第16話 墓場まで──②

「の、の、のぞ……のぞく?」


 春人の仕事場を? 野鳥観察じゃなくて?

 などと考えたが、いやさすがに都心で野鳥観察はないだろうと心の中で頭を振る。声に出していたら琉笑夢に「野鳥観察とかじじいかよ」なんて確実に突っ込まれていたに違いない。


「うん。仕事場に……何時に着いた、とか。何時に出たとか、そういうのずっと、見てた」


 だらだらと冷や汗が垂れてくる。


「春、一昨日の昼も菓子パン買って、食ってただろ……? 表通りのカフェのコーヒーと、あと、からあげも。あそこのコンビニのからあげは脂っこいから、今度は別んとこのにしろよ……」


 琉笑夢の形のいい唇から発せられる言葉の数々に思考が停止する。

 もう、こんな短時間で人間はここまで汗だくになれるのかと思うくらいには汗だくだ。変だ、春人は普段こんなに汗っかきではないはずなのに。

 空調がおかしいのだろうかとエアコンに視線を泳がせたが、もちろん電源は入っていない。さらにカーテンの隙間から差し込んでくる淡い光にだって、そこまでの熱はこもっていない。


 一昨日の昼飯の内容をかなり詳細に知られている。なぜ、と考えてそういえば自分のデスクが窓際だったことを思い出してさっと血の気が引く。

 そこから通りを挟んで、近場の立派な高級マンションが見えていた。

 琉笑夢の言う通りまさに目と鼻の先だ。


「えっ…………と、琉笑夢くん」


 言いたいことがまとまらない。

 盗撮されていることは昨日の今日で知っていたが、まさか職場での行動までも把握されていたとは。しかもわざわざマンションの一室を借り、そこから双眼鏡でのぞかれていただなんて。

 さらに恐ろしいことに、春人の職場の立地的にたぶん琉笑夢の住んでいる部屋は角部屋のはずだ。角部屋は家賃が高い。


「嘘、だよな?」

「うそじゃ、ねえよ。カロリー高いんだって、あそこのからあげ」


 ──そこじゃねえよ! と切実に叫びだしそうになって堪える。

 琉笑夢が頑なに春人に住所を教えてくれなかった理由がやっとわかった……心の底から知りたくなかったが。

 まさかファンに散財させたお金をそんなことのために使っていたとは。


 どうする、怒らないとは言ったものの、心地よさそうにまどろんでいる所悪いが叩き起こして叱るべきか。


「食生活ちゃんと考えろよ……? まあこれからは、俺が毎日作ってやるから、いいけど」


 目を閉じたまま何を妄想しているのだろう。にた、と頬を赤らめた琉笑夢に天井を仰ぐ。

 ──駄目だ、いま一番重要なのはこの男を叱りつけることよりも、耳に入ってくる単語の羅列をどう脳内で処理し理解するのかについてだ。


 そういえば、以前事務員の女の子にバレンタインデーに義理チョコをもらったのだが、その日の夜部屋に戻ると、鋭い眼光の琉笑夢が扉の前に座り込んでいたことがあった。

 コンビニ前でたむろしている田舎のヤンキーのような座り方で、開口一番がえらく不機嫌な、「おいチョコ出せ、もらったんだろうが」だった。ちなみにチョコは有無を言わさず破棄された。

 当時はバレンタインデーだったのでまあそんなこともあるかと気にもとめていなかったのだが、これまでの情報から察するに、もしかしなくとも。


 視られていたのだろうか。

 あんな遠くから、女性にチョコを渡される春人の姿を。


「あ──、は、はは」


 窓際に座って仕事をこなす春人を双眼鏡越しに見つめている琉笑夢を想像しかけ、もう引き攣った笑いしかこみ上げて来なかった。


「……嬉しいからって、周りに自慢すんなよ? ハズいから」


 そんなしっとりとほほ笑みながら照れないでほしい、怖いだけだから。

 自慢するとは何をだろう、今の会話の流れからするとこれから手渡されるであろう愛夫弁当をだろうか。


「あとな……部屋の一つに、春の部屋が、あって」


 これ以上続く言葉を聞きたくない。死ぬほど聞きたくない。

 けれども耳をふさいでしまいたくとも手が固まって動かせない。汗の量がさらに凄いことになってくる。そのうちシーツに綺麗な水たまりができそうだ。


 それに聞きたくないが、聞かないと後が怖い気もする。


「お、オレの部屋、って、なに、なんだよ、それ」

「んー……春専用の、部屋」


 じわじわと距離を取ってしまいそうになっている春人を察知したのか、腰に回されていた琉笑夢の手にがっと尻を掴まれぐいっと引き寄せられた。

 あぐ、と首の付け根辺りを噛まれ、ひゅ、と喉の奥から迸りそうになった細い悲鳴を、渾身の力で飲み込む。

 そこは人間の急所の一つだ、今から与えられるのはさらなる死なのかもしれない。


「専用ってつまり、お、お、オレが泊まるための部屋だろ? そうだよな?」


 いつか泊まりにくるであろう春人用にと、客室の一つでも備え付けてくれていたのであればその健気さに胸も締め付けられていただろう。

 しかし今の琉笑夢の様子からは、春人の想像の上をいくまさに斜め上の返答が返ってきそうで戦々恐々とする。


 そして、健気でいてくれなんていう淡い期待は簡単に裏切られることとなった。

 それどころか、斜め上を遥かに超える返答に文字通り凍り付いた。


「ちげーし。壁一面に写真、貼ってある。春の」

「……あ、ぇ」

「グッズも、ある。春の使用済み、スプーンとか、箸とか」


 視界がくらりと揺れる。

 それは果たしてグッズと呼んでいいのだろうか。


「……ああ、あ……その、あの」


 あまりの内容に口が空回りする。なんだか耳鳴りもしてきた。そして何もしていないというのに視界が滲み始める。

 どうすればいいのだろう、ここまでの恐怖を感じたのは久しぶりだ。琉笑夢は目を閉じているというのに蛇に睨まれた蛙のような状態になってしまう。


 琉笑夢が春人の部屋から帰る際、ゴミ出しといてやるよなんて気が利くことも確かにしてくれていた。有難いなあなんて能天気に帰り支度を始める琉笑夢を見送っていたかつての自分を殴りたい。

 スプーンとか箸とか一体なんの目的で、何に使用できるというのだろうかそんなもの。いやきっと何か──ナニかも、しれない。


「抱き枕も、ある。等身大の……だから春専用の、部屋」


 等身大の人形ってなんだそれ。


「いやそれオレ専用っていうかおまえ専用の部屋だよな、な……!?」


 そういえば、実践練習をしたと琉笑夢は言っていたような。あの時はスルーしてしまったが一体何で実践練習をしたというのか。

 その枕かなり青臭そうだなと思って、思ってしまった自分に鳥肌が立った。


「いや、いやぁ……だってそれ変態ストーカーのやる事だよな。うそだろ、ルゥおまえ」

「無理、春……眠い、寝る」


 好き勝手喋ることができて満足したのか、可愛らしい口調のまま眠りの世界へ旅立とうといている琉笑夢についに限界がきて、春人は勢いよく顔を上げて怒鳴った。


「おいまて起きろっ……琉笑夢、てめえ!」


 ぱかりと、琉笑夢が目を見開いた。

 西洋人形のような大きな瞳に至近距離でじっと見つめられる。本当の本当に、蛇に睨まれた蛙のような状態になった。


「ひ」


 開き切った瞳孔に情けない悲鳴が漏れそうになって、結局漏れた。



「──怒んなよ夫婦なんだから別にいいだろうが、おまえは俺のものなんだよ」



 一息で言い切られ、汗がつうと頬を伝い真っ白なシーツへと落ちた。


「ハメ撮り晒されたくねえだろ、俺だって躾直したくねえから──わかった?」


 全力疾走を終えたばかりのように心臓の鼓動がバクバクと速くなる。破裂しそうだ。


「なあ、言ったよな俺」

「な……ん、て」

「こんなもんじゃねえからな、って」


 確かに、寝ている春人の顔をオカズにしてシコられて胸にぶっかけられたことなんて可愛いものに思えて来た。

 体を動かせないでいる春人の目の前で、弓なりに反った琉笑夢の瞳から白目の部分が消える。

 侵食した青が白を食らい、水面に映る青く輝く綺麗な三日月のような形になった。


「逃げんなよ? 春にい。ずっと離れないって言ったもんな。もし俺から逃げようとしたら」


 きめ細かな肌をした美貌の青年は、それはそれは嬉しそうな笑みを浮かべて、一言。

 殺す、と続くかと思われていた唇が紡いだのは別の言葉だった。



「壊す」



 擬音語はにこっ、ではなくにたっ、だ。

 吊り上げられた唇の隙間からのぞいたのは綺麗に並んだ真っ白い歯。もちろんその笑みは、やはりと言うべきか昔から少しも変わっていなくて。


 殺すなんて物騒な言葉は使うな、という春人の言いつけをしっかりと守っているようなのだが、どうしてだろう。

 殺すよりもその一言の方が、より一層おぞましく聞こえてしまうのは。


「春、だい好き──春は?」


 首の噛み痕に、口づけるようにささやかれる。

 ぴたりと密着しているはずなのに、汗だって吹き出しているはずなのに、どんどんと体が冷えていく。

 落ち着け、こいつは獰猛で残酷極まりない熊でも百獣の王であるライオンでもない。コイツは人間、春人と同じただの人間、ヒト科ヒト属に属するヒト、ただの人だ。

 確かに春人よりも背はでかくなったし力も強いが、この世界には法律というものがある。この国の国民である以上、法律には逆らってはいけない。

 盗撮やらなにやらでいくつかは破ってしまっているようだが、まさか本当に監禁やら目潰しやら喉潰しやら、脚の腱や腕を切るとか舌を抜くとかはしないはずだ。


 しないと、思いたい。思いたいけど。


「オ……」


 春人は本日何度目かになるかわからない悪寒に身を竦ませながら、強張る唇を震わせた。

 今から口にする言葉は嘘ではない。嘘ではないの、だけれども。


「オレも、好きだよ……」


 いや、だからホラーかって。これはほんとに、怖い。

 やはり琉笑夢は病んでる、確実に病んでる。琉笑夢は春人限定のヤンデレだ。

 しかもヤンデレ科ヤンデレ属に属する立派なヤンデレだ。

 春人の返答に、琉笑夢が満足げに頷く。


「春、これからはずうっと傍にいような……墓にも、一緒に入ろうな。死ぬまで一緒だ……死んでも──」


 なんとも恐ろしい台詞を寝息とともに吐き出して、今度こそ琉笑夢はすうっと眠りの世界に引きずり込まれていった。

 もちろん、無防備かつ幸せそうな顔だ。そしてその腕はガッチリと春人の体を囲んだまま。

 これでは琉笑夢が起きるまでトイレにもいけない。


 墓場までということはつまり、春人が死んだ時は琉笑夢が後を追い。

 琉笑夢が死ぬ時は、春人も連れて逝かれるのだろうか──やりかねん。

 もしも放置していたら怨霊となって末代まで祟られそうだ。

 


 これがかの有名な「diDi」だなんて信じられない。

 週刊誌に琉笑夢の行動がすっぱ抜かれでもしたら確実に全てが終わるだろう。


 モデル・タレントの「diDi」、一般男性に狂気のストーカー行為、脅迫、DV、私物の窃盗、盗撮などの犯罪行為は日常茶飯事か……だなんて一面にでかでかと書かれた日には卒倒してしまいそうだ。笑えない。

 事務所を通して事実関係を確認するまでもなく全て事実なのだから尚更えぐい。


 琉笑夢の春人に対する異常な行動の数々は、決して世に出してはいけない。SNSで助けを求めるのもダメだ、絶対大炎上する。

 真実は墓場まで持っていこうと、春人は深く心に誓った。


「オレはやまった、かな……?」


 けれども春人が琉笑夢に惚れなければ、それはそれでどうなっていたかわからない。

 もしも琉笑夢以外の相手を春人が選んでいたら──いやダメだ、考えないようにしよう。考えてもいいことはなさそうだ。

 どっちにしろ、琉笑夢から逃れられる術など初めからなかった気がする。



 諸々あったが、懐いてくれていた子どもに迫られて結局はこうして恋人、いや夫婦という関係に落ち着いた。

 どこにでもある三文小説だと思っていたのに。

 正に現実は小説よりも奇なり、だ。


 もしもこれを小説か何かにするのであれば、タイトルは、


「諸事情により近所の金髪碧眼の美少年(6歳)を預かることになったオレだが懐かれた結果、金髪碧眼の美少年(6歳)がヤンデレ科ヤンデレ属に属する立派なヤンデレだったことが判明した件について」


 だろうか。いやあれから13年も経っているのだから、ここはやっぱりこう変えるべきだろう。

 題して、







 ──ヤンデレ気味の金髪碧眼ハーフの美少年(6歳)に懐かれたオレだが、身長187.3cmのヤンデレ科ヤンデレ属に属する立派なヤンデレ美青年へと成長した彼に迫られ食べられたが早まったかもしれない件について。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ヤンデレ気味の金髪碧眼ハーフの美少年(6歳)に懐かれたオレだが、身長187.3cmのヤンデレ科ヤンデレ属に属する立派なヤンデレ美青年へと成長した彼に迫られ食べられたが早まったかもしれない件について。 宝楓カチカ🌹 @kachika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ