酒場の麗人、魔女に童心

砂明利雅

酒場の麗人、魔女に童心

「美人ね、この子」

 とある酒場で、金の髪を後ろで纏めた女が壁を見つめて呟いた。切れ長の目に、すっきりした鼻筋。唇は小さく艶やかだ。リボンやネックレスが、店員のドレスを着こなす彼女によく似合う。名はエメリーン。

 壁には黒髪の女性の似顔絵が描かれた貼り紙。異端の者、魔女と見出しがついている。"堕落する薬を配る"と書き添えられていた。"背が高い"、"黒い服"とも。

 捕らえたなら、人々のためになるかしら? そう考えていると卓に呼ばれた。振り返れば、大勢の客と、自身と同じ格好の従業員たち。まずは彼女たちよりも多くの注文を取らなければ。なにせ私は……。卓へと走った。



 石造りの街は火の灯りで照らされていた。石畳の道は多くの人で賑わっている。領主同士が競り合う暗い時代を越え、街は繁栄していた。人々の表情は明るい。

 人ごみの中、前のめりで足を引きずって歩く女性がいた。名はファイルーズ。目深に被ったフードから、絹糸のような黒髪がこぼれる。整った顔は白い肌と相まって人形のようだ。黒いローブを着ており、肩から大きく膨らんだ革袋を下げていた。袋のベルトは胸を浮き出させて体に張り付いている。彼女の背は人々よりもひとつ抜けて大きかった。

 やすみたい……。息を吐いていると、肉の焼ける香りに気づく。火が灯され、笑い声が漏れ聞こえてくる店があった。あるかな、あまいもの。一縷の望みを託して店に入った。

 中は大聖堂かと思うほど広く明るい。所狭しと並ぶ卓はほぼ満席で、客たちは酒を酌み交わし、肉を食らっていた。

 店員に出迎えられて奥へ。一つだけ空いた卓に座り袋を床におろす。大きく息を吐いて突っ伏した。


 エメリーンは卓に体を預ける女性の姿を見据えた。疲れていそうね。

「元気が出る料理はいかが? 香草のきいたステーキなんかは……」

「あまいもの」

 少女のような高い声だ。

「なら、梨の砂糖漬けに、蜂蜜入りのワインはどう?」

「パンも。4つね」

「よ……?」そんなに食べられる? 彼女は声質の割に大きな体つきをしていた。脱げたフードから露わになった黒髪の艶やかさ、白肌のきめ細かさ、そしてローブの上からもわかる胸の膨らみに色香を感じつつ、懐から出された貨幣を受け取る。「すぐに持ってくるわね」厨房へ注文を伝えに向かった。


 どうしてあんなことに? 兵を振り切ってきたけど安心はできない。だって、出回りだした貼り紙、わたしを探しているに違いないのだから。ため息が胸元まで届く。

「よぉう、嬢ちゃん」

 男の声に身が竦んだ。わたしを捕まえに? 反射的に立ち上がって椅子を倒してしまう。大きな音に周囲の視線が集中した気がした。あぁ、何やってるんだろう、わたし。

 酔漢二人組がそこにいた。杯を片手に軽薄な笑みを浮かべ、一緒に飲もうや、などと言い、勝手にエールを注文する。こんなのに絡まれるなんて、今日は散々だ。

「うざい。どっかいって」

 疲れて感情的になってしまう。はやく帰りたい。あ、帰れないんだ……。男が肩に手を伸ばそうとしてきた。その時。

 男の頭に杯の底が打ち付けられ、鈍い音が響く。杯から液体が飛び出し、下の男に降り注いだ。

「嫌がる女の子に手を出すなんて、最低ね」エメリーンだ。

 酒に濡れた男はゆっくりと手を下ろすと、肩を震わせながら振り返った。「よくもやりやがったな……!」

「やっているのはどちらかしらね?」余裕のある笑みを浮かべつつも、目は笑っていない。

 もう一人の男が腰のナイフに手をかけた瞬間、男の顎が音を立てた。蹴り上げられたのだ。仰向けにひっくり返った男を彼女が見下ろす。

「あら、ごめんなさい。私、足癖が悪くて」

 久々だな、やっちゃって下さいと、周囲が囃し立てる。大丈夫なの?

 男は顔をしかめ、腰のナイフを抜いた。彼女は手招きする。

「来てごらんなさい」

 余裕たっぷりの態度を見せられた男は突進し刃を振りかざす。その瞬間、身を屈めた彼女の手が相手の手首をひねり上げた。悲鳴をあげる男を引き寄せ、膝で腹を蹴る。床に倒れ体を折って咳き込む男の頭を踏みつけた。

「つまらない人たちね」

 周囲から歓声と拍手を送られると、彼女は髪をかき上げながら微笑んだ。戦乙女のような姿にただ見惚れていた。この人、すごい……って、え? 彼女から視線が注がれる。こっちに来る!

「大丈夫だった?」

 長いまつ毛の下から覗く青い瞳は、吸い込まれそうなほどに澄んでいた。ドキドキする。

「えっと、ありがと……」

「いいのよ。たまに来るのよね、こういう連中」男性従業員が男二人を引きずるのを見やっていた。「災難だったわね。今、甘ぁい蜂蜜入りワインを持ってくるから……」

 ん? かすかな香りを逃さなかった。「待って」彼女の右腕に両手を添え、手のひらを上に向けた。やっぱり。小さな傷口が、わずかに血を滲ませている。

「ああ、これ? ナイフがちょっとかすっただけよ。大したこと、ないでしょ?」

「ううん。化膿したら大変」

 革袋の蓋を払った。小瓶や小袋がびっしり詰まっている。取り出したのは水袋。

「それ、なに?」

「水だよ。少し薬草が入ってる」

「あなた、お医者様?」

 答える前に処置を施す。手のひらを持ち上げ、ひと舐めして消毒。彼女から小さい声が上がった気がしたが、構わず水で洗い流す。「これで血が止まれば大丈夫かな」

「あ、ありがとう」

 小さな声。あれ? 彼女は顔を横に逸らしていた。

「どうしたの?」

「え、ええ、大丈夫よ。いま料理を持ってくるわ。パン4つだったわね、たしか」ぎこちない言葉。立ち去る間際、顔は赤く染まっていた。


 飴色掛かった梨に、陶器に注がれたワイン。そして両手で包む位の大きさのパンが4つ。それらを前に目を輝かせるファイルーズを傍から見つめていた。

 さっきの胸の高鳴りはなに? そんな疑問をよそに、彼女は目の前の食事に夢中になっている。果物ソースをパンに塗りたくって頬張る姿は無邪気で可愛らしい少女といった風情だ。さっきとは違う……うまく言葉にできない。

 手に付くソースを猫のように舐めとる仕草を見て、手を舐められたときの感触が蘇った。腰が抜けるほどの快感を思い出し、体がびくりと震える。私ったらなにを考えてるのかしら! ずっと彼女を見ていたい気持ちにかられたが、別の卓に呼ばれたので頭を振って向かっていった。


 すごいな。卓と厨房とを軽やかに行き来しては、客たちにはつらつと応対するエメリーンの姿に感心していた。メリハリのある動き。品のある仕草。その容姿。まさに完璧だ。

 パンと梨を食べ終えた。甘いものを食べるとなんだか安心する。この感覚が大好きだった。ワインを飲みながら麗人を眺める。蕩ける頭で見る彼女は幻想的ですらあった。

 最後にこんないい思いができてよかったなあ。きっと神さまがご褒美をくれたんだ……。幸せな気持ちで一杯になったところで視界は暗転した。



 飲んでいたワインよりずっと強い酒の香りがする中、ファイルーズは目覚めた。頭が重い。視界がぼやける。ここはどこ? たぶん、ねちゃって……。

「起きたのね」

 目の前から女性の声。目を凝らすと、長くて締まりのある脚が組まされていた。小さな卓に肘をつく人物は、おろした金髪をかきあげ、蒼い瞳で見下ろしてくる。エメリーンだ。卓上の蝋燭が彼女をおぼろげに照らす。そこに何本も置かれた酒瓶が影を作る。

 毛布の上に寝かされていた。寝台だ。目をしばたかせていると、彼女は手を口元に当てて笑い出した。顔を赤らめ目じりを下げる彼女のもう片方の手には、杯が握られている。

「ふふ、ごめんなさいね。ここは酒場の二階よ。あなた、とっても面白そうだったものだから、つい私の部屋に連れてきちゃったわ」杯へ琥珀色の液体を注いでいた。

「面白い……? わたしが?」

「そう、あなたのことよ」寝台に腰かけてきた。大きく軋む。

 ちょっとまって……。何かが始まる気がして体を起こす。

「私はエメリーンよ」

 顔を近づけてくる。酒気に隠れていた香水の香りが鼻腔を通り抜ける。

「あなたはなんていうの?」

「……ファイルーズ……」

「そう、かわいい名前」

 さらに距離を詰めてくる。いいにおい。

「ねえ、あなたのこと、もっと知りたいの。だから……」

 熱い視線。ああ、始まっちゃう。でも……アリかも。見つめ返した。

「……いいよ」

「じゃあ、沢山お話しましょう」

「……へ? あ、うん」肩透かしを食らった。てっきりそういうことになると思ってたのに。彼女は再び酒をあおり始めたので、座りなおすしかなかった。

「あなた、お医者様なの?」

「医者っていうか……」この人も私を疑うのかな。口が重くなる。

「私ね、お医者様って、とても偉いと思うの」

「え?」

「昔ね、弟と一緒に遊んでいたとき、弟が転んで怪我しちゃったの。慌てて負ぶって帰ったら、母は私たちを叱るばかり、父なんかは見て見ぬふりよ。それでもお家のお医者様はすぐさま弟を診てくれたわ。とても心配してくれてね。幸い大したことはなくて……」

「お家のお医者?」首を傾げる。医者がいる家なんてあるの?

「あ、ええと、家の近くのお医者様よ!……だから、私はお医者様を尊敬してるの。あなたもね」

 誤魔化されたけれど、それより褒められて嬉しかった。話してもいいかな。どうせ、わたしは自由じゃなくなるし。

「……巫女」

「みこ?」

 知らないみたいだ。話を整理するために目線を上げる。

「わたしは古代宗教の末裔で……巫女として育てられたんだ」

「巫女って、神様にお祈りするっていうあれ?」

 頷くと、彼女は蕩けた目を丸くした。

「巫女が、薬を?」

「自然の恵みを使って人を治療するのが務めだから」

「そう。ならお医者様ね。やっぱりあなたは偉いわ。好きよ」

 語尾に驚いて彼女を見返すと、杯を掲げて酒を飲み干していた。流し目にどきりとする。ほんとうにそのつもりがないの? 手が勝手に自身の髪を弄った。

「巫女のお祈りってどのようなもの?」

「え!?」

「どうしたのよ? 大声を出して」

「いや、えっと、ごめん」顔が熱い。だって、巫女のお祈りって言ったら……。

「……エメリーン。神寄せっていって、神を身に宿す儀式があるんだ」

「神寄せ?」

 床に置いてあった革袋を探る。取り出したのは、薄い袋と、金属の棒。先が曲がっていて、反対側は細い。

「それ、なに?」

「煙管と、薬香。心魂の乱れを鎮められる。引きつけのある子とか、興奮しすぎる子に使うんだけど、神寄せでも焚くんだ」

「香……そうなの」

 興味深そうに眺めていた。袋の中身を煙管の火皿に移す。乾燥した薬草くずが入ったのを見せると、彼女は鼻を手で覆う。香は慣れないとくさい。

 蝋燭の火で香をあぶると煙が細く立ち上った。彼女は息を詰まらせる。吸い口に口をつけて軽く吸う。苦く甘い味が口に広がり、肺に留めると、頭の奥がじんとした。吐き出すと紫煙が漏れ出た。彼女の姿が強い彩度を放ってくる。艶が際立つ。

「神寄せは二人でするんだ」

 煙管の吸い口を彼女に向ける。恐る恐る、口を開けたので、差し込んだ。彼女は煙管に手を添え、肩を上げる勢いで吸い込んだ。直後に大きく咳き込む。

「ゆっくりでよかったんだ。で、どう?」

「どうって……」呟く彼女の瞳が揺れた。

「意識を高揚させて、巫女同士で……」再度吸って煙を口に溜めた。彼女の横に座って体を倒し、口を重ねる。驚く彼女の口に煙を送り込んだ。

 再度むせて離れる。涙と共に顔が紅潮し、荒い息遣いとともに熱い視線を向けてきた。

「あなた、何をしたの?」

「エメリーンがいけないんだよ。わたしを誘っておいて、知らないフリしてるなんて」

「誘ってなんて、そんな……」

「わたしじゃ嫌?」首元に顔をもぐらせ舐める。小さく声を上げてくれるのが心地いい。

「い、いやじゃないけど、でも……」

「じゃあ、いいよね!」

 押し倒す。寝台が軋んだ。顔の横に両手をついて見下ろすと、彼女は息を呑んだ。腕の中に閉じ込められる麗人に興奮した。



 エメリーンたち酒場の従業員が店の準備で動き回っている様子を、ファイルーズはカウンター席に座って眺めていた。昼前の陽光が差す店内は営業時ほど明るくない。

 エメリーンに懐くフリをして居座っていた。実際、気に入ってるけど。でも、そのうち出ていかなきゃ。

「あんた、昨日はエメリーンの部屋に泊まったんだろ?」カウンターの向こうから男の声。筋肉質で髭を蓄えた男が笑っていた。店主らしい。

「うん」

「いい子だろ? だが帰る場所がないらしくてな。二階の部屋をやったんだ」

「へえ」意外。家出なんてする感じじゃないのに。

「まあ、店の酒を飲んじまうのは困るけどな。毎晩ごっそり持ってかれちまう」

「毎晩?」

「そう! 一番の稼ぎ頭にして、一番の酒飲みだ」

 笑う店主をよそに俯いた。いつもは一人で飲んでるんだ。


 エメリーンはファイルーズの姿を時折視界に収めては、椅子を床に降ろしていた。しかし手が滑って落としてしまう。音を聞いた彼女が振り返ったので、慌てて笑って取り繕った。彼女も笑顔を返してくれる。今朝見せてきたのと同じ顔で……。顔を背けて椅子を立てた。

 ああなるなんて……。しかも相手は同性。教義に反してしまうわ。それに、あのお香。心を鎮めるどころか乱すだけじゃない……。 そんなことを考えていると再度空を掴みかけた。手首を効かせて椅子の脚に手を届かせる。

 椅子を降ろし終えようというとき、出入り口の扉が叩かれた。店員が鍵を外して開けると、途端に何者かが足を踏み入れてきた。

 金属の擦れる音。鎧を着こんだ男が数人。後方には、金髪を切りそろえ、ひだ飾りが襟に付いた服を着て、脚には長靴下を履いた、中背の青年がいた。あれは!

 店主が前へ立ちふさがると、鎧の男が言い放った。

「我らは国王陛下の御子息、ウスターシュ・ド・ラティモワ殿下直属の親衛隊。そしてこちらにおわすお方こそ、次期国王陛下であるウスターシュ王子その人であらせられる」

 従業員たちは一斉にざわつき始めた。青年……ウスターシュは切れ長の目で辺りを見回し、目が合う。彼は若い声で冷ややかに言った。「下民の恰好をして、恥ずかしくはないのか、姉上」

「ウスターシュ……」まさか見つかるなんて。彼はエメリーンの弟なのだ。

「え、エメリーン、姉上って……」

「姉上の本当の名は、エミリエンヌ・ド・ラティモワ。我が姉にして王家の第一王女なのだ」

 従業員たちがどよめく。バラされてしまったわ。

「僕は姉上を連れ戻しにきたのだ」

 隊員たちが跪く。「エミリエンヌ王女、どうかお戻りください」

「嫌よ。あんな悪行を働く王家になんか、いられないわ!」

「姉上がどう思おうが、戻る他はない」

 その横柄な言い様が癇に障った。「戻らないわ。城にいるより、ここで人々に飲食をもたらす方がよほど有益だから」

「バカな。下卑た行為だ」

 かわいくなくなったわね! 口論を続けるうちに、隊員の一人が彼を止める。

「王子! 魔女の方はどうしますか?」

「ああ、お前たちの好きにしろ」

「魔女ですって?」

「ここに魔女がいるとの通報があった。ついでだが、主の教示に基づき、捕らえる」

「魔女なんていないわ。みんな普通の女の子たちよ!」

「調べればわかることだ」

 彼の合図と共に、隊員たちは女性たちを拘束し始めた。力づくの行動に痛みの声が上がる。

「今すぐやめさせなさい。おかしいわよ、こんなやり方!」

「何を言う。魔女は異端者なのだぞ。一人たりとも逃すわけにはいなかい」

 魔女を調べる、つまり異端審問だ。異端と認められれば死罪となる。店主は隊員に抗議しているが聞き入れられない。どうしてこんなことに……!

「わたしだよ! わたしが魔女なんだよ! だからみんなには何もしないで!!」

「……ファイルーズ!?」驚いた。彼女は立ち上がりながら叫んだのだ。その顔には決意の色が浮かんでいた。

「なるほどな。黒髪で、背が高く、黒い服を着ている。姉上も手配書を見たことがあるだろう」

「……あ」思い出した。酒場の壁に貼られた似顔絵を。不覚にも解してしまう。「でも、あなたは巫女だと……」

「巫女か。邪教の信徒らにそう名乗る者がいる。この女で間違いない。お前たち、捕らえるのはこの女だけでいい」

 隊員に取り囲まれた彼女は、「いいよ。抵抗しないから」と言って腕を突き出してみせる。後ろ手にされ、手を掴まれた彼女は俯いてしまった。その目に涙が溜まっていく。胸が締め付けられる。

 彼女は貼り紙の人物なのかもしれない。ならこのまま連行させるのが正義なの? これで人が救われる? 違うわ。勘がそう告げていた。彼女は手に傷ができたらすぐ治療をしてくれた。今もこうして皆の為に自らを犠牲にして。そんな彼女が……。


「待って! 彼女が魔女なわけない! ファイルーズは怪我や病に苦しむ人を救っていただけよ! 善良な医者なんだから!!」

 力いっぱい叫ぶエメリーンに、その場にいた誰もが驚いた。ファイルーズの心にも深く響いた。嬉しいけど、でも……。

「王子、この者の持ち物のようです」隊員が持っているのは、ファイルーズの大きい革袋。中の薬が露わだ。

 ウスターシュは中身を探る。取り出したのは、昨晩使った煙管。薬香の袋も探し当てられた。「このにおい。これこそが人を堕落に陥れる悪魔の薬だ」

「違う! 引きつけや癇癪を直すための薬なのよ!」

「どうかな」彼が目の前に立つ。突然右手で顎を掴んできた。

「や……!」寒気が走る。彼の目はエメリーンに似ていたが、冷たい。

「ほら、同じにおいがするぞ。常習犯だな」

 昨晩のにおいが残ってしまっていた。嘲笑う彼。魔女など人として見ていない。力を籠められ、痛くて声を漏らす。

「やめなさい!!」彼女が彼の背後に飛び込み、腕を捻り上げると羽交い締めにする。顎から手が放された。

「離してよ、姉さん!」子供みたいな声。皆唖然としてしまい、集まる視線に気づいた彼は顔を紅潮させた。

「治療に使うのは本当よ!」

「……それを、姉上は確認したのか」

「ええ。この目で確かめたわ」

「バカな」彼女のハッタリに、彼は首を縦に振らない。

「ほら、姉さんを信じて」そう言って、弟の両肩を掴む彼女。目をまっすぐ、彼の顔に向ける。信じてくれるかな……。

「……ね、姉さん、そのにおい……!」

 口を押さえる彼女。薬香を吸わせたのがバレちゃった!

「うそだ……! 姉さんが……!!」

 彼は眉間に皺をよせ、手を払いのけると、目の前に飛び出た。そして何かを腰から抜く。ぎらつく刃。細剣の先端が、目の前に。「女、姉さんに何をした!!」

 殺される! 恐怖が全身を駆け巡った。

「魔女の所業……それは、薬を使い、悪魔と密会を……」

「神寄せの儀式よ! ファイルーズとは神寄せを試しただけ……」

「悪魔をその身に降ろして姉さんと交わったというのか!! 異端審問にかけるまでもない! 教義に反する魔女め、この僕自らが裁いてくれる!!」

 細剣を高く振り上げる姿。ああ、死ぬんだ……。

 目を瞑って待つ。が、その感触は無い。瞼の先で、何やら喧しい声がしていた。恐る恐る目を開く。

「いい加減にしなさい、ウスターシュ!」

「止めないでよ、姉さん!」

 彼女がまた彼を羽交い絞めにしていた。二人の言い合いは、巫女だ魔女だと、互いに譲らない。

「主の教えは我が国の基盤だ! それに従って、何が悪いんだっ!」彼は激昂していた。

「まずは……落ち着きなさい!!」

 彼女の右脚蹴り。脇腹に入った。手加減はされていた。だが、彼の痩せた体は意外なほどに吹っ飛んだ。倒れ込むその先は、卓の角。

 鈍い音を立てて後頭部を打った彼は床に倒れ、四肢を張り、目を見開いた。顔を強張らせ、額からは脂汗が滴る。呻き声は言葉にならない。

「……ウスターシュ!!」

「どいてください!」

 彼女は隊員に突き飛ばされ尻もちをついた。隊員たちが介抱のため彼の体をゆすっている。動かしちゃダメ!

「ゆすらないで!」

「黙れ!」

 後ろ手を握る隊員が力を強めた。痛みに悲鳴が出る。今も隊員は彼の体を叩いて気つけをしようとするばかりだ。このままでは命に関わる。

「ファイルーズを放して! 今すぐ解放して!」彼女は後ろの隊員のそばに来ていた。

「しかし……」

「すぐに放しなさい!!」

 その怒声には王族の威厳が満ち溢れていた。その場の全員が凍り付いたように動きを止めた。隊員が力を緩める。手を払って振り返ると、彼女の顔は荘厳さををたたえていたが、途端にくしゃりと歪み、涙が零れ落ちる。

「弟を助けて……!」

 手の甲を覆う、彼女の手の震え。感じた。彼女の気高い心が崩れ去ろうとしているのを。常に強くあろうとする彼女は、毎晩の酒で心を保たなければならないほど、孤独なのだ。正しさを求め、独り塔を高く高く築き上げるように生きてきた彼女は、弟を傷つけた咎を一身に背負い、落ちようとしている。

 そっと彼女を抱きしめ、震える背中をさすった。「大丈夫。わたしに任せて」

 頷く彼女を放し、叫んだ。「店主さん、お水! これに入れて!」隊員の持つ自身の荷物から丸い胃製の袋を引っ張り出し、渡す。

「お、おう!」

「兵隊さんはウスターシュくんを絶対に動かさないで! あと担架! 医者とかから持ってくるの!」

「魔女の言うことなど……」

「はやく!!」

 睨むと隊員たちは慌てて動き出した。

 店主が持ってきた水袋で、今も呻く彼の後頭部を冷やす。彼の顔を見つめる彼女の表情は悲痛そのものだった。泣きながら彼の名を何度も呼ぶ彼女のためにできることはただひとつ。彼を救うことだけ。手にしたのは、煙管。



「主の導きによりて、異端者を召し捕り、正しき道へ誘わん」

 あれから一か月後。街の路地裏で、白いローブを纏い、口元を布で隠す、かの者。同じ格好の男たちとともに、司教の声に耳を傾けていた。袋小路で彼らに追い詰められるのは、黒いローブのファイルーズ。彼女は肩で息をしながら、壁に背を預け、疲れ切った顔で彼らを見やっていた。教会が異教徒を捕らえようとしているのである。

 させはしないわ。

 かの者は男の首元に右拳を見舞った。一撃で崩れ落ちる。他の者たちが振り向き、固まった。隙だらけね! 即座に間合いを詰めると、左拳を男の胸に打ち込んだ。脚をふらつかせて膝をつく。ついでに隣の男に回し蹴りを放った。長い脚は男の顔面を捉える。その男も倒れた。最後の一人となった司教は狼狽し、男たちを叩き起こして立ち去った。

「うまくいったわ」一息ついた。彼女は座り込んで呆然としていた。相変わらず、気の抜けた顔をしているんだから。

「エメリーン!!」

「あら、バレた?」かの者……エメリーンはフードと口の布を外し、長い金髪をかいて後ろに流す。

「エメリーン! エメリーン!!」

「ちょ、ちょっと、抱き着かないで! 離れなさい!」

「会いたかった……! 本当に、心配したんだよ……!?」

「そ、それは……悪かったわね……」

 泣きじゃくりながら頬ずりしてきた。ふくらかな抱擁が心地よい。薬草混じりの自然な匂いに安心した。

「エメリーン、罰とかは受けなかった?」

「弟の公務を代わりにやらされたわ。でもそれだけ。あなたが弟を救ってくれたおかげよ」

「よかった……!」

 腕をぎゅっと回してくる。こら、と小突いて離れたが、内心は嬉しかった。

 あの時、彼女はウスターシュの身もだえを薬香で鎮めたのち、彼を修道院に預けた。彼は回復し静養中だ。

 大事に至らなかったが故に、城へ戻ったエメリーンは王である父から大目に見てもらえたのだ。

「あなたはあの店にいるんでしょ?」

「うん。店主さん、ほんとうにいい人だね」

 王子を救った功により、彼女は国や街から追われないよう取り計られた。だが教会が異教徒を見逃すわけもなく、店主は彼女を酒場で匿っていた。

「今日はちょっと油断しちゃったかな……」

「患者を診に出ていたんでしょう? 無茶して働かなくても、食べ物くらい出してくださるのに」

「それが巫女の務めだもん」

「強情ね……やっぱり、私が必要なようだわ」

「え?」

「また城を出てきたのよ。このまま酒場に戻るわ。あなたを放っておけないから」

 こう言えば喜んでくれるかしら? そう思って顔を伺うと、笑みを浮かべ、瞳を潤ませていた。そんなに喜ばれるなんて!? 困惑し顔をそむける。

「もう安心だよ、エメリーン」

 聖母のような優しい声とともに、背中、肩、胸に暖かな感触が。

 温まる。心が満たされる。心の壁を溶かされる。

 この感覚。手の傷を診てもらったときと同じ。それは子供が大人に世話をしてもらうのに似た安心感だ。

 忘れていた。強さ、正しさを求めるうちに。

「みんな待ってるよ。エメリーンを」

 耳元での囁きは、張りつめていたものを溶かしていった。背中に体重を預けると、優しく受け止められた。温かい。こうしてファイルーズが支えてくれるのなら、もう少しの間だけ……。

「おかえり、エメリーン」

「ええ。ただいま、ファイルーズ」

 ファイルーズのぬくもりに、エメリーンはすべてを深く委ねたのだった。

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酒場の麗人、魔女に童心 砂明利雅 @sunamerim

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