モラトリアムに逆行する

海沈生物

第1話

「お前ってさ、昔はもっと魅力的だったと思うんだけど」


 数年ぶりに再会して女友達からの言葉は、私の心臓をぐちゃぐちゃに握り潰した。彼女は手元のソーダに手をかけると、ストローで「ちゅぅー」と青い液体を胃の中に流し込んだ。私はマスクの下で震える唇を隠すため、右手の爪を自分の太ももにギッと刺す。


「そ、そうかな?」


「そうだよ。お前はもう、すっかり変わってしまった」


 ちゅぱっ。ストローから艶やかな唇を離すと、彼女は私に醒めた目を向ける。


「昔のお前はもっと、眩しかった。明日のことなんて考えず、今の幸福だけを享受することを楽しんでいて、その笑顔で破滅に歩んでいく姿が眩しかった。私はそんなお前になら、人生の全てを委ねても良いと思った。行き詰ったのなら、一緒に死んでやっても良いと本気で思っていた。それなのに……」


 激しい眩暈で視界がぐらりと揺れそうになる。脳で血が滞り、身体が冷たくなっていくのを感じる。「それなのに」の続きを聞きたくない。その先を聞いてしまえば、その先にあるのは、「現実」に逃げた私の姿である。真面目で将来有望な彼女を「理想」の……心地良い破滅的な「モラトリアム」の世界に引きずり込んだ癖に、周囲の空気に敗北して、一人「現実」に逃げることを決めた私の姿である。彼女を置いていった、人の形をした悪魔の姿である。


 そんな、そんな、そんな私が。どうして、彼女の言葉を真っ向から耐えることができるのだろうか。けれど、耐えることができなかったとしても、彼女はその口を動かす。今すぐに気絶して夢の世界に逃げてしまいたかった。だが、現実に生きている私はこんな人間だらけのファミレスで不審な行動を取ることなど、できるわけがなかった。


「……お前は、私との世界から逃げた。一生に心中することもなく、私が息をできない世界へと一人逃げた。私と同じ羊であったはずのお前が……お前が。その羊としての皮を破り、狼の本性を見せ、狼たちの群れの中に消えていった。私の顔を一瞥もしないままに」


 彼女は先程まで口を付けていたソーダに自分の銀色の唾液を垂らすと、カラカラとストローで混ぜた。そうして、コップをこちら側へすっと押してくる。


「飲んで」


「……えっ?」


「お前は私を裏切った。それは許すことをできない。でもね……私はお前をまだ許してあげるって言っているの。そのストローで、私の唾液の混ざったソーダを飲んで。それを飲んで、私に対しての従順の意を示して。仕事もやめて、死ぬまで私と一緒にいて。もう二度と裏切らないことを、ここに誓って」


 それは明らかに破滅しかない命令だった。私はそれほど多くの貯金を持っているわけではない。実家も両親共に老人ホームに入っているし、頼ることができない。そんな中で仕事をやめてしまえばえ、言わずもがな、その先の破滅は見えていた。現実に生きる私にとって、それは死刑宣告にも相応しいものだった。


 こんな命令、従う道理はない。彼女は私の過去への後ろめたさを利用しているだけでしかなく、従った結果に待っているのは「死」だけなのは明らかだった。


「どうするの。誓わないの?」


 彼女の翡翠色の瞳は、私の心の恐怖を見透かしているような目をしていた。ここで彼女に従えば、きっと私はかつて夢想した生活を送ることができるのだろう。だが、かつてとは異なり、彼女にとって私はもう「理想」ではない。私たちは理想を追いながら、実質を伴わない、かつての理想をかたどった、空虚な愛を育むことになる。その愛は一生芽が生えることはなく、いつしか私たちはいずれ、愛のない心中をすることになるだろう。


 それは何の意味もないことであるように思う。だが、そうだとしても、私の心は彼女に心を捧げることを強く望んでいた。その執着は果てしない。飢えた獣が水や食料を求めるような、生命の根幹からの望みだった。私は軽く、深呼吸をする。


 マスクを下にズラして、唇を彼女の唾液で濡れたストローに当てる。すっと空気を吸い込む。数秒してストローの細い管を伝ってくると、彼女の唾液交じりの液体が私の中に流れ込んでくる。その液体は私の肉体に入ると、すぐに身体中に回っていった。それは私を蝕む毒のようでもあり、彼女を捨てた時から永遠に消えない傷を癒す薬のようでもあった。


 ストローから唇を離すと、目の前の彼女はふふっと微笑んだ。そうして、金平糖のように小さな両手で私の顔を引き寄せると、そっと唇にキスをした。その瞬間、脳が焼き切れそうなほどの快感がやってくる。私はこの瞬間を、遠い昔から望んでいた。もう一生涯、味わうことができないほどの喜びだった。恍惚としたまま倒れそうになった私を、彼女はそっと両手で受け止めてくれる。長い髪の生えた頭を繊細なものにでも触れるように撫でると、はぁと甘い息を漏らす。


「これでお前はもう、戻ることができない。永遠の理想モラトリアムに浸って、浸って、浸り続ける。その中で瞳を恍惚に染め、全ての現実を忘れ、堕ち、いつか二人で心中を遂げましょう。それこそがの望むことであり、同時に唾液を交換し、私と混ざり合った、たった一人の相手であるの望みでもあるのだから……ね」


 脳が退廃に染まっていく。現実から理想カノジョの世界に堕ちていく。その堕ちていく感覚に心をドキドキさせながら、私の空っぽな心が彼女の空虚な「愛」で満たされていくのを感じていた。

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モラトリアムに逆行する 海沈生物 @sweetmaron1

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