第6話 第6章

 果てしない

  果てを見るなり夢想花

  見れば見られるうつつ自我なり


 絵の中の世界から表の世界は見えるのだろうか。今自分がいる世界がすべての中心だと思っている。それがごく自然で、疑うことなどありえない。勝手にまわりで起こっていることをすべて自然という言葉で片づけて、時には猛威を振るう自然であるが、言い訳の道具として使っていることも多いことだろう。

 絵を見ていると、たまに絵の中に吸い寄せられそうな気分になることもあるというが、普通は考えられない。ありえないことだという思いが頭にあれば、決して吸い寄せられるなどとは思えない。

 夢の中でなら絵の中と往来ができるかも知れないが、私の場合、そんな発想が浮かばないだろう、ありえないことは考えないようにするという意識が働いて、夢であっても、現実ではできないことを抑制する力があるようだ。

 たとえば空を飛びたいと思ったとして、絶対に人間は飛べないという意識が働く。その時は夢であることを分かっていて、

「夢なんだから、飛ぶことだってできるはずだ」

 と思う反面、

「できないことを自覚するのも夢の役割だ」

 という考えもある。

「夢判断」という言葉があるが、言葉の意味はハッキリとは知らない。私の中では、

「夢が勝手に判断するということがある。本当に稀であるが、夢というのは基本的に潜在意識が見せるもので、勝手な判断などありえない。ただ、あまりにも現実から夢に入る時の感覚がいつもと違えば、夢が勝手に判断するというものである」

 という考えが浮かんだ。

 ではどんな時に現実から夢に入る感覚が違っているというのだろう。夢が判断することが間違っていないとも言い切れない。だが、現実の私が判断するよりも幾ばくか、理路整然としたものがあるに違いない。

「夢が判断することって間違っていないのだろうか。減点法式の感覚が頭に浮かぶ。動くごとに隙ができる。まるで将棋の最初に並べた布陣のようだ

 夢には時系列がないように感じられるが、実は一番時系列がしっかりしたものなのかも知れない。時間の感覚が一番大切な次元、それは四次元である、前にいきなり飛ぶことはあっても、後戻りは決してしない。絵が二次元で、私たちの世界が三次元だ。ではそれを結び付けているのが四次元の世界なのかも知れない。

 絵の中に入りこんでしまった夢を見た。絵の中からは表の世界は、鏡の世界の中のように見えるのだ、ある一定の場所を通して見ると、表の世界が見えている。しかも見えているのは、目に見えることだけではなく、人が何を考えているかまで見えるのだ。そのせいか、ごくわずかな先のことであれば見えてくる。きっと人の考えていることが分かることで、先が読めるのかも知れない。

 だが、それだけでは片づけられないものもあった。

 鏡のように見える表の世界とを繋いでいる扉は、移動するのだ、絵の中にも世界があり、最初に描かれた世界が始まりであって、表の世界からも、本当は絵の中で繰り広げられる世界を見ることができるはずなのだ。

 それができないのは、鏡が目の前のものしか映し出すことができないからだ。絵の中の世界での鏡は、向こうの世界が見える、まるでマジックミラーではないだろうか。

 そういえば、ミラーハウスの鏡の中には、別の次元の世界に繋がる鏡があると聞いたことがある。到底、信じられる内容ではないので、聞いたとしても、右から左に聞き流して終わるだろう、だが、その話は誰もが一度は聞いていて、頭の奥に封印されているだけなのだ。

 どこで誰から聞いたのか分からない。そんな鏡が異次元への世界との出入り口になっていると言われれば、なるほどと思うだろう。それは自分の中で意識として持っているからなのだ。

「俺、ミラーハウスで違う世界に飛び出したことがあるんですよ」

 私が誰かに話している。この話は自分だけの胸にしまっておいて、誰にも言わないと心に決めていたはずだ。いったい誰に話をしようとしているのだろう。

 なんと私の前にいるのは、自分ではないか、ミラーハウスの話を、鏡の前で自分にしているということなのか?

 自分に今さらしているとは思えない。誰かにしているのだが、相手が見えていない。だが、それが鏡ではなく、次元を超えた世界だとすればどうだろう。話している自分には誰かが見えているというのか、時々微笑んだり、満足げな表情になっている。明らかに相手の表情を分かっていて反応しているのである。私はその時、次元の裂け目を見つけていると自覚しているようだった。

 次元の裂け目とは大げさなようだが、その時に見た夢は、まさにその言葉通りだった。

 絵の中から飛び出すイメージと、絵の中に入り込むイメージとでは、かなりの違いがある。絵の中から表を見る感覚も、勝手な私のイメージでしかないと思われるだろうから、誰にも言わない。あまりにも子供じみた話だとして片づけられてしまうであろう。

 絵の中から表を見ているイメージというのは、きっと絵の中に広がっている空に、我々の世界が大きく広がって見えていると思われる。そんな時、私が感じるのは、

「どこまでが見えているのだろう?」

 平面世界では、建物や山などの余計なものが見えないため、まわり全体が見えているかのように思えるが、果たしてそうだろうか。ただ、私たちには見えないものが見えているようで、気持ち悪い。ただ、絵の中の人たちが見えないものも私たちには見えている。平面ということは、自分のまわりは見えていないはずだからである。

 もしも、絵から人間が飛び出してきたら、その人はどうなるだろう? ないはずの奥行きが生まれてしまい、耐えられないのではないかと思えてくる。それぞれの次元で命があるものがいるのだとすれば、他の次元では生きられないかも知れないと思う。絵の世界と行き来してみたいと思ってみても、それは無理なことだ。だが、絵の世界以外ならどうだろう? 夢の世界を四次元のように思っている人も少なくはない。すると、絵の世界にも夢のようなものがあり、私たちの知らないところで展開されているのだとすれば、急に目の前から消えた人がいたとしても、理屈に合うかも知れない。

「自殺が病原菌によるものだ」

 という研究が最近クローズアップされている。最初に言い出したのは、この病院の入院患者だったという。彼に付き添っていたナースがその話をドクターにした。ドクターも同じことを考えていたらしく、彼が研究材料となったのは、当然だったと言えるだろう。

 彼は自意識が欠如していた。そんな彼を利用するのは、道徳的にはいけないことであっただろう。しかし、これも医学、そして人間の本質を見抜くための大切なことだと思うと、「自分がやらなければ」

 と思うのだった。

 彼の自意識が欠如したのは、研究の副作用だったのかも知れないが、それは誰にも分からないことだった。

 ドクターは、彼の治療を始めて、私に彼の話をよく聞くようになった。医療に関係のないことで、

「彼の家族ってそんな感じなのかな?」

「恋人はいたのかい?」

 などと、まるで私に彼の素行調査を依頼しているかのようだった。きっと記憶が戻っていく中で、何かの研究結果が得られることを期待しているのだろう。

「彼の記憶喪失は完全なものではなく、すぐに思い出すタイプの記憶喪失なんだよ。でも、彼の記憶には何かロックがかかっていて、何かのキーワードがないと思い出せないようになっているようなんだ」

「それって、催眠術のようなものなんですか?」

「そうかも知れない。だけど、もし催眠術を掛けたとすれば、その理由が分からない。何かの事件に巻き込まれたとか、そういうものもなさそうだしね。私は今考えているのは、彼が彼自身で自分にロックを掛けたんじゃないかって思うんだよ」

「鏡を見ながら、自分に催眠をかけるのって可能なんですか?」

「できないことではないだろうが、可能不可能より、想像を絶する勇気が必要なはずなんだ。絶対に解放されない記憶喪失でしょう? 普通なら、どこかに記憶を戻すための何かを誰かに託しているはずだと思うんだ。だから、彼の家族や恋人というのがそれを知っているんじゃないかなって思っているんだよ」

 なるほど、ドクターの話には一理ある。しかし、彼がそこまで感じて記憶を失ったのだから、ここで他人が掘り起こしていいものなのだろうか? それが許されるのは限られた者だけではないか。人間にその権利があるのかと思うと、かなり難しい選択であることが伺える。

 私はドクターの話を反芻してみた。

――ドクターは彼の記憶を呼び起こそうとしているのかしら? それは職権乱用に当たるように思うけど。もし彼の記憶が戻れば記憶を失っていた時に生じた記憶はどうなるのかしら? 普通の記憶喪失であれば、まず私たちのことは忘れているはず。私はどうしたらいいんだろう?

 ドクターの顔は真面目である。真面目なだけに怖さもある。怖いけど、彼のことを思うと何かしないといけないと思うけど、私も以前の彼を知っていたように思えて不思議な気持ちになってくるのだった。

 彼には時々妹が見舞いに来る。中学に入ったばかりだろうか。思春期に差し掛かっているわりには、小学生といってもいいくらいに性的なことへの興味は皆無なようだ。

 私には女の子を見ると、その人に性的な興味がどれほどあるかが分かるのだった。フェロモンを感じるからで、おそらくほとんど当たっているのではないだろうか。いかにも服装や化粧で着飾っている女性が、さほどでもないことも分かっている。特にフェロモンが必要以上な女性は、女を武器にフェロモンを出しているのではなく、「女の武器」を武器にフェロモンを利用しているのだ。

 目的はカネや名誉。男を利用しようと考えているのだ。

 逆にあどけない女性も分かるようになった。あどけなさの中に妖艶な雰囲気を醸し出している人もいる。それが思春期であれば、「性への目覚め」がフェロモンを吐き出している。彼女の妹には、そんなフェロモンは感じない。

「きっと、お兄ちゃんに恋心を抱いているんだわ」

 思春期に差し掛かり、最初に好きになった相手が、いくら血が繋がっていないとはいえ、兄であるというのは、彼女の気持ちに大きな迷いを生じさせている。迷いは自分の中にしまい込んでしまうのが一番いいのだと自分自身に言い聞かせ、その気持ちが整理できずにいることで、殻に閉じこもった形を作ってしまっているのだろう。

 だから、彼女には思春期のフェロモンを感じない。フェロモンと一口に言っても、武器として使うもの、思春期に醸し出されるもの、さらには更年期に差し掛かってから感じるものと、さまざまである。他の人がフェロモンを感じることができるとして、もしフェロモンの違いに気付いたとしても、

「きっと年齢の違いが生み出す違いで、根本的なものは同じなんだ」

 と感じることだろう。

 しかし、私は違う考えを持っている。

「物事には原因があってプロセスがあり、そして結果がある。それぞれに原因が違っているのだから、プロセスか、結果が違うはずだ。どちらかが違えば、違うものではないだろうか」

 と思っている。

 彼女には、原因は分かっているが、プロセスにまで至っていない。プロセスに至るまでに自分の気持ちを抑えているのだ。中学生の女の子でそこまでできるというのは、すごいことだと思う。小学生のようなあどけなさの中に、芯の強い一本の幹が彼女の中にあるように思えてならない。

 気が強いというべきであろうか。

 兄にはそこまでの気の強さは感じられない。可愛い妹を、今は妹として見ているようだが、もし女性として見てしまったらどうだろう? 妹は兄への気持ちを悟られまいとさらに意固地になるかも知れない。その時に彼がどういう態度を取るというのだろう?

 その時私は一つのことに気が付いた。

「まさかね」

 と、否定してみたが、否定できない何かがあった。

「妹の気持ちに気付いていたのかも知れない」

 それでいて、自分の中で抑えきれない感情が副作用を起し、妹への気持ちを必死で隠そうとしていたのかも知れない。

「本当の妹だったら、どうなんだろう?」

 きっと、諦めがついたかも知れない。どうしようもないことであれば、彼の場合、悩みは深いだろうが、自分でキチンと整理をつけられる気がした。しかし、なまじ血が繋がっていないことで、安易に

「妹は他人なんだ」

 と、割り切ることができない彼に不幸があった。妹への気持ちだけを抑えようとすればするほど、彼は自分自身を追い込んでしまう。一部だけでいいものをすべて抑え込もうとするのは、彼が不器用である証拠だった。

 私は彼の気持ちの中に、不器用を美化するものを感じていた。

「不器用も男であれば許される」

 というよりも、男の可愛らしさではないかという思いである。大きな勘違いなのかも知れないが、思春期にはえてしてあるものなのかも知れない。

 私が彼を以前から知っていたように思えたのは、不器用さを美徳とする男性を意識したことがあったからだ。

「私も何かを思い出してきたのかしら?」

 彼と一緒にいれば楽しかった。何も考えなくてもいいという安心感があった。それは彼が男にしては珍しく、純真無垢で裏表の少ない人だったからだ。

 ただ、不器用さがあった。不器用さをマイナスだとして考えても、彼の人となりを全体から見れば、差し引いても余りありで、不器用さも愛嬌に見えるくらいであった。

 私がこの病院に来る前の記憶を知っている人が必ずどこかにいるような気がした。その人は実に身近な人で、私を暖かく見守ってくれているように思えた。そんな人を考えると、一人しかいない。ドクターだけだった。

 ドクターが私とどういう関係なのか分からない。だが、恋人だったわけではないように思う。

「私の彼氏だった人に、頼まれたのかしら?」

 彼氏という言葉に過去形しか出てこない私はハッとしてしまった。記憶を失う前の記憶はすべてが過去で、別に別れたわけではなくとも、彼氏は「過去の人」なのだ。

 それは思い出せないからだけであろうか。思い出そうとしても思い出せないのは過去を断ち切りたいという強い気持ちが自分の気持ちにロックを掛けているのかも知れない。

「ロック?」

 これは彼と同じではないか。私も彼も同じような境遇なのだ。そう思うと、私のロックもひょっとすると、自分で掛けたのかも知れないと思えてきた。

「何のために?」

 ロックを掛けたのが自分だとすると、真っ先に考えるのは何のために掛けるロックかということである。

 何か過去を葬り去りたいような衝動に駆られたのか。いや、何よりも自分にロックを掛けて記憶を失わせるような術を私が知っていて、実行できたのだとすると、恐ろしさがある。理由が何であるかという以前に、自分が何者なのかという疑問が浮かんでくる。もちろん、最初に感じた疑問であるが、名前や家族や友達と言った普通の生活に関する環境だけではなく、それ以上に点を捉えたところでの自分のことである。

 そう、「自分の正体」とでもいうべきか、自分の存在価値に対するところが一番の関心事であったのだ。

 それならば私の過去を知っている人の存在は、私にとって邪魔でしかないのではないか。記憶を失ってまで断ち切りたいと思った過去である。相当な覚悟の元に、自分の生きてきたプロセスを断ち切ったのだ。自分を葬り去るのと同じである。

「まるで自分を死んだことにしたみたいだわ」

 自分を死んだことにしてしまうということは、今まで自分のまわりにいた人を無視していることにもなる。無視してもいい相手だと判断したのか、それとも、本当に自分のまわりには誰もいなかったのか。そこまで切羽詰っていたのかと思うと、事実など知らない方が、一番いいのかも知れない。

 私の近くに私を知っている人がいて、彼に監視されているとしたらどうだろう?

 ご苦労なことだが、監視することで私が記憶を取り戻すことがないのなら、それが一番幸せなことだろう。だが、私はいつまでこの気持ちでいられるかだと思う。

 今私は自分の記憶喪失について一つの仮定を立ててみた。それに気づいてしまったのに、今までのように、記憶を失ったままでいいと思えるだろうか。そのうちに以前の自分を知りたくて我慢できなくなるかも知れない。それは禁断症状に似ていて、一度我慢ができても、周期的に襲ってくるものなのかも知れない。

 ミステリーを本で読むことはなかったが、テレビドラマなどでは、自分を死んだことにするというトリックがよく使われる。顔が分からないように潰してしまったり、遺書を残して、自殺の名所と言われる断崖絶壁から身を投げたり、樹海に入ったりなどがそうであろう。

 自殺というキーワードが使われることが多いが、何か自殺を簡単に考えてしまいそうになる自分に気持ち悪さを感じたりした。

 昔の人は自害に「美徳」を感じていたのかも知れない。戦国時代にしても、戦時中にしても、捕虜になって辱めを受けるくらいなら、死を選ぶという教育を受けていたのが線時事中だという。戦国時代は、敗北は死を意味した。敗北者が見つかっても、最後に待っているのは斬首だったからだ。

 それは未来に遺恨を残さないというのが一番の理由。自殺者は、自分がこの世に存在した事実をすべて消し去ってしまいたい心境になるのだろうか。死ぬこと自体の怖さと、この世に存在したことが消えてしまうことの悲しさで、なかなか自殺まで至らないものだという。自殺に至った人にとって自分がこの世に存在したことを消し去ることの覚悟は必須なのかも知れない。

 記憶喪失を自らが覚悟の上で受け入れるのだとすれば、自殺に匹敵するほどの覚悟がいるだろう。死の苦しみを感じないだけで、自分をすべて消し去ってしまうことに抵抗がないのだろうか。

 宗教の中には自殺を禁ずるものがある。それは神に与えられた命を自らの手で消し去ってしまうことで、神への冒涜だと言われるが、それは、記憶の自らが消してしまうのも同じことではないだろうか。記憶も自分だけのものではない。少なくとも自分が関わったすべての人のものでもある。それを勝手に消してしまうのは、まわりに対する影響も含め、神に対しての冒涜のように思えるのだ。

 どれだけの記憶喪失や自殺者の真意が、彼らに関わった人たちに分かっているのだろう。分かるはずがないような気がする。何よりも、

「どうしてなんだ?」

 という気持ちが最初に来るはずだからである。

 自殺するのは「病原菌」のせいだという人もいるが、私はそう思いたくない。ただ、学生時代には、「病原菌」説を信じたりもした。それはまわりの押しの強い意見というのもあったが、そう考えるのが一番楽だし、説明もつくと思ったからだ。

 自殺を良し悪しで判断しているわけではない。神への冒涜を一番の問題にしたいわけでもない。ただ、残された人がどう感じるかが、自殺という形で片付いてしまうと、それまでに接してきたことが報われないからだ。

 だが、楽になりたいという気持ちも分からないではない。自殺というものを簡単に片づけることが、私には嫌なだけだった。

 私は宗教団体が好きでも嫌いでもないが、宗教の話を聞かされることが多かったように思う。勧誘しやすかったのかも知れないが、学生時代に友達にどこかの道場のようなところに連れていかれた記憶があった。

 その記憶はたった今よみがえったものだ。自殺を考えなければ、思い出さなかったかも知れない。だが、記憶としては鮮明である。

「本当に学生時代だったのかな?」

 まるで昨日のことのような記憶である。

 宗教と道場、そこで私は宗教だということを最初は知らずに連れていかれ、宗教であることを教えられた時には、すでに興味を持ってしまった後だった。

 道場の記憶を思い出すまでは、自分が宗教に興味を持ったなど、信じられなかったが、思い出してしまうと、信仰する寸前まで来ていたことに気が付いた。

 どうして思い止まったかというと、止めてくれる人がいたからだ。それが誰だったのかは分からない。そして、何よりもなぜ宗教に感化されてしまったのかも覚えていない。肝心なことは依然、闇の中にあったのだ。

 止めてくれた人の顔がシルエットでは浮かんでくるが、ハッキリとは分からない。ただ自分が主婦で、夫がいる身だったのが少し思い出せた。止めてくれた人も奥さんがいて、奥さんに悪いという思いが心のどこかにはあったが、自分ではどうすることもできなかった。そんな自分を戒めるという気持ちも宗教に足を踏み入れかけた理由かも知れない。宗教に入り込むのを止めてくれたのが、不倫相手だったのではないかと思うと、実に皮肉なことだった。

 思わず私は自分の手首を見た。そこにはいくつかの筋があるではないか。赤くなったり青くなったりしているものもある。かなり前につけたものなのだろうが、躊躇い傷に違いなかった。

――確か、目が覚めた時には白い包帯を巻いていたっけ――

 躊躇い傷を人に見られるのが恥かしいのか、それとも自分の目が行くのが怖いのか、きっと自分の目に触れるのが怖かったのだろう。恥かしいという気持ちが残っているのなら、自殺など考えないだろうと思うからだ。

 一度、巻いていた白い包帯を外した時に、手首が綺麗だったことがあった。戸惑い傷が目に入ってくるのを覚悟の上でのことだっただけに、拍子抜けした。その時には戸惑い傷が目に入ってくることに対して、そこまでひどい苦痛はなかった。苦痛が消えたわけではなく、免疫ができただけのことであった。

 だが、その時に感じた恐怖は傷が目に入るよりも恐ろしいものだった。自分が未遂とはいえ、自殺しようとしたことの事実を消し去ることだからである。自殺自体が、自分を葬り去ることなのに、その自殺をなかったことにするとなると、いったい自分はどうなるのだろう?

 マイナスとマイナスがそれぞれ負の効果を伴ってプラスに転じるのとは訳が違う。

「夢を見ていたのかしら?」

 確かに夢だったのだろうが、その夢の意味するところは何だったのだろう?

 打ち消すという行為が自分の中で日常茶飯事のように自然なことになってしまっていたとすれば、また自殺を繰り返すかも知れない。一度死にきれなかった人は、もう二度と自殺を繰り返さないという人もいる。一度躊躇い傷を作ってしまった人は、一度死に切れなかったことで、また死のうとしても、結果は同じことになるのではないか。私はどうして死のうとしたのか、そして、なぜ死に切れなかったのか。考えれば考えるほど、頭が痛くなってくる。

 白い包帯を手首に巻いている人を見ると、放ってはおけない気分になる。自分のことに置き換えて考えるわけではない。自分に置き換えるなど、怖くてできないことだ。

 正義感から来るものでもない。要するに目をそらすことができなくなってしまうだけなのだ。

 少年が夢の中の世界と現実の世界を混同してしまっているのが、ドクターにとっての研究材料だといった。病院に入院している現実と、自分の夢の中でもう一人の自分を見てしまった自分とである。少年の話を聞いて納得してしまった私は、ドクターには報告しなかった。報告するのが怖かったのだ。自分の記憶がよみがえるかも知れない話なのに、どうして報告をしなかったのか、考えれば分かってくるような気がしていた。

 パラレルワールドという言葉を聞いたことがあるが、一つの線の上を歩んできたと思っている人生が、本当はいくつもの分岐点が無数に広がる可能性を秘めていて、今生きている世界が偶然の上に成り立っているのではないかという考えである。少しでも枠を外れると、まったく違う世界に飛び出すという考えだ。あまりにも飛躍しすぎているが、ありえない話とも思えない。では、この世界は個人個人の偶然が作り出している世界だということになるが、それで納得できるのだろうか。

 納得できる時とできない時がある。自殺を考えた時は、パラレルワールドを感じたのかも知れない。いくつもの偶然の中から少しでも今よりもマシな世界に飛び出そうという衝動に駆られたからだろう。

「痛いっ」

 痛みを感じた時に我に返ったはずだ。偶然で成り立っている世界と誰もが必然と思っているこの世界、崩す勇気があるのかどうかであった。それは宗教の教えに近いものがある。ひょっとすると、宗教に入ろうと思ったのは、将来自殺を考えることがあるのではないかと予感しかからではないだろうか。

 実際に自殺に何度も失敗し、手首に消えない痕をつけてしまった。

「お前だけじゃないさ」

 心の中に誰かが語り掛けているように思う、声は男性で、聞き覚えがあるようなないような……。

「一人じゃないんだ」

 声が共鳴しているように聞こえた。少なくとも三人以上の声が聞こえてきた。ささやくような声もあれば訴える声もある、優しく語り掛けてくれるようにも聞こえた。きっと私にとって悪い相手ではないに違いない。ささやく声が遠くに聞こえるのは、その時が初めてではなかった。何度も聞いた記憶だけは、残っているのだ。それは、自殺に自分を誘う時に、聞いた声だったように思えてならない。絵の中から表を見た時の感覚が、なぜか私にも宿っているのだった……。

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