第2話 失踪
第一回目の同窓会を終えてから、しばらくすると、直子から連絡があった。
「この間は行けなくて、ごめんなさい」
「どうしたんだい? 皆心配していたんだよ。連絡くらいくれればよかったのに」
「ごめんね。でも、連絡を取りたかったんだけど、少し事情があって取れなかったの」
「とりあえず、また三年後に集まろうという話にしたから、今度は来てくれないと、困るぞ」
本当は、連絡しなければいけないのは山々だが、どう言い訳していいか分からない様子の直子が、勇気を出して、連絡してくれたのだから、ここは直子の気持ちを察して、気持ちを優先してあげなければいけないだろう。
それでも、少しは釘を差しておかなければいけないことを忘れずに、前向きな気持ちになってほしいという思いから、三年後にまた同窓会を開くことを教えてあげたのだ。
これが連絡を取ってくれた直子に対しての態度で最良の方法なのだろうと、川崎は思っていた。
「譲には……」
「えっ」
「譲には、連絡をしたのかい?」
一番、聞きたいところなのだが、触れてはいけないことなのかとも思った。それでも、逆に意を決して連絡してくれた直子には、譲が心配していた素振りをしていたことを、言わなければいけないと思ったのだ。
「ええ、譲くんには、心配を掛けたと思っています。川崎さんは、私が譲くんとお付き合いをしていたのをご存じだったんですね?」
「うん、高校時代から分かっているつもりでいたよ」
「ということは、皆にも分かっていたのかも知れないですね」
「そうかも知れないね」
皆に分かっていたのかも知れないと言った時の直子の声が、少し沈みがちだったことを、川崎は聞き逃さなかった。電話での会話というのは、相手の顔が見えないだけに、話をしながら、声の抑揚や息遣いに、どうしても気を遣ってしまう。
特に直子は分かりやすい性格でもある。
いつも何かを隠そうとしている様子が伺えたが、えてして、そんな時ほど、まわりに対して目立ってしまう。本人が一番分からないことに気付かないのだ。自分の顔を鏡などを通さない限り見ることができないのと同じではないだろうか。
譲と付き合っていることも、高校時代の直子は必死に隠そうとしていた。だが、その反面、譲の方は、オープンだった。ひけらかすわけではないが、
「どうせ、隠そうとしても分かってしまうのさ。それなら、最初から隠そうとなどせず、オープンなのがいいのさ」
隠そうとすれば、後ろ向きになる。まわりに後ろを見せてしまうと、おかしな態度を見抜かれて、余計な詮索をされないとも限らない。譲は、それが嫌だったのだ。直子もそのことは分かっていたはずだが、どうしても受け入れられない気持ちがあるのか、自分からオープンにしようという考えはなかったのだ。
そんな直子の考えが分かったので、川崎は、直子を必要以上に責める気はなかった。ただ、直子という女性が、見ていて苛めたくなる雰囲気を漂わせていたのも事実だった。
――ひょっとして、来なかったのは、何かそのことと関係があったのではあるまいか?
それは、譲と何かあったのではないかという思いと一緒になって感じたことだった。
男女の関係については、それほど詳しいと思っていない川崎は、勝手な憶測が頭の中を巡っていた。それが誤解を呼ぶかも知れないということを熟知しているつもりであったが、それ以上に、直子と譲の関係に興味津々だった。
ただ、譲が実際には結婚していて、その相手を知っている。もちろん、直子も知っているのだろうが、そのことには一切触れない。触れていいことと悪いことがあるとすれば、この場合は触れてはいけないことなのだ。
どちらかというと気が多いタイプの川崎は、いろいろな女性を好きになった。同時に数人の女性を好きになったこともあるくらいで、
――それのどこがいけないのか――
と思ったほどだが、誰も悪いとは言っていない。勝手に自分で、悪いことではないかと思っているだけだった。
だが、好きになるものは仕方がない。それでも一人が決まると、その人だけにしか目が行かないと思っている。実際に高校時代に一度付き合った女性がいるのだが、その女性と付き合っている時は、本当に彼女だけしか見えていなかった。
短い間だけだったが、至福の時間だったと思っている。短かったのは、自分が他の女性に気があったからではなく、本当に彼女のことを好きではなかったからではないかと思っている。どちらから別れようという話があったわけでもなく、自然消滅だったことからも、言えることではないだろうか。
好きになった女性の中には、もちろん、美穂もいた。
――本当に好きなのは美穂のことなんだ――
と今でも思っているが、どうしても坂出の存在が気になって仕方がない。
――坂出が相手では勝ち目がない――
どうしてそう思うのか。同じグループの仲間で、しかもリーダー格だからであろうか?
いや、そうだとしても、それだけのことではないか。何も遠慮することはない。第一、美穂が坂出のことを好きだというのは、自分の勘違いなのかも知れないからだ。
逆に坂出が美穂のことを好きだとすればどうだろう?
男として坂出をライバル視できないわけではない。ここで諦めては逃げに繋がるからだ。同じ仲間であるならば、却って同じ土俵に立つことが、坂出に対しての礼儀ではないだろうか。
直子が謝りの電話を入れてきてから、一週間が経った。
卒業してから三年後の同窓会が終わってから、一か月が経とうとしていた時期のことだった。
季節は冬景色が姿を消し、桜もすでに散り始めるのではないかと思う時期であった。真新しいスーツに身を包んだ新入社員が眩しい中、自分もその中にいるんだと思ったが、緊張感があるわりには、思ったよりも落ち着いている自分に驚いていた。
すでに頭の中から同窓会のことは記憶の奥深くにあり、毎日が前を見て歩いて行くという強い気持ちを持っていないと、流されたままになってしまいそうな自分を危惧していた。
ただ、実際に社会人になって、覚えなければいけないことも多く、気持ちを切り替えていかないといけないと思いながらも、普段と変わらない気持ちを持ち続けたいと思う自分もいる。それは学生時代の甘えを残したままでいたいという気持ちの表れではない。むしろ、逆であった。
学生時代の自由な気風、それは自由な発想を呼び、束縛されないという意識の元に、世の中が自分に何を求めているかということを冷静に見ることができると思うからだ。格好のいいことを言っているようだが、それでいい方向に向くのであれば、それは決して間違いではない。すべてを一つの方向性で見てしまう方がどうかしているという考え方であった。
真新しさも次第に色褪せてくるだろう。だが、その時は新しいスーツに着替えればいいのだ。人間はそう簡単にはいかないかも知れないが基本的な考えをしっかり持っておけば、困った時に迷うことはないというものだ。
すべてが一方向ではいけないだろうが、貫徹しなければいけないことは多々あるはずだ。迷ったり悩んだり、紆余曲折がある中で辿り着くところは一つだとするならば、一本筋の通ったものを持っていることは不可欠だと思う。それが、川崎の中にある基本的な考え方であった。
社会人として歩き始めた川崎の元に、一人の来訪者があったのだが、まさに意外な人物だった。存在を忘れていたわけではないが、まさか自分を訪ねてくるなど、まったく予期していなかった。予期することを許されないと思っていたほどで、あまりにも意外なことで声も出なかったが、嬉しかったのには違いなかった。
「川崎さん、お久しぶりです」
その人は女性で、声が上ずっていたのは、緊張からというよりも、何から話していいかを戸惑っているからだった。それはいい意味であればいいのだが、悪い意味だということは、最初に見た時に分かっていた。嫌な予感が頭を過ぎる。
「兄が、行方不明になったんです」
あどけなさの残る彼女は、今年二十歳になったばかりの女の子で、最後に会ったのは、まだ彼女が中学三年生の頃くらいだっただろうか。同じあどけなさと言っても、あの頃はまだまだ素朴さだけが目立って、可愛らしさはあったが、女性として見るには、幼かった。今はすでに化粧も覚え、綺麗さを引き立てる術を知っている。声は以前より明るくなっているにも関わらず、思い切り抑えているように思うのは、それだけ話が切実なものであることを物語っていた。
彼女の名前は、坂出亜由子。同窓会の言い出しっぺの坂出の妹であった。
――ということは行方不明になったのは、坂出ということか?
一番行方不明には縁遠いと思っていた坂出が行方不明というのは、話を聞いただけでは、俄かに信じられないことであった。それだけ坂出に中途半端な行動が結びつかないのだ。無責任な行動は絶対に取らないと思われたからで、そこに自分の見る目がなかったのか、それとも想定外の出来事が起こったのか、自分にもすぐには理解できかねることだと思う川崎だった。
坂出は、確かに旅行が好きだった。社会人になっても、一人で出かけることがあると聞いていた。それは本人から聞いた話で、
「俺は学生時代から、一人で出かけることが好きだからな。社会人になっても、一人で旅行に出かけることもあるよ」
と言っていた。そして最後に、
「もちろん、亜由子もそのことは分かっているさ。何と言っても二人きりの兄妹だからな」
と言って、言葉を結んだ。
そういえば、いつも坂出との会話では、最後に出てくるのは、妹のことだった。そんなに妹のことが気になるのは、坂出の家庭問題にあるからだと思っていた。
父親が早く亡くなり、母親一人の手で、二人の子供を育ててきたのだ。母親も大変だっただろうが、子供の目線から見れば、幼い兄妹の方が、よほど気になってくる。それは当然仕方がないことであろう。
坂出は、妹のことをいつも気にしていた。同窓会でも、妹の話が出てくると、皆は一応は聞いているが、
――またか――
と思っているようで、早く終わってほしいと思っている。男が相手なら仕方がないだろうが、女の子も同じように思っている。きっと、坂出に対してのイメージが、妹を思いやる優しいお兄さんとしては写っていないからではないだろうか。そう思うと、なぜか川崎は、羨ましく思えてくるのだった。
川崎は一人っ子だった。男兄弟よりも、女の兄弟、特に妹がほしかった。
実は、川崎には姉がいたらしい。川崎が生まれる前に死んでしまったらしいが、親はそのイメージが強く、女の子に対しては、過敏に反応する。一人っ子になってしまったのもそのせいではないだろうか。
家に坂出が遊びに来る時、たまに妹の亜由子を連れてくることもあった。その時の母親はまるで娘が帰ってきたかのような喜びようで、高級菓子を用意したり、マフラーを編んだからと言って、渡したりしていた。その行動は常軌を逸していたが、さすがに事情を話すと亜由子も快く了承してくれ、暖かい目で、母親を見てくれた。
そんな亜由子は、まだ中学生だったのだ。いかにも中学生ということで行儀もよく、礼儀正しい亜由子に対して、母親は、まるで自慢の娘のごとく、
「目の中に入れても痛くない」
と、少々大げさであるが、決して言い過ぎではないほどだったのだ。
亜由子の突然の来訪は、川崎を驚かせはしたが、内心嬉しくもあった。実は、亜由子が現れる三日前に、亜由子の夢を見たからだった。その時は、
「久しぶりに会えて嬉しいね」
「本当にそうですよね」
という会話から始まって、また会える約束をするあたりまでを見た記憶があった。そしてまた会える可能性をかなりの確率で感じていたのだが、普通、夢であれば、同じ夢の続きを見るなど、なかなかできないことのように思えていたが、川崎に限っていえば、続きを見ることができる確率は決して低くはなかったのである。
だから、この予感も夢の中で現実になるのだろうと思っていたが、まさか、リアルに訪れてくれるなど、想像もしていなかったのだ。それだけに自分の気持ちの整理をいかにつけるかが、最初の問題だったのだ。夢が正夢となって現実のことになることは、夢の続きを見ることとは逆に、ほぼ皆無に近いことだったからである。
それにしても、兄の坂出が行方不明というのはどういうことだろう?
「坂出のことだから、旅行にでも行ったんじゃないかい?」
「いいえ、それなら私に必ず一言は話してくれるはずなんです。それなのになにも言わずに行くなんて、私には信じられないんです」
亜由子は、悲しそうな目が潤んで、そのまま涙目になっていた。
川崎には、さらに合点のいかないことがあった。
――同じグループとはいえ、どうして、亜由子は俺のところに来たんだろう? 俺と坂出はそれほど仲がいいわけではないのに――
と思うことだった。
坂出が妹の前では、
「俺は川崎と仲がいい」
というような類の話をしていたのだろうか? もしそうなら、どうしてそんなことを口にしたのだろう? 何かあった時に、自分を訪ねてくるように妹に吹き込んだのだろうか? 合点のいかないことが結構あったのだ。
だが、それでも川崎はよかった。気になっていた亜由子と会えたのだから、それはそれでよかったと思う。亜由子に対しては、普通の恋心ではない。どちらかというと妹を愛しているような感覚に似ている。妹がいない川崎にはハッキリと分からないことだろうが、それでも嬉しいと思っている。
亜由子は、川崎を以前から慕っていたように思うのだ。元々、友達の妹なのだから、禁断の相手であると思っていた。手を出すなどとんでもないこと、中途半端な仲にある坂出の妹だという意識を十分に持っていたが、亜由子は自分にとって、可愛い娘には違いない。――亜由子が坂出の妹でなかったら――
という思いを何度抱いたことだろう。川崎という男は、それほど、男と女の関係の狭間で揺れ動くなど考えたこともなかったのだった。
――亜由子を女として見ているのか?
思わず、顔を左右に振って否定の態度を自らで取っていた。妹として見ていたはずなのに、どうしてなのか、いつの間にか女として見ている。訪ねてくれて嬉しいと思う気持ちは、自分の中で素直な気持ちとして分かるのは、彼女を女性として見ているからだという結論を感じるからだった。
亜由子が川崎を訊ねたことで、亜由子の中で安心感が芽生えているように見えた。
「亜由子ちゃんは、他の誰かのところにも、お兄さんの話を聞きに行ったのかい?」
少し亜由子は考えながら、
「はい、他の人にも聞いてみましたが、皆さん、誰も知らないと言われました」
なるほど、思った通りだった。本当なら、自分のところに最初に来なかったことで、少しがっかりするところなのだろうが、亜由子にはそんな気持ちはなかった。逆に、後になってきてくれた方が、都合がいいと思ったほどであった。
――最後に辿り着いた俺に安心感を初めて抱いたわけか――
そう思うと嬉しい反面、是が非でも、亜由子の期待にそぐわなければいけないと思うのだった。
それに亜由子は、最後に自分のところに来てくれたということは、やはり兄と自分との間の仲が、それほど親しくないということを悟っていたのだろう。
その方が好都合な気がした。汚いやり方ではあるが、
「兄とそれほど親しくないのに、自分のために動いてくれている」
という感情が芽生えれば、好印象に繋がってくる。しかも、坂出のためではなく、亜由子のためだという思いが強いということだ。
この思いを相手が持っていれば、自然と女は男に靡きやすくなるのではないかというのが、川崎の考え方でもあった。
それだけ亜由子に対して、女としてのイメージが強くなっているということで、亜由子にはありがたいことだった。
だが、それは川崎の勝手な思い込みであって、亜由子の本心がどこまでなのか分からない。ただ、
「兄を私は探そうと思っています」
と、言った時の亜由子の表情の真剣さに、まるで川崎を試そうというのではないかと思うほどの雰囲気があった。試されることは嫌なのだが、相手が亜由子であれば、別であった。
――それほど俺のことを――
と、いう思い込みから、姿を消してしまった坂出が、どんな気持ちで今いるのかを想い図ろうとまで思ってみた。それは坂出の失踪の理由に女性が絡んでいるのではないかと思ったからだ。それだけ坂出という男は優しさを持っている。特に相手が女性となればなおさらのこと、今の川崎とどう違うのかを、勝手に想像してみるのだった。
「とりあえずは、心当たりを当たってみるしかないね」
と、言っても、川崎に今の坂出が立ち寄りそうな場所の見当などつくはずもない。頼りになるのは、亜由子しかいなかった。
「兄のことは、私も少しだけ調べています。本当は私が心当たりを当たらなければいけないんでしょうけど、女一人で立ち寄るには少し不安な気がしましたので、ご迷惑かと思ったんですが。川崎さんのお力をお借りしたいんです」
なるほど、亜由子なりに調べはつけてくれているわけだ。それならそれで、好都合である。本当は、亜由子に今から心当たりを探ってほしいという、難しいお願いをしなければいけないことを、どう切り出そうかと迷っていたのだった。亜由子が前もって調べてくれていたのなら、それを生かさねば、男ではない。
「ありがとう、これで少し手間が省けたよ。一緒にお兄さんを探しに行こうね」
この時に、川崎は敢えて坂出を、「お兄さん」と呼んだ。敢えてそう呼んだことに深い意味があると川崎は自覚していなかったが、亜由子はどうだっただろう? 少しだけ一瞬ではあったが、訝しげな表情を浮かべたのを、川崎は気が付いていた。
坂出の家には、今までに何度となく行き、彼の部屋にもそのたびに入ったが、あまり彼は自分の部屋にロックを掛けたり、貴重なものを隠したりしておくようなタイプではなかった。
「家族しかいないんだから」
という安心感があったのだろうが、あまりにも無頓着だと思ったほどだ。それだけ家族を信頼していたのか、失踪する時でも部屋を開けっ放しで、しかも心当たりの場所が検討のつきそうな手がかりを残しているとすれば、そこには、彼の失踪に関わることが見え隠れしていたのではないだろうか。
まず考えられるのは、失踪が、いきなり思い立ったものではなかったということだ。
誰かに探されないように手がかりを残さないようにするくらいは、少々無頓着な人間でも考えそうなことだ。それをしなかったということは、失踪が急遽思い立って行われた衝動的な行動だったのかも知れないということだ。
また、そうなれば、もう一つ考えられることとすれば、失踪するということにまでなるとは、本人も考えていなかったのではないかということだ。すぐに帰ってくるつもりでいたにも関わらず、急遽、帰ってこれなくなった何かが、家を離れた後に起こったのではないかということだ。
どちらも似ているように思うが、状況として、今後の展開を左右する意味では、かなり違ってくるのではないだろうか。
もし突発的な失踪であるなら、そこには彼の意志というよりも、まわりの環境が、彼を帰すことを許さない雰囲気になっているということである。その場の環境を帰ってくることができるように、彼なりに努力しているかも知れないということで、捜し当てた後、彼に協力することもできるだろう。
しかし、逆に、彼が失踪を最初から意図していなかったとすれば、話は変わってくる。ちょっと出かけたくらいのつもりでいたのだとすれば、彼にとっての突発的なことだったからである。
ということは、そこに彼の意志が十分に働いていている可能性があるからだ。
――人にとって突発的な出来事――
なんであるかまでは、想像もつかないが、相手があることには違いないと思えた。しかもそこに見えるのは女性の影、あまり考えたくはなかったが、女性がらみで、結果として失踪したかのように思えるのは、坂出に限らず、誰もが想像のつくことだった。
――亜由子が、俺に力を貸してほしいと願い出たのは、裏に潜む女性の存在を危惧したからだろうな――
坂出の心当たりの場所に、女性の、しかも、彼女一人で訪れるには忍びない場所が存在していることを示していた。そして、もし最初に訪れた相手が、もし知らないと言った場合に、その近辺を探るためには、本当に女性一人では難しいだろう。そこまで考えているとするならば、亜由子という女性も決してあなどれない。
亜由子が、最初に川崎を訪れた時、川崎の会社の近くの喫茶店で落ち合ったのだが、話が進んでいくうちに、時間があっという間に経ってしまい、気が付けば、四時間近くも話していたのだ。
話の内容は、そこまで深い話ではなかった。実際に詳しい話になったのは、二回目以降に会ってからで、最初に会った時は、どんな話をしたのかがおぼろげなくらいに、川崎としては情けないが、半分舞い上がっていた。
それは坂出が失踪したというショックと、亜由子が自分を訪ねてくれたという喜びからのドキドキ、その二つの複雑な思いが交差し、時間の感覚をマヒさせているかのようだった。
亜由子と一緒に入った喫茶店は、普段、一人でしか入ったことのないところだ。馴染みの常連さんもいたので、少し躊躇したが、思い切って入ったのは、最初から込み入った話にはならないだろうと思っていたからだった。
最初は、何をどう話していいのか、亜由子も迷っているようだった。確かに内容を聞いてみると、込み入った話だったこともあって、順序が難しいのも、無理のないことだった。
それでも、ちゃんと準備をしているところはさすがで、どこから当たればいいのかは、最初から迷うことがなかった。
「お兄ちゃんは、今まで結構旅行が好きで出かけていたのは、ご存じですか?」
「うん、知ってるよ。俺も結構学生時代は旅行が好きだったから、彼の気持ちは分かる気がしていたんだ」
「でも、いきなり誰にも言わずに出かけることはありましたか?」
「それはないね。少なくとも、友達の誰かには話していたよ」
「でも、お兄ちゃんは、家族の誰にも言わずに急に出かけることもあったんですよ。後で聞くと、急に思い立ったって言うんですけどね。一言でも声を掛けてくれれば嬉しいと思うのに」
「でも、一度声を掛けそびれると、次から声を掛けることができなくなるってこともあるんじゃないかと思うんだ。君のお兄さんも、一度声を掛け忘れて、次から声を掛けられなくなったんじゃないかい?」
「いえ、そうじゃないんです。次からというわけではなく、今回は声を掛けてくれたのに次はなかったり、逆に今回はなかったのに、次回は声を掛けてくれたりと、一見共通性がないんですよ」
坂出の性格からして、面倒臭いということはないだろう。それに一度声を掛けられなかったことで次は掛けにくくなるというほど、気弱な性格でもない。几帳面ではないが、連絡を怠るような男ではない。そう思うと、声を掛けずに一人で出かけた時というのは、声を掛けられない理由が存在し、坂出の中では納得済みのことなのであろう。そう思うと、ますます彼が遠くに感じられるようになっていた。
坂出の性格の中に物忘れの激しさというものがあるが、それとはまた違っている。物忘れの激しさは、一つのことに集中していることで、集中する時間を別の空間に作ってしまい、できた空間と、普段の世界との間のギャップが、そのまま大きな溝になってしまう。それが、辻褄の合わない理屈を作り上げ、合わなくなる前がどうしても思い出せなくなってしまうのだろう。
「お兄ちゃんがいなくなってから、最初は、いつものことだろうと思っていたんですけど、今回は同窓会の翌日からすぐにいなくなったんですよ。いつもであれば、イベントがあった次の日に急にいなくなるということはなかったからですね」
ということは、そこに坂出の意志がハッキリと伝わってくる気がしてきた。それが何なのか分からない。同窓会が引き金になったというよりも、最後に背中を押したと言った方がいいだろう。
それなら、同窓会の仲間に話を聞いて、どこまで分かるか、微妙なところである。坂出の場合、思い立ったことをすぐに顔に出すようなタイプではないからだ。それでも、引き金であったというよりも信憑性があるだろう。当たってみる価値はありそうだ。
亜由子の話を聞いているうちに、失踪というのは亜由子の勘違いで、心配することはないと答えようと思っていた自分が、どう答えていいか分からなくなってきた。どこか奥が深そうであるが、表に見えている部分だけで判断できないところが、
――奥に進むにつれて見えてくればいいのだが――
と、思うようになっていた。
「お兄ちゃん、社会人になってから、スナックに行く機会が増えたみたいなんです。もちろん、会社の付き合いで行っているようなんですが、そのうちに一人でも行くようになったんです」
「どうしてそのことを?」
「お兄ちゃんの日記があって、そこに載っていたんです」
「坂出が日記を?」
「ええ、社会人になってつけるようになったみたいなんですが、結構細かいところまで書いていたみたいなんです」
少し意外だったが、坂出のように忘れっぽい性格というのを自覚している人間は、日記をつける傾向にあっても不思議ではないだろう。
日記というのは、川崎もつけていたことがあった。中学時代だったのだが、確かに日記をつけていると、忘れっぽさがなくなってくるような気がした。だが、それはあくまでも感覚であって、実際に忘れっぽさが治ったわけではない。日記をつけることで規則正しい生活ができているような気がするが、こちらは本当のことで、日記が生活していく中の重要なリズムになっていることを、川崎は知ったのだ。
それをどうしてやめてしまったのか忘れてしまったが、安心感と油断があったに違いない。
「もう大丈夫だ」
日記をつけなくても、規則正しく生活できると思ったのだろう。最初はよかったが、途中から、まったくのちゃらんぽらんになってしまったことも事実だった。
川崎は、自分の日記を読み返したことはない。一度書いてしまったら、安心してしまうのか、それとも、毎日書くことで、過去のことは洗い流されていくような気がしていくのか、過去の日記を読み返そうという発想すら、浮かんでこない。
日記は書けば書くほど、自己満足にしかすぎないことが分かってくる。誰かに読ませようというものではないので、文章などどうでもいいのだ。ただの箇条書きでも構わない。後で読み返して分かればそれでいい。
しかし、読み返す発想すら浮かんでこない。しかも、読み返して文章にもなっていないものを思い出すことが果たしてできるのか、それも疑問だった。書かれているものはただの暗号、誰かに見られると恥かしいので、分からない字で書いているという思いがあるのも事実だが、訳が分からない内容で、しかも、思い切り崩している字で書いていて、下手をすれば、自分でも分からない字を見られることの方が恥かしい。要するに日記に残っていることはすべてが無意味なことではないかと思えていた。
途中で書くのを止めてしまった本当の理由はここにあるのかも知れない。浅いところでは、ただ面倒だからという理由であるが、いくらでも理由づけなどできる中で、ハッキリとした理由が見つからないのは、日記を書くことの矛盾を、言葉に表すことが難しかったからである。
日記というものは、最初、書くのが嫌だった。小学生の頃の夏休みに書かされていた絵日記、何を目的に書かなければいけないのかという疑問がその時からあった。
川崎は性格的に、自分が実際に見たりして、納得したものでなければ信じることはなかった。頭の中に疑問として残ってしまったことを納得できなかったこととして、信じることはできなかったのだ。
納得できないことを信じるというのは、危険なことだ。ただ信じてしまって、何かの応用を考えようとしても、そこから先、進むことができない。それは日記をつけることだけに限らないことなのだ。
絵日記を思い出すと、夏の暑さの気だるさも一緒に思い出される。気だるさは早朝から容赦なく降り注ぎ、つるが枝を伝って、垣根まで伸びている朝顔が浮かんでくるのは、時々遊びに出かけた田舎のおばあさんの家が思い出されるからであろう。
夏休みになっていつも出かけたおばあさんの家、八月に入ってから、お盆が終わるくらいまでの間、滞在していた。三週間ほどなのだが、数か月くらいの長さに感じるのは、それだけ普段住んでいる都会の住宅街と違って、パノラマに広がった景色同様に、すべてのものが新鮮に感じられたからだった。
おばあさんの家を訪れたのは、小学生の頃だけで、中学に入ると、行くことはなくなった。クラブ活動の影響もあるが、中学に入ったのだから、行かなくてもいいだろうという親の判断からだった。ということは、田舎に出かけていた一番の理由は、
「息子が小学生だったからだ」
ということになるのだろう。
それは表向きのものなのか、内だけの問題なのか分からないが、子供を理由にしていたということは、子供の立場からすれば、どうにも釈然とするものではなかった。せっかく田舎に行くことが楽しかったのに、理由づけの材料にされてしまったのは、納得できることではなかった。
川崎にとっての日記づけも同じなのかも知れない。
他の人を巻き込むことはなかったが、絵日記のイメージを勝手に引きづっていて、書き始めた日記を途中で投げ出すようになったのは、実に後味の悪さだけが残る結果になってしまっていたのだ。
日記をつけなくなって、すぐくらいは、
「つけなくていいというのは、気楽なものだ」
と思っていたのだが、途中から、気持ち悪くなっていった。
毎日のリズムの一角が崩れたわけで、しかも、毎日を自己満足のためだけだったとはいえ、継続していたことである。継続が止まることで、他への精神的な影響がありそうで、川崎にとって、どう毎日を納得させようか、悩むところであった。
他の何かのリズムを組み込むのが一番手っ取り早いのだろうが、何をしていいのか分からない。
――もう一度、日記をつけようか?
一度継続を解いてしまったものを、またすぐに始めることは難しかった。今度もまた何かの口実を作り、自分を納得させなければ、日記を書くことは難しい。何よりも過去につけていたものの継続がいかなる意味があったのかという答えも見つかっていない状態である。そんな中でまた継続させられる自信が、どこにあるというのだろう?
日記に書かれていた内容としては、ここ三か月ほど、会社の近くにあるスナックに、仕事が終わってから、通っているということだった。その店にいる「小春」という名前の女の子のことが彼の日記には何度も出てくる。気になっているようなのだが、好きだということは書いていない。どちらかというと、同情的な内容だった。
日記とはいえ、詳しい内容までは書かれていない。プライベートな内容になるからであろうが、見られたくない部分も多分にあるはずだ。
川崎が考えるに、その部分の中には自分の気持ちが含まれているからではないだろうか。見られて恥かしいという部分と、相手への気持ちを悟られたくない部分が交差しているからなのだと思うのだ。
坂出は、会社を三か月前に辞めていた。その後くらいから家にも帰らなくなり、姿を消したのだという。最初は、坂出も大人なのだからと、あまり心配していなかったが、気になり始めるとどんどん気になってくるようで、嫌な予感がし始めた頃から、日記や兄の身の回りのものを確認し始めたという。
「あまり気にしすぎると、嫌な予感が的中しそうで嫌だったんですけど、いざという時のためにと思って、やはり日記などをチェックしてしまっていました。今では、そのことを後悔しているくらいです」
「そんなに気にすることではない、亜由子ちゃんが悪いわけではないと思うよ。遅かれ早かれ、日記の確認は必要なんだよ。亜由子ちゃんが気にしているのは、タブーを破ったんじゃないかってことでしょう?」
「ええ、そうなんです。どうしても、私が余計なことをしてしまったんじゃないかって思えてならないんです。きっと私の性格なんでしょうね」
「それは仕方がないことさ、あまり自分を責めるもんじゃないよ」
もっと違った慰め方があるのかも知れないが、必要以上の慰め方はしない方がいいと思った。亜由子のような性格の女の子は中途半端に慰めると、余計に自己嫌悪に陥る道に入りやすくしてしまうのではないかと思えるのだった。
亜由子は、自己嫌悪に陥る寸前で、何とかとどまっていたが、川崎が考えているよりも、少し深いところに、亜由子はいるようだった。
顔色は明らかに最初に会った時と違っていた。最初に会ってから二週間が経ったが、その間に亜由子に何かがあったのだろうか?
何があったのか聞き出したい気持ちではあったが、聞き出すには、難しい雰囲気が漂っている。下手に聞いてしまって責めるような感じになってしまっては、せっかくこれから坂出を探そうとする意志すら、砕いてしまうのではないかと思えるほどだった。
「ごめんなさい、私少し疲れているようなんです」
その日は、あまり亜由子から聞き出すことをしてはいけないと思い、
「じゃあ、送って行ってあげようね」
と言って、喫茶店の席を立とうとした時に、亜由子が川崎を見つめる目が上目遣いで、さらに虚ろな表情の中に、何を考えているのか分からない雰囲気があった。
――夢うつつを彷徨っているような雰囲気だ――
と感じられ、まだ、少女だと思っていた亜由子に、女を感じてしまった自分がいることに気が付いた。
立ちあがる時に、よろけた彼女を抱き起し、
「大丈夫かい?」
と、声を掛けると、
「ええ、大丈夫です」
と答える。
目の下にクマができているのが見えるが、どうやら、ここ最近、あまり寝ていないのではないかと思えるほどだった。
「私、最近、夕方くらいになると、目の前の光景が、黄色掛かって見えてくるんです」
「……」
川崎には、それを聞いた時、亜由子が躁鬱症の鬱状態に陥っていることを悟った。この感覚は川崎にもあり、最近ではあまり感じていなかったが、黄色掛かって見える感覚が、まるで昨日のことのように思い出されるのだった。
亜由子は、自分が躁鬱症であることを自覚しているのかどうか分からないが、敢えて教える必要はないと思った。躁鬱症に陥っている時、他人から躁鬱症であることに触れられるのは、嫌なことだったからだ。
足が攣ったりした時、まわりから心配されると、却って痛みが増すことがある。それと同じで、川崎は、亜由子にはなるべく黙っていて、自分が悟っていることを知られないような努力をしようと考えていた。
決して簡単なことではない。なぜなら、自分も同じ躁鬱症だからである。
躁鬱症というのは、躁状態と鬱状態が周期的にやってくる状況だ。他の人は分からないが、川崎はそう思っていた。
ということは、それぞれが一回で終わらないことを意味する。川崎の場合は、二、三回は繰り返していた。
どちらが先にやってくるかというと、まず最初に陥るのは鬱状態だった。
鬱状態も躁状態も入り込む時は前兆があり、分かるのだ。前兆がなければ、最初から躁鬱症だと思うことはなく、下手をすると、鬱状態から抜けることができなくなってしまうのではないかと思うほどだった。
「目の前に見えているものが、黄色掛かって見える」
亜由子は確かにそう言った。それはまさしく川崎が鬱状態への入り口を自覚する瞬間ではないか。
昼下がりから夕方に掛けて、西日が眩しい時間帯になると、急に気だるさを感じる時間帯がある。それは夕日を意識しなければ、普段は気だるさなど感じることはないのだが、鬱状態に陥る時は、夕日を意識しなくとも、気だるさを感じるのである。
ただ、夕日を意識していない時に、鬱状態に陥ることはない。
「夕日を浴びて、気だるさを感じる時」
その時が、鬱状態への入り口になるのだ。
「だったら、夕日を浴びないようにすればいい」
と、簡単に言う人もいるかも知れないが、鬱状態への入り口が顔を出した瞬間から、自分の中での鬱状態は確定しているのだ。いくら避けたとしても、時間を先に延ばすことができるだけで、却って延ばした分、精神的に辛さが蓄積されることで、避けて通れない道であるなら、いかに辛さを軽減できるかだけがカギになるのである。
陥った鬱状態には、鬱状態独特の見え方がある。一番序実に感じるのは、昼と夜の違いである。
昼間は絶えず黄色い靄が掛かったように、身体中に気だるさが感じられる。意識が中途半端にしっかりしているだけに、考えていることが裏目裏目に出ていることを証明しているかのようになるのだ。
夜は逆に、ハッキリと見えている。光るものの近くは普段ならぼやけていたようなものがクッキリと見えてくるのだ。
普段はぼやけているせいで大きく見えているものがクッキリと見えるせいで、夜の世界全体が、狭く感じられる。果てなどないはずの暗闇の世界。そこに果てがあり、限界を見ることができるのではないかと思うのだった。
昼は逆にすべてがぼやけているために、世界が広く感じられ、果てがないことを再認識するせいもあってか、一度考えたことが再度考えることになる堂々巡りを繰り返すことを意識させられる。
昼夜を問わず、鬱状態において共通していることは、何を考えても求めることのできない結論へのやるせなさだった。やるせなさがやがて、すべて悪い方に向かってしまうことで、苛立ちと虚しさを作り出す。そんな世界が鬱状態なのだ。
「夢だったらどんなにいいか」
と、思ったこともあったが、実際には夢のようなものである。
妄想や、夢が潜在意識の中でだけ繰り広げられるものであるとすれば、鬱状態が夢であっても不思議ではない。むしろ、夢だと思った方が、どれほど気が楽かと思う。ただ、夢だからと言って鬱状態の辛さを逃れることはできない。なぜなら、鬱状態は、半永久的に続くものではないからだ。
鬱状態というのは、必ず終わりが来る。それは躁状態への入り口であることも示している。
「鬱状態を抜けると必ず躁状態が訪れる」
これに間違いはないのだ。
鬱状態と躁状態、この二つは両極端ではあるが、背中合わせに存在しているもの。決して切り離すことのできないものである。鬱状態の後に必ず躁状態が来るということは、
「躁鬱症の終わりは、必ず躁状態だ」
ということに繋がっているのだ。
鬱状態の終わりは、トンネルのようなところだった。
黄色掛かってぼやけていた世界が、ハッキリとした黄色い世界に変わってくる。しかもそれは昼間の気だるさではなく、夜の暗闇の中に照らされた明かりが、白い閃光から、黄色掛かった閃光に変わってくるのだ。
黄色い閃光は、暗闇と交互にやってくる。最初は車のヘッドライトが交互に当たっているようなもので、大きな通りの舗道にいるのかという感覚だったが、そうではない。トンネルの中に見えている、等間隔に設置された黄色いランプの間を抜けているだけだったのだ。
もっとも、これから迎える躁状態の世界への入り口という観点から考えると導き出される感覚から感じたもので、
「ここまで辻褄が合った妄想なら、真実と言ってもいいかも知れない」
と、感じたほどであった。
最初は躁鬱症を妄想の世界だと思っていた。だが、周期的に繰り返していること、そして、前兆が分かることから、妄想も潜在意識が作る真実だと思うようになったのだ。
真実だというのは言いすぎかも知れないが、真実がすべてではないということの裏返しでもある。
トンネルをひた走る感覚を自覚してくると、すぐに黄色い閃光が、白い閃光に変わってくる。
「いよいよ出口だ」
鬱状態の出口であり、躁状態への入り口でもあるのだ。
出口を抜ける瞬間、実は意識がない。抜けたという感覚とともに、目が覚めている。目が覚めれば、そこに広がっているのは躁状態だ。
躁状態が、
「どんなことでもプラス思考だ」
と思っていたが、どうやら少し違っているようだ、人によっては、
「悪いことや、余計なことを考えなくてもいい世界だ」
と、いう人もいたが、それも微妙に違っている。
何が違うのかはハッキリとしないが、分かっていることは、
「鬱状態と相対の関係にあり、絶えず背中合わせで切り離して考えることのできない世界だ」
ということである。
周期的に繰り返しているのも、何か理由があるのだろうか?
小さな世界が背中合わせに繰り返される時間が存在し、さらに、躁鬱症という大きな世界を、今度は幾度か繰り返す。そう思うと、人生のすべてだと思って暮らしている世界が時系列で展開されているのも、実は、どこかで繰り返されているのではないかと思うのは突飛な考えであろうか?
川崎は、奇しくも躁鬱症について、坂出と激論を戦わせたことがあった。
川崎の論理に比べて、坂出は、あくまでも現実的な考え方で、
「躁鬱症なんていうのは、言い方は悪いが、逃げの考え方なんだと思うんだ。現実に背を向けてしまうから、鬱状態を作り出し、その反動で躁状態を作り出す。世の中って、結構反動が多いだろう? そう考える方が、よほど理に適っているように思わないか?」
坂出の考え方ももっともだと思う。
坂出のそんな考え方を聞いてから、川崎は坂出を無視できなくなった。それは考え方を絶えず戦わせていたという考えがあったからで、あまり仲が良くないようにまわりから見えたのは、激論を戦わせていたからではないだろうか。
「勇気と無謀。慎重と弱気。これは、相対的な考えだけど、これだって紙一重なんだ」
と、坂出が言う。川崎も何となく分かっていたが、坂出の話を聞いてみた。
「もうダメだと思ってみても、そこに一縷の望みが隠れていて、それを分かって行動するのが勇気。望みを確認しないで行動するのが無謀。これは、日ごろの鍛錬にもよるんだろうけど、それは、一瞬の判断力を養うという意味でだね」
確かにその通りだ。一瞬の判断を誤れば、命取りになるのは必至で、一瞬の判断力は、すぐに身につくものではない。練習できるものでもないだろう。シュミレーションがどれほど生きるかも分からない。持って生まれた資質もあるだろうが、一番は、その人のやる気が漲っているかどうかであろう。
「慎重と、弱気も同じだね。何事も引き際が肝心だと言われるが、判断力という言葉を引き際に置き換えると、同じことが言えるのさ」
その時の坂出の表情はイキイキしていた。
――これがこの男の魅力なんだな――
人と話をしていて、相手の性格に対して感動を覚えることなど、そうたくさんあるものではない。
坂出と話をしていた時のことを思い出しながら、亜由子を見ていると、
「亜由子にも坂出と同じ血が流れているんだな」
と思うと、少し複雑な気がしてきた。
そして複雑な思いと同時に、自分の中に、亜由子に対して、淡い恋心のようなものが芽生えてきたことを意識していた。ただ、その答えをいきなり求めるようなことはしない。まずは、坂出を探し出して、亜由子に引き合わせること。そして、けじめとして、どうして失踪したのかという本当の理由を、自分だけでも聞き出さなければいけないと思った。
――俺になら、必ず真相を話してくれる――
川崎はそう感じたことを疑わなかったが、川崎にとって、今はどうでもいいことだった。
「あまり先のことを強く考えない方がいい」
この考えに至ったのは、先走りすることで、当初の目的がおろそかになってしまって、従来しなければいけないことを見失ってしまうことが以前にあったからだ。
それも夢の世界に起因していたように思ったが、要するに、
「余計なことを考えてしまう」
ということに、考えが落ち着いたように思う。
躁鬱症でも、まだ進行していない亜由子が落ち着くのを待って、川崎と亜由子は、日記に書かれているスナックを訪れることにした。
「あまり考えすぎないようにしないといけないよ」
と、亜由子に語り掛けると、
「ええ、ありがとうございます。川崎さんにそう言ってもらえると、元気になれるんですよ」
と、満面の笑みを浮かべた表情を見た時、川崎は安心した。
――亜由子は、どうやら、ちゃんと分かっているようだ――
余計なことを考えないことが一番だということを分かっているのだ。ただ、分かっていてもなかなかうまく行かないのは、
「理解者が、自分以外にはいないんだ」
と思っているからである。
川崎が、背中を押してあげることで、気が楽になる。安心感を与えてあげられたことに、川崎も満足できる。ここからがスタートだった。
亜由子には、今まで理解者がいた。それが坂出だったに違いない。理解者である坂出がいなくなったことで、少なからずの情緒不安定に陥ったのも分かる気がするが、
――本当にそれだけなのだろうか?
という思いが、川崎の頭を過ぎった。
確かに亜由子と坂出の兄妹は、川崎から見て、本当に仲のいい兄妹だった。
それはただ仲がいいというだけではなく、お互いに欠けているところを補い合えるようなそんな仲である。ある意味、
「二人を夫婦にしてみたい」
と、思えるほどの仲で、ただ、川崎はすぐに考えを否定した。それは自分が亜由子に対して抱き始めた恋心が邪魔するからで、
「また余計なことを考えてしまった」
と、自分の悪いくせを後悔したのだった。
「お前はいつも一言多いんだよ」
と、よく言われてることを思い出してしまった。
ただ、すぐに忠告してくれる坂出から言われたことがないのは不思議だった。だが、よく考えてみると、坂出も同じように、いつも一言多いところがあるからだった。
そのセリフを最初に坂出に言ったのは、何を隠そう、川崎本人だった。悪気があったわけではなく、ただの忠告のつもりだった。
だが、まさか自分にも同じ悪いくせがあるなど、その時は分からなかった。
「自分のことが一番分からないものさ」
と、確か坂出にそう言われたのを思い出したが、その時は、自分という言葉を、坂出本人だと思ったことで、坂出の言い訳のようなものだと思っていた。
だが、よく考えてみると、自分という言葉が示す先が、川崎だと思えば、何とも恥かしいことだ。自分のことも分からずに、鼻高々のように、人に忠告するなど、愚の骨頂ではないだろうか。
そのおかげで、今では一言多いという性格が自分の代名詞でもあるかのように自覚していた。
決していいことではないだろう。だが、あまり致命的なくせだとも思っていない。治そうという思いはさほどなかった。ひょっとしたら、長所に繋がってくるものかも知れないと思ったからだ。
「長所は短所の裏返し」
だと言われるが、そう思うと、躁鬱症の躁状態と鬱状態の背中合わせの関係を思い出した。
――ここに繋がってくるのか――
確かに余計なことを考えすぎるのはよくないことなのかも知れないが、考え方によっては、違う意味でいい方向に向かうこともある。考えが繋がって、輪を作ることだってあるのだ。そう思うと、
「結局、考えることはやめられないんだ」
と思うようになった。繋がった考えが輪を描く、堂々巡りも悪いことばかりではないに違いない。
日記に書かれていたスナックは、思ったよりこじんまりとしていて、住宅街のはずれにあり、知らない人は、通りすぎてしまうだろう。最初に一人で入るなど考えにくく、誰かと一緒だったと考える方が自然である。
住宅街には、以前友達が住んでいたが、今は知っている人もいない。夕方になるのを待って、待ち合わせをした亜由子を伴って住宅街に入ってくると、訪れた夜のとばりのその向こうを、しばし見つめている亜由子に、兄の姿が写っているのかどうか、分からなかった。
「この住宅街のはずれの、スナックの反対側の路地に喫茶店があって、私はそこによく行ってたんですよ」
と、亜由子は話した。
「俺も、この住宅街に住んでいた友達がいて、一緒に近くの喫茶店に行ったことがあったので、同じところを話しているのかも知れないね」
そんなにたくさん、一つの住宅街の近くに喫茶店があるとは思えないことから、きっと同じ店の話をしているのだろう。
喫茶店には、確か坂出も一緒に行ったことがあったような気がした。その時、二人はほとんど話をすることもなく、お互いに雑誌やマンガを見ていたような気がした。マンガを見ていたのは川崎で、雑誌を見ていたのは坂出だった。
坂出はマンガをほとんど見たことがないという。
「ビジュアルがあれば、想像力が薄れてしまうから、俺はあまりマンガを見ないんだ。マンガを見るくらいなら、雑誌や新聞を読むよ」
と言っていたが、川崎の考えは違っていた。
「何かを想像するにしても、まずは想像するための材料が必要になるだろう? それが俺にとってはマンガだったり、ドラマだったり、映画だったりするんだ。だから、映像をおろそかにしたくないという気持ちが強いんだ」
「俺もその考えは分かる。俺だって、最初からマンガを見たことがないとか、ドラマを見たことがないというわけではない。ただ、あまり余計なことを詰め込むと、必要以上に想像してしまい、実際に見た時、判断を見誤ることになりかねないと思うので、あまりたくさんを見ないようにしているんだ」
喫茶店では、二人は対照的だ。
お互いに喫茶店に一人で入ることに抵抗はない。
喫茶店に入ると、まず本を読んだり、考え事をすることが多い坂出だったが。川崎は、まわりの人と話をする方が好きだった。お互いにそれぞれ常連となっている店を持っているが、それぞれ、客の中に、無視することのできない常連がいることに気付く。違う人を見て、川崎は坂出を、坂出は川崎を見ているような気になってくる。
川崎が坂出と似た人が喫茶店にいると、声を掛けることができない。坂出自身、人と話すことが苦手で、何とか川崎とは会話が繋がっているが、いくら雰囲気が似ているからといって、まったく違う人間と話をするだけの話題は、持ち合わせていなかった。
坂出が、自分から他の客に話しかけることもないだろう。また店の人から声を掛けられたとしても、会話が続くとは想像できず、誰か一人でも仲介してくれる人がいなければ、会話は成立しない。その仲介役が今まで川崎だったのだ。
――川崎からも、妹の亜由子からも離れてしまい、坂出はどこに行こうというのだろうか?
坂出の中にある寂しさは、誰にも分かってもらえるものではない。分かるとすれば、川崎か、妹の亜由子だけだろう。だが、本当に知られたくない相手は妹の亜由子で、その次が川崎だというのも、実に皮肉なことだったのだ。
坂出は、最近、体調不良を訴えていたという。頭痛が定期的に起こっていて、腰痛や肩痛が頻繁に起こっているという。痛みは一日もすれば取れるが、二日と開けず、また痛みがぶり返してくる方が、余計に疲れを身体自体が訴えているように思えてならないのだった。
「お兄ちゃんは、体調不良を起こしてから、一日が経つのが結構早いって言っていたわ。これだと翌日には治ると思っていたものも、数日経ってしまう気がするって言っていたわ」
――体調不良を訴える相手が誰なのか?
それによって、坂出の行き先が分かってくるような気がした。今、手がかりとしてあるのは、スナックの女の子であるが、果たして坂出が一つの場所にずっといるかどうか分からないという思いが頭を擡げる。
しかし、彼が失踪してから、まだ一か月ほどしか経っていない。その間に他に移っているような人間には思えない。だが、目の前にいないことで、自分の知っている坂出ではなくなってしまったのではないかという思いが、予感となって漂っているのだった。
スナックに入ると、店の外から見ていたような雰囲気そのもので、店内は暗く、狭かった。
「場末のスナック」
とは、こういうところをいうのかも知れない。
客は誰もおらず、女の子もまだ来ていなかったようだ。まだ、要の八時にもなっていないので、当然といえば当然だが、喫茶店で時間を潰していたが、川崎にとって思ったよりも時間が経っていたようで、もう午後十時近くのような感覚だった。
「まだ八時だったんですね」
時計を見た亜由子が呟いた。
亜由子も時間がなかなか経っていないことを気にしていたようだ。
それにしても店の中は狭く、陰湿であるにも関わらず、喧騒とした雰囲気を感じるのは、似たような店を知っていたからかも知れない。
川崎は、今までにスナックというと二軒しか知らないが、そのうちの一軒が同じような雰囲気だった。その店には、最近立ち寄ることはなくなっていたが、大学時代によく立ち寄っていた。一緒に行く人がいなかったら、さすがに一人では入りにくい雰囲気だった。
その店は常連でもっている店で、店の雰囲気や女の子の可愛さというより、ママさんの人間性で人が集まってきていた。
常連さんには変わり者が多く、中には、文句をいう人もいたりしたが、ママさんがうまくなだめて、結局、すぐに楽しい酒に変わっていった。特徴としては、客が少ない日でも、どこか喧騒とした雰囲気が漂っていて、客がそれなりのルールを守っていることで、店の秩序は保たれていた。
店に来る客の中で、一人老人と言ってもいいくらいの男性がいた。その人は、背も低く、腰が曲がっていることで、本当に老人にしか見えないが、話すことも他の人とは違い、誰もが一目置くような内容なので、店の中では、
「長老」
と呼ばれていた。その人も、そう呼ばれることに抵抗はないようで、むしろ、喜んでいるようだ。ただ、くたびれた雰囲気は如何ともしがたく、社会人としてはアウトロー的な存在だったのではないかと思わせた。
長老の話を聞くのを楽しみに通っている人もいるくらいで、川崎もその一人だった。長老がいない時は女の子が相手をしてくれるので、それなりに楽しいが、長老がいない日は、いつもの喧騒とした雰囲気はなく、寂しさだけが店内に漂っているのだった。
長老の話で頭に残っているのが、
「時間を操ることもできれば、時間に操られる自分を意識することも、両方できる人間がいるんだが、その人のことを考えていると、面白い」
「どういうことなんですか?」
「時間を操ることができるといっても、時系列を崩すことができるわけではなく、感じる時間の長さを自在に変えることができるんだ」
「ますます分かりません」
「時間を操るというのは、例えば時間を短く感じるような力を使う時は、自分と同じ感覚をその場にいる全員に味あわせてしまう。つまりは、自分中心の時間を、そこでは作ることができるんだ」
「では、操られるというのは?」
「他の人が感じている時間の感覚を、感じることで、その人に合わせた時間を、自分だけで操ることができる力なんだ」
「でも、時間の感覚というのは、人それぞれで違うんじゃないですか?」
「でも、バイオリズムのような同じカーブを描いているわけではない。まったく同じ感覚を思い描く時が、時々あるんだ。その感覚を察知することができるのが、その力の一番の特徴で、自分も同じ時間の中で過ごしているんだが、操られることが一番楽だと思うと、うまくまわりに合わせることができる力が発揮されるんだ」
「他力本願みたいですね」
「そうは言いながら、皆大なり小なり、似たような力を持っている。それを意識していないだけで、知らず知らずのうちに発揮しているのさ」
「時間に操られるというのは、他力本願だから、そんな表現になるんですか?」
「時間を操る力と相対的な力でもあるからね。だから、そういう表現になるのさ」
川崎は、実際にその人と一緒にいると、自分が時間に操られているのを感じる。時間とは自分で勝手に操作できるものではないという思い込みが、操られるという感覚に移行しているのだろう。
坂出が通っていたというスナック、この店にも時間に操られる感覚が漂っている。
その一番の特徴は、入った瞬間に感じた店の広さよりも、慣れてきてから感じる店の広さが、さらに狭く感じられるようになったからである。
店の暗さに目が慣れてくると、それまで見えていなかったものが見えてくる。そこには時間の感覚も存在していた。
「こんばんは」
カウンターで洗い物をしていたママさんが、初めて顔を上げた。
「いらっしゃいませ。まだ準備中なんですが、よろしければ、お掛けになってください」
カウンターを指差して、二人を誘い入れた。
最初は、単刀直入に坂出のことを聞こうと思っていたのだが、店の雰囲気と、時間に支配された空間を感じた時、すぐに話を切り出しても、結局は無駄足に終わるだけだと思った。
カウンターに座ると、目の前に出されたおしぼりで手を拭きながら、店内を見渡した。
――そういえば、学生時代に通った店に入った時も、同じように店内を見渡したものだ――
この店は時間の感覚というよりも、明るさに違和感を感じていた。
最初に入った時に暗かったのは、常連の店と同じだが、なかなか目が慣れてこない。いつまで経っても、店の奥の方がぼやけていて、本当の店の広さを感じることができないのだ。
川崎は、常連の店には、最近出かけていない。大学を卒業し、通うのが不便になったというのもその理由だが、通っていた頃の最後の頃に、長老の姿を見なくなったからだ。
風の噂で、信憑性のないものだったが、
「長老が亡くなったらしいぞ」
「えっ、どういうことなんですか?」
「どうやら、交通事故に遭ったらしいという話を聞いたんだが、最近来なくなったことで、他の客も心なしか減ってきたような気がしないかい?」
確かにそうだった。
「実は、同じように事故で亡くなったという人があと二人ほどいるらしい。ここの常連の人も一人いるらしいんだが、俺たちと違う日に来ていたらしくて、一度も会ったことがないんだ」
その店は、曜日の常連が多かった。会う人とは毎回会うのだが、会わない人とは一度も会うことがない。長老だけが、どちらもの常連を知っているようだった。
「でも、他の曜日の常連が交通事故に遭ったといっても、どうして俺たちの曜日の客が減ったような気がするんだい?」
「そこが、長老の言っていた時間の感覚に作用されるような気がするんだ。すべては気のせいなのかも知れないけどね」
そう言われた時に感じたのが、店の調度が、急に暗くなったことだった。
慣れてくるはずの目が慣れてこない。知っているはずの店の端に何があるかということも見えなければ、想像することすらできなくなっていた。
長老の魂の成せる業ではないかとさえ思えた。
「長老は、自分の死を予感できたんでしょうか?」
「そうですね、できたかも知れませんね。でも、長老は時間の操作については話をしていたけど、予感めいたことの話をしていたわけではないからね」
「まさか、時間を操作することで、してはいけない何かに触れてしまったということは考えられませんか?」
「想像するのはいくらでもできる。でも、あくまでも想像でしかない」
と言われた時、店の調度が暗くなり、見えていたものが見えなくなった。その思いが、亜由子と一緒にやってきた店にも感じられた。何かの虫の知らせのようなものがあったのかも知れない。
「じっと座っていても、埒があかない」
と、さすがに痺れを切らした川崎が、最初に切り出した。
「ママさんは、坂出俊文という男性をご存じですか?」
一瞬手が止まったが、焦っている様子も、困っている様子もなかった。
「知っていますよ。彼はよく通ってくれましたからね」
「実は、この娘が、坂出の妹なんですが、お兄さんを探しているんです。何か心当たりがあれば、教えてあげてほしいんだけど」
ママは、亜由子を見つめた。見つめながら、手は目の前にあるタバコケースに伸び、一本取り出して、ライターで火をつけた。
一服して落ち着いたのか。
「そう、彼、おうちに帰ったんじゃないの」
その言葉を聞いた時、坂出とママの関係が深いものであったことを直感した。しかし、それも過去の話で、すでにここにはいないということを、短い言葉ではあったが、表していたのだ。
ママの言い方は、いかにも面倒臭そうな言い方で、タバコを咥えたのは、蓮っ葉な女というイメージを相手に植え付けようとでもしているようだった。夜の世界を知らない人間に対して取る蓮っ葉な態度は、
「舐められたくない」
という思いと、昼の世界の眩しさへの当てつけのようなものがあるに違いない。
川崎は、男ということもあって、ママの考えが見えていたが、亜由子は、最初から臆していたこともあって、完全にママの雰囲気に飲まれていた。主導権を川崎が握らないと、押し切られてしまう可能性がある。
「それが、帰ってきていないんですよ」
川崎が落ち着いて返答すると、ママの視線は、川崎と亜由子の間を行ったり来たりしている。
――この二人はどういう関係なんだろう?
という目で見ているのは明らかで、怯えしか見えてこない亜由子を見ると、たぶん、二人が恋仲ではないことだけは分かっているであろう。
すると、次に思うのは、
「何のゆかりがあって、この男性が坂出を探しているのかが分からない」
ということだろう。普通の友達なら、そこまでする人はなかなかいない。よほど、探している人が人望の厚い人であれば、ありえることだろうが、ママの訝しげな表情を見ている限り、普通の友達が探してくれるほど、坂出という男の人望が厚いとは、思っていないに違いない。
スナックのママをしているのだから、海千山千で人と付き合ってきたであろうし、人を見る目もそれなりについているに違いない。
ただ、ママを見ていると、わざと面倒臭そうにしているようにも見える。本当に面倒臭い気持ちはあるに違いないが、坂出のことが、本当に好きだったとすれば、いなくなったその人を誰かが訪ねてきたとすれば、面倒臭い気持ちになるのも分からなくはない。
坂出という男が、スナックのママとねんごろになるなど、今まで見ていた坂出からは想像もつかない。高校時代の彼は、明らかに純愛に憧れていた。大人の世界を垣間見ることすら嫌いで、
「もし、大人になって風俗に誘われたら、俺は行かない」
と、ハッキリ言いきった男だったのだ。
川崎などは、もしそう思ったとしても、ハッキリ言いきる自信はない。学生時代と社会に出てからの自分が遥かに違った考えを持っているかも知れないと感じたからだ。
だが、坂出が社会に出てからは、会社の先輩が風俗に連れて行ってくれると言われると、断ることはなかったという。何が彼をそんな風に変えたのか疑問であるが、彼の基本的な考えをしては、
「自分にウソをつきたくない」
というものだった。信条だと言ってもいい。よくよく聞いてみると、どこか言い訳に聞こえてきそうだが、最初から坂出の気持ちの中に密かに埋まっていたものに違いない。
川崎は、この店に亜由子と一緒に来ると決めてから、下準備のつもりで、坂出の社会人として、どういう考えでいたかを探ってみた。
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