第15話 墓場まで──①


「ッ……顔ちけえ、はなれろって」


 これ以上醜態を晒さないために、のぞき込んでくる琉笑夢の小奇麗な顔から視線を逸らす。


「買う時さ、恥ずかしくなかった?」

「恥ずかしかったに決まってるだろ、店員にガン見されるし……」


 実は何店舗か回って歩いたのだが、それはあまり言いたくない。

 もごもごと口を濁せば琉笑夢がにたっ、と笑みを浮かべた。相変わらず綺麗な顔が台無しだ。


「その笑い方やめろよ、ファンが泣くぞ」

「人前ではこんな笑い方してねーよ」


 知っている。そもそも琉笑夢は春人の前でしかまともに笑わない。

 春人以外の相手に浮かべるものはもっぱら冷笑で、テレビ用に作り出されたらしい微笑みも冷笑に限りなく近いものでマネキンのようだと一部の界隈では人気だ。

 なぜそれで人気なのかと言うと、あの冷たい微笑がクールでかっこいい推せる、だそうだ。

 春人にはその感性がちょっとよくわからなかった。

 その笑い方どうなんだと口では言ってはいるものの、やはりこの笑みが琉笑夢の素なのだから、彼には無理することなく笑っていてほしい。


「で、春。赤くなってる理由は? 耳まで真っ赤だけど」

「別に、なんでもねえから」

「思い出しちゃったとか?夜のこと」


 ノーコメントと口にする代わりにぺしんと首に巻き付けられた腕を叩く。

 返って来た返事は声ではなく舌だった。


「ぎゃあ!」


 れろ、とたった一晩で敏感になってしまった耳朶を舌でなぞられて飛び上がる。


「おまえなっ──ッ、いて!」


 振り向いた拍子に、体中に走った諸々の痛みに逆に琉笑夢の腕を掴んでしまった。

 春人に縋り付かれたことが嬉しいのか、琉笑夢の口許はまだ笑みが形作られたままだ。


「体つらそうじゃん、大丈夫?」

「……のやろ、大丈夫にみえんのかよ」

「いいや全然」


 ぐい、と後ろに引かれてそのまま琉笑夢と一緒にベッドに沈む。ただ、春人の体への負担を思いやってか、倒れ込んだ先は琉笑夢の腕の中だった。

 子どものように優しく抱きかかえられた状態で二人してベッドに寝そべる。

 じっと、至近距離で見つめ合う。

 ちゅ、とまぶたの上にキスが降って来た。


「──かわいい、春」


 27にもなって可愛いと言われたことでこんなにときめいてしまうとは。

 しかも相手はあの琉笑夢だ、あんなに可愛かった男に可愛いと言われてしまった。


「……おまえの方が可愛いし」

「なに対抗してんの。恥ずかしいとか?」

「ハズい」

「ハズいとか久々に聞いたわ」

「えっ、ハズいって死語なのか?」


 ジェネレーションギャップにぞっとする。恋人になったばかりなのに。


「かもな」

「嘘だろ?」

「嘘かも」


 どっちだよ、と顔をしかめれば今度は鼻を噛まれた。


「やめんか、オレで遊ぶな」

「あ、その顔かわいい……ここもまだ濡れてんな」

「のわっ」


 臀部の割れ目をつう、と指でなぞられて背がしなる。


「色気ねー声」

「おまえ、な、オレに色気なんつーもんを求めんな」

「そ? 昨夜はだいぶ色気出てたけど」


 琉笑夢の目は冗談などではなく、本気だった。

 春人に色気があるなんてのたまうのは、後にも先にも琉笑夢だけだろう。


「すげー痣の数……証しだな」

「……なんの」

「春が俺のものって証し。死んでも手放さねえから」


 春人の体のあちこちに付いている噛み痕やらキスマークやらにも指を這わせながら、この世の幸福を全て凝縮したかのようにうっとりとしている琉笑夢にちょっと引く。

 こっちは身動ぎするだけでつらいと言うのに。


「おいおい、幽霊になっても束縛されんのオレ」

「そういうこと」

「……束縛系男子って今も流行ってんの?」

「昨日から流行りとかなんなの? ちゅきめろとか言ってもどうせ通じねえんだろなあ、春には」

「ちゅきめろってなんだよ。着メロみたいな?」


 思いっきり琉笑夢が吹き出したので盛大にビビり散らかした。


「は? あ、あのなあ、着メロだってオレらの世代じゃ古い用語だからな!」

「いや、ちゅきめろも、けっこー古い……きつい」


 必死に擁護するも珍しくツボに入ったらしい琉笑夢は言葉をつっかえさせながら春人の胸に顔を埋めて肩を震わせている。

 大爆笑こそしていないが、ふやけたように緩んだ唇は見るからに楽しそうだ。

 笑いながらそこじゃねえと突っ込まれたって、どこなのかがわからない。

 なんだか仕事場に入ってきた20歳そこそこの新人さんと会話をしている時の気分だ。普段はテキパキと仕事をこなすしっかり者なのだが、休憩中の時などはやはり気が抜けるらしく時々理解不能な言葉が混ざる。

 今の言葉は宇宙語か、なんて思うことも日常茶飯事だった。


「笑うなよ! オレだって結構知ってんだぞ。やばたにえんとかぴえんとかマジ卍とか」

「なんでぴえんだけそこに混じってんだよ……」

「え……ぴえんって古いのか」

「逆。いやぴえんも古いっちゃ古いけど」


 ぴえんが古いのならば、やばたにえんやマジ卍はもう古語に分類されてしまうのではないだろうか。もしかしてあげみざわも?


「マジか」

「マジ、ぴえん以外はタピオカだと思え」

「お、おう」


 なるほど、その例え方なら少しはわかりやすい。

 流行りはしたけれどもここ数年で下火になってきて、今でも好んでいる人はいるもののSNSでもめっきり姿を見かけなくなりつつある微妙な立ち位置のあれだ。

 それでも正直、タピオカも春人の中では新しい飲み物のイメージだった。

 若者に分類されるであろう琉笑夢と頻繁に会話をしていてもこれなのだから、もう春人は時代の流れについていけないのかもしれない。


「──んな顔すんな、春はそのままでいいから」


 目許をくしゃりと緩めた琉笑夢に、汗で張り付いていた前髪を梳かれた。ついでに足もしっとりと絡められる。

 なんだかいつもと立場が逆転している気がする。珍しいこともあるものだ。

 あまり寝ていない上に数分前にキレかけたというのに、朝から肩を震わせて笑うほどこんなに上機嫌な琉笑夢を見るのは久しぶりだった。

 互いに細部まで溶け合うことができた朝だからだろうか。

 いや、それは春人の自惚れか。


「おまえ、テンション高すぎだろ」

「なんか、夢見てる気分で」

「……ゆめ?」

「そ、夢。春がこんなに、光ってるから」


 大きな手のひらに、頬をそっと包み込まれる。

 さらりと、綺麗な金の絹糸のような髪が窓から差し込んだ日差しに濡れ光って、あまりの眩しさに目が逸らせなくなった。


「あの春にいとセックスして、春にいに好きって言ってもらえて。春にいが今、俺の腕の中にいる。恋人なんだよな。俺のものになったんだよな、ほんとに」


 ゆったりと細められた碧眼は、まさに陶酔という言葉が似合いそうだった。

 どうやら自惚れなどではなかったらしい。光を集めて揺れる水面のような美しい瞳は春人だけを見つめている。

 彼の世界の中心はいつも春人で、春人しかいないのだろう。

 春人の方こそ、それはとても夢のようなことに思えた。


「……なんだよ、恋人でいいのか?」

「え?」

「夫婦、なんだろ」


 春人なんかよりも、目を瞬かせた琉笑夢の方がよっぽど光り輝いている。


「あ、ちげえか。男同士だから夫婦じゃなくて夫夫? いやでもどっちでもいいか」

「……はる」

「指輪もなんも、用意してねえけどさ」


 震えた眦を隠すためか、琉笑夢にぎゅうっと抱きしめられた。今まで以上に強い力で骨がみしみしと軋むが、嬉しさのあまりこんな抱き締め方をしてしまうのが琉笑夢なのであれば。

 多少痛いが、嫌なわけでは、ない。


「春、春にい、春……」

「はいはい」

「指輪、買ってやるよ」

「折半な、金たまるまでちょっとまっとけ」

「──監禁せずにすんでよかった」

「だから、怖いっつーの」

「そうだよな夫婦なんだもんな。夫婦なんだから、脚の腱切らなくともどっか行ったりしねえもんな……」


 ただ、こういう言動だけはやはり改めさせたほうがいいのかもしれない。


「なあ、ダーリン。俺、いい男だろ。ちょっと時々……暴走する時もあるけど」


 時々か? と心の中で突っ込んでしまったが、口に出すなんて野暮なことはしない。適当にうなずいてやる。


「はいはい、そうだなダーリン」

「ついでに料理もできる、お買い得だろ。おまえの胃袋掴むために鍛えたんだからな」


 SNSに掲載されていた琉笑夢の手作りの食事風景は、どれも色鮮やかで思わず食欲がそそられそうになる見た目だった。

 琉笑夢こと「diDi」が料理系男子であることは広く知られており、頻繁に雑誌でも取り上げられていたことも知っている。

 何度か作ってもらったこともあるのだが、かなりの美味しさだった。

 春人はなんでも美味しいと感じる人間ではあるが、それでも琉笑夢の作ってくれた料理は絶品だと思った。ただのパスタだったのに不思議だ。

 会ったことはないのだが、どうやら琉笑夢の父親が料理を専門とする職業についていたらしい。そういえば海外に住んでいた頃も毎日のように料理の写真が送られて来てたっけ。

 そんな春人自身は実は料理が苦手だ。

 レシピ通りに作ろうと思っても作れない人種の筆頭である。母親と同じで辛うじて味が整うのは野菜炒めぐらいだった。


 前に琉笑夢が、腹減った春にいの手料理食いたい作れ作れと煩かったので仕方がなく作ってやったのだが、一口食べただけで有無を言わさず流し台に捨てられそうになった。

 おまえが我儘言ったんだろうが食べ物を粗末に扱うな意地でも食えと叱りつけたのも、今となってはいい思い出である。


 琉笑夢いわく春人は味覚が宇宙人らしい。

 ただ琉笑夢はブラックコーヒーを飲んでいる相手全員にそんなことを言うので信頼性は低い。琉笑夢の感覚で言うと今頃地球は宇宙人だらけになってしまう。

 が、正直言うと夏人にも言われたことがあるので、そこを考えると何とも言えない。


「顔がよくて背え高くてモデルでタレントで高収入で料理系男子とか、高スペック過ぎて手に負えねえ気もすんだけど……」

「おまえの壊滅的な料理の腕前のせいでここまでする羽目になってんだよこっちは」

「なんか言ったか」

「何も。俺の手綱握れんのは春だけだってこと」

「自分で言うかそれ。その通りだと思うけど」


 この場合、春人は飯マズ系のお婿さんということになるのだろうか。

 いやそもそも自分が婿なのか、それとも琉笑夢が婿なのか。

 もしも春人が琉笑夢の家へ婿に入るのならば姓を変えなければならない。鈴木春人から、飛鳥間春人へ。

 田中へと華麗なる変貌を遂げた夏人よりも大出世しているような気もするが、完璧に名前が名字に負けている。

 飛鳥間に負けない立派な名前は、やはり琉笑夢でなければ。

 というかそもそも法律的には結婚はできないし。


「……オレだって、夢みてる気分だよ」


 出会った頃は、琉笑夢とこんな関係になるなんて思いもしなかった。


 こんな平凡な春人でも、琉笑夢にとってはキラキラした存在らしい。

 黒髪黒目の男のどこに輝いている要素があるのかはわからないが、他でもない琉笑夢が、春人は琉笑夢にとっての春の光なのだと言ってくれるのであれば。

 これからも琉笑夢に好いてもらえるように、キラキラした自分でありたいと思う。琉笑夢が望む、そのままの春人として。


 今度は春人の方から手を伸ばして、琉笑夢の頬をそっと手のひらで包み込む。あんなにぷにぷにと丸みを帯びていた頬が、今ではこんなにもしっかりとしている。

 ん、と首を伸ばして、吸い込まれそうな青い瞳を見つめながら薄く開いている唇にちゅ、と唇を重ねた。

 唇を離しながらぺろりと舐めてやれば、琉笑夢はすぐさまやり返せないほど驚いたらしい。

 アーモンド型の目許がほんのりと赤く染まった。


「あ、間抜け面」


 きゅっと引き結ばれた赤い唇にそっと笑む。してやったりという気分だった。


「好きだよ、琉笑夢」

「──ずっりぃ」

「なんだよ、おまえだっていっつもちゅーしてくんじゃんか」

「春から口にしてきたの、初めてだろ……ずるい」


 琉笑夢はちょっと春人に対する愛が重くて頻繁に爆発してしまう面があるので、ヤンデレだのなんだのと言ってしまってはいるが。

 実際は素直なところもあるし、なんだかんだ言っても根はいい子なのだ。


「琉笑夢、おまえスマホのロックナンバー変えたほうがいいぞ」


 さらりと流れるように警告してやる。


「え」

「あの番号じゃ、絶対オレ以外にもバレると思う」

「……春、気付いた?」

「うん。でもごめんな、勝手にのぞいて……」


 嬉しそうに頬をほころばせた琉笑夢に謝罪が杞憂であったことを知り、琉笑夢に事あるごとに「見てもいいよ」と言われていた意味も確認できた。

 あれはきっと、春人への声無きアピールだったのだろう。

 何よりもあの日が特別なのだということを、琉笑夢は春人に伝えたかったのだ。

 ただ、春人が覚えているかどうかを知ることが怖かったために、直接聞くこともできず、試すようなことばかりを繰り返していたのかもしれない。

 寂しがり屋の琉笑夢らしい行動だと思った。


 本当にコイツは、堂々としているんだか大胆なんだか強引なんだか甘えたなんだか弱いんだか、そうでないんだか。


「それとさ、オレの写真とか動画とかは消してくれな」

「は? ざけんな却下」

「……盗撮だぞ」

「じゃあ今すぐ俺と一緒に暮らせば。そしたらもう盗撮する必要もなくなるけど」


 それには少し言葉に詰まってしまった。

 丁度話そうと思っていたことなのだ。


「あの、さ、そのことなんだけど。仕事がまだ落ちつかねえから、今直ぐに引っ越しとかは難しいかも……」


 実家を出てからはずっと一人暮らしだったため、急に誰かと暮らすとなると生活のリズムが崩れ、仕事にも支障が出てしまうかもしれない。

 しかも一緒に生活する相手がこの琉笑夢となると、彼の仕事の関係は勿論のこと、なかなか苦労させられそうだ。

 昨晩の激しい行為で体力の差を思い知ったことも理由の一つではあった。毎日求められては持たない。

 しばらくは互いの部屋を行き来して週末に泊まるとか、そこから一緒にいる時間を前よりも増やしていってゆくゆくは……という感じで距離を縮めていきたかった。


 ただ、琉笑夢がそれを許してくれるかどうかが問題だ。


「じゃ、慣れるまでは俺の家に来て泊まれば」

「へ? いいのか?」


 あまりにもさらりと頷かれて拍子抜けする。てっきり駄々を捏ねられるかと思っていたのに。

 それに、琉笑夢の部屋を訪れる許可をもらえたことも予想外だった。

 というのも、意外に春人は琉笑夢の部屋に行ったことがないし、住所も知らないのだ。

 琉笑夢が春人の部屋に来ていたのでこちらが動かなくとも彼には会えていたし、そもそも芸能人なのでおいそれと他人に住所を教えないというのが当たり前なのだろうと思っていた。

 そのこともあって、琉笑夢が自分をそういう意味で好いてくれているのかどうか確信が持てなかったというのもある。

 例えば好きな人を部屋に連れ込んでいるため、部屋には来てほしくないとか。


「いーよ。春の仕事場から、家近えもん……」

「ん? 近いって、それほんとか?」


 それは初耳だった。

 一応仕事場は都心ではあるが端のほうで、決して芸能人たちが住まう高級住宅地などではない。


「ほんと。結構、目と鼻の先」

「てことはもしかして……あのでかくて高級そうなマンション? 通り越えたとこにある」

「たぶんそれ。あの斜め向かいの、高層で窓がでかくて多いやつ。白と黒の外装の……オーンジュって名前」


 春人の想像しているマンションの外見がほぼ一致した。名前も確かそんな感じだった気がする。昼飯を買いにコンビニへ向かう途中で必ず横切るマンションだ。

 クラシックな外観で、でかいなー金持ちしか住めないんだろうなーなんて通るたびに見上げてしまっていた。まさか琉笑夢があそこに住んでいたなんて。


「なんだよすっげえ偶然じゃん! いつから?」

「こっち、帰って来てから、すぐ」


 ということは、住み初めて結構経っているはずだ。


「なんで言ってくれなかったんだよ」

「なんでって……だって……」


 再びうつらうつらしかけているのか、琉笑夢の呂律が怪しくなってきた。

 案の定、琉笑夢のまぶたがゆっくりと落ち始める。昔から琉笑夢の眠りは結構唐突だ。

 話している最中に急にこてっといくこともあれば、二人で映画などを見ている最中でも琉笑夢が飽きればさっさと寝ていることもある。

 そんな時は無理に起こすことはせず、髪に指を差し込んでよしよしと撫でてやれば機嫌よく眠ってくれる。

 今もそうだ。撫でてやっている手に琉笑夢がすり、と頭を寄せてきた。


 背に回されている腕にあまり力が入っていないのは、相当眠いからなのだろう。


「怒られると、思って」

「怒る? なんでだよ」

「怒んねえ?」

「……内容による」

「怒んねえ?」

「──わかったよ。怒んねえから話せ」


 頬にかかって、くすぐったそうな前髪を耳に掛けてやる。

 手のかかる男だ。薄っすらとまた目が開きそうになったので、いいから寝とけと耳元でささやけばまた閉じられた。

 幸せそうにうとうととしながら、琉笑夢はこれまた幸せそうな声色で続けた。


「んー、部屋からのぞいてたから……双眼鏡で」

「のぞく? 何を」

「春の……仕事場」


 びしりと、次は琉笑夢の唇に張り付いている髪を一本取ってやるつもりだった手が止まる。


「──は?」


 今、何か、とんでもない爆弾発言をぶちかまされたような。

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