第5話・首元に手のひら

「…………はぁ……」

 しんどかった。ただでさえ花乃とあんな空気の中喋るのはつらいのに、あんな嘘を言うのは正真正銘の地獄だった。

 目を合わせてしまえばバレてしまうだろうから背を向けていたけれど、花乃はどんな表情をしていたかな。安心してくれていたらいいな。

 ベッドに仰向けで倒れ、真っ暗な部屋の、何もない天井を見つめる。

『諦めませんよ、私は』

 ふと、別れ際に岡島が放った言葉が過ぎった。

『優しくて、甘くて、だけど厳しくて、素っ気ない先輩のことが、馬鹿みたいに……いつまでも好きです。どうしても……諦められません』

 私達の唇が触れる前に岡島を押しのけ、部室を出ようとした私へ、岡島は縋るようにそう続けた。

 既にその全身から自信は剥がれ落ちていて。一人の後輩として抱きしめ、慰めてやりたい気持ちを抑えて言う。

『私は諦めるよ。花乃との……変化した関係性を受け入れる。簡単に心変わりできるかは別としてね。岡島……私達恋人にはなれないけどさ、同じ痛みを抱えた同志ってことで、今は手を打ってよ』

『……ふふっ。侮らないでください。そんな論法じゃあフラレたとは思いません』

 岡島が鼻を啜る音が、狭い部室でいやに響いた。乾いた笑い声は、涙で少し湿っている。

『鍵は返しておくので、先輩は先に帰ってください』

『…………ん。じゃあお言葉に甘えて』

『テニス部の部室から女の啜り泣く声が聞こえるって学校の七不思議ができたら、先輩のせいですからね』

 そう言って岡島は俯いていた顔を上げ、普段通りの不敵な笑みを浮かべてみせた。

 氷結晶のような容姿からは想像もできないほど、堅牢な気骨を持ち合わせる彼女を、改めて美しく、格好良いと思う。

 それでも、だからこそ、心の大半を花乃が占めているこんな状態で、その想いに応えることなんてできない。


×


「有紗」

「花乃……? どうしたの?」

 いつの間にか微睡んでいた意識は、一瞬の内に覚醒させられた。

 花乃の香り。花乃の体温。そして――カーテンから溢れる月明かりに照らされた――花乃の眼差し。

「私、間違ってた」

 いつの間にか部屋に入り込んでいた花乃は、いつの間にか掛け布団を引っ剥がし、いつの間にか馬乗りで私の腰のあたりに鎮座している。

 現状把握はできたものの思考が追いつかず彼女を見つめていると、次の瞬間には唇を唇で塞がれた。

 懐かしく愛おしい感触に脳がトリップしそうになって恥ずかしくなり顔をそむけても、花乃は容赦なく追駆してくる。

「なんで避けるの? 嬉しいんでしょ?」

「う、嬉しいけど……」

「……ふぅん。ほんとに無理矢理されるのが好きなんだ」

「へっ?」

「大丈夫。私もできるよ。岡島先輩なんて忘れて。私がしてあげるから」

「そ、れは違くって……んっ……待って……!」

 過剰な刺激によって神経は高ぶり、点と点だった状況が結ばれ状況が鮮明になってきた。

 花乃は勘違いをしている。というか私の嘘を信じ込んでいる。あぁでもどうしようたまらなく嬉しい。でもあれ? 家族になったからこういうことはもうしないのでは……!?

「ね、ねぇ花乃、花乃、ちょっと! ストップ!」

「……物足りない?」

「そうじゃなくて!」

 岡島を押しのけた時よりも五倍くらいの力を使って引き剥がし、互いに荒れた呼吸のまま対話を試みる。

「いきなりどうしたの? 花乃が言ったんだよ、もうこういうことはしないって」

「……そうだね、私が言った」

 花乃は力なく項垂れ、私の胸元へ顔をうずめる。

「私が……間違えたの。お母さんの幸せが、私にとっての幸せだって思い込んでたんだ。そんなわけないのにね。私は私で、お母さんはお母さんで、それで……私は……有紗のことが……一番大切なのに……」

「花乃……」

「だからね、岡島先輩には悪いけど……私は「はい、もっかいストップ」

 花乃の声音が後悔から怨嗟へと変色し始めたので強引に遮った。

 とにかくこの誤解だけは早くとかなければ。岡島から刺されても文句が言えなくなってしまう。

「その話、嘘です」

「……………………へ?」

「私なりにいろいろ考えてついた嘘なんだけど……あの、ごめん」

「そっ……………………か」

「……怒ってる?」

「ううん、意外と。……今は……安心が強くて」

 なるほどなるほど。それはあれだね、後々すごーく怒られるパターンだね……覚悟しておきます……。

、」

「? なんか……違和感ある呼び方するね」

 有紗でも、おねえちゃんでもなく、有紗ちゃん。なんだかむず痒い。

「有紗は有紗だけど、おねえちゃんはおねえちゃんだから」

「なる、ほど?」

 今の花乃にとってはこの落とし所がいい塩梅らしい。またこうして彼女とイチャつけるのだから、私としては何の不満もない。

 まぁ……おねえちゃん呼びに結構ときめいていたのはしばらく秘密にしておこう。言ったらなんだかややこしいことになりそうだし。

「ごめんね」

「こちらこそ、ごめん」

 言ってからすぐに、どちらからともなく――そこまで久しぶりではないはずなのに――遥かなる時を超えて再会した者同士のように抱きしめ合った。

「私達なりの家族とか、私達なりの恋人関係とか……そういうの見つけて行こうよ。世間の普通は、とりあえずどっかに置いといてさ」

「うん。……ありがとう、有紗ちゃん」

 今回みたいな事も雨降って地固まると言うんだろうか。

 180度変わってしまった関係性は、右往左往しながらもう一転して元通りに——

「でも」

 ——いや、

「もしも」

 ——元通り、なんかじゃない。

「有紗ちゃんに家族よりも大切な人ができたり、恋人よりも好きな人ができたら――」

 たった数日前の花乃と比べても、声音の圧力は凄みが増し、視線の鋭さは磨き掛かっている。

 それだけじゃない。

 私の首元に手のひらが添えられた。この行為自体は昔から花乃がよくする癖だ。文字通り添えるだけ。時折指先を遊ばせることもあるけれど、ただそれだけだった。

 けれど、今はなんだか――重たくて、息苦しい。息苦しくて、心地が良い。

「――その時は、ね?」

 一周回って、そこから更に、もう少し。

 きっとこれからも私達は、私達だけの関係性を求めて、傾き続ける。

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幼馴染兼今カノが義妹になった結果、私達の関係性は370度変わってしまった……あれ? 燈外町 猶 @Toutoma

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