第6話 ホワイトクリスマス

「なんだ? きみ、眠くなっちゃったの?」


 喫茶店を出てすぐ、チハルさんが僕に尋ねる。

 そんなこと言ったって仕方ないじゃないか。昨日はトモハルくんに会えると思って全然寝られなかったし、今日は今日で終業式が終わってから、トモハルくんが来るのをずっと待っていたのだ。


 結局、会えなかったけれど。


 眠くてすっかり重くなってしまった目蓋に、あくびともつかない涙が、じわっとにじむ。


 あーあ、予定が狂ってしまった。


 僕は今ごろトモハルくんと会って、冬休みに遊ぶ予定を立てているはずだったのだ。連絡先を教えてもらって、年賀状だって送りたかった。それで、大人みたいに夜でも電話やメールができるようになるんだとばかり思っていたのに。


 そしたら、もしかして本当に僕はトモハルくんとトモダチになれるんじゃないかって。


 なのに、僕はもう二度とトモハルくんには会えないらしい。


 涙が後から後からふき出してくる顔を覆いながら「そう。僕、眠たいんだ」とつぶやく。


 でもだからって、ちゃんと前も確かめずに歩き出してはいけない。


「ユーキくん!」


 チハルさんが言うのと、僕が点字ブロックにずるっと足を滑らせるのは同時だった。


 雪が凍っていたのだ。悪いことに側溝の近くで、泥水も溜まっていた。

 情けなく尻もちをついて僕は呆然とする。

 お尻は痛いし、スニーカーはびしょびしょ。


 駆け寄ったチハルさんさえ危うく滑りかけて、踏みとどまる。

 心配そうに僕にかがんだ。


「大丈夫? 君は雪に慣れていないんだね。こんな日は長靴を履いたほうがいいよ」

「朝は降ってなかったんです……」

「朝?」


 終業式の時は快晴だったのだ。

 そんなに長く待っていたとは思わなかったらしい。

 チハルさんが呆れたように絶句しているのが恥ずかしくて「僕、平気です」と言った。


 それも、なるべく大人っぽく聞こえるように、小さな声で。


「大丈夫ですから。気にしないでください」

「そんなこと言ったって濡れてるじゃない。霜焼けになるよ。どうにか……」

「ほんとにいいんです。ていうか、頭が冷えて良かった。一人で勝手に勘違いして盛り上がって、なんだかバカみたいで。恥ずかしいや。僕、もう帰ります」


 眠気も相まって、もにょもにょと独りよがりに言う僕に、チハルさんは大きなため息をついた。


「いいから。おいで」


 チハルさんは文句を言わせなかった。

 両脇に手を入れるようにして、軽々と僕を抱き上げてしまう。

 グレーの、高そうなロングコートに、泥のついた僕の足がかすめる。


 僕は声を上げたが、向こうはまったく気にしなかった。


「家は知ってるんだからね。送って行くよ。それが健全な大人というものだ」


 そうやって言い聞かせる口調でもって、一年生みたいに抱き上げてもらった時、僕ははっきりわかった。


 間違いない、この人は、あのトモハルくんなんだと。

 会ったことはなくても僕は彼がどんな人なのか、よく知っているのだ。


 まぶしがるような面倒がるような風なのに、僕に向かって優しく細める目が、そうだった。


 泥水に浸かった僕のお尻を庇うように支えてくれる大きな手のひらが、そうだった。


 チハルというのは、きっと何か僕には説明できないような深い理由があってそう名乗っただけで、この人の中にきっとトモハルくんは今もいる。外国の刑務所に行ったなんて嘘だ。


 だってトモハルくんはここにいるもの。


 ねえ、あなたは、本当はトモハルくんなんでしょ?


 僕はそう尋ねたくて仕方がなかったんだけど、歩き出されるとまるで揺りかごみたいな揺れがあんまりにも心地よかった。それにこの人ときたら、まるで動物みたいにフカフカして柔らかくて温かいのだ。いつの間にか、僕はすっかり目を閉じてしまっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

秘密の電話ボックス 春Q @haruno_qka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説