第4話 妖怪少年の正体
目の前に掛かっている絵の中に、自分の姿が見えたと思っていたが、それが本当に自分なのかどうか、少し疑問に思えてきた。
――ひょっとして、妖怪少年なのかも知れない――
妖怪少年が、絵の中から、誰かを誘いこんで、入れ替わろうとしているのではないかという思いが次第に募ってきた。
ということは、妖怪少年を意識してしまってはいけなかったのだ。意識してしまったということは、少なくとも、妖怪少年の中で、
――この人は、自分と入れ替わることができる相手だ――
と、思っているからである。
――絵の中の世界が、死の世界だったらどうしよう――
香澄はまたしても、余計な妄想を抱いてしまった。
以前、怪奇ドラマを見ていた時、本当はこの場にいるはずのない人を見かけてしまったその時、
――そんなことはあり得ない――
と思いながらも、気に掛けていたら、次の日になって、見かけたと思っていた人が、
「あの人、昨日突然亡くなったらしいわ」
と、人から聞かされて茫然となったが、一度だけなら、
――ただの偶然だわ――
と思うだけなのに、同じことが、二度、三度と思ってしまったことで、偶然として片づけることができなくなった。
オチとしては、鏡に写った自分を見て、本当はそこにいるはずのない自分がいるということを他人から言われて、自分が死に足を突っ込んでしまったことを悟ったところで終わっていた。
香澄はその話を思い出し、自分もその話をずっと気にしていたことを思い知った。そして、今回の妖怪少年のイメージが頭の中で重なって、
――今まで繋がっていなかった線が、繋がりそうに思えてきた――
と感じるようになっていた。
まだ漠然としたものなのだが、その感覚が繋がってしまうとどうなるのか、災いをもたらすことになることも十分に考えられる。だが、繋がりそうになっているのを感じてしまった以上、無視して通るわけにも行かなくなったのだ。
――大丈夫なのかしら?
死というものを意識せざるおえなくなり、思い出すのは、父の死だった。
父の死を思い出していると、自分が母親に似ていると言われたことが気になっていた。母親と一体どこが似ているというのか、実に不思議だったが、一度父が、
「お前は、若い頃のお母さんに似ているんだ。今のお母さんにではない」
と、妙に力を込めて言っていたのを思い出した。それは、まるで、
「今のお母さんと、若い頃のお母さんは別人だ」
とでも言いたげな気がしていた。
――そういえば、父が絵を買って来た時、母の様子が変だったわ――
というのを思い出した。
絵を見て、目が離せなくなったかのように、凝視したままその場から離れなかった。それなのに、顔には明らかに怯えが走っていて、じっと見ているようで、本当に凝視していたのかどうか、怪しいものだった。
その時の母親の顔が、まるでさっきのことのように思えていたのは、香澄が今回この喫茶店に来て、夕方カウンターの中の彼女と初めて対面した時、本当に一瞬だったが、彼女の顔に怯えが走ったのを見たからだった。あまりにも一瞬だったので、彼女の表情自体が幻だったかのように思えてしまい、それ以降、香澄自身、彼女を凝視できなくなっていたのだ。
――彼女は、私に何かを訴えようとしているようだが、何なのかしら?
そう思っていると、一つ気になっていることが何なのか、分かってきた。分かってしまうと、どうして気付かなかったのか、自分でも不思議なことなのだが、
――彼女がカウンターの中にいる間、昼間いたマスターはどこにいるのだろう?
という思いだった。
最初は奥にいるのかも知れないと思ったが、一向に出てくる気配もないし、奥からも人の気配が感じられない。明らかに店の人は、彼女一人だったのだ。
さらに、店の雰囲気があまりにも静かすぎる。喧騒とした雰囲気がほとんど感じられない。BGMも掛かっているが、まるで水の中で聞いているように、遠くからしか聞こえてこない。
昼間に来た時に感じた店の雰囲気とは違っている。昼間はもう少し喧騒とした雰囲気だったような気がしたが、それでも、どこか普通の店と違っていた。今も普通の店と違うと思っているが、昼間と今とでは、どこが違うのかという箇所が、同じではないように思えてならない。
――本当に同じお店なんだろうか?
初めて来た店に、それから数時間して再度立ち寄った。最初に感じたイメージと二回目とではイメージが違っている。そんなことはよくあることなのかも知れない。
しかし、そのどちらかは他とは変わらないことで、変わらない店を基準に考えるから、どこが違っているかということは容易に知ることができる。しかし、どちらもそれぞれに違いがあるのでは、違いという概念が、基準を作り出すことを拒否しているように思えてならない。
カウンター越しに彼女を見ていると、
――どこか自分に似ているところがあるのではないか?
と、無意識に探っているのを感じた。似たところがあるとしても、それが分かったところでどうなるものでもないのだから、特に初対面の人を相手に、そんなことは今までしたことはなかった。
この店は、会社の命令で出向いてきた時に偶然立ち寄った店である。また会社の命令でもなければ、このあたりに足を踏み入れることもないほど、今まで無縁だった場所である。今のところ、これからこのあたりにもう一度来ることはないように思えた。もし来たとしても、そんなに近い将来ではないだろう。そう思うと、ここでの思いは、どんなに考えたとしても、数日後には意識から消えているように思えてならなかった。
それにしても、彼女のどこが自分に似ていると思ったのか、逆に似ているところがないことから、無意識に似ているところを探ろうとしたのかも知れない。
だが、似ているところを知りたいと思ったのは間違いのないことだ。全体的に見て似ているところがなかったとしても、最初の直感で、どこか似ているように感じたのだとすれば、無意識に似ているところを探そうとした理由も分からなくもない。直感が実際に外れていることがあったとしても、意識の中に残ったということは、彼女が気になる存在であることに、違いのないことであった。
「こんなことを言うと笑われるかも知れないんですけど、何かずっと眠っていたように思うことがあるんですよ」
「眠っていたというのは、どれくらいの間なんですか?」
「それが、何年もの間眠っていて、気が付いたら、今になっていた。でも、私自身は年を取っていないんですよ。まわりの時間だけが過ぎてしまっているような感覚に陥っていて不思議でしょう?」
「そうですね」
漠然として答えたが、彼女は笑いながら、
「今の私の言い方は、まるで自分を中心に世の中が回っているような言い方だったでしょう? でも、自分だけが眠っていて、気が付けば年を取っていないということは、自分だけが時代から取り残されたんですよね。それを認めたくないから、自分中心に世の中が回っているような言い方になってしまったんですよ。言っていて、自分でもおかしくなって笑ってしまいそうですよ」
と、話していた。
香澄は、以前に本で読んだタイムマシンの話を思い出した。
――一瞬の間に走り幅跳びでジャンプしたみたいだ――
と書いていた。そして、それは、つづら折れのカーブになった道を、端から端に飛び越えたみたいな感覚を思い浮かべたことがあったが、その時のイメージがよみがえってきたかのようだった。
――この女性は、一体どこにいたというのだろう?
そう思うと、彼女の後ろに誰かがいるのが見えた。そして、直感で思い浮かんだのが妖怪少年であることまで理解するまで、彼女が話し出してからあっという間だった。
――やはり、私は夢を見ているのだろうか?
今、目の前で展開されていることは、自分が考えていることと違って進行している。しかし、思っていることに沿っているような気がしてきた。つまりは、
――考えていることと、思っていることでは違っている――
と思えてきたのだ。
考えていることというのは、実際に起こっていることに対して、同時進行して頭の中にあることであり、思っていることというのは、全体を見渡して、
――どのようになるのだろうか?
ということまで、先読みしているように思えてならなかった。
夢を見ているというのは、
――考えていることとは沿っているわけではないが、思っていたことに向かって進んでいることだ――
と言えるのではないだろうか。
つまりは、自分の都合のいいように見ているのが夢だと言える。しかし、考えていることと違っているので、本人の意識の中には、
――夢というのは、いくら自分が見ていることとはいえ、そうそう都合よく見ることができるものではない――
という発想になっていることだろう。
「夢というのは、潜在意識が見せるものだ」
という話を聞いたことがある、
夢だと意識していても、夢の中だから何でもできるという発想は最初からない。むしろ、夢の中だからこそ、自分が納得できることしか実現できないものだという発想だ。
空を飛ぶことができないという発想もその一つであり、空を飛べないことをいかに自分の中で納得させるかということが大切である。
目の前の彼女が誰なのか、本当は分かるはずもない。しかし、自分の思考の中で、勝手に想像し、思いを巡らせることはできる。
ただ、そうなってしまっては、もはや夢ではない。妄想になるのだ。夢と妄想との違いは、
――夢は、考えと思いが違っているものだが、妄想は、考えも思いも違っている。きっと起きているという感覚があるからなのかも知れない――
と感じていた。
彼女を見ていると、まるで連鎖の発想で、妖怪少年を思い出してしまう。以前にも、誰かを見ていて、妖怪少年を思い出したことがあったような気がする。それが一体誰だったのか、思い出そうとしているが、なかなか思い出すことができない。もし思い出すことができるとすれば、タイミングというものが必要になってくる。思い出せそうな時に、何かもう一つのきっかけが重ならないと、記憶を封印した扉の鍵を開けることができないのではないだろうか。
そんな時思い出したのが、父親の死だった。
――父親の死が、妖怪少年と、彼女の正体を結びつける妄想の答えを導き出してくれるのだろうか?
ただ、それはあくまでも妄想に対しての答えであって、真実などでは決してない。
――真実であるはずがない――
という思いがあるからこそ、妄想を働かせることができるのだ。
妄想というものが、どこまで許されるのかということを、香澄は考えたことがなかった。もし、許されないという境界があるとすれば、今までに何度その境界を超えたのかと考えてしまう。
ただ、境界である以上、超える瞬間に、何らかの抵抗のようなものがあったはずだ。しかし、香澄はそんな抵抗を感じたことはない。
境界というものが本当に存在しているとすれば、今までの香澄は、境界を超えたことがなかったのだろう。もし、境界など存在しないとするならば、歯止めのない妄想は留まるところを知らない。だが、暴走したことは今までにないことから、
――境界などなくとも、人間の妄想など大したことではないのかも知れない――
と思うようになっていた。
香澄は、自分の中でいろいろ妄想していながらも、結局は、
――お釈迦さまの手の平の上を飛び越えることもできない孫悟空――
のような心境になっていた。
――どんなにあがいても一緒なんだ――
と、本来なら諦めの心境に近いものなのだろうが、香澄に諦めというよりも、ホッとした心境になっている自分に気が付いた。
――どんなに連鎖が続こうとも、結局は堂々巡りを繰り返すことにしかならないんだわ――
と、感じると、頭に浮かぶのは、自分の前と後ろに鏡を置いて、限りなく無限に映し出される鏡を見ながら、
――しょせん幻影が写っているだけで、自分はたった一人いるだけなんだわ――
と感じている自分を冷めた目で見ているもう一人の自分を感じた。
どちらの自分が本当の自分で、どちらがもう一人の自分なのか、それによって感じ方はまったく違ってくるはずなのに、その時の香澄は、
――そんなことは、どうでもいい――
と感じるようになっていた。
香澄は頭の中で、時間の感覚がマヒしかけていた。しかし完全にマヒしてしまったわけではない。何かを導く出すための段階として、時間の感覚をマヒさせる必要があったのだ。
妄想の中で一つ頭の中に引っかかっているのは、
――妖怪少年が誰と入れ替わったのか?
ということだった。
その相手というのは、この店でアルバイトをしている彼女に違いはなさそうなのだが、彼女が香澄の知っている相手だということにも間違いがない。
もう一つ気になったのが、
――どうして、昼間いたマスターが現れないんだろう?
ということだった。
不思議なことに彼女の存在を意識すればするほど、マスターの存在が意識の中から遠ざかっていく。数時間前に遭ったばかりなのに、その顔も次第におぼろげになっていき、意識して思い出そうとすると、却ってぼやけてしまったかのように顔が見えなくなってしまった。
――二人同時に現れることができないような、何か理由があるのだろうか?
香澄は、マスターが妖怪少年なのではないかという思いに駆られていた。足に幹が生えていて、森の中に一人佇んでいる。誰かが来るのをじっと待っているというそんな想像を絶するような相手と、昼間に遭ったマスターが同じ人間であるということなど、いくら妄想とはいえ、想像することは難しい。
想像することはできなくても、思うことはできる。それは理屈の上で考えたからであって、現実性を度返しした感覚であることに違いない。
香澄にとって妖怪少年がどんな存在なのかというのを考えてみた。
――半永久的に続く寂しさの中、まったく変化のない場所で、時間の感覚などマヒしているであろうに、何かを考えるなどできるのだろうか?
何も考えることもなく、何もすることもなく、ただ、その場所に立っていなければいけない。まるでこの世の地獄と言えるのではないだろうか?
そうやって考えると、
――妖怪少年が佇んでいるその世界は、死の世界なのではないだろうか?
死の世界というものを今までに香澄は想像してみたことがあったが、すぐに想像するのをやめた。
――想像しても、果てしなく続く想像の連鎖に引きこまれてしまうかも知れない――
という思いと、
――想像してはいけない「パンドラの匣」を開けてしまった――
という思いから、一度引きこまれてしまうと、そこから抜けられなくなってしまうという、まるで底なし沼のような状態を、無意識に嫌ったのかも知れない。
――死の世界を想像するということは、バチ当たりなことだ――
という思いはずっと持っている。それは死の世界を怖がっているからなのだが、怖い中でも、納得しなければいけないことがあるような気がしていたのかも知れない。そのために、妖怪少年という架空の妖怪を自分の中で作り出し、
――妖怪少年が住んでいるところこそ、死後の世界なんだ――
という思いを根付かせていたのだ。
そのことが、香澄の中での妖怪少年と、その住処という環境が、自分の中の存在意義として意識させることになっている。
ただ、妖怪少年の発想は、香澄にとって、やはり「パンドラの匣」であった。
開けてしまうことは、自分の納得いかないことが起こった時、解釈の一つとして残しておいた一種の「保険」のようなものだ。
パンドラの匣であっても、自分を納得させられないと先に進めないことがあれば、どうしても開けないといけないことがある。そのことを自分の中で意識していたのだろう。そういう意味で、頻繁に妖怪少年を感じている最近は、あまりいい傾向にないのかも知れない。
ずっと前兆のようなものが続いていて、それがいつ形となって現れるというのか、想像もつかない。
――まさか、このままずっと前兆のまま、果てしなく続いていくなんてことは、ないわよね――
と、考えたくもないことを想像していた。
香澄は、どうしてもネガティブに物事を考えるくせがある。それが嵩じて、妖怪少年などという発想を持っているのかも知れない。そう思うと、自分の性格を呪いたくもなってきた。
――自分の性格?
そう思った時、思い浮かんだのが両親の顔だった。
――これって遺伝なのかしら?
と考えた時、ふと目の前にフラッシュが焚かれたような気がしたが、次の瞬間、どんどんと暗くなってくるのを感じた。
かといって、完全に暗くなるわけではない。ある程度は見えている。しかし、それが全体を想像させるものではないことは分かっていた。
――一体、何を感じさせようというのだろう?
そこには他力が存在し、自分の発想も、本当に自分の意志だけで妄想した世界なのかを疑いたくなってきた。
香澄は、今まで「遺伝」など考えたことがなかった。
いや、考えたことがなかったと思っていただけである。本当は、いつも最初に感じることは「遺伝」という言葉であり、考えてしまったことをすぐに後悔し、すぐに打ち消していた。だから、考えたことがないと自分で思うようになっていたのだ。
どうして、打ち消そうとしたのかというと、それだけ自分が両親と似ていたくはないという思いがあったからだ。
厳格な父親には、融通の利かない発想を、そして、それに逆らうことのない母親には、絶対的な弱さを感じていたからだ。
融通が利かないだけならまだいい。それを相手に押し付けようという考えは、香澄の中で、どうしても許せないことだった。反動という言葉だけで納得させられるものではない。なぜ、そんな発想になったのかというと、
――自分にも、融通が利かないところがある――
と感じるからだ。
特に中学生の頃など、
「あなたのような頭が凝り固まった考え」
と、何度言われたことだろう。
中学に入った頃の香澄は、自分が目立ちたい一心からか、結構発言に積極的だった。ただ、その積極性が裏目に出て、まわりに気を遣わない様子に見えたことで、自分の考えを相手に押し付けようとするところがあった。
そのことは意識していたが、まさか頭が凝り固まった考えを指摘されるなど、想像もしていなかったのだ。
それを思うと、
――どうして、そんな風に見えたのか――
ということよりも、自分が想像もしていなかったことを指摘されたということにビックリしていた。
そのせいもあってか、香澄は人から何かを言われると、急にムキになることが多くなった。
「何を急に怒り出したりするのよ」
と、言われてハッとすることもあった。もっともそのことで、
「香澄は融通が利かない」
と、言われるきっかけになったのだが、本人は、どうして融通が利かないと言われるようになったのかということを分かっていなかった。
――一番言われたくない言葉だわ――
という発想が一番強く、その言葉が、自分の一番嫌いな父親への自分の気持ちであることに、すぐに気付かなかった自分に対し、後になってから情けなく感じられるようになった。
それから、香澄はあまり前に出ないような性格になった。
「出る杭は打たれる」
という言葉を思わせるような典型的な行動だっただろう。まわりの人は急に前に出なくなった香澄に対し感じたことは、
――杭に打たれたからだ――
ということであったことは、間違いないだろう。
ただ、その頃にもう少し、遺伝というものを意識していれば、少しは違ったかも知れない。妖怪少年などという厄介な発想を頭の中に抱くこともなかっただろう。
妖怪少年の話を他の人も知らないとは限らない。香澄も教えられた伝説だったからだ。
だが、香澄が感じる妖怪少年への思いは、他の人とはまったく違っているはずだ。確かに、何かを感じるのに、人の数だけ発想があるというのも当たり前のことだが、それにしても、他の人の意識している内容ほどであれば、ここまで頭の中に残っていて、話を聞いてからかなり時間が経っている大人になってからも思い起すというのは、それだけ深いところまで連れて行かれている証拠ではないだろうか。
最初に店長を見た時、確かに何かを感じたが、それは決して嫌な思いではなかった。ただ、どこか他人ではないような気がした時、
「嫌」
と、反射的に否定してしまったのを思い出した。
そこまで反射的に反応するということは、元から何かを予感していなければできないことだろう。同じ反応するにしても、意識していなかったことに反応する態度とは、まったく違っていたと思ったからである。
この喫茶店が、
――絵の世界と直結しているのではないか?
と、感じたのは、香澄がマスターのことを考えていた最中だった。
何かを発展させながら考えている時、他のことを思いつくなど今までにはなかったことだ。ということは、新しく発想したことは、発展させながら考えていたことと、さほど違った考えではないということを示唆しているように思えてならない。
香澄はこの喫茶店に来たことを偶然のように思っていた。だが、何かに導かれたのだとすれば、絵の世界への発想が、妖怪少年に結びついて、さらに、何か悟らなければいけないことがあり、それが今なのだということを感じたのだ。
「マスターは時間が止まっちゃったみたいなの」
と、彼女は口走った。
「どういうことなの?」
香澄は、驚いたように彼女を見た。
「私、きっと将来、マスターと結婚することになると思うの。今のマスターが好きで好きでたまらないから……。でもね、あの人は途中で人が変わってしまったようになるのよ。それでも私はいいの。ずっとあの人のことを待っていたんだから」
彼女は、遠くを見つめるような目で呟いた。
「マスターの時間が止まったというのは?」
「私も、この前まで時間が止まった世界にいた記憶があるので分かるんだけど、時間が止まってしまうと、その間は、時間が限りなく止まって見えるのよ。でも、実際には動いているの。その狭間に、人間というのは、いつか一度は落ち込むことになると思うのね。私はすでに落ち込んだ。あなたもきっとそのうちに落ち込むと思う。でも、その世界から元に戻れる人もいれば、戻ってこれない人もいるの。彼は、ある時、時間が止まった世界に入りこんで、運悪く、戻ってこれないことになるのよ。私は、その覚悟を持った上で、マスターのことを受け入れようと思うの」
何とも潔いというべきであろうか。
ただ、彼女のいう、
――時間が止まった世界――
というのは、何であろうか? 香澄にとっては、そこに妖怪少年が絡んでいるように思えて仕方がない。自分が勝手に作り出したイメージの妖怪少年。元々は、伝えられた話にあった逸話なので、香澄だけの世界というわけではない。ただ、同じような発想をする人がどれだけいるというのだろう。偶然、同じような発想をした女性が目の前にいる。ただ、彼女を見ていて潔さはさっぱりしているように思えるはずなのに、どこかじれったさすら感じられ、苛立ちを覚えるのはなぜであろう? 香澄は自分の中にあるモヤモヤしたものの正体が、分かりかけてきていることを感じていた。
彼女の止まった時間がどれほどのものなのか、本人も気づいていないようだ。実際に泊まった時間の間に何があったのかということの方が重要なのではないかと香澄は思うようになった。
目の前の彼女が誰であるか、何となく分かってきたような気がする。
そして、顔はまったく似ていないのだが、マスターも誰なのか分かった気がした。
――では、ここにいる私は、どんな顔をしているのだろう? まったく自分の知らない顔になっているのかも知れない――
喫茶店自体が、まるで大きなタイムマシンのようだ。しかも、一緒に存在してはいけない人が、時代を隔てて存在している。
――それにしても、どうしてこの人に対して、私は感情が籠ってしまうんだろう?
今まで苛立ちしか感じなかった相手、そう、
――お母さん――
父親の厳格さに逆らうことをしない。つまり流されるだけの人だと思っていたのに、先のことをここまで分かっていて、そして、潔い。
「あなたのおかげよ」
「えっ?」
「あなたに今日、ここで会えたから、私は未来のことを予見できたような気がするの。あなたには感謝しきれないわ」
母親に感謝されるなんて、しかも、ほとんど年齢的に違わない相手である。
「私、何もしていませんけど?」
「いいのよ。あなたがいてくれるだけで、私はマスターに対しての気持ちに正直になれるの。あなたとは、これからもずっと一緒にいられるような気がするのよね。どうしてなのかしらね」
香澄は、何も言い返せなかった。
目の前にいるのは、自分の母親らしい。どうしてここで母親に、それも自分を生む前の母親に会えたのかは定かではない。
香澄は、今ここにいるのは、昔の母親が、タイムスリップでもして、ここにいるのかと思った。あるいは、本当に自分が想像している妖怪少年がいて、妖怪少年の代わりに自分が木の幹になっていたことで、年を取っていないのかも知れない。
妖怪少年と出会った時、そのまま自分の運命のままに生きている人間と、妖怪少年の代わりになって、木の幹となって、誰かが来るのを待ち続けるもう一人の自分に別れる。そして、誰かが現れて、自分が木の幹から開放された時、自分が木の幹であったことも、妖怪少年に出会ったことも、最初に妖怪少年に出会ってからの記憶をすべて失ってしまっている。
そして、意識だけは、もう一人の自分。つまり阿澄の母親の意識が、おぼろげに自分の意識のように残っている。それはまるで自分が先の自分を予見できるような気がしているのかも知れない。
香澄は、そんな世界がここでは繰り広げられているのだと思っていた。
どこを、どのように輪切りにしても、おかしな状態に違いはないのだ。それならば、最初から、
――ここはおかしな世界なんだ――
と感じることにしておいて、自分が考えていることで、一番辻褄が合うことを真実に近いと思うことが合理的な考えになるのではないかと考えた。
理屈をどうしても理解できない場合、冷静になって、客観的な目で見るしかないということは分かっているつもりだ。
だが、その中で、どうしても釈然としないことは残るものだ。すべてを納得させるなど、土台無理なことであった。
そんな中で一つ気になったのは、
――マスターが自分の父親だとすれば、父親の年齢が中途半端ではないだろうか――
ということだった。
マスターはどう見ても、三十歳前半くらいである。少し幅を持たせても、四十歳にまでは行かないだろう。特に父親が死ぬ前までを知っているだけに、明らかに四十五歳で亡くなった父親の年齢ではない。
かと言って、目の前の彼女の年齢は香澄とあまり変わらない。そう考えると、マスターの年齢は確かに中途半端だった。
――そういえば、夕方になってから、マスターを見ていないわ――
「すみません。マスターは本当にいないの?」
「ええ、今の私にはマスターを助けてあげることはできないの」
寂しそうな顔をする。
「大丈夫ですよ。きっと、あなたたちはうまく行きます」
うまくいくとはどういうことだろう?
結婚がゴールだとすればうまく行くと言えるのだろうが、結婚してから自分が生まれてからの二人は、見ていて幸せそうには見えてこない。香澄が自分の言葉に自信を失いかけていると、
「男と女ってね。一緒にいるだけでいいって思うものなのよ。相手が何を考えているのか分からなくても、言葉にしなくても、分かり合えることはあるの。私はマスターに関しては、そのことに大いに自身を持っているのよ」
と、彼女は言った。
「そうなんだ。恋って、まるで『交差点』をいかに作るかなのかも知れないわね」
「なかなか面白いことを言うわね。そうね。まさしくその通り。そして、もう一つ言えることは、その『交差点』を、どれだけお互いに共有できるかということなんでしょうね。その『交差点』は、きっとまわりの誰にも分からないものなのかも知れないわね」
と言っていた。香澄もその言葉に賛成だった。
さらに、彼女がなぜ、妖怪少年とのことを忘れてしまっているのかを考えた時、妖怪少年の存在自体が、この世ではないように思えたからだ。
では、どこの世界?
――それは、絵の中の世界ではないか――
と思った。
絵の中の世界を香澄も意識したことがあるが、母もかなり意識していたのかも知れない。絵の中の世界に引きこまれてしまい、そこで妖怪少年に出会ったことで、誰にも妖怪少年の世界を知られることはなかった。
そもそも妖怪少年など存在するのだろうか?
絵の中に閉じ込められたのは人間、そして、誰かが来るのをじっと待っていて、絵の中に引き込まれるのも人間。つまり、絵の中に今、彼女の代わりに引きこまれた人がいるということだ。
――まさかマスター?
彼女とマスターが同じ世界で存在できるのは、それぞれのもう一人の自分たちである。一度、彼女はもう一人の自分を作ってしまい、そして、その時にマスターのもう一人と結婚した。つまりは、両親のもう一人、つまり、彼女とマスターは、
――この世で同じ時間に存在できない二人なんだ――
と、感じると、マスターが、絵の中にいるという公算は非常に強い。そう思うと、マスターの年齢が中途半端だったことも頷ける。
すべてが、香澄の想像でしかない中で、一つの結論に向かっているのを感じていた。
だが、その結論に近づくにしたがって、香澄の抱いた胸騒ぎは大きくなってくる。
――考えてはいけないこと――
だったのだ。
「私、絵の中に、人の姿を見てしまったわ」
と、思わず口にしてしまった。
それを見た彼女はニヤリと笑みを浮かべたが、
「香澄ちゃん、あなたとこれでやっと本当の家族になれるのよね」
今まで嫌いだと思っていた母親だったが、ここで昔の母親の気持ちに少しでも触れることができてよかったと思っている。しかし、そのすべても、母親の不敵な笑いが打ち消してしまった。
「いやぁあ~」
香澄の声は、限りなく小さな声で消え入りそうになって響いた。
凍り付いた時間が、再度動き出した店内で、香澄は、すでにそこにはいなかった。
「マスター、おかえりなさい」
「ただいま、香澄」
そのお店は、昨日までとまったく変わらない佇まいを見せていたのだった……。
( 完 )
鏡の中の妖怪少年 森本 晃次 @kakku
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