第5話 第5章

 抜けるよな

  空の合間の裂け目から

   見えたる景色絵の世界なり


「おはようございます」

 今日も浅間さんが私の部屋に入ってくる。私の担当だということで、四六時中一緒にいるということだったが、そのわりに部屋にいないことが多いような気がする。確かに私が睡魔に襲われたまま、ずっと目が覚めない時間が長いのかも知れないが、目が覚めた時、必ず浅間さんの顔が私の前にあった。

 表情はさまざまだった。ニッコリと微笑んでくれている時が一番多いのだが、寂しそうな顔だったり、時には覚えた表情の時もある。そんな時、浅間さんになんて声を掛けていいのか分からず黙っている。浅間さんもバツの悪そうな顔になるが、すぐに我に返るのか、笑顔を見せる。ただ、その笑顔は最初からの笑顔の時と明らかに違っている。引きつった笑顔が私にはよく分かるのだった。

 浅間さんは、私の足が気になるようだった。今度手術を受けることになるというが、確か交通事故だということだが、手術なら最初にしてから、後は経過を見るだけではないのだろうか。先生はいつもニコニコしていて、話をしてもはぐらかされそうだ。見舞いに来てくれる家族も、どこか歯にものを着せぬといった感じで、何とも煮え切らない。

 私の家族は、両親と妹が一人だった。本当は姉がほしかったのだが、こればかりはどうしようもない。妹というのも悪くないと思っていたが、自分も妹も思春期に入ってくると、どうにもやりきれないものを感じたりする。特に可愛い系の妹を持つと、クラスメイトからの目が気になってしまう。妹の気を引きたくて私に近づいてくるやつもいるくらいで、自分の妹でなければ自分が付き合いたいくらいだという思いを必死に隠し、誰にも悟られないようにするのは難しい。一番最初に気付くのは誰かと言えば、一番気付かれたくない人だろう。そう、妹本人ではないだろうか。

 妹もきっと私に男を感じるだろう。兄と妹というのが、一番難しい気がするからだ。では姉だったら大丈夫だったと言えるだろうか? いや、同じことで悩むことになるに違いない。

 実は私と妹は血がつながっていない。私の父が再婚で、妹は母の連れ子だった。小学生の頃だったので、母が亡くなって間がないのに、どうして父は簡単に再婚したのか疑問だった。

「お母さんのことを忘れたの?」

 と、正直に聞いてみたが、答えは返ってこなかった。もっとも、返ってくる返事を考えると、返事など返ってこない方がいい。それを思うと、聞きたいのに聞けないことのやるせなさが、苛立ちに変わっていくのを感じていた。

 実際には、親戚などから、かなり言われたらしい。それも私を引き合いに出して、

「あんた、まだ子供も小さいのに、男手ひとつで育てられると思うのかい?」

 と言われていたようだ。それでも、母の実家のことを考えれば、すぐには結婚を控えた方がいいという意見もあった。子供としては、大人たちの勝手な意見で、父が迷っているのが分かっただけに、本当は再婚しなくてもよかったと思っていた。

 それでも、再婚した母にも子供がいて、お互いに同じような立場で、気を遣っても、分かり合えると思ったのだろう。すぐに二人は打ち解けたようだ。子供同士も急に兄妹になったということで戸惑いもあったが、

「私もお兄ちゃんがほしかったんだ」

 と言ってくれたことで、迷いが吹っ切れたような気がしたのだ。

 私が中学三年生になって、妹は中学に入学してきた。今では毎朝一緒に学校に行くのが楽しみだったのだ。

 そんな時に交通事故に遭ってしまった。それも、妹がふとしたことで道にはみ出してしまったのを見て、助けようと飛び出した私がけがをしてしまった。「名誉の負傷」というべきであろうか。意識がなかなか覚めなかったようで、気が付けば、この病院のベッドの上だったのだ。

 交通事故で、頭を打っているということだった。少しの間、集中治療室に入り、いろいろな検査を行った。ただ。その時の私は、かすかだが、意識はあったのだ。それがいつの間にか意識がなくなってしまっていた。そこに何か意図的なものがあったのではないかと思うのは、気が遠くなる時を覚えていて、強烈な臭いを身体が覚えているのだった。

 まるでアンモニアのような臭いだった。小学生の頃、ハチに刺されてつけてもらったアンモニア。小学校での出来事だったので、保健室に運ばれて、保健の先生の治療を受けた。後にも先にもあの臭いは、二度と嗅ぎたくないと思っていただけに、気が遠くなる時に思い出した記憶は、実に最悪だったようだ。

「女王蜂の中でもスズメバチは、一度刺されただけでは死なないけど、二度目に刺されると、一回目に刺された時にできた免疫が副作用を起こして、死んでしまうらしいんだ。一度刺されれば、その後は本当に気を付けないといけないよ」

 私が刺されたのは、小さなハチで、命に関係のあるものではなかったが、その時に聞いた女王蜂の話は印象的だったのだ。

「女王蜂というのは、オスの蜂を踏み台にして成長するっていうけど、専制君主的なんだね」

 難しい話は分からないが、「女王」とつくのはえてして、そんなものである。動物の世界がえてして人間にも影響を及ぼしているのか、それとも人間も動物の一種だというべきか、中学で生物の授業を聞いていて、いろいろ考えさせられることも多かった。

 意識が遠のいたベッドの中で、夢を見ていたのか、夢なら目が覚めるにしたがって忘れていくはずだ。中には覚えているのもあるが、それにしてもここまで鮮明に覚えているのも珍しい。

「浅間さんは、お兄さんとかいるんですか?」

 ちょっと考えていたようだが、

「うん、実際のお兄さんはいなかったんだけど、慕っているような人はいたわね。確か中学生の頃だったかしら? 毎年秋になると縁日があるんだけど、その時のことを思い出すとシルエットのようにその人の顔が浮かんできては消えるのよ。一瞬だから、そんな顔だったのかは、ハッキリとしないんだけどね」

「縁日というと、僕も思い出があるんですよ。妹と一緒に行って、はぐれてしまったんだすよね。でも、その時に、一人のお姉さんが通りかかって、妹を一緒に探してくれたんです。無事に見つかって嬉しかったですよ。でも、僕もそのお姉さんを思い出そうとすると、シルエットが掛かったみたいになって、ハッキリとしないんだ」

 どうやら、似たような思い出が縁日にはあるようだ。これは二人だけに共通するまったく偶然なのだろうか? それよりも、縁日には魔力のようなものがあり、思い出の中に誰かがいて、その人がシルエットになっているのではないだろうか。誰も信じてくれないと思って口に出さないだけで、誰かがもし話題にすれば、堰を切ったかのように、誰もが話し出すのではないか、それこそ、待ってましたとばかりに、「ヨーイドン」のタイミングである。

 浅間さんと話していると、いろいろなことを思い出せそうな気がする。浅間さんが私についてくれたのは偶然なのだろうが、お互いに似ているところを探り合っていけば、私の記憶も戻るのではないだろうか? 浅間さんも私と同じように記憶が欠如しているところがあるようだ。記憶が欠如している者同士、引き合うものがあるに違いない。

 ただ、どこまでが本当の記憶なのかと思ってしまう。本当に浅間さんと私の共有した記憶が存在しているのであれば、すごいことだ。どこかで情報操作のようなものが行われていると何を信じていいのか分からなくなる。

 急に恐怖を覚えた。あまり浅間さんと深い話をするのが怖くなった。懐かしいと思っていることが違った記憶として埋め込まれてしまったらどうなるというのだろう。何よりも誰が得をするというのか、損得だけの問題ではないのかも知れないが、この病院はどこかおかしい。

 それでも、浅間さんに頼ってしまうのは、記憶の問題ではなく、精神的な心細さを解消したいがためだ。記憶と心細さはきっと違うものなのだろう。

 浅間さんは気が強そうに見えるが、シャイなところがありそうだ。自分から意見をいうことで、自分の中に確固たる何かを持っているように思わせているが、実は何もない。見つけようとしているが、なかなか見つからないことで苛立ちを覚え、ストレスに繋がっている。記憶を失う原因がそのあたりにあるのかも知れない。

――自分のことは棚に上げて、人のことなら結構分かるんだな――

 思わず苦笑してしまう。分かるというよりも、相手が発信した電波に同調しているような感覚だ。今までの私にそんな能力があったとは思えない。この病院に入ったことで身についたことなのだろう。

 ただそれが操作されたものなのかは分からない。元々潜在意識としてあったものが、ここにいることで引き出されただけのことなのかも知れない。今までの環境では決して見ることのできない能力を、ここでなら垣間見ることができたのではないだろうか。

 不思議な感覚はいつまで続くというのだろう。身体の方は、順調に回復しているようだ。今すぐにでも退院してもよさそうだが、そんな雰囲気は微塵もない。

「浅間さんは、ここ長いんですか?」

 これにも返答に困っていた。

「いいえ、最近なんです。患者さんを持つのも、あなたが初めてなんですよ」

 そういえば、ぎこちなさを感じていた。浅間さんの考えていることを垣間見ることはできそうだが、彼女をとりまく環境までは分からない。

 私はここで何度か目覚めたような気がする。目覚めたというのは、以前の記憶と繋がっていないところで目覚めたということである。

 浅間さんがその時にもいた。母親が後から来ると言われて、

「お母さんは、確か死んだんだ」

 というところまでの記憶があったのだ。その後に父が再婚して、妹ができた記憶が飛んでいる。今から思うと、新しい母の存在よりも妹の方が存在が大きいのだろうが、浅間さんが「お母さん」と口にした瞬間、死んだ母親を思い出してしまったのだろう。

 母の死は突然だった。最初までは、母は交通事故で死んだと聞かされていた。なぜ母が自殺だったのを知ったかというと、母が大切にしていた絵が見つかったことで分かったんのだ。

 その絵は、母のお墓のところにあった。一緒に日記帳が埋まっていたのだが、それを見つけたのは父で、最近まで誰にも言わずに黙っていた。車に飛び込んでの自殺だったが、かなりの裂傷があったことだろう。事故と自殺では、裂傷があったことを知っても、感じ方が違っていることだろう。母は、結婚前に好きな人がいて、その人と偶然再会した。その時はもうすでに母の中では割り切っていたのに、相手の男は割り切れないでいた。結婚後、それなりの生活ができている母と比べ、相手の男は自暴自棄になり、生活も荒れていたという。そんな生活を知らずに、懐かしさから話を弾ませてしまった母も悪かったのだと、墓の中から見つかった日記帳には書いてあった。

 だが、母に非はないはずである。別れ方がぎこちなかったわけでもないというし、それならどうして母は自分を責めるのだろう? 何事も人と比べてしまい少しでも自分がよかった場合、人は二つの考え方を持つ。

 一つは自分が頑張ったからだという考えと、相手が劣っているという考えだ。母の場合は、相手を知っているだけに、劣っていると思いながら同情してしまったことで、相手に劣等感を与えてしまったのかも知れない。

「劣等感なんて、どうして抱くのかしらね」

 母は劣等感を抱いたことはないというが、本当だろうか。確かに楽天的で天真爛漫なところがある母に劣等感は似合わない。劣等感を持つような相手と付き合っていないというのも大きな理由かも知れなかった。

 死ぬことで楽になれるという発想がなければ自殺など考えないのではないだろうか。それとも、自殺をするのには、何か病原菌のようなものがあり、いわゆる自殺の原因となる精神的な疾患が、大好物なのかも知れない。病原菌に犯されてしまうと、いつの間にか自分がこの世から消えていると自覚している。それは自殺する前なのか、それとも後なのか、それともその瞬間ということもありうるであろう。後であれば、周りから見て、

「あの人、どうして自殺なんかしたのかね。理由がどこにも見当たらないのに」

 という人もいる、その時は、病原菌は、死んだ人間の中から気持ちを食べる。死んだ後でも、犯された精神は、生き続けているのかも知れない。

 人間を死に至らしめる病原菌には、その人の死そのものは関係ない。ただ、自分が食するものが得られればそれでいいのだ。そう考えると、自殺に追い込む病原菌の存在など、認めたくない。そういえば、母が死んですぐの頃、違和感のある見えない何かの存在を感じたような気がした。

 もちろん、誰に話すわけでもない。信じてくれないのが関の山である。一人で抱え込むには大きなことであったが、時間が経てば、次第に忘れていくものである。それも「病原菌」の副作用のようなものなのだろう。

 母が絵を描いているなど最初は信じられなかった。どちらかというと不器用で、バランス感覚もない。さらには色彩感覚もどこかずれていた。それでも愛嬌があったからか、欠点を補うのに余りある笑顔があった。

「絵を描くために持っていなければならないものを、どれも持っていないわね」

 と、自分で苦笑いしながら話していたのを思い出していた。

 だが、その絵は紛れもなく母が描いたものだと思う。遠くから見れば様になって見えるが、近くから見れば欠点だらけである。見る人が見れば一蹴されるに違いないが、私はその中でも確かに上手ではないが、丁寧に作られているのを感じた。

――そういえば、母の魅力は、丁寧なところにあったんだよな――

 いまさらながら、母の絵を思い出していた。自画像に見えなくもないその絵は、母がまだ十代の頃ではないだろうか。その時代の自分を描くのが普通なのだと考えると、十代の頃の母は、絵を描いていたことになる。ただ、これが母が自分で想像して描いた絵だとすると、本当は素晴らしい絵の才能を持っていたのかも知れない。

「でも、この絵と日記帳を誰がここに?」

 これが一番の疑問である。死んでしまった母が自分で自分の墓に隠すことなどできるはずがないからだ。

 そこで一つの疑念が湧いてきた。

「実は偶然見つけたような言い方をしていたけど、本当は父が隠し持っていて、どこかで表に出すのを待っていたのかも知れない」

 なぜそんなことをするのだろう。父にとっても、母が自殺だということよりも、交通事故で死んだと思ってもらえる方がいいのではないか。自殺ということになれば、その理由をあれこれ詮索され、警察にだって痛くもない腹を探られることになるだろう。

 実際に警察がやってきた。父も散々聞かれたようだし、私も婦警さんからいろいろ聞かれた。主に、

「家に帰ってきた時にお母さんがいなかったりとかなかった?」

 などと、私には母親が隠れて何かをしていたことの探りを入れていたようだ。

 父に対しての追及はそれほどでもなかった。何かの原因があるとすれば、母が表でしでかしたことが原因と見ているようだった。そのうちに警察の捜査もなくなり落ち着いてくると、母がいない静かな生活が新鮮にさえ感じられるようになっていった。

 この間の私は、そんな母が生き返ってくるのだと信じて疑わなかった。なぜかその時には父の再婚相手である今の母も、気になってきていたはずの妹の影も、まったく感じる様子がなかったのだ。

 再婚してからの父は明らかに変わった。冗談などいうタイプではなかったのに、相変わらずの無口な父がたまに口を開くと、ジョークを飛ばしたりする。真面目一本気な人がたまに冗談をいうと、一瞬その場が固まってしまう。

「何が起こったの?」

 と、誰もがまわりの人に助けを求めるがごとく顔を見合わせる。その表情が面白い。そのおかげで固まった空気が今度は一気に弾けるのだった。

 父が一生懸命にポーズをとっても、面白くもおかしくもない。だが、真面目な顔でフッとジョークを言うことで、場に和みが生まれる。生まれた和みは今までの空気を一変させる。それがまわりに大きな影響を与える。

 父は最初、銀行員だった。真面目な父には天職に見えたが、真面目さ4だけではいけない。機転が利かない父は、時々置き去りにされてしまうことも多かった。そんな父を母が好きになったのは、母には父からひきつけられるものを持っていたようだ、最初に知り合うきっかけが、本当に偶然だったのか、母はしばらく疑問に思っていたようだ。

 結婚生活は決して楽なものではなかったようだが、一番苦しい時に生まれたのが私だと言っていた。

「正直、産んでいいのかどうか、迷ったものよ。道義的には、産まなければいけないんでしょうけど、産んだところでみすみす不幸になるのが分かっていて、育てられるのかが一番の問題だったからね」

 今なら少し分かってきた気がする。金銭問題も一つだが、お金がないという暗い家庭の環境で、果たして捻くれずに育つかどうか、一番の問題だったはずだ。

「あんた、親孝行だよ」

 母は、そう言って私の頭を撫でてくれたのを思い出していた。捻くれずに育っていたからであろう。そういえば、病気もほとんどせずに健康に育った。考えてみれば病院などというところは、何年かに一度行くくらいだった。アルコールの臭いは、年に何回かの予防接種で嗅いでいた。薬品の臭いを感じるのは、病院というよりも予防接種のイメージが強かったかも知れない。

 両親の仲は悪くはなかった。どちらかというと仲睦まじいものではなかったか。お金がない時期はそれほど長くは続かなかった。精神的に余裕が出てくると、両親は私をいろいろなところに連れていってくれた。

 休みの日には遊園地であったり、百貨店であったり、日曜日は家族でどこかに出かけるのが日課になっていたのだ。

 遊園地で入ったお化け屋敷やミラーハウスは今でも怖かったのを覚えている。お化け屋敷など、子供だましであることは分かっていても、分かっているだけに怖がってあげないといけないという思いが働き、余計に力が入ったりした。ミラーハウスの場合は、本当に足が竦んだ。

――子供は怖いものが好きなんだ――

 という思いが頭を掠めたのは、その時だった。

 怖がりな母は決して入ろうとしなかったが、父は結構、ミラーハウスのようなところが好きだった。

「昔は従妹と一緒に入ったものだよ」

 と笑っていたが、格好いいところを見せたいという気持ちがあったのかも知れない。だが、一緒に入ったのは最初だけで、次からは、いつも一人で入っていた。一人でないと、せっかくの醍醐味が味わえないからだ。

 ミラーハウスの思い出は父から聞いた話だけではないような気がする。私がミラーハウスを好きになったのは、以前から家族ぐるみでの付き合いのある友達と一緒に遊園地に行った時だ。友達の母は、父が勤めている会社で事務のパートをしていたのも縁であった。

 父はかなり前に銀行を辞めていた。お金はなかったが、元銀行員ということで、すぐに次の仕事は見つかった。銀行に勤めている時から、誘いをかけてくれる人がいたらしく、転職はすぐに決まった。真面目なところが功を奏したのだ。

 中小企業だが、家族的な雰囲気が父の気持ちを解放したようだ。私もたまに顔を出しても、皆明るく迎えてくれ、事務所の外で飼われている犬と遊ぶことが恒例になっていた。今まで真面目だけだと思っていた父の、まったく違った一面を見たのだった。

 母が亡くなっても、父に再婚の話がすぐに出たのは、そんな性格が幸いしているのかも知れない。もし、再婚が決まらなくても、その後には、途切れることなく話が持ち上がってきたかも知れない。それだけ父の動向には、まわりが気にしていたという証拠ではないだろうか。

 再婚が決まって、一番ホッとしたのは、父だった。母のことが気になっているとは言っていたが、まわりが放っておかないのだから、まわりの喧騒にはほとほと参っていたのかも知れない。

 家族ぐるみで付き合っていた人たちも、母が死んで最初は気を遣ってか、あまり家に立ち寄ることもなかったが、母の死が自殺であると分かると、それまでと打って変わって、親近感を深めてきた。

 皆、自殺を「病原菌」が原因だと思っているのだろうか。仕方がない「死」をいつまでもひきづっているわけにはいかないという気持ちが強いのかも知れない。考えてみれば「病原菌」の話は、その友達から聞かされた話だったのだ。

「この話は結構、公然の秘密のようになっていてね。あまり口にすることは好ましくないんだけど、身内に自殺者が出ればそれは仕方がないよね。運命のようなものだと割り切るしかないんだよ」

 確かにそうかも知れない。この話をきっと友達の両親が父にも話しているかも知れない。

「俺だって、この話は親から聞いたんだからな。きっと話しながら、いろいろ説得することもあるんじゃないかな?」

 と言っていた。「説得」が再婚に直接結びついたかは分からないが、背中を押したことには違いないだろう。

 私は中学に入り、美術部に入るか、文芸部に入るかを迷っていた。美術部にも魅力はあったが、文芸部に入部することに決めた。

 文芸部では、主にミステリーを研究するようになった。最初は片っ端から斜め読みをするような感じで読み込んでいたが、次第に落ち着いてくると、作者順に読むようになっていった。

 片っ端から読んでいる時は、売れた作品や、話題になった作品を中心に読んでいたので、同じミステリーでもジャンルはバラバラだった。そのうちに興味のある作者に巡り合うのではないかという他力本願的な考えだったが、それも一理ある考えではあった。

 作者にくせがあるのも次第に分かってくる。特異なジャンルがあれば、作品にもアクセントをつけるようになる。アクセントが作者のくせであり、個性でもある。同じジャンルでも、くせがなければ他の人に勝つことはできないだろう。

「くせ」が、その人の代名詞になれば、しめたものだ。ミステリーのパターンにも限りがある。いかにバリエーションを持たせるかであるが、バリエーションも他の人とかぶってしまうと、同じような作品が出来上がってしまい、最初から勝負にならない。

 私がミステリーに興味を持ったのは、母が自殺したという事実があるからだ。自殺には必ず謎が含まれている。「病原菌」が原因だと思っていても、それだけでは説明がつかないことがある。逆に説明がつかないから、「病原菌」のせいにしてしまっていることだってないとは限らない。最後に結論に持っていけないのであれば、他のものに何かの理由をつけて結びつけるしかない。

 私の好きな作家は、ミステリーというよりも、奇妙なお話を書くのが得意な人だ。ほとんどが短編で、見事に世の中の風刺を物語にしている。私が「大人の小説」として名前を挙げたい作者で、一番最初にシリーズで読んでみたいと思った人だった。

 社会風刺というよりも、人間の中にある潜在意識や、無意識な行動などが織りなす世界を絶妙なタッチで描く。そんな作品は、えてして、

「俺にも同じような思いがあるな」

 と、読者を唸らせることであろう。

「人生とは、二百ページの本である」

 と言った人がいたが、私も同感である。小説を読み始めたのは、その人の言葉に感化されたからだ。確か私がまだ小学生だった頃だったが、中学生になりたくないと、漠然と感じていた時期だった。子供でいたいという意識ではないが、中学生になると、自分の個性がなくなっていくような気がしたからだった。

――それにしても、よくこれだけのことを分かっているものだ――

 この病院で目覚めた最初は、何も分からない、まるで赤ん坊のような気持ちだった。純粋無垢といえばそれまでだが、不安もあったが、漠然としたものだった。

 今は意識がしっかりしていて、知らなかったことまで分かるようになっている。病院で投与される薬が効いているのかも知れないが、自分の中で意識が変わってきているのかも知れない。

 何も分からない中で目を覚まし、過去を思い出そうとしていると、思った以上に次々に浮かんでくる。確か、私は物忘れが激しい少年だったように思う。それが悩みであり、まわりを苛立たせたり、誤解を招くことに繋がったりもした。

――まわりに気を遣いすぎるからなのかも知れないな――

 人に気を遣うと、自分のことがおろそかになってしまう。さらに気を遣いすぎると、自分というものを殺してしまい、自分を道端の石ころに追いやってしまうことになってしまう。

 忘れっぽいのは、それだけ人に気を遣いすぎるからだという結論を自分の中で勝手に立ててしまい、納得させている。納得してしまう自分も自分なのだろうが、中学生の自分ではそれ以上は難しかった。

 病院で家族に何度か会ったが、その都度態度が違うのも少し気になるところだった。一番来てくれたのは義母だった。父は仕事が忙しいという理由で、まだ二回ほどしか姿を見せてくれていない。しかも仕事が忙しいというのも義母から聞かされた理由であって、父は何も言わない。元々、余計なことを口にしない父だったが、さらに無口になっていた。私を見る目も、どこか悲哀に満ちていたようで、あまり気持ちのいいものではない。

 義母はほとんど毎日顔を出してくれる。

 と、言っても、最初に来てくれてから、数日顔を見せなかった。

――やっぱり、義理の母なんだな――

 と思っていたが、二度目からはずっと毎日来てくれている。素直に喜びたいが、最初から二回目までの間に何かがあったのかも知れない、詮索してはいけないのだろうが、どうしても、義母の心境を知りたくて、顔を見上げてしまうのだ。

 義母はにっこり笑いかけてくれるが、どこか父の表情に似ている。雰囲気は違うが、悲哀を感じさせる笑顔で、やはり、あまい気持ちのいいものではない。

 そんな中、妹も何度か連れてきてくれている。妹だけは、義理であってくれて嬉しいと思うのは、妹に対し、女性という目で見ているからだ。自分だけではなく妹も、思春期と呼ばれる年齢に差し掛かっていたのだ。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 あどけなさの残る声がくすぐったい。懐かしさというより、女の子が甘えている様子は以前の妹なのだが、それ以上に、甘えは私への愛情ではないかと思えてくる。錯覚ではないことを願いたい一心であった。私の中の虚勢が答える。

「大丈夫だよ」

 と、答えはしたが、妹のあどけない表情に戸惑いもあった。

 自分は普通の状態であれば、理性が働くのであろうが、理性が効かない上に、妹が綺麗に見えてくるからいけない。きっと義母と見比べてしまうからだろう。

 義母に対して感じたことのない「大人の女」を感じていた。病院に入院するまでの私にはなかったことだ。大人の女性を感じさせる暗示が、私の中に目覚めたのは事実であろう。

 原因として感じられるのは、浅間さんだ。しかし、浅間さんを見ていて、そこまで大人の女を感じることはなかったはずだ。

――優しくされるからかな?

 私は今まで優しくされて育った経験はない。実の母は厳しかったわけではないが、優しくされたわけでもない。義母も、なるべく優しく接しようとしてくれているようだが、どうしても血が繋がっていないということで、遠慮がある。遠慮と優しさは似ているようだが、実際には平行線であり、交わることはない。甘えようとすると、義母の方が身構えてしまうからだ。それが分かっているから甘えることもしなければ、優しくされたという意識は生まれてこないのだ。

 優しさがない相手に、大人の女を感じるはずもない。特に遠慮があれば他人である。一応は母という立場なのだから、優しさがなければ他人としての、遠い距離しか感じない。悲哀感が残るだけだった。

 しかし、入院してからというもの、私自身が寂しさに打ちひしがれている。表には出さないようにしようとすればするほど、気持ちに苛立ちが生まれる。そんな不安な気持ちが、誰かを慕いたいという気持ちに変わり、最初に見た女性である浅間さんに「大人の女性」を感じたとしても無理のないことだ。

 浅間さんは何も言わないが、彼女にもそれなりの過去があるように思える。私を看病しながら、自分も何かを探しているように思えるのだ。ある意味、同じ立場がかなりの部分を占めていることだろう。

 元々入院する前の私は、余計なところに労力を使って、肝心なところがおろそかになってしまうような性格だったように思えてきた。自分が悪いわけではく、まわりの環境のせいにしていた。

 人からも言われたことがあったが、ズバリ言われると、余計に意固地になり、悪いのは自分ではないと思い込みのだった。

 そんな自分の性格を再認識したのが、入院してからで、寂しさが募るにつれて、不安感が深まっている。深まってくる寂しさが、本当は余計な心配なのではないかと思うと、幾分か気が楽になる。そのおかげで、以前の性格を思い出したというのも皮肉なことであった。

 余計なことを考えていたのは、文芸部でミステリーを研究していたのも余計なことだった。だが、余計なことだというのは、研究自体が余計なことではなかった。研究することで、知らなくてもいいことを知ってしまうという意味での余計なことであった。性格とは恐ろしいもので、いつも間にか真実に近づいていることを暗示させるものであった。

 ミステリーを読んでいて、ミラーハウスの話が出てきた。ミラーハウスを利用しての殺人だったが、トリック的なものよりも、人間の中にある深層心理を抉り出す発想がホラーに似たものを感じさせる。

 無数に広がる自分の姿。同じ方向を向いているわけではなく、後ろを向いているもの、横を向いているものとさまざまだ、だから恐怖を感じるのだと思っていたが、実はそうではないらしい。

 その話は、殺人を犯した人がミラーハウスに逃げ込んで、必死にもがいて表に出ようとするのだが、最初は見えていた追手の姿がなくなり、自分だけになったのだが、その自分がそれぞれの方向を見ている間はまだよかったのだが、次第にすべての映し出された自分が、迷っている自分の方を凝視している。

 皆同じ顔をしている。当たり前のことだが、そのうちに今自分がしている顔と違う表情になった瞬間に、身体中の汗が一気に噴き出してきた。

「ギャアー」

 思わず大声を出したが、ミラーハウスの中で声も反響した。その声は明らかに一人ではない。トーンの違う声が幾重にも重なって響いているのだ。

「誰か、誰か他にいるのか?」

 叫び声を上げるか、今度は私だけの声だった。同じように共鳴したのなら分かるが、今度は一つなのだ。明らかに何かの意図が働いている場所だったのだ。

 呼びかけたのが悪かった。ミラーハウスは呼びかければすべて自分に跳ね返る。恨みもすべて、無限の世界に入り込んでいる。どこまでが無限なのかを考えさせられるが、まるで小説の中に入り込んでいくような気持ちになるのは、自分がミラーハウスをよく知っているからだ。

 ミラーハウスにはきっと不思議な力があるのだろう。私がこの話を読んだのも、ただの偶然ではないかも知れないということだ。ミラーハウスのイメージをミステリーに持っていることで、小説の方から私を呼んだのかも知れない。何か見えない赤い糸に手繰り寄せられた気分がするくらいだ。

「死んだ人がすぐそばにいるのを意識したことがあるかい?」

 祖父がそんなことを言い出したことがあった。小学五年生になってからのことだったので、祖父も分かってくれると思って話したのだろう。いずれは話をしたいと思い、手ぐすね引いて待っていたのかも知れない。

「あると思うけど、お盆の時なんて、ご先祖様が帰ってくるんでしょう?」

「そうだよ。でも本当に姿が見えたりとかはないよね」

「うん、そんなことがあったら怖いじゃない」

「でも、怖いと思っているからこそ、姿が見えることだってあるんだよ。見たことがないというのは、怖いと思っている気持ちよりも、死んだ人がそばにいることなどありえないという気持ちの方が強いからかも知れないね。でも、おじいちゃんは、死んだ人が見えるんだ。おばあさんはすぐそばにいるんだよ」

 成仏できずに彷徨っているという理屈は、小学五年生にもなれば理解できた。祖父の言っていることは、明らかにおばあさんが成仏していないということを言っているのだ。

「おじいさんはそれでもいいの?」

 私は成仏できない祖母の気持ちになって話してみたが、それを分かっているのかいないのか、

「いいんじゃよ。わしもすぐにおばあさんのそばに行くからね」

 一瞬祖父の影が薄くなったのを感じた。そして祖父の部屋にある仏壇のろうそくが、一瞬吹いてきた風のせいで消えてしまったのだ。祖父はそれを分かっていながら、もう一度つけようとはしない。

「ほら、今もおばあさんがそばを通ったんだよ」

 祖父はそれから一か月後にこの世を去った。

「前の日まであれだけ元気だったのにね。本当に分からないものだね」

 私は、その時、祖父が祖母の姿が見えた瞬間だったと思った。祖父もそれを望んでいたのだ。きっと大往生だったに違いない。そのせいか、悲しんでいるというよりも人生を全うした祖父に対して敬意を表するような雰囲気のままに、慌ただしさの中、葬儀まで無事に終了した。

 身内の葬儀は、祖母の時が最初だったが、私はまだ小学二年生だったこともあって、喜怒哀楽の表現も表すことができず、無邪気だったのかも知れない。ほとんど悲しかった記憶はなかった。

 その次は母の葬儀だった。あまりにも突然で、慌ただしさしか覚えていない。しかも、まわりはあまり悲しんでいない様子だった。母の葬儀の参列者は、ほとんどが私の知らない人で、実の母だというのに、どこか他人事に思えたくらいだった。

 そのせいか、私は涙を流さなかった。まわりはきっと気丈な子供だと思ったことだろう。まわりに気を遣って、涙を流さないと思われていたのかも知れない。だが、実際には、涙が出てこなかったのだ。

 悲しさは時が経つとともに襲ってきた。だが、葬儀で泣かなかったことが私の中にあり、悲しくても涙を流さないようになっていた。我慢しているという感じではない。無感情に近いものがあったのだ。

「テレビドラマの感動シーンを見ている方が涙を流すかも知れないな」

 と思ったくらい、現実を冷めた目で見ていたのだろう。

「死んだ人を呼んではいけない」

 この思いは、母に対して強くなった。それは母が自殺だったということを知る前からのことで、

――母は普通の死に方ではなかったのではないか?

 と、まさか自殺とまでは思わなかったが、何か引っかかるものがあったのだ。

 祖父と祖母のような関係が一番安心できた。

「おばあさんがそばにいる」

 という不気味なセリフを差し引いても、二人の関係は羨ましいくらいだ。

 祖父の死は、きっと祖母に見守られての大往生だっただろう。仲睦まじさが想像できるが、私は祖母の顔を覚えていない。仏壇の遺影で見たことはあっても、祖母だと言われてもピンとこない。

 遊びに行くと一緒に寝てくれたが、その時には怖い話をしてくれたものだ、それまで祖母の顔が分かっていたのに、怖い話をし始めると、顔が黒い影に覆われる。シルエットが浮かびあがってくるのだが、その時、「のっぺらぼう」ではないかと思うくらい、顔が見えなかった。どうかすると、頬を貫き、耳元まで避けた口が怪しく歪んでいるのを想像してしまう。

 私は妖怪の中でも「のっぺらぼう」が一番怖いと思っている、

「顔がないのに、表情がある」

 これが「のっぺらぼう」というものではあるまいか。

 顔の上に白い覆面をしていて、鼻の高さ、口元の歪み、さらには目の窪みなども見えている。彼らには心というものが存在するのだろうか? 人に悟られたくないから、敢えて顔を出さないようにしていても、実際には表情があって、何かを言いたそうにしている、それだけに不気味で、何が怖いといって見下ろしているのか、見上げているのかが分からないところだ。

 見上げるのと見下ろされるのでは、天と地ほどの違いがある。見上げている相手に見下ろされているのと同じような態度を取るのは勇気がいる。逆も同じである。

 覆面の下の顔を想像すると、浮かんでくるのは自分の顔だった。

――一番身近なのに、一番見ることが困難なもの――

 それが自分の顔である。鏡や水溜まりなどのような媒体がなければ決して見ることができない。しかも何かを介しているために、他の人が直接見るのとでは、かなり違うだろう。

それは顔だけに限ったことではない。声だってそうだ、自分で発した声というのは、自分では低く感じていても、実際に録音して聞くと、少し籠って聞こえたりするものだ。私は録音した声はあまり好きではないが、人によってはいい声だと言ってくれる人もいた。

 私が見る夢で、気持ち悪いと思っているのは、自分が出てくる夢だった。自分の顔なのに、違う人のように思え、「のっぺらぼう」が覆面を剥いだ時が、こんな感じではないかと思うほどだった。

 妖怪にも表情がないものがある、または過激すぎると却って、実はいい妖怪だったりすることもあるくらいで、やはり表情のない妖怪は不気味なものだ。祖母が妖怪の話をしてくれた時、想像したのは、「のっぺらぼう」だったのだ。

 祖母の部屋には、絵がいくつか飾ってあった。和室に油絵というのも、その場を見ずに話を聞いているだけなら、アンバランスに聞こえるだろうが、実際に見た私の感想は、さほど違和感のあるものでもなかった。

 西洋の屋敷のような絵もあれば、深い森の中に、一筋の光が差し込んでくるような絵もあった。一様に一筋の光がテーマになっているようで、祖母の趣味が集めさせたものだろう。

「中にはおじいさんの描いた絵もあるんだよ」

 どの絵も遜色なく見えていただけに、祖父の絵心というのも相当なものなのかも知れない。

「おじいさんは学生の頃結構描いていたんだよ。コンクールにも何度か入選したりしたこともあってね」

 若い頃のおじいさんを想像するのは困難だった。しかも画家をイメージするのは至難の業だが、きっと見方を少し変えれば、いかにも絵描きという雰囲気がそこに広がっているかのようだった。

 ベレー帽をかぶって、ペンを指で立て、片目をつぶって、遠近感を図っている。

 画家というのはそんなことをする商売だというイメージがつよく頭にあり、特に年齢が高い人であればあるほど、そのイメージが高くなってくる。

 だが、一度イメージしてしまうと、それが膨らんでくるから不思議だった。

「おじいさんは画家だった」

 と断言して言われれば、その通りのイメージが浮かんでくる。私には祖父の一部しか今まで見ていなかったのを思い知らされた。

 人の一部しか見えていないのは私だけではないだろう。誰でもすべてが見えてしまうと、世の中面白くない世界になってしまいそうで、一部しか見えないのは仕方がないが、それだからこそ、相手をもっと知りたいと思うのは当然である、

 祖父と祖母が、仲良く寄り添いながら、私を見てくれているのを感じる、

 私を見守ってくれているのを時々感じるが、なるべく感じないようにした方がいいと思う時がある。あっちの世界に呼ばれてしまっては困るからだ。もし祖父や祖母のことを考え続けていたりすると、「病原菌」が入り込んできやすい環境を自ら作ってしまうのかも知れない。それこそ、母親の二の舞にならないとも限らないのだ。

 自殺を促す「病原菌」、私は今でもその存在を信じているのだった。

 いろいろな小説を読んでいると、父の行動が不可思議だったことに気が付いた。母の日記があのタイミングで墓から見つかったのが一番の疑問点で、再婚のタイミングなどを考えると、ほとぼりが冷めたうまいタイミングだったように思う。まわりから促されるように自分から持って行ったと考えると、

「父はしたたかなんだ」

 と思わざるおえない。

「ひょっとすると、父が母を……」

 それ以上は恐ろしくてとても口に出せないが、このことも私の胸だけにしまっておけばいいことであろう。そうやって私はいくつも自分の胸にたくさんのことを抑え込んでしまって、身動きが取れなくなってしまったのかも知れない。

「そういえば、俺も交通事故だって話だったが……」

 母も最初は交通事故ということだった。

 見舞いには義母と妹が来てくれたが、父は一度も来てくれない。

「お父さんはお忙しいのよ。そのうちに来てくれるわ」

 私が、父のことを、

「お父さんは、どうしているの?」

 と聞いただけなのに、父の見舞いがないことを私が気にしていると思ったのか、母の返答は見舞いのことについての返事だった、確かに父は今忙しいのかも知れない。新しい会社に勤め始めて、次第に忙しさが増してきたのは、私が入院する前から分かっていたことだった。まだその状態が続いているようだった。

 父に会うのは、正直今怖いと思っている。見舞いに来てくれたとしても、ほとんど口をきいてくれないような気がするからだ。病状や体調などを心配はしてくれるだろうが、それ以上の話はない。しかも親子ということで、ちょっとしたことがボロを出すことに繋がるかも知れないと思うと、余計なことは話せないだろう。

 父とは血の繋がりのある肉親ではあるが、母も同じである。死んでしまった人だという割り切りを私ができていなければ、露呈してしまうこともある。疑念が疑惑に変わり、そこまで確証に近づくか。勘違いであったとしても、一度抱いてしまった疑念はそう簡単に拭い去ることはできない。

「やっぱり父が……」

 見舞いに表れないことで、却ってその疑念は強くなった。見舞いに来なければ露呈することはないと父が思っているとすれば、父の血の繋がりに対しての認識が弱いということであろう。いろいろなことを一度に考えてしまった私は、そのまま深い眠りについてしまったのであった……。

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