第7話 第7章
怪奇なる
果てに待つ身は常しえに
誰がこの世を我に見せよか
ドクターが一人、スタンドの電気の中で、本を読んでいる。分厚い本だが、医学書ではなさそうだ。よく見ると絵画の本を見ているらしい。それにしても、こんなに暗い部屋で見ることもないのに……。
絵は大きな屋敷だった。西洋風の屋敷で、森に囲まれた佇まいは、一見するだけでは大きさを想像するには至らない。しかも絵の中だということを忘れさせるほどだったのだ。
元々、森のような庭に囲まれた西洋館など、現実離れしたものだとドクターは思っている。この病院に来たこと自体、自分の人生で何かが狂ったと思ったくらいだ。
だが、屋敷を見ていると、なぜか子供の頃を思い出す。
「デジャブだ」
初めて見たはずのものを、前にも見たことがあるような気がすると思うことをデジャブというが、患者などには今までに何度もデジャブを経験した人に遭ったことはあったが、まさか自分がデジャブを感じるなど、想像したこともなかった。
「デジャブというのは、一種の錯覚で、自分が見たものの中に一か所だけでも似ているものがあれば、それを拡大解釈し、すべてを見たように感じてしまうことがある。それを何とか自分の中で正当化しようという意識が、実際に自分が見たものとして記憶の奥にあるものだと思わせるものなんだ」
という説を聞いたことがあったが、すべて自分ありきの発想で、辻褄合わせと言えるのではないだろうか。すぐに違うんだと思い直したが、一瞬でもデジャブだと思ってしまったことを後悔している。なぜならキチンとした理由があって信じないと思っていることを、自分で壊してしまったのだからである。
ドクターは元々絵が好きだった。
「絵を描いている時が一番落ち着く」
といって、山や海などの自然が溢れる場所、公園などの落ち着ける場所。それぞれに自分の描く場所があると思っている。海などは断崖などが好きで、下から見上げた断崖を描いたりしている。
「とにかく、大きいものをいかに、決まった大きさのキャンバスに描くことができるかってことなんだよ。いや、絵に対してはもっと謙虚にならないといけないね。どうも医者というのは、患者を見ている目というのがあるので、時々謙虚さを忘れてしまう。気を付けないとな」
と、浅間さんに話していた。
ドクターにとって絵画とは、自分の世界を表現できる場所でもあった。元々、学生時代には小説も書いていたようで、医療を志す反面、文学青年でもあった。絵画に関しては、学生の頃まで興味もなかったのだが、卒業すると同時に興味が出てきたという。それも本当に卒業と同時だった。
医療を志す人間に、どうしてここまで他のことに熱中できる時間があったのかと思うのだが、ドクターは特別だった。どうして自分がドクターをしているのか分からない。ドクターというよりも、SFや超常現象などにはやたらと詳しい学生だったのだ。
自分がなぜ今ドクターをしているか分からない。ドクターをしている時はまるで自分ではないような気がするくらいで、すべてが他人事のようだ。特にドクターの性格だと、他人事の方が、仕事がうまくいくのかも知れない、客観的に見るという意味では、ドクターは長けていた。
趣味に関しては、もちろん、客観的ではない。どうしても主観が入ってくるが、出来上がったものを客観的に見ることができれば、それだけいい作品に仕上がるというものだ。執筆も絵画を始めたからやめたわけではない。むしろ、絵画を始めて、想像力が増したことで、作品の膨らみも増したと思っている。
絵画を挿絵にして使うのが最初の目的だったが、挿絵だけでは物足りない。そう思っていると、今まで見てきたことが走馬灯のようによみがえってくる。何かを見ながら描くというだけではなく、空想絵画も描けるようになった。それがドクターには嬉しかったのである。
空想絵画はとどまるところを知らない。一度描き始めると、勝手に指が動いて、絵筆がキャンバスの上で縦横無尽に走り回っているようだ。それは小説を書いている時と似ている。小説も書き始めると、ある程度のところまでは一気に書けるのだ。書いているうちに発想が生まれ、次々と先に進んでいく。それが小説に対しても絵画に対しても、ドクターにとって共通の長所なのだと思っている。
ただ長所の隣りあわせに短所もあり、どんどん書けるということは、それだけ内容の濃さが失われているのではないかと感じ、そのあたりが危惧される。それでも途中で立ち止まってしまえば、そこで先には進まなくなる。まずは書き上げた後に、推敲や、修正を加えるしかないようだ。
しかし、推敲というのはドクターのもっとも苦手なところで、性格的に猪突猛進なところがあるせいか、自分の作品を見直すのは苦手である。どうしても贔屓目に見えてしまう。客観的になれない理由でもある。
――うまくいかないものだ――
客観的になれるから、ドクターができているのだろう。ただ、精神疾患のドクターだから勤まるのかも知れない。いや、彼だから勤まるのだろう。他の人だとそうはいかない。ドクターは自分でも分かっていることだった。
ドクターにとって、ここが最終章であることも分かっていた。だが、それ以外の事実は何も知らない。何もないと思っている。ここが一番いい居場所で、患者を自分の考えたストーリーの記憶を埋め込めればよかったのだ。
誰もがここにくれば「のっぺらぼう」で、「名無しの権兵衛」なのだ。名前などあとで勝手につけられる。一人だけ名前をつけておけばそれでよかった。その一人が浅間さんであったのだ。
浅間さんは実によくドクターの「助手」を務めてくれた。この病院のスポンサーもドクターの好きなようにさせてくれている、洗脳というのは機械だけがあってもダメなのだ。生身の人間が必要で、彼によって洗脳という意識が機械に植え付けられないと成り立たない「技術」であった。
大きなプロジェクトが影で動いていた。そして、ドクターは名前がない。暗い部屋で一人になると、シルエットに浮かぶその顔は、「のっぺらぼう」であった……。
( 完 )
のっぺらぼう 森本 晃次 @kakku
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