第3話 秘密

 彼が勤めていた会社に聞いてみたが、あまり評判はよくなかった。やめる時もいきなりで、理由もハッキリとしないものだったという。

「女絡みだということは分かってはいたけど、まさかスナックのママとは思わなかったですね。もし彼が夜の女性と行方不明になったと聞けば、最初に思い浮かぶのが、風俗嬢じゃないかな?」

 と言っていた。

「どうしてそう思うんですか?」

「あいつが、夜の女性といる時と、昼間会社にいる時とでは、まったく正反対なんだよ。だから、思い切った行動を取るなら、風俗嬢だと思ったんだ。彼は確かに同情深いところがあるけど、同情だけでは動かない。きっとそれに身体がついてこないとダメだと思う。彼はスナックのママだと同情だけが先に進んで、言い訳を思いつかないかも知れないからね」

「彼は言い訳をともにしないと動かない?」

「そんなところもある。あまり計算は得意ではないのだろうが、その割りに、打算的なところがありそうだ」

 打算的なところがあるのは、高校時代から分かっていた。だが、それは、

「捕らぬ狸の皮算用」

 のようなところで、人との駆け引きは苦手だと思っていた。それが社会人になると、嫌でも人との駆け引きをするようになるのではないかと思うと、川崎は、坂出の同僚との話が次第に嫌になってきた。

 坂出は、会社で本当の自分を表に出すことを嫌っているようだ。確かに女性にだらしがないようなところがあるが、決して打算的なところはない。

「俺はいつも自分に素直でいたいんだ」

 と言っていたその言葉にウソはないだろう。

 会社の同僚の話は、当てにならないと思って間違いないだろう。話をした人がたまたま性格の悪い人だったわけではなく、会社の中で同僚に対してだけ、あまりいい印象を与えていなかったのは、夜の世界での自分を、まわりに欺かせるためのものだったに違いない。

 スナックの中で、ママさんと話をしていると、

――こんな店、二度と来るもんか――

 という思いを抱かせる。それはまるで坂出が会社の同僚を欺いている時と似ているように思えるのだ。

 二人の間にツーカーの仲が存在し、以心伝心、お互いに、人に対して欺きながら、二人は愛を育んでいたのでないかと思えた。ママは坂出が会社の同僚を欺いていること、そして、坂出はママが自分を探しに訪れた、川崎と亜由子を欺こうとしていることを、それぞれに知る由もないのではないかと思う。

 川崎は、坂出のそんな思いを分かっているが、亜由子には、どれだけのことが分かっているのだろうか。

 亜由子は、器用ではない。人の心を読むのも苦手だろう。だが、一緒にいればいるほど、亜由子は勘が鋭い女の子ではないかと思うようになってきた。勘が鋭いということは、意外と他が疎いということでもあり、一緒にいて、大らかな感じがするのは、それだけ、亜由子が勘の鋭い女性であるということを示しているように思えてならなかった。

 いつも自分に素直でいたいと言っていた坂出の顔を思い出していた。坂出は学校ではあまり目立たないタイプだったのに同窓会を開こうという話になった時、一番具体的なイメージを抱いたのが、彼だった。

 同窓会の話は突然出たはずだったのに、すでに坂出は頭の中にイメージがあった。誰かが言うのを待っていたのか、それとも、言い出すのを分かっていて、イメージを最初に膨らませていたのか。

 もし、誰も言い出さなければ、どうしていただろう?

 自分から言い出したのだろうか? そんなイメージは坂出から湧いてこない。自分の中で気配を消しているかのようで、言い出すのをいつまでも待っているように思えて仕方がなかった。

 同窓会を開くことで、最初に考えたのが、「タイムカプセル」を作ることだった。だが、何も埋めるものがないのに気が付いた。掘り出した時に感動するものを埋めるのがタイムカプセルであって、果たして数年後に掘り出して感動するものを埋めることができるかが問題だった。

 懐かしいと思うだけのものであれば、感動に値しない。埋めた時に何を考えていたかを懐かしむというのが趣旨であれば、川崎にとって、埋めたその時に、思い出して楽しい何かが存在するのかが疑問だったのだ。

 同窓会を開くことで、人と顔を合わせて懐かしむことは、楽しみの一つだが、思い出を埋めるという行為自体が、許せない感覚であった。

――思い出を埋める――

 ずっと以前にしたことがあったように思った。タイムカプセルを埋めた経験があるわけではないのに、穴を掘って埋めたのだ。

 穴を掘る時に、照らされた月明かりが、その時は結構明るかったように思う。盛り上がった土が細かな光と影の部分を無数に作り上げ、光りの強さが、影の暗さをさらに引き立てているかのようだった。

 子供の頃に見た映画で、墓を掘り返しているシーンがあった。月明かりの中、掘っている人間のシルエットが浮かび、曲がった背筋で、必死にスコップで掘り返している。

 顔がだんだん人間ではなくなってきて、鼻から口に掛けて、前に膨らんでくるようだった。耳も上に鋭く伸びていき、その姿はさながらオオカミのようだった。

 そこまで来ると、そのシーンをその日に夢で見たのを思い出した。映画ではオオカミになっているところまでは写していなかった。あくまでも見ている人の想像に任せる演出だったのだ。

 オオカミに変身していくのを感じた時、夢の中で想像が膨らんでくるのを感じる。映画で見た光景を、夢として再現を試みようとするが、再現は難しい。どうしても、自分の中での勝手な想像が邪魔をするのだった。

 同窓会をイメージした時、勝手な想像を夢で見たのを感じた。川崎も、実は同窓会を頭の中でイメージしていた一人だった、

「誰が言い出すか」

 という違いだけで、皆イメージを持っていたのかも知れない。

「お兄ちゃんの中で、何か変化があったとすれば、同窓会に出た後だったかも知れません」

 亜由子は、川崎とママに向かって言った。

 ひょっとすると、最初から二人を前にして一番言いたかったことではないかと思う。川崎に対しては言おうと思えばいつでも言えたことで、別に言うのを躊躇っていたわけでもない。

「同窓会って、いつだったんですか?」

「二か月くらい前でした」

 ママの質問に、川崎が答えた。会話の流れとしては、普通だった。時間と空間に隔たりはなく、自然な会話だった。亜由子が訪ねてきてから、二週間くらいが経っているので、そろそろ二か月になるのではないだろうか。

「そういえば、二か月前くらいから、坂出さん、少し変わったかも知れないわね」

「変わった? どのように変わったんですか?」

「元々、無口だったんですけど、同窓会があったその前後くらいは、とても楽しそうだったんです。私が、楽しそうですねって聞くと、ニッコリと笑って何も言わずに頷くんです。それがあの人の魅力だと思うんですけど、無邪気に思えるんですよね。でも、その後、今度は急に暗くなって、何か思いつめたような表情でボンヤリしていることが多くなったんです」

 坂出は確かに無口で、余計なことはあまり言わない方だったが、態度が豹変することはあまりなかった。明るかった後すぐ暗くなったなど、まるで躁鬱症の症状は、彼から想像できるものではなかった。

 ましてや、思いつめたような表情が一番似合わない男だった。慎重な性格で、石橋を叩いても渡らないくらいのところがあるくらいなのに、なぜか表に見えているのは、いい加減なところばかりが目立ってしまうことだった。

 損な性格なのだろうか?

 川崎が正面から見ている坂出と、客観的に見ている坂出とでは、まるで別人のようだった。正面から見ると、これほど慎重な男はいないと思うくせに、客観的に見ると、女性にだらしなく、物忘れも激しく、同窓会でも自分を幹事に押し付けて、結局仕切るのは自分だとばかりに、おいしいところばかりをさらっていくようにしか見えない、

 客観的に見えている坂出は、自分が被る被害をすべて、坂出のせいだと思うと、見えてくるものが客観的だと思っている。普通に見えているのは、本当は客観的な視点での見え方なのだろう。

「では、なぜわざわざ正面から見るのだろう?」

 坂出には、正面から見ないと見えてこない性格があった。それは、自分の性格と照らし合わせることで成立するもので、自分にとっての受け身と、能動的なものが交差する部分で変わってくるのではないだろうか。

 人の性格を自分と照らし合わせて判断する見方は、川崎独特の見方だった。

「他の人はそんなこと、しないよな」

 と思っているが、ひょっとすると同じような考えの人もいるかも知れない。それも身近にである。

 坂出がその一人ではないかと思うようになった。正面から見ようとしている相手は紛れもなく坂出なのだ。他の人には、なかなか感じることはない。

 最近、それに近い思いを感じた相手は、亜由子だった。

「坂出と血の繋がった兄妹なのだから、当たり前のことではないか」

 と、思うのだが、どこか釈然としないところがある。

 男と女の違いがあるのだから当たり前のことだ。

 女性を正面から見るのは、

「自分のすべてを知ってほしい」

 という思いが強いからだ。それは相手を好きになったから、自分を好きになってもらいたいという思いが強いからだ。

 二人を兄妹だと思ってなるべく見ないようにしていたが、それは、川崎が亜由子に恋心を抱いたからに違いない。だが、そのことが自分の目を見誤らせる結果になるのだということを、川崎はまだ知る由もなかった。

 亜由子も川崎が自分に恋心を抱いているということに気付いていなかった。亜由子は、男性恐怖症なところがある。子供の頃に苛められた経験がトラウマになっているからであって、その時助けてくれた坂出に対しても、遠慮だけではなく、一定の距離を保っておかなければいけないという思いを強く持っている。なぜそう思うのか、トラウマになった瞬間を見られてしまったということと、その時の坂出の目が今も忘れられない恐怖となって残っていることであった、

「坂出の失踪」

 それは亜由子にとって、兄妹というだけではない切実な思いを亜由子が抱いていることを、川崎は知らなかったのだ。

 何も分からない中で、時間が過ぎていく。自分が主導権を握っているつもりでも、実際には時間と空間が自分の知らない世界を形成しているようだった。

「私、躁鬱症の気があると思うんですけど、川崎さんは、自分が躁鬱だって思ったことありませんか?」

 スナックに行く前、待ち合わせた喫茶店で、亜由子が川崎に聞いてきた。

 川崎はまるで、心の仲を見透かされたようで、ドキッとした。亜由子に躁鬱を感じ始めていたからだ。

「あるけど、亜由子ちゃんは、どうしてそんなことを感じるんだい?」

 川崎は、亜由子が躁鬱であることを感じていることよりも、どうしてその話を今の段階で自分にするのかの方に、興味があった。

 いろいろなことを一人で考えてきたのだろう。そして、川崎と会って、お兄ちゃんを探す手助けをしてくれることで、川崎と一緒にいる機会が増えてくる。そう思ったことで、心の中にあるわだかまりや心配事を、まず話しておかなければいけないと感じたのかも知れない。亜由子の中に少しだけ感じた躁鬱症、まさか、亜由子が自分から聞いてくるなど、想像もしていなかった。

「躁鬱症の原因がどこから来るのかって、いつも思っていました。私は、何かのトラウマだったり、誰かの影響だったりが大きいんじゃないかって思うんです。川崎さんはどう思われますか?」

「確かにその通りだと思うよ」

 亜由子は、何かを感じているようだ。

 亜由子が感じている何かというのは、躁鬱症になる原因に感じるものがあるらしい。原因がなければ、起こることではないのだから、一番重要なもののはずなのに、なってしまったことで、なかなか原因を確かめようと考える人は少ないかも知れない。

 躁鬱症は、いきなり襲ってくる場合と、気が付けば陥っていたと思う場合の二つがあるのだと川崎は思っている。

 美香の場合は、気が付けば陥っていたという方ではないだろうか? だからこそ、陥ってしまった中から、原因を確かめようと考えているのかも知れない。

 川崎の場合は、原因について考えたことはない。一番最初は、いきなりだったのだ。いきなりと言っても、前兆があることでのいきなりだ。前兆がなければ、亜由子のように、原因を考えようと思ったかも知れない。

 川崎は、亜由子の話を聞いていて、原因について初めて考えてみる気になっていた。

 トラウマがどこかに存在していたとしか思えないが、自覚症状があるわけではない。しいて言えば、

「生まれつきの資質のようなものが躁鬱症にもあるのかも知れない」

 と思う。

 生まれつき躁鬱症の気がある人、そして、トラウマとなる出来事が引き金となって、躁鬱症を引き起こす原因となる人の二種類があるのだろう。

 川崎は、生まれつきの躁鬱症しかイメージできない。前兆があって、引き込まれていく感覚が、自分ではどうすることもない感覚に、時間を委ねるしかない自分の身を置くことだった。

 亜由子に、生まれつきの躁鬱症が備わっているのだと思う。ただ、トラウマがなければ、表に出てくることのなかったもの。だから、躁鬱症は定期的なものではなく、突発的なものではないかと思うのだ。

 亜由子は、川崎に話をするタイミングを計っていたのかも知れない、それがさっきの喫茶店での話であり、相手が川崎だということで、言葉を選ぶ必要も感じていなかったようだ。

「私、躁鬱症の原因が、お兄ちゃんにあると思っているの」

 そう言って、少し考え込んだ。

 ということはトラウマの原因は、坂出にあるということか?

 この兄妹には、川崎には想像もできないような何かがありそうな気がしたが、今の段階では、そこまで踏み込むことはできない。

 川崎は、自分と似たところで亜由子を見ようとしていたようだ。だが、似ているところだけではなく、違うところを見ていくと、次第に亜由子の中にある光と影の部分を見つけることができるようで、そこに深みがあることを感じていた。

 角度を変えて人を見ることなど、あまりしたことがなかった。まわりから人を見ること、そして、その人から今度はまわりを見渡すこと、それも角度を変えて見ることだったというのを、再認識したような気がした。亜由子に対しては、後ろに見え隠れしている坂出の存在はどうしても無視できないものだった。

「私、実は小学生低学年の頃の記憶が、欠落しているところがあるの」

 亜由子が意外なことを口にし始めた。

「それはどれくらいの間なんだい?」

「半年間くらいのことなんだけど、その頃のことがまったく思い出せないのよ。それ以前のことはおぼろげなんだけど覚えているの、そして途中から記憶がなくて、また繋がっているの」

「その欠落している間の辻褄が合わない?」

「不思議なんだけど、欠落しているという意識はあるのに、なぜか、その間を繋げば、記憶に繋がりはあるのよね。時間だけが飛んでしまったような感覚と言えばいいのかしら?」

 不思議な話だった。だが、何かに集中していて、その間、時間だけが経過していて、抜けている時間を繋ぐと、不思議に辻褄が合っていたりするものだ。時間だけが欠落しているので、時間があっという間に過ぎてしまったような気がするが、それでも充実感は残っているので、

「これほど時間の有意義な使い方はないのだろう」

 と、我ながら納得したものだった。

 そういえば、川崎も子供の頃に同じような経験をしたことがある、記憶だけが飛んでいると思って納得したのだが、時間があっという間だったこともあって、別に気にもしていなかったが、ひょっとすると、気にするかしないかだけの違いで、誰もが同じ思いを子供の頃にしていたのかも知れない。

「避けて通ることのできない道」

 子供なので意識するかしないかは大きな問題ではなく、意識していると、却って欠落の二文字が頭に残り、記憶を失ったような気がしてくるだけなのかも知れない。

「あまり気にすることではないと思うよ」

 本人がどれほど深く感じているか分からないので、強くは言えないが、川崎は自分が感じたものをそのまま言葉に出しただけだった。

「ありがとうございます。でも、私はきっとこのまま気にしていくことになると思うんです。逆に忘れてしまう時というのは、何かの答えが見つかった時、その時に何を感じるのかが楽しみではあるんですけどね」

 亜由子は、そう言って静かに笑った。

 静かに笑った時の亜由子の顔は、大人っぽさを感じさせた。今までに亜由子の笑顔を見てきたが、同じ人の笑顔とは思えない。普通笑顔はあどけなさを感じさせることで、普段よりも幼く感じさせるものだと思ったが、静かに笑うと、亜由子は特に大人っぽさを引き立たせる効果があるようだった。

「それにしても、お兄ちゃんは、一体ここで何をしていたんですか?」

 スナックのカウンターから乗り出すように、ママに聞いていた亜由子の表情は、笑顔から見えた大人っぽさを彷彿させるものがあった。

 横顔だったので、余計に表情がハッキリせず、笑顔はそこにはまったく見られない。

「坂出さんは、いつも疲れていたというのが、私の印象だったわ。行くところがなくて。私のところに来たんだろうけど、見ていると、可哀そうになってきて。それで私がしばらく置いてあげようと思ったの。一体、あの人に何があったのかしらね」

 それはこっちが聞きたいと言いたかったが、ママを見ていると、まんざら皮肉だけを言っているわけではなく、その表情には、憐みを含んだものがあり、

「この人は、俺の想像以上に苦労してきた人なのかも知れないな」

 と、思うと、もうあまり聞く気にもなれなかった。

 それでも、亜由子は納得がいかないのか、いろいろと聞きたそうだったが、ママも、亜由子の気持ちが分かるのだろう。敢えて止める気もしなかったようだが、ただ、態度だけは、上から目線だった。それがママのプライドを示しているのかも知れない。

「まあ、せっかく来たんだから、ゆっくりしていけばいいわ」

 相変わらずタバコを指でもてあそぶようにしながら、亜由子には上から目線だった。

 ひょっとすると、坂出の妹ということもあり、坂出を知っているだけに、ママ自身の中で亜由子の操縦方法が分かっているのかも知れない。確かに海千山千のママに比べれば、亜由子などは、まだまだ甘ちゃんなのかも知れない。

「それにしても、坂出さんに、妹がいるなんて知らなかったわ」

 ママがそう言って、タバコを燻らす。

「えっ、知らなかったんですか?」

 川崎は意外だった。

「ええ、何でも正直に話してくれる坂出さんが、妹さんのことを言わなかったのは、何か理由があるのかも知れないと勘ぐったくらいだもの。でも、時々寂しそうに表を見ていたことがあって、その時は誰か忘れられない女性がいるのかしらと思ったんだけど、ひょっとした妹さんのことなのかも知れないわね」

 とママさんが亜由子に視線を向けると、亜由子は、その視線に一瞬ビビったが、黙り込んで下を向きながら、考え込んでしまった。急に何かを思い出したのか、さっき話したばかりの子供の頃の記憶に関係していることなのかも知れない。

「何か、思い出したの?」

「いえ、そういうわけではないですけど、お兄ちゃんが私のことを話さなかったというのは分かる気がするんです」

 川崎と亜由子のやり取りを聞いていて、さすがにママさんも何か様子がおかしいことに気付いたのか、神妙な表情になり、

「坂出さんは、あまり話が上手な方ではなかったんですけど、たまに口にする一言に重みを感じることがあるんです。それがあの人の魅力かも知れませんね」

 と話してくれた。話がまた元に戻ってきた気がしてきた川崎は

「坂出がここにいたのはどれくらいだったんですか?」

「一緒にいたのは、二週間くらいでした。私もまさか急にいなくなるなんて思ってもみなかったので、最初は、このままずっといられても困ると思っていたんです。でもいなくなられると、寂しさがこみ上げてきますね。あの人は、寂しさがこみ上げてくるその絶妙な期間だけ、わざと私を一緒にいたんじゃないかって思うほどで、もしそうなら、恨めしいですよ」

「一緒にいた時の坂出は、どうでした?」

 ママにストレートに聞いてみたが、やはり答えるにあたって、亜由子の方をチラチラ見ていることで、意識しているのがありありと分かる。

「どうかと言われても、何と言っても男女の仲ですからね……。でも、彼にはとにかく哀愁を感じるんです。母性本能をくすぐる哀愁とは、また少し違うんです。でも、放っておけないという気にさせるのは、母性本能をくすぐるのと同じで、私の中にあるさらに深い感情を、彼はくすぐっているのではないかと思っています」

 話は難しくはないが、果たして亜由子に理解できる内容であろうか。大人の世界の話など、それほど聞く機会のない亜由子は、川崎とママの会話を聞きながら、川崎がママの話をどこまで分かって聞いているのかに、興味を持った。ママに手玉にとられるようなら、果たして坂出を捜し当てるまで至れるのかが分からない。何よりも、亜由子自身が一人置いて行かれるのが心細く感じるのだった。

「一緒に暮らした二週間でしたけど、私は短かったと思ってます。一緒にいて、最初は、いつまでいるのよと思う期間があって、それに慣れてくると、今度はいつまで一緒にいられるのかなって思うようになるんですよね。二週間というと、ちょうど、その頭の切り替えの期間くらいじゃないかしら」

 異性と同棲した経験のない二人だったが、ママの話を聞いていて、何となく分かる気がした。それだけママの言葉には説得力があるのだ。横を見ると亜由子がまだ考え込んでいる。ママの言葉に考え込んでいるというよりも、話についてくるだけの頭の整理がついていないようで、どのあたりの話を頭に描いているのか、想像もつかなかった。

「そちらのお嬢さんは、お話についてこれていないようですね」

 ママがこの言葉を発した意図が、川崎には分からなかった。亜由子が頭を整理できない間に、ママは川崎に対してだけ話をしていれば済むことだった。理解できない上に、肉親という聞き流すことのできない立場の相手を無視できるものなら無視すれば、話は腰を折らずに先に進むというものである。

 ただ、亜由子本人には、きっと今の言葉が助け舟だとは思っていないだろう。どちらかというと、

――皮肉を言われた――

 と思っているに違いない。

 だが、川崎にはママの気持ちが分かっていた。それだけママを見直すように思うに違いない。あまり好かれても仕方がない人には皮肉に聞こえ、対等に話ができる相手には、好感が持たれる話し方をする。

「実にうまい話法ではないか」

 まさか、ママはそこまで計算しているのであろうか? 確かに海千山千のスナック経営者、川崎には、どこまで自分を出して話をしていいのか、正直困っていた。

 だが、ママはウソや人を欺くような言い方をしているわけではない。話のほとんどが本心であろう。

 川崎は、少々計算高いところがある人なのかも知れないが、本心は寂しがり屋の一人の女性で、坂出が癒しを求めたくなる相手であることに間違いはない人だと思っていた。短い期間ではあったろうが、その時に何か決定的な気持ちの変化が、坂出の中に生じたのではないかという思いが渦巻いている。

――俺は女性と一緒に暮らしたら、どんな気持ちになるんだろう?

 思わず、亜由子の後ろ姿を覗き見るような雰囲気になってしまった川崎だった。

 亜由子を見ていると、優しそうな雰囲気ではあるが、男性に尽くすタイプには見えない。どうしても、何か他の人よりも劣ったり、足りなかったりする部分があると、欠落した記憶が影響しているのではないかと思えてならないのだった。

 川崎は、時々、自分の記憶もどこか欠落しているのではないかと思うことがある。時間の感覚がやたらと早く感じる時で、一日が、数時間に感じるくらいの時があるのだ。

 そんな時、記憶が欠落しているのかも知れないと思うが、いつもはすぐに否定していた。記憶が欠落しているのであれば、あっという間に時間が過ぎるのと同時に、その日の記憶が狭まっている意識があるはずである。

 しかし実際に、記憶が小さいわけではない。起きている時の時間の記憶がしっかりと時系列で残っていたりする。

――欠落しているのは意識ではなく、夢だと思っている時間なのかも知れない――

 あっという間に過ぎた時、終わってみれば夢うつつの感覚だ。

 亜由子に対して、いつも垣間見えるのは、心細さだった。後ろに坂出が見え隠れしているわけでもないのに、たまに誰かの影を感じる。坂出ではないのは確かで、かといってまったく知らない人物でもなさそうだ。

 それが、川崎本人だということに気が付いたのは、スナックを出てからのことだった。

 川崎は何とかママから、少しでも情報を聞き出そうとしていたが、実際にママも詳しくは知らないようだ。

「家に帰ったんじゃないの?」

 と言って、二人が現れたのを驚いたのも、まんざら芝居というわけでもないようだ。

「そうなの、彼、いなくなっちゃったの……」

 ママの落胆している姿にウソはなさそうに見えた。

――正直、家に帰ってくれていた方が気が楽だと思っているのかも知れない――

 川崎は、そう感じたのだった。

「私も探してみようかしら」

 ボソッと呟いたが、その声に亜由子は反応した。ビクッと動いたが、すぐに肩を落とし、それ以上動かなかった。

「でも、彼が会社で何かあったというのは事実らしいの。上司にこっぴどく怒られたと言って、かなり落胆していたわ。あんなに落胆した坂出さんを見たの、初めてだったんですもの」

 難しい仕事はともかく、彼の性格なら、普通の仕事なら無難にこなせるだろう。

「何か、難しい仕事でもしていたのかな?」

「難しいかどうか分からないんですけど、精神的にかなり追いつめられていたのは確かですね。彼の心細そうな雰囲気は、仕事での落胆が大きかったと思うんですよ」

「そういえば、彼の会社に行ってみたんだけど、会社を辞めたとは教えられたんですが、詳しいことは誰も知らなかったみたいでした。最初は、ただ知らないだけかと思っていたんですけど、今から思えば、彼のこと自体が話題にするのも問題があるような雰囲気でしたね」

 そういえば、彼の上司は胡散臭さが滲み出ているようだった。事務所を通って、応接室に通されたが、会社というところがいくら緊張をする場所とはいえ、緊張を通り越したものを感じた。それが怯えであると分かったのは、課長が一言発した声に、皆身体を固めてしまったからだ。

 固まった身体は、目の錯覚を引き起こすほど小さく見え、誰もが口をモゴモゴさせているが、声を発する人はいない。発しないのではなく、発することができないのだ。

――ずっと、こんな雰囲気の事務所なのだろうか?

 課長と呼ばれた人から応接室に通されて、川崎が坂出の話を持ち出すと、すぐに、

「坂出くんには、会社を辞めてもらった。彼は会社の風紀を乱すことをしたからね」

「どんなことでしょう?」

「ハッキリとは言えないが、社会人としてあるまじき行為だと言っておこうか」

「これ以上は、何も喋らないぞ」

 とばかりに、威圧されると、もう何も聞けなくなる。威圧されたまま事務所を後にすると、次第に冷静さが戻ってきたはずの頭に、怒りがこみ上げてくる。

――相手のペースに乗せられて、俺は何をやってるんだ――

 坂出は、本当に課長のいうようなことをしたのだろうか? どちらが正しいのかと言われれば、明らかに坂出であろう。ただ、坂出の性格からすれば、そんな課長に業を煮やし、反発したのかも知れない。

――出る杭は打たれる――

 というが、正義感が強く、リーダーシップのある坂出だから、余計に課長の逆鱗に触れてしまったのかも知れない。人生の転落を自らに見てしまうことになれば、川崎ならどうするだろう?

 課長に怒りを覚えたその時に、思い出したのがママの顔だった。

――なるほど、嫌なことがあった時に、一緒にいてほしい人を探すとすると、ママのような人を探すだろうな――

 と感じた。

 探さなくとも、坂出の目の前にいたのだ。もし甘えさせてくれるのであれば、誰だって、ママに甘えたいに違いない。

 ママを目の前にしている時は、ママが坂出を誘惑したのではないかという思いがどうしても消えなかったことで、変なイメージを持ってしまったが、今度は課長のあの胡散臭さを感じると、ママがいじらしく見えてくるから不思議だ。坂出でなくとも、ママのそばにいたいと思うのも当然ではないだろうか。

「すみません」

 坂出の会社を出てから、少し歩いたところで後ろから一人の女性に声を掛けられた、見覚えのある顔である。

「あなたは、先ほどの?」

 坂出の会社で、隅の方に座って大人しそうにしていた女性事務員だった。

「はい、鍋島由美子と言います。私は坂出さんとは同僚で、同じ課に所属しています」

「そのあなたが、私に何か?」

 鍋島由美子は訴えるような目で川崎を見つめた。

「実は、私も坂出さんを探しているんです。今どこにいるのか、お教えいただけないでしょうか?」

 理由も聞かずに教えるのは抵抗がある。だが、彼女を見ていると、どうやら坂出に気があるようだ。

――坂出のやつ、彼女の気持ちに気付いていなかったのかな?

 と感じたが、彼女の視線が次第に重たくなるのを感じてくると。

――なるほど、これだと却って疲れてくるわな――

 と感じた。

 心配そうな表情はありがたいのだが、どこか重たいのだ。押しつけがましいところが感じられ、坂出も、さすがに彼女にどう対処していいのか、分からなかったのではないだろうか。

 それにしても、彼女のような女の子が、あの課長の下で仕事ができるものだと思った、

「私、本当はあの課ではなかったんです。でも、課長が私を引き抜いて、私をあそこに座らせたんです」

「それでも君は、耐えきれるの?」

「分かりません、それで私は思い切って、今の気持ちを坂出さんに打ち明けたんです。すると、坂出さんは、俺に任せておけって言ってくれて、それで……」

「それで、結局、君の期待には応えられなかったということだね?」

「ええ、でも、坂出さんは、最初、何か自信がおありな様子だったんですよ。それなのに、こんなことになってしまって、私どうしたらいいのか……」

 何ともいじらしさから、抱きしめたくなる女の子だった。坂出は、正義感からか、それとも彼女への特別な気持ちが、彼を突き動かしたのか、どちらにしても、坂出は、行動を起こしたようだ。

 ただ、彼女にも詳しいことが分かるはずがない。彼女に分かるくらいなら、他の人にも分かるはずだと思うくらい、彼女は自分に自信を持っていなかった。

――誰かに似ている気がするな――

 その時は分からなかったが、誰か似ている人と、一緒に話しているような錯覚を覚えた。しかも最近まですぐそばにいた関係の人を感じていた。

 だが、それは勘違いで、最近までと思っていたのは、会わなくなってからすでに三年が過ぎていること、そして、よく話をしたような感覚に陥っていたが、実際には、ほとんど話をしたことのない人を思い出していたのだった。

――そうだ、直子だ――

 同窓会には来なかった直子だったが、来ていれば、三年経った中で、一番時間の感覚を感じることなく会えるのではないかと思うのが直子である。直子には、いくつかのイメージがあり、同時に二つのイメージを頭に浮かべることのできる数少ない相手だった。同時に思い浮かべられるということは、それだけイメージが薄く広がっているのだ。だから雰囲気が暗く、そして目立たない性格に感じられるのだろう。

――どうして同窓会に来なかったんだろう?

 本当は今から思えば、一番会ってみたかった相手である。いないならいないで、意識しなければいいのだと思っていたが、まさか後になって、こんなに思いが募ってくるとは思いもしなかったのだ。

 鍋島由美子とは、その日、近くの喫茶店でいろいろと話をした。

 最初は、坂出と会社の話だったのだが、込み入った話を一介の女子社員に分かるはずもなく、何も聞き出すことはできなかった。しかし、課長というのが、社長直属での繋がりがあるらしく、誰も逆らえないのが現状であるということ、会社に対して、どうやらマスコミなどが何かを嗅ぎつけているらしいということだけは、彼女にも分かっているようだった。

「何となくだけど、分かったよ。ありがとう」

「いえ、坂出さんのお役に立ててれば嬉しいんです」

「君は、坂出のことが好きなんだね?」

 そういうと、少しだけ顔が赤らいだが、

「そういうんじゃないんです。好きという感情とは違うものを感じるんですよ」

 本人にどこまでの自覚があるのか分からないが、本当にこの娘が人を好きになったことがあるのかと言われると、疑問に思える。だが、そんな女性が本当に人を好きになれば、きっと半端ではないような気がしてきた。鍋島由美子は、亜由子とは違った魅力があり、その魅力は、思ったよりも深いところに根付いているような気がして仕方がない。亜由子が神秘的な雰囲気だったのに対し、鍋島由美子には妖艶な雰囲気を感じる。ただ、どちらの女性も放ってはおけない雰囲気を感じるのは、共通した感情が川崎自身に漲っているからなのかも知れない。

「私は、父親がいないので、男性に対して、他の人とは違った感覚を持っているんじゃないかって思っていたんです」

「違った感覚とは?」

「優しくされると、父親の面影を感じてしまって、どうしても甘えたくなるんです。心の中では、甘えてはいけないという思いが人一倍だと思っているのにですね。これっておかしな感覚なんでしょうか?」

「いや、そんなことはないと思うよ」

 途中からの思わぬ、人生相談に戸惑ってしまった川崎だった。正面から見つめてくる鍋島由美子の表情に、目を逸らすことができなくなりながらも、

――正直に答えてあげなければいけない――

 と思うのだが、

――中途半端なアドバイスは、却って惑わすだけだ――

 という思いもあり、どこまでアドバイスしていいのかが難しいところだった。

 だが、正面から見つめる目を見ていると、素直に思ったことを話してあげるのが、礼儀だと感じた川崎も、彼女の顔を正面から見つめた。まわりから見ると、この空間だけ、異様な雰囲気に包まれているのかも知れない。

「私が小学生の頃に、父が交通事故で亡くなったんです。それから、母が一人で私を育ててくれたんですけれど、どうしても、昼間私が一人になることが多くなって、そのせいもあってか、私はあまり人と一緒にいることがなくなり、誰かと話をすることも、ほとんどなくなったんです」

 何となくイメージは湧いてくる。

 実際に同じような境遇の女性を直接知っているわけではない川崎だったが、話を聞いていると、不思議と境遇が想像できてしまうのだった。

 彼女は続ける。

「高校生になって、私に告白してきた男の子がいたんです」

「ほう」

 中には静かな女の子を思っている男性がいても何ら不思議ではないが、イメージとして告白できるタイプではなく、片想いに終わってしまうタイプだと思ったので、不思議に感じたのだった。

「その人は、いつも大人しい人で、私とは違うところで、いつも一人でいる人でした」

「君は、その人を前から意識はしていたのかい?」

「ええ、意識はしていました。でも付き合ってみたいとは思わなかったんですが。もし、男性と付き合うようになるんだったら、彼のような人がいいんだろうと思っていました」

 どうやら、彼女は自分の意志というよりも、雰囲気の中から、自分のことを客観的に見て、付き合える人を想像していたようだ。元々、彼女のようなタイプは、自分を表に出すことをしない分、客観的にしか見ることができないだろうと思っていたので、そのあたりは話を聞いていて。想定内のことであった。

「彼が告白してくれた時、本当はすぐにでもOKしてもいいと思ったんですけど、つい躊躇したように、お返事は少し延ばしたんです」

 これも、彼女の雰囲気からは十分に想像できることだった。しかも、相手の男の子も、きっと最初からOKしてくれるということは考えていなかったかも知れない。もし、いきなりOKしてくれたとすれば、却って戸惑いを覚えたのではないかと思うくらいだった。

「なるほど、お互いにそれが正解だったかも知れないね。付き合い始めてからも、二人は、お互いに遠慮深かったわけでしょう?」

「そうですね。彼は優しかったし。私も彼の優しさに甘えることが、彼の気持ちに答えることだって思ったほどですから」

 そういうと、少し寂しそうな表情になった。

「でも、長くは続かなかったんでしょう?」

「ええ、そうなんです。どこかぎこちなくなっちゃって」

「分かる気がするね」

 お互いに遠慮ばかりでは、相手の気持ちに答えることはおろか、本当の気持ちに触れることもできない。まったく触れることができなかったわけではないのだろうが、触れられないことがなぜなのか、分かっていない。それが、修復しなければいけない大事だということも意識していなかったのかも知れない。そう思うと二人の関係は、情けないという思いとともに、何に対してか分からないが、可哀そうに思えてくるのだった。

「分かってくれますか?」

「うん」

 頷いてから、少し時間を持った。そして、

「でもね、どっちが悪いというわけではないんだろうけど、お互いにまだ未熟だったということは間違いのないことさ。よく言うだろう、初恋は淡いもので、なかなか成就しないって、それと同じようなものなんじゃないかな?」

 と川崎が言うと、

「なるほど、そうですよね」

 という答えが返ってきた。その表情には少し晴れやかさが戻ったが、それはきっと、鍋島由美子には、そこまでは自分の中で理解していたことだということを示しているように思えたのだ。分かっていて、それを納得させてくれる人に話しを聞いてほしかったに違いない。要するに、彼女に足りていないのは、「納得」なのだ。

「この話を、坂出には話したかい?」

「いえ、坂出さんには話せませんでした。あの人は、どこか思いつめたら一直線なところが見えたので、話をするだけの勇気が持てませんでした」

「ほう」

 鍋島由美子は、思ったよりも人を見ているのだと思った。川崎も話を聞いていて、きっと彼女は話をしていないだろうと思ったが、ここまで坂出の性格を分析できているとは思っていなかったからである。

 鍋島由美子を見ていると、やはり誰かがかぶって見えることを意識していた。それが同窓会で一緒だった直子であり、今まで直子に対して抱いていたイメージが鍋島由美子の出現で、さらに思い返させることになるのだと思った。

 この間の同窓会で、結局姿を見せなかった直子。連絡を取ってみたが、

「ごめんなさい、どうしても仕事が忙しくていけませんでした。本当はもっと早く連絡しなければいけないと思っていたんですが、本当にすみません」

 川崎の知っている直子は、そんなにいい加減な人ではない。確かに目立たない性格で、自分のことをあまり話さないが、それでも団体の中の一人に属しているのである。それだけ、マナーはキチンと守ることのできる人であった。

――何か、突発的なことでも起こったんじゃないかな?

 そう感じた川崎が、後日、連絡を取ったのだった。

 確かに仕事が忙しいのは分かっていたが、連絡が取れないほどということは、男女関係に端を発していると思ったのだ。

 それが、グループ内でのことなのか、プライベートでのことなのかまでは分からないが、少し気になるのは、大橋譲の存在だった。

 譲は、同窓会の最中も、直子のことをずっと気にしていた。

 卒業してから三年、その間に、誰がどんな状態だったのかなど、分かるはずもないが、中にはずっと交流のあった人もいるだろう。譲と直子の間に何かがあったとしても、それは不思議なことではない。

 だが、逆にずっと付き合っているのなら、同窓会に来ないことを気にするだろうか?

 もし、二人が付き合っていて、途中で別れたとする。譲が復縁を望んでいて、それを直子に言えないでいたとすれば、譲が直子を気にしていたというのも納得できることだ。

 だが、それは直子が同窓会に無断欠席することとは結びつかない。

 となると、直子の方では、もうすでに譲以外の人と付き合っていて、譲のことなど眼中にないということであれば、これも想定内のことだ。

 いろいろな憶測が頭を巡るが、どうしても自分が男なので、立場的には譲の立場にだけ目が行ってしまう。不公平だと思いながらも、直子のことを気にしていたそんな時、偶然というべきか、坂出のことを探っているうちに知り合った鍋島由美子が、直子に雰囲気が似ているのである。

 直子がよく分からない雰囲気だけを醸し出していたのに対し、初対面でこれだけたくさんのことを話してくれた鍋島由美子。タイプは似ていても、性格はまったく違っているようだ。

 それでも直子を彷彿させるその雰囲気は、川崎には放っておけない感覚に陥らせるに十分だ。それを鍋島由美子は感じているかどうかも、少し気になるところだった。

 坂出のことよりも、自分の話に終始し始めた鍋島由美子は、どうやら、会話にスイッチが入ったようだ。普段静かな女性にはスイッチがあって、それを押すのが誰かによって、会話のタガの外れ方も違っているのかも知れない。

――彼女のタガは、自分で外したんだ――

 川崎は、ほとんど何も言っていない。受け答えしているだけだ。だが、それが彼女にとってのタガを外すポイントになったのであれば、それが真実。他の人には分からないことであろう。

――どうしてなのかしら?

 彼女は自分でも分かっていないかも知れない。自分を理解するというのは、それだけ難しいことなのだろう。

 坂出にはできなかった話を川崎にはしてくれる。川崎にはあるが、坂出にはないものを彼女自身が感じたのかも知れない。それは川崎にとって嬉しいことであり、坂出と張り合っているつもりはないが、自分の中で、坂出との関係を整理するには、好都合なものだった。

 鍋島由美子の話を聞いていると、以前にも、どこかで似たような話を聞いたことがあるような気がしてくるから不思議だった。記憶の中にそんな話が入っていた意識はない。ということは錯覚なのだろうが、どうしてそんな錯覚を起こすことになったのか、そっちの方が興味を感じた。

――鍋島由美子と一緒にいると、落ち着いた気分になれる――

 と思い、話を聞いていたのだが、話を聞いているうちに、ある瞬間から、まったく逆の感情が湧いてくるのを感じていた。

 それは話の内容がまったく変わっていないのに、聞いている自分の精神状態だけに起こった変化だった。

――何だろう? この鬱陶しいという感覚は――

 それが鍋島由美子に対してのものなのか、話の内容に対してのものなのか、自分でも判断がつかない。

 どちらにしても、話を聞いていて、どこから来るのか、焦りのような汗が額から滲み出てきた。そのうちに、聞いていて、ウザったいという気持ちになってくる。そう思うと、一生懸命に話している彼女を先ほどまで、

――いじらしい――

 と思っていた自分に対して腹が立つ。

――そうだ、俺は自分に対して腹を立てているのだ――

 と、分かってくると、彼女に対して苛立つのは完全なお門違いであるのが分かってきた。それなのに、なぜか苛立っている自分よりも、鍋島由美子に対して感じる苛立ちが、正しい感情に思えてくる。

 きっと、自分の中で、何かしらの正当性を求めているからに違いない。

 あどけないと思って見ていた鍋島由美子に、妖艶さが醸し出されてきた。それは直子に対して抱いていた妖艶さがかぶって見えるような感じだったのだ。

 鍋島由美子との会話の中で、一番しっくり来なくなったのは、彼女の話にわざとらしさを感じるようになったからだ。

 明らかに自分の勝手な発想から生まれたものなのに、それを相手に押し付けるのはいけないことだと思いながら、川崎は、鍋島由美子を見ていた。

 いや、妖艶さに惑わされている自分に気が付いたからなのかも知れない。

 そういえば、直子にも同じような感覚を抱いたのを思い出した。そして直子を似たような視線で見ている譲の気持ちが分かるような気がしてくると、今度は、譲を無視できなくなっていた。

――譲に対して、俺は嫉妬しているのだろうか?

 そんなイメージを抱いてしまって、その思いが強くなるにつれて、直子にM性を感じるようになったのだ。

――苛めてみたい――

 思ってはいけない感情、心の中であっても、呟いてはいけないことだと思いながらも、呟いてしまった自分に後悔の念が走る。それが、今よみがえってきて、焦りを生んだのだろう。

 だからこそ、苛立ちの本当の原因は自分にあるのだ。自分の勝手な妄想から、鍋島由美子の侵してはならない領域を、侵犯しているのだ。

「ごめんなさい。初めてお会いした人に対して、こんなこと言えた筋合いではないと思うんですけど、どうしても話してしまわないと気が済まなかったんです」

 川崎は、少し今の言葉に解せないところがあった。

「言えた筋合いではない?」

 その言葉に過敏に反応してしまった。

――ここまで話してきているのに、少し水くさくないか?

 という思いであった。自分を信頼して話してくれているはずなのに、どうして、

「筋合いではない」

 という発想になるのだろうか? そう思うと、鍋島由美子の中にある、

「他人を受け入れてはいけない」

 という思いが見え隠れしているようで、またしても、苛立ちを覚えてくるのだった。

 川崎が何も言わずにいると、モジモジしているようで、どこか上目使いな視線に、モノ欲しそうないじましさを感じるのだった。川崎は、今の自分がどうしてここまで捻くれた考えを抱くようになったのか分からない。ただ言えることは、

「捻くれた考えを抱くまでには、時間はそれほど関係ない。あっという間に抱いてしまうことだってあるのだ」

 という思いが頭を過ぎったのだ。

 川崎は、抱いてはいけない妄想を抱いてしまった。

 初めて人を蹂躙するイメージ、しかも相手が女性ともなると、抱いてしまったイメージを打ち消したいと思っても、あまりにもリアルな想像となってしまっていて、打ち消すこともできない。

 ただ、それでもある程度までの妄想を抱いてしまうと、限界があるようで、次第に頭が冷めてくるのを感じた。それまでに抱いた妄想が消えることはないのだが、冷静に戻っていく自分を感じた。

 身体が落ち着いてくると、スッと心地よさが走り抜け、さっきまで焦っていた気持ちに一区切りついたのが分かってきた。

 鍋島由美子があどけない表情で覗き込んでいる。さっきまで苛立ちしか生まれなかった感情が、冷めてくるにしたがって、いとおしさに戻ってきた。

――一体何だったんだろう?

 今まで抱いていた妄想が、ウソのように消え去っていた。そしてあっという間に過ぎてしまったと思う時間が、ポッカリと川崎の心の中に大きな穴を残したようだった。

 ただ、穴は残っていても、それは心の中だけで、感じている時間が、明らかに飛び越えていたのだ。鬱の時間を飛び越えたかのような感覚に、

――妄想とは、躁鬱症の一環のような感覚をもたらす――

 と思ったものだ。

 川崎は、鍋島由美子と話をしていて懐かしさを感じたことで、直子のことが気になってしまっている自分に気が付いた。

 それは、坂出がいなくなったことと、直子が来なかったこと、さらには、坂出の勤めていた会社に、直子のイメージによく似た女性がいたということは、偶然で済まされることなのかどうか、分からなかった。

 そういえば、スナックのママの言葉の中で、

「坂出さんは、私には癒しを求めてくれていたようなんだけど、時々、満足できないのか、何か苛立ちを感じていたようでした。いつも受け身の人は、時々自分が他の人に奉仕しないと我慢できなくなるみたいで、そこが人間らしいというところなんでしょうね。私も普段から人に与えるばかりの立場なので、たまには癒されたいと思う気持ちと同じようなものなのかも知れないですね」

 という話が出たのを思い出した。

 川崎も、どちらかというと、与える立場の方が多い。だが、

「あなたって母性本能をくすぐるところがあるのよ」

 と、言われることが多く、与えられることが、この上のない心地よさであることを知ったのだ、だが、基本的にはやはり与える方が自分らしいと思うのは、自分が男であるという意識が根本にあるからだろう。

――男だから、癒す側でないといけない――

 そんな決まり事などあるはずはないが、勝手に思い込んでいる。それを自分では、

――古臭い考えだ――

 と思っているからであって、それでも最近は少し丸くなってきているように思えた。

 柔軟な考え方がなければ、同窓会の幹事など引き受けられるわけもない。同窓会の幹事を引き受けるにあたって、どれほど自分に自信がなかったことか、

「心配しなくても、フォローしてやる」

 と、言ってくれた人ほど、蓋を開けると、何も動いてくれないものだ。

 翌日、スナックのママから電話が掛かってきた。前日、

「何か思い出したことがあったら、連絡をください」

 ということで、携帯電話の連絡先を教えておいたのだ。

「実は、坂出さんのことなんですけど、私のところから姿を消したその前の日に、どこかから電話があったようなんですよ。私がいないと思ってお話をしていたようなんですけれども、どうやら、込み入ったお話のようだったんですけども、最後には安心したような口ぶりだったですね。それが何か影響しているのではないかと思います」

「貴重な情報、ありがとうございます」

 ママは、まるで急に思い出したような話をしていたが、果たしてそうなのだろうか? 考えられることはいくつかあるが、本当は分かっていて、人に話してはいけないことだと思って言わなかったというのが、一番強い考えだ。

 話をしていいのか悪いのか。心に葛藤があったかと思う。そして話すにしても、相手を見て、

「この人なら大丈夫」

 という確信がなければ話せないと思ったとしても、それは自然なことである。

「ということは、俺なら話をしてもいいと思ってくれたということであろうか」

 それなら嬉しいことであり、これからも、情報があれば話をしてくれるだろう。心強い味方を得たと思うとありがたかった。

 また、逆に本当に忘れていて、急に思い出したのかも知れない。ただ、忘れていたとしても、思い出す過程に、川崎がいたのだという考えもある。

「あの二人が訪ねてきたから思い出したんだわ」

 と、思ったのだとすれば、ママの中ではすでに坂出は過去の人になりつつあったということだろう。

 したたかな考えでもあるが、前向きだとも言えなくもない。いつまでも過去にこだわらない性格なのだとしても、これもまた自然である。特に一緒にいた期間が、それほど長いわけではない。目まぐるしく変わる毎日の中で、その一時だけ、

――ママの心の中に腰を下ろした男がいた――

 というだけである。

 川崎は翌日、ママと待ち合わせをした。今度は亜由子を伴っていない。

 亜由子を伴わないということが、ママと会う条件でもあった。

「妹さんには、どんな結果が待っているか分からないので、まずはあなた一人で確かめた方がいいと思うのよ」

 というのが、ママの話であった。

「そうですね。じゃあ、明日は私一人で伺います」

 待ち合わせは、駅前の喫茶店だった。ちょうどその日は、川崎も仕事が休みだったので、ちょうどよかった。

 時間は昼下がりの二時過ぎ。少し汗ばむくらいの陽気に、夜の店に出ているママに会うのも新鮮な気がすると思っていた。

 ママはすでに来て待ってくれていた。

「すみません、遅くなっちゃって」

 本当は遅くなったわけではないが、ママがすでにいたのを見て、思わず口から出たのだった。

「いえいえ、私は性格的に待ち合わせの時間の二十分前には、待ち合わせ場所に来るようにしているだけなんです。お気になさらないでください」

 お店のカウンター越しの表情とは明らかに違う。昼下がりの自然な明かりが差し込んでくる店内では、昨日見た人と同じ人なのかと思うほど、新鮮だった。

 化粧は施しているのだろうが、まったく化粧を感じさせない。それでいて肌が綺麗に見えるのだから、よほど手入れが行き届いているのか、思わず感心してしまったくらいであった。

 言葉遣いも、お店とはまったく違う。今日の方が丁寧なのだが、それでいて、他人行儀でもない。

――こっちの方が本当の性格なのかも知れない。坂出がもしママを好きになったのだとすれば、それも分からないわけではない――

 と思った。

 坂出にとって、ママがどんな存在だったのか。それは今となっては分からないが、坂出という男が、そう簡単に女性に惚れる男ではないことは、川崎は知っていた。しかも相手はスナックの女性。スナックの女性だからというわけではないが、坂出がなかなか女性を好きにならないのは、相手の後ろに見え隠れするものがあれば、憂いをすべてなくさなければ相手を好きになることをしない慎重な男だからだった。

 ママが坂出のことを気にしているのは、本当に愛しているからのようだった。ただ気になっているだけだったら、本当にここまでするか分からないだろう。坂出という男は、いなくなってすぐよりも、次第に存在が膨れ上がってくるまでに、少し時間が掛かるのかも知れない。その方がジワジワイメージが湧いてきて、好きになる理由を、自分なりに納得できるからであろう。

 ママが、どのように坂出を好きになる納得をしたのか分からないが、川崎も人を好きになる時、自分の中で納得させる過程を踏むのを自覚しているので、ママの気持ちが分かる気がした。そして納得できるからこそ相手を好きになるという気持ちが、あまり一目惚れを信じないという別の思いを呼び起こしているのかも知れない。

「手掛かりになるのは、その同僚の女性、鍋島由美子さんという人だけなんですよね? じゃあ、まず彼女から当たってみるのが最初かも知れませんね」

「そうですね。私は、彼女と直接お話をしたんですが、でも、後ろめたさは感じなかったですね。きっと彼女の言う通り、こちらの誠意に感じて、知っていることを話してくれたんだと思っています」

 鍋島由美子に関して、必要以上なことは話さなかった。話してみたところで、感じたことは、直子と似ている印象が余計なことであることは分かっている。ママに話すことではないだろう、

「実は、坂出さん。私のところにいる時、日記をつけていたんですよ。いなくなってからもその日記がうちにあったので、読んではいけないと思って今まで読んでいなかったんですが、とりあえず、今日はここに持って来ました」

 坂出が日記をつけていたというのは分かる気がした。

「坂出は、日記をつけるのは、日課のようになっていたので、分かる気がします。きっとつけていなければ気持ち悪いという気がしていたんでしょうね。でも、つけていた日記を自分で持って行かずにそのまま置いてきたということは、何かそこに意図があるのかも知れませんね」

「そうですね、普通、日記は誰にも見られたくないものとして、隠しておくものだと思うんですよ。まあ、隠していなくても、わざわざ見るようなことはしないですけどね。実際には、日記をつけていることは知っていても、彼が日記をどこに置いていたかを私も知りませんでした。隠していたという意識は坂出さんにはなかったかも知れませんが、一緒に住んでいて、日記を見るなどというのは、完全なルール違反になりますからね」

「でも、彼はその日記を、いなくなった時に持って行こうとしなかった。日記を持っていくこともできなかったほど、ここからいなくなった時の事情に切羽詰ったものがあったのか、それとも、わざと置いて行ったのか、私には分からないですが、ひょっとして、その両方だったと言えなくもない気がします」

「両方ですか?」

「はい、切羽詰ってはいたけど、最初は、日記を持って行こうと思って、手に取ったかも知れない。でも、持っていくことを思い立った。もし持って行ってしまったら、あの人がここにいたという証拠がまったく消えてしまうことになる。それを嫌ったのかも知れないという思いをですね」

「でも、僕の知っている坂出は、性格的に、いなくなるなら、すべてを持ち去るのではないかと思うんですよ。中途半端に残しておくということは、行方不明になる自分を、日記を見ることで、思い出してほしいという思いであって、未練をその場所に残しておくことになる。それは男としては、中途半端なことであり、決してけじめのつけられることではない」

「坂出さんは、いなくなるならいなくなるで、ちゃんとけじめをつける人だと私も思います。やはり、何か意図があって日記を残して行ったのかも知れませんね」

「ということであれば、日記を見ることは、やぶさかではない。さっそく見せていただきましょう」

「はい、分かりました」

 というと、ママはカバンの中から少し分厚い日記を取り出した。表紙は頑丈に作られた日記で、大切に付けていこうという意思がありありと感じられる。それなのに持っていくこともせずに置いていくということは、やはり、坂出の中で、何かしらの意図があって置いて行ったのに間違いはないだろう。見てあげることが、坂出の気持ちに答えることに繋がるに違いなかった。

 表紙をめくって、最初のページを見ると、そこに書かれている日付は、一年くらい前のことだった。

「坂出は、ある時期から日記をこれに変えているんだな。前に書いていた日記帳がいっぱいになったからなのか、それとも、何か理由があるのか。でもこの最初の部分を見る限りでは、何か特別な精神的な変化があったようには思えませんね。あるいは、前につけていた日記の最後に秘密があるのか……」

 川崎は、そう呟いて独りごちていた。

 もし、日記を変えたのだとすれば、その時に何かがあったのだろう。読み進んでいくと、そこに坂出の心の葛藤が見え隠れしているかのようだった。

 この日記を見た時、最初に感じたのは、ママがどうして今日、川崎だけを呼び出したのかということを垣間見ることができたからだ。

――これは、亜由子には見せることのできない内容だ――

 日記の中の坂出の心境は、葛藤というよりも、悶絶に近いものだった。ジレンマとトラウマが入り混じった内容は、いくら自分だけしか見ないつもりで書いていたとしても、相当考えながら書いたものに違いない。

 坂出の性格から考えると、文章を考えながら書くなど、想像もできなかった。実際に、以前から、

「俺が書く文章は、いつも思ったことを一気に書くことが多いのさ。その方が変な迷いがなく書くことができるだろう?」

 作文など、あっという間に書いていた。どうしてそんなにすぐに書けるのか、誰もが不思議に思っていた気持ちを、代弁するかのような気持ちで聞いた時に、そう答えていたのを思い出した。

 確かにその通りで、考えれば考えるほど堂々巡りを繰り返すのは、大なり小なり皆同じである。考えてみれば、最初に浮かんだ言葉を書き連ねる方が、よほど、分かりやすい文章になるのではないかと思ったくらいだ。

 思い切りの良さは、坂出の信条でもある。それはまわりの誰もが認めるところだった。ひょっとすると、ママも同じことを感じていて、それにしては日記を見てあまりの違和感に、川崎にその思いを伝えようと、日記を持ってきたのかも知れない。

 ママはママで、川崎や亜由子と違う意味での危惧を、坂出に抱いているのかも知れない。

 亜由子を見る目が少し違っていたのも納得する。どこか、目を逸らそうとしているように見えたのは錯覚ではなく、どこか憐みを感じさせたのは、無意識であったかも知れないが、本心だったに違いない。

 亜由子を見たママの心境を思い図ると、そこに同じ女性としての目が十分に感じられた。もし、ママが男の視線で亜由子を見ていたら、好奇の視線だったかも知れない。それを思うと、ママが憐みを感じたのも分かる気がしていた。この日記はやはり見せるなら川崎にだけで、他の誰にも見せてはいけないもののようだった。

 日記は、当時付き合っていたであろう坂出の彼女の話から始まっている。

 それまで自分の気持ちを騙し騙し付き合っていた彼女のことを、最初は憐れんでいる内容が多かった。

 相手は、あまり敏感ではないようで、坂出の気持ちに何も気付いていない。それは幸いなことなのか分からないが、とにかく自分が惨めだと書かれていた。

 坂出が、純真無垢な女性を好きなのは、前から分かっていた。ただ、その思いは、他の純真無垢な女性が好きな女性とは少し違っていた。

――自分に従順な彼女を育てていきたい――

 そんな思いが見え隠れしているのだ。

 サディスティックなイメージではあるが、それも少し抑え目である。本来の性格がサディスティックなものであり、何とか悟られないようにしていたのも、分かっているつもりだが、日記の端々に、その苦悩が感じられるのは、気のせいであろうか。

――坂出は、その思いをママの前で曝け出していたのだろうか?

 川崎は、曝け出していたと思う。坂出の性格からすれば、好きになった相手に対して、なおさら、

――自分のことをもっと知ってほしい――

 と思っていた。それが訳アリの相手でも同じである。

 逆に訳アリの相手の方が、余計に分かってもらおうとする。なぜなら、深いところで気持ちが通じ合えると思うからだ。

「うわべだけの関係なんて、メッキが剥げれば、後は骨を皮しか見えてこないものさ」

 極端な表現だが、これも坂出らしい言い方だった。

――分かる人にだけ分かってもらえれば、それでいいんだ――

 というのが、坂出の考えである。

 日記の中で出てきた彼女は、坂出にとって、

「分かる人」

 ではなかったのだ。

 坂出は分かる人を本当に求めていたのかは、日記の最初の方を見る限りでは分からない。だが、彼女と付き合っていることが自分を欺いているということに気付いた時、坂出の葛藤は始まった。それが、彼女を見ているつもりで、実は違う女性を見ていることを気付いていながら、それを必死に否定している自分がいたからであった。

 日記に出てきた最初の彼女の話題は、なるべくいいことを探して書いているように思えた。いいところあかりを探しているために、辻褄が合っていなかったり、坂出の気持ちよりも、相手をいかにうまく書いてあげようかという、遠慮がちな日記になっていた。

――坂出は、こんな日記を書いていたんだ――

 遠慮がちで、自分の意見を押し殺すような日記は、坂出らしくない。坂出の日記なら、もっと自分の気持ちを吐き出すように書いていてもいいはずなのに、まるで別人が書いたかのようだ。

――ここにいる時の坂出は、別人だったのかも知れない――

 自分の知らない坂出が、そこにはいたのだ。

 川崎も坂出のすべてを知っているわけではない。だが、普通日記を書くというのは、普段人に言えない内容を、気持ちの中に収めるだけでは飽き足らずに、何か形に残したいと思って書くのが日記なのではないだろうか。あるいは、嫌なことがあり、何とか抑えることで事なきを得た自分を納得させるため、素直な気持ちを日記に籠めるために書く人もいるだろう。

 すなわち日記は、正直で素直なものなのだ。

 それなのに、日記の中でも遠慮して書いている。この心境は、さすがに最初分からなかった。

 だが、考えてみると、分かってくることもある。

 日記を書くことで、自分の性格に戒めを課す場合である。

――相手に悪い――

 それは自らの心にウソをついて相手に接している場合、自分の気持ちを封印したいと考える。封印先は日記ではなく、自分の心でなければいけない。だから、日記には、自分の気持ちを押し殺したままで、何とか幸せになっていく自分を描きたいと思うのだ。

 だから、日記の内容にはいいことしか書かれていない。悪いことは、すべて心の奥に封印し、日記の中での自分は、ウソをついているという感覚がないほどに、相手との幸せな時間を育んでいるのだ。

「分かる気がするな」

 もし、川崎も日記をつけるくせがあったのなら、同じことを想うかも知れない。だが、川崎と坂出では、「ウソ」というものについての感覚が違っているだろう。日記の根本である「ウソ」という感覚が違っていることで、最初から、坂出のような日記を書くことはできないことを、川崎は分かるのだった。

 日記の中に出てきた彼女は、二か月もすれば、日記の中から消えていた。しばらくは、女性のことは書かれていなかったが、その間に書かれていたのは、その時に馴染みにしていた居酒屋のことであった。

 同じく常連になっている人との会話がよく書かれていて、その人の話に感動したと書かれているが、内容は、坂出が言いそうな話が多かった。

――ひょっとして坂出のセリフ?

 と思うほどで、明らかに坂出が以前に話していた内容だったのを思い出した。

 最初は、その人から聞いた話を、自分にしてくれたのかとも思ったが、明らかに話を聞いた方が、古かったのだ。

 日記に書かれている内容は、相手の男のセリフには違いないが、それは自分と共有した気持ちを表したものなのかも知れない。

 相手のセリフに思わせて、実は自分の心の底にあるもの。だが、その実、その言葉を引き出させたのも坂出自身だと思えば、日記に書き遺しておきたい気持ちも分からなくはない。

 坂出のそんな日記の内容は、毎日書かれていて、

――よく毎日、これだけ書くことがあるな――

 と思うほどだ、

 きっと中には、創作もあるだろう、いつもいつも事実ばかりを書いているわけではない。ネタがそんなに毎日あるとは思えないからだ。

 それでも半年ほどは、自分と居酒屋の常連さんとの話に終始していた。やはりそんなに長く続くなど考えられない。他の人との話も、常連との会話として描いているのかも知れない。それだけ常連さんとの会話が一番しっくりくるのだろう。

 ひょっとすると、会話のように書かれているが、相手の一方的な話だったのかも知れないと思うと、常連さんとの会話をまるで物語のように完成させようという意図が、坂出にはあったのかも知れない。

「そういえば、坂出は高校の時に、小説家になりたいなどと言っていたことがあったな」

 どこまで真剣だったのか分からないが、文章に対して、敏感だった頃があった。川崎は元々文章を書くのが苦手だったので、そこで、坂出との接点はなかった。忘れていたことを日記が思い出させてくれたのだ。

 坂出の日記は、それだけで、一冊の文庫本になりそうなくらいだった。内容としては、何日にも同じ内容がまたがっていることもあれば、短日で完結しているものもある。もし、この頃に、少しでも坂出と付き合いがあったのなら、もっと大スペクタクルに感動していたかも知れない。

 ただ、知らないからこそ、想像力が豊かになるというものだ。日記は元々人に読ませるものではない。だから、余計な体裁や恰好をつける必要もない。それだけに、楽しい話を書けたり、楽しくない話でもリアルさを求めることができるのだろう。

 むしろ、何日にも渡って綴られている内容は、楽しい話はほとんどない。切羽詰っていたり、書くことで、自分の中の気持ちを整理させようとしているようだ。実名が登場するわけではないが、仕事の問題や、会社でのストレスも後半になると出てくる。

 半年後からは、話の内容が定まっているわけではなかった。どちらかというと、妄想的なものもあり、興味深いものであった。

 最初に付き合った女性の後、女性と付き合ったという話は出てこないが、自分の女性観について書かれていた。他に書くことがなかったのか、それとも、本当は付き合っている女性がいて、付き合っている女性のことを書いてしまうと、その人がいなくなってしまうのではないかという思いを危惧していたのかも知れない。

 川崎がもし日記を書くとすれば、坂出の日記とは少し違うものを書いているだろう。元々日記を書くのは好きではない。作文が嫌いだったのと同じ理屈で、ノンフィクションというのが嫌なのだ。

「事実を書くのだから、キチンと書けて当たり前」

 という思いが川崎の頭には強くある。

「何もないところから作り出すのが、文章や絵画などの芸術と呼ばれるものの醍醐味なのだ」

 という思いが根底にあるからだ。

 坂出の日記を見ていると、最後の方は、まるでもう二度と会えない人への思いを打ち明けているようだった。

「この日記は、妹さんにも見せられないものなんでしょうね」

 とママが言った。

「そうですね。僕は止めておいた方がいいと思います。余計な心配を煽るだけだと思うんですよ。特に最後の方になればなるほど、肉親なら、感極まった気持ちになるんじゃないかと思いますね」

「そうでしょうね。私は妹さんのことを知らないから、よく分からないんですよ」

 川崎も、亜由子のことをそれほど知っているわけではない。だが、亜由子の雰囲気はママの方がよく察していたようなので、川崎よりも見方がストレートかも知れない。少なくとも男の川崎の目には、相手が女性であるという、女性が女性をストレートに見る目と違うものがあるようだ。

 坂出も川崎と同じような目で、妹を見ていたとしたら?

――何を俺はおかしなことを考えたんだ――

 と、すぐに打ち消したが、この感覚をこの時に感じてからというもの、事あるごとに、亜由子と坂出の関係を、普通の兄妹として見ることができなくなっている自分に気が付いていた。

――ママにも、何か感じるものがあるのかも知れない――

 坂出の日記を見せるにあたって、最初から川崎だけを呼び出したのは、当然のことだったのだろう。

「川崎さんは、この日記を読んで、どう思われました?」

「どうって言うか。坂出らしさが出ていると思いました。でも……」

「でも、どこか釈然としないところがあるんでしょう?」

「ええ、そうなんですよ。坂出だったら、もう少し違った表現をしそうなところもあるかと思ってですね。元々言葉を使うのがうまいやつだったので、最初の方は、さすがだなと思うところも多かったんですが、途中から、言葉がストレートに感じられるんですよね。坂出らしくないとも思ったんですが、逆に彼らしくもあるような気がします」

「ええ、坂出さんの一番の魅力は、正直なところだって思ってたんですよ。だから、日記の最初の方が、私にはあの人らしくないと思えるんですよね、次第に自分の気持ちをあらわにしてくるのを見て。私は却って安心しているんですよ。日記を書いている中で、彼がどこか我慢しているところがあるように思えていたのが、次第にほぐれていく。やっと彼らしくなってきたことが嬉しいですね」

「そんな時にあなたに出会ったんでしょう?」

「そうですね。だから、日記を見ていると、彼との出会いは、必然であって、出会うべくして出会った相手だって思うようになってきました」

 ママの言葉は喜々としていて、これがママの本心なのだということが垣間見えたのだった。

 川崎は、日記を読み込んでいくうちに、不思議なことに気が付いた。

――自分のことは自分ではよく分からないというが……

 日記を見ていて、ふと気が付いたのが、日記に出てくるママさんが二人いるということである。

 終盤になると、ハッキリと「スナックのママ」というニュアンスの雰囲気を感じさせる女性が出てくる。ママは、それをどうやら自分のことだと思っているのだろう。そして、そうでなければ、いくら相手が川崎だとしても、日記を他の人に魅せようという気にはならないだろう、むしろ、川崎だからこそ、見せたくないと思うのではないか。

 川崎は、ママが自分の中に、坂出に見たものと同じようなものを見ていることに気が付いていた。

 ここに登場する女性は、確かにほとんどが目の前にいるママのことであるが、ママの話が出てきた最初のところは、少し辻褄が合っていないような気がしていた。

 ママの様子を話しているところで、最初の方のママは、どこか気弱で、自分が何とかしなければいけないと思わせる雰囲気がある。だが、実際に目の前にいるママにはそんな雰囲気は微塵も感じさせない。それでも、ママ自身、自分の中にある弱い部分を知っていて、それを他の人に知られることを必要以上に気にしている。それだけに、弱い部分を人に指摘されると、認めなければいけないという思いを、自分の運命のように思っているのかも知れない。

 ママは日記に出てくる気弱な女性を、自分だと思い込んでいるに違いない。坂出の性格であれば、いくら日記であって、他の人に見られないものだと思っていても、ママのことをいきなり、掘り下げたような書き方はしないに違いない。それほど自分の洞察力に自信を持っていないからだろう。

 その時に坂出は他の女性も意識していて、気弱なところがあり、放っておけないという気持ちを素直に綴っただけなのかも知れない。それ以降に日記に出てくるのは、目の前のママのことだけ、それ以外は眼中にないのだった。

 ただ、坂出は、ここから出て行った。その後の行方をくらましているのだが、ここに出てきた女性の元に向かったのではないかという発想も浮かんでくる。ただ、それはママにとっては辛いことなのかも知れない。

 出会うべくして出会った相手だと思っているママに、このことは言えないでいた。ただ、時間が経てば経つほど、言いにくくなるということもあり得ることだ。

「ママは、坂出のことをどこまで知っているんだい?」

「実は、私自身、もっと彼のことを知っていると思っていたんだけど、実際には、何も知らなかったんじゃないかって思うようになったんです。それも段階を追ってですね」

「段階ですか?」

「ええ、最初は、彼が会社の話を少しずつ私にし始めた時ですね」

「どの時はどうだったんですか?」

「ちょっとだけ、他人のように思えました。彼が会社の話をしないのは、私との時間を大切にしてくれているからだと思ったんですよ。でも。次に会社の話をしてくれるようになった最初は、本当は嬉しかったんです。なぜなら、私を癒しとして求めてくれていると思ったからですね。人の癒しになりたいと思うのは、私の理想なんですよ」

「理想というと?」

「理想の恋愛論というんでしょうか。頼ってくれることが私を大胆にしてくれるんです。大胆になると、私は相手に尽くすことと、相手に求めることの共通性を探し始めるところがあって、それを見つけてくれる相手が、私にとっての本当の相手ではないかって思っているんですよ」

 何となく分かる気がした。川崎も大胆になれないだけで、相手に大胆になることができれば、きっと相手から好かれるに違いないと思うようになっていた。今、その思いを抱いている人というのは、ママではなく、亜由子にであった。

 この間、話をした鍋島由美子にも同じような感覚を抱いたが、鍋島由美子の後ろに見え隠れしている直子のイメージが重なることから、鍋島由美子に対しては抱いてはいけない感覚だと思うようになっていた。

 川崎が、坂出の消息を探すようになったのも、亜由子が訪ねてきたからで、亜由子が今一番頼れる相手が川崎だというだけで、本当は、亜由子に対して抱いてはいけない感覚なのかも知れない。

 そんなことは分かっているつもりだった。他の女性だったら、きっと一緒に探すことはあっても、亜由子に対してのような気持ちが浮かんでくることはないだろう。

「それは、亜由子の兄が坂出で、坂出の妹が亜由子だからだ」

 と、自分に言い聞かせている。この二つの思いがあるから、川崎は、亜由子に対して特別の思いを抱くのだ。

「恋愛感情には関係ないことのはずなのに」

 恋愛感情というのも、まわりの環境や環境に左右される心情に影響しているものなのであろう。

 その思いに、川崎のこれからを暗示するものがあるように感じたのである。

 ママと一緒に探す前に、川崎は確認しておかなければならないことがあった、もう一人のママの存在である。

 どこのスナックなのか想像もつかなかったが、そのキーポイントを握っているとすれば、それは鍋島由美子だった。

 鍋島由美子とは翌日連絡を取り、あらかた日記で得られた内容を話してみた。これはママとの約束をたがえてしまったことを意味するのかも知れないが、鍋島由美子には、ある程度のことを話してやらないといけないという思いがあった。そうでなければ、彼女はこのままの状態を続けていると、坂出からの呪縛から逃れられなくなってしまう。彼女を救うことは、まず第一に坂出の居場所を突き止めることで、そこから先のことは、後で考えればいいことだったのだ。

「川崎さんは、どうして、私にここまでしてくれるんですか?」

「これが一番いいことだと思っているからさ。あなたにだけのためではない。こればすべての面でいい方に向かっているって信じているからさ」

「坂出さんを探すことが、まずは一番なんですよね」

「そういうことになるね。だから、知っていることがあったら、協力してほしいんだ」

「分かりました。私もなるべく思い出すようにします。でも、まさかいなくなるなんて思ってもいなかったから、正直、ほとんど意識していなかったかも知れません」

「彼が、失踪するとは、まったく思っていなかったというんですか?」

「ええ、何かお一人で悩んでおられるのは分かったんですが、ただ、失踪したとすれば、会社のことではなく、坂出さんのプライベートなことだと思うんです。そういえば、誰か女性のことでお悩みでしたよ。とても身近な女性で、しかも、今の今まで悩む要素のなかった相手だって言ってました」

「ということは、その時に関係のあった女性ということですか?」

 スナックのママの話を敢えて伏せたが、

「そういうわけでもなさそうでした。身近に感じていた相手に対して、悩んでいる様子ですから、女性と付き合っていたとすれば、もう少し違った感覚ではないかと思うんです」

 少し寂しそうになった鍋島由美子の表情は、どこか、亜由子にも似ていた。だが、一番似ていると思っている直子が今どんな雰囲気になっているのかを想像してみたが、同窓会に来ていなかったのを思い出すと、次第に、直子のイメージが、鍋島由美子に吸い込まれていくような錯覚に落ち言うのだった。

「私は、妹さんに会ったことないので何とも言えないんですけど、どうやら、坂出さんが気にしていた女性というのが、妹さんじゃないのかって思ったんです。もちろん兄妹なので、別に悩むことはないと思うんですけど、でも、ずっと以前から知っている女性だということは何となく分かっていました」

 ずっと前から知っている? やはり亜由子のことであろう、

 妹のことで何か、突発的な悩みができたのだ。それを、いつもなら誰にも言わずに自分の胸だけにしまっているはずなのに、それをしまい込むことができなくなり、つい鍋島由美子に話したのだろう。

 ただ、坂出が鍋島由美子に話をしたのが、どのようなシチュエーションだったのかが、気になっていた。

――ベッドの中だったのかも知れないな――

 と思って、彼女を見ると、鍋島由美子は目を伏せて顔を赤らめているかのように見えた。それは川崎が自分で感じたことが、現実になることに最初に気付いた瞬間でもあった、

 もちろん、確率的には低いが、まったくないわけではない。特に鍋島由美子に感じた思いは、まるで以前から知り合いだと思わせるもので、行動パターンが読み取れるほどだった。

 ベッドの中での行為よりも、鍋島由美子は、むしろ、事が終わったあとの時間を至福の時と思っているのではないだろうか。

 果てた後の気だるさに身を任せていると、懐かしさがこみ上げてくるのは、川崎だけではないだろう、坂出も同じなのではないかと思うと、坂出が鍋島由美子に話をした内容が、ベッドの中での話ではないかと思ったのも納得がいく。ベッドの中での話でなければ、できない話ではないだろうか。

――亜由子はベッドの中で、どんな話をするのだろうか?

 してはいけない想像をしてしまったことを、次第に後悔してくる川崎だったが、この思いは、自分がこれから味わう思いの中でも、避けて通ることのできないものなのではないかと思うことであった。

 自分が、亜由子に好意を持っている中で、さらに抱いてはいけない妄想を抱いてしまっているのは、自分の発想が、セックスに傾いているからだけではない。亜由子が川崎を見つめる目。あれは、救いを求めるような目であった。

――何に、そんなに怯えているのだろう?

 怯えを感じる相手に対して、川崎は、必要以上に強い意識を持ってしまう。相手が女性であれば、特に怯えから救いを求めている目に対して、男としての感情が湧いてくるのだった。

 坂出にも自分と同じような感覚があるのを、川崎は知っていた。鍋島由美子から怯えを感じさせる救いを求めるような目を浴びせられれば、まず、妄想を抱いたに違いない。

 妄想の世界に入ると、そこで、まわりのことが一瞬見えなくなる。妄想を抱いている時間はあっという間で、すぐに我に返ると、今度は、不思議そうに覗き込む相手の目を感じると、衝動的に抱きしめていることであろう。

 鍋島由美子が坂出にどのような印象を持っていたか分からないが、よく見ると、ママと似ているところを強く感じるのだ。

 抱きしめられた鍋島由美子はどんな態度を取るだろう。抵抗はするだろうが、それが叶わぬと知った時、坂出の腕に抱かれる覚悟をするのだろうか?

 鍋島由美子は、坂出を慕っているのを見ることができた。だが、それは会社の同僚としての彼を慕っているように見えるだけで、それ以上は見えてこなかった。

 坂出は鍋島由美子を抱きしめることをしなかったように思う。だが、どこかの成り行きからか、一線を越えてしまったのは間違いないだろう。慕っている目とは別に、必死になって坂出を探しているのは、彼に会って確かめたいと思っていることがあるからのようだ。それは本当に自分のことを好きなのかどうかということではないかと思う。他に今まで関係した女性がいても、鍋島由美子には関係ない。他の人のことよりも、まずは自分のことなのだ。

 川崎は、女性に対して、逆のイメージを抱くのではないかと思っていた。

「まず、この私が一番なんだ」

 と、心に強く思っている女性は、プライドが高い。そのため、相手の男性に求められても、抵抗することがある。シチュエーションを大切にして、身体は二の次だと思わせようとする。

 逆に、自分が一番でなくてもいいと思っている人は、控えめなところもあり、相手が求めてくると、控えめなところがあるゆえに、相手の求めには素直に従ってしまう。そこには自分の本能も若干含まれていて、シチュエーションよりも、まず嫌われたくないという思いが強いのではないだろうか。

 一線を越えてしまったのは、お互いに相手が一番でなかったことから生じた感覚だ。浮気や不倫とは少し違った感覚なのだろう。成り行きだけで、それ以上はお互いに感情が湧かなかったに違いない。

――寂しさをお互いに共有しあった?

 その考えが一番しっくりと説明がつく気がする。

 お互いの寂しさを埋めることだけで一線を越えたのだとすれば、納得のいくことだろう。納得させるために、後から取ってつけたその時の心境だとでもいうべきであろうか。

――多分、鍋島由美子の中では、一時だけ超えた一線だとして、すでに過去のことになっているんじゃないかな?

 と思えた。

――でも、それは過ちだったという感覚ではなく、坂出が鍋島由美子にとって、素敵な男性としてのイメージを残しておきたい――

 という気持ちの表れなのかも知れない。

 だが、坂出にとってはどうだったのだろう?

 日記の中に綴られている鍋島由美子と思しき部分は、一か所で、しかもすぐに分かるものではなかった。

――ということは、一瞬だけ、坂出は鍋島由美子のことを日記に綴りたい相手として書いたことになるんだ――

 その時が、一線を越えた時なのだ。

 一線を越えて我に返った坂出、鍋島由美子と毎日顔を合わせているうちに、最初は感じなかった、抱きたいというイメージが、フルに達した時、坂出は鍋島由美子を抱いた。その時、鍋島由美子もフルに抱かれたいという気持ちがあり、お互いの気持ちが交錯したに違いない。

 坂出の好きなタイプではないはずの鍋島由美子の存在は、坂出の中に、何かの心境の変化をもたらした気がする、

「俺が女性を抱くとすれば、何かの理由が必ず存在する。存在しなければ、その時に初めて生まれるものがあるはずで、残しておきたいものになるんじゃないかな?」

 奇しくもそんな話をしていたのを思い出した。由美子という女性が自分にもたらした事実、それは、心境の変化を与えるという影響力だったに違いない。

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