第110話 息子のこだわり2

日本へ引っ越してみると。ローラーホッケーは無名で、チームもなかったが、アイスホッケーのチームはあったので、そっちに入った。アイスホッケーの練習は、普段は一般に開放されているスケート場で行われるので、練習時間が夜の9時からとかになる。練習を終えて帰宅すると真夜中に近かった。大人のチームの練習は、その後から早朝までの間に入っていた。北大出身で雪印の営業で九州に来ていた家族の子供達もこのチームにいたが、以前住んでいた東京では、練習事情はもっと厳しかったと言っていた。競技人口に対するスケートリンクが少なすぎたとか。驚いたことに、日本のクラブのチームの保護者の間には、自分達の子供を本気で、社会人チームへ入れようとしていた親御さんが多くいたのには驚いた。私たち家族の様に、娯楽でやっている者は少なかった。なにしろ、新品のスケートが5−10万円もするのだ。子供なので、すぐに、成長して履けなくなる。他にスティックやヘルメット等の防具も購入しなければならなった。私たちは、中古品や、新品を米国かカナダから通販で買っていたが、それでも大した金額になった。実は、ヘッドコーチはスポーツ用品店の営業をしていて、大半のチームメンバーの保護者は、10−30万円もする道具をこのコーチから購入していた。息子は、ヘルメットやスティックはローラーホッケーの時から持っていた物で始めたし、スケートも最初は大学生の中古を譲ってもらったので、5万円以下で始められた。後にスケートは、通販で海外から取り寄せたので、日本の価格の半額以下だった。このチームの保護者の半数がベンツに乗っていたように思う。多くは、中小企業の社長とかだった。


そして、息子は同時期にインターナショナルスクールで、バスケを始めた。米国では、遊びレベルでしかやっていなかったが、何しろ、1学年の生徒数が10−20人程度の学校なので、誰もがチームに勧誘された。そういう感じで、始めたバスケだったが、またもや、息子はハマってしまった。ちょうどその頃、漫画「スラムダンク」が人気で、息子はこの漫画を読んで日本語を覚えてしまったが、バスケにも熱を入れていた。ジャンプ力をつけるためにの特別な靴を買い、家の周りでも、走り込んでいた。ガードをしていたが、シュートも上手くなり、試合でも3ポイントショットを何本も決めれる程度になっていた。チームメイトとは、学校以外でも試合をしており、いつもバスケの試合をしに出かけていた。学校の遠征の多くは、岩国や佐世保の米軍基地で、インターナショナルスクールのメンバーは、基地内のショップで特別に買い物を許されて、色々と、日本では入手にくい土産物を持って帰ってきていた。対戦相手は、全校数が1000人を超える基地の学校が多く、成績は、くじ引きの運が良く、他の小さなインターナショナルスクールと当たって一回戦を突破できればラッキーだったのだ。息子の最終年だけには、後もう一試合勝てば、沖縄である極東選手権に出られるとかだった。まあ、負けてしまったが、友人の話では息子は3ポイントシュート連発で活躍したらしい。息子は、そうやって、いつも何かに墓塔してしまっていた。


この頃、大食いになった息子は、その伝説を残していくのでもあった。リンクは以前書いた息子の大食い伝説。https://kakuyomu.jp/works/16817330659296751062/episodes/16817330661148627452

食事に関しても、息子のこだわりは激しく、高校三年生の頃、学校からの帰り道に必ず餃子の王将で、天津飯を食べていた。もう、店に入ると、注文せずにオーダーが出てくるほどだったらしい。


学校の成績は良いほうだったが(一応主席)、小さな学校なので、競争もなく大したとはなかったと思う。この頃、息子の能力について少し気になったことがあった。数学(線形代数)の問題を解いていて、普通の解き方である数式の展開ができてないのに答えはあっていることが何度もあった。こ宛が頭にひらめくとか言っていた。その時、私は息子は自閉症なのかも知れないと初めて思いだした。それでも、息子は私の卒業した大学の工学部に入学できた(親の七光りで?)。しかし、その後、問題は起こった。一年生の化学の講義でギリギリの単位しか取れなかったのだ。物理と数学はBだった。この学期の成績をみて、自分には工学部は向いていないと思い込み、転学部してしまった。米国では、18歳の学生は大人とみなされ、両親に成績や転学の報告は来なくなっていた。結局、文系のアジアンスタディーとかいう、怪しい(私の取っては)学科へ移っていた。その時、コンピューターサイエンスも勧めるべきだったと、息子嫁に、現在叱られているが、向こうから連絡も来ないので、対応もできなかった。そこで、三年ほど、半分遊びならが卒業した。その間は、主にサッカー(サッカー部とかいう大したものではなく、私が院生時代にやっていた、ソフトボールの様なリーグだった)にかなりの時間を費やしていた。そして、卒業する少し前には、剣道も始めていた。友人は、私の時代とは逆で、インド系を含むアジア系米国人が多く、白人は半数以下だった。今の米国の大学はアジア系の学生が多い。


息子の人生において決定的な出会いは、ルームメイトの一人の兄が、スポーツマネージメントという専攻を卒業し、シカゴのプロサッカーチームで働いていたことだった。このコネで、息子とルームメイトは、大学の休みの間に、このチームのインターンとして過ごした。そのお陰で、息子は、大学院でこのスポーツマネージメントを専攻することにし、やがて博士課程を修了した。今では、大学の教授となってしまった。高校を卒業しても、やりたいことが定まらず、私の勧めで入った工学部だったが、自分には向いていないと悟り、たどり着いた職業だが、本人は又かなりハマっている。稀にある息子の職に関する会話で、自分のところに査読依頼されてくる論文の3/4は落としていると自負している。そして、自分の書いた論文は、必ず狙った専門誌に掲載されているとも。この話を聞いて、私の恩師を思い出したと、妻に告げると、私も若い頃は似た様なもんだったと言われてしまった(これは妻にとっては褒め言葉ではなく、夫と同じ様になってしまった息子が残念であると言う部類に入る発言だと思っている)。

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