第13話 春日──①


 ぱちりと、目が覚めて真っ先に思ったこと。


 食われた。骨の髄まで食らい尽くされた。

 今の春人の状態は、打ち上げられて身動き一つ取れなくなったマグロである。


 互いの諸々で肌がかぴかぴに乾いているし、それなのに大量の寝汗でシーツが濡れていて気になるし、しっとりしていて落ち着かない。

 心の底から疲れた、少しも動けない。残業が続くよりもキツイ、体のあちこちが痛い。何より腰から下の鈍痛……というよりも激痛がやばい。

 ケツがめっちゃ痛え。もちろん痛いだけではなかったけど……ごにょごにょ。

 責任を取れと叱りつけるのは簡単だが、ぶっちゃけ琉笑夢に支えられて二人でクリニックを訪れるのだけは絶対に嫌だ。

 琉笑夢の顔がバレたら大変なことになるだろうし、週刊誌にあの「diDi」が肛門科通いなんて記事にされた日には罪悪感でどうにかなってしまいそうだ。

 そして同じくらい琉笑夢に下の世話をされるのも嫌だ……嬉々としてやりそうではあるが。

 2時間ぐらいでへばってもう休ませてくれと懇願したがやはり許してはもらえず、結局朝日が窓から差し込んでも終わらなかった。

 薄っすらと聞こえてくる小鳥のさえずりに、こっちは素人なんだから勘弁してほしいとへろへろになりながら叫んだが、こっちも素人だと返されてしまえば何も言えなくなった。


 正直に言おう。

 10代の性欲なめてた、マジで。


 それなのに、春人をぎゅうっと抱きしめ目をつぶっている男は春人と違ってとても穏やかな顔をしている。


 くっそー、人の気も知らずに幸せそうな顔で寝やがって。

 しかもコイツ心なしか肌の艶もよくなってないか? 特に目の下の隈が薄くなってる気がする。ずるい、こっちは体中べたべたな上に噛み痕とキスマークだらけでシーツに肌が擦れるだけでじんじん痛むのに。


 ううん、と唸った琉笑夢が髪に顔を埋めて来た。自然と拘束が強まり体が軋む。

 何かに縋り付いていないと安心して眠ることができないのは昔からだ。

 小さい頃は琉笑夢も腕が短かったため、朝目覚めた時に彼が抱きしめていたのは春人の腕だった。

 しかしこれでは寝返りも打てない。


 一瞬、本当は起きているのではないかと疑いもしたが、ちらりと顔を見る限りその可能性は低いだろう。

 琉笑夢はすうすうと規則正しい寝息をたて、薄く開いた唇は緩み眉尻も下がっていた。何度も見ているからわかる、これは完璧に寝入っている顔だ。

 互いに眠りにつくのが朝方だったため、一度でかなりの睡眠を取るタイプの琉笑夢は当分目覚めないだろう。


 昨夜の情事を思い出せば思い出すほど、恨み言はつらつらと出てくる。

 しかし、ここ暫く仕事が忙しくろくに寝ることができていなかったであろう琉笑夢を起こすのは忍びない。


 なるべく刺激しないよう気を付けながら、上へ上へとずり上がる。だが琉笑夢の腕が春人を逃さぬよう腰に回って来たので、抜け出ることができない。

 今度顔を埋められたのは鎖骨辺りだ。そっと引き抜くことができた片方の腕を琉笑夢の後ろ頭に回し、抱え込むように抱きしめてやる。


 琉笑夢はしばらくもぞもぞ動いていたが、落ち着かせるために何度か髪を撫でてやれば、やっと定位置を見つけられたのか首筋に鼻をすりすりと擦り付けてきた。

 図体ばかりでかくなったが、ふわふわとした金色の毛並みと春人の体で暖を取ろうとする姿は子犬のようだ。

 変わらない幼子のような仕草に、ふ、と穏やかな吐息が漏れる。


「おまえってほんと、昔から変わんねえな……」


 琉笑夢に抱かれてみて、多少おぼろげだった気持ちが今ははっきりとした。

 琉笑夢の無防備な寝顔にじんわりと心の中に広がって来たのは、自分を求めてやまないこの男が死ぬほど愛おしいという気持ちと、優越感だった。


 こんな緩み切った顔、春人以外の誰にも見せてはいないのだろう。

 これからも春人以外には見せないでほしいと、思う。

 

 ふと、視界の隅でベッドサイドに置かれた琉笑夢のスマートフォンが点滅した。

 

 通知だろうか、別に何でもいいかと視線を直ぐに腕の中の青年に戻そうとしたのだが、一瞬だけ見えたロック画面に視線が固まってしまった。


「……は?」


 目を疑ったが画面は変わらない。

 それはどこからどうみても春人の顔写真だった。しかも、たぶん寝顔だ。

 画面が暗くなり写真が消える。琉笑夢を起こさぬようにわずかに上体を起こしてそっと腕を伸ばし、かちりとボタンを押してみる。

 ロックが掛かっているので開くことはできないが、やはり設定されていた画像は春人の寝顔写真だった。

 しかも口が半開きになっている上に、涎が垂れてだいぶ間抜けな顔をしている。

 これは明らかに。


(コ、コイツ……盗撮しやがって)


 一体いつ撮られた写真なのだろう。

 正直呆れたが相手はあの琉笑夢だ、今更なのでため息だけで済ませる。


(そういや、ズリネタはオレの動画とか写真だって言ってたな)


 もしかしなくとも琉笑夢のスマートフォンの中は、春人の盗撮写真やら盗撮動画で溢れているのだろうか。

 ちらりと腕の中にいる男の顔をのぞいてみる。依然として琉笑夢が起き上がる気配はない。

 日頃から琉笑夢には、「別に中のぞいてもいいけど、やましいもん何もねえし」と言われてはいた。

 琉笑夢が春人の目の前にこれを置きっぱなしにして風呂場へ向かったことも何度かある。裏返しにもしないのだ。

 ただ、例え琉笑夢がいいと言ってもさすがにそれは駄目だろうと中身をのぞいたことはない。

 春人だって、本体を壊される危険性があるので中身を琉笑夢に見せたことはないのだ。それなのに春人だけが琉笑夢のそれをのぞくことが許されるなんてフェアじゃない。

 けれども。


(もしも、やべえ写真とか動画とかあったら……)


 それはちょっと嫌だ。できることなら消してほしい。

 数分ほど迷った末、スマートフォンを近くまで引き寄せ、ボタンを押してパスワード入力画面を開いた。

 とはいっても、そもそも認証番号なんてわかりはしないのでダメ元だ。

 試しに琉笑夢の誕生日を入力してみたがもちろん違った。今時そんなわかりやすいパスワードにしている人間など滅多にいない。

 けれども、そうでなければ4ケタの数字なんて皆目見当がつかなくて、しばらく思案する。


(もしかしてオレの誕生日とか? いやいやまさかそれはねえよな、そんなベタな……)


 ドキドキしながら、「0614」と入力してみる。しかし簡単に弾かれた。


「だよなぁ」


 ちょっとだけほっとしたような、残念なような。

 しかしこれで駄目ならもうやめた方がいいなと諦めかけたその瞬間、ふっと頭の中を掠めた数字があった。

 琉笑夢がリリースした初めてのシングル曲名が、数字だった。

 3から下がって、そのまま「3210」というタイトルだ。


 それなのに、歌詞の中にそれらの数字は一切出てこないので、これは一体何を意味するのかとファンの間では話題になり、考察するものも現れていた。

 単なるカウントダウンか、西暦か、日付か、時間か。それとも占星術かなにかか、はたまた別のものか。

 真実を探ろうと何やら小難しく考えているファンも見かけたが、琉笑夢は複雑そうに見えて案外単純な男だ。

 作曲にはもちろんプロの手も入ったらしいが、タイトルと作詞は自分で考えたらしいので、そこまで回りくどい意味が込められているとは考えにくい。


 そういえば、あの曲にはCD限定のカップリング曲があった。

 タイトルは、「春日しゅんじつ」。奇抜なシングル曲とは異なる平凡な曲調で、歌詞もいたって普通だ。


 夏人には、「春人の春の字が入ってる辺り琉笑夢くんらしいよねぇ、ラブレターかな?」なんて言われたが、それこそ歌詞に、「愛してる」だとか「君」だとか「好き」だとか「恋」だとか、隠された想いを匂わせるような単語は一切入っていなかった。

 もちろん春人を連想させるような言葉も皆無で、なんてこともない春の日を歌ったものだ。

 ただ、やけに「明日」という歌詞が出てくるなとは思った。


 最後にシングル曲のタイトルでロックが解除できるかどうか試してみるかと、もう一度だけ液晶画面に触れようとして、ぴたりと手が止まった。


(あ、れ……)


 琉笑夢は、春人がデータだけではなくCD本体を手に入れることで満足する人間であることを知っている。

 そしてカップリング曲は誰の意図か、ネット上では配信されておらずCDの購入者だけが聴くことのできるレアな曲だ。


 「3210」が、ただ単純に日付と時間を意味するものであるとしたら。

 「春日」に頻繁に出てくる「明日」という単語が、何か意味のある歌詞なのだとしたら。

 もしもあのシングル曲が、カップリング曲をかけ合わせることで初めて一つとして完成されるものなのだとしたら。


 そして琉笑夢にとって、また春人にとっても深い意味を持つ日といえば。


 ただの思い付き、されど思い付きだ。

 まさか、という気持ち半分確信半分で、数字をタップする。

 入力した数字は「3220」。


 いとも簡単に、アイコンが並ぶ画面へと移動する。

 ロック画面が解除できた。できてしまった。


 3月21日の午前0時の明日は、3月22日の午前0時だ。

 3月22日、覚えている。

 春人の家に、琉笑夢が連れてこられた日だ。


 つまり、初めて春人が琉笑夢と、出会った日。



 ──どっと力が抜ける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る