言食む世界

shinobu | 偲 凪生

前編




 中学三年生の頃、好きな人と約束をした。


「30歳になったとき、お互いまだ独身だったら結婚しよう」


 ささいだけど、大事な、大切な約束。

 その頃にはきっと、同性婚だってできるようになっているだろうから――





 高校卒業と同時に地元から離れたわたしは、勤め先を退職したことをきっかけに故郷へと戻ることにした。

 わずかな預貯金と期間の決められたで当面の生活を成り立たせるにはいささか不安があった。しかし、一度死んだような人生。どうせなら、やりたかったことをやってみようと考えたのだ。

 というか、ようやく思考が未来について考える余裕を持てるようになってきたので、逃げるようにして都会から出てきたというのもある。


 折り合いの悪い実家へ戻る選択肢はなかった。

 わたしが身を寄せることになったのは中学校の同級生、長嶺瀬名ながみねせなの住まう一軒家。

 地区には似たような建売住宅が連なっていて不安になったが、雨風にさらされてくすんだ赤色の屋根を目印に到着し、表札のおかげでインターフォンを鳴らすことができた。


 人生の岐路というのは、自分の意志とおかまいなしに突然やってくるものだ。

 だとしたら流された先が最適解なのだと信じたい。


 とはいえ、緊張していないといえば、嘘になる。

 喉が渇き手足の指先が冷えていく。


 瀬名と会うのは中学校の卒業式以来なのだ。

 変わっているだろうか。変わっていない方がおかしいだろう。わたしだって、すっかりとくたびれてしまったのだから。


たまき!」


 勢いよく扉が開いて、明るい声がわたしを呼んだ。

 一瞬にして会わなかった時間が埋まるような、わたしの名前を呼ぶ声。


「久しぶりだね。上がって上がって」


 瀬名だ。化粧をしていないおかげで中学の頃の面影が残っていて、密かに安堵した。

 大きな瞳、はっきりとした二重。派手というよりは華やかな顔立ち。

 家主はくたびれたピスタチオグリーンのスウェット姿でわたしを出迎えてくれた。髪の毛も適当にゴムで縛っていて、土曜日とはいえ完全にオフモードだ。


「お邪魔します」


 早く家に入るよう急かされて、キャリーケースのハンドルを縮めて持ち手を掴む。


 他人の家特有のにおいには線香らしきものが混じっていた。

 靴を脱ぎ揃えて上がると、用意されていた青色のスリッパを履く。玄関からすぐに急な階段があり、その一段目にキャリーケースを置かせてもらう。


 玄関脇の部屋には仏壇が置かれていて、線香のにおいはここからたゆたっていた。

 瀬名の母親は中学の頃に亡くなっている。父親は去年病気で亡くなったと説明を受けている。

 線香を上げて、両手を合わせた。


「瀬名さんと中学まで一緒だった、伊藤環といいます。これからお世話になります」

「そんな堅苦しくしなくていいよ。あたしとあんたの仲じゃん」  


 柱にもたれかかったまま両腕を組んだ瀬名が破顔する。

 時間も距離も離れていたというのに、まるでそんな過去すら飛び越えて今があるような錯覚に陥る。

 改めて、わたしは尋ねた。


「本当によかったの?」

「この家、ひとりだと広すぎて困ってたんだ。環なら同居人として最適だと思ってる。こっちこっち」


 いかにも昭和を感じさせる台所を横目に、廊下の突き当たり、風呂場を案内してもらう。風呂場と洗面台と洗濯機置き場。扉の奥はたぶんお手洗い。その横に、ある意味サンルームと呼べそうな中庭があって、年季の入った物干し竿が設置されていた。


「シャンプー、コンディショナー、生理用品は使い慣れてるものがあると思うから、自分で買って。洗剤と柔軟剤も。昔と違ってごみの分別が年々厳しくなってるから、冷蔵庫に貼ってあるお知らせを読んでおいて」


 瀬名が共同生活のルールを示す。居候の身として素直に頷いた。


「二階は空っぽだから好きに使っていいよ。落ち着いたら降りてきて」


 最初に説明を受けたとき、瀬名は一階のみで生活していると言われた。どうやら、それは本当らしい。

 キャリーケースを持って、バリアフリーなんて言葉とは縁遠い階段を上がる。

 階段の両脇の二部屋ともふすまを開けてみる。

 どちらも空っぽで、人間のにおいはしなかった。

 変な虫の死骸があったらどうしようと思っていたけれど、掃除をしてくれていたようで、埃っぽさすらなかった。

 ただただ、空っぽ。

 死さえも許さないような無の空間だ。


 窓の向きを考えて、右側の部屋を使うことにした。

 雨戸をしまい、窓を開ける。窓から見えるのは屋根ばかりで、お世辞にもいい眺めではない。だけど、どこかほっとする景色でもある。


 畳の中央に座る。いや、座るだけじゃ物足りなくて、大の字に寝転んだ。

 四角い覆いの室内灯から古びた太い糸が伸びている。寝たままでも手を伸ばせば握れるくらい長い糸だ。


 わたしはカンタダで、瀬名は釈迦。わたしは瀬名の垂らした蜘蛛の糸を掴んでここへ来た。

 再び地獄に落ちるかどうかは、これからの生活にかかっているのだ。


 

 夕暮れの空気は生ぬるく、湿度を含んで重たい。

 シャワーを浴びてTシャツとハーフパンツに着替えたものの、すぐに汗が滲んできた。まだ7月だというのに、本格的な夏が来たらどうすればいいのか。


 風呂場の脱衣スペース、つまり洗濯機の前に置かれた扇風機は首を振りながら涼しい風を送ってくれる。瀬名曰く、湿度の高い日に洗濯物を干すときは扇風機が欠かせないらしい。

 そして洗濯物よろしく、中庭のへりにわたしたちは並んで座っていた。


「はい」


 しっかりと冷えた350mlの缶ビールを受け取る。手に結露がなじみ、心地いい。

 瀬名も同じものを手にしていた。軽くぶつけて、乾杯の真似事をする。


「環のこれからに乾杯」

「ありがとう」


 タブを開けると、みるみるうちに白い泡が溢れてくるので慌てて口をつけた。

 20代の頃、ビールは苦くて飲めるものじゃないと思っていた。30歳になった今、この苦みは目の前の現実を飲み干すためのアイテムと化している。


「都会の営業はきつかったでしょう。あんた、昔からおひとよしだったもん」


 瀬名は右手で電子タバコを吸いながら左手でビールをあおった。


「うちでゆっくりすればいいよ。人生そういう時期も必要だろうし」


 瀬名が体を寄せてきた。汗ばむ肌がじんわりと密着するものの、不快ではなかった。

 電子タバコのにおいは独特だ。線香とは違う人工的なにおい。わたしの知らない、瀬名に染みついたにおいが、汗と混じり合って独特の色香を放っている。

 視線を落とすと瀬名のキャミソールが視界に入る。胸の谷間に汗の玉が見えた。

 慌てて視線を逸らす。唾と一緒に、わずかに生じた動揺を飲み込んだ。


「や、やりたいことが、あるんだ」

 

 ビールが半分くらいになったところで、ようやく言葉を発することができた。


「児童文学作家に、なりたくて……」


 缶の中に吸い込まれていく弱々しい夢と決意。情けない。アルコールでごまかそうとしても、わたしは臆病なままだ。

 仕事でもそうだった。瀬名の指摘通り、営業職はわたしには向いていなかった。ああいうのは、図々しくて他人の気持ちを慮れないような強者の仕事なのだ。


「すごいじゃん!」


 ところが瀬名は、消えかかっていたわたしの光を掬い上げた。


「……わたしからしてみれば瀬名の方がすごい人だったよ」

「それはどうかな。きっと、すごい風に見せかけるのが上手かっただけ」


 瀬名が笑う。昔と同じように、風のように軽やかに。


 あぁ、好きだ。


 かつて、そんな名前があるなんて知らなかった、いわゆるスクールカースト。

 瀬名は上位のキャラクターだった。雑誌の読者モデルもしていたらしく、とにかく目立っていた。

 そんな彼女に対して、スクールカースト下位のわたしは接点などあるはずなかったのに。


 わたしたちの距離は、誰よりも近かった。


 周りの目を盗むようにしてわたしの小説を読んでもらい、瀬名に主役を演じてもらう。

 ただそれだけの、幼い日々だった。

 あのとき、わたしの人生の主役は瀬名だった。世界の中心は、間違いなく瀬名だった。


 わたしは缶ビールを包み込む両手に力を入れた。

 今の言い方からすると、きっと瀬名は覚えていないのだろう。

 瀬名が、作家業を勧めてくれたことを。

 わたしの書いた物語を読んでくれて、瞳を輝かせてくれたことを。


「そういえば中学のときも、常に何か書いてたもんね。ずっと夢を追いかけられるってすごい」


 顔を上げると視線が合った。

 瀬名の瞳は、まるで子どものように純粋に輝いていた。

   

 覚えてくれていた。それだけで一瞬にして感情が中学生の頃に引き戻される。

 好きだ。かつてわたしを救ってくれたこの人が、好きで。だからわたしは、


「環。ねぇ、同居記念にキスしようか」


 目を見開いた次の瞬間。瀬名の唇が、わたしの唇に重なっていた。


「これがあたしたちのファーストキスだね」


 まさしく、青天の霹靂。

 流し込まれたタバコとビールのにおいに頭がくらくらする。

 笑う瀬名。八重歯が覗く。


 補足すると、わたしにとっては人生におけるファーストキスでもある。

 初めて恋愛感情を抱いた相手との、初めての。どうしよう。突然のことすぎて、理解が追いつかない。本音を言えばもっと雰囲気があった方がよかった。いや、そういう問題ではない。


 動揺するわたしを見て、瀬名は愉快そうに笑う。

 そうだった。彼女は少し意地悪で、わたしが困っているのを見ては楽しそうにしていた。


「目、閉じて」


 言われるままに瞳を閉じると、もう一度キスされた。しっかりと瀬名の感触を記憶に刻み込む。体が疼くまま劣情的に、瀬名を床へと押し倒した。三回目はわたしから口づける。四回、五回と唇を食む。苦くて、あまい。やわらかいのに、痺れる。

 どうすれば瀬名への想いが正しく伝わるのだろうか。

 質量も、体積も。

 わたしの心にはあなたしかいなかったと。

 教室の片隅で、手を差し伸べてくれた日から、ずっと……。


「わお、大胆」


 彼女にはまだ余裕がある。余裕がないのは、わたしの方だ。


「それでここからどうするの?」

「……分かんない」


 声が掠れる。我に返ると一気に羞恥心が襲い掛かってきた。

 何をどうすればいいかぼんやりとした知識はあるものの、それが女性相手となるとどうしていいか分からなかった。


「後で調べてみてよ」


 わたしからすり抜けて瀬名が起き上がる。

 蒸し暑い筈なのに、ひどく寒く感じた。


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