第4話 旅先

「私はどうして、ここにいるんだろう?」

 一人の女性が、車窓から、海を見ながら、一人呟いていた。

 まだ、電化もされていない、今時珍しいディーゼル車に乗り込み、早一時間。目的の駅までは、まだ一時間半くらいある。ここまでの一時間を考えると、この後の一時間半もあっという間ではないかと思えた。

 この先には、終点に温泉があるのと、途中には学校があるくらいで、隣の車両には学生が数人と、老人が数人乗っていて、乗客の目的地はハッキリとしていた。

 彼女が乗っている車両には、もう一人男性がいるが、彼はまだ若かった。

――まだ、三十歳にもなっていないかしら――

 と思えるほどで、彼の場合は目的地が分からなかった。

 この先の温泉は、観光ブックにも載っているわけではない、本当にローカルな温泉で、秘境と言ってもいいほどの場所である。鉄道が敷かれているだけまだマシで、鉄道がなければ、本当に陸の孤島。近くの老人たちだけの知られざる温泉として、これからもずっと成り立っていたかも知れない。

 この温泉に辿り着いた人間は、二種類である。

 ここで気持ちを癒されて、気持ちをリフレッシュし、心身ともにリセットができて、帰っていく者。

 または、リフレッシュできずに、そのままの気持ちを引きずったまま、しばらくここにとどまっている人、

 この温泉には長期滞在の人もいるというが、そういう人たちがほとんどだという。

 窓の外から見える海に、夕日が沈みかけていた。このままいけば、温泉に着く頃には日が落ちているに違いない。

 夕日を浴びていると疲れが襲ってくる。だが、彼女には、この気だるさが、今は心地よいのだった。

――あそこにいる人、そういえば、さっきも一緒だったわ――

 この列車に乗り込む前に訪れた神社があったのだが、

――どうして神社になんか訪れたのかしら?

 我ながら目的のない観光に苦笑したのだが、何よりもお賽銭まで入れて、お祈りをした行為について、自分で可笑しくて仕方がなかった。

――今さら、お祈りすることもないはずなのに――

 と思った。

 お祈りとは、これからの自分や、自分のまわりにいる人たちの幸運を祈って、参るものだと思っていたのに、

――今の自分に一体何があるというのだろう――

 としか思えないのだった。

 その時、彼女の隣にいたのがこの男性で、彼は絶えず無表情だった。

 ただの無表情ではない。

 彼女には無表情になる気持ちが分かる。それは人に意識をさせないように、気配を消そうという意思が働いている時である。

 確かに彼には、気配を消そうという意思があり、その気持ちが無表情に表れていた。

 彼女にはそのことが分かっているのに、彼の気配がさらに強くなっていることが気になっていた。

――彼が気配を消そうとして、消すことができないのか、それとも、彼には気配を消せているのに、私が消した彼の気配を身体に受けてしまっているのか――

 もし後者だとするなら、気配を消そうとしている相手を感じるようにするならば、彼の意志よりも強いものを持っていなければ無理であろう。

 確かに、強い意志を持ってこの列車に乗ってはいるが、それは他人に関係することでも他人を巻き込むことでもない。それなのに、その人の気配を感じるということは、

――彼も私と同じような経験をしているのか、それとも、私と同じ結末を迎えようと思っているのかのどちらかではないかしら――

 と、感じた。

 この思いは、どちらにしても前向きな考えではない。明らかに後ろ向きであり、先が知れた結末を望んでいるのだった。

 終点に近づく頃には、すでに隣の車両に客はなく、自分が乗っている車両にさっきの男性客が一人いるだけだった。車窓の風景は完全に変わってしまっていて、見ている先に、何が見えるというのだろう?

 駅に降り立つと、夜のしじまに浮かび上がる温泉宿は、わざとであろうか、明るさが控えめだった。ただ、他に明かりもなく真っ暗な中に浮かび上がっているのだから、余計な明るさはない方がいい。

 もちろん、他に何らかの歓楽街があるならば仕方がないが、この温泉は、他の温泉とは違い、歓楽街のようなものはおろか、他に宿もない。

――隠れたる秘境――

 まさしく、ここはそんな場所なのだ。

 宿代は、三泊目までは通常料金、それ以上宿泊するならば、あとは食事代だけでいいというのもありがたい。そのわりに何ら宣伝しているわけでもなく、隠れたる秘境のこの場所で、予約する客もいるのだろうか?

「いらっしゃいませ」

 優しそうな女将さんが出迎えてくれた。

「お世話になります」

「お名前は、鈴村様ですね?」

「はい、鈴村恵です。宜しくお願いします」

 と、答えたところへ、先ほどの男性が入ってきた。さっきの駅で一緒に降りたのだから、目的地はここしかない。恵より少し遅く降りて、さらにゆっくりと歩いてきたのだろう。

 女将さんが彼にも挨拶すると、

「坂出です」

「坂出様ですね。お待ちしておりました。どうぞごゆっくりしていらしてくださいね」

 と、言って挨拶をした。

 奥から、もう一人女中さんがやってきて、彼女が恵の荷物を部屋まで運んでくれた。必然的に坂出の荷物は、女将さんが運ぶことになる。

 思ったより温泉宿には部屋がいくつもあった。有名な温泉街でも、この広さは決して狭いものではない。こんなところに、やってくる客はそうはいないはずなので、

――こんなに作ってどうするんだろう?

 と思うほどだった。

 部屋も贅沢に作ってあり、一人の宿泊なのに、二部屋用意してある。

「こんなに贅沢な造りにして、どうするんですか?」

 と聞いてみると、

「ここは、以前から、芸術家の方が長期滞在されるのに、活用されていたらいいんですよ。今でこそ、あまり来られなくなりましたけど、以前は、ここのお部屋が満杯になることもあったらしいんですよ」

「なるほどですね。だから、三泊目から以降は、食事代だけというサービスがあるんですね」

「そうなんです。ただ、一般のお客様も長期滞在される方もいらしたようです。皆さん、きっとそれぞれに理由があって、俗世間から逃れたいと思っている人が多いのではないでしょうか?」

 恵は、その言葉を正面から聞いて飲み込んだ。そんな気分になっていた。それだけ、今の女中さんの言葉は、図星だったのだ。

「どうぞ、ごゆっくり」

「ありがとうございます」

 恵は、自分がここに来た理由を思い出していた。忘れたいということがあり、フラッと出てきた旅、以前は、

――無意識でいられたら、どんなに気が楽なんだろう?

 と、毎日の生活の中で思っていたものだ。

 それが、今は俗世間から逃れ、旅に出てみると、そのほとんどが無意識になり、すべてを忘れられそうな気分になるのだから不思議だった。

「初めての一人旅か」

 恵は、独りごちたが、その表情は複雑だった。俗世間をいまだ忘れることができないでいる自分と、ここまで無意識になれる自分がいて、まるで二人の自分が身体の中にいるようで不思議な感覚がしたのだ。

 恵は、俗世間でも、なるべく何も考えないようにしていた。余計なことを考えると、どうしても惨めな自分を見つめない限り、他のことが考えられないからだ。自分を見つめなおすことを嫌がる理由は、惨めだと思っていないと心の奥では思っているのに、まわりの偏見に満ちた目に負けてしまう自分が情けないと思うからであった。

 恵の俗世間の職業は、風俗嬢だった。高校を卒業して、就職もできず、進学するわけでもなかった恵に彼氏ができたのだが、その男が、あまり素行の良くない男だったのだ。

 最初は、恵に優しかったその男は、次第にねだるようになる。お金を都合してくれるようにねだるのだが、最初は家族が病気だとか、もっともらしい理由を語っていた。

 もちろん、恵にそんなお金などあるはずもない。かといって、彼と別れたくもない。手っ取り早くお金を儲ける方法。それは風俗だったのだ。

 高校を卒業するまで処女だった恵だが、彼と知り合って、セックスの素晴らしさを知った。相手に満足してもらえることと喜び、そして、相手が癒されたと言ってくれることの満足感、すべてが、今までになかったもので、

――世の中に、こんなに素敵なことがあるんだ――

 と思ったほどだった。

 それは、肉体的な快感から得られるものではなかった。精神的な満足感が伴わないと、決して味わうことのできないものであった。

 だから、恵には貞操感覚は少なかったのかも知れない。彼氏もそれが分かったので近づいてきたのかも知れないし、たまたまだったのかも知れないが、こんな男なら、恵以外の女性にも同じようなことをしていたかも知れないと、後から思えば想像できないわけでもなかった。

 風俗への抵抗感もないまま、風俗の門を叩いたが、さすがに最初は殊勝だった。怖さがまったくないわけではなかったからだ。

 それが初々しさと重なってか、恵は客受けが良かった。リピーターも多く、店でも恵を大切に扱ってくれた。

――ひょっとして、私の天職なのかも知れないわ――

 と思ったほどで、風俗で働くことへの抵抗はまったくなくなっていた。

 それでも彼氏に内緒にしていたのは、彼が体裁にこだわる人だったら、嫌だと思ったからだ。何も知らない彼は、相変わらず恵にお金をねだる。恵もできるだけ彼のためにお金をあげてきたが、お金だけで繋がっている関係など、そう長くは続くものではない。

 ある日突然、彼が恵の前から姿を消した。恵は、ショックを受けたが、その時の立ち直りは早かった。心の中で彼のことを、

――私のお金だけが目当てなんじゃないかしら?

 と、気付いていたのだ。

 ただ、それを認めたくない自分もいて、彼氏だと思いながらも、どこか冷めた目で見ていたところもあった。複雑な心境で、曇りがちだった気持ちに晴れ間が見えたという意味では、彼がいなくなってくれたこともある意味では、悪いことではなかったのだ。

 お店に来る客の中には、恵を口説いてくる人も少なくはなかった。本当は許されていないのに、店外デートを申し込んでくる人だ。彼氏がいたこともあって恵は、そのすべてを断ってきた。彼氏に悪いということだけではなく、せっかく誘ってくれた人を欺くことになるからである。

――彼氏がいるのに、誘ってくれるなんて――

 心の底では感謝していたのだ。本当なら、デートしてあげたいと思うのだが、それは誘ってくれた人を裏切ることになる。それは相手が客というだけではなく、男性として、してはいけないことだと思った。

 彼氏がいなくなって、一人が訪れた。元々一人だったので、高校卒業の頃に戻っただけのことであるのに、寂しさの度合いが、あの事と違っていた。考えてみれば当たり前だ。好きになった人がいて、その人とずっと一緒にいられると、思い込んでいたのだからである。

 それでも風俗は辞める気にはならなかった。逆に風俗で生きていくことが、自分の生きがいなのだと思うようになっていた。

――世間では風俗を悪く言う人たちがいるけど、どうしてなのかしらね? 一番世の中に必要なことだと思うんだけど――

 と、恵は思っていた。

 人間の三大欲と言われる、中の性欲を満たすためであり、風俗がなければ、欲求不満のはけ口を求める先がなく中には犯罪に走る人もいるだろう。そう思えば、風俗は立派な人助けであり、世の中に貢献しているはずである。

――それなのに――

 理不尽な世の中を疑問に感じながらも、それでも自分は誇りを持って働いている。そして、

――今日も、私を求めてやってくる男性に、たっぷりとご奉仕してあげることが私の天職だ――

 と思って働くことで、彼氏への思いが徐々に吹っ切れていった。吹っ切れてしまえば、自分の天職を間接的にではあったが与えてくれた彼氏に対して、感謝するくらいの気持ちに余裕が生まれてくるくらいだった。

 だが、寂しさは拭いきれるものではなかった。精神的な寂しさよりも身体的な寂しさが募ってくると、分かってきたことがあった。

 精神的な寂しさを感じる時というのは、本当に精神的な寂しさが癒されればそれだけでいいのだが、身体的な寂しさは、身体的なものだけではなく、精神的な寂しさも癒されないと、本当に寂しさを解消できるわけではないということだった。

 風俗で働き始めて最初に感じた寂しさは、精神的な寂しさだった。

――彼氏がいるのに、どうしてなのかしら?

 それは彼氏がいても関係のない寂しさで、もっとも彼氏が次第に恵の気持ちよりも肉体に溺れているのではないかという疑念を抱いた時だったのだが、精神的な寂しさを抱いた時に感じた疑問によって、彼氏が自分に肉体的な欲求のみを求めているのではないかという思いが打ち消される結果になったのだ。だから、恵の中で、

――彼氏の気持ちが自分の肉体だけを求めたことはないんだ――

 という思いに繋がっていた。

 それを分かっているのに、恵の中で釈然としない思いがあった。それでも思い出せないのは、風俗のことを彼に隠していたことが大きかったのではないだろうか。

――風俗嬢だと言えば、彼に嫌われるかも知れない――

 という思いが強く、

――もし、彼と風俗の仕事のどちらを選ぶ?

 と聞かれたら、どう答えていただろう。

 途中から、恵の中での風俗の仕事は、恵自身を一番表しているものだと自分で思うようになっていた。言い換えれば、風俗の仕事を辞めれば、自分ではなくなってしまうのではないかと思うほどである。

 彼がいなくなってから最初の頃は、精神的な寂しさが恵を襲っているものだとばかり思っていたが、実は勘違いであることに気が付いた。

――肉体的な寂しさなんだ――

 恵は風俗嬢と言っても、本番を禁止している方の仕事だった。彼氏がいることで、彼氏に対してのせめてもの罪滅ぼしのつもりでいたのかも知れない。

 だが、その彼氏ももういない。

 一人でいる寂しさを身体でも味わうことになる。その時に初めて寂しさが倍になっていることに気付いた。肉体的な寂しさを初めて感じたのである。

 皮肉なもので、彼氏と別れてから、恵を誘う男性はいなくなった。

 いくら寂しいと言っても、恵自身が誘いを掛けるわけにはいかない。恵の中で持っているルール違反になるからだ。それでも、サービスにも影響してくるもので、恵の常連客も心配してくれているが、理由を話すところまではいかなかった。

 そのうちの一人に一人のサラリーマンの人がいる。その人とはプレイが終わったあと、時間までゆっくりお話をするのだが、密かに恵はその人に憧れていた。

 顔はパッとするタイプではなく、女性にいかにもモテなさそうな雰囲気だ。もっとも風俗に足しげもなく通うのだから、モテる男性ということもないだろう。

 それでも、恵はどの客よりも、彼に憧れを持っていた。一口に言えば、癒しを与えてくれる人だったからだ。彼の癒しは他の人とは少し違っていて、

――どこから、そんな魅力が現れるんだろう?

 と思っていたが、話をしているうちに分かってきた。

 彼には、奥さんがいた。奥さんがいても風俗に通うのは、どういう神経なのだろうと最初は恵も思ったが、

「僕は寂しいから、ここに来るんじゃないんだ。寂しかったら、却って一人でいるかも知れないね」

 と、言っていたが、理解に苦しんだ。

 それでも、次第に彼のことが気になってくると、

――この人は、一人でも大丈夫な人なんだ。それなのに、私に会いに来てくれているのは、私の中に、懐かしさを感じてくれているのかも知れないわ――

 そう思って、会話の中でそれとなく、自分の感じた思いを話してみると、

「そうなんだよ。君は僕が以前感じた懐かしさを秘めていて、それを僕自身忘れてしまっていたことを君自身が思い出させてくれたんだ。だから、僕は君に感謝しているし、こんなことを言ってはいけないのかも知れないが、愛おしいとも思っているんだ」

 恵はドキッとして、自分の中で何かが弾けたような気がした。

――私が探し求めていた人は、この人だったのかも知れないわ――

 誰かを捜し求めていた意識もなかったのに、いきなりそう感じたのだ。そう思わせるだけの力が、彼の目にあった。彼に見つめられると、恵は今までのことをすべて清算できるのではないかと思えたほどだ。

 男の名前は、譲と言った。苗字は教えてくれなかったが、それで十分だった。

 譲は、ここ半年くらいの常連で、彼氏が出て行く少し前に、店に初めてきた客だった。

「僕は今まで風俗の経験はなかったんだけど、君みたいな女性がいるなら、常連になるかも知れないな」

 もし、恵が嫌々風俗嬢をしているのであれば、社交辞令にしか聞こえなかっただろう。それでもお世辞かも知れないと思いながら嬉しかったのは間違いなく、

「ありがとうございます、そう言ってくださると、嬉しいわ」

 恵は、譲のような客が一番好きだった。素直で何事も正面から見つめるような目で見つめられると、思わず逸らしそうになる目をぐっと堪えて、彼を見返す。これも、嫌々している仕事だったらできなかったに違いない。

 譲が次に現れたのは、一週間後だった。

 恵にとって、一週間は、短いものだった。毎日数人のお客さんを相手にして、一日が終わっていく。サラリーマンも毎日決まった仕事をして終わるのだから、それほど時間の感覚は変わらないと思うのだが、恵は「接客業」だと思っている。そのおかげで、一日は思ったより長く感じられたが、それが一週間単位となると、今度はあっという間に過ぎるような気になるのは、不思議なことだった。

「あら、またいらしてくれたんですね?」

「ええ、あなたに会いたいと思ってですね」

 もちろん、その時はただのリピーターだとしか思わなかった。それでいいとも思っていたが、それでも好きなタイプの男性なので、彼に対する気持ちは、態度に序実に現れたのだ。

 彼が敏感に反応してくれるたびに、心が躍り、自分も興奮してくるのを感じた。

――どうしてなのかしら?

 プレイ中に自分が感じるなどということは、あってはならないと思っていたし、実際になったこともなかった。心の微妙な変化に譲も気が付いたのか。

「何か、この間と雰囲気が違った気がしたんですけど?」

「えっ、私が失礼なこと、しました?」

「いえいえ、そうじゃなくて、あなたの優しさが感じられたんです。それも、まるで恋人同士のような感覚ですね。僕は忘れていた感覚をあなたが思い出させてくれるかも知れないと思って、今日も来てみたんですけど、正解だったですね」

「忘れていた感覚というのが、恋人同士のような感覚ということですか?」

「うん、一口に言ってしまえばそういうことになるかな? でも、それだけじゃないような気もします」

 彼が何を言いたいのか、ハッキリとは分からなかった。その時はまだ、彼氏と一緒にいる時だったので、心境の変化など起こりそうもないと思っていた頃だ。逆に心境の変化を起こすことが怖かった。それによって、今の生活が崩れてしまうのを恐れたからだ。

 だが、あとから思えば、この感覚自体が、すでに心境の変化だったのかも知れない。生活は事実として崩れてしまい、残ったのは寂しさだけだった。だが、考えてみれば、その寂しさを埋めてくれるのは、やはり人なのだ。彼がいなくなって寂しい中で恵は、人と話をすることに、今までと違った暖かさを感じるようになっていた。

――寂しさはいずれ解消される。いつまでも引きづっていくものではないんだわ――

 と思うと、気が楽になってきた。

 確かに身体の寂しさは、精神の寂しさを伴って、容赦なく恵を責めたてたが、そこで、負けることさえなければ、あとは、人の暖かさが、癒してくれる。それでも身体の寂しさを解消するのは、人から与えられる癒しであることを分かっているつもりなのだが、暖かい言葉だけでは、なかなか癒しには繋がらない。恵自身が、癒しを求める気持ちを表に出さなければいけないのだろう。

 癒しを求める気持ちを表に出すなど、考えたこともない。それは癒しを与えることを誇りにしている自分に背くことになるように思えたからだ。だが、実際に寂しさを覚えてしまうと、暖かさが恋しくなる。

――きっと、私に会いに来てくれる人たちは、私が今求めているものを私に求めてやってくるんだわ――

 と思うようになった。

 それなら、恵自身が、苦しい時、客に癒しを求めてもいいではないか。求めた癒しにどう答えてくれるかが、これからの自分の生きる糧になるのだ。そう思うと、甘えることも、大切なことだと思えるようになっていった。

 だからと言って、誰にでも甘えるわけにはいかない。一方的に癒しだけを求めてくる人に、癒しを求めるわけにはいかないからだ。そういう意味では、譲の懐の深さは分かっているつもりだ。彼に甘えることも彼の心に答える一つの方法ではないかと、恵は考えるのだった。

 譲に奥さんがいるのを知ったのは、それからまた一週間後に彼が来てくれた時だった。

「君が相手だと、何でも話せる気がするんだ」

 と言ってくれた。その時に、彼は自分が独身ではないことを告白してくれたのだった。

「落ち着きを感じたので、そうかも知れないとは思っていましたよ」

 ここでいう落ち着きとは、精神的な余裕と言いかえることもできるだろう。そのことを分かってくれているのか、譲の顔が余裕に満ちた笑顔に変わった。今の恵が一番癒される顔である。

 その表情を見て、微笑み返す恵であったが、今さらながら、人の笑顔に癒されるというのが、こういうことなのだと気が付いた。言葉を交わすことなく、思いが通じるのは、やはり表情やアイコンタクトによるものであろう。そこに感じるものは新鮮さであり、自然な感覚であることが、恵に懐かしさを感じさせるのだった。

 懐かしさと言っても、漠然としている。いつの頃のことで懐かしさを感じているのか、相手が誰だったのか、その人に対して、自分がどんな感覚になったのかなど、思い出せない。

――別に思い出す必要はないか――

 懐かしさという一言だけで十分だった。逆に余計なことを思い出してしまうよりも、今を大切にすることが先決だ。そのためには、懐かしさという爽やかな風がアクセントとして混じっている方が、ありがたかった。

 その風には、匂いがあった。時には柑橘系の匂いだったり、金木犀の香りだったりで、つまりは、今までに懐かしさを感じたことは一度や二度ではなかった。

 彼と一緒に住んでいる時には、何度かあった。それは、社会人一年生が掛かる「五月病」と言われるものと似ていた。学生時代にはそれなりにいた友達とも連絡を取ることもなく、もっとも取ろうと思っても、皆それぞれに忙しく、なかなか恵の相手をしてくれるような人はいなかった。

――私は孤独なんだ――

 彼がいるのだから、贅沢だと思うことで、病気のようになることはなかったが、その代わりに、懐かしいという思いを時々感じるようになり、懐かしいという思いのあとに襲ってくる寂しさが何とも言えない雰囲気を自分にもたらしていた。

――まるで自分じゃないみたいだわ――

 と、感じていたりした。

 懐かしさを譲に感じながら、その懐かしさが恋心に変わっていくのを感じていた。同じ懐かしさでも、譲と、それ以外の時とではまったく違っている。

 癒される懐かしさ、余裕を感じさせる懐かしさ、暖かさを含んだ懐かしさ。それが金木犀の香りをもたらした。譲に対して感じた恋心の発端は、間違いなく「懐かしさ」だったのだ。

――どうしてなんだろう?

 今まで感じたこともない疑問が恵を襲った。それは、誇りを持っていたはずの風俗嬢としての仕事に、疑問を感じてきたからだ。もちろん、その原因が譲にあることは分かっている。分かっているのだが、誇りにしていた仕事に対して疑問を感じるほどではないはずだ。

 何よりも、生きがいだとまで思っていたはずではないか。疑問は次第に嫌悪へと繋がり、――自分を嫌いになるのって、こういうこともあるのね――

 と思わせたほどになっていた。

 今まで自己嫌悪に陥ったことは数知れず、しかし、自分を否定する選択に追い込まれるなど考えたこともなかった。それだけに、今回の自己嫌悪は、自分でもいつ解消するか分からなかった。今までであれば、

「時が解決してくれる」

 と思って、何とかやり過ごしてきた。それもなかなか精神的にはきついのに、先の見えない自己嫌悪には、さすがに参ってしまった。

 まるで究極の選択だったが、別にどちらかを選ぶ必要もないのだ。そのことに気が付くまでに少し時間が掛かったが、それだけ自分が純情であり、今一皮むけたのではないかと思えたのは、一種の開き直りのおかげだと思っている。

――そういえば、私は今まで開き直りのおかげで、どれほど助けられたか分からなかったわね――

 ということも思い出した。

 試験の一夜漬けや、ちょっとしたことの選択にしても、最後は開き直りだった。今までの小さいことの積み重ねが、数知れずおターニングポイントで発揮される。それを思うと、恵は開き直ることの大切さを思い出せたことに感謝していた。

 譲に恋心を抱いたとしても、彼はすでに既婚者なのである。淡い夢など見ないに越したことはないはずだ。

 だが、その時の恵は、譲にすがった。

 本当はすがらなくても、乗り越えられたはずのものだったと、あとから思えば、そう感じるのだが、その時は、譲の気持ちに触れていたいと思った気持ちと、自分の中で揺れていた自信を取り戻すために、譲の存在が必要不可欠だったのかも知れない。

 だが、それはあくまでも、

「譲の存在」

 であって、譲本人ではない。その微妙な違いに気付かなかったことがそのあとの自分にどのような影響を及ぼすかなど、想像もつかなかった。

 恵は、次第に譲に惹かれて行った。初めて表でデートした時、すでに譲に抱かれることへの抵抗はなかった。譲と表で二人きりで会うことの方が、そのあと、ホテルで二人きりになることよりも、よほど恵の中では勇気のいることだったからである。

――相手はお店のお客様なのだ――

 という思いを跳ねのけなければ、できることではないからだ。

 当然といえば当然だが、一度二人だけで会ってしまえば、譲が店に顔を出すことはない。分かっていたことだが、それも寂しい気がした。

――何を贅沢なことを言ってるのよ――

 と、自分に言い聞かせたが、それだけではない。贅沢だというよりも、

――何かが違う――

 という思いが強くなってくるのだ。

――お店に来ていた頃のあの人とは、笑顔が違っている――

 ひょっとすると、譲も同じことを感じているのかも知れない。

 二人は超えてはいけない一線を越えてしまったのではないかと恵は思ったが、後戻りできないのではないかという思いもあり、後悔がこみ上げてくるのを感じた。

 だが、そう思って譲と接すると、今度は、笑顔に救われる気がした。お互いに超えてしまった一線であることを譲が分かっていると思ったからだ。

――彼にすがると自分で思ったんだから、それでいいじゃない――

 と思うようになると、少し落ち着いてきた。

 しばらく、このままの関係を続けていくことがいいのだろうと、考えるようになっていた。

 それからの毎日は、それまでと違って、精神的には微妙に違う毎日だった。何かあったわけではないのに、やたら幸福感に包まれることもあったり、逆に不安感でいっぱいになることもあった。

「これって躁鬱症かしら?」

 今までの恵は、躁鬱症などということを考えたこともなかった。ただ、日々微妙に違った精神状態になるのは、躁鬱症とは違っているだろう。躁鬱症は少なくとも数日は、同じ状態に陥ることだと思っていたからで、仲間の女の子たちに聞いても、

「それは躁鬱とは呼ばないわよ」

 と言われるだけだった。

 それでも、精神的に不安定な時期は一月ほど続いたであろうか。それからしばらくは、精神的にも平穏無事な時期があった。お客さんに対しても今までと変わりなく、譲に対しても、思っていることがそのまま素直に行動に出る自然体であった。

――躁鬱だと思っていた頃は、自然体じゃなかったのかしら?

 自然体でなかったという理由づけは、精神が不安定だったことへの理由づけとしてはうってつけであった。確かに自然体でなければ、精神的にも不安定だ。何よりも自分が人に惹かれる要素の一番は、相手の自然体を見ることではなかったか。そう思うと、自然体がどれほどいいことなのかということを、再認識できたのだった。

 譲は出張が多く、なかなか恵に会いに来ることもままならない。結婚していることもなかなか会いに来れない理由の一つであろう。

 後悔はしていないが、

――このままでいいんだろうか?

 という思いも、恵の中にあった。

 そのうちに、譲が、

「俺、女房と離婚しようかと思うんだ」

 という話を切り出してきた。

「えっ、離婚って、そんな」

 まさか自分のためになどと大それたことは最初から思っていなかったが、それでも、

「どうも、女房とは合わない気がする。最初の頃のように自然ではいられない気がするんだ」

 彼も自然体について考えている。そう思うと、自分のためではないと思っていた離婚の話も、

――ひょっとして自分を選んでくれるんじゃないか――

 という淡い期待を抱くことも無理のないことだった。

 だが、実際に彼から選ばれることはなかった。

 彼は宣言した通り、奥さんとは離婚したが、

「俺は離婚したいとは思っていたが、また誰かと結婚したいというところまでは、まだ考えが浮かばないんだ」

 恵が譲を好きなことを知って、なまじ期待を持たせてもいけないと思ったのか、恵にハッキリとそう言った。

 そして、しばらく一人になりたいということで、恵に連絡を取ることもなく、もちろん、お店に顔を出すこともなくなった。

 いくら淡い期待だと分かっていても、面と向かって言われれば辛くなるなという方が無理である。恵も、

――一人になって考える時期に来たのかも知れない――

 と思い、店にはしばらく休養したいと申し出て、旅行に出たのだった。

 ショックからすれば、彼氏と別れた時の方があったのかも知れないが、余韻という意味では、今回の方が残っている。新たな自分の道を示してくれた相手が譲だと思っているからで、一人になりたいという思いは、そこにもあったのかも知れない。

 お店の方も、少し渋ったようにも見えたが、許しがもらえた。

「君は人気があるから、少し痛いけど、でも、今のまま続けていても、どこかでパンクしてしまいそうだからね」

「申し訳ありません」

 店長の優しさには涙が出そうだったが、そこはぐっと堪えて、なるべく感情を表に出さないようにした。お店への愛着はそれだけ店長への愛着でもある。心配を掛けたくないという思いもあるのだ。

 譲のことを忘れようとは思わなかった。忘れることなく、いい思い出にしたいと思ったから旅に出ることを選んだ。傷心旅行ではあるが、本人は傷心旅行とは思っていない。

――自分を見つめなおす旅――

 そう思っているのだ。

 失恋をしたら、

――しばらく男性を好きになることはない――

 と思うものだ。恵も同じ気持ちだったが、一人きりになってみると、

――また好きになれそうな男性が、すぐに現れるかも知れない――

 と思った。

 学生時代、あまり男の子に興味のなかった恵なのに、なぜか、告白してくる男性が後を絶えなかった。それほど綺麗というわけでもなく、目立つわけでもない。どちらかというと、どのグループに属すこともなく、いつも一人でいる女の子、それが恵だったのだ。

 恵もそのことをよく分かっていたので、告白してくる男の子が多いことにビックリしていた。

 しかし、いつも一人でいるとはいえ、友達がいないわけではない。そのうちの一人の友達と話をしていると、

「一人が似合うという女性だっているんだから、そんな女性を好きになる男の子も多いんじゃないかな? しかも、目立つ女の子を好きになる人たちとは違うタイプの男の子たちね。彼らは、きっと告白することを恥かしいと、断られたらどうしようなんていう感覚が薄い人たちなのかも知れないわね。告白したことに意義があるという思いでいるのかも知れないわね」

「じゃあ、私はお断りしても、あまりショックを受けないのかしら?」

「それとこれとは別よ。告白して断られたら、ショックを感じるのは同じ。受け止め方をうまくできるかどうかってことじゃないかしら? とにかく私たちにとって、あなたは羨ましい存在なんだから、逆に変な男を捕まえることだけはやめてほしいと思っているのよ」

 学生時代は、結局誰とも付き合うことなく卒業した。卒業すると皆なかなか連絡が取れない。そういう意味でも、一人くらい告白してきたうちの誰かと付き合ってみたかったと感じていたのだった。

 卒業してから、一人で旅行に出たことがあった。卒業旅行のつもりだったのだが、この時も最初から、誰かを誘う気にはなれなかった。一人旅をしてみたかったというのが本音だが、ひょっとして、そこで何かいい出会いがあるのではないかという気持ちになったのも事実だ。

――一人が似合う女性って言ってたっけ――

 友達の言葉を思い出し、それが自分のことだというのを、再認識してみたかった。その時の一人旅の目的は、そんな甘い気持ちが強かったのだ。

 ここを選んだのは偶然だった。

 何かの本に載っていたのだが、別に宣伝していたわけではない。口コミに近い形なのだが、別に褒めているわけでもなかった。

――本当に、この人は、自分で行ってみて書いているのかしら?

 と思わせるような文章にいささか疑問は感じたが、興味を持ったのも事実だ。今の自分にこそふさわしそうな所であり、ありきたりの温泉にはない何かを見つけられそうな気がしたのだった。

 途中、神社に寄ったのは、なぜであろう?

 新しく生まれ変わる気分になるための禊のようなものであろうか。お祈りをしているうちに、すがすがしい気持ちにもなってきた。これだと、温泉宿について一人でいても、別に辛くない気はしていた。まずは三泊。それから後の予定は考えていない。

 ローカル線とはいえ、秘境と呼ばれていそうなところに鉄道が繋がっているとは意外だった。たぶん、JRが管理できずに廃止路線と定めたが、途中にある学校などの通学に困るので、地元住民が買い上げたのかも知れない。運営を地元に任されているというのも、ほのぼのした感覚になれて、嫌ではなかった。

 神社は、ローカル線の始発駅にあった。JRの在来線でやってきてから、乗り換えまでかなりの時間があった。待ってもよかったが、それよりも、一本遅らせてもいいから、神社にお参りと、喫茶店でゆっくりするのもいいと思ったのだ。

 ここの神社は、今の恵には皮肉だった。縁結びの神様だったからだ。

「まあ、いいわ。いつ出会いがあるか分からないもの」

 と、わざと声に出して呟いたのは、自分に言い聞かせるという意味もあったが、誰もいないことを幸いに、呟くことは今までにも何度もあったことだった。

 神社の境内までの、参道は、結構広く作ってあった。参道は一方通行になっていて、真ん中は人が通れないように仕切ってあり、木が植わっていた。左側を通る形になるのだが、途中の鳥居が見えてきた時は、

「もうすぐだわ」

 と思ったが、鳥居を見ながら目指して歩いているのに、なかなか到達しない。どうやら、想像以上に大きな鳥居のようだった。

 鳥居を見ながら歩いてきたせいか、遠さは感じたが、そこまで疲れを感じさせられるほどではなかった。

 鳥居までくると、道は、そこで一本になって、鳥居を過ぎてから、さらに途中に門があるのだが、そこまで少し歩くと、その手前に手を洗うところがあり、水で手と口元をゆすいで、清めたのだ。

 境内に入ると、それなりに人はいた。さすがに縁結びの神様、心なしか女性が多い気がしたが、アベックよりも、女性同士が多いのも不思議だった。女性同士できて、もし。片方だけに恋人ができてしまったら、そして、その人に恋人ができる気配がまったくなかったとしたら、それこそ騒動の元になるというものだ。

 ここに来ている人はそこまで考えていないのか、それとも、友情は愛情よりも強いと思っているのか、それとも、まったくご利益を信じていないのかの、どれかであろう。

 恵は、ご利益を信じる方だった。だが、今の自分には、ご利益は考えないようにしていた。

 ご利益は、どうでもよかった。癒しになれればそれでいい。傷心の時間というのは、後から思い出すと淡い思い出になっていたりするもので、普段できない思い切ったこともできてしまう。神社に寄ってみたいと思ったのも、その思いが強かったからだ。

 神社の鳥居の赤い色、あんなに鮮やかな赤は初めて見た気がした。

 きっと、その向こうに広がっている空は、雲一つない透き通るような青さだったから、そう思ったのかも知れない。

 神社には人の数よりハトの数の方が多い。どうしてなのだろう? ハトは平和のシンボルだと言われることもあるが、一斉に飛び立つ姿と、羽が軋む音には、何か心の仲を奮い立たせるものがあるように感じる。

 特に、今の恵には、ハトの飛び立つ音は刺激が強すぎる。まるで自分を中心に、ハトが飛び立っていったような気がするくらいだったが、一緒に、そのまま自分も空に浮き上がって行ってしまいそうな気がしたくらいだ。

 ハトに驚いて、まわりを見渡すように、その場でくるりと一回転すると、一瞬、自分がいる場所がどこなのか分からなくなっていた。傷心旅行の初日で、最初の目的地の神社の境内にいるということを思い出すまでに、結構な時間を要したのだった。

 思い出すまでには、何段階も必要で、まず失恋した時から思い出さなければいけなかった。

 自分の職業や、譲がそばにいたことまでは覚えているのだが、そこから急に記憶が飛んだのだ。それだけ、失恋は恵にとってショックだったのだろう。本人はそこまでの自覚はないようであるが……。

 さらに恵はその時、すぐそばに、ごく最近まで自分に関わりのあった人の知り合いがいるなど、気付くはずもなかったのだ。

 そう、坂出とはここからすでに行動を共にしていたのだ。もちろん、坂出が自分と関係のある人物に当たるなど、思いもしなかった。偶然とは、いつ、どんな時も、どこにでも転がっているものなのかも知れない。

「俺は一体、何に疲れたというのだろう?」

 そう言いながら、境内を歩き回った。元々は、神社や名所旧跡を回るのが好きで、神社などに行けば、人が見ないような奥の方まで見なければ気が済まないタイプだった。

 普段から、リーダー格でいて、いつもまわりからのリーダーとしての視線を浴びるのも疲れてきた。しかも、一生懸命に尽くしてきた会社から、今度は利用されるだけ利用された自分を惨めに感じていた。

「リーダーではない自分の実力を見せつけたいと思って、張り切っていたところを付け込まれたんだ。出る杭は打たれたようなものだな」

 その考えが合っているかは別にして、冷静に自己分析もできている。

「しかも、癒しを求めていたところに現れたスナックのママに甘えてみると、どうも自分の中で嫌悪感しか浮かんでこない。これでは心休まるところはどこにもないじゃないか。要するに一人でいるしかないということになるよな……」

 一人、神社の奥に入り込み、うろうろしながら、声に出して言ってみた。声に出さない限り、気持ちが整理できない性格で、そのことは、彼の知り合いなら皆知っていた。だから、彼が一人でいるのをよく見かける。一人が似合う男と言われるゆえんでもあろう。

 坂出は、ここに来る前は、ずっと一人だった。だが、もしここで坂出を知っている人が彼を見ると、それが坂出だと気付かない人もいるかも知れない、それだけ、雰囲気が変わっているのだ。

 元々少しメタボっぽい雰囲気のあった坂出は、顔もふくよかと言えるほど、少しポッチャリとしていた。その雰囲気が可愛らしいと思う女性も中にはいたようで、彼がモテたり、リーダーシップを発揮できるのも、見た目の影響も多少なりとはあったかも知れない。扱けたような表情で、目が窪んでいたりする人間に、人を束ねられるような雰囲気を誰も感じることはないだろう。そう思うと、坂出は、生まれ持ってのリーダー格だったのかも知れない。

 それが、その時の雰囲気は、リーダー格だったと言っても、誰も信じることができないほど、痩せこけている。目の下にクマもできていて、まともに食事や睡眠を摂っているのを疑いたくなるほどだ。

 実際に、まともな食事は摂っていなかった。それまでは三食確実に摂っていて、好きなのは米の飯、健康体を判で押したような生活をしていた。睡眠も毎日八時間は摂っていて、

「お前寝すぎじゃないのか?」

 と言われるほどだったが、

「寝る子は育つっていうじゃないか」

「それ以上育ってもらっても困るけどな」

 と言って、笑い話になるほどだった。

 身長は、百八十センチ近くあるので、メタボっぽい体型であれば、かなり大柄に見えて、威圧感が発せられていたことだろう、第一印象で威圧され、会話をすれば、そこで確実に彼のリーダーシップに取り込まれてしまうパターンが学生時代には多かった。

 それでも、もちろん、彼を好きだという人間ばかりではない。最初に威圧させられても、最初から身構えていれば、何ということはない。身構えている人間には、彼は却って鬱陶しがられていたかも知れない。

 坂出には分かっていたことだ。

「俺は自分が付き合いやすい人と友達でいられれば、それでいいんだ」

 確かに、誰とでもそつなく付き合うことのできるのが理想かも知れない。だが、理想を追い求めるあまり、自分と仲良くなった人に対して付き合いが浅くなってしまっては、求める理想の意味がない。それなら、坂出のように、割り切って出会いを考える方が、前向きでいいではないか。坂出をリーダー格に置いている友達は、皆そう思っているようだ。

 坂出のことを嫌いな人は、坂出のリーダー格を、まるで宗教団体の洗脳のように思っている人もいるようだ。

「坂出グループは危険分子」

 他のメンバーを見れば、危険人物かどうか分かりそうなものなのに、坂出だけしか見ていないから、他のメンバーには、迷惑な話だが、他のメンバーも、

「言いたいやつには言わせておけばいいのさ」

 と、まったくうて合わない様子である。他のメンバーからは、坂出に対するリーダー格の素質への、ヤッカミに違いないと思っているからだ。

 坂出は、そんな中で、やっと就職してから、グループを離れることができて安心していた。

「三年後に、同窓会をやろう」

 と言い出したのも、実はグループを一旦解散しても、その後、自分の影響力がどれほどのものであったかを知りたいと思ったからだ。三年という歳月を区切ったのは、就職した人であれば、落ち着いた時期でもあり、大学に進学した人であれば、そろそろ就職活動を考えなければいけない時期となり、少なからずの精神状態に変化をもたらす時期だと思ったからだ、

――長くもなく短くもない時期――

 それが、三年だったのだ。

――石の上にも三年――

――桃栗三年、柿八年――

 意味は違っているとしても、三年という時期は、昔から、一区切りの時期と言えるのではないだろうか。最初に三年と言い出した時に、そこまで考えていたわけではないが、後から考えてもちょうどいい時期だったに違いない。そういう意味では、同窓会を開くとしたら、三年刻みで開くのがいいだろう。

 坂出にとってもグループは、一緒にいる時にリーダー格として収まっていることに窮屈さは感じたが、一旦離れてしまうと、懐かしさはすぐにこみ上げてくる。

「懐かしさという言葉が、やたら新鮮に感じるのは、グループへの愛着があったからなのだろうか? それともリーダーではなくなったことに対しての開放感と、それまで感じていたはずの充実感を味わうことができなくなってしまったことへの物足りなさとが入り混じったような不思議な心地にさせられるからだろうか?」

 坂出は、呟きながら考えたものだった。

 開放感の方が確かに強かった。人に頼られるよりも、頼って生きる方が気は楽だし、頼られる方の気持ちも分かるので、無理強いは決してしない。相手も分かってくれているようで、一緒にいることに違和感がなくなる。

 一人でいたいという時期と、自分を分かってくれる人と一緒にいたいと思う時期、それぞれに独立して感じていたが、そこには、次第にその間隔が次第に短くなってきて、境目が分からなくなってしまいそうになっているのも分かってきた。

 最初は、ハッキリとした一人でいたい時間と、他の人と共有したい時間の区別がないだけだと思っていたが、それは、間隔が短いだけで、自分の中で確かに区別をつけていることに気が付けば、また少し、自分のことが分かってくる気がしたのだ。

 三年後の同窓会を意識し始めたのは、卒業してから二年後、同窓会の一年前からだった。最初から意識していたのならいざ知らず、まだ一年を残して意識し始めると、それからの一年間というのは、長く感じられるものだった。

 一年を、十二か月と考える人がほとんどで、三百六十五日だと考える人は、まずいないだろう。だが、一日単位で、指折り考えてみると、最初は、まず三百六十五日の一日目で、残りが三百六十四日だと思い、一か月の中の一日だと考えることはないだろう。段階を重ねないと、一か月単位で見ることはできないからだ。

 それでも一日をカウントできるのは、数日までだろう。忙しくなれば、自然と一年後に迫ったエックスデーを、カウントするのが難しくなる。なぜならば、過ごしていた一日一日が、同じ長さではないことを無意識にでも感じるからではないだろうか。

 一日があっという間だと思っても、一週間で考えると、かなり時間が掛かったように思う。それは、一週間前を思い出して、遠い過去のように感じるからであるが、逆に一日がなかなか過ぎてくれず、長かったと思ったとしても、一週間経って、一週間前を思い出すと、まるで昨日のことのように思い出せるからである。

 一日一日の重みが違い、記憶に鮮明に残っている日は、一日が長く感じるだろう。だが、そんな日は、記憶が鮮明な分だけ、思い出そうとすれば、まるで昨日のことのように思うくらいの錯覚を生むのである。錯覚だと言われればそれまでだが、錯覚も理論で考えれば、楽しいものだとは言えないだろうか。

 そんなことを考えるのが、坂出は好きだった。

「きっと三年経って、同窓会をすれば、皆懐かしい顔が並んでいて、話題は間違いなく三年前のことだ。まるで昨日のことのように思い出され、三年という期間が何であったか、その時だけは忘れることができるんだ。三年間、楽しい思い出ばかりだった人、紆余曲折を繰り返した人、波乱万丈だった人、それぞれに同じ思いで迎える同窓会には、それまでの人生をリセットできるだけの力を与えてくれる人もいるんじゃないかな?」

 と、感じた。

 ただ、リセットするのは、その人本人だ。あくまでも本人の意思がなければ成り立たない。リセットにタイムリミットはないが、訪れた機会に気付くか気付かないか、その人の性格と、それまでの人生に対する自分の思い入れによるものではないだろうか。

 実は、坂出と恵は、これが初対面ではなかった。

 恵の方から見て坂出は、当然のことながら、以前の雰囲気しか知らない、変わり果てた姿は誰が見ても、すぐには坂出だとは気付かないだろう。

 坂出の方としても、あまり人の顔を覚えるのが得意ではない。以前に会った時は、丁寧に化粧を施していたが、その日の恵は、ほとんどすっぴんに近いほどの薄化粧だった。

 二人とも気付かないのも無理はない。会ったと言っても、恵が譲と一緒にいる時に、偶然出会ったのが坂出だっただけで、坂出からすれば、譲の会社の同僚くらいにしか思っていなかったであろうし、恵の方としては、なるべく相手に付き合っていることを悟られないようにするために、相手の顔を見ないようにしていたからだ、

 恵は相手の顔を見ないようにしたのは、譲のためだった。自分としては恋人同士に見られるのは嬉しかったが、もし相手に悪意があり、譲の奥さんにでもご注進されてしまっては、困ると思ったからである。

 ただ、それも長い目で見れば自分のためである。保身の意味もあるが、今後、彼が言うように離婚してくれて、自分のことを真剣に考えてくれるようになるためには、今は奥さんにバレることだけは避けなければならない。

 その時は、ほんの二、三分の出来事、会ったというには微妙であろう。時間が経っているので、

――初対面ではない――

 という程度にとどめておくのが無難であろう。

 初対面ではないことに、先に気付いたのは、恵だった。やはり女性の記憶というのは侮れないもの。だが、

――初対面ではないかも知れない――

 という程度で、確信が持てるほどではなかった。

 最初に気付いたのは、宿に入った時に、男が、

「坂出です」

 と、名乗った時のことだった。

 坂出という名前を、初対面の時に譲に聞かされていたかも知れない。そして、少しだけでも、聞いた話を思い出した。

「坂出というのは、俺たちのグループの中ではリーダー格なんだ。でも、やつは決して威張ることのないリーダーだったので、それらしくないところもあったが、皆それぞれ信頼していたんじゃないかな? もちろん、この俺だって坂出には一目置いていたし、リーダーにはリーダーになる素質があるというのは、坂出を見ていれば分かる気がしたんだ」

 その時、初めて恵は、譲の口から奥さんの話を聞いたような気がした。

「俺の妻は、坂出をリーダーとするグループの一員でもあったんだ。名前を恵子っていうんだけどね。綺麗で、スタイルもいい、それでいてひけらかすこともなく、同じグループ内にいた女性の中のリーダー格の人に、いつも気を遣っていたかな? もちろん、他の人への気遣いも結構していたと思うんだ」

 誰が聞いても、のろけでしかないのだが、

――なぜ敢えて、この時に彼は私に、奥さんの話をしたんだろう?

 と、不思議に思えた。しかも内容はのろけである。

 それなのに譲は、奥さんと離婚しようと考えているようだ。どうにも矛盾している話ではないか。

 確かに矛盾はしているが、譲の表情には、矛盾を感じさせる迷いのようなものは感じられない。割り切った後のすがすがしさを感じるくらいで、もし本当に離婚を考えているのであれば、これから奥さんとの交渉が控えているのに、そんなに余裕でいいのかと、離婚を考えていること自体を疑わせるほどの落ち着きだった。

「離婚ってね、結婚の何倍ものエネルギーを使うっていうのよ」

「それは、別れようとする方も、別れさせられる方も同じなのかしら?」

「その人の感じ方によって違うんでしょうけど、私は、同じかも知れないと思うわね」

「要するに、どちらも同じくらいに傷つくということかな?」

「そうね、そういうことなんでしょうね」

「でも、それなら離婚しなければいいのに、そんな軽い気持ちで結婚したわけでもないと思うんだけどな」

「理屈通りにいかないのが男女の仲。あなたにも分かる日が来るかも知れないわね」

「ええ、でも分かりたくない。分かるのが怖いというのが本音よね」

 これは、風俗仲間の女の子との話の内容だった。実は風俗に勤めている女の子仲間との会話の中で分かったことは、どんな理由があるにせよ、風俗で働いている女の子は、心が弱いということだ。怖いなんて感情は日常茶飯事、だから、尽くすことに集中できるとも言える。恵は、仲間との会話の中で、いくつも感じることがあった。その会話をした時、すでに譲からは、奥さんと離婚するという言葉が出ていたからだった。

 奥さんと離婚するという言葉を聞いた恵は、複雑な心境になった。その時の心境が、きっと表情に表れていたはずで、今から思えば、

――そういえば、彼もおかしな表情していたっけ、まるで、ハトが豆鉄砲を食らったような顔っていうんだったっけ――

 と思ったほどだった。

 相手の顔を見て、その時、おかしいと思わなかったのは、それだけ相手のことを考えるよりも、自分の中の戸惑いが大きかったからに違いない。

 戸惑いとは、二つの思いだった。

 一つは、素直に嬉しい気持ちである。

 譲との関係の不透明さに対して、譲自身が前に進もうとしている気持ちを示してくれたことが嬉しかったのだ。それまでの関係は、客と風俗嬢から、恋人同士に発展したとはいえ、それ以上を望むことのできないものだった。最初から相手に奥さんがいると分かっていて付き合いだしたのだから、自分が悪いのだろうが、やはり女としてはどこかでケジメガ必要だと思っていたのだ、

 もう一つは、不安がさらに募ったことだ。

 前に進んだということは、それだけ後ろがあるということである、しかも相手があって一緒に進んだのだから、後戻りはできないということだ。

 それなのに、恵は彼のことをあまり知らなかった。奥さんがどんな人で、離婚を考えたのか、さぞや、綺麗な人で、それをひけらかしていそうなわがままな女性のイメージだけが頭の中で膨らんでくる。あくまでも勝手な妄想であるが、それも、譲が自分を思ってあまり奥さんの話をしなかったことが招いた妄想。妄想を跳ね返すには、かなりの時間と頭の切り替えが必要だと思えた。

 それだけに後になって、彼が奥さんの話をしてくれたのはありがたかった。

 ただ、それもその時に、友達だと言っていた坂出に会わなかったら、恵に奥さんの話をしただろうか? それも疑問だった。

 坂出と会ったことで、奥さんとのことを思い出し、してくれたのかも知れない。ひょっとすると、譲は、恵といる時、奥さんの話をしないのは、恵に気を遣っているからだというよりも、恵との時間を、自分の中の隠れ家のように思っていて、その中に、いわゆる「俗世間」を入り込ませたくないという、譲のエゴなのかも知れないと思うのだった。

 坂出と出会ったことは、そういう意味では意味のあることだったのかも知れない。偶然人と出会うこともよくあることだが、それも大なり小なりに、必ず意味があるものではないかと思うと、面白く思えてくる。

――じゃあ、この旅行で、坂出さんに出会ったことも、大きな意味があるのかも知れないわ。偶然にしては、出来すぎているくらいだから――

 しかも、この温泉は、誰も知らない秘境のようなところである。傷心旅行か、人生に疲れたような人が来るところだと思うので、坂出にも何か理由があってのことに違いない。坂出の方では、まだ恵のことに気付いていないようだが、このままでは、気付かぬまま別れてしまうことになる。それだけはなぜか嫌だった。

 だからと言って、いきなり名乗るのも抵抗があった。

 一人でいたいと思って出かけた旅行、そして、話しかけるには勇気がいる宿の雰囲気と、さらには相手の雰囲気、以前会った時もクールな人だと思ったが、さらに何かを考えているところに話しかけるには、それなりの勇気がいる、

 しかも、そんな勇気は何度も持てるものではない。一度失敗すれば、それ以上、二度目はないだろう。そう思うと、慎重になってくる恵だった。

 坂出の頭の中には、仕事のことや、スナックのママのこと、さらには妹の亜由子のことも頭になかった。

 今、坂出の頭の中にあるのは、同窓会メンバーのことで、しかもその中でも気になっているのが、美穂だったのだ。

 美穂は、坂出が全体のリーダー格なら、サブリーダーと言ってもいいだろう。そして、女性をまとめるのも彼女の仕事。それが分かっているから、美穂は坂出に、坂出は美穂にそれぞれ、尊敬の念を抱いていた。

 知らない人が見れば、付き合っているように見えたかも知れない。だが、二人は付き合うことはなかった。リーダー格同士、付き合ってはいけないわけではないし、それも分かっているつもりだったが、お互いにグループの和を保つためには、二人が付き合わない方がいいという考えを共有していたようだ。

 もちろん、旅行先で出会った恵に、坂出が何を考えているか分かるはずもない。ただ、何かに考えに耽っているのは分かっているだけだった。

 美穂のことは、グループの中でも好きだった男もいるはずだ。中には、

――俺では、釣り合わない――

 とまで思っていた人もいたかも知れないが、坂出から見ていると、皆、それぞれに誰かを気にしているのが分かった。詮索するわけにはいかないので、あまり見ないふりをしていたのだ。

 坂出は、美穂のことが気になりだした時、自分がおかしくなったのではないかと思った。その時にはスナックのママとの付き合いがあり、美穂のことを意識から外していたからだった。

 しかし、それは本当は自然なことであり、それまで自分が無理をしていただけだったのだ。

 美穂と自分が同じグループのリーダーとサブ。そんな関係に恋愛感情を持ち込んではいけないという思いが坂出の中にずっとあったのだ。

「グループの輪を乱す、諸悪の根源」

 とまで思っていて、美穂のことを意識はしても、それは恋愛ではないと自分に言い聞かせていた。

 ただ、美穂は坂出にとってタイプの女性であった。それでも今までの思い込みに逆らうほどの力はなく、それでも心の葛藤は続いた。爆発しなかったのは、自分が美穂を好きだという感覚に蓋をして、感覚自体をマヒさせるくらいの気持ちになっていたからである。

 確かに感覚はマヒしていただろう。美穂に対して見る目が、少し陰湿ではなかったかと思うこともあったが、それでも一時期だけのこと、自分がしっかりさえしていれば、何ら問題は起こらないと思っていたのだ。

 同窓会を開こうと思ったのも、美穂に会えるのが嬉しかった気持ちもあった。卒業してしまってからは、もうリーダーでもサブリーダーでもない。付き合いだしたとしても、そこに問題は何も発生しないはずだ。

 だが、お互いに環境が変わってしまうと、美穂を好きだった自分の気持ちを抑えることができるようになった。

――俺の気持ちって、たったそれだけのものだったのか?

 と自問自答を繰り返したが、美穂を好きになったことを後悔するわけでもなく、却って楽しい思い出になるであろうと感じると、ますます同窓会が楽しみになった。

 三年という月日は、坂出を変えていた。

 会社に入って、上司のいいように使われた自分に気が付いた時には、さすがに憔悴したものだ。

 それでも癒してくれるママがいたので、何とかなっていたが、その時すでに坂出は、自分が同じ場所にじっとしていられない性格であることに、初めて気づいたのだった。

 貧乏性というのは、子供の頃から言われていた。

 小学生の頃、家族で温泉旅行に出かけた時、宿に着くと、親はぐったりと疲れて、その場にへたり込み、部屋でくつろぐことしかできなかった。子供とすれば、これから楽しいことが始まると思っているので、宿の中から、まわりまでくまなく散策したいと思っても無理もないだろう。それは妹の亜由子も同じだったようで、お兄ちゃんにピッタリくっついて離れなかった。

 そんな時に、親は、

「あんたたちも、ゆっくりしていなさい。そんなに勝手に出歩くもんじゃありません」

 と、説教じみたことを口走る。

 子供心に、

――何言ってるんだ。親がへたれて動けないから、僕たちだけで探検するんじゃないか――

 と言ってやりたかったが、口に出すことはなく、ただ、親を睨むだけだった。

 それでも、少しは後ろ髪を引かれたが、反発心の方が強く、

「理不尽な命令に、誰が従うもんか」

 と、勢いよく部屋を飛び出しては、館内や、外を散策したものだった。

 その頃から、自分は貧乏性で、じっとしていられない性格なのだということを自覚するようになったのだ。

 子供から青年になっても、変わりはなかった。ずっと、

――どうして大人は、宿でゆっくりしたがるんだ。それだけならいいが、子供にまでそれを強いるなんて、その心が分からない――

 と、思ったものだ。

 だが、そこに親としてのエゴや体裁が包まれていることをウスウス気付いていた。気付いていたことで、余計に分からない気分になってしまっているのだ。

 大人になどなりたくないという気持ちは子供の頃にあったが、リーダー格になってしまったことで、そんなことにこだわってはいけないのだと思うようになると、自然と、

――親のような大人でなければいいのだ――

 という、焦点を狭めた感覚になり、気も楽になるというものであった。

 そんな坂出をずっと下から見上げていたのが、亜由子だった。

 亜由子はいつも坂出のそばにいて、黙って見ているだけだった。最初の頃は、

「鬱陶しいから、ついてくるな」

 と言っていた坂出だったが、悲しそうな顔をして、見上げるその顔は何かを訴えているが、金縛りに遭ったのか、しばらく動けなくなっているようだった。

 それを見た坂出は、踵を返し遠ざかっていくが、背中に感じる視線は、いつまでも消えることはなかった。

 そのうちに、亜由子の方も慣れてきたのか、金縛りに遭うこともなくなり、悲しい顔をするのは変わりはないが、何を言われても、坂出の行く後ろをついて行くだけだった、

 坂出は、小学生の頃は、あまり友達と遊ぶ子供ではなく、一人が多かった。一人が似合うとまわりから認めさせたいのに、そのそばに妹がいたのでは、せっかく一人が似合うと思っていても、まわりは、そうは見てくれないだろう。

 そんな坂出を見ていて、亜由子は、寂しい思いをしていたに違いない。自分としては、たった一人の兄妹。仲良くしていくのが当然と思っていたからで、子供の頃から、そういう意味では坂出と亜由子の考え方は、距離があった。

 亜由子の一方的な兄への思い、それは亜由子だけの胸にしまっていたのだが、見ている人には分かるもので、同級生の男の子に、

「お前、本当は兄貴が好きなんだろう?」

 と、言われて顔が真っ赤になるほど恥かしかった。自覚していなかったわけではないので、余計に腹が立ち、気が付けば相手のひっぱたいていた。人を卑下する人ほど臆病なもので、亜由子の迫力にすっかり参ってしまったようで、腰を抜かしてしまうほど、インパクトの強いものだった。それだけ亜由子が普段から大人しい性格の女の子だったということで、亜由子が暴力をふるったことは、学校中で、一時期噂になったほどだった。

 ただ、なぜなのかが誰にも分からなかった、叩かれた方も、恐ろしくて、二度と口にできないことだと思ったようだ。そのおかげで、亜由子の思いは、その時にまわりに知られることなく、亜由子の中で封印することができたのだと思う。その頃を境に、亜由子は兄に付きまとわなくなったからである。

 相変わらずクールな坂出に、妹も大人しく、一人でいることの多い女の子になった。

――なるほど、お兄ちゃんが、一人でいたい気持ち、私も一人になってみれば、分かった気がするわ――

 と、亜由子は感心したものだ。

 今度は、亜由子が人から付きまとわれる番だった。

 同級生の女の子が、自分のそばから離れなかった。その様子はまるで以前の自分のようだった。

――お兄ちゃんのように、怒鳴ってみようかしら?

 とも思ったが、やられたことで嫌な思いのしたことを、他の人にできるほど、亜由子は図太い神経をしているわけではなかった。そこは、うまくいなしていたが、たまに鬱陶しい時は、

「あまりしつこくしないでよね」

 と、しかとしたこともあったが、その時に見せる、まるで捨てられた子猫のような表情に、自分が弱いことを、認識したのだ。

 亜由子は、そんな自分の性格を、

――あまりお兄ちゃんには似ていないわ。第一お兄ちゃんのようになりたいと思っても慣れるはずないって思うもの――

 と、感じていた。

 坂出のどんなところになりたいと思っているのだろう。一番考えられることは、

――孤独が似合う人――

 だと思われたいということであった。

 坂出は、美穂を見ていると、

――まるで、亜由子を見ているような気がすることがある――

 と感じることがあった。亜由子と美穂では、雰囲気も違えば、女としての魅力も違う。確かにリーダーとサブリーダー、兄と妹、関係としては似ていないわけではないが、決定的に違うのは、

「血の繋がり」

 である。

 血の繋がりなどと、昔の人の考えるようなことは、本当はあまり好きではない。なぜなら、血の繋がりによって縛られた世界で生きなければならなかったり、骨肉を争う事態に陥ったりするというドラマのような世界が実際にあるというではないか。

 それを思うと、坂出はやりきれない気持ちになる。しかも、もし妹が本当に自分の好きな相手で、血の繋がりのせいで、何もできないなどというやりきれない気持ちになど、なりたくはなかった。

 なるべく、亜由子のことを考えないようにしようと思うと、今度は眩しく見えるのが、美穂だった。

 素朴な雰囲気の幼さに、細目に魅力を感じる亜由子に比べ、目元クッキリとした美穂は、実に眩しく見える。亜由子がかすみ草なら、美穂は太陽のようなひまわりであろう。

 小柄な亜由子に対して、美穂は目元同様に、身体も大きく、その大きさが女としてのマイナスにならないところが、美穂の魅力とも言えよう。

 美穂と亜由子を同じ次元で見ること自体が、いけないことのように思える。それを思うと、坂出はやるせない気持ちになるのだった。

 坂出は、いろいろなことが、走馬灯のように頭を巡り、懐かしさから、現実の厳しさを教えられる会社へと、想像が及んでくるのだった。

 完全に、会社から裏切られたような感覚だ。やらせるだけやらせて、後はトカゲの尻尾切りのように、いらなくなった人間を遠ざけたり、左遷したり平気でしている。社会というのはそういうところもあるのだということは分かってはいたが、いざ自分のこととなると、今まで生きてきた証を、すべて踏みにじられたのと同じことである。

「俺が一体何をしたんだ」

 決して会社の不利になることや、困ることはしていないはずだ。緘口令が敷かれたことも決して表に漏らしたわけではない。これでは完全に最初から、自分は捨て駒だったとしか思えないではないか。

「一体誰を信じたらいいんだ」

 人間、頼りにされれば、張り切るのは当たり前だ。しかも直属の上司から、

「君を見込んで」

 などと言われれば、有頂天にならない方がウソである。最初から疑いの目を持ってしまえば、できる仕事もできなくなる。それは至極当然のことである。

 坂出は、会社の上司を慕っていた。妹が一人いるだけの長男、

「兄貴がいてくれれば」

 と、何度思ったことか。

 リーダー格を見込まれたのも、長男というところに何か見るところがあるからなのか、一人になってしまうと、兄貴がいないことを、恨んだりもした。

 会社に入れば、一番の下っ端、同期の連中がどう思っているか分からないが、坂出は、上司を持てることが嬉しかった。

 高校時代も部活をしていなかったので、先輩後輩の関係をあまりよく知らない。なので、社会に出てから、一番の下っ端の気持ちになれるのが新鮮だった。

 新入社員自体が新鮮な感覚なのに、先輩に対しても新鮮に接することができるのは、ありがたいことだった。

 直属の上司は、本当に兄貴のようだった。慕っている雰囲気を出しても、甘えているように見てくれないところが嬉しかった。

「短所を治させるよりも、まずは長所を伸ばすこと。よく言うだろう? 長所と短所は紙一重ってね。そういうことなんだよ」

 他の人が聞けば、理解に苦しみそうな話でも、坂出が聞くと、よく分かる。一応坂出も高校時代リーダー格だった人間である。人を諭すような言い方は、慣れたものである。

 坂出にとって、会社でありがたかったのは、女の子の優しさが違ったのだ。

 リーダー格を相手にするのと、同期であったり、後輩を相手にするのであれば、それは当然ながらに女性の態度が違っていて当たり前である。

 坂出が、学生時代までつけていた日記を一時期やめていたのは、

「縛られることなく、まわりの波にゆっくりと揺られながら暮らしてみたい」

 という思いがあったからで、縛られるというのは、人から縛られるわけではなく、縛っている自分から解放されるという意味である。毎日をキチンと日記につけておくのは、自分で課した呪縛のようなものだが、やってみると、これがなかなか楽しいもの。その楽しさの大半は、自己満足であった。

 自己満足は、決して悪いことだとは思わない。

「自分で満足できないものを、どうやって人に満足させられるというのか」

 という考えが元になっている。

 結果としては、

「人を満足させたい」

 というところに落ち着くのである。

 この考えは、リーダーシップだとは言えないだろうか。押しつけではなく相手を満足させることという考えがあるのは、自分であれば、人を満足させられるという自信の裏返しでもある。普段から自信をひけらかしているつもりはないが、自分に自信の持てない人間として、リーダー格を発揮するというのは、完全に人を欺いていることになる。坂出はそれが嫌だったのだ。

 そんな時に、意識したのが、鍋島由美子だった。彼女には今まで自分の近くにいた人で、相手を女性として意識したことがあまりない人に雰囲気が似ていた。鍋島由美子を見ていると、どうしても、その人のイメージが重なって、思い出は、またしても、同窓会のメンバーを思い返させてしまう方向へと導こうとするのだった。

 鍋島由美子には、どこか自虐的なところがあった。あまり自分から口を開くことはないが、もし口を開いて話をしたなら、最後には自分から折れてしまって、

「どうせ私なんか」

 というセリフで落ち着いてしまうのが、目に見えていたのだ。

 同窓会メンバーの、似ている人にはそこまで感じなかった。なぜなら、彼女のまわりには、少なくとも同窓会メンバーがついているのである。

 もちろん、その元締めは自分であって、悪い気はしない。いつもいつもリーダー格としての存在を嫌がっているわけではなかったのだ。

 それなりに、おいしいところもある。

 リーダー格でいられたおかげで、他のグループの格になっている人との会話で、まるで目からウロコが落ちるような話を聞かされたこともあった。

 さらには、思っているよりも、女性からモテていた。影で自分のことのいい噂をされるというのが、これほどくすぐったく、心地いいものなのだということを、今さらながらに教えられた気がしたのだ。

 そんな坂出に、鍋島由美子は、惜しげもなく近づいてきた。ただ、彼女の中に何か打算的なものがあったわけではなく、ただ、一緒にいて楽しいと思っただけのことなのかも知れない。だが、坂出は鍋島由美子を意識しないわけにはいかなかった。付き合って行きたいという感覚よりも、ただそばにいてくれるだけで、それだけでいいと思わせる女性。それこそ癒しを含んだ女性と言えないだろうか。

 鍋島由美子も同じことを考えていたようだ。

 坂出と一緒にいる時が一番楽しいと、話してくれていた。その言葉にウソはなく、付き合いは実に颯爽としたものだった。颯爽という言い方は変かも知れないが、あくまでも坂出が鍋島由美子を見て、そう思うのだ。颯爽として自分から相手を見上げるような女性は今までにいなかった。

 ただ、それは坂出と一緒にいる時だけだった。他の人の前に出ると、言葉も出てこない。どう見てもビクビクしていて、自分から人に声を掛けることもできない自虐的な女性になってしまうのだ。

 坂出に対しても最初は自虐的だった鍋島由美子だが、どちらが本当の彼女なのだろう? 坂出には分からなかったが、少なくとも自分と一緒にいる時の鍋島由美子にウソはないと言い切れるのではないだろうか。それだけに同窓会メンバーに似ている人がいることは、どうしても、自分をまた同窓会メンバーのリーダーとしても格を思い出さざるおえないのだろう。

 今思い出しても、彼女の顔がおぼろげだ。それだけ同窓会にいても、

――わざと気配を消しているんじゃないだろうか?

 と思わせるに十分だった。

 リーダーとしては、まわり全体を見渡すことをくせにしていたので、気にはしていても、目を合わせることはしなかった。幹事は川崎に任せているからいいのだが、ただ、それサブになったのが、美穂だっただけに、少しだけ川崎に嫉妬したのも事実である。

 坂出は、意外と嫉妬深い方だ。昔から好きになった女の子が、誰か他の男の子と話をしていると、気になってしまい。嫉妬心がメラメラと浮かび上がってくる、だが、燃え上がってしまうと、今度は沈静するのだが、その時に、すっかり意気消沈してしまって、好きだった相手に対しても、

――本当に好きだったんだろうか?

 という疑問を抱かせるほどに、憔悴してしまっていた。そして、最後はスッパリと諦めるのだ。

 未練はさほど残らない。未練が残るほど付き合ったわけではない。ただ、自分の中で勝手に妄想してしまい、相手への思いを完全燃焼させてしまい、結局、それ以上燃え上がることはない。

 自分の中に残った燃えカスがどうなってしまうのかを気にすることもあったが、

「きっと、知らないうちに身体に吸収されてしまうんだろうな」

 と思うのだった。

 他の人だったら、身体の外に出すことを考えるだろうが、坂出はそうではない。すべてを取り込むという考えは危険な気もするが、表に出してしまう方が却って怖い気がするのだ。自分の知らないところに、それまであった自分の感情が形を変えて出ていくというシチュエーションは、如何ともしがたく、気持ち悪いだけであった。

 ある意味、モチベーションの問題なのかも知れない。身体の中に残っている方が、何かあった時に思い出して、鎮静に役立つかも知れないからだ、それだけ坂出は、

「本当の俺は激情家なんだ」

 と思っているのかも知れない、

 坂出は、嫉妬も激情の一つの感情の表れだと思っていた。

 また、熱しやすく、冷めやすいのも坂出の性格の一つだった。それが激情家と思われるゆえんでもあるだろう。

 恋愛に対しては、人からはクールに見られているようだ。自分でもクールだと思うことがあるが、それはあまりにも劇場しすぎて、その思いを表に出せずにいることで、自分がパンクしてしまったからだ。

 表に出せない性格が、これほど苦しいとは、最初感じていなかった。何度も女性と付き合って行くうちに、表に感情を出すよりも内に籠めることを覚えてしまったようで、経験が却って逆効果になるということもあるのだと、感じたほどだ。

 他の人には、あまり気付かれないように付き合ってきたのも、慎重だというよりも、内に籠ることで、気配を消すことを覚えたからであろう。

 気配を消すことを覚えると、なぜか嫉妬心がこみ上げてくるのは自分の性格で、それはどうにもならないことだということに気付かされる。リーダー格などになるにはほど遠い性格だったのかも知れないが、なぜそんな坂出がリーダー格になったのかは、本人も気づいていないかも知れない。

「己を知ることが、まわりを知ることの一番の近道だ」

 という考えは、川崎と知り合った時に生まれたものだった。

 川崎も、その考えを共有していた。

 しかし、川崎も最初から確固とした考えとして抱いていたわけではない。お互いに会話することが好きなもの同士が寄って話をしているうちに、気が合ってきたのだ。

 そして、川崎はその思いが固まってきたことを坂出に話す。坂出の方でも、まるで目からウロコが落ちたかのように、その意見を素直に受け入れた。

 だから、川崎は、最初から坂出にこの思いが確固たるものとして根付いていたと思い、疑う術を持っていなかったほどだ。そういう意味では川崎と友達になっていかなったら、坂出もリーダー格としての素質を見出されることはなかったかも知れない。よしんば、いずれは、リーダー格になる素質があったとして、その時、川崎と友達でいるかどうか、まったく分からない。

 川崎にとって、坂出は、恩人のように思っている。

 本当は、坂出の方が川崎を恩人だと思っているが、元来の内に籠る性格が、坂出にも、川崎にも、その思いを抱かせることはなかった。川崎の方だけが、自分を見つめなおし、坂出に対して尊敬の念を抱くことで、自分が表に出ることができると分かっただけでも嬉しかった。

 川崎が、坂出の失踪に一番疑問を持った男だった。探してみようと思ったのも、当然といえば当然、坂出がいないと、自分の存在を再度疑ってしまう時期を迎えるのが怖かったからだ。

 ただ、坂出が、自分の知らないところで、会社の人からの裏切りを受けていたりしたのにはビックリした。そして、スナックのママの存在。

――坂出であれば、他に女性ならいくらでもいるのに――

 と、思われた。

 だが、それがそもそもの考え違いで、坂出という男を理解していない証拠だった。もっとも、川崎が坂出を理解しているのは、坂出自身が表に出せる部分の一番奥深くを見ているから、見誤ったとも言えるだろう、

 見誤ったことを、悪いとは思わないが、川崎は、それでも、

――何か、どこかが変だ――

 と、感じはじめているのも事実だった、

――最初につけていた日記帳。さらに、スナックのママのところからつけ始めた日記帳。それぞれに二面性のある坂出が描かれている。彼はそれほど、二重人格な人物ではないはずだ――

 誰よりも坂出のことを理解していると自負する川崎は、実に不思議に感じていた。確かに川崎は誰よりも坂出を理解している。しかし、坂出の本質にどこまで触れているのかは疑問の残るところだった。

 それは亜由子も感じていた。

――この人はお兄ちゃんのことを分かっているけど、すべてを分かっているわけではない。どのあたりまでを分かっているのかしら?

 と感じていた。

 亜由子は兄妹なので、最初から川崎とは立場が違っている。違っているから、兄を見るには川崎の力が必要なのだ。利用しているようで申し訳ないが、川崎に悟られないように後ろからついていくことにしたのだった。

 川崎には、最初、亜由子の考えが直感で分かっていた。しかし、亜由子と一緒にいるうちに、その直感を疑い始めた。

「亜由子ちゃんに限って、そんな打算的なことはないわな」

 と感じたのだった。

 亜由子にとって、そう思われるのは好都合だったが、騙しているようで心苦しくもあった。それでも、まずは兄のことを探らない限り、先には進まないと思っているのも事実であった。

 恵は、神社に来る途中にあった参道を思い出していた。

 上りと下りの間には、途中を隔てるものがあり、お互いを意識してはいけないのではないかという感覚があった。それは後ろを振り返ってはいけないという思いと、振り返ることができないようにするために、一方通行にしたのではないかという思いである。

 中央を隔てるその場所は、神様のみが存在できる場所として、君臨している。神様は時に、気まぐれで、中央の存在感をまわりに嫌というほど味あわせる時もあれば、まったく何も感じさせない雰囲気を醸し出すこともある。

 神様の存在に気を取られて、まわりの人のことなど、まったく意識がなくなる感覚、また、神様が存在感を消そうとしても消えるものではなく、気配を感じることもないのに、何かが存在しているという普通であれば、逆の感覚を与えるはずのものをまったく違った形で与えているのだ。

 恵は、中央の存在の中に、自分と、先ほど出会ったばかりの坂出を当てはめていた。坂出がどんな人なのか分かっていなかったはずなのに、彼は、まわりを歩いている人間というよりも、中央にいる神様のイメージが浮かんだからだ。

 恵は自分が中央にいるという感覚は間違っていないと思った。今は失恋し、傷心旅行をしている。他の人とは一線を画した感覚を持っている。しかもここは縁結びの神様だというではないか、恵には縁遠いだけに、俗世間を忘れるにはいいだろう、

 一番俗臭い仕事をしている自分だったが、男性に対して奉仕の心は誰にも負けないとまで思っている。もっとも、それくらい思わなければ、やっていけない商売で、自分をどこまで捨てられるかというよりも、客観的に見ることができるかだと思っていたが、それは、自分を神様と崇めながら、客観的に見ることができるかということに掛かっている。

 恵の常連客のほとんどは似たような男性が多かった。

 初めて風俗の相手をしたのが、恵で、恵を忘れられなくなってしまった男性がほとんだということだ。恵はそれだけの魅力があるのだが、初めての人が恵を指名するには、この世界を知らない人たちにとって、女神に見えるからなのかも知れない。

――私のどこが女神なのかしらね――

 という思いを抱きながら、

――やっぱり私を慕ってくれる人がいるのはウソではないのだ。しかも同じ人が何度も来てくれる。こんなに嬉しいことはない――

 と、感じていたのだ。

 神社に向かう途中の道で、恵は何も考えずに、ただ前だけを見て歩いていたが、そんなことができるのは、恵だけだったのかも知れない。同じ雰囲気の同じタイプの人から見つめられても、意識をしないからではないだろうか。ここの道を通る時、たくさんいる神様の中の誰か一人が見つめることに成功すると、他の人は見ることができないようになっているという、だからこそ、運試しにここを何度も通る人がいるというくらいだ。それだけ神頼みをしないと、やっていけない世の中になってしまったのだ。

――ひょっとすると、この中には、自分とそっくりの神様がいるのかも知れない――

 と思った。そして、その人が本当に最初に自分を見てくれるかどうか、それが問題である。何も感じることなく、ただ通り過ぎる人もいるくらいで。そんな人は、きっと永遠に自分についてくれる自分によく似た神様の存在を知ることなく過ごしていくのだろう。

 気の毒に思えるが、ある意味、幸せなのではないかと思うこともある。

――知らぬが仏――

 自分にとって不幸なことでも、それを不幸だと思わずに暮らしていける人も、まれにではあるが存在する。一口に楽天的だという言葉だけで片づけられない。その人は、自分によく似た神様に守られているからだ。行動パターン、考え方から、すべてを分かってくれている人、同じ世界に存在できないだけで、不思議な力で守ってくれる。これ以上の理想があるであろうか。

 参道を通り越して、鳥居の下をくぐった時、何かが自分から離れた気がした。何かに憑かれたような気がしたのを感じることがなかっただけに、自分の中にあった何かが、スット離れて行ったと思ったのだ。

 それこそ、鳥居から向こうは別世界。それまで見えていた光景とは違った世界が開けたようで、遠くの方がハッキリと見えてくるような錯覚に陥っていた。

 境内に入り込むと、外界の音が遮断されたような気がした。だが、鳥居の内に入った境内の狭い範囲だけでざわついたような喧騒とした雰囲気を感じることができた。

「まるで夕凪の時間のようだわ」

 内輪で何かがざわついているような感じだが、この感覚、以前にも感じたことがあった。感じたのは、子供のことだったはずなのに、まるで昨日のことのように思い出された。

「あの時は夕日を見つめていたら、気が付けば、知らないところに入り込んでいたんだっけ」

 おばあちゃんの田舎に出かけた時だった。女の子にしてはお転婆なところのあった恵は、じっとしていられない性格で、気になるところは、よほど危険を最初から感じたところでなければ、怖がったりしなかった。冒険が好きな恵は、

「怖いと思えば、引き返して来ればいいんだ」

 怖いところに行くのに、人と決して同行することはなかった。

「一人だったら怖いだろうに」

 と、人はいうかも知れない。

 だが、恵にも言い分があった。

「他の人と一緒だと、見栄を張ってしまって、危ないと思ってもなかなか引き返すことができないでしょう? それに引き返すにも勇気がいる。タイミングが必要なのよ。だから、私は怖いところに行くのは、いつも一人だと考えているの」

 だから、お転婆だと思われているのかも知れない。

 それでも、恵の意見はもっともで、一理あると思っている人も多いだろう。だが、一人で行く勇気を持つことはできない。怖がりが全体の中で一番自分の嫌な部分を隠すことができるのは、リーダーになることだと、恵は思っていた。

「だってリーダーになってしまえば、誰に気兼ねなく、自分の意見を通せるでしょう? 意見を通せないから、どうしても人に影響されて自分の意志とは別の道を選ばされて、結局怖い思いをしたとしても、誰が悪いわけではない。自分が悪いとしか、まわりは見てくれない」

「でも、リーダーには団体を統率する責任が伴うでしょう?」

「ええ、だから私はリーダーにもなりたくないし、怖いところにいくなら、一人で行くと思っているのよ。もっとも、怖いところに行ったりするのは、本当に子供の頃だけのことだったんだけどね」

 その子供の時には、恐怖をあまり感じることがなかった。子供だったからなのか、一人で出かけたからなのか、とにかく、今では考えられないほど、ある意味、度胸を持っていたのだ。

 ただ、怖いところばかりに出かけていたわけではない。冒険して楽しいところを見つけるには、避けて通れない場所にだけ足を踏み入れた。

 その中で、神社の裏にある古井戸が数少ない恐怖だったのを思い出した。

 古井戸というだけでも気持ち悪いのに、神社の裏というシチュエーションも怖さを数倍にする。神社は、山の上にあった。

 石段を上って、境内に入り、二匹の狛犬を意識しながら、お百度石を通り越し、石畳を進んでいくと、さい銭箱がある。そんな普通の神社だったが、その裏には森が人がっていて、誰も入り込んだことのない場所で、誰も噂にしないのは、何もないということが定説になって、誰も疑わないからなのか。それとも、逆に触れてはいけない何かがあって、口にすることさえ災いの元だと言わんばかりの場所なのか、恵には分からなかった。

 いつも一人で行動するいわゆる「よそ者」だったからだ。

 恵はそんな場所こそ探検するのが好きだった。

「怖ければ引き返せばいいんだ。ここには私のことを中傷しても、何ら得をする人なんていないんだ」

 という思いも、恵の冒険心に火をつけた。

 もし、この向こうに何もないことが分かっても、恵は誰にも言わないだろう。

「私は別に自慢するためにいくわけではないんだ」

――それではどうして?

 と聞かれたら、どう答えるだろう?

「そこに森があるからとでも、答えておこうか」

 漠然とした答えであるが、格好のいいキザな答えである。

「そこに山があるから」

 と、答えた登山家の気持ちが分かる気がする。ただ、そこまで思い入れがあるわけではないので、気持ちが分かっても、自分の答えが苦し紛れであることは否定できない。

 その時も最初は西日が眩しい時間だったが、あっという間に西に傾き、気が付けば日が暮れていた。すぐに神社を離れたが、魔物にでも出くわした気がした。それは普段と変わらぬ時間であって、同じ感覚であっても、見える時と見えない時があるのを教えてくれているようだった。

「見えないけど、魔物はいるんだ」

 という話を聞いたことがあるが、見える見えないは、その人の心構え一つで変わるのかも知れないと感じたのだ。

 その古井戸を探検したからと言って、満足感が得られたわけではない。最初は、少なからずの満足感を得ることができるものだと思っていたから探検したのだ。

――そこに何もなくとも、私が自分で度胸があることを試し、試したことに対しての実行力と、度胸を持っていることへの確信が、自分の自信に繋がるのだと、思っていたのに――

 と、思っていたのに対し、満足感というよりも、まるで悪いことをして叱られた後のようなストレスが溜まってしまった。

 得られると思っていたものが大きかっただけに、何も失っていないのに、失ったものがあるような錯覚がある。しかも実際に失っていないだけに。何かが欠落してしまったような感覚にそれが何かを探してしまう。何も失くしていないという自覚があるにもかかわらずにである。

 身にならない努力とは、まさにこのことではないだろうか。

 身にならない努力を、子供の頃から何度か強いられた気がしている恵は、

「また同じことを繰り返している」

 と思えてならなかった。同じことを繰り返していると、次第に感覚がマヒしてしまい、

「どうでもいいわ」

 という、投げやりな感覚に陥ることもあったりした。

 古井戸から身を投げた人がいると、後から聞いたのだが、ゾッとはしたが、怖いという思いはなかった。逆に無駄な努力だったと思った冒険も、自分の意思だけだと思っていたのだが、何かに引き寄せられたのかも知れないと思うと、自分が選ばれたことを光栄に思うほどだった。

 神社の境内に向かう一方通行の通路、「儀式」にしたがって、後ろを振り返ることもなく進んだが、果たしてそれでよかったのかという疑念を、赤鳥居を潜った後に、感じたのだった。

 山の上にあった神社とは比べ物にならないほど、大きな境内に、人がポツリポツリと見える。それでも、小さな神社にこの人たちを押し込んだら、結構な喧騒になるのではないかと思うほどだが、見ていて、無駄に広いスペースに思えて仕方がない。

「どんなものにも意味があって、無駄なものはない」

 と、山の上にあった神社の住職から聞かされた言葉が皮肉に聞こえる。

 ただ、敷き詰められた細かな白い石を足元から広がるように見つめていくと、その先は、まるで白い海原のように見える。大きな境内が、さほど大きく見えないほどの錯覚に、海の広大さを思い知らされた気がしたのだ。

 この近くには海があり、断崖絶壁の先には、灯台があるという。大海原を照らす灯台を後ろに控え、境内の広さを感じさせるには、さらに境内の後ろに広がった、雲一つない大空の果てしなさを見ることができる。海の広大さとは比較にならないが、眩しいばかりの白さの上に広がる透き通った果てしなさ。無駄に広いスペースだと思ったことを恥じる気分である。

 参道に続く、「神様の道」の横にある一方通行は、自分にとっての分岐点に思えて仕方がない。この神社を訪れたのは、本当に偶然なのだろうか? そう思うと、何を目的にこの旅を思い立ったのか、再認識してみたくなった。

 確かに失恋による傷心旅行には違いないが、それだけではない。格好のいい言い方をするならば、

「自分を探す旅」

 とも言えばいいのだろう?

 恵は、考えてみればいつも一人だった。一人が似合う自分を想像したこともあるが、想像がつかなかったことで、

――自分は一人は似合わないんだ――

 と思ったほどだった。

 だが、譲が奥さんと別れるという言葉を信じたことで、

「自分のところに靡いてくれるはず」

 と思ったのは、思い上がりだけではなく、寂しさだけが自分の中にあったからであろう。

 恵は一人でいることの寂しさを、忘れようとするあまり、人に自分の気持ちを押し付けていたのではないかと思うようになった。もし、

「そのように感じたのは、いつからなのか?」

 と聞かれたら、

「神社の参道で一方通行を通った時」

 と答えるだろう。

 裏切られた経験を持って出会った二人、それぞれに違いはあるが、切実な気持ちであることには変わりはないだろう。

 坂出の場合は、持っていたはずのプライドを傷つけられた裏切り。プライドのありそうな人間として彼を選んだはずである。

 プライドのある人間は、時として、人を疑うことをしないと思われるからだ。

 常に自分が前面に出ていて、後ろの人間を顧みているつもりで、実は、前しか見えていない人が多いからである。そんな人間ほど扱いやすいことはないだろう。後ろを見ないというのは、油断であり、また、自分に敵が現れた時に、相手が敵だと気づかないという点でも、相手には有利であった。

 裏切られたことで、坂出はどこに行こうとしたのだろう? 逃げ出したい気持ちになったのは確かで、どこに逃げても同じことだというのも、頭の中では分かっていたことのようだ。

 スナックのママと、どのようにして知り合ったのか、そして、鍋島由美子の存在が、彼にとって、どのようなものだったのかを知る人は、坂出本人だけであり、さらに、客観的に自分を見ている、

「もう一人の自分」

 だけだったのだ。

 恵はというと、坂出に比べてプライドを持っていたわけではない。プライドというよりも、現在、その時々を、いかにして生きていくかという大前提があり、その中で、少しずつのほんの小さな幸せを見つけて、それを自分だけの幸せとして育んでいくことを、毎日の生業としていたのである。

 そういう意味では、坂出とは正反対だとも言えるだろう。

 ここで偶然出会った二人であるが、ひょっとして、出会っていたかも知れないとも考えられる。現に、恵の付き合っていた男性は、坂出がリーダー格として君臨している同窓会メンバーの一人である。これだけでも偶然なのだ。

 まだ、そのことを二人は知らないが、知ってしまえばどう感じるだろう? 二人同時に気持ちが動くとも思えない。また、どちらも動かないとも思えない。すると、どちらかの気持ちが先に動いて、相手に気持ちの変化を促そうとするかも知れない。そうなれば、二人の間に生まれた関係は、新鮮なものになるはずだ。それこそが二人を、偶然を装うかのように、この旅で引き合わせた意味もあるというものだ。

「それが、参道の分岐点の魔力なのかも知れない」

 心が先に動いたのは、坂出の方だった。最初は、どこか胡散臭さを感じる女だと思っていた。坂出には彼女が風俗の女性であることが、ウスウス分かっていたのだ。

「どこに風俗の雰囲気が隠されていたのかって聞かれても、分からない。直感でそう思っただけで、直感でなければ、永遠に分からなかったかも知れない」

 と、坂出は答えたであろう。

 恵も坂出の視線を最初は胡散臭く感じていた。だが、その視線のどこかに懐かしさを感じたのだ。

 その相手が亜由子であることに気づいたことで、忘れてしまいたいことを思い出させられた気がして、嫌だったのだ。

 実は坂出には、会社で裏切られたという嫌な思い出以外にも、人に言えない過去を引きずっていたのだ。その思いがあるからこそ、嫌な思い出を忘れようと仕事に集中し、さらに、会社に貢献しようという健気な気持ちを持ったのだ。

 その時の感覚は心地いいものだった。裏切られるなど想像することもなく、自分の落ち着ける世界を見つけたのも同然だった。

 元々あった嫌な思い出を忘れたいという思いから、前を見るようになったのであって、人間何が幸いするものなのか分からないが、そのおかげで、リーダー格としての素質が開花したのかも知れない。

 ただ、リーダー格としての素質が持って生まれたものなのか、それとも、その時に備わったものなのかは、自分でも分からない。ただ、まわりの人が考えていることを想像すれば、生まれつきのものだったと思っているのかも知れない。

 もっとも、自分がまわりから見ていても同じ事を思うだろう。だからこそ、リーダー格であることを否定する自分ではないのだ。

 少しでも育った環境が違っていれば、リーダー格であることを拒否していたかも知れない。

「坂出さん。何とかしてください」

 と言われて、意気に感じて、

「よし」

 とばかりに一肌脱ぐ、それが今までの坂出だった。

 だが、見方を変えると、ただの押し付けに見えなくもない。そう思うと、納得いかない自分と、前に出ることの怖さを感じたのではないだろうか。

 そんなことを思いながら、宿の近くの森を散策しながら、歩いていた。恵もまた、近くを歩いていたのだが、お互いに考え事をしていたからなのか、それとも、森の中の異様な雰囲気が二人を近づけさせない魔力を持っていたのか。二人がニアミスを犯したのは、それが最初であり、最後だった。

 森の中は静かであったが、喧騒とした雰囲気も漂っていた。

――何が出てくるか分からない――

 という恐怖は、絶えず潜んでいて、前を見て歩いているつもりでも、想像しているのとは違う方向を歩いていることを感じさせる。

 昨日、宿に到着してから、二人とも、すぐに眠りに就いたようだ。午後九時には二人とも寝入っていて、宿の人もゆっくりできたのではないだろうか。

 朝、先に目が覚めたのは、恵の方だった。

 ゆっくりとした目覚めではなく、いきなり目が開いたという感覚である。まるで自分の知らない力が働いていて、目を覚まさせたのではないかという思いである。

 目の前には天井があった。まるで迫ってきそうな勢いに、思わずハッとしてしまい、目を閉じそうになったが、目を閉じるどころか、さらにカッと目を見開いたのだった。目を瞑る方が怖いのが分かったからである。

 恵は、汗をぐっしょり掻いているのに気が付いた。汗は浴衣に纏わりついているようで、身体を起すのが少々きつかった。

 それでも時計を見ると、まだ午前四時を少し過ぎたくらいだった。

「確か、露天風呂は二十四時間大丈夫だということだったわね」

 秘境でも、何とか経営していけるのは。温泉の効用が有名だからだった。湯治場としては、その筋では有名らしく、若い人が来ることは実に珍しいが、湯治に訪れる人、または、静かな場所を求めてやってくる芸術家もいるらしく、思っていたよりも、みすぼらしい雰囲気がないのは、それだけ需要があるということでもある。

 恵は、何とか起き上がって、眠い頭を起しながら、露天風呂の入口へと急いだ。

 不規則な石段は、天然の通路になっているようで、少し下りたところに、また通路があった。

 脱衣場は分かれているが、中は完全な混浴である。

 それも聞いていたが、まさか、午前四時過ぎに入りにくる人もいないだろうという思いもあって、ゆっくりと湯に身体を浸した。

 まさか、肌寒い朝方に、露天風呂の熱さは少し刺激的だが、目覚めにはちょうどいい。それよりも外気に触れた湯気が、視界を完全に遮っていて、何も見えない。

 向こうにはどうやら海が広がっているらしいが、何しろまだ夜中なので、向こうを見ることができない。それでも、街灯がいくつかついているが、湯気のおかげで、幻影的な光景をみせてくれるのは嬉しかった。ただ、朝風呂を楽しむ時は、海の向こうには朝日が昇ってくるのが見えるという。それを今日見れないのは残念だった。

 どれくらいの時間、入っていたのだろう? 時間を忘れるほど、時間が早かったような気はしたが、それでも数十分だろう。そうでなければ、ゆでだこ状態である。

「いい湯だったわ」

 と独り言ちて、そのまま髪を乾かしながら、脱衣場から宿に戻って行った。ただ、その時に、

「何かを忘れてきたような気がするわ」

 と、思ったが、深く考えることもなかった。深く考えるほど、まだ頭はクッキリとしているわけではなく、ただ、汗を流せたことで、身体を活性化させることができたのだった。

 喉が渇いたので自動販売機でスポーツドリンクを買って部屋に帰った。その時に感じたのは、

「こんなに狭い部屋だったんだわ」

 ということだった。

 坂出が目を覚ましたのは、恵が露天風呂で髪を乾かしているくらいであっただろうか?

 こちらの目覚めは至極悪く、目を開けられるまでに、しばらく掛かった。普段から、五時前後には目を覚ましている坂出なので、起床時間としては、早くも遅くもなかった。

 いつものように、何度か伸びをすることで、目覚めに近づいていることを意識していた。目が覚めてからでも、すぐには身体を動かすことができず、この時ほど自分の身体が億劫に感じられることはないと思っていた。目覚ましを掛けたわけでもない、いつもと変わらぬ起床のはずなのに、自分が今どこにいるのか、まったく思い出せないでいたのは、一瞬記憶が繋がらなかったからなのかも知れない。

――そういえば、妹も、一時期の記憶がないと言っていたっけ――

 なぜか妹のことが思い出された。記憶が欠落している原因が、自分にあるということを、坂出は自覚していないのだった。

 坂出が露天風呂に顔を出した時、朝日がちょうど昇りかけていた時だった。恵が見た光景とはまったく違った風景が目の前に広がっている。恵が見た光景が、幻影的な光景だとするならば、坂出が見た光景は、朝のすがすがしさであった。湯気も白いというよりも、朝日の影響か、透明に限りなく近い白い色であった。まさか、今から少し前の、夜が明ける前に、誰かが入っていたなど知らない坂出は、朝日と見ながら、

「ここに来てみて、本当によかった」

 と、感じていた。嫌なことすべてが忘れられるわけではないが、嫌なことを忘れられるような気分になるだけで、目を通して、精神的に癒されるものが存在するのだと、初めて感じたような気がした。

 今までは、誰かに癒しを求めていたり、自分に癒しを求めてくる人に対して、

「いかに癒しを与えてあげようかと、そればかり考えていた時期もあったな」

 と、与えること、与えられることを中心に考えていたことが、狭い考えであったことを思い知らされた。別に何もしなくても、そこにいけば、誰から癒されるよりも、精神的に落ち着けるものがあるのだ。

 問題は、どれほど欲を捨てられるかであった。

 癒しを求める時というのは、何か辛いことがあって、そこから逃れたい。あるいは、忘れてしまいたいという思いから、癒しを求めてしまう。相手は人間なのだから、そこには欲が存在している。相手が異性であれば、特に性欲ということになるのであるが、辛さも半端でないところまでいけば、性欲では払いのけられるものではないほどの苦しみを味わっていることになるだろう。

 そこまで苦しくなくても、目に入ってくる癒しを受け入れることはできる。ただ、それには忘れようというだけではいけない。何かを捨てなければ、目に入ってくる光景を癒しとして見ることができないのだろうと、坂出は感じるのだった。

 最近、性欲を捨てられるような気がしてきた坂出だった。そうでなければ、同じ宿に泊まってる女性がいれば、もう少しは気になるものである。最近までの坂出であれば、よほど嫌いなタイプでない限り、同じ宿に、一人旅で宿泊している女性がいて、しかも、他に宿泊客がなければ、必ず機会を探して、話しかけていたはずである。

 少し、気になっているところもあるが、それが性欲に結びつくとは、今の坂出では考えられない。

 一つは、恵の雰囲気が、妹の亜由子に似ているからだ。

 見た目は似ていない。それは坂出が見ても、他の人が見ても、一目瞭然なのだが、坂出の視線だけから見れば、似ているところがたくさんあるのだ。

――似ているという先入観みたいなものがあるのかな?

 と、感じたが、確かにそうかも知れない。

 実際に、妹の亜由子とは、相当会っていないような気がする。

「最後に会ったのは、いつだったんだろう?」

 まさか、その時から、しばらく会えなくなるなど、坂出にも思っていなかった。その時に、嫌な予感があったのは、どちらかというと、亜由子の方だった。

――お兄ちゃん、どこかに行っちゃうのかな?

 何とも言えない寂しい顔をする亜由子。

――お兄ちゃんが、いなくなったら、私の今の精神異常を誰が治してくれるのよ。ちゃんと責任取ってよ――

 と、言いたげだった。

 ただ、確信があるわけではない虫の知らせのようなものがあるだけなのに、それを口に出してしまったら、坂出は、本当にどこかにいなくなってしまうかも知れないと思った。もし、いなくなってしまったら、その責任の一旦は自分にあるのだと、亜由子は思ってしまったことで、何も言えなくなったのだ。

 亜由子が、自分を精神異常だと、坂出は意識していなかった。ただ、どこかおかしいとは思っていたが、それは妹として見てきた今までの亜由子が、思春期を通り越し、いよいよ大人の女になってきていることを感じたからだ。

 だが、正直にいうと、坂出は、子供の頃の亜由子が好きだった。大人になった亜由子には、もう自分は必要ないという思いを抱いていたが、それは、興味がなくなってきたということを、隠そうとしている本能のようなものではないだろうか。

 亜由子のことを、坂出は半分妹だという意識がなくなっていった。一人の女性として見るようになったのだが、妹だという意識が今まであったからなのか、なぜか女として見る気にはならなかった。

 他にも妹がいる友達がいるが、中には、妹が女に見えてくることで悩んでいるやつもいた。坂出には本音を話せる相手ということで、相談が寄せられることも少なくはなかったが、同じように妹がいる相手ということで、相談も、しやすかったのかも知れない。

 美穂を気にし始めてから、坂出は悩んでいた。

 それまでであれば、好きなタイプだというわけでもなかったからだ。どちらかというと、幼い感じの女性がタイプで、美穂のような大人の女性を思わせるタイプは苦手だった。

 だが、最近では、他の女性を見るたびに美穂を思い出すようになった。目が行く女性は、幼い雰囲気の、自分が好きなタイプの女性であるにも関わらず、思い出すのは美穂であった。

――美穂の雰囲気を大人っぽく見えていたのが錯覚で、実際には、幼さの残る、自分のタイプだったのかも知れない――

 そう思うようになったのは、以前の自分が見ていた目に錯覚があったのかも知れないということだった。

 その一番の理由が、

――どうしても、妹の亜由子と比べてしまうからだ――

 他の女性がすべて大人に見えて、話しかけにくく見える。なかなか自分から話しかけられないことで、まわりから、

「あいつはストイックだからな」

 と言われていたようだが、怪我の功名、それならそれでよかった。まわりから悪く言われているわけではなかったからだ。

 ただ、美穂に対して好きになったと思った時は、自分でもすぐに分からなかった。分からなかったというよりも、無意識に、好きになったことを認めたくない自分がいたからに違いない。

 では、なぜ、美穂を好きになってはいけないのか?

 確かにリーダーとサブリーダーが恋に落ちるという話は聞いたこともあるし、悪いことではないように思うが、相手を、妹の亜由子との比較対象にしてしまうことが、引っかかっていたのだ。

 美穂のことが気になり始めてすぐに、

――好きになってしまったのではないか?

 と思った。

 美穂の方も、自分に対して好まざる相手とは思っていないのは確かであった。嫌な相手に対しては、ハッキリとモノをいうのが美穂の性格。男っぽいと言われるかも知れないが、そこが美穂のいいところで、性格の中枢を担っているのかも知れない。

 ただ、坂出は、あまり好ましくないと思っていた。

 グループの中では、美穂よりも、モテる女性はいた。それが恵子だったのだが、まさか、恵子が、この宿に一緒に泊まっている恵の不倫相手である譲の奥さんになっているなど、想像もしていなかった。

 ただ、

「恵子が、結婚するとしたら、俺はグループの中の誰かじゃないかって思うんだ」

 と、言っていたやつがいた。

 確か、川崎だったような気がする。そのことを川崎に聞くと、

「だって、恵子は僕たちの中ではアイドル的な存在だっただろう? だからそう思うんだ」

「お前はどうなんだい?」

「実は、俺、恵子のような女性と付き合っているところを想像できないんだ。だから、きっと付き合うことはないと思う」

「お前の場合は、競争率が高いと、すぐに諦めてしまうところがあるからな」

「そう思われることが多くて、自分でもずっと、そう思ってきたんだけど、最近ではそうでもないんだ」

「それでも、恵子はダメなのか?」

「そうだね、俺の場合は、スラッとしているよりも、小柄で可愛らしいタイプが好きなんだ」

 これが川崎の本音だった、

「そういえば、お前は大人しい雰囲気の女の子が好きだったからな」

 そう言われて頭に浮かんだ相手は、直子だった。実は、坂出も自分で口にしながら、想像した相手は、直子だった。

「話を戻すが、だからといって、どうして恵子がグループの中の男性と結婚すると思うんだい?」

「遊び相手と、結婚相手は違うっていうだろう? 恵子は結構、遊ぶことを覚えそうな気がするんだが、どこかで疲れて、あるいは、落ち着いてきてというべきかも知れないが、最後には、気心の知れたグループ内の誰かと結婚しそうな気がするんだ」

 となると、譲ということになるのだが、予想は的中。同窓会では、譲と恵子の間に誰も入り込むことはできなかった。

 譲という男、よく分からないところがある。

 優柔不断で惚れやすく、そのくせ服装には無頓着で、いい加減なところがある、しかも、甘えん坊なくせに甘え下手で、まわりが見ていて、

「どうにもならんな」

 と、思わず呟いてみたくなる。

 そんな男が、実は結構モテたのだ。

 実は譲という男、恵子と付き合っている時、直子にも好きだと思われていた。最初は、恵子との違いに、

「好きでも嫌いでもない、ただの友達」

 としてしか思っていなかったはずなのに、次第に気になるようになってくると、今度は直子の気を引くような態度を取ってしまう。譲という男、女性に少しでも好かれていると思ったら、徹底的に好きになってもらわないと気が済まないタイプのようである。そのくせ、あまり好きではない人に好きになられると、今度は、嫌われようとするところがあり、自分中心の考えに走ってしまう男であった。

「どうして、あんなやつがモテるんだ?」

 坂出と川崎の話の中では、譲はモテる男だと思われている。違いではないが、そのせいで、男から見ても、一番嫌われるタイプだった。

 女性から嫌われないのは、何か特殊な感性のようなものを醸し出しているからであろうか。男から嫌われる理由はそこにもあった。だが、実際の譲は誤解されやすいようで、本当は、寂しがり屋の心細い気の小さな男だった。

 そんな譲と付き合っていた恵だが、考えてみれば、本当に付き合っていた気分になっていたのは、恵自身だけだったのかも知れない。譲にしてみれば、恵という女性は、止まり木のようなものだったのではないだろうか。

 いや、それは恵の考え方で、本当のところは、恵を選んだのは、相手が風俗嬢だったということからではないか。最初は、そこまで思っていなかったのかも知れない、しかし、風俗嬢が相手だと、自分を顧みる時に、落ちるところまで落ちた自分でも、恵のように身体を使っての風俗嬢ではないことで、少なからずのプライドを傷つけることはない。

 もしそんな風に感じているのだとすれば、その気持ちが他の人にバレタ時点で、誰からも相手にされないだろう。

 言葉では、

「君が風俗嬢だなんて、僕は思っちゃいないよ」

 と、言っておきながら、まるで相手と比較して、自分が惨めになることなどありえないと思える人を、そばに置いておきたいと思っていたのかも知れない。

 普段の譲はそこまで感じないと思うが、時々まわりを見つめた時に感じる虚しさに打ち勝つには、何かウソでもいいから、自分が惨めではないという気持ちがほしいのだった。

 ただ、もう一つの心の中では、恵と一緒にいる自分を客観的に見て、惨めだとは思わない。自分と恵にしかスポットライトは浴びておらず、それ以外の人は、見えていないのだ。だから狭い範囲でしか見ることができず、すべてが自分の都合のいい方にしか見えてこない。

 恵は、そんな彼の奥底を少しだけ、垣間見たような気がしたことがあった。あまりにも目の前にいる彼とはかけ離れた気持ちだったので、すぐに否定したのだが、今から思えば彼の本心だったと思えるのだ。

 一瞬だけ見えたことで、そこに綻びが生じる。生じた綻びは、自分の中だけではなく、相手に自分が余計なことを考えていると、思わせることもある。本当は敏感ではないはずの譲が気付いたのは、恵との間に生じた綻びが、大きな原因だったのかも知れない。

――それなら、私は自分で自分の首を絞めたことになるんだわ――

 と、恵は自問自答した。

 本当は認めたくない。認めてしまって、彼への決別の念を持ってしまえば、まだまだこれから他にいい人が現れるという思いを抱いて、先に進めるのに、なぜか、恵は先を見ることを拒んだのだった。

 譲のことを思い出すと、腹が立ってくる坂出だったが、恵子と、直子は可哀そうな気がしていた。

 本当は直子のような女性を好きになるとすれば、川崎ではないかと思うのだが違うだろうか?

 川崎は一見、坂出と似ているところがあり、可愛らしくて幼いタイプの女性が好みのように見られるが、実際には、大人しい女の子が好きだったのだ。

 その理由は、子供の頃に気になっていた女の子が大人し目の女の子で、彼女は、いつも端の方にいて、黙って座っていた。時々番長グループに苛められていたりしたが、誰も助けようとしない。見ているだけが日ごろの光景だったのに、ある日、度胸一番飛び出していって、助けてあげようと思ったのが川崎だった。惨めに殴られて、それ以上反発できなかったが、女の子からは感謝され、彼女と一緒にいることが多くなった。しかもそれ以上、彼女が苛められなくなってことで、二人の間には、英雄と英雄を慕う女の子の構図ができあがっているようだった。

 佐久間恵子が、美穂に気を遣っていたのを知っていたのは、坂出だけだった。川崎も、恵子を奥さんにした譲も、そのことに気付いてはいなかった。

 坂出が他の二人から飛びぬけて勘が鋭いというわけでもない。また、美穂を気にしていたことから、気付いたわけでもない。何か二人の間に漂う波長のようなものと、坂出の見つめる先にあるものが衝突したというイメージが近いのかも知れない。

 元々、どうしてこのメンバーが同窓会メンバーであり、川崎が幹事役なのかというのも、考えてみれば不思議だった。川崎は幹事役にはふさわしくない。坂出がナンバーワンだとすれば、ナンバーツーは川崎である。川崎は、坂出がいるから、自分がナンバーツーでいられるのだろうと思っている。もし、坂出のいないグループであれば、その他大勢に過ぎないかも知れない。

 それを思うと、坂出が自分を上に押し上げてくれた恩人ということになるのだろうが、一歩間違うと、押しつけにもなりかねない。本当は表に出るのが嫌な性格で、わざと後ろに隠れていたいと思っていた人であれば、坂出の行為は、押しつけにしかならない。川崎の場合はどうだったのだろう?

 川崎は、引っ込み思案な性格だったが、それを自分で嫌いではなかった。一人が似合う男だとも思っていたが、坂出と出会ってから、それは間違いだったのではないかと思うようになった。

 出会った時は、自分が好きだった相手に告白もできないほどの小心者で、ただ、一人で妄想するのが好きだった。

 妄想といっても、空想ではない。

――少しでも性格が違っていたら――

 という観点で考えれば、容易に想像できるものだった。

 小心者の川崎に、妄想であったとしても、それほど大それた妄想ができるはずがない。できたとしても、それは、潜在意識の中でしかできない想像である、好きな女の子に告白して、相手も自分のことを好きだったなどという妄想も、その中にはあった。

 ということは、川崎の中に、自分が好きになった人に告白したとしても、そこで断られることはないという、根拠のない自信のようなものがあるのかも知れない。

――相手が興味を持ってくれるような話さえできれば、相手がそんなに毛嫌いすることはないんだ――

 と思っていたのだ。

 顔のつくりも、それほど悪いとは思っていない。精神的なものが少しでも明るい方に向けば、表情は見違えるほど、明るくなるはずではないだろうか。暗い雰囲気は、精神面からの影響が強く、精神面は考え方によるものが強い。

 考え方とは、生まれついての許容範囲と、育ってきた環境で培われたものが存在し、どちらが強いという力関係からも大きく作用され、形成されるものではないだろうか。

 他の人から見ると、川崎も坂出に気を遣っているように見えるかも知れない。恵子が美穂に気を遣っているように見えるのも、ひょっとすると、美穂が恵子に対して、目に見えないいい意味での影響力を持っていて、美穂に対する尊敬の念があるのかも知れない。

 坂出は、美穂とも、恵子ともゆっくりと話をしたことはなかった。もちろん、直子ともそうだったが、考えてみれば、もう少し話をしてみればよかったと思う。特に美穂に対してはそうだった。

 ただ、今の坂出は、自分が落ちるところまで落ちてしまったと思っていることから、同窓会メンバー、特に女性には、今の姿は見せられないと思っている。

 川崎に対しても同じことを思っていて、自分が姿を隠したのは、自分を知っている人の誰もいないところで、一人で考えてみたいと思ったからだった。

 同窓会メンバーはもちろんのこと、妹の亜由子、スナックのママ、そして、鍋島由美子、それぞれに会いたくなかったのだ。

 鍋島由美子が、自分のことを探そうとしてくれるであろうことは分かっていた。

 彼女が自分に興味を持ってくれていることは分かっていたし、鍋島由美子の中に、どこか、同窓会メンバーの誰かを感じてもいた、

――そうだ、直子に似ているんだ――

 今まで意識をほとんどしたことのなかった直子だった。彼女は自分の意志を表に出そうとはしない。そこが鍋島由美子との違いだった。

 だが、鍋島由美子も、直子も、それぞれに男性に対して三行半のイメージがある。男性を慕うというよりも、委ねるタイプで、男性からすれば、

――苛めてみたい――

 と思うようなタイプだった。

 苛めてみたいタイプというのは、相手の反応によるところが強い。いくら苛めてもリアクションに欠けるのであれば、苛めがいなどあったものではない。あの二人には苛めがいを感じ、しかも同じようなイメージの苛めがいであった。それは、自分自身が同じ興奮を得られるということの証明のようなものである。

 同窓会は、確か八人だったが、その中でまったく話題にも上がっていない男がいた。三年後の同窓会の時に、彼と誰か話をした人がいたであろうか? まったく想像もつかない。その男は名前を清水というが、清水は、グループの中にいながら、本当の影のような存在だった。

 それぞれに相関図を書けるくらいの関係なのだが、清水だけは、いつも蚊帳の外だった。そんな清水が一度だけ表に出てきたのが、恵子と付き合っているのではないかという噂だった。

「そんなことあるわけないでしょう」

 恵子から一蹴され、噂は泡と消えてしまったが、三年目の同窓会の日の時も、それ以降に起こった出来事の中にも清水は、どこにも現れない。

 だが、彼はいつも肝心なところで現れることが多い。それぞれの局面で、重要な役割を果たしているのだ。だからこそ、彼がグループから離れることはない。

 グループの中で、譲と、直子が付き合っていたのは、不思議な気がしないが、結婚した相手が恵子だったというのは、ビックリした。直子と別れたという話を聞いたこともなかったし、直子と譲では、喧嘩別れをしそうな雰囲気ではない。どちらかというと、直子が自ら身を引いたと考えるのが自然であった。

 実際に身を引いたのは直子の方であり、それが恵子と結婚が決まる寸前だったということも、譲の心境を思い図ることができる。

 その時、恵子は誰か他の人と付き合っていて、結婚を考え始めていたのだが、実際に考えていたような相手ではなく、別れたいと思っていたようだ。そんな時に相談に乗っていたのが譲であって、普段は気丈に振る舞っている恵子の、殊勝な態度を初めて見たのだろう。

 そこで、一気に恵子への思いが沸騰したとしても不思議ではない。熱しやすい性格は、譲の性格のうちだった。

 直子のことを思いながら、紆余曲折もあり、頭の中で何度も繰り返し考えたに違いない。直子への思いも本物だったのだろうが、目の前で困っている女性を見捨てられないと思った時、

「本当に好きだったのは、恵子だったのだ」

 という結論に達したのかも知れない。

 今から思えば、その相手の名前を聞いておけばよかったと思った。どうやら、その時付き合っていて、別れたいと思っていた相手は清水だったようだ。相手が清水であれば、話は変わってくる。

 清水という男は誤解されやすい男だ。

 恵子に言い寄って、フラれればいいのだろうが、恵子も昔からの知り合いだけに、無下に断ることはできないと感じた。そのせいで、ストレスが溜まり、恵子の中で清水はストーカーになってしまったのだ。

 だが、清水が恵子に迫ったのは、本心から恵子を好きだったからだ。清水は今までの性格で、影の薄い男だ。それだけに何を考えているか分からないと思われがちだった。逆に少々のことをしても、清水ならショックを受けないだろうというくらいまで、皆が感じていたようである。

 本人としては、溜まったものではない。自分は皆と普通に接したいのに、影が薄いばかりに、

「何を考えているか、分からない」呼ばわりである。

 清水は、恵子を諦めたのは、譲と結婚したからだ。そんな時、清水の後ろ姿を見て、

「可哀そうに」

 と思って同情した女性がいた。それが、直子だったというのは、何という皮肉なことだろうか。

「この人の背中、譲さんに似ているわ」

 恵子と清水のいきさつを知らない直子は、そう感じた。

「私が包んであげたい」

 そう思った瞬間に、恵子と直子、清水と譲。それぞれの中で愛憎絵図が出来上がった。

 それは静かに燃える絵図で、炎は薄い蒼だった。まるで人魂が燃えているかのような炎は、勢いなどまったくなく、ただ、彷徨っているだけだった。

 川崎と、亜由子は、坂出が生まれ育った町に出かけた。

「まずは、坂出の性格が、どのようにして育まれたのかを見に行ってみたい気がするんだ」

 坂出と、亜由子は五つ年齢が違う。少し年の離れた兄妹だった。

「ひょっとすると、なかなか次の子供が生まれないことで、長男である坂出は、甘やかされて育ったのかも知れないな」

 と、言う人がいるくらい、坂出は、子供の頃、それほどしっかりはしていなかった。

 しっかりするようになったのは、亜由子が小学生の頃からで、坂出が中学卒業前くらいだっただろう。

 それでも、亜由子は、

「お兄ちゃんは、元々しっかりしたところがあったんだろうけど、中学くらいまでは誰もそんなことは思っていなかったでしょうね。聞こえてくる噂も、いいものは一つもなかったから……。でも、中学の修学旅行から帰ってきてから、急にしっかりし始めた気がするんですよ」

 坂出は、

「俺は旅に出ると、結構変わることがあるんだ。考え方が変わって見えるという感じなんだけど、でも、数日すると、また普段と変わらない気分になるんだ」

 そのことを、亜由子に話すと、

「でも、確かにその時からお兄ちゃんは変わってるんですよね。元に戻っているという感覚はないですよ」

 という。

 ということは、本人の意識の外で、変わっているということなのかも知れない。

 慣れというべきだろうか、坂出は、最初に変わったという意識をそのままストレートに感じることで、変わり方が緩やかになってくると、もう変わる要素がないように感じてくるのではないだろうか。

 もちろん、坂出だけに言えるわけではないが、特にその思いは坂出の中では強いのかも知れない。

 坂出がここにやってきたのは、本人が偶然だと思っているようだ。恵に出会ったのも、場所がここだったのも、意味があるのである。

 どんな意味が隠されているのか、その時の坂出には分からなかったが、それは当たり前のことであって、坂出が恵を意識するようになって、二人が話をしない限り、分かるものではないからであった。

 恵の方とすれば、坂出を意識している自分が不思議でならなかった。坂出とはどこかで会ったような気もしないにも関わらず、なぜ意識してしまったのか、分からなかったのだ。

 ただ、恵は人の顔を忘れっぽいところがあり、そこは坂出とも似ていた。

「お互いに、物忘れの激しさには、困ったものですね」

 と言って、笑い飛ばしていた人がいたのを覚えているが、それが坂出だったように感じたのは、ただの偶然であろうか。

 坂出は、自分が残してきた日記を思い出していた。「もう一人のママ」の存在を仄めかすような日記を書いたが、果たしてそんな女性がいるのだろうか。「ママ」というのは、ただのスナックのママという意味ではなく、付き合っていた「スナックのママ」に対してのもう一人の「スナックのママ」である。

 同じような人が、そうたくさんいるわけではないので、日記を見た人は、きっとどこかの違うスナックのママを想像するだろう。だが、なぜ坂出が、わざわざその人から離れて、似ている人を探そうと思ったのかという感覚は分からない。心境の変化という言葉で表してしまうと、見誤ってしまう。決して心境の変化ではなく、しいて言えば、「心境の発展」というべきであろうか。

「どうして、彼女ではダメだったんだろう?」

 それは、ママが坂出の本心を見抜いてしまったからではないだろうか。ごく最近まで坂出自身も気付かなかった自分の本心。それを見つけようという気持ちもあって、ママの元から離れたのだ。

 自分の本心に気付いた時、坂出はショックだった。遥か昔に忘れてしまった感情が沸々とよみがえってきて、心臓が音を立てて、高鳴っているのが分かってくる。

 考えてみれば、坂出という男が、本当にリーダー格なのかということも、自分の中でずっと自問自答を繰り返してきたことだった。それでも、まわりからは慕われて、いや、担ぎ上げられてだったのかも知れないが、何とかリーダー格をこなしてきたが、それも、すべて綱渡りだった。過去を振り返ることはおろか、今を見つめることさえ許されないような状況で、次第に自分の気持ちを掻き消してきたように思えてならなかった。

 坂出にとって、一番気になっているのが、妹の亜由子だった。他の女性を見ることはもちろん、相手が男性であっても、必ず、亜由子を通してでしか見ることができなかったような気がする。

 亜由子というワンクッションがあることで、坂出は、人を意識することができる。大げさに聞こえるが、それが坂出の歩んできた人生だったと言っても過言ではない。

 亜由子が今までの少しでも、他の男性を好きになったり、目が行くようであれば、坂出の中の呪縛も解けたかも知れない。だが、それも坂出がしでかしたことによって、二人の間で出来上がった他の人の知らない空間が、次第に交差することで、時には立場が逆転することもあったのだ。

 立場が逆転する時に限って、どちらかに恋愛話が持ち上がる。もちろん、その時、持ち上がった方は、我に返って、

「この時とばかりに、今の呪縛から逃れられるかも知れない」

 と、渡りに船だと思っても、結局は、空間から逃れることができない。二人の間の空間にはバリアが張られていて、誰にも見えない光で包まれている。それはすべての罪悪から保護されているように思え、逃れられないことを、いけないことだとは思えないでいるのだ。

 要するに、その殻を破るのが怖いのだ。

 破ってしまって表に出て、逃げられなくなってしまったら、どうなってしまうのか、想像もできない。

 そして、何よりも、相手のことを気遣ってしまっている自分に気づき、

――そんなことを考えているから、逃れられない――

 と、苛立ちさえ覚えるのだった。

「兄妹の絆というのは、そんなにも強いものなのかしら?」

 と、亜由子は思っている。もちろん、兄の坂出も同じことを感じているに違いないと思っているが、果たしてそうだろうか? 

 坂出自身、そう思えるなら、どれほど気が楽だと言えるだろうか。

 気が楽になりたいというわけではないが、知ってしまった事実によって、自分がしでかした罪の意識に苛まれてしまうことが、まるで堂々巡りを繰り返し、明日が見えてこないという錯覚に陥ってしまうことが怖かった。

 明日がやってこないことがそれほど怖いものなのだろうか。

 以前に、テレビで、毎日を繰り返している人間の話を描いたドラマを見た。

 五分前になると、スーッと自分の中の精神が、身体から離れてくる感覚を覚えるのだという。

 明日もまたその次の日を同じ感覚で過ごすのだ、

 結局ドラマでは、詳しいことを結論として出していなかったが、坂出自身の考え方が見ているうちに確立していったのである。

 目を覚まして今日が昨日であれば、安心してしまう自分がいるが、それも不思議な感覚だ。それはきっと、五分前に感じる、精神が肉体から離れる感覚を味わいたいからなのかも知れない。

 だが、それも毎日であれば、そのうちにマンネリ化してくるだろう。その時にこの世界から永久に抜けられない事実を初めて思い知るのではないかと思い、気持ち悪くなってしまう。

 毎日を繰り返していると、もう一つ気付くことがある。

「この世界には、もう一人、自分がいるんだ」

 ということだった。

 それは五分先を歩いている自分であって、決して追いつくことができない。しかも相手は、こちらにはまったく気づいていない、それはそうだろう。後ろを振り向くことはないのだから……。

 だが、実際に後ろを振り向いたことがあったが、その時、こちらに気付いた感覚がない。どうやら見えていないようだ。

 五分先を歩いているということは、日付をまたぐ五分前に感じる身体と精神の離脱をどう考えればいいのだろう?

 その時五分先の自分はちょうど、日付の裂け目にいるはずである。

 坂出は、もう一人の自分は一歩先に進んで、そのまま翌日を過ごすと思っている。それが本当なら自分自身のはずなのだが、どこかで、ある一日だけ、ターニングポイントがあり、何かの理由があって、逃れられなくなった。きっと、その時に何かの罪を犯し、罰として、その世界に封印されているのかも知れない。

 坂出は、その罪を背負ったまま、毎日を繰り返すことなく生きている。だが、何かの弾みで、その世界に踏み込むかも知れない。それだけ、罪の意識も高まってきていた。

 逃げ出したくなったのも無理もないことで、実はママも同じ感覚でいるようだった。

――ママと一緒にいれば、俺はこのまま毎日を繰り返す世界に引きずり込まれる――

 という妄想に囚われている。罪の意識とは、決して消えることのない、自分の中の戒律でもあるのだ。

 旅行に出てきたが、やはり探す相手はママのような人になるのだろうか?

 日記に残してきた、「もう一人のママ」というイメージはそういうことなのだ。他の人が見ただけでは、決して理解できることのできないもので、一番理解できるとすれば、亜由子であり、逆に一番間違った解釈をしてしまいそうなのも亜由子だった。坂出が残す日記には必ず亜由子への想いが隠されている。それは坂出だけに分かっていればいいことで、亜由子がもし見たとしても、書いている内容が、自分のことを含んでいるなど、想像もつくはずないと思っているに違いない。

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