最も心動く死を貴方へ

山出影絵

最も心動く死を貴方へ

 猟奇・流血・残酷等の描写を含みます

 ご注意ください

■■■■■■■■■■■


 コンクリート張りの壁、立ち並ぶ四角い柱。天井を走る剥き出しの配管と、その間から垂れ下がる裸の白熱電球。

 窓も家具もない、無機質で広い部屋だ。

 

 その中央で燃える一人の死刑囚。鉄製の椅子に鎖で縛られ、既に息絶えている。


 リアナはその光景をただ眺めていた。

 

 彼女は死刑執行人であり、教会の修道女だ。黒い修道服と白い手袋をまとい、髪はベールで隠されている。


 罪人は苦しみを与えて浄化しなければ、善人として生まれ変われない。その役目は聖職者や修道女が勤めていた。 


 神聖だが常人ならば目を背ける行為だ。しかし、彼女の薄緑の瞳と若く美しい顔には、一切の感情が表れていない。


 以前はもっと人間らしかった。


 泣いて許しを請う罪人には必死で謝罪をした。道を外れる前に救えなくて済まない、自分に力が無くて済まないと。そして自身も泣きながら刑を執行した。

 耳を塞いでも聞こえる断末魔の叫びに、何度も嘔吐し気が狂いそうになった。


 それでも彼女は処刑人を続けた。平和に暮らす人々を守るために、自らを犠牲にした。

 

 いつしか心は壊れた。恐怖や悲しみが無くなり、悲鳴はただの音、死体は道端の石程度にしか思わなくなった。


 同時に楽しみも無くなった。明るいだけの夕日、味のある料理、文字が書かれた本。

 何を見ても、何をしても楽しくない。ただ面倒に思うだけになった。


 もはや何の為に生きているのか分からなかった。しかし自殺などは出来ない。そんな大罪を犯した上で死ぬと、誰もその者を浄化出来ないからだ……


 リアナは一瞬の回想から覚め、目の前の囚人に意識を戻した。


 この体格では燃え残りが出そうだった。

 壁に埋め込まれた配管のレバーをひねった。レンガの床を這う鉄パイプからガスが噴き出し、勢いを増した炎が囚人を包んだ。


 揺らめき越しに人影が項垂うなだれて行き、ついには頭部と思しき物が床に落ちた。舞い上がる煤や煙は、天井の巨大な換気扇に吸い込まれる。それでも降りかかる火の粉やニオイを、リアナは気にしなかった。


 処刑には火が一番効率が良かった。適度に苦しみを与え、血と肉を燃やしてくれる。

 肉体が崩れて行く様子を、リアナは飽き飽きした目で静かに眺めた。


 機械的に魂を浄化する自分が嫌だった。人の心が欲しかった。

 笑ったり泣いたりしたい。

 しかし、そんな些細な望みでさえ叶う事はなかった。



 ◆



 いつもの薄暗い処刑部屋。

 死刑囚は既に椅子に縛りつけられている。身長170cm、体重70kg程。肥満ではないが、ふっくらした顔立ちの男。この体格なら焼却時間は一時間位、平均的な時間で済む。

 燃焼を邪魔する衣服は一切身に着けていない、全裸だ。


 リアナはいつも通り囚人に向かって祈りを捧げている。


「苦しみを乗り越えた時、魂は救われるでしょう……」


 暗く透き通る声が壁に反響した。


「七百五番。最期に言い残す事はありませんか?」


 囚人番号七百五番、それがこの男の呼び名だった。


「アハハッその質問、本当にするんだ!」


 おかしな奴だった。ほとんどの者は泣くか悟るのに、この男はヘラヘラと笑いながら喋りだした。


「君さ、何の為に処刑人なんてしてるんだい? 随分と滅入っている様だが、好きでしている訳じゃないだろう」


 最期の言葉は可能な限り聞き入れるのが決まりだった。リアナは何も答えずただ聞き流す。


「誰からも感謝されない辛い仕事をなぜ続けているんだい?」


 無意味で同じ質問が繰り返される。流石にらちが明かない。

 そう判断したリアナは壁まで行き、ガス管に手を伸ばした。


「外の人間が、君ら処刑人をなんて呼ぶか知っているか?」


 レバーに触れた指が止まった。感情の無い目で男を睨んだ。


「『ゴミ喰い虫』さ」


 男は粘着質な笑みを浮かべていた。


「社会のゴミ、つまり犯罪者を食べる掃除屋みたいな意味らしいよ。酷いと思わないかい?」


 そんな話は聞いた事が無かった。戯言を無視して燃やす事は簡単だが、他の人々や処刑人までも侮辱する言動が許せなかった。


 浄化の前にその考えを改めさせなければ、善き人には生まれ変われないだろう。


「それは確かに酷い事です。ですが安心してください。その様な事を言う人は誰も居ません」


「いいや。僕は大勢の人を殺したが、皆口を揃えて言うよ。ゴミめ虫に食われろって」


 真面目に言う男の言葉は、嘘や冗談ではなさそうだった。本気でそう思い込んでいるようだ。


「さっきの質問に答えてよ。なんで処刑人をしているんだい?」


「……貴方達を救い、人々を守る為です」


「どれだけ処刑しても犯罪は減らないし、むしろ増えている。それでどうやって守れるんだ」


「それは……私の力不足で」


「いつまでも実を結ばないのに、ずっと続けるのは無駄だよ」


 男は自信満々に言い切る。言っている事にも真実味があった。


「君が努力しても誰も感謝しない、誰も救われない、完全に無駄な努力だ」


「……やめて、ください」


「これからも無駄な事を続けるのかい? 道具の様に使い続けられ、身も心もボロボロになり、最期は孤独に――」


「やめてください!」


 叫んで話を断ち切った。これ以上聞いていられなかった。


 この男の罪状が殺人と言うのは事実だ。なら、ゴミ喰い虫の話も本当かもしれない。犯罪が減らないのは本当。全て無駄なのも本当だと思えてきた。


 男の話を信じたくなかった。ボロボロになってまで続けたのに、無駄だと信じたくなかった。


「僕なら君を助けられるよ」


 男は一転して優しい口調になった。


「君の代わりに処刑人を引き受けよう。奴らの為に君が重荷を背負う必要は無い」


「……辞めても良いんですか?」


 予想外の提案に、一瞬心が揺らいだ。しかし、それは不可能だった。


「いいえ……貴男は死刑囚ですよ。聖職者になり、ひいては処刑人など成れる訳ありません」

 

「毎日何十人も処刑されている。誰も僕の顔なんて覚えていないさ」


 確かに死刑囚の顔はおろか、何人処したかすら覚えていなかった。

 だが本当に問題は無いのか判断できなかった。


「……少し、考えさせてください」

 

「もたもたしていたら、僕は殺されるよ」


「そんな……どうすれば良いのですか」


「教会に掛け合って、僕を処刑人にしてくれ。何ならしばらくは代理で処刑をしよう。時が来れば君は引退さ」


 それ位なら可能そうだった。処刑人は成り手が少ないから、推薦すればすぐ成れるだろう。


「……分かりました、お願いします」


 男を立派な聖職者に育てれば何も問題はないだろう。

 皆を救うのは自分でなくても良い。精神を病んでまで続けるより、適任者に任せるべきだ。


「この後、死刑囚が運ばれてきます。その方の処刑をお願いします」


 そして、リアナは七百五番の拘束を解いた。


「ひとまずこれを着てください」


 壁に掛けていた薄いゴム製のエプロンを渡した。稀に処刑で使う物で、薄汚れた白い生地は一部に血が付いている。


 そして部屋の片隅に設置された有線電信機のボタンを二回押した。


 しばらくして部屋にリフトが到着した。壁とほぼ同化した扉が中央で割れ、左右へスライドして開いた。


 中には次の死刑囚が居る。信号を受けた刑務官が送って来たのだ。

 七百五番と同様、全裸で椅子に拘束されている。


「囚人を部屋の中央まで運んでください」


 胸から膝までをエプロンで覆った七百五番に指示を出した。

 

 七百五番はリフトに向かった。身を屈めて箱に入り、キャスター付きの椅子を引いて出て来た。


「床のパイプは踏まない様に。椅子を固定したら下がってください」


 リアナは死刑囚の前に立ち、祈りと最期の言葉を聞いた。死刑囚は、世話になったと一言だけ残した。


「では、壁に点火装置が有るのであちらへ」


「なあシスター。処刑方法は火あぶりだけかい?」


「苦痛を与えれば何でも良いですが……」


「じゃあ僕に任せてくれ! しっかり苦しめるからさ」


 リアナは一歩引いて後ろから黙って見ている。

 七百五番はニコニコしながら死刑囚の前に立った。



 七百五番は両手で死刑囚の顔を抑え込んだ。親指で左目のまぶたを開き、右手の人差し指をまぶたの下に差し込んだ。目玉を押し退け、眼窩がんかの内壁を引っ掻きながら奥まで侵入した。ブヨブヨの脂肪に埋まった筋肉に指先が掛かった。指をゆっくり引き抜くと、ミシミシとシールが剥がれる様に筋肉が眼球から剥離した。

 囚人は半狂乱で暴れようとするが、鎖で縛られた上に怪力で押さえつけられた状態では、体が少し痙攣けいれんする程度だった。

 筋肉を一本失っただけで目から血が溢れ、左右の視線がずれている。視界は二つの像が重なって見えているだろう。

 七百五番は更に指を差し込んだ。眼球の上下左右に張り付いた筋肉を一本ずつはがした。最後に二本の指でスプーンの様にすくい、視神経を引きちぎりながら目玉を取り出した。

 囚人の絶叫と共に血があふれ出し、眼窩はポッカリと空洞になった。



「やった! 採れた、採れた!」


 七百五番は手にした目と見つめ合い、はしゃいでいた。プレゼントをもらった子供の様に無邪気な笑顔だった。


 その様子にリアナは呆れていた。魂の浄化を軽んじているからだ。

 苦痛は罪人の為に与えなければいけない。加虐心を満たすためではない。


 リアナは壁のパイプに付いたレバーをひねった。


「燃やすので離れてください」


「え? あちょっと待て!」


 点火ボタンを押し込むと、死刑囚の足元で火花が散った。ガスに引火して小さな爆発が起こり、激しく燃えだした。


 七百五番は慌てて逃げ、燃えずに済んだ。もがき苦しむ死刑囚と、手の中の目を交互に見つめ、目玉を炎に投げ込んだ。

 振り向いてリアナに詰め寄り、彼女の胸倉を掴んだ。


の邪魔をするな……目は二つ無いと駄目だろ! 二つ無いと!」


 頭上から怒りの形相で睨まれたリアナだが、恐怖は感じなかった。


「痛いです、放してください」


 七百五番はフンッと鼻を鳴らして手を放した。


「貴男は私の代わりをすると言いました。真面目にしてください」


「お説教は御免だ。君はさっさと引退したらどうだ?」


「そうしたい所ですが、貴男を処刑人にするまでは出来ません」


 処刑人に成れるのは聖職者だけだ。死刑囚として顔の知られている七百五番が成るには問題が多かった。


「……貴男が聖職者になる手引きはしましょう。とりあえず、彼をちゃんと焼いてください」


「聖女様のお導きとは光栄だ。なるべく早く頼むよ」


 七百五番は横柄な態度で言いながら、燃える囚人に向き直った。既に動かなくなった囚人を見つめる目は、少し悲しげだった。

 それも一瞬の事で、退屈そうに欠伸あくびをしながら眺める様になった。


 リアナは柱に立て掛けられた火かき棒を手に取った。静かに七百五番の背後に近づき、それで後頭部を殴り付けた。

 鈍い振動が手に伝わり、七百五番はその場に崩れて気絶した。


 

 ◆



 火の消えた処刑部屋。

 換気扇は止められ、微かな悪臭と熱気が部屋にこもっている。


 リアナはゴムのエプロンを身に着け、処刑道具を手入れしている。

 メスやペンチ等の医療器具が机に並べられている。


 彼女の向かいでは、七百五番がストレッチャーの上で拘束されている。頭から足首までをベルトで締められ、一切身動きは出来ないだろう。

 

 ちょうど今目が覚めたようだ。


「な、何をしている」


「貴男の顔は公表されています。髪型を変えたところでバレるでしょうから、整形します」


 抑揚の無い声で淡々と告げると、七百五番の顔から血の気が引いた。


「それは助かるが……君がやるのか? 何故縛るっ。麻酔は!」


 状況から全て解っているだろうが、納得できない様子だ。

 上ずった声でまくし立てる。


「私は慣れているので問題ありませんが、暴れられると失敗するので気を付けてください。麻酔は無いです」



 リアナはメスを七百五番の耳下に刺し、顎下までを切った。注ぎ過ぎた紅茶が溢れるかの様に、傷口から血が出る。男からくぐもったうめき声が漏れ、過呼吸の様に短く乱れた息を繰り返す。痛みに耐えている様だ。

 柔らかな頬肉を持ち上げながら、骨とのつながりをメスで切る。剥がした部分を折り返すと、粘着質な血肉が付着した真っ白な骨が現れた。エラ骨にヤスリを当てる。不安定な顎をガリガリと削る。肉にも骨にも神経が在るが、周りを多少削るくらい問題無いだろう。もし神経に触れても絶叫が起こり分かるだろう。そこで止めればよい。

 一通り削った後、布で拭き取り肉を元の位置に戻す。切り口を合わせて縫い針を刺し、太めの木綿糸でグルグルと縫合していく。反対側も同様に整形した。続いて鼻の穴にハサミの刃を入れた。穴の外側、その根元を三角形に切り取り、上部と根元を縫合する。

 膨らんだ下唇を引っ張った。目を見開き何かを訴える男に構わず、ハサミで切り取る。裏返った叫びが上がった。赤く瑞々みずみずしい肉が露出した唇をワナワナと震わせる。



 ぐったりとした男の顔を包帯で固定した。縫合の隙間から染み出た血で直ぐ真っ赤になる。


「では私は買い物に行くので、安静にしててください」



 ◆



 ここ、フルート通りは国内随一の賑わいを見せる。

 木とレンガ造りの商店、石壁の住居や新聞社が両脇に壁を作る。歩道も乗合馬車も、肩が触れ合うほど人が多い。


 リアナはこの通りに在る刑務所を出て、七百五番の服や食料を買いに来た。


「シスター様、ご機嫌麗しゅう」

「シスター・リアナ! いつもありがとうっ」


 すれ違う人が皆、挨拶や感謝の言葉を掛ける。それに対してリアナが無反応でも構わなかった。


 罪人を浄化する処刑人様に、感謝を伝えたかったのだ。非力な民衆に出来るのはそれだけだった。


「シスター様ァッ!」


 背後から女性に呼びかけられ、ゆっくり振り返る。相当焦った声だった。


「うちの子が、転んでしまって、けがれが!」


 息を荒げた女性の腕には、五歳くらいの男の子が抱かれていた。状況が分かっておらずキョトンとしている。

 男の子は肘を擦りむいた様でが出ていた。けがれだ。


 リアナは清潔な布を取り出し、穢れを拭った。また別の布で傷口を縛った。


「あ、ありがとうございます!」


 女性は何度もお礼を言った。


 別に大げさな事では無い。誰も穢れには触れない。

 

 それを浄化するのも彼女達、聖職者の役目だ。


 いつもと変わらない光景だった。彼らの言葉に嘘は無いと思っていた。

 それなのに、どこかよそよそしさを感じてしまう。


 無理に笑顔を作っている、それでいて目の奥は笑っていない。

 面倒だがしょうがなくしている、そんな気配がした。

 

 七百五番に吹き込まれたせいだが、一度芽生えた疑念は拭えない。

 

 皆に担ぎ上げられ、押し付けられ、都合良く利用されただけなのではないか。そのせいで自分が穢れたと思えて来る。


 邪悪な考えが渦巻き、泥塗れの妄想が膨れ上がる。

 頭が溶鉄を入れた様に熱く重くなる。


「はぁ……」


 リアナは彼らを守りたかった。だがもう、全てがどうでも良くなった。

 七百五番に任せて自分は引退しよう。そう決めた。



 ◆



 一か月後、七百五番の傷は癒えた。顔は細くなり、鼻は低く唇は薄く、全体的に削れた。


「成れる物ですね、あの七百五番が聖職者なんて」


「君のおかげでね。それと僕の事はと呼んでくれ」


 死刑囚だった七百五番は洗礼を受け、新たな名前を与えられた。


「君は随分やつれた様だね」


 リアナの頬はこけ、翠眼はうつろ、抑揚の無い声からは生気が感じられない。


「では、私はこれで。さようなら」


 カトロに背を向けリアナは処刑場を去った。

 これで人に戻れるのだから、未練は無かった。



 ◆



 暖かな日の光が包む森の中の湖。針葉樹に囲まれ、穏やか風が若葉の匂いを届ける。


 町から離れたこの場所に一人、リアナの姿が在った。湖畔の草原にシートを広げて座り込んでいる。


 彼女はもう修道女では無かった。

 飾り気のないブラウスとロングスカートを身に着け、陽光で輝く金色の髪を一纏めにして胸元へ垂らしている。

 白い肌は肉付きも良くなり、ツヤも戻っていた。


 手には本を持っていた。彼女はそれを読んだり、湖を泳ぐ水鳥を見たり、チャポンと飛び跳ねる魚の音を聞いて過ごしていた。




(つまらない)




 リアナは田舎町のアパートで暮らしていた。今日はそこで料理をしていた。

 メモを片手に買い込んだ食材達。新鮮な野菜の皮を丁寧に剥き、一口大に切りそろえる。肉と共に鍋で煮込み、レシピ本に従い味を調える。


 柔らかく溶けかけの根菜、ホロホロと崩れる肉、それらを包容する黄金色のスープ。湯気が立つそれを一口飲めば、香りが鼻を抜けて味わいに沸き立つだろう。




(くだらない)




 椅子に座り壁を見る。何も考えない。


 それが一番楽だった。


 白い壁が赤くなり黒くなり、また白くなる。


 心は戻らなかった。喜びも感動も、何も感じられない。


 環境のせいでは無かった。何が原因なのか考えていた。


「そうだ、私……」


 そして思い至った。


「罪人を助けたんだ」


 リアナは以前カトロの命を救った。

 当時は最善策だと思ったが、処刑人として許されない事だった。


「清めなくちゃ」


 

 戸棚からペンチを取り出す。右手で握り、左親指の爪を挟む。勢いを任せて甲側にペンチを起こす。バキッと言う音と共に爪が剥がれた。胸元にありが群れる様な不快感に襲われる。人差し指の爪を挟み、同じようにペンチで引く。

「うっ……」

 上手く剥がれず半分の爪が残った。熟れたトマトの様な指先から血が流れ出す。ペンチの柄で指先を殴る。二度三度と殴り、肉が潰れて残っていた爪が取れた。痛みで舌が喉奥へ行き、胸に熱く重くのしかかる。

 爪を剥がし続ける。

 左手は全て剥がした。指先は繰り返し噛み潰されるかの様に痛い。左手でペンチを握ろうとして、力が入らず落とした。



 キッチンへ行き包丁を持つ。刃先を喉元に当てる。だが、それ以上切れなかった。


 自殺などしたら、その罪を清める事が出来ない。


 包丁を持つ手が震えて、首筋に細かな傷を作る。


「カトロ……様」


 この町に処刑人は居ない。

 事情を知り、彼女の魂を浄化できる人物は一人だけだった。

 リアナは部屋を飛び出し、処刑場へ戻った。



 ◆



 「私を死刑にしてください」


 刑場のカトロに向かってリアナは言った。左手と首の血は固まったが、傷口は何の処置もしていない。隣町から急いで来たために息も上がっている。


「シスター・リアナ。一体何があったのですか?」


 目を丸くしたカトロが尋ねた。


「私は罪を犯しました。死刑囚を……貴男の命を助けました。お願いです、自分では命を絶てないのです!」


「落ち着いてください。貴女は何の罪も犯していませんよ」


 カトロは低く落ち着きのある声で話す。


「迷える者に手を差し伸べた貴女の行為は褒められるべきです。それに、人を助ける事が罪だと言うなら、助けられた者達も罰せなければいけません」


 子どもをなだめる様に言うカトロの姿は、まさに神父や牧師の様だった。


 ほんの数か月で聖職者として相応しい存在になるとは、リアナは思ってもみなかった。彼の言う事が正しければ、命を助けたのは間違いではなかったのかもしれない。

 

「それでは、なぜ私の心は戻らないのですか。感動も楽しさも、何も感じないのです」


 カトロはそこで考えこんだ。じれったく待っていると、ポツリと告げられた。


「君は物事を楽しもうとしているかい?」


「楽しむ?」


「なんでも業務の様に淡々と処理したり、流れて来る景色をただ受動的に受け取ったり。あまつさえ、どうせつまらないと斜に構えているだろう。それではダメだ。心は動かないし、何の感情も生まれない」


 思い当たるふしは山ほどあった。だが今までは、心が壊れたからそうなっているのだと思っていた。

 処刑人としての使命と重圧で板挟みにされ、自ら心を壊したのかもしれない。


「確かに私は恐怖から逃れようとしました。それが、間違いだったんですね……」


「君は何も間違っていないよ」


 自責の念にとらわれかけたリアナを、優しく温かみのある声が連れ戻した。


「君は誰にも支えられず頑張っていたんだ。そこから逃げ出す事は何も悪い事じゃない。そして、安心しなさい。今は私が付いている」


 カトロは優しく微笑み、手を差し伸べた。

 その言葉に一瞬胸が熱く締め付けられた気がした。とても頼もしく、安心できる言葉だった。

 リアナは出された手をゆっくりと掴んだ。


「さあ、もう一度真剣に向き合うんだ。心を取り戻すために」


 そう言ってカトロは部屋の奥へと促す。そこには死刑囚が居た。猿轡をされて何かを訴える様にリアナを睨んでいる。

 台に仰向け拘束され、頭部は裁断機に乗っている。卓上の巨大なハサミの様なそれは、ちょうど刃が首の上にあり、レバーを引き下ろせば首が切り落とせるだろう。


 リアナはレバーを握った。もう逃げる事はしない。声を聴き、最期を見届けようと決心した。


 刃がゆっくりと首に触れた。囚人が震えあがり、縮んだ肉が刃を押し返した。リアナはそこで初めて手に力が入っていない事に気が付いた。レバーを握り直して押し付ける。肉が裂けて血が流れ出し、気管を押し潰して止まった。更に力を込める。刃が骨にブチ当たり、ジャリッと砂を噛んだ様な感触が手に伝わった。その瞬間、破裂した水道管の様に血が噴き出し、甲高い絶叫が響いた。

 生ぬるい液体がまとわり付き、爆音が鼓膜を突き刺して頭が痛む。そして自身の体が細かく震えていた。久しぶりの感覚だった。怖い、辛い、悪い、苦しい、悲しい。この思いから逃げ出したかった。呼吸か荒くなり、視界がぼやける。


「大丈夫だ、落ち着いて」


 背後からカトロがリアナの手を握った。小柄なリアナを包む様に体を密着させ、震える肩にも手を添えている。


「この者は苦しんでいる。それこそが救いだ。逃げずに向き合うんだ。彼を助ける為に」


 囁かれたテノールは心地よく、言葉は心にスッと染み渡る。

 やがて緊張は治まり意識がハッキリとした。


 囚人の血は勢いを無くしたが依然大量に湧き出している。気管に入り込んだ血液がゴポゴポと泡立つ。口から血と涎をまき散らし、目を見開いて体を痙攣させる。

 リアナは少しづつレバーに体重を掛ける。圧された首の骨がくの字に曲がり、抵抗が増す。バキッと言う氷塊を噛み砕いた様な音がした。首が落ちた。反転だけ転げて止まり、部屋は静寂に包まれた。

 だがリアナは、己の荒い呼吸と脈動の音がうるさく聞こえていた。


「気分はどうだい?」


 程なくカトロが気遣うように尋ねた。


「ええ、とても、素晴らしいですっ」


 荒れた息はそのままにどこか遠くを見つめ、恍惚とした表情で噛み締めながら語った。



 ◆



 以前よりも電球が増やされて明るくなった処刑場。

 部屋の隅には棚が置かれ、観葉植物や瓶詰めの臓器が並ぶ。清掃の行き届いたコンクリートの壁には人皮が飾られている。

 地下であるため窓は無いが、部屋らしくなった。


 あの一件をきっかけに、リアナは心を取り戻した。表情や振る舞いは明るくなり、苦しかった処刑にもやり甲斐や喜びを見いだせて前向きになった。


「カンパーイ!」

 

 今日はリアナの復帰祝として、カトロと二人でささやかな食事会をしていた。

 聖職者でも度を越さなければ、肉も酒も禁止はされていない。


「本当に、カトロ様のおかげで私は救われました。感謝してもしきれないですが、ありがとうございます」


 テーブルを囲んで座り、中央の鉄板で肉を焼いている。当然食用肉だ。


「僕も君に助けられたんだ、お互い様だよ」


 二人とも微笑みを浮かべ和やかに話す。


「それにしても肩肉は少し固いな」


「こちらのモモ肉は柔らかいですよ、どうぞ」


  新鮮で旨い肉に食も進む。


「沢山くれた肉だ、君も食べないか?」


 食卓を囲むもう一人にカトロが尋ねる。

 彼が肉の提供者である死刑囚だ。しっかり苦しめて浄化した後に食している。


 男は椅子に浅く腰掛けて仰け反っている。胸から股までの肉を削ぎ、取り出した数個の臓器はコレクションに、不要な物は肥料にする。

 

 ポッカリと空洞になった腹部は、改めて見ると可食部が少ない。もっとも、全体と比べてだが。


 カトロは男が無反応と見るや、差し出した皿を引いた。


「人肉に興味があったんだけど、案外普通の肉だな」


「そうですね。こんな経験もカトロ様が居なければ無かったですよ。本当に感謝します」


「はは、そう言ってもらえると、用意した甲斐が……あった……」


 カトロは急な眠気に襲われて意識を手放した。


「あら、もうお眠りですか……お休みなさい」


 リアナは明るく送り出した。



  ◆



 カトロは小部屋で目覚めた。壁の三面はコンクリート、もう一面はガラス張りのほぼ正方形。一切物が無い部屋だ。


「おはようございます」


 ガラスの向こうからリアナのくぐもった声が届いた。あちら側は廊下の様になっている。


「何の真似だ、早く出してくれ」


「それは昔使っていた処刑装置です。一度に大勢を処刑できるのですが、掃除が面倒で」


 リアナは嬉々と話して困った顔をする。


「でも……久しぶりに使ってみたくって」


 そしてニヤニヤと不気味な笑顔になった。そのまま壁に付いた電源スイッチを切り替えた。接点に一瞬火花が散り、背後で何かが起動する音が聞こえた。


 ガラスの対面の壁がゆっくりと動き出した。


 部屋の長さは三メートル程。数分もすればカトロはガラスとコンクリートに押し潰れるだろう。


「俺を殺す気か? おい、ふざけるな!」


 カトロの顔に焦りが見え始めた。何度もガラスを殴るがびくともしない。


「お忘れですか? 貴男は死刑囚ですよ。穢れた魂は清めなくてはなりません」


 まさに聖母の様な微笑みのリアナだった。対象的にカトロは青ざめて行く。


「あぁ良い顔ですわ、貴男の悲鳴はどれほど美しいのでしょうか……楽しみ」


「クソがッ!」


 リアナの笑顔をガラス越しに殴りつけて後を向く。迫る壁に手を付き全力で押し返す。しかし、速度すら抑えられず止まらない。


 着ている服を脱ぎ、動く壁と床の隙間にねじ込もうとする。が、僅かな隙間には入らずに衣服は床を滑る。

 布と力を合わせてもう一度壁を押す。込めた力以上の反発を感じるだけだった。


 諦めてガラス面に駆け寄る。すがる様に張り付き、床に膝を突く。


「こんな死に方、あんまりだ。助けてくれリアナ……」


「ええ、私は貴男に救われました。次は私が助けてあげますからね、さん」


 後ろの壁が足先に到達した。

 床に突いた膝から足先までが挟まれるて圧され、バンッと甲高い音と共に骨が折れた。

 右足はすねでくの字に折れてフクラハギを骨が突き破った。

 左足は骨が折れて前後にズレた。外傷は無く、槍の様になった骨が肉を貫きながら進む。


「ガアァァッ! クソッ、クソッ」


 骨と肉が混ざり合い、破裂したトマトの様になった足はもう使い物にならない。膝先で辛うじて体を支えてガラスを掻きむしる。


 リアナもひざまずき、ガラス越しに七百五番と手を合わせた。

 

「あぁ素晴らしい……貴男の魂は今まさに浄化されています!」


 彼女は男の最期に恍惚として見入り、断末魔の叫びを全身で感じていた。


「ガハッ……ああ、ああ……」


 壁が七百五番の背中に触れた。

 何の抵抗もなく肉体が押し潰されて行く。十二対の肋骨は同様にたわみ、限界を迎えた瞬間一斉に砕けた。

 中央から、胸骨と背骨の付け根から、様々な所を起点にして折れた骨が肺を突き刺した。漏れた空気で血が泡立ち、溢れた血液が口から吹き出す。


 数千発の爆竹が体内で炸裂した様な痛み。粘土程簡単に伸びる体。肉と骨が混ざり合う音。それら全てを鮮明に感じた。

 

 目を見開き振り上げた頭が、壁に押されて横を向く。

 潰されて顔が歪む。鈍い音を立てて骨が砕ける。それと同時に眼球が飛び出す。体内で行場を無くした臓器が口から溢れた。


 最後まで守られていた脳がこぼれ出た。

 それはまるでヒビの入った水瓶の様に、始めはゆっくりと染み出しそして決壊して撒き散らされた。

 そこでようやく、七百五番の命は果てた。



 壁の侵攻は止まり、ガラスに押し広げられた肉は混沌としていた。

 リアナはガラスに張り付き、舐める様にそれを眺めた。


 突然、ガラスが割れた。


 脆くなった箇所から亀裂が入り、全体に波及したのだった。


 リアナは後ろに倒れ、砕けた破片と骨肉が覆い被さった。

 浄化されて美しい輝きを放ち、優しい温もりを持つその肉を、リアナはゆっくりと抱きしめた。


 母と子の様な慈愛に満ちた瞳で見つめ、愛おしそうに何度も撫でた。


「おめでとう」

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