第5話 最終章
川崎は、亜由子と一緒に坂出を探すようになってから、自分が不思議な世界に引きずりこまれていくのではないかという妄想に取りつかれたこともあった。自分が主導権を握っていると思っているのに、途中から、いつのまにか亜由子に主導権を明け渡しているように思えるのだった。
――亜由子になら、主導権を明け渡してもいい――
確かに明け渡した方が楽であり、自分の考えていることを、分かってくれているように思うからだったが、一緒にいるだけで、坂出の気持ちを垣間見ることができるような気がしたからだ。
――坂出は、今、誰か女性と一緒にいる――
そう思うのは、亜由子を通して坂出を見ているからだと思うからで、ということは、亜由子にも坂出が今、誰か女性と一緒にいることを知っているのではないかと思えるのだった。
自分が、坂出と同じ感覚になっているということは、坂出も川崎と同じ感覚になっているとも言えなくもない。川崎が亜由子と一緒にいることを坂出に分かっているのだとすれば、坂出はどんな心境になっているだろうか。
時々感じる、亜由子の寂しそうに川崎を見つめる目。あれは、川崎を通して、坂出を見ているのではないかと感じる。あの目は他人に対しての目ではなく、お兄さんに対しての肉親としての視線でもないように思う。
「好きな人を見る目?」
最初、ドキドキしてしまった自分が恥かしく感じるのは、やはり川崎は、亜由子が自分を通して、兄である坂出を見ていたことに気付いたからだ。ただ、それが兄に対してというよりも、好きな人を見つめる目だということに気付くまでには、さらに少し時間が掛かった。
川崎が、坂出の立場になってまわりを見るということは、今に始まったことではない。元々川崎は、誰かの目線でまわりを見ることが多かった。それは、あまり自分に自信を持っていなかったからで、自分に自信が持てないと、人の立場に立ってモノを見てしまうくせがつくのではないだろうか。
ただ、無意識であればあるほど、何か見えない力に左右されているのではないかという思いに駆られることがある。坂出が、急にいなくなったことも、川崎には何となく分かる気がしてくるし、存在を消してしまって、どこに行きたいのかというのも、イメージとして湧いてくるのである。
坂出が出かけた温泉宿、秘境のようなこの場所に、以前、川崎が訪れたことがあるのを、坂出は知らない。川崎も、まさか坂出が、以前自分が訪れたことのある場所を訪れていようとは、夢にも思わないだろう。想像できるといってもあくまでもイメージで、本当にイメージが残っている場所にいるなど、考え付くだけの根拠が、どこにあるというのだろうか。
川崎は、坂出が訪れていることを知る由もない中で、この温泉宿に来た時のことを思い出した。
その時は、別に失恋したわけでも、何かショックなことがあったわけでもない。ただ、旅行に出かけたくて探した中に、たまたまこの場所のことを、誰かから聞いたのだった。
あれは、確か、どこかの飲み屋。先輩に連れて行かれたスナックだった。
そこのママさんが話をしてくれたのだが、どうやら、そこのママさんと、宿の女将さんは、知り合いのようだった。
「初めてのお客さんでも気兼ねなく泊まれる宿ですよ」
というのが、気に入った。しかも、ママさんの紹介だというと、いろいろ気を遣ってくれそうだった。軽い気持ちで出かけたが、心の底で、気を遣ってもらえることが、癒しに繋がることを分かっていたのだ。
必要以上に気を遣われると、却って疲れることを熟知している女将さんだったことが、川崎には嬉しかった。
合計で三泊したが、宿にいる間はあっという間だった。何をしたというわけではなく、その時に、初めて文章を書いてみようという気になってきて、小説を書いたのだった。
大したページ数ではなかったが、宿を舞台にした内容で、そのほとんどが、妄想に近かった。
スナックのママと、宿の女将さんの二人の女性を主人公に、自分が脇役となるストーリー、自分を主人公にしないところが、川崎の性格的なものでもあるのだが、小説の中に坂出をはじめとする同窓会メンバーは一人として出てこなかった。
自分の世界を創造するのに、同窓会メンバーはいらなかった。それなのに、なぜ自分は坂出を捜し求めようというのだろう?
もし、坂出を探してほしいという依頼を持ってきたのが亜由子でなかったら、きっと坂出を探そうとは思わなかったに違いない。だが、坂出を探すことは自分の宿命のようなものであり、探すことを促してくれる相手としての亜由子が存在するのであれば、川崎は、坂出を探すことが運命づけられたことなのだと信じないわけにはいかないだろう。
宿で小説を書いていると、なぜか、悲観的な話になってしまっていた。脇役でありながら、気が付けば自分の目線で見ていて、まるで主人公になったかのような気分で、脇役の自分を描くには、どうしても、悲観的な話になってしまう。
話が悲観的になってくるにしたがって、話が妖艶さを帯びてくる。脇役である自分に対し、二人の女性の葛藤が渦巻いてくるのだ。
それぞれに魅力的な雰囲気を醸し出している二人の女性に、脇役である自分は、絶えずストイックだった。
どちらかというと、誘惑されるシチュエーションだった。誘惑してくる妖艶さの中に、恵の雰囲気を感じさせるものがあった。会ったことがないはずの恵である。包容力は、大人の女性の雰囲気、その中に、男性に尽くすこと、そして慕う気持ちの強さを感じさせる思いは、恵の雰囲気だったのだ。
会ったことのない恵のイメージは、亜由子によって作られたものだった。坂出の妹として紹介された時、明らかに坂出は、自分の妹を自慢したい気分だったに違いない。
ただ、途中から、坂出が亜由子を見る目が少しずつ違ってきたことに気が付いた。
それは、坂出の父親が亡くなってからのことであり、亜由子も坂出もそれまでの雰囲気とは違い、まわりに対して、よそよそしくなっていたのだ。
さらに、坂出と亜由子の間も、さらによそよそしくなっていた。途中から、よそよそしさは戻ったように見えたが、ずっと坂出と一緒にいる川崎には、本当に元に戻ったとは言い難いものを感じたのだ。
「まるで、お前たちは、本当の兄妹じゃないような気がするんだ」
坂出が相手でなければ、こんな失礼なことは言えない。もし、言葉にしようものなら、一触即発の仲になりかねないほどの話で、川崎が敢えて触れたのは、それでも、坂出が妹のことで、一人悩みを抱えているように見えたからである。
「そんなことはないさ」
明らかに動揺が表情に出ていた。一瞬、顔が真っ赤に紅潮したかと思うと、すぐに真っ青になった。
「痛いところを突かれた」
というのが本音であって、気付かれたのが、川崎であったことは、不幸中の幸いとでも言いたげだった。
亜由子の存在が、川崎と坂出の間で、微妙な関係を作り上げる要因になろうと思ってもみなかったのは、坂出の方だった。亜由子という存在が、時として自分を表に出すことの邪魔になるのでは、と思うからであって、そんな坂出を見ている川崎は、亜由子を中心とした自分と坂出の関係を微妙な話として作り上げようとしていたのだ。
勝手な妄想なのかも知れない。川崎の中には、同窓会メンバーを相手にしている自分と、坂出兄妹を相手にしている自分とが存在し、時々、表に出る自分が入れ替わっている感覚に陥る時がある。
「坂出には、そんなことはないかい?」
正直に坂出に、もう一人の自分が時々入れ替わるように表に出ているのではないかという話をしたことがあったが、その時の坂出は、少し驚いた様子だったが、
「お前もか、俺もなんだよ」
と、話に飛びついてきたのだが、それは、最初に驚いた感覚とは、少し違っているように思えた。どうして、そう感じたかというと、坂出の様子が、大げさに見えたからであった。
逆に驚いた感覚を、話に飛びついたことでごまかそうとしているような感覚に陥ったようで、坂出がいつも冷静であることから、余計に、普段と違った雰囲気が醸し出されていると、敏感にその違いが感じられるのであった。
坂出は続ける。
「俺の場合は、仕事のことが多いんだが、仕事をしている時の自分と、プライベートな自分では、違う世界にいる気がするんだ。プライベートな感覚の時には、仕事をしていた時間はまったくの空白だったわけではなく、時間を飛び越えた感覚があることから、違う時間が存在することに気付いたんだ。それで、自分ももう一人いると考えると、辻褄が合ってくるようで、時間の感覚というのは、人それぞれにも違っているけど、同じ人間の中でも違う感覚を持っていれば、それが、もう一人の自分の存在を考えさせられることになるのかも知れないな」
と、話をしていた。
坂出は、SFが好きで、結構SF小説に嵌っていたりしたが、実際に科学的に証明されたことを本で読んだりはしていないようだ。あくまでも、空想科学の世界に自分の身を置きたいと考えているようだった。
川崎は、逆に科学的根拠のないものに、興味を持って見ることはない。確かに妄想することはあるが、妄想も科学的根拠のあるものに対してのみ働くものであって、すべてが夢に通じるものだと思っていた。
夢は潜在意識が見せるものだという意識の中で成立するものだと思っていることで、夢で見ることのできないものは、基本的に妄想したとしても、信じることはない。坂出も、夢が潜在意識が見せるものだという意識は同じだったが、妄想に果てはないという考えを持っていることから、川崎の中の妄想とは、かなり違ったものがあるのだ。
坂出が恵を見ていて、
――川崎なら、この人を好きになるだろうな――
と、感じた。そして、今度は、自分が川崎の立場に立つと、恵をいとおしく感じられるから不思議だった。恵の中に見え隠れしている女性が、妹の亜由子であることに、次第に気付き始めていた。
――だから、俺はこの人を好きになることはないだろうと思ってしまうんだ――
恵は、嫌いなタイプではない。むしろ、坂出にとっては好きなタイプだ。それは、恵の中に懐かしさを感じるからであって、その懐かしさの根源は、亜由子にあるのだ。
恵と付き合っていた男性が、譲であることを知ったのは、偶然だった。
恵が、早朝の露天風呂から部屋に帰ろうとしていたところに、携帯電話が鳴った。恵は携帯電話に応答すると、すぐに相手の名前を呟いた。
「譲さん」
本人としては無意識だっただろう。誰もいないはずの早朝の廊下、そこに偶然というべきか、坂出がいた。
譲と聞いて、すぐに相手が分かった気がした。気が多く、誰でも好きになりそうなタイプの譲である。しかも、好きになったのは自分であっても、相手が自分を好きになるように仕向けるのが得意な譲である。
仕向けるというよりも、相手が好きになる方が先なのだ。確かに仕向けるようにしていることで、譲本人は、
「俺のやり方は間違っていない」
と、本当の魅力に気付いている人を相手に、小細工をしてしまうという、一見、無駄な努力を他の人に知られてしまったら、それこそ、相手にされないかも知れない。
女性の方から譲を好きになることで、譲の「仕向ける」行為は、表には出てこない。おかげで、まわりからは、それほど嫌われるタイプではないのだが、たまに、余計なことを口走り、口走った相手との関係がギクシャクしてしまうことで、譲は友達を失うことが多かった。
本人はどうして、友達を失っているかということを自覚していない。自分に自信があるわけでもなく、横柄な態度を取っているわけではない。ただ、自分が生き残るにはどうすればいいかということを考えすぎて、せっかくの魅力を、自らで壊してしまう行動を取っているのだ。
人畜無害に見えて、友達が少なく、どちらかというと影が薄いタイプで、ただ、どこのグループにでもいるようなタイプなのに、なぜか悪いところばかりが目立ってしまう。
そのくせ、女性にモテるというのだから、よく分からない。
服装に関しても無頓着、整理整頓とは無縁に見えるのに、どうしてなのだろう?
「譲くんは、母性本能をくすぐるのかも知れないわね」
と、言っていたのは美穂だった。
それに賛同したのは、恵子であり、直子は、黙って頷いているだけだった。
美穂は別にして、直子は学生時代に付き合っていた相手であり、恵子は今の奥さんである。
恵子とは離婚を考えているようだが、何が譲を離婚に導いているのか分からない。二人の間に諍いがあったようには思えないし、倦怠期というには、少し早い気がする。
譲を一番よく知っている女性が誰かと聞かれれば、恵ではないだろうか? 恵は譲と出会う前から、彼のような男性と出会うという予感があったという。今から思えば、それは直子と同じ目線で譲を見ていたからなのかも知れない。それだけ、直子と恵はよく似ているのだ。
譲が、直子と別れて、恵子と結婚したのは、意外と早かった。まるで直子からの呪縛を逃れたいがために、恵子と付き合い、そのまま勢いで結婚したのではないかと思うほどだった。
結婚が、性急だったのは、まわりもビックリしていた。しかも、譲と恵子の結婚式には、他の同窓会メンバーは誰も呼ばれていない。結婚したということも、後日手紙で報告があった程度だった、
結婚の話は、直子だけが知っていた。もちろん、譲が話をしたわけではないが、話をしたのは、恵子だったのだ。
恵子は譲が考えているよりも、ずっと嫉妬深い女だった。しかも、プライドの高さも尋常ではない。気位が高いというのか、美人でスタイルもよければ、それなりに気持ちも毅然としていて、誰にも負けたくないという強い気持ちを持っているようだった。
恵子のことを好きだった男も結構いた。恵子自身、譲と結婚する前には、かなりの男性と付き合っていて、まわりから見れば、遊んでいたように見えていただろう。
「付き合う相手と、結婚相手は違うのよ」
常々、恵子はまわりの人に、そう漏らしていたようだ。
譲は、恵子にとっての、
「結婚相手一番候補」
だったのだろう。
だが、すぐに結婚したのは、驚きだった。結婚を性急にしたかったのは、譲の方だった。今までの恵子であれば、もっと慎重であってしかるべきなのに、何が恵子を結婚に駆り立てたというのだろう。
「年齢だろうか?」
と言っても、まだまだ譲も恵子も若かった。同窓会メンバーの誰も、まだ結婚していないではないか。
結婚は、得るものもたくさんあるが、捨てるものがたくさんある。それは、若ければ若いほど、捨てるものも多いだろう。遊ぶことは、もうできないし、それを覚悟の上での結婚であろうか。
譲は問題ないとしても、恵子には辛いものがあるはずだ。
男性経験が多ければ多いほど、一人に絞った時の覚悟、それは後戻りできないことを自分に言い聞かせることに繋がるのだ。
譲にとって、恵子はそれまでに付き合った女性とは正反対の性格だった。どうして、恵子に惹かれたのか分からないが、新鮮さを求めたことには変わりない。ただ、ここまで正反対だと、新鮮さだけではない。どこか、圧迫感もあるが、今までにない雰囲気が、勢いを与えたのかも知れない。
結婚は、確かに勢いだ。それは人から以前に聞かされていたことだったが、それは、恵子も同じだったのかも知れない。
譲よりも、恵子の方が、結婚をしたかったようだ。それはまわりから見れば、意外だっただろう。同窓会メンバーを結婚式に呼びたくないと言ったのは、恵子の方だった。
「恥かしいから」
というのが、理由だったが、すぐには釈然としないと思った。
恵子のような女が恥かしいだけが理由というのは、おかしい気がする。それ以外にもう少し打算的なことがありそうだ。
結婚してから恵子は、それまでとは違って、おしとやかになった。大人の女というよりも、高貴な女性のようで、奥さんという言葉が似合う女性になっていた。
譲は、すっかり安心していた。恵子と結婚したことを嬉しく思い、
「これが結婚生活なんだ」
と、新婚生活の甘い時間に酔いしれていたのだ。
そんな譲が、どうして恵と知り合ったのか、考えてみれば不思議だ。
結婚してから、数か月で、恵に出会った。
恵とは、お店で出会ったわけではない、お店で出会っていれば、ここまで仲良くなったかどうか分からない。ただ、引き合っているのは間違いではないので、気持ちが通じ合えたことで、遅かれ早かれ同じ結果になっていただろう。
恵の方が先に、譲の中にある寂しさを感じ取った。新婚で寂しさなどあるはずもないのに、そこにあるものは、新婚生活と、恵子に対して抱いているイメージとのギャップであり、そこに自分の中で殻を作ってしまった恵子に入り込むことのできない自分に苛立ちを覚え、そのせいで、譲自身も、自分の殻を作ってしまったのかも知れない。
恵の寂しさは、譲には分かっていた。だが、すぐに気が付いたわけではなく、恵との間の殻を破るまでは、自分が恵の寂しさに気付いているという自覚がなかったのである。寂しさというのは人肌恋しさという意味であり、気持ちだけで癒されるものではなかった。結婚している譲に、恵に対して抱いた、癒してあげたいという気持ちは、不倫を促すものであるという事実を、認めさせるというのは、難しいことなのだろうか。
恵子のプライドの高さに対して、恵の謙虚さは対照的で、新鮮さを通り越し、
――自分にとっての癒しとは何か――
ということを思わせた。
癒しを求めることが、不倫に繋がる。だが、今のままでは自分の自由がなくなってしまい、精神的に追い詰められると、何をするか分からない。そんな状態まで、想像すると、それ以上先を考えることができなくなってしまった。
想像するのが怖い。一度楽な方に溺れてしまうと、抜け出すことができなくなるだろう。だが、それも恵子との結婚生活を守ろうという意識があるからで、捨ててしまえば、自由になれる。だが、自由になってしまえば、その時の自分に癒しが必要なのかを考えると、結婚に踏み切るのも怖いのだ。
離婚してしてからの、恵と二人の生活を考えると、むず痒さを含んだ何とも言えない心地よさに包まれるが、本当に離婚してしまうと、同じ感覚を得られるかが、疑問であった。今のようなやるせなさの中で感じる妄想が、呪縛が解けてから感じるのと同じであるはずはないというのが、譲の考え方だった。
譲は服装に無頓着だったり、あまり整理整頓を得意としていないこともあって、優柔不断なところがある。自分で分かっているだけに、最初は恵に溺れてしまう自分が怖くて、なかなか踏み込めなかったが、踏み込んでしまうと、想像通り、抜けなくなってしまった。心地よさに負けてしまい、まわりが見えなくなってしまうのだ。
恵子との離婚もやむなしと思いながら、今の快感にのめりこむ。次第に罪の意識が薄れていくと、日々をただ過ごすだけの毎日でもよくなってくる。
確かの日々の生活にやりがいを感じながら生活をしていたわけではないが、のめりこみ始めた最初の頃には、若干ながらの罪悪感があった。それでも、如何ともしがたい罪悪感が、日々過ごしていくうちに薄れてくると、毎日を何のために生きているのか分からなくなる。
――そんな時に、一人になりたくはない――
その思いが、恵から離れられない理由となり、理由さえあれば、自分を納得させられる。悪循環と言っていいだろうか。
自覚はあるのだが、どうしようもないというのが、自分から逃げていることになるのだという感覚すらない。
「今日が無事に過ぎればそれでいいんだ」
と、考えるようになっていたが、その考えは自分だけではなく、まわりも皆同じだと思うようになった。
そのせいであろうか。一日一日はなかなか時間が経たない気がしていたのに、一週間、一か月と単位が大きくなると、あっという間に時間が過ぎているように思う。
恵は、最初は、譲が堕落していくのに気付かなかった。
「私のところに来てくれたんだ」
という気持ちが強く、何よりも、自分の寂しさを埋めてくれることが嬉しかった。お互いに寂しさを埋め合えることができれば、それが一番だと思っていた。
確かに、傷の舐めあいのようで、
「恋愛ごっこ」
だと言われても仕方がない。
だが、恵は自分が底辺で漂っていることを分かっていても、結局はあがいたとしても上に這い上がれるわけではないことは分かっている。恋愛ごっこであっても、誰か人のために役に立てて、自分も癒されるなら、それに越したことはないと思っていた。
恵も毎日が違う波乱に満ちた生活を望んだりはしない。自分の立場で波乱が起これば、それは直ちに、死活問題になりかねないからだ。
「昨日と同じなら、少なくとも、今日は無事に過ごせるのよ」
と、自分に言い聞かせていた。
前向きの考えではないのは分かっている。だが、それ以上何をすればいいのか分からない。望むことが正しいのかどうか、それを思うと、必要以上に、欲を持たないようにしなければ、それでいいのだ。
「今、何が一番辛い?」
と聞かれれば、
「孤独になること」
と、答えるだろう。孤独は寂しさである。目の前で人が寂しいというのを見るのが辛いと思っている恵にとってみれば、譲は放っておけない人であり、自分と同じ辛さを知っている人ということで、恋愛感情を抱くようになった。それが二人して底辺で蠢いているだけだということを分かっていても、抜けることができない。
もし、直子と別れることなく、一緒にいればどうだっただろう?
確かに直子は譲と似たところがあって、あまり表に自分を出す方ではない。だが、誰かそばにいれば、前に進めるという前向きな気持ちは持っていた。譲と恵子では、元々の立場が違いすぎた。
恵子からすれば、譲は、操縦しやすい相手だった。見下ろすことのできる相手だということで、自分の自由になると思っていたところ、どうやら、ミイラ取りがミイラになってしまったようなのだ。
「相手の毒気にやられた」
油断して侮った態度で臨むと、思わぬ落とし穴に遭遇してしまう。それが恵子と譲のボタンの掛け違いになってしまったのだろう。
そんな時、直子は黙って二人を見ているしかなかった。普段は気丈な直子だったが、さすがに好きだった譲の悩み苦しみ、そして堕落していく姿、さらに、恵子の増長し、次第に自分のわがままと相手を思いやる気持ちを忘れてしまった状況を見ていると、もう、どうでもよくなってくる気がしてきた。
――私のこれまでって何だったのかしら?
その頃から、同窓会メンバーとは一線を画すようになり、連絡があっても、適当に答えては、行動を共にしようとは思わなかった。
もちろん、一番目立たなかった直子を誘うなどという奇特な人は、譲くらいのものだったのだろうが、それも今ではありえない話だと思っていた。
しかし、二人が結婚してすぐにぎこちなくなってくると、譲から、たまに連絡が入っていることがあった。携帯のメールでの連絡で、さすがに電話はしづらかったのだろう。それでも直子にすれば、
「何よ、今さら。しかもメールでなんて、本当にあの人は意気地なしなんだわ。もっとも、電話してきても出る気なんかないけどね」
と、彼からのメールを一蹴した。
また、さらに信じられないのは、その少し後に、今度は恵子から連絡があったことだった。
今度は堂々と訪ねてきたので、無下に断ることもできなかったが、恵子が訪ねてきたのは、やはり譲のことであった。
最初は、
「友達のよしみで教えてほしいの」
と、譲のことを一番知っているはずの直子に聞いてきたのだ。
「あなたが一番あの人のことを知っていると思ってね」
直子が聞いていて、一番腹が立ったのが、恵子のセリフの中で、譲のことを、
「あの人」
という表現しかしないことだった。
夫婦なのだから、それでもいいのだろうが、それも仲がいい夫婦であれば、それものろけの一つとして耳が痛いながらも許せるが、仲が悪い夫婦で、しかも彼との仲を修復したいと思っているのなら、決して、
「あの人」
などという言い方はしないだろう。
――そういうことなのか――
直子には何となく恵子が自分を訪れたわけが分かった気がした。
直子に助言を求めたいというのは建前で、本当は、
「私がこんなにあの人のことで苦しんでいるのも、あなたのお下がりをあてつけられたからよ」
とでも言いたげなのであろう。
そう思うと、腹が立って仕方がない。
恵子のプライドの高さは知っていたが、ここまでとは知らなかった。直子もそんな恵子を見ていて、自分の本当の性格を思い出したような気がした。
――私は、本当はプライドの高い女なんだわ。あんな譲なんかと付き合って満足しているような女でもなければ、謂れもなく、恵子に自慢されて、黙っているほどお人よしでもないわ――
と思った。
ある程度話を聞いたところで、
「あなたが、譲のことをどう思っているか知らないけど、私はあんな人、どうでもいいのよ。あなたも、あんな男と早く別れて、一人になればいいんじゃない? あなただったら、男なんて履いて捨てるほどいるでしょう?」
譲のことを下げすにいながら、恵子のことも、思い切り皮肉った。その時の恵子の顔、何とも言えない表情で、
「ハトが豆鉄砲を食らった」
という表現がピッタリだった。
同窓会の話が持ち上がったのは、それからすぐのことで、最初に美穂から連絡があった時、ハッキリと断ればよかったのに、断ることができずに曖昧に答えたことも、直子には後悔が残った。
結局行けずに、後から川崎から連絡がある羽目になったのだが、この時も何も言えなかった。
もっとも、何かを話したところで一緒だったのだが、その時、やはり、同窓会メンバーとは一線を画すことが正しいのだと思ったのだ。
直子は、ちょうどその時、仕事にも行き詰っていて、結局会社を辞めることになり、旅に出ることにした。当てのない旅で、どこに行くとも決めていない。ただ、仕事を辞めることになったタイミングが、ちょうど坂出が会社を追われたタイミングと、ほぼ同じだったというのも、偶然の皮肉だった。
直子は、一人で旅に出ることは何度かあった。一人旅を最初にしたのは、高校を卒業してすぐだった。元々一緒に旅行する相手がいるわけでもなかったが、なぜか、付き合っていたにも関わらず、譲は直子を一緒に旅行に誘うことがなかった。
譲自身、あまり旅行が好きではないらしい。一度直子が、
「どこか気分転換にでも、旅行に出かけない?」
と聞いたことがあったが、
「いいよ」
と断られた。
「どうして?」
と聞くと、一言、
「疲れるから」
という答えが返ってきただけだった。
直子は、完全に意気消沈した。
――そんな答え、期待したわけじゃないのに――
ものぐさなのは、分かっていたが、まさかここまでひどいとは思ってもいなかった。
――この人は私にとって、一体何なの?
直子はその頃から、譲のことを疑問に思っていたのだ。
譲も少しずつ、直子が自分に疑問を抱いていくのに気付いたようだ。
譲という男、ルーズでいい加減なくせに、プライドは高い。自分に疑問を抱き始めた直子の態度を敏感に感じ取ると、今度は、自分から少しずつ距離を取るようになっていった。そのことは、直子にも分かっていて、お互いにぎこちなくなっているのを分かりながら、付き合っていたのだ。
あとは、どちらが身を引くかだったが、プライドの高い譲は、なかなか身を引こうとはしない。直子も、自分のプライドに気が付き、さらに、譲に対して、少しずつ恨みも抱くようになっていった。
不思議なことに、自然消滅というのは、そんな時に訪れるようだ。
ぎこちない中に、何度か自然消滅のタイミングがあり、うまく落ち込めば円満に自然消滅できるのだが、タイミングを間違えると、どちらかが、傷つくことになる。
それも、直子には分かっていた。ただ、そのことを、譲は知る由もないだろう。
却ってその方が楽だった。うまくタイミングを計るのは、相手を気にしなくていいからだ。
おかげで、うまく自然消滅により別れることができたが、まわりには、譲が自分を裏切ったかのように見せるようにするのが一番だと思い、それには、同窓会メンバーとの一線を画すというやり方も、やむなしだった。
一石二鳥とはこのことで、うまく別れることができた上に、同窓会メンバーと一線を画すことで、自分も一皮むける気がしたのだ。
殻を破らないと、自分の性格に気付いた今、自分が前に進むことはできないと思ったからだ。
何日か旅を続けていく中で、どこかで見た二人を見かけた。思わず隠れてしまったが、何も隠れることはないと思った。確かに二人組のうちの一人は同窓会メンバーだった。だが、もう一人は……。
直子が見かけたのは、兄を捜し求めている亜由子と、同伴している川崎だった。
――どうして、あの二人が一緒にいるの?
直子は不思議でならなかった。
直子は、亜由子のことは知っていた。亜由子が坂出の妹で、ただ、それだけではないことも知っていたのだ。直子の中で、高校の時に見た光景がよみがえってきた。
あれは、直子が予備校からの帰りのことだった。
近道でもある、近くの神社の境内を通りかかった時、
「お願い、やめて、お兄ちゃん」
という声が聞こえた。それは、坂出が妹の亜由子を蹂躙している姿だった。露骨な乱暴ではなかったが、抱きしめてキスをしているその時の直子の状態から、とてもその場に飛び出していくだけの勇気もなく、何よりも、その場に立ち尽くしたのだ。
直子はその時に助けに飛び出すことのできなかった自分に嫌悪感を感じ、しばらく、憔悴していた。その直子を見かねて声を掛けてきたのが、当時の譲だったというのも、実に皮肉なころではないだろうか。
譲に声を掛けられた直子は、そのまま譲と付き合うようになったのだが、その時の譲には、懐の深さを感じたのだ。
どことなく余裕のある様子は、笑顔を自然に見せ、満面の笑みは、何ら疑いを抱かせるものなどなかったのだ。
ものぐさでルーズなのは分かっていたが。それもその時に限り、
――私がしっかりしていればいいんだわ――
と、何も考えずに毎日を過ごしていた自分には、いい刺激になると思ったのだ。
それでも、直子は、最初から譲に心を開いていなかったのかも知れない。
譲は全幅の信頼を直子に置いていたからだ。余裕を感じたのは最初だけ、途中から、まったく余裕なくすべてを委ねてくる譲を鬱陶しくも感じるようになっていた。
譲に鬱陶しさを感じるようになってから、他の同窓会メンバーが気になってきた。特に、川崎、美穂の二人には、何も屈託を感じさせないところがよかった。本当であれば、坂出にも何ら屈託はなかったのだが、リーダー格である坂出の見てはいけないところを見てしまったという罪悪感が、直子を責めたてるのだった。
だが、誰に相談できるわけもなく、黙っていたが、ある日、美穂と出会ったことがあった。
「直子、直子じゃないの?」
喜々とした笑顔で近づいてきた美穂を見ると、思わず、直子も笑顔になり、微笑み返す。その表情を自分で鏡で確認してみたくて、思わずすぐにトイレに入ったくらいだった。
直子は、自分の顔を時々確認してみたくなるくせがあった。それは、今まで自信を持つことができなかった自分に、少しでも自信を持てるようにしたいからで、直子は、美穂と一緒にいる時も、そう感じたのだった。
直子は、その時、鏡を見て、満面の笑みの浮かべている自分に安心した。やはり、美穂だけは、他の人たちと違っている気がした。
女同士というのは、時として、やりにくいところもあるが、美穂に関してはそれを感じない。
美穂との会話は楽しいものだった。何もわだかまりもなく、普通に会話ができ、それでいて、他のメンバーのこともさりげなく話してくれる。そこには何ら人の悪口は存在せず、懐かしい話に終始するだけだった。
直子は、その時、三時間ほど一緒に話をしたが、時間があっという間に過ぎてしまったことに驚いていた。
譲と一緒にいる時には、感じることのできない時間の感覚、それを新鮮と言わずに、何というかであった。
直子にとって、譲との時間よりも美穂との時間が大切になり、美穂と一緒にいることを知らない譲は、直子が自分に内緒にしていることがあるのを、完全に誤解しているようだった。
もちろん、言い訳をする気もないし、美穂と会っていることを話す気にもならなかったのだ。
――勘違いしているなら、それでもいいわ――
勘違いをいいことに、それが口実になって、譲と別れることもできると思ったのだ。
ただ、直子には後ろめたさがあった。
それは譲に対してではなく、美穂に対してだった。
「譲と別れる口実に、美穂とのことを理由としてしまうのは、後ろめたい感覚に違いないわ」
いくら、言葉にしないとは言え、仲がいい友達を引き合いに出すのは、卑怯な気がするからだった。
だが、それでも、美穂と、譲とを別次元の人間だと思うことで、何とか、直子は自分の中に正当性を持つようにしていた。
確かに正当性を持っていることで、直子は自分の中の美穂を守ろうとした。そうでなければ、自分自身がおかしくなりそうで、嫌悪が増してくると思ったからだ。
譲と別れて、旅に出る時も、本当は美穂に対してだけ気になっていた。
旅に出ることを告げると、
「それもいいかも知れないわね。あなたのことは誰にも黙っていてあげる」
と言ってくれた。
川崎も、もちろん、そのことは知らなかった。直子は旅に出て数日で、川崎と亜由子がいるところを目撃した。
まさか、坂出がいなくなり、それを追いかけているなど、思いもよらなかったが、どうも普通ではないことは分かっていた。
――どうしてあの二人が――
直子は勘が鋭いところがあるので、川崎が亜由子のことを好きで、亜由子も川崎に委ねているのを見ればよく分かった。
だが、二人はそれを相手に隠そうとして、なかなか正直に態度に示さない。それは傍から見ていると、ぎこちなく見えるが、川崎を知っている直子であれば、二人の心の動きは手に取るように分かった。
直子は、確かに兄から蹂躙されている亜由子を知っている。ただ、その時に見かけただけで、その後どうなったのかも、知らなければ、よく兄妹の仲が壊れなかったことに疑問すらあった。
そう、亜由子の欠落している記憶はこの時のことだった。
そのことは、実は誰も知らない。兄の坂出も、実はその時、同じように、記憶が欠落しているのだ。これは自らが忘れようという思いを胸に秘めていたことで、忘れてしまったのかも知れない。
川崎が、どうして亜由子と兄を探していることが分かったのか、直子にも分からなかったが、二人を見ていると、何となく分かってきた。
――私も女だからかな?
それだけでは説明がつかないが、
――ひょっとして、川崎君を、私は以前から気にしていたのかも知れない――
嫌いでもなく、好きでもない。そばにいても、あまり意識のない空気のような存在だと思っていたが、意外とそんな相手の方が一緒にいることを望む気持ちになっているのかも知れない。そう思うと、直子は、自分の中にある気持ちを一度整理してみようと考えるのだった。
ただ、川崎に対しての気持ちが、美穂に対しての気持ちに似ているのを感じた。もし、川崎が笑顔を向けてくれたら、直子も同じように笑顔で返すに違いない。それが、川崎の考え方だった。
川崎は直子のことを、好まざる相手だと思っていないことは確かである。
「そういえば、川崎は、グループの中で、恋愛関係が成立していない人だわ」
それは、美穂と二人きりではなかったか。
坂出は別にしてだが、譲ばかりが目立っているが、川崎の存在も、気になる人の一人であったことに違いない。
直子は、旅に出てから川崎を先に見つけた。その横にいるのが、亜由子であることは、すぐには分からずに、
「川崎君が女の人と」
と見てはいけないものを見た気がしたのだ。
そう思った時、相手の女性を思い出した。
――見てはいけないもの――
そう、それが坂出との諍いだったのだ。急いでその場から離れた直子は、その時後悔した。だから、今回、川崎と亜由子を見つけた時、気付かれないようにしながらではあるが、ずっと追いかけてみようと思ったのだ。
自分が旅に出かけた理由そっちのけではあったが、それでも、直子は諦めることをしなかった。
元々、旅行に意味はなかった。気分転換が一番の目的、その次に、本当の自分を見つけることだった。
本当は逆なのかも知れないと思ったが、気分転換さえできれば、本当の自分を見つけることができるかも知れないという思いもあったのだ。直子にとってのこの旅は、気楽なものから始めたかったのも事実である。
川崎を追いかけていると、その後ろを何とか追いつくようにして歩いている姿が殊勝に見える亜由子がいる。
――いかにも、恋人同士という感じにも見えるわね――
怪しい感じを受けることはなかった。それだけ、二人はお似合いなのかも知れない。
――それって私には皮肉だわ――
と、亜由子を見て、彼女の表情のあどけなさを疑って見ている自分に、少しだけ嫌悪感を感じているのが、気になるのだった。
――皮肉というのは、自分だけではなく、相手があることなんだわ――
とも、感じるようになっていた。
坂出は、旅に出てから、自分がなぜ旅に出ることになったのか、半分忘れてしまっていた。会社に対しては、さすがに裏切りを受けたことは許せなかったし、憤りも感じている。だが、まだ自分は若いのだし、やり直しはいくらでも利く。逆に、ズルズルろくでもない会社にしがみついていて、年を取ってから、会社に利用されて捨てられるよりは、若い今の方がマシだったと、考えることもできるだろう。
旅に出ると、欠落している記憶の方が気になり始めた。自分の記憶がどうして欠落しているのか、そして、最近知った妹の亜由子の記憶までが欠落していうことを、どう解釈すればいいのだろう?
坂出は、そこに川崎が関わっているような気がして仕方がなかった。
そんな旅で出会った一人の女性、彼には男性を癒すことができる雰囲気が感じられる。坂出自身がそばにいて、癒される喜びを感じたからだ。今までは、絶えず自分がリーダーで癒されることを感じたことは、ほとんどなかった。ただ、妹の亜由子は、見ているだけで癒しを感じる。妹なのに不思議だった。
また、自分と同じような気持ちになっているのは、川崎も同じではないかと思った。川崎も、幹事をすることが多いので、立場としては自分と同じ、可哀そうなやつだと思う。だが、そう思った瞬間に、とても嫌な気分になった。川崎に自分と同じ心境を感じることを、坂出は心の中で拒んでいるのだ。
坂出は、川崎とは共通点がかなりあると思っている。それだけに、グループの中でも心許せる相手として敬意を表していたのが、川崎も、坂出に対して同じように思ってくれていると感じていたが、少し違うようだ。
確かに態度だけを見ていると、その通りなのだが、途中から、少しよそよそしくなってきて、その頃から、同じような接し方でも、どこかが違っている。それは坂出が、というよりも、川崎の方から、遠ざかっているのか、それとも余計な気を遣っているのか、どこか、ぎこちなさを感じるのだった。
亜由子との関係の間に川崎が存在していることは、以前から胸騒ぎのようなものがあったが、
――川崎に限って――
という思いから、自らで打ち消していたところがあった。
それが、自分の中にわだかまりという壁を作ってしまい、欠落した記憶を生み出してしまったのかも知れないと思うと、自分ばかりが後ろめたい気持ちになる必要はないように思えた。
そこでの気分転換に、旅に出たのが、旅の一番の目的だったはずだ。その答えがすぐに見つかるとは思えないが、彷徨うことも今の自分には必要に思えたのだった。
恵とは愛情という感情で結ばれる気がしなかった。確かに癒しを感じさせる女性だが、彼女を愛することは、自分の心の中にある傷をさらに広げてしまう気がしたからだ。恵の方でも、きっと坂出を恋愛感情では見ていないだろう。どこかに警戒心を抱かせ、初対面であるがゆえの警戒心ではなく、むしろ、どこかで繋がりがあることを分かっていて、同じものを持っていることを相手に感じているかのようである。お互いに訳ありで出てきた旅行、傷を舐めあってうまく行くほど、それぞれに抱えた悩みは、単純なものではないはずだ。
坂出が、次第に自分のことに気付き始めている頃、川崎は、亜由子と二人、坂出が生まれ育った街に出かけていた。
そこは、亜由子にとって懐かしいところなのだろうと思ったが、どうやら、亜由子には、ほとんど記憶がないらしい。
この街にやってきて、亜由子が不思議な気分になっている時、川崎も、ここ数日で起こったことを思い起こして見ると、気になることを思い出していた。
「そういえば、スナックのママは、亜由子に対してと、俺に対して見る目が対照的な気がしたな」
亜由子に対しては、憐みの目を向け、逆に川崎に対しては、何か敵対したイメージで見つめていたのだ。
一緒にいる時は分からなかった。亜由子に対しての視線だけは感じていたが、自分に対して普通に話をしてくれていることと、亜由子に対して、自分が抱いている憐みのイメージとは違う目で見ていたことで、分からなかったのだろう。
――なぜ、スナックのママは俺にそんなに敵対するんだ? まさか――
心当たりがないわけではないが、まさか坂出が話したりしたのだろうか?
――いや、坂出は知らないはずだ。そして何よりも、坂出が知らないことをいいことに、俺が黙っていれば、それで済むことなんだ――
川崎は、罪の意識を表に出さないことを心掛けていた。
――罪の意識なんて、相手が気付かなければ、意識する必要なんてないんだ。だけど、気付かれたらどうしようという思いだけは、ずっと持っている。欠落した記憶をありがたいと思ったが、今では却って追いつめられているような気がする――
何が罪の意識なのか、川崎は感覚がマヒしている。罪の意識でいえば、自分よりも坂出の方が強いのではないだろうか? 考えてみれば、欠落できる神経を持っていることが、川崎には羨ましかった。
そういう意味では、坂出に対しての罪の意識はない。今、こうやって亜由子と坂出を探しているのも、罪の意識からだとすれば、それは坂出に対してではなく、亜由子に対してだ。事情を知っている人が見れば、川崎が取っている行動は不可解であって、誰も知る人がいないからできる行動でもあった。
――ただ、あのママの表情は――
海千山千のスナックのママだからといって、火のないところから煙を出すなどという芸当ができるはずがない。何かを知っていて、しかも川崎の中から、それを裏付ける何かが湧き出していたのかも知れない。聖人君子でもないのだから、それも仕方のないことではないだろうか。
坂出の故郷を訪ねてみたいと言い出したのは、亜由子だった。その考えを与えたのは、川崎だったのだが、ふと口に出したのが、
「原点は何だったんだろう?」
という言葉だった。
――この俺に罪に意識?
初めて感じたのが、その時だった。
よく考えてみれば、そんなことを口にできる立場ではないのだ。まったくの無意識だったとしか思えない。完全に墓穴を掘ったとしか思えないのだ。
墓穴を掘ったという意識も、これまたなかった。
――しまった――
とは思ったが、それだけで、何が分かるというのだろう。だが、亜由子がその後に口にした言葉に、さらに驚愕を覚えた。
――これで、亜由子とはしばらく離れられなくなってしまった――
と感じたのだ。
亜由子が口走った言葉、
「お兄ちゃんの生まれ故郷に行ってみたい」
と言ったことだった。
川崎にとっては、戦慄の思いだった。原点、つまり、生まれ故郷。それは、秘密にしていなければいけないと、坂出がずっと自分の中で温めていた大きな秘密を、一番知られたくないと思っている人が知りたいと言ったからだ。それがひいては自分の運命をも狂わすのではないかと思うと、川崎は驚愕は、次第に現実味を帯びてくるのだった。
坂出の故郷は、海に面した田舎町であった。入り江のようになったところは、漁村としては、船着き場にはもってこいで、少し行くと裏には、小高い山もある。閉鎖的であるが、自給自足でもやっていけないわけではないような雰囲気もあった。
山までの間には農家が広がっていた。見た目は静かな平和な場所だった。
「今でも、こんなところがあるんだ」
と、思うほどのところで、まるでタイムスリップしたかのようだった。
「何となく、懐かしい気がするな」
と、川崎が言えば、
「私には、まったく記憶のない場所みたい」
と、亜由子が言う。
本当であれば、亜由子はここで生まれて、しばらくはここにいたはずである。それなのに、まったく覚えがないというのは、やはり亜由子の中に、記憶を欠落させやすい何かがあるのではないだろうか。
川崎にとって、ここは懐かしさが伴うのは、自分が生まれたところもこんな感じではなかったかという思いがあったからだ。
確かに川崎も幼少の時代の記憶は全くと言っていいほどにない。亜由子がまったく覚えていないというのも分かる気がする。
亜由子は、街に入っていって、散策を始めた。川崎は、亜由子の後を追いかけて、亜由子が取る行動を後ろから見ているだけだった。
不思議なことに、ここの住人に、坂出の家のことを聞くと、ほとんどの人は覚えていて、坂出のことも覚えていた。ただ、
「大人しい男の子だったよ」
という人、
「いやいや、活発でガキ大将の素質を持った男の子だったよ」
という人もいれば、さらには、
「女の子っぽい感じを受けることがあったね。おしとやかというか、遠くから見れば、絶対に女の子にしか見えなかったよ」
という人もいる。人それぞれで、要するに掴みどころのない少年だったようだ。
さらに、亜由子は自分のことを聞いてみる。
「亜由子? そんな娘いたっけ?」
「いや、覚えがないな」
誰一人として、亜由子の存在を知っている人はいなかった。ただ、坂出がいろいろな性格を持っていて、人によって出す態度が違い、まるで女の子のような様相も呈していたということは、分かったのだ。
それにしても、誰も知らないというのは、おかしなものだ。
だが、それも川崎だけが知っている事実と照らし合わせれば、分からないことでもない。
――本当は、坂出も亜由子の知っているはずの事実。そして、それを知ったがために二人に欠落した時間という共通の過去が存在することになったのも皮肉なことかも知れない――
川崎の思いは、
――その事実を知っているのは、今、本当に俺だけなのだろうか?
というものだ。
知る機会があるとすれば、スナックのママであり、鍋島由美子であっただろう。亜由子には本当に皆無といっていいほど、友達がいない。子供の頃から友達を寄せ付けない性格だったようで、いつも坂出にべったりだった。
坂出にべったりだったので、友達ができなかったのか、それとも、友達ができないから坂出にべったりだったのか。それぞれに矛盾したところがあり、相容れないところが感じられるが、亜由子に関してみれば、そのどちらも共存しているように感じるから不思議だった。
――亜由子は、坂出を追いかけているつもりで、自分の過去を探しているのだろうか?
そう思ったから、川崎は亜由子にくっついて、坂出を探す旅に出たのだ。今までの川崎であれば、そんなことをするはずがない。もう少し打算的であるはずだ。
――亜由子と、坂出に、同時に欠落した時間さえできなければ、ここまで二人にのめりこむことはない――
亜由子が、ある時期から、川崎にだけは、心を開くようになったのを、川崎自身で自覚していた。ただ、亜由子が最初に感じた時に、川崎は感じていなかった。それが時間差となったことで、亜由子は川崎に不思議な疑問を抱くようになり、川崎は、逆に精神に異常をきたす不思議な時間を作ってしまったのだ。
亜由子から慕われていると思った川崎は、まるで坂出になったような気分になっていた。坂出の亜由子に対しての愛情を、ずっと見てきているつもりだったので、
「あんな妹がいて、お前は幸せだよな」
などと、茶化していたこともあった。
だが、ある時期を境に、茶化しているつもりの冗談が、冗談ではなくなってしまっていたのだ。
坂出の中に怒りがこみ上げてくるようになっていた。怒りは、川崎に対してのものだと最初は思っていたが、どうやら違ったようだ。しばらくすると、坂出は自己嫌悪に陥った時期があり、
「頼むから、亜由子のことで茶化すのはやめてくれ」
と、訴えるように頼むのだった。
坂出のそんな姿は今までに見たことがなかった。人に弱みを見せることなどない坂出にとって、自己嫌悪など、おそらく、今までにあまり感じたことがなかったのではないだろうか。
しかも、かなり辛い目に遭ったのだろう。坂出という男が頭を抱える姿など想像するだけでゾッとする。それだけ大変なことであり、もし自分に訪れたらどうなるというのだろうか、ただ、坂出の普通の人間だったのだと思ったのだが、そう思ったということは、知らず知らずに自分の中で坂出との格差を感じていたのだった。
それが、川崎のコンプレックスにもなっていた。心の中で、
――いつかは、坂出よりも目立ってやる――
と思いながらも、絶対に無理だと言い聞かせようとする、もう一人の自分がいることにも気づかされるのだった。
とにかく、坂出の中で亜由子という妹の存在は、ウイークポイントであり、ただ、そこを攻撃することは、まるで自分で自分の首を絞めているような感覚に陥ってしまうのは、何とも言えない気持ちにさせられるのだった。
川崎も、ある時期を境に、坂出と亜由子の兄妹から遠ざかったことがあった。
遠ざからなければいけない理由があったのだが、そのことを亜由子は自覚していない。欠落した時間の中に、そのことも含まれているのかも知れないが、しばらくは、亜由子に対しても、坂出に対しても、顔を見るだけで、逃げ出したくなる気分になっていたのだ。
逃げ出したくなるような心境など、今までで初めてだった、しかも、一番仲がいい二人だったはずなのに、自分の心の中の葛藤が、川崎を次第に追いつめていく。
感じたのは、躁鬱症に入りかかっているのではないかということであった。躁鬱症には、中学の時に掛かったことがあった。それほど長く掛かったわけではなく、気が付けば通り抜けていたので、それ以降思い出すこともなく、坂出兄妹との諍いで躁鬱症に気付くまで、以前に掛かったことがあったことすら忘れてしまっていた。
川崎は、自分がいろいろなタイプの女性を好きになることが多かったのを思い出していた。
最初は、直子のような大人しい女性が好きで、いつか声を掛けようと思っていると、気が付けば、譲のものになっていた。直子を好きになった理由は、彼女が従順で、性格的に逆らえないタイプだと思ったからだ。それを実証したのは、自分ではなく、譲だった。
譲は見事に、川崎の想像していた直子を引き出した。想像以上だと言ってもいい。
そんな直子を、譲はあっという間に振ってしまった。本当は、あっという間ではなかっただだろうが、川崎にはあっという間に思えた。
川崎が最初にまともに女性と付き合ったとすれば、それは、同窓会メンバー以外の女性と付き合った時だった。どうしても、メンバーの中だと思うと遠慮してしまうのか、付き合ったとしても、長続きしない気がしたのだ。
だが、逆に、誰にも言わずに、密かに女性と付き合うことは、川崎にはできなかった。どうしても、彼女ができたら自慢したくなるのが、川崎の性格であった。
本当は、次に好きになったのは。美穂だった。
美穂には坂出がいると思っている。坂出と美穂では、誰が見てもお似合いで、川崎自身、自分などが、太刀打ちできる相手ではない。もし、太刀打ちしようと思うなら、それは玉砕覚悟、二度の同窓会メンバーには復帰はできないし、さらには、どこかのグループに参加するなど、できないことだろう。それほど、同窓会メンバーには、川崎の思い入れは大きいものがあるのだった。
川崎は、恵子には目が行かなかった。恵子は、綺麗で、清楚で、完全に高嶺の花だった。だが、川崎の目には、それ以上に、性格の強さが見て取れた。
――俺では、とても相手などできるはずもない――
という思いが強く、最初から眼中になかったのは、恵子だけだったのだ。
どうしても、目は美穂に向いてしまう。美穂に向けば、逸らそうとしても逸らすことのできない坂出の顔が浮かんでくるが、よく見てみると、坂出は美穂に対して、何も感じていないようだった。
――何だ、それは――
必死に忘れようとしていた美穂には、坂出がいると思っていた。確かに見えただけに、まったく感情を抱いていないことに気付くと、腹が立ってくる。
「俺の今までの時間を返してくれ」
と、でも言いたいのか、言えずにいると、今度は自分が情けなくなってくる。
川崎は、美穂を見ていると、どこか寂しそうに見えた。その表情がなければ、坂出の本心は分からなかったかも知れない。
だが、実際、美穂が寂しそうな表情をしたのは、川崎が思っていたような、坂出が見向きもしてくれないことへの寂しさからではなかった。そのことを知らない川崎は、自分に腹を立てた。誤解であっても、自分の中の仮想敵が、次第に坂出となって表れてくる。
考えてみれば、自分が坂出の下にいる必要はないのだ。最初は自信がなかったがリーダー的なこともできなくもないと思えば、自分がリーダーであったとしても、一向に構わないことである。
川崎の怒りの矛先は完全に、坂出だった。それは高校を卒業してからも変わらなかった。一度、高校を卒業してから、坂出と、亜由子が仲良く歩いているのを見かけた時、愕然とした。
同窓会メンバーの前で見せる笑顔に比べて、何十倍も楽しそうな顔をしているではないか。
――これが坂出の本当の顔だったんだ。こんな表情、同窓会メンバーと一緒にいる時、見たこともなかった――
と、思うと、坂出が分からなくなった。そして、忘れかけていた怒りが、さらに強くなってきたのだ。
復讐という言葉はおかしいだろう。勝手に川崎に怒りがあるだけで、坂出から何ら迷惑を掛けられたわけではない。それだけに、振り上げた鉈を振り下ろす機会がないことへの苛立ちが募ってくるのだった。
――復讐ではないとすれば、何になるのだ?
復讐というのは、こみ上げてくるものに対して、明らかに標的があり、大義名分を備えていることで、復讐が終わった後に、自分を納得させられるのだ。そうでなければ、ただの狂人と言われても仕方がないからだ。
昔から川崎は、謂れのない怒りを多く持っていた。
川崎は覚えていないが、恵に対しても、同じ怒りを覚えたことがあった。もちろん、恵も覚えていないだろう。恵が同窓会メンバーと関係があったというのは、ただの偶然だったのだろうか。
川崎は、自分の今の気持ちをどう表現していいか分からない。なぜここにいて、そばにいるのか、こともあろうに、亜由子であるかということをである。
亜由子は、川崎と一緒に旅をすることを自分から望んだ。何か曰くがあるのだろうか?
川崎しか頼る相手がいないというのは事実であろう。
ひょっとすると、亜由子は、坂出がいなくなった本当の理由を、川崎が知っていると思ったのだろうか?
「亜由子は、勘が鋭いからな」
と、坂出が以前言っていた。もし、そうだとするならば、坂出がいなくなった理由の中に、川崎がいることになる。
川崎には心当たりなどない。あるはずがない。もし、あったとしても、坂出が姿をくらますという行動に出る必要性がどこにあるというのだろう? 川崎の意識の外に、坂出の中に何か行方をくらまさなければいけない重要なことがあるということなのだろうか。
確かに、坂出も川崎も気分転換に旅行に出ることはあるが、川崎の場合、何かあって旅に出ても、すぐに帰ってくることが多かった。
「結局、俺の行くところは、ここしかないんだ」
という結論が出るだけである。
ただ、その結論を導き出すための旅行というのであれば、納得がいく。しかし、なかなか帰ってこないような気持ちになるショックなことは、川崎には想像もつかないでいた。
旅行から帰ってくると、結構精神的にスッキリはしている。ショックなこともある程度免疫ができているかのように、自分を納得させることができるくらいまで回復しているものだった。
坂出とは一緒に旅行したことがなかったので、彼がどんな心境になるのか分からない。考えてみれば、二人とも一人旅が好きだった。人と一緒だと、自由がないというのが、一番の理由だが、それよりも、自分を見つめなおす時間がないというのが本音だった。
坂出が今、どこにいるのか分からないが、川崎にはなぜか、女性がそばにいる雰囲気が頭にうかんでいた。ただ、一緒に旅行をしているというわけではなく、目的地が一緒だったというだけで、
――お互いを気にしているんだ――
と、思わせるのは、自分に置き換えて見るからで、本当に当たっているとは思っていなかった。実際に今の坂出の状況を川崎が見たら、どう思うだろう?
川崎は知らなかったが、坂出と一緒にいるのは、恵なのだ。恵は以前川崎の付き合っていたことのある女性の友達だった。
川崎は恵のことを何とも思っていなかった。ただ、恵がどこか妖艶な雰囲気で、川崎のことを意識しているような気がするのは、薄々感じていたのだ。
確かに、恵は川崎のことが好きだった時期があった。恋愛感情に入る一歩手前まで来ると、恵は、
「自分の理想の男性に会うことができたんだ」
とまで思ったほどだ。
だが、実際に恋愛感情が浮かんでくると、恵は一歩、川崎から引いた態度を取った。川崎は、自分でバリケードを作って、その中に一つ、通り抜けれる穴を用意しておく、相手が恋愛感情を抱いたら、そこから入り込むように誘うのだ。
入り込めば、今度は穴を塞いでしまう。後は、川崎の懐の中で、どうにでもできてしまうという環境を作り上げるのが、川崎の中の「恋愛」なのだ。
まるで、蜘蛛の巣のようではないか。
恵には蜘蛛の巣が見えたのだ。きっと今までの川崎のまわりの女性の中で、川崎の蜘蛛の巣を見たのは、恵だけであろう。
いや、恵だけだというのは、語弊がある。蜘蛛の巣を覚えているのが、恵だけだというのが正解ではないだろうか。恵以外の女性で誰が川崎の奥を知っているというのか、恵にも分からなかった。
ただ、恵は川崎と身体を重ねたことがあった。その時に恵が感じたのが、
――なるほど、蜘蛛の巣だわ――
という思い、そして川崎が感じたのは、
――この女、一筋縄ではいかない――
という思いで、お互いに、海千山千のようだった。
坂出と一緒にいる恵は、坂出をずっと見ていて、その後ろに誰かがいると感じたその相手が誰なのか、やっと分かった気がした。
川崎の影が見え隠れする坂出には、どこか、憐みを感じさせる。
そのイメージを植え付けたのが、どうやら川崎だと思うと、恵は、
――彼も、川崎という男の犠牲者なんだ――
と、感じたのだ。
「俺は友達の妹を抱いたことがあるんだ。その時、その女の子は相当ショックを受けたのか、その時のことを、完全に忘れてしまったようなんだ」
と、言っていたのを思い出した。その時の女の子の兄が、まさか、ここ数日一緒にいて、気にしている男性だとは思いもしなかった。
その時、川崎はこうも言っていた。
「三年に一度、同窓会を開こうと言ったんだが、その時に、友達も来るんだ。といっても、その友達がリーダー格なんだけどな」
「どうして、三年に一度なの?」
「三年もすれば、忘れてくれているかどうか分かるだろう?」
「お兄さんは、そのことを知ってるの?」
「知ってると思うが、ちょうど、友達もその時に、何かがあったようで、同じように、記憶が欠落しているんだ。三年に一度会ってみて、忘れてしまってくれているのを確認したいのさ。そのためには、一度俺の顔を見ないといけない気がするんだ」
「でも、おかしいわね」
「何が?」
「だって、その友達も一緒に記憶が欠落するなんて、何かその友達も訳ありなのかも知れないわね」
その時は、そんな会話だったように思う。
今回、川崎が、亜由子と一緒に坂出を探そうと思ったのも、そのことがあったからだ。確かめたいことが頭にあるのだが、確かめたから自分がどうなるというわけではないが、確かめないわけにはいかない気がした。また、確かめることが、自分の使命のようにも思えるのだった。
――同窓会のあったあの日に、何かがあったのかも知れないな――
坂出が、同窓会の日に何かを決意していたのかも知れないと思うと、少し思い当たるふしもあった。
――旅に出ることは、その日に計画したのかも知れない――
川崎は知らなかったが、恵が旅に出たのも、実は同窓会の日だった。恵は、その日、同窓会があることを知って、その同窓会を開いたのが、川崎であることを直感した。そして、同窓会に出席するという譲。
「譲は、川崎を知っているんだ」
三年目の同窓会が、すべてを結び付けたような気がして、川崎は、自分の計画していたことが、知らないところで、関わりのある人たちの様々な経緯を、結びつけ、人を呼び寄せているのではないかと思えた。偶然が偶然では終わらない。そんな感覚である。
同窓会を欠席した直子は、勘が鋭い女性で、譲のことだけで欠席したわけではない。同窓会を密かに私物化している川崎に対する抗議のようなものがあったのかも知れない。電話では、さも譲のことを気にしているかのように誘導するような会話だったが、実際には違ったのだ。そういう意味では、直子が一番したたかなのかも知れない。
美穂は、人を疑うことを知らない女性である。誰にでも同じような態度が取れるのは、平等に人を見ることができるからであって、その起源は、人を疑うことをしない性格にある。直子とは正反対の性格であった。
だから、男性から好かれるのだろう。逆に皆に優しいということもあり、特定の男性と付き合うことがない。
「美穂なら、誰かと付き合っているだろう」
という思いが、男性を美穂に近づけさせない効果を持っているのだった。
亜由子は、性格的には美穂に似ているだろう。直子に似ている恵は、どこか坂出に惹かれるところを持ったのは、恵を亜由子と同じ目で見なかったからだ。もし同じ目で見ているとしたら、そこには受け入れられない視線を感じたであろう。坂出を意識したとしても、決して心を許してはいけない相手としてしか映らなかったはずだ。
坂出に惹かれているとはいえ、心を許しているわけではない。それは、恵の性格であって、直子と似ているところがあるゆえんでもあった。
川崎と、亜由子は、坂出が生まれた町で得た情報として、
――亜由子は本当に、坂出の妹なのだろうか?
という疑念が浮かんだことだった。
亜由子のショックは、当たり前のことだ。しかし、それ以上に川崎は、大きなショックを受けていた。
――まさか、そんなことが――
確かに坂出は亜由子のことで悩んでいたのは知っていた。その悩みは、妹である亜由子を愛してしまったという禁断の思いが坂出を苦しめていると思ったのだが、それ以上に、妹ではないということを知った時、坂出がどういう行動を取ったのかというのを想像すると、坂出の記憶が欠落したのも分かる気がした。
しかし、亜由子も記憶を欠落させている。同じようなことが起こるのは、兄妹である証拠ではないだろうか。最初、川崎も、二人が兄弟ではないかも知れないという疑念を抱き、実際に調べてみたが、兄妹ではないかも知れないという思いを強く持った。そこで、亜由子に近づき、坂出が妹ではないと気付く前に、自分のものにしてしまいたかった。
復讐という気持ちもあったが、それだけではない。間違いなく、川崎は亜由子を好きになっていたのだ。
きっと坂出は、そのあとに、亜由子を自分のものにしてしまったのだろう。二人の間に、罪の意識が同時に芽生えた。そこで、一緒に、記憶が欠落したのかも知れない。
いや、どちらかが意図的に記憶を欠落させたことで、相手にも欠落させる効力を持ったとも考えられる。やはり、二人は兄妹なのだろうか。
謎は深まるばかりだが、もし、兄妹でないとすれば、川崎には罪の意識が残る。亜由子を好きだからという理由ではなく抱いてしまったことで、亜由子に記憶を欠落させたという思いがあるからだ。
だが、もし兄妹だとすれば、亜由子の記憶の欠落は自分のせいではなく、坂出が墓穴を掘ったことになる。すると、自分が亜由子を抱いたことの意味がなくなってしまう。これも大きな罪の意識だ。ショックを受けている亜由子と見ていると、川崎は、自分が受けなければならない罪の意識の大きさに驚愕したのだ。
――どっちに転んでも、俺は亜由子に頭があがらない――
そんな川崎の気持ちを知ってか知らずか、亜由子は川崎を頼っている。
――本当に記憶が欠落しているのか?
そう思うほど、まっすぐな思いを感じるのだ。
不安な気持ちを持ちながらも、頼れる人がいることで、自分は大丈夫だと思っているのだろう。それが、川崎には痛々しく見えるのだ。
坂出の居場所は、すぐに見つかった。翌日、亜由子の携帯に連絡が入ったのだ。
「病院? 警察?」
電話の内容はすぐには分からなかったが、信じられない言葉が、亜由子の口から毀れてくる。ショックを隠し切れない中で、必死に震えを抑えようとしているのは、痛々しい限りだった。
電話は、三十分以上の長きに渡った。電話の主は、おじさんからだったようで、両親からではなかったことが、二人の複雑な家庭環境を思わせた。
「どうしたんだい?」
怖々聞いてみると、
「お兄ちゃんが、けがをして病院に運ばれたというの」
「でも、警察とか言ってたけど」
「自殺の疑いもあるんですって。意識は次第にしっかりしてきたんだけど、まだ、絶対安静らしく、病院に運ばれてからでも、もう三日は経っているそうなの。身元を調べるのに、時間が掛かったらしいのよ」
とりあえず、病院を聞いて、駆けつけることにした。そこでの亜由子の表情は、青ざめているが、どこかしっかりしていた。
――ひょっとすると、何か胸騒ぎのようなものがあって、覚悟はできていたのかも知れない――
と、思えたほどだった。
病院は、海に面したところにあり、坂出が見つかったのは、海岸べりだったという。波打ち際に打ち寄せられていたようで、あちこちに小さな傷が無数についていたという。
すぐに救急車と警察が呼ばれて、事情聴取できる状態ではないと分かると、意識がハッキリするまで待っていることにした。
何しろ、身元を示すものは何もなく、特に靴を履いていなかったことから、自殺ではないかという疑いが掛かった。すぐにおじさんのところに連絡があったので、そのまま亜由子に連絡してきたということだ。
おじさんは、亜由子が兄を探して、旅に出たことを知らない。おじさんには、亜由子と坂出がそれほど仲がいい兄妹だとは思わせないようにしていたというのだ。
「おじさんやおばさんの前で、兄妹が仲良くしているところを見られると、露骨に意地悪されるんです。理由を言うこともなく、こちらが睨むと、気持ち悪い笑いを浮かべて、上から目線で見つめるんです。本当に怖いと思うんですよ」
と亜由子は、川崎に言った。
おじさんであれば、二人の本当の関係を知っているのだろう。それで二人が仲良くしているのを見ると苛立つというのは、やはり、二人が兄妹ではないということの証明ではないだろうか。
坂出が見つかった時、夕方だったという。宿泊していた場所も分かったようで、警察の事情聴取が入ったという。
その時、女性が同じ時期に泊まっていたということで、捜査の対象とされたが、坂出がいなくなったと思われる時間には、部屋にいたことが分かっていたので、彼女は無関係だということだった。
彼女が恵であることを、川崎はもちろん知らないし、ただ、坂出が女と一緒だという予感が当たったのは間違いのないことだった。
坂出は、身体中に傷があったが、致命的な傷はなく、命に別条はないという。すぐに意識も回復するだろうという医者の話だが、そうなると、警察の尋問も始まることだろう。
警察は、裏付け捜査を続けているはずだ。そのうちに、亜由子はもちろん、川崎に捜査の手が伸びるのも時間の問題だ。ただ、別に罪を犯したわけではないので、かしこまる必要はない。それでも、亜由子にとってどうなのだろう? 探られたくない腹を探られる気持ちになるのは間違いないないだろう。
坂出の回復は思ったより早かった。
警察の事情聴取に対して、
「自殺なんて考えていませんよ」
と答えたという。自殺する理由もないと本人は話したが、川崎には信じられない気分だった。
会社のことも調べられて、こちらは、別の課の捜査が及ぶようだ。
――叩けば埃の出る身体――
と言われるが、まさしくその通りで、川崎の知らないことも、坂出の裏付け調査からは、いろいろ出てきたようだ。
その中に亜由子のことは含まれていなかった。たった一人の妹というだけで、それ以上のことを調べるのは、プライバシーの侵害となる。大きな犯罪でも絡んでいれば別だろうが、
「事件性はない」
ということで、警察も判断したようだ。
亜由子も、安心して坂出の見舞いに訪れていた。毎日のように訪れるが、時間も決まっていた。
しかも、面会時間もいつも同じで、必要以上に長いわけでもなく、中で坂出と何を話しているのか、不思議なくらいだった。
ただ、誰が覗いても、会話はないらしい。人が来る瞬間を狙って、会話を止めるわけではないので、本当に会話がないのかも知れない。
坂出は、黙って亜由子を見上げている。亜由子も黙って坂出を見下ろしている。アイコンタクトというべきなのか、表情も変わっていないようだった。
ただ、亜由子は黙って、看病している。果物を切って、食べさせてあげたり、痒いところに手が届くように、絶えず、坂出を気にしているようだ。
一時期、毎日のように見舞いに来ていた亜由子が、ある日を境にバッタリと見舞いに顔を出さなくなった。どこから聞きつけたのか、同窓会メンバーの何人かが見舞いに表れたからである。
川崎が喋るわけもなかったので、警察が訪れたのだろうか? ハッキリとは分からなかったが、皆それぞれ単独で見舞いに来ていたのだ。
最初に来たのは、美穂だった。
普通の会話を少しだけしたかと思うと、それ以上、余計なことを話さずに、すぐに帰っていった。坂出はリーダー格の雰囲気はまったくなく、別人のように変わり果てた姿を見て、落胆した雰囲気はすぐに分かった。
――美穂は、思ったよりも、自分の感情を表に出すタイプなんだ――
喜怒哀楽というよりも、落胆だったり、憔悴だったりする姿が、すぐに態度に出たりする。普通だったら、あまりいい傾向ではないのだが、美穂が相手だと、誰も違和感を感じることなく、素直に、その表情を受け止めることができるだろう。
次にやってきたのは、直子だった。
川崎は意外な気がした。直子なら、一番最後だろうと思ったからだ。
直子は痛々しい様子の坂出を見て、涙を流していた。それが本心からの涙なのか、川崎には判断しかねた。だが、坂出は驚いたような顔をして、すぐに感無量な顔になった、ひょっとすると、直子のそういう顔を見たいと思ったのは、川崎だけだったのかも知れない。
――直子は、坂出が好きだったんだろうか?
学生時代には、考えられないことだった。
直子には、譲がいた。譲がどんな男なのか、直子には分かっていたのだろうか? 分かっていたような気がする。
――分かっていても、どうしようもない自分がいる――
それが、直子なのだ。
生まれてからずっと、自分のことを分かっているのか、どうなのか? 直子は、他の人から見ると、実に神秘的な女性であった。ただ、それ以上に影が薄く、付き合ってみようという男性は、既得に見えた。それが譲であって、譲の性格から考えると、何か、打算的なものがなかったのかと、疑いたくなってくる。
そういう意味では、譲が選んだ相手が恵子だというのも、分からなくもない。
恵子はプライドが高いが、直子のように、どうすれば、あそこまで影を薄くできるのかという神秘的な性格ではないだけに、結婚相手としては、直子よりもよく見えたのだろう。譲が恵子を選んだのは、恵子のアクションの強さにもかなり影響されたに違いない。譲の優柔不断さは、恵子にしてみれば、操縦しやすかったからに違いないからだ。
譲は、結婚すると、すぐに我に返った。結婚を後悔するに至るまでに、それほど時間はかからなかった。恵に出会ったのは、その時だったのだ。
恵は、譲にとってオアシスだ。最初は、立場的に恵の方が上だったが、いつの間にか逆転していた。
恵は譲を、どのようにするつもりだったのかと、後から思えば譲は感じる。
最初は、恵子と別れてでも恵と一緒にいたいとまで思っていたはずなのに、途中から少し怖くなってきた。
それは恵という女性に対してというよりも、恵が風俗嬢だということを、冷静な目で見るようになったからだ。
――風俗嬢とは、しょせん、結婚できない――
それはプライドからなのか、それとも社会的な立場からなのか、恵に対しての気持ちが定まらなくなってきた。
そんな時に思い出したのが、直子だった。
――あれだけ影が薄いと思っていたのに――
直子のイメージが大きく膨れ上がってくる。
――直子は、想像の中では、果てしなく膨れ上がる要素を持った女性なのだ――
と、感じさせられた。確かに、想像しているだけで、学生時代に感じたことのないイメージの直子が頭の中で広がってくるようだ。
直子は、譲が自分のことをどのように思っているのか、知っているのだろうか?
もはや、譲は、直子の中では存在していないのかも知れない。
――友達以上には思えない――
それは、一度別れた相手に対して、二度と恋愛感情を持たないという直子の中での、ある種のルールづけではないだろうか。直子の中の個性だと言ってもいい。その考えがなければ、直子の直子たるゆえんではないだろうか。
直子が、坂出の見舞いに現れた。今まで、同窓会メンバーの中で、これ以上ないというほど目立たない性格で、Mっぽさまで感じさせるほどの彼女が、一人で見舞いに来たのである。
目立たない女性というイメージが残ったままで、一人訪ねてきた直子は、目立って見えた。矛盾した考えに戸惑いながら、坂出は、素直に直子の訪問を喜んだ。
坂出も、その頃にはかなり回復していて、警察の事情聴取にも答えていたのだ。
「自殺など、考えていない」
というセリフを警察は、そのまま信じたようだ。
裏付けでも事件性は考えにくかったのだが、川崎には、警察が引き上げたあとも、疑念は残っていた。
「俺、欠落していた記憶が、何となく繋がってきそうな気がしているんだ」
と、坂出は言った。
もちろん、欠落している記憶があることを知っているのは、他には誰もいないので、自分だけに言っていると思っていたが、それが間違いだったことを、まもなく知ることになるのだった。
坂出の記憶が欠落しているのを知っているのは、川崎だけではなかった。
川崎は、坂出に対して、かなり思い込みがあったようだ。勝手に自分の中での坂出像を作り上げ、妄想していたのかも知れない。それを思い知らされると、今度は、坂出の存在自体に恐怖を感じるようになっていた。
しかも、坂出は、川崎が妄想したことが分かるようで、自分でもどうしようもない状況で、川崎の妄想の中であがいている自分を感じているようだった。お互いに探り合いながら、相手の存在にもがいたり、恐怖を感じたりしているようだ。
坂出の記憶が欠落していることを知っているのは、直子もだった。直子が訪ねてきたのは、見舞いももちろん、坂出の記憶が戻るのが怖かったというのもあった。だが、坂出の欠落している記憶の中に直子が関わっているわけではなく、坂出は、記憶の中に直子の、
「隠しておきたい事実」
を、認識していたのだ。
直子はそのことを知らずに、坂出に気を遣っている。坂出は、直子が隠しておきたいことが、それほど重要なことだという認識もなく、見舞いに来てくれたことも、親切心からだと思っているので、何ら気にしていない。
ただ、直子を、親切な女の子だと思っているだけだった。
疑い始めると、止まらなくなるというが、直子もそうなのだろうか?
川崎は、直子の態度の中に隠しているものがあることを知っている。それは偶然、坂出の言葉から出たことで、坂出に悪気のないことではあったが、川崎の中で、
「これは使える」
と、感じさせることだった。
――ひょっとすると、坂出の今の状況を作り上げた一端を担っているのは、直子なのかも知れない――
と、感じたほどだ。
川崎は、本当は坂出がいそうな場所に心当たりもあった。以前から、坂出が行ってみたいと言っていた場所があったからだ。自分と亜由子が辿り着く前に、直子を差し向けて、直子と会せれば、どうなるかということを想像してみた、
まさか、ここまでになろうとは、考えていなかったが、少し、直子を甘く見ていたところがあったかも知れない。予想外だったのが、そこにいたのが恵で、恵が直子にとって、どんな立場の女性であるかということを考えられなかったことが、坂出の大けがという事態を招いたのだった。
もし、ここで坂出が死んでしまっていればどうなったかということも、想像できないわけではないが、それは最悪な結末であり、決して川崎の願った結末ではない。
川崎は、その場に恵がいたことを、直子から聞いた。直子は意外と素直に話してくれた。罪の意識に苛まれているからだろう。それとも、誰かに聞いてほしいという気持ちもあっただろうか、自分の中だけに抱え込んでおくことも、辛いことだったのである。
恵がいたことは、本当に意外だったが、恵のことを聞いているうちに、不思議な気持ちになっていった。風俗嬢になったこと、譲との関係、いろいろ聞いてみると、自分が知っている頃の恵とは少し違っていた。丸くなった部分もあれば、大人になった部分もある。一度会ってみたいと思うのも無理のないことだった。
だが、恵は譲との関係をどこまで、直子に話したか、分からない。自分で、譲とのことを精算したくて、やってきたのだ。何とか忘れようとしていたに違いない。
忘れようとしていることを、他人から聞かれた。しかも、忘れようとしている相手の元彼女から聞かれたのである。どこまで、本当のことを話すか分かったものではない。
実際に話を聞いてみると、どこか繋がらないところがいくつもあって、要領を得ないと直子は言っていた。
恵が、宿を引き上げてからも、坂出はまだ滞在していた。
直子は、宿に泊まることなく、坂出を呼び出し、そこで何があったのか……。
坂出本人からは、決して口にできることではない。そうでなければ、警察の尋問に、何も答えないわけはない。隠しておかなければいけないことがあったので、直子のことは話さなかったのだ。
「坂出さんは、ずるいわね」
「何がだい?」
「私を絶対的に端の存在の薄いところに置いてしまっているんだから」
「それは、直子の性格からじゃないのかい? 誰が見たって、そうとしか思えないぞ」
「ひどいわ。そうやって、あなたはいつもリーダー格、私はいつも端の方にいる目立たない女の子……」
「でも、それが一番バランスがいいのさ。だから、誰も君と僕のことには気付かないだろう?」
「でも、どうして、あなたは、私を?」
「今までにいなかったタイプだからね。こう見えても、俺はプレッシャーに弱いんだ。いつもプレッシャーを感じていて、癒しは、ほとんどない。癒されているつもりでも、本当の癒しなんてないのさ。そこへ行くと、君のように従順で、Mっぽい女の子は、俺にとって、最高の癒しになるんだよ」
「でも、どうして、まわりに隠す必要が?」
「分からないかい? 僕のイメージも、君のイメージもすべてが壊れるからさ。そんなことをすれば、グループ内で皆ぎこちなくなって、皆離れていくよ」
「それでいいんじゃないの?」
「嫌だね。これでもリーダー格に僕は執着しているつもりなんだ。プレッシャーはあっても、リーダー格は外せない。それに、俺は、あの仲間ではないと、リーダー的な存在にはなれない気がするんだ」
「それだけのことで?」
「ああ、悪いかい?」
「ひどいわ。じゃあ、私はどうなるの?」
「悪いとは思ってるけど、君だって、譲と付き合ったりして、自分の人生を歩んでいるじゃないか。それでいいんじゃないかい?」
「そんなことないわ。私が譲に走ったのは、あなたの本性が少しずつ見えてきたからなのよ」
「俺の本性?」
「ええ、今話している気持ちもそうだけど、あなたには、美穂さんや、何と言っても妹に対しての気持ちが強いことを私は知ってるわ。そして、超えてはいけない一線を越えてしまったことで、あなたが、苦しみから救われなくなったこともね」
「……」
「でも、それだって自業自得。私は、あなたに同情はしないわ」
直子は、大人しいだけに何を考えているか分からないところもあり、気の強さは坂出にも分かっているつもりでいたが、実際に話を聞いてみると、ここまでとは思わなかった。恐ろしさで、指先が震え、唇が青ざめていくのを感じていた。
――俺はこれから、どうなるのだろう?
直子の顔を見ると、完全に、カエルを睨みつけるヘビであった。そして、自分がカエルであることを自覚すると、何をどうしていいのか分からなくもなっていた。
「直子がここまで恐ろしい女だとは思わなかったよ」
と言って、坂出は後ずさりした。
そのあと、坂出が波打ち際で発見されるに至るのだが、それは、川崎の知るところではなかった。
今の会話も、少しだけ直子から聞かされた内容に、川崎なりに想像を巡らせて作り上げたものだったのだ。
話を聞いてみると、半分、後悔しないわけではなかった。
ここまで、直子がするとは思わなかったからである。直子の気持ちが分からないではない。分かっていてけしかけたからだ。
ただ、直子を坂出に会わせて、坂出と直子の反応を見たかったというのが本音なだけで、直子に何らかの行動を起こさせようなどと思ってもみなかった。自分の判断が浅はかだったことと、策を弄するには、自分が向かないのではないかということが分かってきたのだった。
――そんなにひどいことになるなんて思わなかった――
反省と、後悔。さらに、自己嫌悪を渦巻いている。
しばらくは、大人しくしていないといけないだろう。
亜由子を坂出の看病に当て、自分はとりあえず、普段の生活に戻った。普段の生活に戻ったつもりではあったが、どこかが違っている。坂出のことを誰から聞いたのか、やっと、譲が見舞いにやってきた。だが、譲がいたのは、少しだけで、数分もすれば帰っていったのだ。
「あれで見舞いなのかね」
と、坂出に言ってみたが、
「譲も忙しいらしい」
と言っていたが、どうも少し、様子がおかしい。何かちょっとしたことを言われたのかも知れない。
言われたとすれば、直子のことか、それとも恵のことか。どちらにしても、今の坂出に関係の深い人間は、ひょっとすると、譲なのかも知れない。
何も知らずにやってきたはずの譲。そこに坂出が話しかける。ショックを受ける譲は逃げるように退散していく。そして、半分はウソではないかと思いながら、探りを入れただけのつもりの坂出は、譲の態度で、話のほとんどが本当のことであったことを知るのだ。それが、譲の滞在時間を数分という、ごく短い時間にしてしまったに違いない。
坂出の入院は、それからしばらく続いた。
医者の話よりも、回復がしばらく遅れ、想像していたよりも、入院は長引いた。
その間、まわりは時間が止まっていたのではないかと思えるほど、平穏だった。
それはまるで、坂出という男の存在がウソだったのではないかと思えるほどである。
――本当にそうなのかも知れない――
川崎は、坂出がまわりにもたらした影響が、次第に消えていくのを感じていたのであった。
坂出が退院すると、何事もなかったように、月日は過ぎ、坂出の気持ちの中で少しずつ整理がついてくるようになった。
旅行で出会った恵、彼女とは、身体を重ねた。だが、それは最初から一回きりという二人の約束の元、愛し合った、まるで蝋燭の炎が灯っている間だけの愛情だった。
だが、坂出の中では、今までに付き合った誰よりも長く感じられ、初めて癒しを与えられた気がした。
恵にしても同じだった。
坂出の中に、何かわだかまりがあることは分かっていた。分かっていて、受け止めてみると、そこには果てしない底の見えない大きな溝が広がっている感じがした。
――私では、とても癒しきれない――
と、思ったが、却ってその方が、気は楽だった。
一度きりの愛情を通わせることで、お互いのストレスや、抱えてきた苦しみを少しでも和らげたいという気持ちから、相手に優しくなれるからだ。
このことは、坂出は誰にもいうつもりもない。もちろん、恵も同じである。人に話したから色褪せるものではないが、相手を冒涜しているようで、それが嫌なのだ。
「誰かと一緒にいることが、これほど素晴らしいことだなんて、思いもしなかった」
女を抱くことに、今後不安があり、今のままでは絶対にできないと思っていた坂出は、恵によって救われた。それは、恵にも同じことが言えるだろう。
「この人のことは一生忘れることはないわ。この人がどんな人であったとしても……」
そう思いながら、抱かれていた。
気が付けば、二人とも涙を流していた。相手が涙を流していることは、お互いに分かっていたはずなのに、そのことに触れようとはしない。触れてしまえば、すべてが壊れてしまう気がしたのと、触れる必要など、どこにもないからだった。
「私には癒しきれないと思っていたのが、ウソみたい」
坂出の顔を見ていると、どんどん癒された顔になっている。
――私なんかでよかったんだわ――
この思いだけでも、これからの自分を見つめていくことに十分だと、恵は感じていた。今後の人生がどうなろうとも、この思いを忘れなければ、男に裏切られたり、男を裏切ったりと、自分が後悔するようなことはしないだろうと思ったからだ。
恵も、坂出も、以前持っていた自分に対しての自信がまったく無くなっていたことに、その時同時に気付いたのである。
「この人とは、最初で最後だなんて思いたくない」
自分が言い出したのに、すでに、気持ちが揺らいでいた。坂出の方も、気持ちが同じようで、お互いに、相手のことを自分にとって必要な人間だと思うようになっていた。
川崎も、亜由子も、さらには、直子もそんなことは知らない。同窓会メンバーの愛憎絵図の中から、次第に坂出が抜け出していくのを知っているのは、誰もいない。
ただ、坂出が輪の中から抜けることで、均衡を保っていた愛憎絵図の一角が崩れ、正常な関係に戻るかも知れない。
一つの歯車が狂ってしまうと、それを修復するのは困難である。それは皆分かっているつもりだが、自分がその中に入ってしまうとなかなか分からないものだ。
「自分だけは別格だ」
と思い込むからに違いない。
坂出は、今どこにいるのだろう?
亜由子も、もう坂出を探そうとはしない。欠落した記憶を思い出そうとはしたくないということだった。それは坂出がいなくなったから気付いたことであって、
「これでよかったのよ」
と、さっぱりした表情になった。
結局、亜由子が坂出の本当の妹なのかということは分からずじまいだったが、もう川崎にとっても、亜由子にとっても、どうでもいいことだ。
二人は、急激に接近し、付き合うようになっていたのだ。それを結び付けてくれたのは、坂出が通っていたスナック。ママと話をしているうちに、次第に打ち解けてきて、ここで二人の愛が育まれていくことに気付いたのだ。ママは、二人にとっての「恋のキューピット」であった。
直子はというと、完全に同窓会メンバーの中から姿を消した。三年目の同窓会に来なかったのは、その前兆だったのかも知れない。
鍋島由美子は、相変わらず、坂出が戻ってくるのを待っているようだが、こちらも、それほど強くは思っていない。会社の中の一人の事務員として、自分を見つめなおしているようだった。
譲と恵子は、結局離婚した。だが、円満離婚であり、お互いに、しこりが残ったわけではない。
「友達に戻っただけよ」
と言っていたが、それが恵子の本心かどうか分からない。考えてみれば、今回のことで、一番蚊帳の外だった同窓会メンバーは、恵子だった。そういう意味では、恵子が一番「まとも」、いや、「人間らしい」人間だったのかも知れない。そう思うと、川崎は、恵子のことは、これからも普通に友達として接すればいいのだと思えた。
譲の方であるが、どうやら、恵に対しての思いがその後、復活してきて、沸騰しかかっているようだ。ノイローゼのようになっていて、人をまわりに寄せ付けない雰囲気になっているらしいが、その後、しばらくして、入院したという。まわりの誰かがたまりかねて、入院させたのだろう。
回復に関しては、耳に入ってこないが、川崎にはもはや関係のないことに思えたのだ。
同窓会メンバーが、それぞれに別れてしまい、リーダーである坂出が最初にいなくなったのだ。川崎の役目がどこにあるというのだろう。
もう二度と集まることのない同窓会メンバー、川崎は、たまに思い出していたが、もう二度と他の人たちのことは思い出さないようにしようと思う。
そう、もうすぐやってくるのだ。「三年目の同窓会」、つまり、卒業してから、六年目の春のことであった……。
ただ、この話が、今のお話ではなく、数十年前の話だったらと、思わないでもないのは、他人事として書いている私だけであろうか……。
( 完 )
三年目の同窓会 森本 晃次 @kakku
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