第3話 正樹にとっての騒音


 正樹が入院するのはその時が初めてだったが、それから時々入院するようになった。毎回同じ病というわけではなく、ケガであったり、ちょっとした病気だったりである。

 別に生命にかかわる病気ではないので、入院中は退屈していた。特にケガをしての入院の時は、患部以外が元気なのだ。退屈するのも無理もないことだった。

 事故の時もあった。

 交通事故だったのだが、正樹本人が悪いわけではない。普通に歩道を歩いていて、車が歩道に乗りかかってきたのだ。

 居眠り運転だということだったが、幸いにも軽いけがで済んだからよかったが、一歩間違えると死んでいてもおかしくなかったらしい。

「君は悪運が強いな」

 と、馴染みの先生からからかわれたが、それほど事故の内容から被害程度は大したことのないものだった。

「またお世話になります」

 と少し体裁が悪い気分で、照れながら先生に挨拶をした。

 正樹が定期的に入院していた時期は、中学三年生の頃から、高校二年生の頃に掛けてだった。

 勉強が遅れるというよりも正樹としては、

――思春期の大事な時期に――

 という思いが強かった。

 もちろん、その思いを誰かに話したりはしていない。思春期に関してあまり興味のないふりをしていたからだ。

 ふりをしていたと言っても、そこまで思春期を気にしていたわけではない。まわりの男子が思春期の自分を正当化しようとしているのか、やけに異性への興味をひけらかしているように感じると、正樹は自分まで同類だと思われたくない一心から、興味のないふりをしていた。だが、まわりの男子のそんなあからさまな態度を見なければ、正樹はもっと思春期というものに対して意識を深めていたに違いない。

 正樹の入院する病院は、地域でも一番大きな大学病院で、院内にはコンビニはもちろん、喫茶店やレストラン、さらには付き添いの人のために、ホテル並みの宿泊施設まで完備していた。

「産婦人科などは昔に比べればかなりきれいになったけど、総合病院も最近は負けていないわね」

 と、母親が話していたが、まさにその通りだった。

 正樹の入院期間は、その時々で違っていたが、長い時は一か月近いこともあった。元々けがで入院していたにも関わらず、入院中に胃潰瘍を起こし、完治に少し時間が掛かった時があった。

 元々、胃の強い方ではなかったので、胃潰瘍は持病のようなものだったが、まさか、思春期に患うことになるとは思ってもいなかったので、正樹にとって、少なからずのショックであった。

 軽い症状なので、手術などの必要はなく、投薬で様子を見ていた。

 先ほど、完治と言ったが、実際には完治しているわけではなく、その時の症状が治まったことで、とりあえず完治という表現をした。

 病院に何度も入院すると、入院期間がどんなに短くても、継続して入院しているような錯覚に陥ってしまう。まるで入院生活を何年も続けているような感覚は、退院してからの生活の感覚をマヒさせるものでもあった。

 だが、退院してから少しすると、入院生活を忘れてしまう。まるで自分は入院したことなどないかのように思えてくるのだが、そう思うと、今度はまわりが自分に対して余計な気を遣っているように思えてくるから不思議だった。

――この子は、何度も入院させられて、かわいそうだわ――

 と、親ならそう思うかも知れないが、それ以外の人の目線も、どこか気の毒な人を見ているような雰囲気があり、却って恐縮してしまう自分を感じるのだった。

 入院というと、世間から途絶されたかのように思えていたが、テレビも普通に見ることができ、院内には本屋もあって、好きな本を買うことができる。入院するまでは本など読んだこともなかった正樹だったが、入院したことがきっかけで、本を読むようになっていた。

 正樹が興味を持ったのは、時代小説だった。

 文庫本というよりも新書であるパターンが多く、戦国武将が活躍する話が多かったりする。歴史上の人物が実在している場合もあるが、架空の人物を主人公にして、歴史的な背景は、史実に乗っ取ったものとして描かれているものを、正樹は好んだ。

 史実としては、敵に滅ぼされてしまう悲劇の武将が、主人公の登場によって、華麗に歴史上で躍動し、本来であれば討死してしまうはずの史実を、根本から覆すようなそんな小説……。それを正樹は好んで読んだ。

 同時入院患者の中で、歴史に興味を持っている人がいて、その人は大学生だったが、正樹とは妙にウマが合い、歴史の話をよくしていた。正樹が時代小説を読むようになったきっかけも、その人と話をしたことから始まっていた。

「正樹君は、歴史上では誰が好きなんだい?」

 と最初に聞かれて、正樹は返答に困っていた。

 戦国時代は好きだったが、武将の中で誰が好きという発想はなかったので、返答に困った。それで誰もが答える有名武将ではない、ちょっとくせのある武将の名前を口にすると、

「おお、それはさぞや興味をそそられることだろうね。実は僕もその武将に造詣が深いんだ。彼を題材にした小説を何冊か読んだことがあるよ」

 と言っていた。

 その武将は大名でのなく、軍師のような存在でもない。いわゆる外交に長けている人で、他の国との交渉には必ず出かけていった。そんな武将だった。

「目立たないんだけど、彼の存在がなければ、歴史は今とはかなり違っていたかも知れないね」

 と大学生のお兄さんは言っていたが、正樹もその意見には賛成であった。

 その大学生は、大学でも歴史学を専攻していた。史実に関してはかなり研究を重ねていて、正樹が質問したことに関して、完璧に答えていた。

 中途半端な知識を持っている正樹の質問くらいなら、完璧に答えるくらいはそれほど難しくないと思っているそのお兄さんは、

「本を読むなら、最初は時代小説から入るのもいいかも知れないね」

 と言っていた。

「時代小説?」

「ああ、時代小説だよ」

「時代小説って、時代劇の小説のことでしょう? 僕は江戸時代のいわゆるチャンバラのような歴史に興味はないんですよ」

 というと、

「いやいや、時代小説というのはそういう意味ではないんだ。歴史を題材にした小説には大きく分けて時代小説と、歴史小説があるんだ。最近ではその区別も曖昧になってきてはいるんだけど、その違いは歴然としているんだよ」

「どういうことですか?」

「基本的に、史実に基づいて、歴史上の人物や事件を描いたのが歴史小説。そして、史実に乗っ取ってはいるが、人物や事件が架空の物語として存在するのが時代小説というジャンルになるんだ」

「なるほど」

「もっとも、そこまで厳格な違いがあるわけではない。時代小説と言っても、実在する人を主人公にしている場合もあるし、事件や戦は実在するもので、登場人物の個性によって、事件た戦の結末が変わってしまうものも時代小説なんだ。エンターテイメントとして読むのなら、そっちの方が面白く読める。時代小説というのは、そういうものなんだよ」

「歴史小説というのは?」

「そうだな、一種のドキュメンタリーとでも言えばいいか。テレビなどで一人の武将をテーマにして、その人の偉業を時系列で紹介する番組があるが、それを小説にしたのが、歴史小説と言ってもいいんじゃないかな?」

 正樹はそれを聞いて、

「なるほど、じゃあ、歴史小説と時代小説というのは、ハッキリとした色分けに理由があるのだけど、その境界は曖昧で、時代小説の歴史小説とでは、同一の空間で存在することもできるような認識でいいんでしょうか?」

 と、正樹がいうと、

「そんなに難しく考える必要はないと思うけど、基本的にはその考えで正しいと思う。要するに歴史小説であっても、時代小説であっても、読む人が求めているものが見つかればそれでいいと思うんだ。それは歴史小説、時代小説にこだわるわけではなく、どんな小説にも当てはまるというものではないのかな?」

 と、お兄さんは答えた。

 正樹はお兄さんに言われた通り、時代小説を手に取って読んでみた。

「へぇ、結構面白いんだ」

 と、声に出して言ってみたいくらいに興味をそそられた。

 しかし、その反面、

「歴史を実際に知っていた方が、もっと面白く感じるかも知れないな」

 という思いもあった。

 お兄さんがいうには、歴史小説は史実に乗っ取ったものだという。歴史小説のコーナーに行ってみると、なるほど史実に乗っ取ったような本がたくさん置いてあった。

 それは新書というよりも文庫が多く、内容としては、一人の武将をテーマにしたまるで伝記のような小説であったり、一つの事件を元に、その歴史の前後を解説している話だったりする。

 正樹はまず自分の興味を持った武将の話を読んでみることにした。先日、奇しくも口にした武将の本もそこにあり、

「よし、本当に詳しくなってやろう」

 とばかりにその本を買って、実際に読んでみた。

 歴史に関しては中途半端な知識しかなかったので、読んでいてもところどころ分からないところもあったが、スマホという便利なものが普及してきた時期でもあったので、本を読みながら、分からない言葉を検索していた。

 幸い入院しているので時間はたっぷりとあった。こういうことに使う時間というのは結構楽しいもので、時間の経過を忘れるくらいに没頭していたりしたものだ。

 そのおかげで一冊を読破するまでに少し時間が掛かった。まだまだ時代小説に手を出すまでにはいかなかったが、何冊か興味のある武将の話を読んでみると、それまで知っていると思っていたその人への印象が、結構変わってくるというものだ。

 カリスマ性だけが先行し、独裁的で恐怖を煽る武将が、実際には繊細で、計算尽くされた計画の元、次第に天下に近づいていく状況を描いていたり、逆に繊細で計算尽くされた策士というイメージの強い武将が、実際には大胆で、思い切った戦略を用いる人だったりと、自分の中の常識を大いに啓発してくれる話もたくさん載っていて、読んでいて飽きることはなかった。

 入院生活の半分は読書に時間を費やしていた正樹は、学校の勉強が遅れてくることへの焦りはほとんどなくなっていた。

 親や先生の心配をよそに、いつも本を読んでいる正樹を、叱るわけにもいかず、まわりの大人は困惑していたに違いない。

 正樹は、すでに学校の勉強に興味を失っていた。

 進学校にせっかく入学できたのに、いつの間にか落ちこぼれのように見えていた親は、心配しているのか、それとも情けなく思っているのか、どちらが強いのか自分たちで分かっているのだろうか。

 正樹は、最初親の様子を見た時、

――情けないと思われている――

 としか感じなかった。

 その思いがあったからこそ、入院中に勉強をしようとは思わなかったし、どうせ情けないと思われているのであれば、落ちこぼれてもいいと思っていた。

 元々小学生の頃は落ちこぼれだったのだ。途中勉強を好きになって、進学校に入学はできたが、しょせんはそこまでのことである。

――時間をぐるっと一周して、また元の場所に戻ってきただけなんだ――

 と感じた。

 一周はしたが、その間別に遠回りをしたわけではない。それまで知らなかった世界を垣間見ることができたというのは、言い訳のようだが、言い訳であっても、事実に基づく言い訳であれば、

――それはもはや言い訳とは言わないのではないか――

 と、正樹は考えていた。

 ただ、正樹は最初に歴史小説を読んでから時代小説を読んだ。これは、正樹からしてみれば、

――当然の流れだ――

 と思っているが、

 他の人はほとんど、歴史小説を気にすることなく時代小説を読んでいる。

 それは、あくまでも小説をエンターテイメントとして読んでいる。つまりは架空の話だということをイメージして読んでいるから、楽しいと思っている。正樹はその思いを分からなかった。実際に史実が存在しているのだから、作者はその史実を元に、いかに興味をそそるような架空の話を書けるかをテーマにしているのだから、史実を知ることが必須だと思うのも当然のことである。

 正樹はそういう意味では正統派なのだが、世間一般では正統派ではないのだろう。

 小説を読んでいると、時間が経つのを忘れてしまう。友達がいなくてもそれはそれでいいと思うようにもなり、その頃から、友達がほしいという意識はなくなってきたに違いない。

 ただ、寂しさは人並みにあった。その思いが異性に対しての感情になって行ったのも否めない。特に看護婦さんに優しくされると、

――自分のことを好きなのかも知れない――

 などと、勘違いも甚だしかった。

 病院での入院は退屈ではあったが、それ以上に心細さが伴うものだった。元気であれば、何でもできるという意識があり、ケガの時など、なまじ元気なだけに、病院のベッドで横になっているだけで、どこも悪くないのに、病気になったような気がしてくるのだった。

 今までにも同じようなことがあった。よく小学生の頃からケガをしていたので、よく保健室には行っていた。そこで漂っている薬品の臭いには閉口したのと同時に、体調も悪くないのに、気分が悪くなり、

――熱でもあるんじゃないか?

 と思えるほど、身体がゾクゾクしたりしたものだった。

 中学生になって、入退院を繰り返すようになると、その時の気分がよみがえってくる。臭いなどするはずもない病棟で、急に鼻を突く臭いが感じられることがあった。そんな時は決まって、身体がゾクゾクしてしまい、熱っぽく感じてしまうのだった。

「工藤さん、大丈夫ですか?」

 担当看護婦の女性が、気分悪そうにしている正樹を下から覗きこむようにしてくる。

 その様子がとても可愛らしく、同じ熱っぽさでも、質の違う熱っぽさに変わっていくのだった。

 ゾクゾクしていた寒気から、次第に汗が滲み出てくる。汗が滲み出てくると、熱っぽさは引いてくるのだった。

 普段、ゾクゾクした時には、寒気はしても、汗が滲み出てくることはなかった。熱が身体に籠ってしまい、本当に発熱してしまったのではないかと思うほどに、身体の気だるさが収まることはなかった。

「進藤さん、山口さんの点滴の用意、できていないでしょう?」

「あ、すみません。今からやります」

 進藤というのが、正樹の担当看護婦で、彼女に小言を言っているのは先輩看護婦だった。進藤さんは下の名前を麻衣というようで、入院の長い患者からは、

「麻衣ちゃん」

 と呼ばれていた。

 麻衣は、そう呼ばれることがまんざらでもないようで、くすぐったそうにしながらも、いつもニコニコと受け答えをしていた。

 彼女は正樹が入退院を繰り返すようになってからこの病院に配属になった新人さんだった。

「毎年新人が結構いるんだけど、今年は少なかったので、大切に育てないといけないわね」

 という話を、ナースセンターでしているのを聞いたことがあったが、確かに新人が少ないのは間違いないようだった。

 その中でも麻衣は、天真爛漫というか、天然というか、いつも先輩から文句を言われているが、いつもニコニコしていて、憎めないタイプだった。

「看護婦としてはどうなのか?」

 とは言われるだろうが、いつもネガティブになり、誰にも相談できずに一人で悩みを抱え込むよりもマシではないだろうか。

 少なくとも入院患者のウケはいいようで、新人ナンバーワンの人気を誇っていた。

「人気があるのもどうかしらね?」

 と、先輩ナースは麻衣の人気に苦言を呈していたが、それが先輩としての意識からなのか、それとも彼女のポジティブな性格に対しての嫉妬のようなものがあるのか、まわりから見ている分には分からなかった。

「私、痒いところに手が届くような看護婦さんになりたいの」

 と、麻衣は言っていた。

「それって、気を遣うことができるってことだよね?」

 と聞くと、

「ええ、そう」

 と麻衣は答えた。

 今の麻衣に気を遣うことを要求するのは酷な気がしていたが、それ以上に、麻衣には人に気を遣うことのない状況で、気が付けば自然とその人のためになっているような看護婦であってほしいと思っていた。

 あくまでも正樹の願望ではあるが、願望もまた真実であるということを、正樹は感じていた。

 病院のベッドで横になっていると、いろいろなことを考える。それだけ時間だけはたっぷりあるのだから、何を考えても自由だった。小学生の頃までは、少しでも時間に余裕があると、

――ロクなことを考えない――

 と思い、余裕のある時間を何かに充てようとしていたのを思い出した。

 だが実際に時間に当て嵌める何かがあるわけではなく、自分の気持ちに反して、一人いつも何かを考えていた。

 それも次第に嫌ではなくなっていた。確かにいつも何かを考えているが、気が付いた時には何を考えていたのか、ハッとしてしまったこともあってか、覚えていなかったりするのだ。

――つい今のことなのに――

 と考えるが、思い出せないということはそれだけ、時間の節目があったということなので、無意識に考えていたことが格納されたということを示していた。

 正樹は入院中にも何度も同じようなことがあった。

――さっきまで何を考えていたんだろう?

 と何度感じたことか。

 そのたびに敢えて何を考えていたのかを思い出そうとはせず、

――いずれ、来たるべき時に思い出すんだ――

 と思うようになった。

 麻衣は正樹がそんなことを考えている時に限って、声を掛けてくる。

「工藤さん、いったい何を考えているんですか?」

 正樹が思い出そうとしたのをやめたその時に、図ったようなタイミングで聞いてくる。

「あ、いや、別に何も考えていないよ」

 もし、思い出すことを諦める前であれば、もう少し違った答え方をするのだろうが、いったん諦めようと思った後なので、こんな言い方しかできなかった。

 だが、この言い方が正樹にとっての一番の切り返し方で、これ以上深い回答ができないと分かっていることを切り上げるにはちょうどよかった。

 麻衣は、正樹が考え方を変えようと思ったり、別のことを考えようと頭を切り替えたタイミングで話しかけてくることが多い。

 最初は、

――本当に間が悪い人だ――

 と思ったが、ここまで、

――間が悪い――

 と思った時に限って話しかけてくると、

「逆も真なり」

 という思いがこみ上げてくるのだ。

 マイナスであっても、それを積み重ねて最後にひっくり返せば、大きなプラスを得ることがある。じゃんけんで勝ち続けるのは難しいが。負け続けるのも難しい。心の中で、

「勝ちたい」

 と願っているからであろう。

「負けたい」

 などと思っている人がいるとは思えず、負けてもいいなんていう考えは、建前にしかならないのだ。

 正樹は麻衣の存在が自分の中で大きくなってくるのを感じた。

――間が悪いタイミングも、敢えて彼女の持っている感性からであれば、あながち相性が合わないわけではなさそうだ――

 と思った。

 麻衣の天真爛漫さは正樹には羨ましかった。実際に麻衣を前にして、

「君のその天真爛漫さが好きなんだ」

 と話したこともあった。

 他の人なら、

「いやぁ、そんなことはないですよ」

 とテレるものなのだろうが、麻衣は、

「ありがとうございます。工藤さんはちゃんと見てくれているんですね?」

 と言った。

「進藤さんのことを正面から見ると、そう感じないわけにはいかないのさ。僕は感じたことは相手に伝えたいと思っているので、話しているけど、結構リスクがあったりするんだよ」

「というと?」

「人にはいろいろいるということですね。褒め言葉でも人によっては、その人を傷つけてしまうことになりかねませんからね」

 と、正樹は言った。

 最初正樹は、自分が麻衣の

「天真爛漫さが好きだ」

 と言ったことに対し、深い意味はなかったように思っていたが、麻衣の方が、

「告白された」

 と感じたのか、正樹を意識し始めた。

 看護婦としての仕事も少し上の空に感じられ、くだらないミスをして先輩に怒られているようだった。麻衣はもちろん、自分がどうしてミスをしているのか分かっていない。正樹にしても、そんな麻衣を見ていて、どうしてミスを起こすのか、理屈が分からなかった。

 先に気付いたのは正樹の方だった。

――そうか、俺が麻衣を好きになったことが麻衣に伝わったんだ――

 と感じた。

 本当に恋心を抱いたという意識が正樹の中にあったわけではないが、麻衣の様子を見ていて、そこからの正樹の判断だった。そう思うと正樹は自分のことであるにも関わらず、まるで他人事のように感じていた。

 どうして他人事のように感じたのかというと、他人事のように感じる方が、正樹の中でふわっとした気分になることができ、まるで麻衣に抱かれているような気がしてくるからだった。

 その時正樹は、自分が積極的な性格ではなく、相手に抱かれることを願う受け身なタイプであることが確定したと言ってもいい。もっとも正樹自身に自覚があったわけではないが、いずれそのことに気付いた時に、ショックを受けることなく受け入れられる気分になれることを、その時の心構えとして持っていたと言ってもいいだろう。

 麻衣は積極的な方だった。だから正樹は麻衣のような女性を気にしたのかも知れない。無意識にでも自分が受け身な性格だということが分かっていたからこそ、積極的な女性を求める。

 だが、正樹は学校で嫌いな女性のタイプとして、

「おせっかいな女の子」

 という思いがあった。

 それは、自分の気持ちの中に容赦なくズケズケと入り込んでくるようなタイプの女性はどうも苦手だと思っていたからだ。それは正樹にだけに限ったことではないにも関わらずにそう感じたということは、正樹はまわりの人が自分と同じようにおせっかいな女性を嫌いだとは思っていなかったからだ。

 正樹は、

――俺は他の人と同じでは嫌だ――

 と常々思っていた。

 その思いが嵩じて、自分の性格は他人を意識することで形成されているにも関わらず、それを認めたくないと思う自分がいた。

 もっとも、認めたくないと思っている時点で、自分の性格に他人が関与しているということをウスウスではあるが感じているという証拠でもあった。

 正樹にとって麻衣という女性を見つけたことは、そんな自分の危惧を払拭する思いに連動していた。自分の性格が他人によって築かれたなどという思いを抱きたくない感覚から、正樹は自分の性格から麻衣と出会ったのだと思うことで、余計な思いを払しょくできた気がしたのだ。

「ねえ、工藤さんは彼女とかいるの?」

 麻衣は無邪気にそう聞いてきた。

 麻衣としては、会話の中の一つのキーワードくらいの軽い気持ちで聞いてきたのだろうが、正樹の中でドキッとするものがあった。

――彼女は俺に気があるのかな?

 と考えて当然のシチュエーションだった。

 しかし、相手はすでに学校を卒業したお姉さんであり、自分はまだ中学生。念低的にもかなりの差があるので、相手は弟としてくらいにしか考えていないと思うのが普通だろう。

 正樹にとって年齢差は関係なかった。正樹のまわりの同年代の女の子とは、まったく話が合う雰囲気はなかった。

――住む世界が違っているのか?

 と感じるほどで、正樹の中では、

――同年代の女性に自分の彼女になる資格を有している女性はいない――

 と感じていたに違いない。

 実際に正樹のクラスメイトにも他のクラスの女の子にも、正樹を彼氏として意識するような女子はいなかった。

「工藤君はちょっとね」

 と言われていた。

 決定的に嫌われているわけではないが、彼氏として見ることのできるレベルにはいないということなのだろう。正樹はそれでいいと思った。自分と話が合わなければ一緒にいるだけで苦痛になるということが分かっていたからだ。それは、人とあまり関わりを持つことのない正樹だから感じることであって、他の同じ思春期の男子には想像もできないことだったに違いない。

 正樹は麻衣を見ながら、

――こんな女性が彼女だったら――

 という思いを初めて抱いた。

 クラスメイトの女の子など目でもないくらいに眩しく感じられたのは、年齢を感じさせないというよりも、意識していないつもりでも、必要以上に年齢差を感じることで、感覚がマヒしてしまっていたのかも知れない。

 他の人と同じでは嫌だと思っていることで、正樹にはお姉さんと感じるほどの女性と他の人にはできない仲良くなるというイメージを感じていた。

 麻衣に女性としての魅力をどこに感じているのか、もし誰かに聞かれたとしても、ハッキリと答えるのは難しいかも知れない。

 だが、答えることができないまでも、自分の思いを麻衣に無言で伝えることで、麻衣の口から思いが伝わるのではないかと思っていた。

 それは、正樹が受け身な性格で、受け身であることで、相手に自分の気持ちを移入させることができると感じていたからだ。

「痒いところに手が届く」

 と言うが、まさにそんな感じである、

 麻衣と正樹は病院内でウワサになっていた。

 患者の間でというよりもナースの間でのウワサだった。

 麻衣はそのウワサを知っていながら、わざと触れないようにしていた。それは同僚の前でもしかりであり、正樹の前でも一緒だった。

 だが、麻衣の気持ちとしてまんざらでもないものがあったのは間違いないだろう。だからこそ話題として触れなかったのかも知れない。下手に触れることで自分が感じている思いを自らが壊してしまうことを怖がったからなのかも知れない。

 正樹の方は、ナースのウワサを知っていた。知っていて麻衣に敢えて触れることをしなかったし、他のナースにもしれっとした態度を取っていた。

 正樹は受け身な性格である。だから、自分から言い出すことはなかった。ウワサになっていることがあるのだとすれば、麻衣の口から言わせたいと思ったのだ。

 もし、麻衣が知っていて敢えて口にしようとしないのであれば、この話題が二人の間で表面化することはない。そのことは正樹も分かっていた。分かっていて敢えて正樹から話題にすることはなかった。このまま話題が自然消滅してもいいと思ったからだ。

 自然消滅するということは、まわりに正樹の気持ちが拡散することはなく、麻衣との間にしか分からない気持ちを自分だけが独占できると思ったのだ。それは相手が麻衣であっても同じことで、麻衣が話題に触れないことも他人が触れないことと同じレベルに考えていた。

 本当は、麻衣の性格からすれば、許されない思いだった。麻衣は好かれるのであれば、自分だけという思いが強かった。正樹との気持ちに溝があるとすれば、この気持ちだったのだろう。

 お互いにそのことを無意識に気付いていた。だから話題にすることがないのは、無意識に関係に亀裂が走ってしまいそうなきっかけを、自らで表面化させることを嫌ったからだった。

 だが、正樹と麻衣の間に、

「お互いを補う絶妙の関係」

 が存在した。

 それが、麻衣の、

――相手に尽くしたい――

 という思いであり、正樹の

――受け身としての抱かれたい気持ち――

 だったのだ。

 正樹と麻衣は、正樹の入院中、その思いが焦ることはなかったが、発展することもなかった。お互いに様子を見ながら接していたために、ごく微妙なところですれ違っていた。それを知っている人は誰もおらず、まるで、

「神のみぞ知る」

 ということだったのだろう。

 正樹は、その時のイメージを風俗嬢に身を委ねながら思い出していた。風俗の簡易ベッドと、病室のベッドではまったく印象が違うし、体調も当然違っている。しかし、相手の女性に委ねる気持ちに変わりはない。身を委ねることの楽しさを正樹はいまさらながらに感じていた。

 身を委ねている時に感じる思いは、耳鳴りを誘っているかのようだった。まるで水の中にでもいるかのような感覚は、母親の胎内で羊水に浸かっているかのような思いに近いに違いない。聞こえてくる音は微妙に籠っていて、それが正樹が相手に委ねる気持ちにさせるのだ。

 最近の正樹は音に対して敏感になっていた。

 特に隣の家での騒音が気になって仕方がなかった。数か月前まではさほど気にならなかったが、子供の遠慮を知らない声に苛立ちを覚えていた。

 どうすれば、その苛立ちを解消することができるのかを考えていたが、それを分からせてくれたのが、先輩の連れていってくれた風俗だった。

 自分がどんな相手が好きなのか、今は形になって現れることはないが、かつて入院した時に接してくれた麻衣という看護婦を思い出した時、それが初恋だったことに気付かされた。

 初恋を追い求めることが正樹にとっての恋愛の基本であることを感じると、自分にとっての騒音が何かの答えを見つけてくれるように思えた。

 自分勝手な騒音に、

――殺してやりたい――

 という感情を抱いていることを否定することなく、正樹はその感情を人に委ねることに向けようと感じる。

――きっと、すぐに委ねることのできる相手が目の前に現れる――

 正樹はそう思って今日も騒音に苛立ちを覚えていた。気持ちの中では完全に抹殺している子供たち。そう思うと、世の中の理不尽さに感覚がマヒしてくるのを感じた。

――初体験を済ませたが、その感情は冷めたものだったな――

 と思ったが、感情がすべてではない。

 正樹はそう思うと、近い将来、麻衣に出会えるような気がしていた。

 麻衣も誰かを待ち続けているのだが、それが誰なのか想像もできなかった。正樹が現れることを必然と考えるならば、二人の思いは、騒音に掻き消されてしまうかも知れない。

――人を好きになるということ――

 そう思いながら、正樹は騒音を掻き消そうとしていたのだった。


                  (  完  )

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感情の正体 森本 晃次 @kakku

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