後編


『お姫さまの靴は、とてもきれいでした。村で暮らす少女にはそれがたいそう羨ましかったのです』

『こっそり履いてみると、ヒールが高くてとても歩けるものではありませんでした』


 ノートパソコンに打ち込むのは、文学賞へ応募するための小説だ。

 一単語書いては消し、接続詞が不自然じゃないかを考えては、消す。気づけば、ディスプレイの右下には午前5時と表示されていた。

 家主を起こさないようになるべく物音を立てないよう、静かに階段を降りていく。

 しかし、話し声が聞こえてきた。こんな時間に誰かと電話しているようだった。


「ご飯、ちゃんと食べてる?」


 甘い声色だ。恋人に向けて話すような柔らかさがある。

 聞いてはいけなかったのかもしれない。いや、聞いてはいけなかったのだ。

 冷水を浴びせかけられたかのように全身から熱が引いていき、体の奥底から痛みが湧き出てくるようだった。


 階段の、一番低い段にうずくまる。


 わたしは大人になってからの瀬名のことを何も知らない。

 自分勝手な感情は、毒だ。

 わたしだって瀬名に対して必要最低限の説明しかしていない。


 嫌な汗がじっとりと肌に滲む。呼吸が苦しい。どうにかして息を吸おうとするものの何かに邪魔されているような感覚がある。

 壁にもたれかかって、顔を上に向けた。

 視界に白いもやが生まれて、どんどん目の前を埋め尽くしていく。抗わず、わたしは意識を手放した。



 瀬名の家で暮らしはじめて、1週間が経とうとしていた。

 太陽が昇る頃に起きて、日付の変わる前に眠ることができている。

 瀬名は役場の臨時職員をしているので、平日の日中はこの家にはわたしひとりだけだ。


 パソコンと向かい合って一文字もひねり出せず唸っていると、鍵を開ける音が聞こえてきた。

 瀬名が帰ってきたらしい。

 不思議に思って階下へ降りると、髪の乱れた瀬名と視線が合った。


「起きてた?」


 問いかけがおかしい。

 気まずそうに視線を泳がせる瀬名。口をもごもご動かすものの、言葉は発さない。


「どうしたの、こんな昼間に」

「ちょっと急用で」


 珍しく歯切れが悪い。

 瀬名は観念したかのように、天井を仰いだ。それから、スマートフォンの待ち受け画面をわたしに向けてきた。スマホの待ち受けには、はちきれんばかりの笑顔の少年が写っていた。


「あたし、結婚してたんだ。子どももいる。男。今年で8歳」


 目元が瀬名にそっくりだ。活発そうで、人々の中心に立てそうな光をまとった少年。性格もきっと、瀬名に近いのだろう。


「息子は元旦那の実家で暮らしてるんだけど、さっき元旦那から連絡があって、怪我して病院へ運ばれたみたいで、えぇと、その。どうも、あたしが母子手帳持ってたみたいで」


 つまり、取りに戻ってきたと説明したいらしい。

 言葉が出てこない。後頭部を鈍器で殴られたような衝撃とは、こんな感じなのだろうか。


「ごめん」


 それでも、こんなに意気消沈している瀬名を見たのは初めてだ。気にしていない体を装おうと、彼女の背中に手をやった。


「わたしに謝ることは何もしてないでしょ。早く見つけて、病院行きなよ」


 瀬名が小さく頷き、わたしの横をすり抜けていく。


 二階に戻って畳の上に寝ころんでいると、扉が再び開かれて、鍵の閉まる音が聞こえてきた。

 瀬名は無事に母子手帳を見つけることができたようだ。


 ごめん、とは何に対しての謝罪だったのだろうか。

 起き上がる気力が湧いてこない。

 休職するようになったときのことを、ぼんやりと思い出す。


 夜眠れなくなって、休みの日も仕事のことしか考えられなくなって、いつしか、駅のホームで飛び込むことで頭がいっぱいになった。死ぬことに思考の隅々まで支配された結果、わたしは泣きながら上司に電話をかけた。そして、メンタルクリニックで適応障害の診断書を貰い、三ヶ月の休職の末に会社を辞めた。


 この世界で、一体誰がわたしのことを必要としてくれるのか。

 どうしてそんな思春期の悩みみたいな澱みを未だに持ち続けなければならないのだろう。

 心なんて体のどこにもないのに、どうして苦しく感じるのだろう。

 誰か、誰でもいいから、教えてほしい。

 どうやったら、苦しまずに生きていけるのか。



 瀬名が帰ってきたのは、日付をまわった頃だった。

 寝たふりをすることもできた筈なのに、わたしの足は階下へと降りていく。

 玄関にはくたびれた様子の瀬名が立っていた。


「お子さん、大丈夫だった?」


 つとめて、自然に問いかけた。

 予想外だったのか瀬名の瞳に驚きが浮かぶ。


「骨折だって。遊びたい盛りの年頃だからしばらくは大変そうだけど、命に別条がなくて本当によかった」


 瀬名の唇が、ごめん、と形を作った。

 そのまま土間にしゃがみ込む。 


「……結婚して子どもを産めば、普通の人生を送れると思ったんだ。だけど元旦那にも息子にも、ずっと嘘をついているような感覚があって苦しかった。幸せな家族を、周りから憧れられるような母親を演じていただけだった。ずっと、あたしの恋愛対象は女性だったから」


 瀬名の告白が、わたしの奥底に降りていく。

 あぁ。

 わたしはなんて愚かだったんだろう。




 ――30歳になったら云々っていう約束、まだ有効?――




 同居の提案をしてきたのは、瀬名だったというのに。

 驚いたけれど、あまりのタイミングのよさに救われたと思った。世界から逃げ出したのか放り出されたのか分からないひとりぼっちになったわたし。

 昔も今も、手を差し伸べてくれた瀬名は救世主だと思った。

 瀬名だって、救われたかったのかもしれないのに。


 ただ、今のわたしができることはひとつしかない。


 わたしは式台に降りた。

 高低差を残したまま、瀬名のことを抱きしめる。タバコのにおいはしてこない。


「約束を破ったのは瀬名じゃない。この世界だよ」


 鼻をすする音の後に、瀬名が笑った。


「その言い方、環らしい」

「もし、同性婚ができるようになったら、わたしと結婚してくれる?」


 今の精一杯で、わたしは一世一代の告白をした。

 瀬名から体を離す。

 顔を上げた瀬名。困っているような下がり眉。


「先にプロポーズしたのは、あたしなんだけど?」

「ちょっと待って。あのメールがそうだったの?」


 顔を見合わせてどちらともなく小さく吹き出す。

 自然と、額同士が触れた。


「うどんか何か、食べる?」

「……食べる」

「じゃあ、靴脱いで」

「うん」


 わたしたちの始まりは、ここからなのだ。

 ここから、生きていけばいいのだ。きっと、たぶん。



 今日もわたしは、猶予期間を孤独に費やす。


『お姫さまも、高いヒールを履いて笑顔でいられるよう、常に努力していたのです』

『少女はお姫さまへ、歩きやすいようにと丈夫でやわらかな布の靴をプレゼントしました。せめてこの村では、自由でいられるようにと』

『お姫さまと少女は手を繋いで、仲良く歩きはじめました』


 まだまだ未完成だけど、決めている。

 物語が完成したら一番に瀬名に見てもらうつもりでいる。


 わたしたちは、同志なのだと伝えたいから。


 生きるのが下手すぎて情けない。

 だけど、このままやっていくしかないのだ。

 わたしも、あなたも。

 苦しさを抱えて、痛みを引きずって。


 伝わりますようにと、願いながら。



                           完

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言食む世界 shinobu | 偲 凪生 @heartrium

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