第4話・『嘘だよ。ごめんね、花乃』

『ごめんね』

 物心ついた時から、お父さんはいなくって。

『普通の家族じゃなくって、ごめんね』

 物心ついた時から、お母さんはその言葉を繰り返していた。

 いつも伏し目がちで、なにかあるとすぐに謝って、ぎこちない苦笑いが張り付いていたお母さんは、カズヤさんと出会って変わった。

 そしてそんなお母さんをそっくりそのまま小さくしたような存在だった私も、有紗と出会って変わった。

 寂しそうな人を放っておけない有紗はいつだって私を気にかけてくれて、どんなに些細な功績でも褒め称えてくれて、私が過剰に甘えても――困り顔は浮かべていたけど――拒んだりはしなかった。

 大好きになるまであっという間だった。有紗がいてくれたらそれで良かった。その代わり、有紗が誰かと仲良くしているのを見ると、心臓が掻き毟られるように苦しくなった。

『花乃、家族ができるよ。ううん、家族になるんだよ、大好きな人達と』

 嬉しかったの。お姉ちゃんみたいだった有紗が、恋人になって、それから、本物のおねえちゃんになってくれたから。

 有紗がこれから先もずっと私の傍にいてくれるなら、私の人生はもう、これ以上にないくらい幸せ。だから今度は、お母さんの幸せを――私が守らなくちゃ。普通の家族を、守らなくちゃ。

(声……怖かったなぁ……)

 今朝、部活に行く前にドア越しで聞いた有紗の声は、今まで聞いたことがないくらいに冷たかった。

 眠かっただけか、それとも――やっぱり怒ってるのかな。わからない。有紗のことでわからないことがあるのは……不安だ。

「ただいま」

 玄関から聞こえてきた、たったの四文字で私の心臓はとくんと心地良く高鳴る。

「おかえり!」

 リビングに入ってきた有紗は見るからに部活終わりの、気怠げな雰囲気を纏っていた。優しい有紗は可愛くて、クールな有紗は格好良い。だらしない有紗は愛おしいし厳しい有紗は尊敬できる。どこにも隙がない、私だけのおねえちゃん。

「ご飯できてるよ」

 昨晩から続いている気まずい空気を払拭するために、有紗の好きなものをありったけに用意した。食べながらたくさんお話をして、怒ってるなら早く仲直りがしたい。

「……あー……うん。あとで一人で食べるから置いといて」

 けれど、彼女の返答は、できたてのご飯と相反するように冷めていた。

「ど、どうして? 一緒に食べようよ」

「先シャワー浴びたいし、出たら課題やんないといけないから」

「待ってるよ。疲れてるだろうし私が準備するから。食べる時に声掛けてくれたら「いいって。いつ頃になるかわからないし。あと……これからも私の分は作らなくていいから」

 冷たい。怖い。でも怒ってるのとも違う。全く目を、合わせてもらえない。有紗が何を考えているのかわからない。不安が、蠢きながら、膨れていく。

「でも、私、おねえちゃんと、あの、あのね……」

「そうだ、報告しておくね」

「……なにを?」

 有紗は私に背中を向け、リビングから一歩踏み出たあと、なんでもないようにポツリと言った。

「恋人できたから」

「………………ぇ?」

 ピキ、と。全身が硬直した。それから呼吸の仕方を忘れてしまって、ただ、有紗の後ろ姿を見つめることしかできない。

「ほら、岡島っているでしょ、花乃の一つ上の子。……前からさ、私のこと好きって言ってくれてて」

「……なに…………言ってるの?」

 わからない。有紗が何を言っているのかわからない。わかりたくない。

「流れでね、花乃とのこと話したの。そしたら励まして……慰めてくれてさ。そしたら向こうも火ついちゃったみたいで。私も最初は本気で抵抗してたんだよ? でも岡島の方が体格いいし、私も弱ってたし……」

「ま――」――待って。聞き……聞きたくない。

「結局は……その、されるがままになっちゃったんだけど……まぁ……悪くもなかったりして……」

 聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない聞きたくない!

「……別に岡島がどうとかって言うよりは……こう、求めてくれたのが……嬉しかったというか……。まぁ、一応、今日から恋人ってことに」

「……き、き……………………」

「そんなわけでもう大丈夫だから。昨日は不安にさせてごめんね。私達はこれから、普通の姉妹だよ」


×


『嘘だよ。ごめんね、花乃』

 悪戯な笑みを浮かべた有紗がそう言いながらリビングに戻ってくるのを、ひたすらに待った。

 だけど、無駄だった。いつまで経っても有紗は帰ってこない。

 テーブルには、すっかり冷めてしまったご馳走が並んでいる。

 有紗のために作ったものだから、今となっては、すっかりいらないものだ。

 まとめてゴミ箱に放り込みたい衝動を抑えて、一口食べてみる。美味しくできたはずなのに、全く味がしない。

 良かった。こんなもの有紗に食べさせたらますます嫌われちゃう。あぁ、良かった。

「……」

 知らなかった。

 本当に大切なものを手に入れたら、あとはもう、一生抱きかかえ続けるか、失うかの二択しかないことを。

 もっと早くに気づかなくちゃいけなかった。

 私は——間違えたんだ。絶対にしてはいけないことをしたんだ。

 たとえ家族になれたとしても、たんなる家族でいるだけじゃダメだったんだ。

 だって、だって私は……有紗を誰にも渡したくないんだから。誰にも……触れさせたくないんだから。

「……おねえちゃん……」

 だから――もう一回間違えたら、正しくなれるかな。

「有紗……!」

 ごめんね、お母さん。『普通の家族』よりも、私は――。

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