第13話 あなたに抱かれた夜


 ——光里の新人歓迎会にて。



 社員全員の前で、堂々と交際宣言をしてみせた葵。

 静まり返った座敷内では、それほど時間がかからないうちにどこからともなく声が上がり始めるのだった。


「うっそ、マジで……?!」

「どういうこと? 鈴宮さんは元カノで、今カノが……藤崎さんってこと?!」


「くそぅ、桐矢の奴、ちょっとイケメンだからって光里ちゃんだけじゃなく綾乃ちゃんまで……!」


「やだぁ、ショック!!」


 一呼吸置き、自分の言動の意味を改めて自覚した葵はバツが悪そうに目を泳がせていた。


「あ、葵……」


 予想外の事態に綾乃もどうすればいいのかわからない中、社員たちからはお決まりの詮索が始まるのだった。


「ねぇ、いつから付き合ってたの?!」

「まさか、まだ結婚なんてしないよね?!」

「どっちから告白したの?! まさか桐矢くんじゃないよねぇ?!」


 そう、まさに葵はこの手のイジリが大の苦手なのだ。

 当然、自分が蒔いた種とはいえ面倒くさい展開でしかない葵にとっては、「この場から消え去る」という選択肢以外は存在しなかったのである。


「うーん、そうだなぁ……とりあえずいろいろ面倒臭そうだから、コイツと二人で帰ることにするわっ!」


 そう言ってニッコリ微笑んでから、綾乃の頭をポンポンっと叩く葵。


「えぇっ?! なんで?!」


 有無を言わさないその手に手を掴まれるがまま……


「んじゃ、後は皆さんでごゆっくりー!」


 それだけ爽やかな笑顔で告げると、唖然とする社員たちの中をくぐり抜けて外へと飛び出した。



 ——まともに会話もしないまま、二人がたどり着いたのは……少しゴージャスなラブホテル。

 綾乃にとっては何がなんだかわからないまま葵は勝手に入室手続きを済ませ、訳もわからないまま部屋へと連れ込まれた。


「ちょ、ちょっと! なんの説明もないままなんでこんなトコにっ——」


 部屋の鍵を閉めるなり、抱き寄せられてキスをされる。

 強引で、余裕もない、一方的な荒々しいキス。

 でも、それに抵抗して突き放す気などは起きなかった。


「……どうしたの? そんなに焦って」


 やっと離れた唇でそう問いかけてみる。


「ごめん、こんなトコに連れ込んで。いい加減、お前に愛想尽かされたんじゃないかって思って。だからとにかく、早く二人きりになりたかったんだ」


「私に愛想尽かされたって……どうしてそう思うの?」


「光里ちゃんがあんなこと言うからさすがに焦っちゃってさ。ほら、俺と元サヤに戻るかも、とかどうとか……。だからもう、これ以上お前のこと嫌な気持ちになんてさせたくなかったんだ」


 つい先ほどの、光里の言動が頭をよぎった。


「あ、ああ……でも私は大丈夫だよ。だって葵、みんなの前で堂々と交際宣言してくれたでしょ? 詮索されたくないから絶対イヤだってあんなに言ってたのに……すっごく嬉しかった……っ」


「ん、まぁ……そうなんだけど……」


 ここで葵が照れ臭そうに耳の裏を指で触りだしたことに綾乃は首を傾げた。


「……そうなんだけど、何?」


「お前が他の男に絡まれてんの見てたらもう我慢できなかったんだ。馴れ馴れしく肩に手なんか回しやがって……アイツ、明日会ったらわざと足踏んづけてやる……」


 至って真面目に復讐を目論む葵。

 そんな子供みたいにむくれるイケメンらしからぬ顔を見ているだけで、笑いがこみ上げてきてしまった。


「な、なんで笑うんだよっ」


「ごめんごめん! そういう飾らないとこ、葵らしくて好きだなぁと思って……」


 そう言ってまた少しプッと吹き出しながらその顔を見上げると、照れ臭そうな彼の体にフワリと包み込まれる。


 その最中、綾乃は思い出していた。


 葵が交際宣言した時、その光景を見ていた光里の表情を——。


「(光里ちゃん……もちろん衝撃的って感じだったけど、どこか……強いショックを受けてるようにも見えた。葵に未練があるから? でも、何かもっと深いものを感じたのは気のせい……?)」


 心なしかチクリと胸のあたりが痛んだ。

 それでも、今抱き合っている男のすべてが愛おしくてたまらない。抱き合うようになり、その胸の中に包まれて改めて知った彼の温もり、優しさ、匂い。何もかもを受け止めて愛してくれるとさえ信じられる、この世で一番大きな存在。


 ——離れたくない。

 このまま時が止まってしまえばいいのに……と願うほど。

 そう、付き合うようになる前の自分ではとても知り得なかった……「男」として彼のことを必要としている自分は今、確かにここにいるのだ。


 それなのに……。


「なぁ、せっかくホテルに来たことだしさ……一緒に風呂でも入っちゃおっか!」


「……え」


 嫌味のないニッコリ顔で唐突に、それも誘われたのはお風呂、だ。


 綾乃は絶句した。

 なぜなら……


「や、やだ! 絶対やだっ!! お風呂なんて一緒に入ったらガッツリ裸見られちゃうってことじゃんっ! そんなの無理すぎだからっ!!」


「いやまぁ、そうなんだけどさ……(こないだ初めてエッチした時にこっちはもうガッツリ見てるっつーの)」


 つい過剰に反応してしまった後、やがてはすぐに小さな罪悪感に苛まれる。


「(せっかく誘ってくれてるのに、私の気持ちだけで頭ごなしに拒絶ばかりしてちゃダメなんだよね。葵だって、なにもヤリたいばっかりの性欲モンスターなんかじゃないのに……)」


 そう冷静に思い直し、自分なりの気遣いを返した。


「ごめん、葵……せっかくだけど、今夜は飲み会の前に実はお風呂済ませてきたんだ、私。だ、だから……一緒にお風呂はまた今度にしよっ?」


 嘘をついたわけではないけれど、まるで説得しているような気分だ。そんな綾乃をしばらく黙って見つめていた葵も、特に何も突っ込むことなくあっさり了承してくれた。


「……わかった、じゃあ俺だけシャワー浴びてくるからさ、テレビでも見ながら待っててよ」


「うんっ、私のことは気にしないでごゆっくりー!」


 これでひとまず、裸をガッツリ見られる心配はなくなった。


 葵が浴室のドアを閉め、しばらくしてシャワーの水音が聞こえ始めた瞬間、綾乃は改めて胸を撫で下ろすのだった。


「(まさか、ラブホなんかに来ちゃうなんて想定外だったんだもん……仕方ないよね?)」


 ——生まれて初めて入ったラブホテル。


 ここが何をする場所なのかぐらいはもちろん、綾乃にもわかっている。しかし、自分でもうまく制御できない気持ちばかりが先走ってしまい、フカフカのソファーに座っているというのにまったく心身共に落ち着けそうにはないのだ。


「(葵とそういうことするの、イヤなんかじゃないのに……どうしてなんだろう)」


 一旦考え始めると、複雑な感情たちがどんどん頭の中で組み合わさっては巨大化していく。


「(1回目は素直な気持ちで葵に捧げたいって思えた……私の心も、カラダも。でも、葵と付き合っていくうちに……なぜかそれが怖くなって無意識に避けようとしてる)」


 それは拒絶とはまた違う、恐れに近い感覚。

 そしてその正体が自分でもよくわからないうえに、また別の感情がそこにもう一つ、割って入ってくるのだ。


「(光里ちゃんは私なんかと違って、何にも邪魔されることなく葵と……してたのかな?)」


 葵と1年間も付き合っていた光里という大きすぎる存在が、胸のわだかまりに一層拍車をかける。


 それは心の中で、必死に押さえ込もうとしていた「嫉妬」の感情。顔が見えない相手には嫉妬のしようもないが、その相手は毎日顔を合わせる同じ部署の後輩なのだ。

 そんな現実は、ひたすらに綾乃の中で音を立てて軋み続ける。


「……ああっもう! 考えるのやーめたっ!!」


 自分自身への劣等感を拭うかのようにソファーから立ち上がると、綾乃はキョロキョロと部屋中を見渡し始めた。


「緊張して喉乾いちゃったし、なんか冷たいドリンクとかないかな〜?」


 なにせ初めてのラブホテルなのだ、どこに何が置いてあるのかなんてまったくわからない。

 それでも、だいたい想像がつく場所へと慣れない手つきで触れてみる。


「旅館とかでも冷蔵庫って、だいたい棚の中にあるよねっ!」


 そう信じて疑わず、開いた一つの小さな棚。

そして、一つ一つの商品名と写真、値段のラベルが貼られた販売機を見つけた。


「あ、あったあった! どれどれ、えっと……『マジイキ昇天確実! 高性能電動バイブ』……?」


 とても飲み物とは思えない商品名をしばらく見つめ、綾乃は戦慄した。


「な、な、なんじゃこらぁぁああ?!」


 まるでこの世の物とは思えないおぞましい物を目の当たりにしたかのような形相で、「大人のオモチャ販売機」の入った扉を勢いよく閉めた。


「ま、いいや……とりあえず今夜はここに泊まるかもしれないから服、着替えたいな……」


 少し疲れた顔で次に近づいたのは、部屋の壁際に設置された小さなクローゼットだった。


「いくらラブホといえど、パジャマぐらいは置いてあるよねーっ? 私って寝相サイアクだから、動きやすい物なら何でもいいんだけどー!」


 ガチャリ、と鼻歌混じりに開いたクローゼット。

そして、そこにズラリとハンガーに掛けられて並んだ衣類を見つけた。


「あ、あったあった! えーっと、どれどれ……?」


 最初に手に取ったのは、「体操服」とラベルが貼られた体操服とブルマの上下セットの衣装だった。


「……確かに、動きやすそうっちゃ動きやすそうなんだけど」


 「体操服」をそっと仕舞い、気を取り直して取り出した2着目は、「制服」とラベルが貼られたセーラー服の上下セットの衣装だった。


「……そういえば昔、学校から帰って制服のままベッドでゴロゴロしてたらお母さんによく怒られたっけ」


 「制服」をそっと仕舞い、ため息をついてから取り出した3着目は、「チャイナドレス」とラベルが貼られた真っ赤でタイトなチャイナドレスだった。


「……私の寝相の悪さにかかったらこんなドレス、足元のスリットから破れちゃいそう……っていうか、誰がこんなの着て寝るのかしらねぇ……っ」


 「チャイナドレス」をそっと仕舞い、ピクピクと口元を引きつらせながら取り出した4着目は……


 「女王様」とラベルが貼られた、SMプレイでS側の女性が着る超ハイレグのボンテージ衣装だった。

 それも、ギラギラしたアイマスクとムチやピンヒールブーツもセットになっている。


「………。」


 「女王様」をそっと仕舞い、白目を剥いたまま、綾乃は静かにコスプレ衣装が入ったクローゼットの扉を閉めるのだった……。


「な、なんかちょっと疲れちゃった……横になってテレビでも見て気分変えよう……っ」


 よろつきながらベッドにそのまま腰をおろし、リモコンで壁掛けテレビの電源を入れた。

 そして、その直後に50インチの液晶テレビに映し出されたものは……


『ああ〜ん! ダメダメ、イクぅぅ〜っ!!』


「ぎゃっ!!!」


 臨場感MAXで大迫力の、AVだった。


「な、なにこれ……え、AV……?!」


 驚いた拍子に足元に落としてしまったリモコンを拾い、二度見する。

 その、まさにすべての本能を解放して快楽を貪り合う男女の交わりを目の当たりにした綾乃は、ゴクンと喉を鳴らした。


「初めて見たけど……す、すごい……!」


 ——大画面の中で性の悦びを全身で表現しているAV女優と自分とでは、とても生きている世界が違いすぎる。

 あまり自分と歳も変わらないような、どこにでもいる普通の若い女性にしか見えない「女」……なのに。


 そして辟易へきえきしながらも、そんな卑猥なものから目を逸らせない自分が確かにいたのだ。


「私もあんなふうに、素直になれたらなぁ……」


 無意識に一人でそんなことを呟いていた、その時だった。

 突如として背後の浴室の扉がカチャリと開き、状況は一変する。


「……あれ? 何見てんの?」


 軽く存在を忘れてしまっていたその声の主に、もはやこれから先の人生を左右されるほどの醜態をさらすはめになった。


「あ、葵っ?! ち、違うのっ、これには理由ワケがっ……!!」


 慌ててリモコンのボタンを適当に押し、番組チャンネルを変えたところで「時すでに遅し」、だ。


「何かと思えば、まさかAVとはなぁ……ウォーミングアップでもしてたの?」


 まだ濡れた髪をタオルで拭きながらバスローブ姿の彼が、こちらを横目で見てクスッと笑う。


「なっ……ち、違うってば! テレビつけたらなんでかいきなり始まったんだもん!!」

 

 あくまでテレビのせいであり、自分の意思ではないことを主張する。


「まぁ、ラブホのテレビって大抵はAVのチャンネルが入ってるからなぁ。俺たちの前にこの部屋使った客が、AVにチャンネル合わせたままテレビ切ったんじゃない?」


「へーぇ、なるほどねぇ……」


 ついつい納得してしまったが、ここで綾乃はあることに気がついてしまったのだ。


「(って……ラブホのシステムとかそういうの、葵はよく知ってるんだね。ってことは……やっぱ今までに何回もこういうとこ、来たことあるんだ……)」


 それは、自分以外の女性と一緒にラブホテルに来て愛し合ったことがあるということだ。

 普通に恋愛経験がある成人男性ならラブホテルを利用することがあっても何もおかしなことはないはずなのに、胸の中に引っかかった不快なものがついに、とどまっていられずに出て行ってしまう。


「光里ちゃんとも……一緒に来たこと、あるの?」


「……え?」

 

 光里の名前が出てしまったことに自分で驚いた綾乃は、ハッとしてから慌てて取り繕った。


「あ……っ、ごめん、変なこときいちゃって! 付き合ってたんだから来たことがあってもおかしくないよねっ! ラブホ、ぐらい……」


「………。」


 なんとなく、目を合わせられない。


 そしてしばらくの沈黙の後、葵からは逆に質問が返ってきた。


「じゃあ、もし『ある』って言ったらどうすんの?」


「えっ」


 綾乃の答えを待たず一直線にテレビ横の棚に向かい、電子レンジの下に設置されていた小洒落た冷蔵庫を開ける葵。

 そしてミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、そのキャップを捻り開ける。


「嫉妬してまた不貞腐れるつもりー?」


「な、なによ! 私がいつ不貞腐れたっていうのっ?!」


 そう言いながらすでに不貞腐れている綾乃だったが、葵が隣に座ってベッドが軋んだ瞬間にビクッと体を強ばらせる。

 そして、そんな綾乃に葵はまるで追い討ちをかけるかのようなことを言うのだ。


「……じゃあ何? その元カノの存在が消えてなくなっちゃうぐらい、ここで俺と激しく愛し合えんの?」


 ——嫉妬心も、羞恥心も、緊張感も、全部見透かされていそうな瞳。


 その目に見つめられるだけで、嫌でも自らの本心に気づかされてしまう。

 そう、葵に対して自分が全身で「男」を感じていることに……。



 否定も肯定もできない思考は、ただ目の前で誘う男にだけ集中していく。


 まだ乾ききっていないアッシュブラウンの髪からは、いつもの彼とは違うシャンプーの甘い香りがする。

そして極めつけには、バスローブの襟からのぞく、首筋から綺麗な深さを描いた鎖骨だ。その鎖骨から下にあるのは、恐らくほどよく筋肉がついて厚くなった胸板なのだろうか。


 ——その胸に抱かれ、彼の滑らかな素肌の体温と強さの中で溺れてしまいたい。


 自分でも呆れるほど甘美な妄想は一瞬にして膨らんでいく。

 しかし、それにまさしくブレーキを掛けようとするもう一人の自分が横から邪魔をするのだ。


「私だって、葵と思いっきり愛し合いたいよ……。でもっ、なんでかわかんないけど、どうしても素直に飛び込めないの! ドキドキしすぎて怖いっていうか……そ、それに私と葵とじゃ経験も違いすぎるだろうしっ、そういうプレッシャーみたいなのもすごく辛くて……」


 そこまで一方的に吐き出した後、荒くなった呼吸を一旦整えた。


「ごめん、自分勝手なことばっか言っちゃって。でも、こういう女の複雑な気持ちって男の人にはわからないと思うの」


「………。」


 ただ黙っているだけの葵が次に示す反応が怖い。

 それもそのはずだ、恋人である自分がセックスを拒絶するという、健康な若い男性にとっては苦痛でしかないことを押し付けているのだから。


 愛想を尽かされてしまっても、文句は言えない。


「(どうしよう、ラブホに来といてこの状況だもん、さすがの葵も怒っちゃったよね……?)」


 おそるおそる目だけでその表情を伺ってみた。

 すると、意外にも返ってきたのは穏やかな微笑みと優しい口調だったのだ。


「いいよ、俺……お前が前向きになれるまで無理いせずに待つから。俺だってヤリたい盛りの猿じゃあるまいし、それくらいの自制はきくからさ……安心しろよ」


「あ、葵っ……! わかってくれてありがと……!」


 ——と、心の底から一安心した瞬間だった。


「……なーんて、この俺が言うとでも思った?」


「……へ?」


 つい数秒前までの穏やかな笑顔はまるで幻を見ていたかのように消え失せ、代わりにそこにあるのは今にも飛びかからんとする獣のような目。


「あ、あの……それって……っ」


 無意識に体が逃げの姿勢に入ろうとした時だった。

 後頭部に手を回されたと思った瞬間にはもう、熱いキスに囚われてしまっていた。


 ——逃げられるわけなんて、なかった。


 自分の意思とは関係なく、頭の中心から何かが溶けだしていく。

 甘くとろけて、それは全身を瑞々しく潤すかのように……。


「……っあ!」


 徐々に押され始めた体がついに体勢を崩し、力なくシーツの上にその背中を預けてしまった。


「あ……っ、ちょっと待って……!」


 そんな微かな抵抗も、彼が上から覆いかぶさってきた現時点ではもうなんの意味もなさない。

 ひたすら受け身の綾乃とは対照的に、葵はせきを切ったようにしゃべり続けた。


「複雑な女心? そんなのぜんっぜんわかんねぇ……。俺はお前が好きだから抱きしめたいし、キスもしたいし、セックスだってしたい。ただそれだけ。それ以外に余計なものなんて何もない」


 その直球すぎる想いに胸の奥を深く突き刺され、同時にますます心臓が早鐘を打ち始める。


「それに、ここはをする場所だってこと……忘れた?」


 耳元でそう囁きかけながら軟骨部に軽く歯を立てられ、ゾクンと悪寒とは違うものが背筋を流れた。

 やがて落ち着きなく動きだした脚がシーツに波を立て、衣擦きぬずれの音を発する。

 そしてついに、薄手のセーターの中に入ってきた手に裾ごと首元まで服を捲り上げられ、下着が露出した。


「や、だ……待ってよ、葵……!!」


「ほんとにイヤなら、噛みつくなりして思いっきり抵抗してみれば?」


 そんなこと、できるわけがない。

 なぜならもうカラダは熱く火照り、羞恥心だけが悪あがきしているだけにすぎないのだから。


「だって、ほんとに私……スタイルに自信ないんだもん……!」


 シーツと背中の間で彼の指に下着の繋ぎ目を容易くほどかれてしまい、露わとなった一糸纏わぬ胸が薄明かりに照らされた。


「……なんで? 俺……好きだよ、お前のカラダ」


 胸に痛いぐらいの視線を感じれば感じるほど、心臓の拍動が速さを増していく。

 発火してしまうんじゃないかと思うぐらいに顔は熱を帯び、ついには呼吸まで苦しくなりそうだ。


「ずるいよ、葵……。私なんて、恥ずかしくておかしくなっちゃいそうなぐらいドキドキしっぱなしなのに。私のことこんなふうにした責任、とってよね……っ」


 そう言って見上げると、薄涙で少し滲んで見える葵が目を細めて笑った。


「……そんなの、お前だけじゃないってば」


「……え?」


 シーツの上の手をすくわれ、バスローブの襟の隙間から中へと導かれるままにその手のひらが触れたのは、彼の左胸元だった。

 触れただけで伝わってくる、熱い体温と……忙しなくリズムを打ち続ける胸の鼓動。


 ——その意味を理解した途端に、今まで凝り固まっていたものが溶けほぐれていくような気がした。


「苦しいぐらいドキドキしてるのは俺も同じってこと。だから……お前にもその責任、とってもらわなきゃな」


 そんなことを言われてしまうと、おさまるどころかますますドキドキは増す一方。

 それでもその反面、とっくに心もカラダも葵に委ねきっている自分がいた。


「うん。責任……とってあげる。だから、私のこと、もう嫉妬する暇もなくなるぐらい抱いて離さないで……!」


 今、自分が一体どんな顔をしているのかなんてわからない。

 しかしもう、何にも邪魔されることのなくなった感情が溢れるままに、彼の目に映ったのを感じた。

 そう、何も言わずに、ひたすら応えるように抱きしめられ、その柔らかい唇に何度も口付けられるだけで……こんなにも彼からの愛を感じることができるのだから。


 ——ベッドが激しく軋む音が部屋中を支配する。

 それがやがて、うっすらと水気を帯びた素肌同士が強くぶつかり合う音の方が上回った頃……



「その顔すっげぇエロい……もっと見せて。綾乃……!」


「や、あ……っ葵……っ!!」



 心地良い重みと振動の中で薄目を開けて見上げる先にあるのは、いつもの余裕に満ちた綺麗な顔を快楽に染めた彼。

 彼が律動を繰り返し、カラダの芯まで求められるたびにその悦びが脳内に分泌される。

 そして綾乃はここでやっと思い知るのだ。

 愛する男から激しく求められる女の悦び……そして、それを知ったらもう以前の自分には戻れないということを。


——————・・・



 心地良い疲労感と、充足感に満たされた二つのカラダ。

 熱もまだ冷めやらぬ二人は、お互いに果てた後もベッドの上で何度も何度も抱き合い、キスを繰り返していた。

 体の裏側をすべるシーツの滑らかな感触と、キスのたびに見つめては髪を撫でてくれる葵の存在が、余韻に浸るには十分すぎるほどの安らぎを与えてくれる。


「……3回、か。まだまだだな」


「……なにが?」


「お前がイッた回数」


「んなっ?! い、いちいち数えてたの?!」


「当たり前じゃん、男にとっては重要なことだもん」


「そ、そうなの? (イッたのが初めてだから自覚がないなんて言えない……)」


 そして、枕の上にさらに肘枕を立てた葵が、ふっと笑って言った。


「なぁ、まだ……光里ちゃんのこと、気になる?」


「えっ?」


 訊かれるまでその名前を忘れていたことに気がつく。


「俺もまさかうちに入社してくるとは思わなかったし、正直言ってまだ困惑してるんだ。かといってお前にもさすがに『うまく付き合ってくれ』とは言えないしな……」


「………。」


「それに……俺とあの子が別れた理由なんだけど……さ。俺、美大生の頃ほんっと課題ばっかに追われて忙しくて——」


 伏し目がちにそこまで言いかけた葵の唇に、綾乃は人差し指を立ててそれを押し当てた。「しーっ」と言わんばかりにその先を封じ込めてみせたのは、綾乃の中で大きな変化と自信が芽生えてこその言動なのだった。


「もういいの、そのことは。だって私は……こんなにも葵から心もカラダも愛し尽くされちゃってるんだもん! それに、私は過去じゃなくて『現在いまの葵』とずっとこうしていられるだけで……それだけで他の誰よりも幸せだからっ!」


心の底から満ち足りた気分でそう断言する綾乃を見つめ、やがて葵も安心したような笑顔を見せるのだった。


 ——翌朝。


 結局ラブホテルに一泊した二人は、昨日の歓迎会の時と同じ服装で揃って出勤することを余儀なくされた。

 そして、その代償は予想通りの展開でやってくる。


「おはよう桐矢くん、藤崎さん! いやぁ、昨日の飲み会じゃ、突然二人して帰るからビックリしたよー! 藤崎さん、あの後ちゃんと桐矢くんに家まで送り届けてもらったんだろうね?!」 


 ウスラハゲ部長にそう釘を刺されたところで、綾乃は笑って返す言葉を濁すしかない。


「あ……はい、なんとか……」


 そこで、二人の服装が昨日と同じことに気づいた社員が一人、余計なことを口に出し始めてしまった。

 そう、その社員こそが昨夜の飲み会で酔っ払い、綾乃に馴れ馴れしく絡んでいた「元キープくん」だ。


「あれ? 二人とも、昨日と同じ服装じゃない?! ってことは……や、やらしーーっ!!」


 冷やかしついでに調子に乗って鼻の下を伸ばす元キープくんだったが、突如として目の前に現れた人影からその足の甲に重圧を加えられたことによって、声も出ない状況へ一変してしまった。


「おいおい、絡みがウザイのはせめて酔ってる時だけにしとかなきゃダメじゃないか……なぁ? 『元キープ野郎くん』?」


 そう言って、ニコニコしながら踏んづけた元キープくんの足をさらに上からグリグリと踏み潰す葵。


「いだだだだだだ!! す、すみませんっ! もうしませんからお許しを……っ!! (き、綺麗な顔してコエェなおい!!)」


 昨夜、どこかに二人で泊まったという情報は瞬く間にオフィス中に知れ渡ることになり、それは当然、同じ空間にいる光里の耳にも入るのだった。


 そして、そんな会話に聞き耳を立てていた女がもう一人。


「……なんの話かしら」


 細い赤縁メガネをクイッと上げ、大坪寧々おおつぼねねはその発信源へとつり上がった目を光らせた。


「ああ、お局様は昨日の歓迎会に参加してなかったから知らないんですよね! 実は、桐矢くんと藤崎さんが……かくかくしかじか、ゴニョゴニョ……」


 社員から耳打ちされた瞬間、お局様はみるみるうちに般若の形相へと化した。


「……ぬ、ぬ、ぬ、ぬわんですってぇぇ?!」


 大坪寧々おおつぼねね、通称「お局様つぼねさま」。

 勤続年数12年。42歳。独身。彼氏いない歴=年齢。

 葵のファン歴3年、自作のフォトアルバム「桐矢くんメモリアル」は場面別で5シリーズに渡って所有し、毎日欠かさず眺めていると同時に家宝としている。

 そして、「処女は必ず葵に捧ぐ」……そう公言していたお局様を、とうとう綾乃は敵に回してしまったのだ。

 言わずもがなその剥き出しになったキバは、綾乃に向かって猛威を奮い始めた。


「ふ、ふ、ふ、藤崎さんっ?! あーた、どういうつもりなのかしらネッ?! このアタクシを差し置いてっ……!!」


「い、いや……あのですね……!!」


 今にも掴みかかってきそうなお局様から後退りしていると、そこへヒョイッと割り込んだ救世主ならぬ葵がお局様に笑いかける。


「ああ、お局様じゃありませんかぁ! メイクがバッチリ決まってて、今日もお美しいですね!」


 清々しいほどに嫌味のないその笑顔に、お局様は一変して体をクネクネし始める。


「い、いやだっ……桐矢くんったらん。う、う、美しいだなんてっ……!」


「うん、ほんと、オトナの女性ならではの色気はもちろん、優しさと余裕に満ち溢れてるって感じ!」


「そ、そうかしらネッ? うふっ」


 頬に手を添え、顔を桃色に染めるお局様。

 そんな恋する乙女のお局様に、葵は王子様のような微笑みを携えながらそっと近づいて耳打ちをした。


「だから……そんなオトナの女性のお局様が、嫉妬のあまりに年下の女子社員をいじめたりなんて……するはずがないですもんね!」


 甘く低い小声でそう耳元で囁かれたお局様は……身震いしながらコクコクと激しく首を縦に振る。


「あ、あたあたあた、当たり前よっ……! そんなこと、このアタクシがするわけないじゃないのっ……!」


 確かにそう聞いた葵はお局様にニッコリと微笑みかけると……


「そう? よかった!」


 ……と一言を残して自分のオフィスへと消えていくのだった。


「う、うそっ、桐矢くんがアタクシのことを美しいだなんてっ……!! それにアタクシだけに内緒で想いを打ち明けてくれるなんて……あらあら! どうしましょっ……! 社内中の女性を敵に回しちゃったわ、アタクシ!!」


 しらーっと見つめる社員たちの前で、お局様はひたすら勘違いの悦びを噛みしめる。


「(お局様、完全に葵に転がされてる……。それに第一、自分が社内のラスボスのくせして何言ってんだか……)」


 余韻に浸ってクネクネし続けるお局様を冷ややかな目で見つめている綾乃の元に……


 今度は光里が近づき、声をかけた。


「あ、あの……藤崎さん」


 一瞬でその声の主が誰だかわかった綾乃はギクリとしながら光里を振り返る。


「……な、なに?」


「少し、お話したいことがあるのですが……お昼、ご一緒できませんか?」


「えっ? ええ、いいけど……」


 嫌な予感しかしないまま、時間だけが刻々と過ぎていった——。

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カラダの関係は、お試し期間後に。 栗尾音色 @neiro-kurio

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