですか?周りの皆ぁ、騙されちょったがですね?」

「騙しちゃあせん。言わんかっただけよ……。ほんで?続きを話しとおせ……」

 千代はそれから、亀次郎と琴絵のことを話した。長吾郎の顔が俄かに曇って来た。

 話を終えて、恐々、尋ねてみる。

「顔役さんは、亀ちゃんと琴ちゃんの結婚は反対ながですか?そりゃあ、従妹同士で血が濃いかもしれませんが、従妹の結婚は世の中、多いですよ」

 ますます、長吾郎の顔が曇る。怒っているのではない。困惑しているのである。

「千代さん、わしは二人の結婚は反対じゃ。琴絵はエイ娘じゃ。器量も、頭も、躾もそこらのオナゴで敵うんは、あんたくらいじゃ。まあ、あんたは三人の子持ちやから、亀の嫁には無理やろうけんど……」

「な、なに、テンゴウゆうとるがです。私、来年、数えで三十ですよ。ミソジです」

「いやいや、あんたはいつまでも若い。ワシが、もうちっくと、若かったら、幸雄さんから、力づくで奪い取りたいくらいや。まあ、これは冗談やけんど……」

 顔役さんは、少なくなった、白髪頭をかいて、照れ笑いをする。半分、本気なのだが、それはとても言えない。

「その、『因縁話』やが、あんたはどう思う?科学の時代――二十世紀――に生き霊だの、怨念だの、あほらしい、そう思うかえ?」

「まあ、あほらしいと思いたいですね。他人事なら、小説っぽくて面白いくらいやけんど、身内や、親しい人が呪われるっちゅうのは、逆に信じとうないです。けんど、世の中には、科学じゃ、証明できんことが、まだまだ、たんとありますき、湯川さんがノーベル賞もろうても、日本には不思議は無くなりませんきに……」

「ほんま、面白いオナゴやなあ、千代さんは。色んなこと知っちゅうし、それが、ぽんぽん、出てくる。頭の回転が速いがじゃ。鶴が惚れたんが、よう分かる。エエオナゴじゃ。惚れ直した」

「なにゆうてますの。世の中の事なら、顔役さんが一番よう知ってるやないですか。うちの知識は、雑学です。どうでもエイ事ばっかりです」

「いや、うちの、小政と同じや。記憶力がエエんや。勉強して身に付くんやない。普段の生活で、見たもん、聴いたもんを忘れんのやな?」

「京大出のインテリさんと一緒やなんて、光栄やけんど、顔役さん、女の浅知恵って、言われますきに、買いかぶらんといてください」

「まあ、それはエイわ。あんたのゆう通り、世の中、常識では考えられん、不思議なことが存在する。幽霊や怨霊、ゆうんは、人の心が、勝手に作り出すもんや。そんなもんない。けど、不思議は起きる。うちの家族が鶴を入れて、四人、熱病で死んだ。遺伝やろう、体質やろう、と言えるか?ワシの女房は鶴とは血、繋がっとるが、じいさんや、親父とは繋がってない。偶然、と言うには、重なり過ぎや。他の病や事故で亡くなったもんがおらんのやから……。

 それともうひとつ、あんたの知らんことやが、あんたが鶴と内緒の話をした日、ワシが何処へ行ってたか、小政に聴いちゅうろう?お寅さんの知っちゅう、祈祷師――太夫さん――の処へ、行っとったんよ。太夫さんの言うに、鶴に『生き霊の怨念』が憑いちゅうと、ワシが何ちゃあ言わんうちに当てたがよ」

「でも、そんな祈祷師の処へ来る人は、大抵、何かの災いを祓ろうてもらいたいき、来るがでしょう?『生き霊』とか、『死霊』とか、『キツネ憑き』って言えば、大抵当たりますよ」

「けんど、一目で、『生き霊』ゆうたがぜ、それだけやない。その祈祷師の婆さん、こう言うた。『その生き霊は、女、あんたの、じいさん辺りが、深い関係を結んじゅう。もう、一人か二人はその生き霊の所為で死んじゅうろう』と見事的中や。ほんで、どうしたらエイか聴いたがよ」

 長吾郎は、その時の出来事を続けて話し始める。

「死んだもんの祟りなら、死人を成仏させたらエイ。これはまあ、容易い。が、生き霊はそうはいかん。生き霊となった人物を排除――つまり、殺す――しか、手がない。もう一つは呪詛返しやが、相手が、どこの誰かわからんといかんし、呪詛の方法もわからんといかん。『丑の刻参り』か『人型』か、毒虫を使う『巫蠱(ふこ)』という術もある。その方法によって、返す方法も違う。間違うたら、自分に返る。じゃから、生き霊は手に負えん。許してもらうしかないのう」

「その相手がどこに居るかもわからん。生きちゅうかどうかもわからんがじゃ。何とかならんかえ。金ならいくらでも出す」

「相手の名前は、歳は、わからんかえ?」

「わからん、わしが生まれて、すぐのことやき。五十年も前の事や」

「難しいのう。呪詛返しはできん。少しでも、呪いを和らげることしかできん。それも一時ぞ。お札でも防げんかもしれん。相手が強力な祟り神を祀っちゅうかもしれんきに……」

        *

「そんでも、女太夫さんは拝んでくれた。お札(ふだ)も、もろうた。あんたと鶴が、内緒話をしゆう時、鶴が元気じゃったのは、あんたのおかげもあるろうけんど、祈祷が利いたのかもしれん……」

「けんど、お札は効き目なかったですよね?鶴ちゃん、助からなかったもん」

「そうや、鶴が死んだんが、生き霊の所為やったら、お札も、ご祈祷もほんの一時の効果しかなかったってことや」

「ほんで、どうながです。顔役さんは、生き霊の呪いを信じるがですか?鶴ちゃんは『原因不明の病気』で亡くなったがですか?どっちを信じるがですか?」

「わからん、わからんから、亀の琴絵との結婚話は認めれんのや!絶対いかん!とも言えんし、許しちゃる事もできん。鶴が死んで、亀はたった一人のわしの身内ぞ。亀の身に何かあったら、ワシは、ワシは、仕舞いじゃ……」

 千代は言葉が出なかった。肉親が亡くなるとは、そういうことなんだ。わが身を削られる思いなんや。それが、怨念で、まだ続いているかもしれんとなると、これは、生き地獄状態や。私の手に負えん。お母さん――ハチキンばあさん――の豪快さがいる。あの人なら、悪霊も、祟り神も怒鳴り散らせるような気がする……。

「顔役さん、気を強うに。病は気から、ゆうけんど、祟りはもっと気持ちの問題です。うちのお母さんなら、怒鳴り散らして、悪霊を追い払いますよ。亀ちゃんは元気やし、お母さんの魂が、守っていますって。生き霊の女と、少しは縁のある人が守ってくれてます。琴ちゃんも一緒や。小春さんと、妹さん、二人の霊魂がきっと守ってくれてます」

「千代さん、あんた偉いなあ。そうや、小春と小夏が守ってくれる。そう信じとこう。まだ、亀も琴絵も若い。すぐに夫婦になるわけやない。生き霊の呪いも消えるかもしれん。鶴が亡(の)うなって、気持ちが折れちょった。あんたと話して良かった。あんたとお寅さんには『足を向けて寝られん』ばあ、恩になっちゅうね。ありがとう、ありがとうぞね……」

 顔役さんは涙ぐみながら、千代の手を握りしめた。千代は頃合いとみて、鶴太郎の位牌を拝ましてもらい、長吾郎の家を後にした。

 長吾郎は何度も頭を下げ、お寅さんにもよろしゅう、と言って、千代の背中を見送った……。


        4

 鶴太郎の三回忌が終わった頃に話は移る。

 まずは、亀次郎と琴絵である。亀は二十四歳、琴絵は去年二十歳を迎え、今年一月には、成人式に参列した。振り袖姿の琴絵は、参列者の目を引き、新聞写真に大きく映し出されていた。

 琴絵は、それを機に、刻屋を離れ、芸妓として、一人立ちをし、城下の有名料亭などに、ひっきりなしに呼ばれる、売れっ妓となって行った。

 そのため、亀との仲――結婚話――は無風状態である。彼は、琴絵の楽しそうな笑顔で座敷に出かける姿を、複雑な気持ちで眺めていた。

 長吾郎はひと安心である。今のうちに、誰か他の花嫁候補を見つけようと、画策しているようでもある。

 長吾郎一家にその年の暮れに、一人の男が、「ワラジ」を抜いた。小政の古い友人であるらしい。少し陰のある、男前である。後年の「高倉健」を思わせる風貌と言えば解り易い。

 名を「仁吉」という。

「吉良の仁吉さんかよ」

 と、お寅さんは嬉しそうに話した。

 この、「仁吉」さん、訳ありである。

「なんでも、最近、刑務所から出てきたばかりだそうですよ」

 と、千代がお寅さんに、その訳ありを語り始める。

「先生からの、情報かね?」

「いえ、マッちゃんからのです」

「ほいたら、当てにならんやいか、センミツの言うことやき」

「それが今度は、その『三』の方らしくって、小政さんに確認したら、笑って、『早、そんな噂が広がってるんですか?まあ、事実ではあるんですが……』って、言ってたから、間違いないようですよ」

 鶴太郎が亡くなった後、千代はどういうわけか、小政さんと気安くなっている。どうも、話のレベルが合うようだった、

「ほいたら、仁吉さんは前科もんかえ?この前、闇市へ行く途中で、逢(お)うたけんど、きちんと挨拶してくれたし、男っぷりもエエけんど、物腰もしっかり、しちゅうし、悪い人には見えんかったぞね。この道、三十年になる、アテの眼も狂うてきたがやろうか?」

「まあ、罪は犯したらしいけれど、それも『人助けの上』のことらしいですよ。ここからは、マッちゃんの話やから、大分、盛っているかもしれませんけど……」

「人助けの上、っち、どういうことぞね?まあ、眉に唾付けて、聴くことにするけんど、興味のある話やねェ」

「マッちゃんの話では、五年くらい前に、仁吉さんが女性――まあ、恋人でしょうね――と街を歩いていたら、三人ほどの『チンピラ』に囲まれて、嫌がらせを受けたらしいんです」

「ようある話ぞね。美人、連れちょったら、ひがんで、チョッカイ出す三下(さんした)がおるきに……」

「そう、お連れの女性、大層な別嬪さんやったらしいです。それで、揉め事になったんですけど、仁吉さん空手の有段者で、つい、手ェ出したら、運悪く、相手の顔面、直撃です。絡んできた、男が悪いんやけど、空手の有段者のコブシは『凶器』でしょう?傷害罪で、捕まって、五年の刑、やったらしいですわ」

「そりゃ、正当防衛やんか。弁護士がヘボやったんと違うか?そんなん、悪うても、執行猶予付きやろう?」

「それが、一人じゃなくて、三人とも、『ぶちのめし』ちゃった、らしくて……」

「そりゃあ、あかんワ。運悪くやのうて、きっちり、狙おて、当ててるやないの」

「最初の一人は、はずみで、当てたんでしょう。あとの二人が、それに、興奮して殴りかかって来たもんやから、それは身を守るため、しかたない行為やと思いますけど、連れの女性がいますから、置いて逃げる訳もいかんし……」

「ほいたら、やっぱり『正当防衛』やんか。それで、五年も臭い飯、喰わされたんか、同情するワ……。

 ほんで、その連れの別嬪さんはどうしたんよ?自分の身、守るために、罪犯したんやろう?普通やったら、操を立てて、五年間、待っているやろう?出所の時、出迎えに来んかったんかいね?」

「それが、何か複雑な理由があるみたいなんですよ」

「なんぞね、その、複雑な理由ち?」

「そこまでは、マッちゃんもわからんみたいです。ただ、迎えに来れない事情があるとしか、わからんそうです」

「ふうん、いつものマッちゃんらしゅうないねぇ。そこから、有ること無いこと、取り揃えて、テンゴウ話、作るんが、十八番(おはこ)やろうがね?」

「そこは、マッちゃんも後のこと考えたんと違います?前科者のテンゴウ話、広めたら、お礼参りが怖いからって……」

「肝っ玉のこんまい男やねェ。千代さん、あんたなら、どうぞね?その『複雑な理由』っち、どんなもんと思うぞね?得意の推理を働かせてみぃや」

「多分、その娘さんの身に、何かあったがですよ。ほら、昔の『本位田』さんと百合子さんの時のような……」

「なんぞね、また、GHQが絡むような、大事件かね?」

「そこまでは、大きゅうないでしょうけど、何らかの事件に巻き込まれて、逢えん状況になちゅうがですよ。そやき、仁吉さん、長吾郎一家にワラジを抜いて、状況を見守っているんやないですか?きっと、その娘さん探してはるのやと思いますよ」

「また、『火曜市の娘探し』事件かね。そんなに、同じことが、起こるもんかね。あんた、江戸川乱歩、読み過ぎ。息子も愛読書が、『江戸川乱歩』ゆうて、学校の先生、びっくり、させたらしいやんか」

「エエやないですか、何でも本を読む習慣ができて、勉強せん子より、ずっとましですよ。成績も悪うないし。江戸川乱歩ゆうても、子供向けの『少年探偵団』シリーズで、大人向けのいやらしい、エログロ作品とは違いますき」

「まあ、孫のことはエイきに、ほんで、続きは?仁吉さんとその娘さん、どうなるんやろう?」

「それ以上は、わかりませんよ。多分、小政さんや、石さんが情報集めてるんやないですか。あの二人、見た目以上に『切れもん』やから……」

「そうやねェ、顔役さんも『あのふたぁりは拾いもんや』ゆうて、えらい、褒めちょったきにねェ」

「けど、気になりますねェ、仁吉さんと娘さんのこれから。亀ちゃんに聴いとこう。一番身近におるんやから、何か知っちゅうはずですき……」

        *

 その、亀次郎が血相を変えて刻屋に乗り込んで来たのは、暮れも押し詰まった午後であった。正月用の飾りも終わり、搗きたての餅を丸めている、刻屋の女連中の中へ乗り込んで来たのである。

「ばあちゃん、話がある。ちょっと込み入った話やから、上がらせてもらうで」

 亀次郎は我が家のように、勝手に土間から座敷に上がって行く。そこへ、この家の本当の?主――お寅さんの亭主――がドテラ姿で現れ、

「餅、できたんか?」

 と、女子衆に尋ね、亀を見て、

「なんや、図々しいやっちゃな、勝手に上がって来て」

 と、亀次郎を睨みつけた。

「これは、旦那さん、ご無沙汰してます。山本長吾郎の次男坊で亀次郎、いいます。お寅さんに用があって、ちょっと、上がらせてもらいます」

 亀次郎も人あしらいが巧くなってきた。主も若いのに似ず、きちんと挨拶ができる男とみて、

「まあ、エイわ、長吾郎の息子ってか?男前やな、親に似んと……」

 そう言って、丸めてあった、餡子入りの餅をひとつ、口に運び、ひとつを手に持って、奥の座敷へ帰って行った。

「うちのじんまさん、卒中、起こして、寝たり起きたりしてるんよ。減らず口は、相変わらずやけんど、表にも出んなって……」

「そうでしたか。昔は、よう、怒られたもんです。裏で飼いよった、金魚、アエて、死なせて、どやしつかれましたわ」

「まあ、歳やから……。それより、話っちなんね。この暮れの忙しい時に、つまらん用やったら、許さんでェ」

「おお、怖。ご主人さんより、やっぱり、ばあちゃんが怖いわ。『いごっそう』も『ハチキン』には勝てんねぇ……。いや、本当に、大事な話。俺の一生の問題やき……」

「ほいたら、奥へ行こうか。ここやと、女中連に丸聞こえや。あんたに興味ある、若い子もおるき、みっちゃんみたいに……」

「女将さん、聞こえてますよ。私、亀ちゃんみたいな、スッとしたタイプ駄目ですき、どっちかゆうたら、小政さんがエイですき」

 餅を丸めながら、みっちゃんが話しかける。みっちゃんも二十歳になって、嫁の口を探さないかん、と、お寅さんは思っている。みっちゃんもそれを承知しているから、こんな会話になるのである。

 刻屋の女連中の評価では、亀次郎と小政こと、政司の票が割れているのである。男前なら、亀、頭の良さ、人当たりは、断然、小政である。

(わたしが、もう少し若うて、独身やったら、どっちかな?やっぱり、小政さんやろうなぁ。男は顔じゃあないき)と、千代は、みっちゃんの隣で、餅を丸めながら考えていた。

 お寅さんと亀次郎が奥の座敷へはいって行った。

「みっちゃん、お茶と、この搗きたてのお餅、お茶請けに持って行ってあげて、好みの男やないろうけんど……」

 と、千代はみっちゃんを冷やかすようにして頼んだ。

(亀ちゃんの話、気になるけんど、後で、お母さんに聴いたらエイことやし、今は、やること一杯や……)

 ところが、千代の思惑とは違って、話が終わって、亀次郎が、挨拶もそこそこに帰って行った後、お寅さんは話の内容を教えてくれなかった。

「面倒くさいことよね。年が明けてからの事にしてもろうたき、そん時になったら、あんたの知恵を借りらあよ。今は、年越えで忙しいき、エイ考えも浮かばんき」

 お寅さんは話を濁して、忙しそうに、暮れの仕事を続けた。肩すかしを喰った気持であるが、それ以上の追及は無駄と知っている千代であった……。


        5

 穏やかな年明けであった。南国土佐の正月は雪のない、晴れ渡った青空の元、三ヶ日が過ぎて行った。初競りの市場が開かれ、商売人の動きが始まった、その日の夜、刻屋の玄関戸を叩く者がある。

「どなたです?こんなに遅うに……」

 と、眠りに付こうとしていた千代は、寝巻の上に丹前を羽織って、玄関の硝子戸をあけた。

 そこには、分厚いコートに、マフラーを巻き付けた、亀次郎が立っていた。

「亀ちゃんやないの、どうしたの……?」

 と、問いかけて、亀次郎の背中に隠れるように、着物姿の女性がいることに気が付いた。

「琴ちゃんやないの!どうしたの、ふたりして、こんな時間に?」

「千代姐さん、静かに。あんまり、目立ちとうないんや。お寅ばあさんには話しちゅう。中に入れとおせ。それから、離れの二階、空いちゅうろう?琴絵を早う、入れちゃってくれ」

「離れの二階?そら、空いちゅうけんど、あんたらぁ二人で泊るがかね?顔役さん知っちゅうがかね?」

「詳しい話は、後じゃ。寒いき、早う部屋へ入れちゃってくれ。琴絵が風邪ひくき」

「わかった、入り。琴ちゃん、離れの二階、わかるろう?廊下の明かり、消しちゅうき、懐中電灯持って行き。今日は、泊り客もおらんき、少々の音は大丈夫やきね」

 琴絵は、懐かしい我が家へ帰って来た気がしている。千代から、懐中電灯を受取り、

「ほいたら、亀ちゃん、先に部屋、行っとくよ。おばあちゃんにちゃんと、説明しといてよ」

 と、言い残し、玄関脇の階段を、音を立てぬように、上って行った。

「取敢えず、お母さん、呼んでくるわ。よう、状況がわからんけんど、暮れの話の続きながやろう?」

「さすが、一を聴いて、十を知る、顔回の生れ変りや!」

「へん、減らず口だけは、一人前やね。小政さんの受け売りやいか」

「ばれてたか」 

 亀次郎は、舌を出して、にっこり笑う。「この笑顔には勝てんわ」と、千代は肩をそびやかし、奥の部屋で寝ている、お寅さんを起こしに行った。

「解った、後は、アテがするき、あんたは早う、休んじょき。明日、早いがやろう?」

 お寅さんは千代を気遣って、先に休ませる。自ら、先に立って、亀次郎を離れの二階に案内して行った。

(今夜も、私だけ、蚊帳の外や。お母さん、何か、亀ちゃんと私を近づけんようにしてるみたいやな)

 千代は、ひとり、二階の方を眺めながら呟いた。

(そうか、私は顔役さんの味方やと思われてるんや。鶴ちゃんの葬儀の後、私だけ呼ばれて、長いこと話ししてたから。あの日の事、お母さんに内緒のままやった。根に持ってんやろうか……? まあ、エイわ。いざとなったら、『顔役さんにゆうで』って、ゆうたらエエもん。そしたら、二人とも、折れないかんなる。今日のところは、我慢しとこう……)

 千代は、亭主の幸雄が鼾をかいている、布団へ帰って行った。

        *

「か、駈落ち?」

「しぃ、声が大きい。みっちゃんらあに聞こえるろう。このことは、みんなぁには内緒やき。あんたと私、あの二人以外に知っちゅうがは、それだけにせんといかんが……」

 翌朝、朝の支度が一段落した後のことである。客間を掃除する振りをして、お寅さんと千代は二人っきりで、二階の客間にいるのである。

「はいはい、声は小そうします。けんど、『駈落ち』って何です?何で、あの二人駈落ちせにゃあいかんがです?結婚したけりゃ、そう、ゆうたら、誰も反対せんでしょうが。しかも、何で、駈落ちする場所が、うちの離れの二階ながです?あんまり、近すぎやないですか?こりゃ、駈落ちやのうて、里帰り、ですやいか?」

「まあ、一辺に、いくつも段詰めなや。あんたのゆうことは、一々、尤もや。けんど、これには、深い訳があるがぞね。相手が顔役さんやき、普通の手は通じんが。わかるろう?ここへ置いとくがは、『灯台もと暗し』ちゅう、ことよね。顔役さんもまさか、うちが駈落ちの行く先とは夢にも思わんやろう。裏の裏、かいちゅうがよ」

「ほいたら、あの二人、結婚したいがですか?それを顔役さんが許さんがですか?」

「そこが問題よ……」

「ええ?何が問題ながです?訳、わからんなる……」

「アテもこんがらがっちゅうがぞね。亀が、一人合点しゆうと思うがやけんど、顔役さんに『結婚したい』なんて、ゆうとらんと思うぜ。ゆうたら、『いかん、反対や』と言われるんが、怖いき、先手を打ったんと思うワ。琴絵も琴絵よ。亀のゆうこと真に受けて、駈落ちの話に乗ってしまうんやから、あんたの教育が間違ごうとったんとちゃうか?」

「そいたら、お母さんも亀ちゃんの一人合点に乗ってしもうて、離れの二階、提供してしもうたがですか?琴ちゃん、悪う言えませんやいか!」

「そうゆうことや。亀に頼まれたら、イカンと言えんのよ。孫に甘い、ばあさんの気持ち、わかるろう?」

「わたしには、孫など居りませんき、わかりません。どないするんですか?いつまで、匿うておくつもりですか?顔役さん、知らんのでしょう?駈落ちしたの……」

「それが、置き手紙、置いて来たらしい。ふたりで、遠いとこへゆく、って書いて来たそうや」

「それで、意味通じてますやろうか?顔役さん、意味解らんとびっくりしますよ」

「まあ、今日か明日、顔役さんがうちへ来るろう。そいたら、惚けて、様子探るんや。結婚に反対かどうか。それから、二人の行動を決めるそうや」

「けったいな話ですなぁ。反対されるか、どうかわからん前の駈落ちなんて、前代未聞ですよ」

 千代は、呆れてしまったが、もう、後には引けない。成り行きを見守るしか手はないと諦めた。けんど、あっちには、小政さんがおる。あの人が係ったら、亀ちゃんの計画なんぞ、紙屑同然や。何とか、味方につけんと。ひとり、ヤキモキする千代であった。


        6

 お寅さんの思惑通り、顔役さんは、翌日の昼過ぎに、刻屋の勝手口に現れた。小政さんと、もうひとり、見知らぬ女性を連れている。亀次郎の件のはずである。それにしては、女性連れとは、顔役さんらしくないなぁ、と、千代はその女性の顔を覘きこむ。

 あれ?どっかで見た顔や。誰やったろう?

 そんな、千代の様子に気づいたのは、小政である。クスクス、と笑うような仕草をして、

「姐さん、これが、誰か解らんがでしょう?どっかで見たことある、そう、思っちゅうがでしょう?」

 と、ズバリ、見抜かれていた。

「これ、うちの、石ですよ。石川悟郎」

「い、石さんなの?うそ、全く、女の人やんか。石さんの妹さんなんやないの?」

「ははは、流石の千代さんも、騙されるかぇ。わしも初めて見た時は、引っくり返ったぞね」

 と、顔役さんが笑う。

「ほいたら、本当に、石さんながですか?」

「はい、訳、あって、女装してます。姐さんの好きな、探偵の真似ごとしてますき」

 そういう声は、確かに石さんの声である。その声を聴いても、男とは到底思えないのではあるが……。

「まあ、石の事は、置いといてくれ。お寅さん、居るかえ?」

「は、はいはい、居ります。呼んできますき、まあ、中へ入って、玄関口のイスで、待っててください」

 三人を玄関脇の、テーブルと椅子に案内し、奥にいる、お寅さんを呼んでくる。そして、お茶の用意に、台所へ走って行く。

 顔役さんの訪問の目的は、予想通り、亀次郎の行方であった。

 昨日、長吾郎が出先――年始回り――から帰って来ると、手紙が置いてある。亀次郎の手であるのは、すぐにわかった。内容は、よくわからない。ただ、琴絵と遠くへ行く、それだけである。結婚の「け」の字もない。何故、遠くへ行くのか?いつまで?どうなったら帰るのか?そんな事はまるで書かれていないのである。

「訳はわからんが、亀と琴絵が、二人で、何処かへ出かけたらしい。ただの旅行ならエエんやが、琴絵の世話になっちゅう、先輩の芸妓に聴いてみたが、何も知らんらしい。今まで、亀の友人とか、親戚筋を探ねてきたが、どこも、知らんと言う。まさかと思うが、ここへは、来ちゃあせんろう?何か、亀から聴いちゃあせんかと思うて来てみたがやけんど……」

「ここへは来てませんきに」

 と、お寅さんは予定通り、惚ける。

「それに、亀ちゃんと琴絵がそんな仲やなんて、初耳ですわ。琴絵は芸妓として、これからの子やから、色恋はまだまだ、ですろう?」

「わしもそう、思うとった。けんど、亀の手紙見たら、ひょっとして、『駈落ち』かもしれんと思えるんや」

「駈落ちって、誰から、逃げるんです?顔役さん、結婚に反対したんですか?」

 と、ここは、千代が芝居を演じる。

「反対も何も、結婚話など、今まで聴いたこともない。言われんことを反対もできんやろう?」

「そりゃ、そうですわねぇ。亀ちゃん、何考えてるんやろう?」

「それがわからんき、心配ながよ。何するかわからんき、早う、見つけて、意見せんと。お寅さん、千代ちゃん、亀から連絡あったら、知らせてよ。わしゃあ、頭から、結婚に反対しやあせんきに……」

 もうちょっと、心当たりを捜すワ、と、顔役さんは席を立つ。小政さんが刻屋の二人に頭を下げ、意味ありげに、千代に笑顔を向けた。

「あかん、バレてる」

 と、千代は、その笑顔の意味を察した。そこで、

「小政さん、ちょっと待って」

 と、小政を呼び止める。

 小政は、長吾郎に、何かを囁いて、一人、残ることにした。長吾郎と石さんが玄関から出て行ったのを見届けると、小政は千代とお寅さんの方を振り返り、また、にっこりと笑った。

「女将さん、姐さん、私は亀次郎さんの味方ですよ。と、言うことは、お二人の味方、そういうことです。主人には悪いですが、内緒の話は主人にも話しませんから、ご安心を……」

 と、ペコリと頭を下げる。

 お寅さんはまだ、意味がわかっていない。娘に「どうなっちゅう」と、目配せをする。

「バレてんのよ、小政さんには……」

 と、千代が小声で耳打ちする。

「ここに、居るんですよね、若と琴絵さん?」

 小政さんは、最近、亀次郎のことを『若』と呼びだしたんや、以前の、鶴太郎の呼び方を、と、千代は気づいた。

「他に二人が行く処、ないですもんね。琴絵さんの両親、お亡くなりやし、琴絵さん、ここが、実家みたいなもんですもんね」

 と、階段から、二階の方を眺める。お寅さんと千代はまだ、言葉が見つからない。

「お二人のお芝居、あんまり、上手じゃなかったですよ。若が行方不明と聴いても、それ程、驚いてませんでしたもん。『ここには居らん』それだけ、言いたい、そんなお芝居でしたよ」

 あかん、私らあ、の狂言、この人の眼から見たら、素人芝居やったんや。

「じゃあ、どうして、顔役さんにそのこと言わんかったがです?」

「私は、若の味方だと申し上げたでしょう。主人から、若の将来を任されているんですよ。だから、私の主人は長吾郎ではなく、亀次郎なんです。まあ、それ以上に、私が、若に惚れているんですがね。まだまだ、荒削りですが、親分肌の気風があって、将来楽しみなお方です。だから、若が、無鉄砲な行動をしても、すぐ、辞めさせようとは思いません。やるだけやらせよう、そう思っています。それに、若には、女将さんや姐さんみたいな、分別のある強い味方が居りますから、全く心配して居りません。ですから、後をよろしゅう、そうお願いするだけです」

 では、これで。と、小政さんは言いたいことを言って、玄関を出、小走りに、長吾郎の後を追いかけた。

 残された二人は唖然として、背中を見送った。

「偉い男やな。アテらぁ、完敗やんか……」

 と、我に返った、お寅さんが言った。

「だから、言ったでしょう?小政さん、キレルって。敵に回したら、大事やって……」

「そんなこと、ゆうたか?」

 あっ、そうか、口に出さんと、思うただけやった。

「言わんかった?」

 と、誤魔化した。

「まあ、取敢えず、顔役さんには、バレんかったき、よかったわ。けんど、亀のあほう、何考えちゅうがやろう、意味のない『駈落ち』やんか。あんた、わかるか?亀の考え……」

「わたしにも、ようわかりませんよ。わたし、詳しいこと聴いてないもん。暮れに何話したか、聴いてませんよ」

「聴いてもわからんき、とにかく、いずれ、琴ちゃんと駈落ちするき、ここの離れ空けといてくれ、詳しいことはそん時や、もう、待ってられん、ギリギリなんや。と、一方的にゆうばあよ。アテが、琴ちゃんも納得しちゅうがか、聴いたら、あぁ、と答えるだけ。多分、そん時は、まだ、話してへんかったと思うで。亀、一人の暴走よね。前後の事も考えん、浅はかな……。小政の兄ィさん、亀を買い被っちゅう、ロクでもない奴や!」

 お寅さん、新年早々のゴタゴタに、少々、お冠である。千代も、同じ考えである。亀の早とちり、親に反対される、と思い込みが、過ぎているんや、と思う。

「亀ちゃん、裏の裏の裏、位、捻ったんと違いますか?先手必勝、かもしれませんが、親の反対を予想して、そのまんまの流れの、ありふれた『駈落ち』では、効き目ない、と踏んで、思い切った行動したんと思いますよ」

「そうや、あんた、やっぱ、頭エイわ。流石、あての娘や」

「遺伝やないですよ、血ィ、つながってないから……」

「血ィやない、環境よ。人間環境で、善うなったり、悪うなったり、する。あんたの場合も、ここへ、来たき、善かったがよ……」

 ほんま、その通り、ありがたいことや、と、千代はお寅さんに無言で肯いた……。


         7

「大変(てぇへん)だ、大変だ、心中や……!」

 と、喚きながら、刻屋の勝手口を開けて飛び込んできたのは、テンゴウ話で有名な?散髪屋のマッちゃんである。亀次郎が刻屋に転がり込んで、三日、七草粥を食べている時である。

「あんた、ガイに戸を開けなや、建てつけ、悪いき、壊れるやないの」

 お寅さんは、マッちゃんの、勢いをサラリとかわす。百戦錬磨である。マッちゃんの、熱くなった頭が、急に冷めて行った。冷静に、話せる状態に、たちまち、持ち込めたのである。

「まあ、落ち着いて、そこへ、掛け」

 と、上りかまちを指さして、誘う。

「心中っち、何処で、誰がぞね?」

 まだ、半分、信じていない。センミツのマッちゃんのことやから、犬か、猫の、心中かもしれん。と思っている。

「ゆうべ、晩うに、玉水町の外れのあばら家が燃えたがですよ」

「ああ、そう言えば、サイレン鳴りよったね。けんど、ポツンと建っちょった、一軒家やき、延焼もなかったがやろう?元々、空き家、やったそうやき、被害も少ないやろうって、訊いたぜ」

「初めは、そう、思われていたんすよ。ところが、今朝、消防と警察が現場検証してたら、焼け跡から、死骸が出たんすよ。それも二人、若い、男女、らしい。空き家と思ってたとこへ、若い二人の男女、こら、心中や。ってことになったがです」

「そら、いつのことぞね、死体が見つかったがは?」

 時計を見ると、まだ、朝の九時になっていない。

「いんま、さっきです。ワシ、今日は仕事休みで、昨日の月曜に店開けたき、その代わりに、臨時休業ですワ。ほんで、昨日の火事が気になって、朝から、現場見に行ちょったがです」

「また、いつもの、野次馬かね。消防団の邪魔になるろうに、ほんで、その、死体の二人、何処の誰ぞね?何で、心中って、わかったがぞね?」

「えっ?そこまでは。男女の死体って、聴いて、慌てて、ご注進にきたがですき……」

「なんや、いつもの、マッちゃんの盛った話か」

 と、二人の会話に、入って来たのは、お寅さんの孫、S氏である。まだ、小学校の低学年なのに、大人びた口を利く。誰に似たんやろう、とお寅さんは思う。環境の所為であるのだけれど……。

「あんた、大人の話に口、はさまんの。なんや、出かけるんか?冬休み、もうすぐ終わるんやろう?宿題、済んでるんか?」

「ジョンの散歩や。ちょうどエイ、マッちゃん、その現場へ一緒に行こう、案内して、ジョンも連れて行くき。新しい情報仕入れてくるき、楽しみにしちょきよ、ばあちゃん」

 ほいたら、行こう、と、マッちゃんを促す。マッちゃんは、その勢いにつられて、

「ほいたら、女将さん、新しい情報、仕入れてきますき」

 と、小学生と同じセリフを言って、勝手口から出て行った。

        *

「何かあったんですか?うちの子とジョンの後、マッちゃんが追いかけて行きましたよ」

 と、入れ替わるように、千代が買い物から帰って来た。火曜市へ行ってきたのである。

「それと、顔役さんとこも、何か慌しゅうて、小政さんと、多分、あれが、仁吉さんゆう人やろうけんど、二人を従えて、顔役さん、急いでましたよ。なんか、同じ方向へ行ったみたいですよ、うちの子らぁと……」

「詳しいことはわからんけんど、マッちゃんの話、昨日の晩の火事、玉水町の。焼け跡から、焼死体が出たがやて」

 と、お寅さんが、事情を伝えた。

「うちの子、野次馬しに行ったんですか?しょうのない子や。けんど、顔役さんはどうしてやろう?小政さんに様子見に行かすんなら解るけど、自ら、出かけるなんて……」

「ほんまやなあ、小政に、仁吉連れて、助さん、格さん連れた、水戸黄門さんやあるまいし。月形龍之介、エェ芝居してたよ、東千代ノ介も男前や!」

「また、映画の話ですの?けど……、まさか、その、若い二人の焼死体を、二階の二人と勘違いしたんじゃないでしょうね、顔役さん……」

「ま、まさか、小政さん、事情知ってるやないの、うちに居ることを……」

「知ってても、言えんでしょう、そのことは……」

「そうや、言えんわなぁ。辛い立場や、小政の兄ィさん……」

「けんど、仁吉さん同伴って、何故でしょうね?石さんも居るでしょうに……」

「石さん、あの格好やから、格さんには、なれんでェ」

「お母さん、水戸黄門から、離れてください、お芝居と違いますから。そら、仁吉さん、格之進役、ぴったりやけんど……。そうか、小政さん、死んだのは、亀ちゃん達やないことわかってるんや、ほいたら、もうひとつの可能性を考えてるんや」

「もうひとつの可能性っち何ぞね?あんた、頭の回転、早過ぎや、ついて行けん」

「仁吉さんの恋人、ほら、例の、仁吉さんが、刑務所行った、原因の彼女ですよ。その人が、焼死体の片割れの可能性があるんやないですか?」

「その彼女、心中するような人なんかね?」

「そ、そこまでは、わかりませんよ、可能性だけですから……」

「あんたまで、マッちゃんみたいに、噺、盛ってないかえ?」

「いえいえ、わたし、自信あります。仁吉さんの関心事は、彼女だけですもん。その仁吉さんが慌てて出かける、彼女の事以外、ありません。賭けてもエイです!」

「エライ自信たっぷりやなぁ、アテまでそんな気がしてきたワ。賭けはせんとこ、あんたには負けるわ」

「けんど、話がややこしいですね。顔役さんは亀ちゃん達を心配してるし、小政さんと仁吉さんは恋人を心配してる。身元がわからんことには、話進みませんねぇ。亀ちゃんにゆうとかんと、顔役さん心配してるから。それと、勇次さん、坂本刑事さんから、きちんとした情報仕入れな、いきませんよ。マッちゃんの情報じゃあ、眉つば、ですから、うちの子もまだ子供やし。お母さん、勇次さんに連絡しといてください。うちは、亀ちゃんに知らせます」

 千代は離れの二階へ上がって行く。お寅さんは県警の坂本刑事に電話を架ける。

 幸い、勇さん――坂本刑事の愛称――は在席しており、

「ああ、玉水町の火災現場の件ですか。そんなら、先輩の『浜さん――浜田内蔵助刑事――』が担当で、現場行ってますから、帰ってきたら、詳しいこと聴いておきます。帰りに、そちらへ寄りますき、そん時、報告しますわ」

「浜さん、って、例の『村田じいさん』の事件の担当やった刑事さんかえ?」

「ええ、お宅借りて、大工の留さんから、事情聴いた時の刑事です」

「後で聴いたけんど、あの人『外しのハマ』ゆうて、アカンほうで、有名やそうやいか、大丈夫かね、そんな人が、担当で……」

「お、お寅さん、それは、ゆわれんがですよ。なんで、そんなこと知っちゅうがですか?それ、我々、刑事課だけの話ですよ」

「何が、刑事課だけぞね。交番の山ちゃんから聴いたぞね。多分、この近所で知らんもん、おらんぞね」

「ええ?山田巡査、口、軽過ぎや、後で叱っとこう。けんど、今度の焼死体は、事件性は薄いそうですよ。空き家は、中から鍵が掛っとって、誰も入れん状態やったらしいし、身元はわからんけんど、女郎さんとその客の心中に間違いないって、そんな見解です」

「それ、誰の見解?」

「は、浜さんですけど……」

「ほいたら、事件やないの。心中も怪しい。心中に見せかけた、殺人事件やないの?『外しのハマさん』の定義からすると……」

「そ、それは、言い過ぎですよ。今回は、心中はまだ、わからんけんど、密室ですから、殺人ではないです。殺人は不可能ですから、無理心中は考えられますけど……」

「密室?こりゃあ、エイ。うちの千代や孫の得意な、探偵小説の王道やいか」

「お、女将さん、小説やないがですよ。実際の事件ですき、警察を信用してください。捜査は完璧ですき。まあ、詳しいことは後で、僕も忙しいですき……」

 と、勇さん、話が変な方向に進みそうなので、慌てて電話を切った。

「何ですの?密室だの、探偵小説だの?」

 千代が、階段を下りてきて、不思議そうに尋ねた。

「あんた、亀には知らせたがかね、顔役さんが心配しちゅうこと……」

「えぇ、教えましたよ、心中事件があって、顔役さんが血相変えて、飛んで行ったこと。まだまだ、帰る気はないそうですよ。琴ちゃんが、そろそろ、嫌になって来てるみたいですけど……。それより、さっきの電話、何でしたの?」

「ああ、あれか?勇さんに火災現場の状況を聴きよったがよ。そいたら、焼けた家は、密室状態やったがやと。ほやき、心中に間違いないって、例の『外しのハマさん』が言いゆうらしいでェ」

「と、ゆうことは、殺人事件の可能性がある、ってことですね?」

「あんたも、キツイことゆうねぇ。まあ、アテもそう思うちゅうけんど……」

「それで、勇次さん、後でうちとこ、寄るんですか?詳しい情報提げて……」

「そや、それまでは、仕事しとこう……」


        8

 坂本刑事が来る前に、S氏とマッちゃんが、帰って来た。

「どうやったぞね、何かわかったかね?」

 と、お寅さんはエンドウ豆の皮をむきながら、尋ねた。千代は、洗濯物で忙しい。

「それが、警官がいっぱいで、近寄れんがですよ。担当の刑事が威張りくさって、野次馬は近寄るな、って、えらい剣幕で」

「けんど、顔役さんには弱いらしゅうて、小政さんの問いかけには、答えてたみたいやったよ。」

 と、S氏がマッちゃんを補足する。

「ほんで、死骸の身元はわかったがかえ?」

「まだ、詳しいところは、わからんみたいやけど、男の方は、何か、小政さんの友達の、仁吉ゆう人の、知り合いみたいに言いよったで。死体の損傷が激しゅうて、見た目だけでは、判断できんらしい。けんど、焼け残った、服から、その人の財布と名刺入れが出てきたんやと……」

「仁吉さんの知り合い、つうかね。ほいたら、女性の方は?これも、知り合いかね?」

「こっちは、持ちもんからはわからんらしい。けんど、刑事さんの推測では、ストリッパーながやと。ストリッパーって何?」

「こ、子供は知らんでエイ。あんた、ジョンを先生とこへ帰してき、それから、宿題し」

 お寅さん、ストリッパーと聴いて、泡を食ってしまった。

 S氏が、大型犬のジョンを連れて、表へ出て行ったのを確かめて、改めて、マッちゃんに尋ねる。

「女の方はストリッパーなんかね?」

「どうも、そうらしいですよ。下(しも)に、ヌード劇場が出来たでしょう?あそこの踊り子やないかと、刑事さんがゆうてました、小政さんに……」

「けんど、何でストリッパーが心中せな、いかんがぞね?」

「いや、その、小屋ですがね、ショウを見せるだけやのうて、本番、あっちも、してるみたいですよ。もちろん、小屋の中やのうて、別の場所、つまり、玉水町とかの、赤線、青線みたいなとこで、ですけんど。ほら、今度、売春禁止法とやらができて、赤線も無くなるそうやないですか。新手の売春ですワ」

「こら、子供には聴かせれん話になったぞね。ほいたら、仁吉さんの知り合いの男が、踊り子さんと本番しよって、どちらからともなく、世を儚んで、一緒に死のう、ってことになった、ちゅうがかえ?」

「あっしも、そう睨みましたね。お互い、一夜の情が、深こうなって、来世で一緒になろう……、近松門左衛門の浄瑠璃や!」

「あんたがゆうたら、嘘くさい。けんど、それが、担当の刑事の推測ながかね?」

「そうです、そうです。何でも、消防が来た時、ドアの鍵が中からしてて、窓も開かん、火の回りが速うて、消火活動も間に合わんかったそうですよ。ほやから、その家には、死んだ二人しか入れんかったはずや、って、刑事さんが顔役さんらぁに説明してました」

「つまり、密室やね。そう、ゆうたんが、『外しのハマさん』や。これは、面白うなって来たやないの。江戸川乱歩か、金田一耕助の物語やいか」

 お寅さんが悦に入っている。テンゴウ話好きのマッちゃんがいささか、引き気味である。挨拶もそこそこ、刻屋を後にした。

「顔役さんとこは、多分、取込み中やき。そや、先生とこ行って、噺、膨らましとこう」

 と、表へ出て思案顔のマッちゃんは、足を先生宅へ向けた。

        *

 マッちゃんと、孫からの予備知識がある。その日、すっかり日が暮れてから、坂本刑事が刻屋を訪れた時には、お寅さん、自分の名推理に酔っていた。

 その時、S氏は家族の食卓にいたのであるが、大人の話やき、部屋へ行っちょり、と、お寅さんに言われ、渋々、座を離れた、が、二人の眼を盗んで、隣部屋の、押入れに潜り込んだ。そこから、襖越しに、二人の会話――後から、千代も加わって、三人になるのだが――を盗み聞きするのである。

「ほんで、何か新しい情報は、入ったがかね?死んだ二人の身元とか?」

「何処まで知っちゅうがです?男の方は、顔役さんとこに今、厄介になっている、仁吉さんの友人で、太田義彦ゆう男に間違いなさそうです。女の方は、損傷が激しくて――つまり、焼け焦げ状態でして――ほとんど、白骨状態ながです。ただ、男の太田さんが、その日、掛川町のヌード劇場を訪ねて、そこの踊り子の楽屋で、話をしていたとの情報がありまして、どうも、そこで、話がまとまって、夜の、その、男と女の付き合いを約束したみたいです。その、踊り子――ダンサー言いますか――が行方不明ですので、ほぼ間違いないと、見ています。つまり、ストリップ劇場の客とダンサーの情事のもつれ、の無理心中との結論です」

「ほいたら、その太田ちゅう男が、ダンサーを殺して火をつけて、自分も死んだ、ちゅうことかね?」

「ええ、そういうことになりますね。死んだ女の首辺りに――ほとんど骨ですけど――ネクタイらしいひも状の物が焼けのこっていましたき、間違いないでしょう。

 男の方は、のど、突いてました。凶器も側に落ちてたそうです。それと、家は、密室状態で、二人以外に、出ることも、入ることもできない状況ですき、疑いの余地はありません」

「その、太田さん、と、踊り子さん、前からの知り合いでしたの?」

 と、お茶を入れた、千代がテーブルに湯呑を並べながら尋ねた。

「その辺は、まだなんですが、そのダンサー、――芸名、カルメンいいますが――本名は土屋雪乃、二十四歳、大阪出身、そこまではわかっています。また、男の方の、太田も大阪におったそうですから、前からの知り合いであった、可能性はあります」

「ところで、その焼けた家やけど、近所の旅館の持ち物やと、思うけんど、鍵はどうしたが?誰が借りたが?」

「ああ、それも、調べはついてます。近所の湊旅館ゆうとこの持ちもんで、その日の夕方、電話で空き家を借りたい、ゆう申し込みがあって、その後で、男が鍵、預かりに来たそうです」

「その男が、太田さんだったの?」

「そうですろう。他のもん、来るわけないし……」

「確認してないのね?」

「確認しましたよ、けんど、店先は暗いし、その男、帽子目深に被ってて、顔は覚えてないそうです。まあ、背格好や服装は、死体の背広なんかとは、よう似たもんやった、と証言してるそうですよ、そこの女将……」

「あかん、湊旅館の女将ゆうたら、浪さんやろう?あの人、眼、悪いんや。片方は、戦争の時空襲で、破片が入って、片方は、白内障を患うて、ほとんど、見えてへんのやでェ」

「そ、そうなんですか?僕が直接聴いたわけじゃないんで、その辺はよう、わからんがですが。とにかく、あの空き家は、旅館の別宅、離れ、みたいなもんで、男と女の、その……、秘め事するのに、貸出してたみたいですよ。近所では、よく知られていましたよ、その使い方……」

「それと、これは肝心なことよ、密室って言ってるけど、どんな状態だったの?玄関のドアとか、部屋の窓とかの鍵の状態は?」

「それは、消防団の人から、しっかり、聴いてます。煙が出てるのを、旭の消防が見つけて、すぐ、消防車、出したそうです。その後、県庁の近くの、本町の方からも、応援、来たらしいですけど、中に人がいるらしいと聴いて、ドア開けようとしたんですが、中から、閂が掛かってる。窓や、ゆうて窓開けようとしても、動かんかった。しゃあなしに、窓壊して、水掛けたけど、もう辺り、火の海で、手ェつけれられん状態やったそうです。延焼だけは防ごうと、周りに水をかけて、壁の一部は毀したそうですけど、確かに、どこも、入るとこなかった、と皆、口揃えて、ゆうてます」

「そんなに、火の回りが速かったの?」

「そうなんです。言い忘れちょたけど、女性の方の身体にガソリンの匂いがしてたそうで、ガソリン、振り掛けてたみたいです」

「ちょっと待って、ガソリンって、あの家に、そんなもん、置いてあったの?自動車なんかないし、田んぼする、耕運機も置いてないやろう?何でガソリンがあるねん?」

「そりゃあ、男が持ち込んだがでしょう」

「ほいたら、計画的やないの。最初から、女のひと、殺して、火、付ける、そう決めて、ガソリン持ってきたんやないの。それ以外考えられる?」

「まあ、そういうことですわ。無理心中の計画的なもんでしょう。最初から、一緒に死ぬ気やったんでしょう、男の方は……」

 何か、引っ掛かるなぁ、と思うのだが、密室状態では、他の者の犯行とは考えられない。千代はそれ以上、勇次を追及できなかった。

「仁吉さん――顔役さんとこのお客さん――は何て言ってるの?太田さん、知り合いなんでしょう?」

「それが、あの人、無口なんですかね?山田巡査が聴き込みに行ったそうですが、ほとんど、喋らない。知りません、とか、わかりません、とか、記憶がない、そんな返事ばっかりだったそうです。どんな知り合いなのかも、ようわからん。唯の顔見知り、くらいしか、言わんそうです」

「じゃあ、女の人の方は?仁吉さんの知り合いじゃあないの?」

「それは違いますろう、仁吉さん、務所、出たてやから、ストリップの踊り子さんと知り合う機会はないですろう。本人も、記憶にないって、ゆうてたそうやから……」

「ふうん、じゃあ、捜してる恋人とは違うてるんやな?」

「捜してる恋人って、仁吉さんに恋人、おるんですか?務所、出たてなのに?」

「何ゆうてんの。あんた、自分に恋人、居らんから、務所帰りに居る訳ない、そう、思うちゅうね?お生憎さま、仁吉さん、刑務所入る原因の傷害事件、あんた、知らんの?恋人庇うて、チンピラ三人、ぶちのめしたんよ。そん時の彼女、捜してるんよ」

 捜しているかどうかは、定かではないが、千代はそう信じているから、勇次にはそう、断言した。

「それは、エイけんど、警察は『無理心中』ってことで、事件終わらしたがかえ?」

「そうです。犯人死亡、太田がカルメンさん殺して、放火、自殺、それで、ケリつきました。本部長も、納得してましたから、検察もそれで通る筈です」

「けんど、それ、ハマさんの見解が、元になっちゅうがやろう?『外しのハマさん』の……」

「お寅さん、それは、言われん、ゆうたでしょう。今度の件は推理の余地なし。事実、実地検証したら、他の結論でませんき。誰が考えても、同じ結論ですき。ハマさんも全部が全部、外す訳ないでしょう、刑事ですよ」

「けんど、前の『村田じいさん』の事件でも、会津と土佐の因縁じゃ、ゆうて、犯人全然、見つかってないろうがね。まあ、あんたも悪いけんど……」

「あ、あの事件は、特別です。まだ、捜査は終わってないですき……」

「けんど、『お宮入り』やろう?もう無理やもんね」

「まあ、そうです……」

「ほいたら、汚名盤回のチャンスやいか。『無理心中』やない、殺人事件で、犯人は別に居る。密室は犯人が考えたトリックや。それを、あんたが名探偵ぶりを発揮して、謎を解くんや。大手柄で、金一封。来年、昇進や。ほいたら、嫁ももらえるでェ」

「そ、そんな、無理ですよ。殺人で、他に犯人居るって、考えられません。それと、嫁さんは全く、次元が違う話ですき」

「まあ、まあ、嫁さんの話は別として、他の人が係わっちゅう可能性はないの?捜査は打ち切り?」

「ええ、おそらく、今の状況では、これ以上の捜査はないですね。何か新たな物証でも出て来ん限り……」

「つまらんねえ。大事件かと思うちょったに、単なる『心中』事件かね?江戸川乱歩も金田一耕助も出番なしかね?」

「世の中、そんなもんですよ。殺人事件がそう頻繁に起こったら、僕らぁ寝る暇もなくなりますき、事件はない方がエイですき」

「ああぁ、あんた慾がないねえ。出世せんわ。嫁も当分無理やね、今の給料じゃあ……」

「えぇ?やっぱ、刑事の安月給は有名ですか?ほんで、モテンがですか?小政さんが羨ましい、幾ら貰いゆうがやろう?」

「あほ、いいな。小政さんは男粋と、頭の良さと、人当たりの良さ、全部一流ぞね、あんた、小政さんの爪の垢でも飲まして貰い。あっちが、年下やろう?出来が違い過ぎや。うちとこの、みっちゃんも小政さんやったら、嫁に行くでェ」

「ええ?みっちゃんが、小政さんの嫁に?嘘ですろう、あきません、あんなモテル男に嫁いだら、浮気されんか、心配で、みっちゃん身体壊します」

「あんた、エラい、焦っちゅうね。まさか、あんた、うちのみっちゃんにチョッカイ出したりしてないろうね?アテの許しなしで、みっちゃん口説いたら、この家へ立ち入り禁止にするぞね」

「めっそうもない、何で、僕が、そんなことしますかいね」

「おかあさん、勇さん困ってるやないの。勇さんがみっちゃんに気があること、昼ごはん食べに来てる様子見て解るでしょう?みっちゃん目当てで、来てるんよ、うちでご飯食べるの……。それと、今日みたいに、わざわざ、事件のこと話に来るのも、みっちゃんの様子、知りたいからよ。ねぇ、勇さん?」

「ち、千代さん、からかわんといてください。ぼ、僕は、みっちゃんなんか……」

「あら、じゃあ、みっちゃんのお相手、お母さんが決めてしもうてもカマンがやね?エイ話も出てきちゅうがやよ」

「そ、それは、こ、困ります。やっぱ、結婚は、自由恋愛で……」

「ははは、本音が出た、出た。解りました。勇次さんの思い人は『みっちゃん』ね。けど、競争相手は『小政』の兄ィさんよ。まあ、こっちは、みっちゃんの片思いで終わる筈やけど、みっちゃんの理想が高いのだけは事実ね。勇さん頑張ってよ」

「どう、頑張ったらエイがですか?」

「そりゃあ、刑事やろう。難事件解決して、男上げたらエイやんか」

「だ、駄目ですよ、今回の、焼死は『無理心中』で解決してますから……」

「今回のが、駄目なら、次、頑張り。けんど、あんまり、猶予はないで、みっちゃんも年頃やき、嫁に欲しい、ゆう話は、掃いて、捨てるばあ、あるきに」

「そこを何とか、止めちょってください。今に、きっと手柄、立てますから……」

 事件の話から、嫁取りの話に代わって、勇さんは、お寅さんを拝むようにして、

「ほいたら、また来ますき」

 と、言い残して、刻屋を後にした。

「ああぁ、密室殺人事件と思うたに、ほっこりせん、話じゃったねェ」

「いえ、いえ、私、このまんまで、終わらんと思いますよ」

「えぇ?どういてぞね?」

「だって、死んだ男の人、仁吉さんの知り合いでしょう?刑務所へ五年も入ってた人の知り合い、って人が、偶然、この近くに現れたりします?絶対、仁吉さんの恋人探しに関係していますよ。けんど、仁吉さんは、何も言わん。どんな知り合いで、最近いつ会ったのか、それさえも、答えてないんですよ。つまり、秘密にしておく、必要があるからですよ。おまけに、小政さんまで、捜査に協力的でないみたいやし。今度の事件、単純な『無理心中』ではありませんよ。少なくても、仁吉さんと小政さんの中では、事件は終わってません。これは、自信あります」

「ほいたら、どうするがぞね?アテらぁ、なんちゃあできんぞね」

「そうなんですよ。勇さんがあれでは、私らぁは黙って、成り行き見守るしかないがですよ。悔しいけど……」

 お寅さんは「しゃあないねェ」と諦め顔で肯き、台所の片づけへと、立ちあがった。千代は、奥の間の、整理に向かう。

 二人の姿が、その部屋から消えた後、押入れの襖が静かに開いて、S氏が這い出てくる。

「小政さんと仁吉さんが、この事件の鍵を握っちゅうがか。冬休みもわずかやき、こうなったら、ジョンを連れて、大捜査やな。明日は忙しいぞ……」

 大人たちの会話を、盗み聞きし、千代の推測を真に受けて、S氏は明日の行動を、計画していた……。


         9

 翌朝、早々に朝食を済ますと、S氏は表へ出て行く。先生の家へ、ジョンを迎えに走る。

 先生の家の門の引き戸を開けると、さっそく、ジョンが尻尾を振って、じゃれついてくる。

「先生、ジョン、借りるよ」

 と、玄関口にいる、アラカン先生に声をかけ、承諾を得ないまま、門を出て行った。

 目指すは、顔役さんの家である。

 彼の計画は、こうである。

 まず、小政さんと仁吉さんを呼び出す。そして、火事の現場をもう一度、捜査するよう誘う。そこで、ジョンの能力を、信じ込ます。アメリカさんの軍用犬になるはずだった、ジョンの経歴が物を言うはずである。

 現場へ行けば、そこで、話が聴ける。昨日、母の千代が推測したことを、二人にぶっつければ、何かの反応がある筈である。その後は、成り行き任せとなるだろうが、事件解決の糸口は掴める筈である。

 普通の小学校低学年の子供が考える事ではない。環境の所為である。

 顔役さんの家の門から、誘う予定であった、二人が出てきた。偶然にしたら、好運である。

「小政さん、どこ行くが?」

「おや、刻屋のボンやないですか。ジョン君の散歩ですか?」

 と、小政さんはいつもの笑顔で振り向いた。

「うん、散歩やけど、小政さんにも用があるがよ。けんど、忙しいがやろう?」

「何です?私に用って?」

「一昨日、玉水町で、火事があったろう?ほんで、心中事件になったそうやいか。その片割れの男の人、仁吉さんの知り合いながやとね。刑事の勇次さんが言いよった。ほんで、よかったら、現場へ、ジョン連れて行って、もう一回、詳しゅう調べたら、心中やのうて、殺人事件と、解るかもしれんよ。小政さん、疑うちゅうがやろう?心中じゃないって……」

 S氏の言葉に、大人の二人が顔を見合す。小柄な、小政が、大柄な仁吉を見上げるようになる。

「この子は、いったい……」

 と、呟くように、仁吉が小政に問いかける。

「ほら、いつも噂しゆう、刻屋旅館の若女将、千代さん。あの人の息子さんよ。どうやら、血は争えん、って奴やね。この歳で、はや、名探偵や」

「我々の事、知っとんか?現場へ行くことも……」

「いや、それは偶然やろう。けんど、あの二人が、『心中』やのうて、殺されたと思うちゅうらしい。きっと、母親の入れ知恵や」

 と、ふたりは小声で話をしている。

 S氏には、全部聞こえている。

「何や、やっぱり、これから、現場へ行くとこやったんか。ちょうどエイわ。ジョンが役に立つと思うで、こう見えても、ジョンは、アメリカさんの軍用犬になるとこやったんやから、能力半端やないで、シェパードより、上かもしれん」

 大人二人の顔を覗う。二人はまた顔を見合わせ、肯く。

「よっしゃ、ほいたら、一緒に行こう。歩くんもなんやから、自転車借りてくるわ。二台で行こう。ボンは僕の荷台へ乗ったらエイ。ジョン走れるろう?ポインターの血、引いちゅうみたいやき」

 小政と仁吉が、門の中へ戻り、すぐ、二台の大型の自転車を押してきた。商売用の物らしい。荷台の後ろの車輪カバーに『山長商会』の文字が書かれてあった。

        *

 火事の現場は、玉水町の通りから、狭い路地を、鏡川方面へ入った、周りは田んぼのような雑種地の中に、ポツンと建っていたようだ。ようだ、と言うのは、ほとんど、原形を留めていないからだ。焼け跡は、家の土台を残して、全焼しており、焼け焦げた木材も、片付けられている。

 ジョンが一番先に現場に到着し、匂いを嗅いでいる。平坦な場所に、自転車を停め、三人――大人二人と子供一人――は焼け跡に近づいて行く。

「ほんま、よう焼けて、跡形もあらへんな」

 仁吉は関西訛りで、呟く。

「昨日は、少しは家の跡があったんやが、毀してしもうたがやねぇ。これじゃあ、密室かどうかも解らんね」

 と、小政も周辺を見回して、言った。

「密室って、本当に完全なもんやったが?そもそも、誰が、密室なんて言葉、使うたが?」

「まず、消防団の人が、家の中へ入ろうとしたら、閂が掛かってた。それで、窓、こっち側に、一つあったらしい」

 と、川の方――南側――を手で指し示しながら、

「そこを、開けようとしたが、開かんかった。そう証言したんや。窓のカギは、ねじ式の中からしか掛けれん奴や。その証言を聴いた、担当の刑事さんが、『こりゃ密室や』ゆうて、それが最初よ」

「ははぁん、『外しのハマさん』の一言か。絶対外れちゅうね。どっかに、別の出入口があるか、窓は完全にしまってなかったか、どっちかやね」

「『外しのハマさん』って、なんのこっちゃ?」

「そうか、仁吉は知らんかったにゃあ。担当の刑事、浜田内蔵助、ゆう、大層な名前やけんど、その仮説ゆうか、推理は、尽く、外れるがで有名よ。ほやき、ボンも『密室』に懐疑的ながよ」

「小政もそう、思うてるんか?」

「そうよなあ、義彦が、心中するわけないもんな。それに、相手が雪乃さんとしたら、尚更ありえん」

「その、義彦さんと雪乃さんって、二人の知り合いながですか?」

 S氏の質問に、大人の二人は顔を見合わせて、

「ゆうてもエイろう?」

 と、小政が、仁吉に確認した。

「仁吉の元の恋人――ほとんど許嫁(いいなずけ)みたいな――が雪乃さんよ」

「ほいたら、仁吉さんが、傷害事件を起こした時、一緒におった女のひと?」

「ボンも詳しいね。そうよ、その時の彼女よ。そんで、義彦は古い友人で、仁吉と雪乃、二人の仲もよう知っちゅう、とゆうより、義彦の紹介で、知りおうたがよ、二人は……」

「小政、そっからは、わしが話した方がエイやろ」

 と、仁吉が話を止める。

「そうやな、又聞きの話より、本人からゆうた方が、間違いないわ」

 三人は焼け残った、家の土台のコンクリートの残骸に腰をかけ、仁吉が話を始めた。

「わしは元、特攻隊員やった」

 と、昔話が始まった。

 鹿児島の基地から、一度は飛び立ったが、機体の故障で、不時着。その後、すぐ、終戦となってしまった。やり場のない気持で大阪に戻って、仕事もせず、街をぶらついていた、ある日、幼馴染の義彦と雪乃に会ったのである。義彦はその頃、闇市に軍の払い下げ――本当は黙って持ってきたもの――を売りさばいていた。雪乃はその手伝いをしていたのである。義彦はその頃、市場で、地回り――新興ヤクザ――が顔を出し始め、商売の邪魔をする、ミカジメ料を要求されたりしていた。空手の有段者で、特攻くずれ、の仁吉は、用心棒として、打ってつけであった。

 ヤクザのチンピラ、などは、特攻服と空手の試割――大抵は板切れ程度――を見て、立ち去ってゆく。周りの、商売人も仁吉の強さを当てにして、ヤクザに反抗し始める。大きな揉め事にならない程度、銭を渡す。それで、均衡が取れ、闇市は、繁盛して行った。

 事件は、そんな中で起きたのである。

つまり、ミカジメが少なくなったヤクザのチンピラが、嫌がらせに、仁吉と雪乃のデートにちょっかいを出し、その結果、傷害罪で、仁吉は五年の刑を受けたのである。

 その服役中に、義彦達も被害に合う。仁吉のいなくなったことを幸いに、ヤクザが、態度を豹変させ、闇市自体を仕切るようになるのである。

 抵抗した、義彦は、殴られ、蹴られ、重傷を負い、入院する破目になる。雪乃は、ヤクザに拉致同様に連れ去られ、行方不明となった。

「そのことを、ムショ(=刑務所)から出てから知ったんや。わしが居らん間に、酷いことになっとった。義彦と連絡取って、雪乃の行方を調べたんや。どうも、ヤクザの幹部に手込にされて、ストリッパーにまでなり下がって、田舎廻り、しとるらしい。そこまでは掴んだ。けど、全国は広い。ただ、関西から、西の方を廻っているグループにいるらしいと聴いて、土佐にヌード劇場がでけた、とも聴いたんで、京都時代の友人の政司を訪ねてきたってことや。義彦は、九州方面から、広島、岡山、を廻って、どうやら、四国へ上陸したらしい、との情報を得て、この正月に土佐へ来たところよ。ほんで、さっそく、正月明けの初公演を見に行ったら、雪乃らしい女が、踊り子におるやないか、楽屋へ尋ねたら本人やった。と、そこまで連絡が入った。その晩、この家で、焼け死んだってことや」、

「へえ、じゃあ、義彦さんは雪乃さんの行方を突き止めたがですね。じゃあ、何故、連れ出さんがったがです?」

「そりゃ、でけん。踊り子は金で、身体を縛られてるんや。自由行動はご法度。ただ、客を取る、ちゅう名目なら、外出できる。多分、二人はそうしたと思うで」

「こら、子供にはもうちっと、ぼかして話さんか、生々しすぎるぞ」

「エイエイ、これくらいなら、わかるき。伊達に、旅館の息子、しやあせんき。男と女やろう。自由恋愛、政略結婚、色々あるちや」

 S氏の言葉に、また大人二人は顔を見合わせ、プッと吹き出した。

「おもろいやっちゃな、このボンちゅう子は。ほんま、親の顔が見たいわ。そうや、あの別嬪さんの子なんや。どうゆう躾してんやろう?」

「多分、自由奔放ながやろう、見てわかるろう。賢い子や。将来楽しみや。刻屋、継がんかったら、うちで働いてもらおう」

「厭や、僕は探偵になるがやき、明智小五郎か金田一耕助みたいに……。なれんかったら、ルパンか鼠小僧みたいな義賊になって、貧乏人を助けちゃる」

「ほんま、おもろすぎて、涙が出るわ。ほいたら、名探偵さん、この現場見て、どう推理するねん?名推理聴かせてんか……」

「エイよ。僕の推理、聞かせちゃる。これは、殺人事件や。心中に見せかけた。おそらく、義彦さんと雪乃さんの行動を見張ってた奴がいる。そうやろう?金づるの女が、外で客を取る、誰も見張らんと、自由行動なんかさすか?」

 S氏のその推理に、大人二人が、今度は驚いたように、また顔を見合す。

「ボ、ボンのゆうとおりや。見張りをつけるはずや」

 小政の言葉に、仁吉も肯く。

「そうやろう?ほいたら、二人が、客と女郎さんやのうて、逃げる算段――足抜けゆうんか――しちゅう、とばれたら、どうなる?見つけたら、お仕置きやろう?抵抗したら……?」

「そうや、逃げようとして、見つかって、抵抗したら、バッサリ、って、充分あり得るわ。この子、ほんまに、名探偵やで」

「殺して、殺人とばれんように、心中に見せかけ、火をつける。証拠隠滅やね」

「ちょっと待って、証拠隠滅のため、火つけたんか?やりすぎとちゃうか?」

「だって、自分で首刺したか、切られたか、わからんようにする。また、争うた跡も、犯人の指紋や足跡、諸々の証拠を消すため、燃やすんが、手っ取り早い。ここは、一軒家で、延焼もない、火の発見も遅れる。一石二鳥か三鳥や」

「密室にしたんも心中を装うためか?」

「まあ、それもあるろうけんど、僕は、密室は偶然やと思うで。火を点けて、点けた本人、慌てて窓から逃げ出した。煙が見えんように、窓を閉めた。窓枠が、火災の熱で歪んで、開かんなった。それを、鍵が掛ってる、と、ハマさんが勝手に思い込んだんや。消防の人、『窓も開かんかった』ゆうたけんど、『鍵掛かってた』なんてゆうてないもん」

「こいつは凄い。仁吉よ、やっぱ、血ィは争えん。千代さんの子や。大人顔負けの名探偵やんか」

 小政はうんうん、と肯く。

「ほんなら、犯人はヌード劇場の関係者か?」

「いや、違う。元締めの、おそらく、ヤクザの息のかかった連中や。それを調べな、ならんな。最近、新興ヤクザが蔓延ってきゆうき、チックと、面倒かもしれん」

「ちょっと待って、もう少し、廻りを調べようよ。第三者がおったなら、家の周辺に何か手掛かり、残しちゅうかもしれん。足跡は、消防団とか野次馬で消されちゅうろうけんど、ほら、煙草とか、車の跡とか……」

「そうや、火事の現場から、すぐ、逃げたろうから、車使うた可能性は高いぜ。周りにタイヤの跡ないか調べよう。仁吉はそっちや。俺とボンは西側を調べるわ」

 小政の指示で、三人はそれぞれ、場所を移動する。が、誰よりも早く、車のタイヤの跡を見出したのは、ジョンであった。ジョンの声がする方へ歩むと、固い土の路上に薄っすらとタイヤの跡がある。

「こっちは、消防車も、警察関係の車も来とらんとこや。草の倒れ方を見ても、そんなに前のもんやないき、これは、事件と関係あるぜ」

 と、小政が、タイヤの跡を撫でるようにして呟く。

 その時、再び、ジョンが「ワン、ワン」と吠えた。タイヤの跡から、十メートル程離れた、草の生い茂った場所である。

 近寄ってみると、白い布が落ちている。

「ハンカチのようやな?」

 と、小政が、ジョンを退かすようにして、その布を拾い上げる。

「血がついとる」

 その布には、べっとりと、赤い液体が、染み込んでいる。血の匂いが微かにする。

「間違いない、人間の血や。しかも、手を拭いた跡や。指の形が、残っとる。犯人が、二人を殺して、義彦を刺して、手に血が付いたんを、拭うたんやろう。車に乗る前に、ここへ捨てたんやな」

 小政は、ハンカチが落ちていた周辺に眼を向ける。ジョンがまた、一声吠える。そこには、煙草の吸殻が落ちていた。

「ピースの吸殻や。これも証拠になるな」

「どうするの?警察へ知らせる?殺人事件として、捜査し直してくれって……」

「あかんな。警察はこんなもんじゃあ、結論を引っ繰り返さんで。車の跡も、血染めのハンカチも、煙草の吸殻も、心中事件と係わりがあるか、はっきり言えんからな。 それと、ボンには黙っとったが、あの心中の死体、女の方やが、あれは、雪乃さんの死体と違うんや。ほとんど、骨になってたけど、明らかに違う、何故なら、雪乃さん、身長、百七十センチ以上ある、大女なんよ。あの遺体、どう見ても、百五十センチ、百六十センチはなかった」

「えぇ?でも、雪乃さん、つまり、踊り子の、カルメンさんは行方不明ながやろう?ほいたら、犯人と雪乃さんが共謀して、心中工作した、ゆうがかえ?」

「いや、違う。カルメンは殺されてない。まだまだ、利用価値があると考えて、拉致されたんやと思う。『カルメン故郷に帰る』って映画、知ってるか?日本初の、総天然色カラー映画、高峰秀子主演の映画や。雪乃が、そのヒロインに似てたから、源氏名を『カルメン』ってしたんや。そんだけ、別嬪で、スタイル、抜群の女を、そう簡単に殺すかいな」

 と、仁吉が説明する。

「ほいたら、この車の跡、追けて行ったら、カルメンさんの居場所、監禁されてる場所がわかるがやない?」

「ああ、追跡でけたらな」

「出来るかもしれんよ、ジョンなら……」

「ほ、ほんまか?そんなに凄い、犬なんか、この犬?」

「やってみんと、解らんとこもあるけど、鼻は鋭いし、風の匂いも嗅ぎ取るし、この煙草、ハンカチ、車の跡、三つの跡を辿ったら、そう遠くないとこなら、行き着くと思うでェ」

「よっしゃ、やってみよう。駄目で元々やき。ジョン、頼むでェ」

 小政はジョンの頭を撫で、煙草とハンカチの匂いを嗅がす。それから、車のタイヤ跡へ連れて行き、その匂いも嗅がした。

「ちょっと、待て」

 と、仁吉がポケットから、白いハンカチに包まれた小さなものを取り出しながら、二人に言った。

「これも、その犬――ジョンゆうたか?――に嗅がしてくれ」

「何や、それ?」

 と。小政が訝しげに尋ねる。

 仁吉が、ハンカチの包みから取り出したのは、女性用の口紅である。時代物のようだ。銀色の表面が一部、剥げている。

「これ、雪乃が使うていた、口紅や。わしが刑務所入る時、差入れと一緒に、荷物へ入れとったもんや。少しは、雪乃の匂いが残ってるやろう」

 ハンカチに乗せたまま、ジョンの鼻に近づける。ジョンは微かな、女性の匂いを嗅ぎ分けたのか、口紅から顔を上げると、頷く仕草を見せた。

「ジョン、行くんや」

 と、S氏が命令すると、ジョンは背中を伸ばし、北に向かって走り出した。

「よっしゃ、わしらも自転車で追跡開始や」

 仁吉と小政が自転車へ走る。

 そうして、ジョンが地面に鼻を擦りつけ、匂いを確かめると、急に駆け出す。その繰り返しを後ろから、辛抱強くついて行くのであった。

        *

 玉水町の通りを旭駅前の電停方向へジョンは足早に向かって行く。電車通りを左に折れ、次の交差点を木村会館の方へ、電車道を渡る。そのまま、北へ直進。国鉄、土讃線の踏切を渡って、また左に折れる。線路沿いに少し進むと、三差路がある。そこを、右方向へ進むと、白い塀に囲まれた、大きな西洋風の屋敷が見えてきた。

 二百坪はありそうな、広大な敷地に、周りは高さ、三メートルもありそうな、高いコンクリートの塀。その塀の上部には、鉄条網まで、取り付けてある。

 その塀に沿って行くと、中央付近に大きな扉があった。家の門、と言うより、城門のように、分厚い木材の戸に、鉄の枠、鉄の鋲まで、打ち着けてある。

 ジョンはその門の前で、地面に鼻を擦りつけるようにして立ち止った。

 自転車を止め、

「何や、この家?まるで、城壁やないか?」

 と、仁吉が、門を見上げる。

「ここへ、車が入って行った、とジョンが教えてるんやな?」

 と、小政が言う。

 門に、表札はない。誰の家やろう?と首をかしげていると、中年の女性が、買い物籠を下げて、三人を訝しそうに眺め、通り過ぎようとする。

「あっ、お姐さん、ちょっと、お尋ねしますが……」

 と、S氏がそのおばさんを呼びとめる。

「お姐さん、って、アテのことかえ、ボク?」

 と、そのおばさんは、嬉しそうに足を止め、振り向いた。

「ええ、そうです」

「まあ、そんなに、若う見えるかえ?もう、四十は大分、超えちゅうに……」

 S氏はそれ以上の、お世辞は言わんとこう、と話を進める。

「この、大きなお家はどなたのお家ですか?大層、立派やけんど、大金持ちさん、やろうか?どっかの、社長さんです?」

 と、尋ねた。

 小政と仁吉は、S氏の巧みな質問の仕方を感心している。

「ボク、大きい声で言われん!」

 と、おばさんは、人指し指を立てて、「シィー」と内緒話の格好をする。

「ここは、ヤクザの幹部の家やき、滅多なことゆうたら、どんな難癖、つけられるかわからんき」

「ヤクザって、○○組ですか?」

 と、小政が問いかける。

「この人、ボクの父ちゃんか?偉い若い父ちゃんやな?」

 と、おばさんがS氏に尋ねる。

「いえ、うちの近所の人です。仲のエイ、兄ちゃんです」

「そうか、えらい、ヤクザに詳しそうやき、びっくりしたわ。○○組って、よう知っちゅうね。そうよ、最近、蔓延って来ちゅう、らしゅうて、駐在さんにも注意するよう、言われちゅうがよね」

「そうか。○○組の幹部の家か。ほんで、こんな、城塞みたいに、警戒した家、建てたんか」

 と、小政が、高い塀を見上げて呟いた。

「お姐さん、ほんで、最近、ここで変わったことない?女の人が、連れて来られたみたいな?」

 と、S氏はさり気なく、おばさんに尋ねる。

「あんたら、警察関係?それとも、探偵さん?子連れの探偵はないわな。何で、そんなこと知っちゅうが?」

「ほいたら、女のひと、連れて来られたみたいな?」

「そうよ、年が明けてから、毎晩、黒い車が、頻繁に出入りして、その中に妙齢の、つまり若こうて、別嬪のおなごがそれに乗っちょった、ゆう評判ぞね。町内会の会長さんが『警察に言わんといかんろうか?』って言いよった。一昨日の晩も、晩(おそ)うに、車が入って行きよったらしいき。けんど、出てきた女衆は、居らんらしいでェ……。

 イカン、イカン、こんなこと、ここで話しよったら、どんな目にあわされるか。『触らぬ神に祟りなし』ぞね。早う帰り」

 おばさんは廻りを気にしながら、いそいそと、立ち去って行った。その、後ろ姿を見送りながら、

「今の話やと、連れ込まれたがは一人や二人やないな。○○組の幹部が、女、集めて、何しゆうがやろう?まさか、新年会でもあるまい」

「そん中に、カルメンさん、雪乃さんがおるんやね?」

「ああ、間違いないわ。一昨日、晩う来た、ゆうんが、そうやろう。ジョンのお陰で、思うたより早う、行方が解ったわ」

 そう、小政が言い終わる頃、一台の黒い車が、踏切の方から、近づいてきた。

 三人はすぐに、自転車を押して、すぐ横の小さな路地に隠れる。

 案の定、車は門のすぐ手前で停まり、助手席から、男が居りてきて、門の横に備え付けられた呼び鈴を、三回短く押し、最後に一回長く押した。どうやら決められた、合図のようである。

 少しして、重たい門が内側に開かれ、車が中へと吸い込まれた。

「見たか?」

 と、仁吉が小政に尋ねる。

「ああ、後ろの席に、女がおった、しかも、猿轡みたいな布、当てられてたな」

「強引に、連れて来られたんや。拉致やな。あんな目におうとる、女が何人もおるってことや」

「小政さん、これはもう、警察呼ばんといかんのとちゃう?誘拐や。れっきとした犯罪やき」

「ボン、おまんのゆう通りやが、まだ、その時やない。はっきりした証拠、証人とか、証拠の写真とか、そうゆうもんがないと、警察は動けん。家宅捜査の令状が出んき、事情聴取か任意の取り調べしかできん。そうしよったら、別んとこへ、女らあを移されて、証拠隠滅や。ヤクザは賢い。令状が取れるまで、取れる状況になるまでは、手ぇ出さん方がエイ」

「じゃあ、どうするん?黙って見てるんか?」

「ボン、ありがとうな。ボンとジョンのお陰で、ここまで突き止めた。けんど、ボンが首突っ込めるがは、ここまでや。後は、大人の領域や。しかも、ヤバイ、ヤクザの、切った、張ったの揉め事になるかもしれん。そやき、今日のところは、これで、引き上げる。後は、わしら、『長吾郎一家』に任しちょいてくれ。結果は、必ず知らせるきに、危ない真似はせんとってくれ」

 小政は、S氏の前にしゃがんで、肩に両手を置き、じっと、眼を見つめて、そう言い聞かせた。まるで、大事な弟を説得するようである。

「わかった、小政さんらぁに後は任す。小政さんを信頼しちゅうき。おかあさんが『小政さんはデキルひとや』言いよった。間違うたことは、絶対せん、と信じちゅう。早う、カルメンさんらぁ、女のひと、助けちゃってよ」

「ああ、信頼してくれて、ありがたいわ」

「けんど、もしもの時のために、刑事の勇さんには伝えとくで。あんまし、頼りにはならんけんど、一応、刑事やし、うちのばあちゃんに弱いき、何でもゆうこと聴く。

後々の警察への対応も便宜図ってもらえるろう。黙っちょったら、長吾郎一家が怒られるき」

「この子のゆう通りや。小政、一応、警察にも筋通しといたほうがエイ。その、勇さんとかゆう刑事、信用できるんやろう?詳しゅう言わんと、犯罪の芽があるくらいは、話、入れとこう」

 と、仁吉が、S氏の意見を補足する。

「わかった。勇さんは、刑事としての腕は微妙やが、人物は信頼できる。ヤクザと女衒は、大嫌いやそうやから、この件は打ってつけや……。

 そうや、女衒で思いついたわ。前に、お寅さんに頼まれて、女衒に罠、掛けたことがある。エーと、クマ……、確か、熊蔵ゆうた骨董屋や。あいつを使うたろう。それと、石や。これは、おもろい、狂言かけるで……」

「狂言ってなんや?変な笑い方して、お前には着いて行けんとこ、あるからなあ」

「はは、そんな顔してるか?イカン、イカン、こんな、敵前で、立ち話もなんやき、一旦帰ろう。詳しい話はそれからや。石にも、旦那さんにも相談せんといかんき」

 小政の提案に、他の二人と一匹?も肯いて、早々に、その場を離れて行った……。

    後篇につづく……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る