第14話 春日──②

 その拍子に液晶画面に触れてしまい、写真フォルダの中に春人の写真や動画が大量に保存されているのも見えてしまったが、そんなのもうどうでもよかった。

 ぺたんとシーツに腕を落とし、そのままベッドに体が沈む。

 腕の中にいる青年の顔が見られない、鼻の奥がつんとする。

 いい大人がこんなことで感極まって泣くだなんて情けないとは思ったが、感情と理性は別物だった。鼻水が出そうになってぐずりと鼻をすする。


 いいタイミングで、琉笑夢の腕が緩み拘束もわずかに解けた。

 起こさぬようそっと腕をどかして、起き上がる。


 散々酷使された体のあちこちが痛んで再びベッドに突っ伏しそうになったが、上体が崩れぬよう腕を伸ばして体を支えつつ、ベッドの淵を右足、左足で跨ぎ床に足の裏をつける。

 背筋を伸ばしたことで腹に力が入り、緩んだ後孔からどろりと体液が漏れたが、気にしている暇はない。

 軋む体でベッドの下の空間をのぞき込み、収納していたものをずずっと引きずり出す。

 長い段ボールの箱の引き出しを開けて、並べられた薄いパッケージの中から一枚を手に取った。


 淡く、柔らかな青色が溶けた水の中に、気泡を浮かべながら沈むタイトルの数字と瑞々しい黄金の林檎が一つ。

 琉笑夢が描いたらしいこれはシンプルな絵柄だが、相変わらずかなり上手だ。

 硬いパッケージをかちんと開くと、表紙と同じく青色のCDが収納されていた。歌詞カードも同じ色なのだが、その形は少々独特だった。

 折りたたまれているものを開くと花の形になる。

 春と名の付くタイトルからして桜がモチーフになりそうなのだが、これは表面とは異なりぱっと華やぐような濃い青色をしていた。花びらは五枚で、一体なんの花なのだろうとこれもファンの間で話題になっていた。


 開いた歌詞カードを確認してみる。「春日」の最初と最後の一節。




『春の光が満ちる明日』




 ぶわ、と、顔面に血が溜まる。

 そのたった一文で、この曲に込められた想いというものを全て理解してしまった。

 黙ったまま歌詞カードを戻し、勢いよくパッケージを閉じ、冷たい面を額に押し付けて、深く深く息を吸いこみ、吐く。

 同時に、うあーと唸ってしまった。

 きっと今の春人の顔は、耳まで、いや首まで真っ赤だろう。


「いや……マジか、マジかよ、あー……夏にい……」


 この場にはいない兄の名を呼ぶ。

 どうしよう、彼の言う通りこれは紛れもなくラブレターだった。


 いるのか今時。ここまでの想いをこういったものに詰め込んでくれる人間が。

 しかも何の臆面もなく、堂々と世に発表してしまえる人間が。

 たぶん日付の意味はわからなくとも、春人以外にもこの簡単な繋がりに気が付いたファンも間違いなくいるだろう、だというのに。


「反則だろ、これ。恥ずかしいって……ダメだろ、うぅ」


 恥ずかしい、かなり恥ずかしい。春人の勘違いではないであろう事実も、恥ずかしい。

 頭を掻き毟りたいくらいだ。体中がむずむずするし、じれったい。


 それでいて嬉しくて嬉しくて、とても言葉じゃ言い尽くせないほどの幸福感に満たされているのだから、もうどうしようもなかった。


 重ねがさね、あれはもう13年も前の出来事だ。

 当時14歳だった春人はともかく、琉笑夢はまだ6歳、それなのにしっかりと覚えていただなんて。

 記憶力があるとかないとかそういう問題ではないのだろう。


 琉笑夢にとって、その日がいかに大切な日であったのかをこんな形で知ることになろうとは。


「あーもう、きついだろ……言えよばかやろう、こんなん好きになんだろうが……」

「──なにそれ」

「ッ、わ」


 ぽわぽわした感情に耽っていたため、後ろからかけられた声は予想外だった。

 恐る恐る振り向く。別に琉笑夢が起きたことには何ら問題はない。ただ、その声が極限まで冷えていたことが問題なのだ。

 寝起きの琉笑夢は基本的に低血圧ですこぶる機嫌が悪い。しかもその状態で目を開けたら腕の中に春人がいないのだ。

 さらに追い打ちをかけるように、寝る直前まで抱き合っていた当の本人が見知らぬCDを額に押し付けながら「好き」などとのたまっている。これはもしかしなくとも、絶望的な状況なのではないだろうか。

 案の定、能面のような顔をした琉笑夢は額を覆った指の隙間から春人の手元を凝視していた。

 反射的に隠してしまったのは、所持しているCD類を壊され慣れてしまった己の性だった。


「お、はよ」

「──誰の」


 こんなに日差しも穏やかで気持ちのよい朝だというのに、琉笑夢の声は氷のように冷たい。

 南極にいるような体感温度にぶるりと震える。

 

「あっ、違うからな。これは、その、なんつーか」

「誰のかって聞いてんだよ……」


 酷く据わった目をした琉笑夢は春人の逃げを許さない。

 だが、お前のだよと素直に口にすることは躊躇われた。琉笑夢のCDを購入していることを彼に伝えたことはないし、これに込められた意味を知ってしまった今は尚更照れくさい。

 それに、実はバレたくないこともいくつかあった。


「まだそんな古臭えやつ買ってんのかよおまえ」


 琉笑夢の言う古臭えやつとは、「春人の好きを独占する忌々しいブツ」という意味である。


「だから……これは、その、どーしてもほしかったやつで」


 琉笑夢の目がすっと細められ、額に青筋が立つのが見えた。

 あ、やばい。本音だったが失言だった。

 本当に寝起きかと疑ってしまうほどの勢いで、琉笑夢が上掛けを弾き飛ばした。

 バネのように飛び起きた琉笑夢に爪が食い込むほど肩を掴まれ、乱暴に引き倒された。

 まずい、こんな時の琉笑夢は全くと言っていいほど周囲が見えていない。


「ばっ、落ち着けって!」


 手にしていたCDを力ずくで奪われる。パッケージを確認することもなく躊躇なく降り上げられた腕にしがみ付き、咄嗟に声を張り上げた。


「バカ壊すな! おまえのCDだよ!!」

「……あ?」

「おまえの通常版のCD! だから壊すな!」


 ぴたりと、空中で琉笑夢の腕の動きが止まった。

 壁に叩きつけられて無残に破壊される運命だったはずのそれが、かしゃんとベッドの上に落ちた。

 琉笑夢の視線がはっきりと表紙を捉えたのを見計らって、慌ててそれを拾い上げて腕の中に庇う。


「……俺のCDじゃん」

「だからそういってんだろ、この寝坊助!」


 目をしょぼしょぼさせた琉笑夢が、春人が奪い返したそれを指差しながら眉をひそめた。


「なんで持ってんの」

「……買ったからに決まってんだろ」


 ぷいと顔を背けてさっさとCDを元の場所に戻そうとしたのだが、ひょいと肩口からのぞかれて、ベッドの下の全容を見られてしまった。


「わーだから、見んなってば!」

「これ……」


 琉笑夢が載っていた雑誌は綺麗に整理整頓して箱に詰めてある。しかも数十冊はあった。またシングル曲のCDは20枚ほど買っていた。

 初回盤を5枚、期間限定盤を5枚、そして通常盤を10枚だ。

 普段はタンスの中に隠してあるのだが、ここしばらくは琉笑夢の来訪がない予定だったので、ベッドの下に移動させて時間がある時に眺めていたのだ。


「なに、すっげー量だけど」

「違うから、こ……これはだな、おまえのためになればいいと思って」

「別に金に困ってねえけど。春より稼いでるし」

「……っオレは凝り性なんだよ」

「同じやつこんなに買ったこと今までなかったじゃん。確か最高で3枚だろ」


 壊され続けたせいで諸々がバレていたのが仇となった。

 琉笑夢の軽口には、さっそく笑みが滲んでいる。


「薄給でこんな散財していいわけ?」

「うるさいな」

「ふうん、雑誌も揃ってんじゃん。立派立派」


 琉笑夢の人気を支えるためというのはただの言い訳に過ぎず、ただ単にほしかっただけなのだという本音を見透かされて気恥ずかしさが増す。


「俺のCDほしかったんだ、へえ。俺、春の推しだったんだ」

「……悪かったな、キモくて」


 できればこのことは隠しておきたかった。

 自分でもやり過ぎだということは自覚していた。


「なに。んなこと一言も言ってねえけど」


 するりと後ろから伸びて来た逞しい腕に、きゅっと抱きしめられる。


「──すっげえ嬉しい、死にそう」


 濡れた声でぼそりとささやかれて、昨晩たっぷり耳元に吹き込まれた言葉の数々を思い出してかっと頬に熱がたまる。


『春、すっげえ可愛い』

『あーたまんねえ、春、やばいってこれ』

『一生、春の中にいたい……』

『抱き壊していい?』

『もう誰にもやらねえから』

『──春、幸せ。もう死んでもいい』

『大好き……』


 などと、そういうものがぶわっと。


 ついでに、もっとして、と髪を振り乱しながら琉笑夢の腰に脚を絡め引き寄せたことも、記憶の底から掘り起こされてしまった。

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