第3話 妄想と瞑想
クラシックの音色が頭を巡っている。目を瞑って聴いているクラシック喫茶のソファーは思いのほか深かった。
――いつも暑いくらいの店内で、暗闇は反則だわ――
と感じながら、目を瞑ることで入りこむ瞑想には、この暑さが最適なのだろうか。得てして眠りに入り込みそうなところを、目を瞑ることで、逆に睡魔から遠ざかっているような気がした。
暗闇なのに、瞼の裏に写っているのは、赤い色であった。
赤い色に黒い影が残像として残っている。それは、最後に見た明るい場所での映像ではない。どちらかというと残像ではなく、実際に見えている光景を、普通に見ているかのようだった。
そこに浮かんでいる真っ赤な光景に浮かんでいる影は、何かの模様を示していた。
――ペルシャ絨毯のような感じかしら?
とはいえ、それほど綺麗な幾何学模様ではない。一見綺麗に整っているように見えるが、実際にはバラバラに点在している模様だった。
――そういえば、ペルシャ絨毯も、綺麗な幾何学模様だと思っているだけで、本当に左右対称だったりするのかも怪しいものだわ――
と感じていた。
そう思いながら瞑想をしていると、まず最初に辿り着いたのは、木の年輪のようなものが見えたことだ。
その横に、一人の女性が佇んでいる。
「私はあなたがここに来るのを待っていたんですよ」
と言って、こちらを見ている。顔には怪しい笑顔が浮かんでいたが、その顔は、
――どこかで見たような気がする――
と感じたが思い出せない。
ものすごく重要なことであるはずなのに、そのことをそれ以降考えようとはしなかった。それ以上に何か重要なことに気が付いたのだろうか?
「どうして、私を待っていたの?」
「だって、あなたがここに来るのを私は知っていたからね」
今度は笑っていない。ゾッとするような不気味な表情だ。その顔には生気が感じられない。まさか死んでいるのではないだろうか?
――だとすれば、ここは死後の世界?
その時、香澄は自分が瞑想していることに気が付いた。
――瞑想しているということは、妄想と同じなので、何でもありなんだわ――
と感じた。
しかし、何でもありだと思っていることよりも、自分の思考能力がマヒしていることの方が気になっていた。
何でもありだと思っていると、それが夢の中での瞑想だと分かっているはずなので、それほど不安があるとは考えにくいが、その時の香澄は、何とも言えない恐怖に駆られていた。
瞑想は妄想と違って、
――自分の中で繰り広げられる限定的な世界――
香澄は瞑想について、そう思っていた。
それだけに怖さはあまりなく、広がっていく思いに対しても、自分の感覚によるものなので、
――何でもありで当然なんだわ――
とさえ思っていた。
だが、妄想の場合は違う。妄想の中で他に誰かが出てくるのであれば、その人が誰であるかということも大切であるし、その人が自分とどのような関係であるかということは、もっと重要になってくる。
そういう意味では、夢の中の世界は瞑想ではなく、妄想だと言えるであろう。妄想と瞑想の一番の違いは、
――瞑想は自分の発想の範囲内での出来事で、妄想は自分の発想からはみ出した部分が多大に存在する――
ということである。
夢は、自分の中にある潜在意識が見せるものだというが、実際に自分の発想の域を超えていることが多い。どちらかというと瞑想よりも現実に近いと言った方がいいのかも知れない。
もちろん、それは見る角度によって違ってくるものだが、そのことを香澄は分かるようになってきた。
香澄が今までに見た夢で一番怖かったのは、
――もう一人の自分――
が出てくる夢だった。
それを思い出した香澄はクラシック喫茶の中で音楽を聴きながら瞑想していて、木の年輪の横にいて自分に声を掛けてきたのが誰だったのか思い出すことができた。
――覚えていたくないほどの恐ろしさを感じたことで、無理にでも忘れようとしていたんだわ――
と感じた。
そう、その時自分を待っていたのは、
――もう一人の自分――
だったのだ。
もう一人の自分はあたかも他人のように話しかけてくる。香澄もその相手を見たことがあると思いながらも思い出せなかったのは、
――恐怖を感じたくない――
という無意識な思いと、
――そんなバカなことはない――
という、もう一人の自分という存在を否定したいという気持ちの表れだったからだ。
香澄は、その時に感じた思いを今でも覚えているのだろうが、記憶の奥に封印していた。封印というのは、
――決して思い出してはいけないこと――
という風に思われがちだが、そこまで雁字搦めなものではないはずだ。
もし、思い出さなければならないことがあった時、何かの弾みでもいいので、封印が解けるようにしておかないといけないからだ。
――本当にそれだけだろうか?
香澄は、クラシック喫茶で感じたことを、再度思い返していた。
しかし、一つ不思議だったのは、クラシック喫茶には何度となく足を踏み入れている。そして、かなりの確率で、瞑想を繰り返していた。そのすべてが瞑想だとは言わないまでも、妄想の時もあっただろうし、少なくとも、クラシック喫茶には、目的意識をハッキリと持って行っていたのは事実だった。
クラシック喫茶の中で、
――瞑想しているのは、本当に自分なのだろうか?
と感じるようになっていた。
それは、瞑想の中で、もう一人の自分の存在を感じたからである。
――私がいるんだ――
それはもう一人の自分であるのは確かなのだが、それが本当に、「もう一人」の自分なのかということに疑問があった。
今、考えている自分は確かに表の自分である。しかし、もう一人の自分もどこかで誰かが考えていることになる。自分はその人が本当にいて、何かを考えているという意識がないから、自分が他にいても、その人のことを
――もう一人の自分だ――
と言いきっているが、もう一人の自分も同じことを考えているすれば、本当の自分は一体どちらだというのだろう。
――どっちも本当の自分?
身体は一つしかないので、共存はできないが、ひょっとすると、一つの身体を巡って二人が入れ替わっているのかも知れない。
そんな発想は、瞑想の中ではできない。瞑想というよりも、妄想の世界だった。
しかし得てして、そんなことを思うのは妄想している時以外にはないのだ。逆の発想でいけば、
――瞑想と、妄想、本当に二種類が存在するのだろうか?
というものであった。
別に、切り分ける必要がどこにあるというのだろうが? 自分の内にある発想であっても、果てしない発想があってもいいのではないか?
ただ、妄想と瞑想の融合は、大きな危険を孕んでいるとも言える。それぞれ単独であるからこそ成立する発想なのに、それを一つにしてしまうと、
――一足す一が二ではなく、三にも四にもなる――
ということになる。
――歯止めが利かなくなることを思えば、それぞれで存在している方が無難ではないだろうか?
と思えてくる。
瞑想と妄想の違いは、覚める時にも感じられる。
妄想から抜ける時は、自分の意志ではできない。しかし、抜ける時の前兆は感じることができる。
瞑想から抜ける時は、妄想と違って、自分の意志でしか抜けることができない。ただ、この時も妄想と同じように、前兆を伴うもので、前兆を意識するからこそ、抜けることができるとも言える。
瞑想と妄想、どちらにも言える共通している部分は、
――前兆をともなう――
というところだった。
どちらもワンステップ必要とする。香澄は、その時に、
――もう一人の自分というのが必要なんだ――
と感じた。かなり乱暴な発想であるが、間違っているとは思えない。つまりは、もう一人の自分を感じるということは、前兆を感じるということであり、もう一人の自分の存在を怖がっているということは、前兆を感じるのを怖がっていることになる。本人に前兆という意識すらないので、
――もう一人の自分の存在が一番怖い――
という発想までしか浮かんでこない。
香澄はもう一つ大切なことを感じていた。
瞑想と妄想の違いは、
――妄想は、未来を予見しているとは思えないが、瞑想は未来を予見しているような気がする――
という発想だった。
妄想の基本は、自分のことをすべてもう一人の自分として意識してしまうことに対し、瞑想は自分の内に入っての発想だからである。
――自分のことなら、未来のことであっても、想像できて不思議はない――
という発想だった。
もう一人の自分が存在しているということを意識していると、
――二重人格ということなのかしら?
という発想を抱いてしまう。
まわりの人から二重人格だということを言われたことはなかった。もちろん、自分の意識として、二重人格だという思いはない。
二重人格というのは、自分で意識するのは難しい場合がある。もし、自分の中にもう一人の自分がいるとしても、表に出ることができるのは、どちらかだということだ。
――ひょっとして、もう一人の自分が本当の自分なのかも知れない――
そんな発想をしたこともあったが、それは夢の中でもう一人の自分を意識したからである。
クラシック喫茶で、もう一人の自分を感じた時の話にはまだ続きがあった。
続きがあったことを意識してはいたが、どんな話だったのか、思い出そうとしても思い出せなかったからである。
しかし、今の香澄には思い出すことができる。
――きっと、子供の頃に見た妖怪もののアニメの印象が強く残っていたからなのかも知れない――
アニメの内容とかぶってしまったので、どちらが記憶の中のことなのかハッキリとしないところまで封印された記憶だったが、あれは確か、足が木の幹と化していた子供の話だったように思う。
自分はその時子供になっていた。それは自分が子供でなければ、そんな状況を信じられないと感じることで、見えているにも関わらず、見えない状況になっていたのかも知れないと思ったからだ。子供であれば、理解できないまでも、目の前に広がった光景を受け入れようとするはずである。そのことを自分の中で意識していることで、シチュエーションに合うのは子供でしかありえないと感じたからである。
「やっと来てくれたんだね?」
その子は男の子で、目はクリッとしていて、口元は耳の近くまで裂けていた。いかにも妖怪変化と言われて想像できる範囲の顔立ちであった。
妖怪の顔は、安堵していたように思う。人間の形相ではないので、どんな表情をしようとも、その精神状態は、表情から想像することはできない。できるとすれば、状況判断でしかないのだ。
状況判断といっても、いきなり目の前に出てきた妖怪が一言声を掛けてきただけである。それなのに安堵していたかのように思えたのはなぜだろう?
「来てくれたって、どういうことなの?」
「僕はずっとここで一人でいたんだ。ここから動くこともできずに、寂しかった。ここに誰かが来るということはないからね」
「でも……」
言葉を発しかけて止めてしまった。本当は、
「もう一人の私がいたじゃないの」
と言おうとして、やめたのだ。
彼が、ここには誰もいなかったというのだから、もう一人の自分を見かけたのは、自分の錯覚だったのかも知れないと思ったのだ。
そもそもこの世界こそが幻の中にあるイリュージョンだと言えるのではないだろうか。香澄が想像したそのままの世界。ちょっとした発想の違いで、まったく違った世界が作り上げられる。そんな世界のことを、目の前の妖怪に聞いたとして、返ってきた答えにどんな信憑性があるというのだろう。
少年は、香澄が言いかけた言葉をどう思ったのか、その言葉には触れようとはしなかった。
「君は、僕のことを怖がっている様子はないね」
少年には、香澄の考えていることが少しは分かるようだ。本人がそれをどこまで分かっていると思っているのか、そして実際にどこまで分かっているのか、香澄には想像もつかなかった。
「そうね、怖いという感じはないかも知れないわ。それよりも、寂しさがどこから来るのかの方に興味があるみたい」
香澄は、子供になっているはずである。しかし、話をしている自分は、まるで大人になった自分を想像しているかのように言葉が出てくる。
少年は、そのことに疑問は感じていない。至極当然だという顔をしている。その表情を見ると、急に歯がゆくなってきたのが不思議に思えた。
子供の自分が、大人のような表現をする。それは、大学時代の今の自分ではなかった。明らかに違う自分であった。
――これって、二重人格のもう一人の私?
と思ったが、どうもそうではないようだ。
――過去に戻った自分が、違う可能性の延長線上で成長した場合の自分を見ているのかも知れない――
と、感じた。
それは、パラレルワールドの発想で、自分が瞑想している中では、二重人格というよりも、よほど信憑性の高い発想に感じた。そして、もう一つ感じたことは、
――自分が感じているイリュージョンは、未来を見ることができるものなのかも知れない――
というものだった。
そこまで考えると、少年が現れたことと、そして少年がこれから何を企んでいるかということが手に取るように分かった。
――この子の口車に乗って手を繋いでしまったら、私は彼と入れ替わって、ここにずっといることになるんだわ――
それは、いつ誰が来るか分からない時間を果てしなく待たなければいけないということを意味している。
そして、この場合の本当の恐ろしさが何なのか、ハッキリと分かった。
――ここでは、年を取らないんだ――
つまりは、誰かがここに来てから入れ替わるまで、自分は年も取らずに、当然死ぬこともできず、動けないまま、孤独と焦りで気が狂わんばかりになるに違いないのだ。この少年がどのようにしてその苦痛を乗り越えたのか分からないが、逃げることができないことが確定しているだけに、香澄は年を取らないということがどういうことなのかというのを想像し、身体が凍り付くのを感じた。
少年は、その表情を見て、今度は無表情になった。何を考えているのか、まったく分からない。
香澄は恐怖がどんどん膨らんでくるのを感じた。
それは、自分の意志が、本当にこの世界で優先されるのかが分からなくなったからだ。夢の世界でもそうなのだが、自分の考えていることや、行動を起こそうと思ったことが本当に実を結ぶかどうか疑問だった。
いつもの世界では、当たり前のこととして考えるまでもないことを一つ一つ考えなければいけない世界。それが直接の恐怖に繋がってくるのだった。
――心臓の動きだって、いちいち気にしなければいけないような世界が存在するなんて想像もしていなかった――
もし、意識が薄れて、一度でも心臓の動きが止まってしまったらどうなってしまうかを考えると、額から汗が滲んでくるのを感じた。
さらに恐ろしいのは、
――どこまで綿密に考えたとしても、必ずどこかが漏れてしまうような気がする――
と考えることで、自分が信じられなくなることであった。
――どこまで行っても、底なし沼のように先が見えないことほど、恐ろしいことはない――
それが、香澄の恐怖の正体だった。
そしてもう一つ言えることは、
――恐怖は、見えないことではなく、見えているところに潜んでいる――
ということであった。
それは、見えているところと見えないところの境界線を意識するということであり、見えない部分をいくら見ようとしても、見えてくるはずもない。見えないことの方が恐怖を孕んでいるように思えるが、見えないところはどうしても、想像の域を出ないのだ。
それは未来にも言えることだ。
未来は見えているわけではないので、本当の恐怖ではない。妄想にしても瞑想にしても、未来のことを想像するのは、比較的難しいことではなかった。比較対象がないのだから、いくらでも想像できるからだ。
しかし、同じ時代、今この瞬間のことを、別の世界であるかのように想像することは、結構難しい。それは、どうしても今と比較してしまうからだ。見えていることだけに、下手な想像をしてしまうと、恐怖を伴うことを分かっている。
恐怖は、「死」という発想と背中合わせにあるような気がしてきた。
――絶対的な恐怖、それは「死」である――
と言えないだろうか。
ただ、香澄が思い出したクラシック喫茶での、妖怪少年に出会ったという妄想、あれは「死」という絶対的な恐怖を超越したものであった。
あの話で少年は、死ぬこともできず、一人寂しく次の誰かが来るのを待っていた。その寂しさというのは、想像を絶するものであっただろう。何しろ年を取らないのだから、死ぬことができないというのは、確定していたからだ。
つまりは、「死」という見えない恐怖ではなく、
――死ぬことも許されず、誰かが来るまで永遠に続く寂しさ――
が、見えている恐怖の正体だった。
それは、ある意味、
――死と紙一重――
とも言えないであろうか?
「生」と「死」は背中合わせであって、生でなければ死であり、死でなければ生である。だから、死だけが絶対的な恐怖だとすれば、生に恐怖はないことになるが、そんなわけはない。
生き続けることの方が、死ぬことよりも辛いこともあるだろう。それは、永遠の寂しさが確定している少年の場合だけに限ったわけではない。生き続ける以上、一人寂しさを味わうのも恐怖の一つだが、人との関わりで恐怖がないわけではない。
――人は平気で他人を裏切ったり、そのつもりはなくとも、知らず知らず人を追いつめることもある――
考え始めると、果てしないところまで持って行かれそうな気がする。一つ考えをネガティブに持って行ってしまうと、そこから先は底なし沼、香澄は自分の発想が恐ろしくてたまらなくなったのだ。
香澄は、少年に出会う前に、一度もう一人の自分を見かけている。
少年との出会いがセンセーショナルだっただけに、もう一人の自分の存在が薄れてしまっていた。
香澄は、そこにいたのが未来の自分であることを予感していた。なぜなら、その後に出会った少年が、
「僕はこの場所に数十年佇んでいる」
と言っていたからだ。
香澄はその時に無意識に感じていたことを自分で認めたくないことだと思うことで、否定的な考え方になっていた。それだけに少年に対して恐怖を感じながら、感覚がマヒしてしまっていることで、必要以上に考えないようにしていた。
しかし、少年だけを見ているのではなく、もう一人の自分と最初に出会ったという思いとを結びつけると、もう一つの不思議な発想が生まれてきた。
そう、それが未来の自分が、もう一人の自分であるという発想である。
少年はそこで十数年佇んでいると言っていた。
そして、自分は年を取ることもなく、死ぬこともできず、誰かが通りかかって自分と入れ替わってくれない限り、その場所から抜けることはできないということを分かっているのだ。
ということは、少年は十数年前にここに来て、その場所にいた人と入れ替わったということになる。
その人は年を取ることもなく、どれほどの月日が掛かったのか分からないが、少年が現れるのを、一日一日を待ち続けたはずだ。
もっとも、年を取ることもなく、まったく変化のない、人も通りかからない場所で時間の感覚などあるというのだろうか?
香澄は気になったので聞いてみた。
「ここでは、一日一日の感覚ってあるの?」
「そんなものはないさ。陽が昇るわけでも陽が沈むわけでもない。おかげで僕は眠ることもできず、一体今がいつの時代なのかも分からない。もっとも年を取らないのだから、時間の感覚なんてあったとしても、それは絵に描いた餅なんだ」
「でも、あなたは、数十年ここにいたって言いきったわ」
「その通りなんだ。君がここに現れるまでは、正直、時間の感覚などまったくなかった。正確に言えば、君が現れるまではというよりも、その少し前から何だけどね」
「どういうこと?」
「どんなに長いトンネルだって、出口というものはあるもので、出口が近づいてくると、微かな光が差し込んでくるだろう? それと同じさ。君がここに来ることは、僕は数日前から分かっていた。いわゆる前兆のようなものを感じたとでもいうのかな?」
少年は笑いながら話していたが、話し方はもはや少年ではなかった。香澄よりも年が上の男性であり、酸いも甘いも知り尽くしているような感じで、
――この人には逆らえない――
と思わせた。
――私と出会ったことで、今まで取ることのなかった年を一気に取って、本来の年齢に到達したんだわ――
と感じた。
しかし、その年齢に達しているにも関わらず、少年の顔は、やはり少年のままで変わっているわけではない。
――どうしてなのかしら?
香澄はそう感じたが、それ以降、思考回路が次第にマヒしてくるのを感じた。そして、一つのことだけしか考えられないようになってきた。
――危険だわ――
その一つのこととは、
――私は、この少年の代わりに、ここで永遠に続く寂しさを味合わなければいけないんだわ――
ということだった。
ただ、そこで引っかかったのは、少年に出会う前に、もう一人の自分と思しき自分に出会ったことだ。
顔は変わっていなかったが、なぜかもう一人の自分は、未来の自分のように思えた。
未来の自分だと分かったから、少年のことが手に取るように分かったのか、それとも少年のことが分かったから、最初に会ったもう一人の自分が、未来の自分であるということに気付いたのか、その順番はハッキリとは分からなかった、しかし、その二つが密接に結びついたことで、その時の瞑想は一つの形を作り上げた。
――普段なら、こんなこと信じられるはずなどない――
と思うことを、自然に受け止めている自分にビックリしている。
そして、さらにビックリしているのは、
――なぜ、今頃になって、クラシック喫茶で感じた瞑想を、思い出したりなどしたのだろう?
という思いであった。
瞑想は夢と同じで、覚めてくると、完全に忘れていくものだ。
――やはり忘れていくわけではなく、記憶の奥に封印されていて、何かあれば思い出すことができるものなのかも知れない――
と、以前から感じていたことを再度感じた。
しかし、いくら瞑想とはいえ、思い出したいことと思い出したくないことが存在するはずである。
少なくとも、この瞑想は思い出したくない瞑想の一つだったに違いない。それなのに、どうして、しかも、このタイミングで思い出してしまったのか、香澄には理解できることではなかった。
思い出したことをいかに自分に納得させるかが、思い出した内容が、その時に想像した内容に間違いがないかということであるが、到底思い出した内容が納得できるものではないことは分かっていた。
しかし、思い出した内容が想像していた内容ではないという確証はどこにもない。それは思い出した内容がリアルであり、最初にもう一人の自分を見ているということが、話の辻褄が合ってしまったことで、あの時に瞑想した内容であることの確証だと思えるのだった。
香澄は、一日のうちに同じ喫茶店に立ち寄ることは稀だった。大学の頃であれば、クラシック喫茶に一日に数回行くこともあったりしたこともあったが、それも馴染みの店だからである。
いくら他に店がないとはいえ、初めて入った店に、数時間後もう一度訪れるということはなかった。
別に自分の中でタブーだと思っていたわけではない。ただ、その機会がなかっただけである。しかし、同じ店に立ち寄る前には感じなかった胸騒ぎのようなものが、店に入ってから感じたのは、気のせいではないような気がする。
その胸騒ぎは、最初に立ち寄った時に、絵を見ていたからである。二度目に立ち寄ったことで、最初に来た数時間前の意識が次第に遠のいてくるのを感じていた。
それはまるで夢から覚めていく時に、夢の内容を忘れていくかのようであり、
――忘れたくない――
という思いもあったが、それほど強いものではなかった。
――運命には逆らえない――
という思いがあり、その運命とは、二度目に入った喫茶店での、彼女との出会いのように思えた。
彼女が香澄にどのような影響を与えることになるのか、最初はまったく想像もつかないことだった。
それでも、店に入ってすぐなのに、ここまで過去に封印した記憶を鮮明に思い出すことができた。やはり、そこには何かが存在していると考える方が、自然なのではないだろうか。
「それにしても不思議ですね。私はずっとこのカウンターのこちら側にいたのに、あなたに気付かなかったわけもないですからね。あなたはどちらに座っておられたんですか?」
香澄がいろいろなことを思い出している間、彼女は何も言わなかったのか、気が付けば、彼女から質問を受けていた。
「私は、あの時も今と同じ、カウンター席の一番奥に座っていたんですよ」
というと、彼女はますます不思議そうな顔をして、
「そこの席には違うお客さんが座っていましたよ。初めてのお客さんでしたけども、男性のお客様で、ただ、ちょっと様子がおかしかったですけどね」
「どんな風におかしかったんですか?」
「帽子を脱ごうとはしなかったですね。目はハッキリ見えなかったんですが、口元が結構広がっていて、気持ち悪い感じでしたね」
「お話、されたんですか?」
「いえ、話はしていません。服もコートのようなものを羽織っていて……、あ、そうだ。かなり背が低かったのを覚えています。まだ子供じゃないかって思うくらいの人でしたね」
香澄は、自分がたった今思い出していたクラシック喫茶で感じていた妄想を、彼女がここで、しかも、自分がいたのと同じ時間に見たというのは、ただの偶然に思えない。彼女が見たという、その子供のような客のいで立ちは、香澄が想像していたのと同じ少年ではないか。
――一体、どういうことなのかしら?
そう思って、今度は店内を見渡してみた。
すると、また不思議な光景を目にした。
「あそこに飾っている絵」
香澄は指を差すと、
「ああ、あの絵ですね。あれは、私が以前にこの店の前から描いたんですよ。私がまだ学生の頃、美術部にいたので、その時にここで絵を描いていて、それを見たマスターから、この店でアルバイトをするように勧めてくれたんですよ」
「え? あれはあなたが描いたんですか?」
「ええ、鉛筆と画用紙を使ってね」
そう、彼女の言う通り、そこに飾られていた絵は、鉛筆画のデッサンだった。
「あの絵は、ずっとあそこに?」
「ええ、マスターは私の絵だけを飾ってくれているんですよ。常連さんの中には私の絵を気に入ってくださる方もいて、おかげで私も楽しくアルバイトができます。私はあまり会話が得意ではないので、絵の話題に触れていただけると、いくらでもお話ができる気がしてくるんです」
そう言いながら、結構彼女は饒舌だった。店でお客を相手にしているうちに、本人も知らず知らずのうちに饒舌になってきたのであろう。
「私は、さっきまで結構いろいろなことを考えていたんだけど、会話と会話の間で、かなりの間があったんじゃないですか?」
と聞いてみると、彼女は少し訝しそうな表情になり、
「そんなことはないですよ。私は少なくとも、そんなに間が合ったような気はしていませんね」
と今度は平気な顔でそう言った。
――どういうことなのだろう?
また、香澄の頭はフル回転していた。
やはり、凍ってしまった時間というのはあるのだろうか?
香澄が自分にとって普通に動いていると思っている時間、まわりは、まるで時間が止まってしまったかのように凍り付いていて、ただ、本当に凍り付いているわけではなく、ゆっくりゆっくりと時間が経過しているだけなのだ。
それに気付いていないほど、香澄は自分の世界の中に入りこんでいて、
――私に時間が合わせてくれているようだわ――
と、まるで、自分が時間を無意識に操れるのではないかと思えるほどであった。
そう思っていると、
――今回が初めてではなく、今までにも同じようなことがあったのかも知れない――
と感じた。そういえば、時間が凍ってしまったという意識も残っているし、時々まわりが一切気にならないほど集中して考えていることがたびたびあった気がする。それを思うと、今日のことは、不思議でも何でもないことなのかも知れない。
要するに、今までもあったことに対して、初めて意識を持ったということにすぎないだけなのだろう。
そんなことを考えているということは、それだけ自分の感覚がマヒしてきていることになるのかも知れない。そのことを意識しないでいると、何でも信じられるように思えてくるから不思議だった。
自分の勝手な解釈が、今なら何でも自分を納得させられると思う。そんな時期が生きているうちには何度かあるのかも知れない。
香澄は、本当に昼間と同じ店に来たのだろうか?
店の雰囲気はまったく同じでも、そこにいる人は違っている。しかも、壁に掛かっている絵も違っている。
しかし、絵が掛かっていることも、掛かっている場所も同じだというのも、ただの偶然として考えていいのだろうか?
いや、店の雰囲気が同じであれば、おのずと絵を飾るなら、その場所もある程度決まってくるのではないだろうか。そう考えると、不思議でもない部分もあるにはあるが、店を表から見て描いているという描写も、デッサンと油絵の違いがあるだけで、同じ発想になっているのも偶然だと言えるのだろうか?
よく考えてみると、どこか香澄の都合のいい発想が生み出した幻想にも思えてくる。夢を見るとすれば、こういう夢になるのではないかと思えるような内容だ。
「私は、お客さんと初めてお目に掛かったような気がしないんですよ」
彼女は、そう言って香澄の顔を覗きこんだ。
「でも、初めて私がこの店に来たと最初に思ったんでしょう?」
「ええ、そうなんです。でも、このお店で会ったような気がしてきたんですけど、それもおかしな話ですよね」
「いつのことだったのかしらね。でも、他人の空似って結構あるのかも知れないわ」
「そうかも知れません。そういえば、お客さんは、あそこに飾ってある絵を一生懸命に見ていましたけど、何か気になったんですか?」
さっき、彼女が自分で描いたと言っていた絵である。
「ええ、あそこにある絵なんだけど、私が昼間に来た時は、あの絵は油絵だったような気がするんです。しかも描写は同じ、この店を表から見たのを描いた絵だったんですけどね」
彼女は、少し考えているようだったが、
「確かに、あそこには以前油絵が飾ってありました。マスターが描いた絵なんですが、数か月前から、私の絵を飾ってくれるようになったんです。一度試しに飾ってみようってマスターが言ってくれて飾ってみると、常連の人が私の絵を気に入ってくださって、それからこの絵をここに飾るようになったんです」
「確かに油絵もよかったんですが、私もこの店なら、油絵よりもデッサンの方がいいような気がしてきました」
「さっき、以前に遭ったことがあったような気がすると言ったのは、まだこの店にマスターが描いた油絵が飾られていた時だったと思います。あの時も、その人は今のように絵の話に触れたような気がするんです」
「じゃあ、その人とお話をされたんですか?」
「ええ、少しの間だったんですけど、したような気がします。話の内容については詳しく覚えているわけではないんですが、絵の話以外にもしたような気がするんですが、正直、思い出すことはできません」
彼女の話を聞いているうちに、香澄はおかしな感覚になっていた。
それは、自分が絵の中に入りこんでいて、絵の中から、表を見ているような感覚であった。
それはさっき、クラシック喫茶のことを思い出しながら妄想していた鏡の中の世界のイメージがよみがえってきたからだ。
しかも、絵の中に入りこんだ自分が見上げているのを、絵の向こうから見ている人は気付いていないようだ。
――絵の向こう側から見ている人、それは私ではないか――
香澄は、絵の中から空を見上げながら、自分が表から絵を見ている感覚になっている。
絵を表から見ている自分はもちろん、絵の中に誰かがいるなど気付いていない。まったく違う時間を、同じシチュエーションの双方向から見ているという、普通、想像することなど不可能なことを、いくつも重ねて感じているような気がしていた。
香澄は、彼女が自分と話をしたというのを聞くと、
――私なら、どんな話をするだろう?
と、思った。
今目の前にしている相手なのに、どこか違った人を相手にしているような気がしたのだ。しかも、さらに不思議なことに、その時の自分も、今の自分ではないような気がしていた。確かに、場面が違ったり、その時の感情によって、違う人のように感じることもあるだろう。それが、ほとんど知らない相手であればなおのこと、同じ人間であっても、まったく違った人のように思えても仕方がないのかも知れない。
それだけに、彼女が香澄と話したという意識を持っているというのは、不思議な感じだ。その時に感じた相手と今の香澄とでは、きっと違った感覚を持っていたに違いない。ここ数か月だけでも、香澄は考え方が変わってきた。半年前に自分が何を考えていたのかを思い出すことも難しいほどだった。
この半年間で一番何が変わったかというと、半年前の香澄は、その少し前に失恋したことで、かなり落ち込んでいた。いつどのようにして立ち直ったのか自分でもハッキリと分からないほど、気が付けば、何も感じなくなっていた。
――そういえば、彼と別れた時に立ち寄った喫茶店、あの店は初めて入った店だったわ――
普段から二人で行っていた喫茶店で別れ話をするのは辛かった。元々別れというのも、相手からの一方的な言い分で、
「別に好きな人ができた」
というものだった。
最初は、承服できなかったが、次第に自分一人がもがいていることを知ると、急に力が抜けてきて、何も考えられない時期がやってきた気がしていた。
――その時も、確かクラシック喫茶のことを思い出したっけ――
何かあると、思い出すのはクラシック喫茶のようだ。なぜいつもその場所を思い出すのか分からなかったが、どうやら、その時に感じた妖怪少年のイメージが頭の中に残っているからだとしか思えなかった。
妖怪少年を思い出しながら、最初に感じた時期は違っていたはずなのに、さらに発想を巡らせると、そこにあるのは、左右対称のイメージであり、鏡を前後に置いた時に見える「無限ループ」の発想だったりした。
彼と別れた時のことを思い出すと、彼が言った
「別に好きな人ができた」
という言葉を本当に信じてもいいのだろうかと感じていた。
その後、彼のことを気にしないようにしていたので、彼がどうなったのか分からないが、最初こそ、
――意地でも彼のことを忘れてやる――
と思っていたが、本当にそれでいいのか自分でも分からなかった。次第に本当の理由が知りたくなったのも事実で、自分の中でどうしていいのか暗中模索していた。
だが、最終的には、彼を気にしないようにしようと心に決めた。その決心をつけるため、香澄は、
――余計なことは考えないようにしよう――
と思うようになっていた。
――自分は自分、他人は他人――
かなり冷静な考え方に変わっていったのだ。
だが、それは変わって行ったというよりも、元々の香澄の性格に戻ってきたといってもよかった。そういう意味では、自分の性格が分かってきたということでも、
――失恋してよかったのかも知れないわ――
と思うと同時に、当分、彼氏がほしいと思わないだろうと感じていた。
ただ、香澄は、それほど潔いという性格ではない。未練がましいというわけでもないような気がするが、
――こんなに悟ったような性格だったのかしら?
と思うようになると、寂しさという言葉と自分が無縁ではないかと思うようになっていった。
――寂しさとは無縁?
何が寂しいと言って、思い出すのは、妖怪少年のことだった。足は根っこに変わってしまい、動くこともできず、誰にも知られない場所でひっそりと誰かが来るのを、永遠に待ち続ける……。そんな想像を絶するような寂しさをイメージできた自分が、恐ろしく感じられた。
――よく、こんな内容を子供番組であるアニメで放送できたものだわ――
と感じたが、逆にこのことを、ここまで考えるような人はいないだろうという思いがあったからこそ、子供番組として放送したのかも知れない。
ということは、このイメージが頭に残り、まるでトラウマのようになってしまったのは香澄だけということになる。いくら同じものを見ても、感じ方がそれぞれだと言いながら、ここまでインパクトが強く感じたのに、それが自分だけだというのは、香澄の中で納得できることではなかった。
失恋した時の香澄は、開き直りを感じていた。下手な言い訳をされたことは香澄にとって屈辱的なことだったが、開き直らない限り、屈辱を払拭できないと思ったからだ。
香澄は、半年前の自分を思い出していた。なかなか思い出せないでいたが、思い出してみると、今度は喫茶店の雰囲気が少し変わってきたように思えてきた。
――何が変わったのだろう?
と思って、店内を見ていると、さっきまで彼女の描いたデッサンだった壁の絵が、油絵に戻っているのに気が付いた。
すると、店内にいた客もさっきまでとは違って見えてきて、カウンターにいたはずの彼女もいなくなっていた。
店の中の雰囲気が、凍り付いたように誰も動く気配を見せなかった。さっきまで聞こえていたBGMも耳に入らなくなっていて、時間が止まってしまったかのようだった。
――限りなく止まって見えるほど、時間がゆっくり流れているんだわ――
と感じた。
香澄は、まわりの凍り付いた空気に惑わされることなく立ち上がると、絵が掛かっている下から、絵を見上げた。
――何かが違う――
最初に見た時に感じた絵とどこかが違っていると最初に思ったが、実はこの瞬間でも、少しずつ絵の中が違って見えていた。
そのことに気付いたのは、まわりの空気が凍り付いていたからだ。もし、その時、まわりが普通に喧騒とした雰囲気であれば、絵の中を直視していたとしても、漠然としてしか見えていなかったに違いない。それは最初から、
――どこかが違う――
と思って見たからだろう。何かが違うというよりも、どこかが違うと感じた時、まず最初に目が行く場所が違っていたに違いない。最初に目が行く場所によって、気付く場合もあれば、気付かない場合もある。香澄が最初に目が行った場所、そこに違和感を感じたのだった。
――何かが動いた――
まわりが動いていないことで、初めて感じた絵の中の動き、ひょっとしてその時、時間が止まったように感じられたのは、
――絵の中の異変に気付かせるためなのではないか?
と言えないだろうか。そう思うと、香澄はさらに絵の中に集中している自分がいることに気付かされた。
動いたように見えたのは、最初に見た時にはなかったものが、次に見た時、見つかったからだ。
そこには、遠くからこちらを見ながら絵を描いている人が見えた。その人は帽子を目深にかぶり、表情は分からないが、こちらに背を向けたキャンバスに向かって、絵を描いている。
絵を描いたのはマスターだということなので、こちらに向かって絵を描いているのは、彼女であろうか? しかし、描かれているのはキャンバスであり、画用紙ではない。しかも絵筆を手に持って描いているところを見ると、描いているのは少なくともデッサンではない。
――もう一人、私の知らない誰かが、この世界にいるんだわ――
と感じた。
絵の中で絵を描いている人は、当然のことながら、微動だにしなかった。しかし、こちらに背を向けている絵は、着実に完成されていっているのではないかと思えてならなかった。
――いつかは絵が完成し、完成した時には、その人と絵は、この絵の世界から外に出ているのではないか?
と思えてならなかった。
そう思うと、微動だにしないように見えている人も、絵の中の世界で、自由に動いているように思えた。感じた違和感は、絵の中での動きを感じるからだった。
ただ、絵の中の世界は、しょせん限られた世界であり、動ける範囲は、絵の中に限られている。それはまるで、足が木の幹になっていた妖怪少年のようではないか。
「誰か早く来てよ。僕は表の世界に出たいんだ」
とでも、言っているのだろうか。見ている限りでは、絵の中から感情は見受けられない。絵の中にいる人は、気配も感情も表に出てくることはないに違いない。絵の中に最初から写っていたとしても、よほど気にして見ていないと、その存在に気付かないかも知れない。それはまるで「路傍の石」のようであり、気付かれないことがいい場合もあるのだろうが、この場合は、誰も気づかなければ、永遠に絵の中から出ることができない妖怪少年になってしまう。
香澄は、自分が絵の中にいるような錯覚を覚えた。絵の中にいる人間を見つけなければ、そんな錯覚は起きなかったかも知れない。
――錯覚を起こすために、絵の中に誰かを見つけてしまったのかしら?
と、逆の発想をしてしまったが、えてして不思議なことが起こった時に自分を納得させるためには、逆の発想をしてみるのも大切なことなのかも知れない。
それにしても、ここまで絵の中にいる感覚を持っているというのは、本当に絵の中から表を見るという発想をしたことがあったかのようだ。もしあったのだとすれば、それはいつ頃のことだったのか、過去を思い出してみた。
すると不思議なことに、思い出そうとすればするほど、この店に来たのは初めてではないという思いがよみがえってくる。しかも、以前から常連だったのではないかという思いさえ生まれてきた。香澄が今まで常連になっていた喫茶店というと、大学時代に通っていたクラシック喫茶くらいであった。しかもクラシック喫茶では、いつもヘッドホンをしていて、曲を聴くのをメインにしていた。普通の喫茶店の常連とは、少し趣きが違っていたのだ。
クラシック喫茶にいる時は、一人ヘッドホンを耳に当て、流れてくる曲を聴きながら瞑想に入るというパターンだった。瞑想はその時々で違っていたが、途中から一つだったような気がする。それは、一つの妄想を繰り返し抱いているわけではなく、一つの大きなストーリーを何度かに分けて続きを見る形だった。
――次回には、その妄想も終わるかも?
と思いながら、次回を迎えると、終わるどころか、どんどん思いが深いところまで行っていて、妄想は膨らむ一方だった。
――妄想の、大スペクタクルは、どこまで自分を納得させようというのだろうか?
次回から、さらに次回へと妄想は続いていくが、一度の妄想の終わりには、ちゃんと自分を納得させることができていた。もし、そうでなければ、妄想は終わることなく、ずっと続いていただろう。しかも、納得できなければ、夢のようにちょうどいいところで終わってしまい、次回、その続きを見れるという保証は、どこにもなかった。
――いや、むしろ、その続きを見ることはできない――
まるで夢を見ているかのようであり、その方が発想としては自然だった。
寝ている時に見る夢で、ちょうどいい時に目を覚ましてしまった時は、自分を納得させられていない証拠ではないだろうか。
だが、自分を納得させると言って、何をどのように納得させているというのだろうか?
自分の中で、
――納得した――
と感じるのは、妄想の続きを見ることができるからであって、納得していることを自分で理解しているからではなかった。
もっとも、妄想している時にそんなことを考えることができるわけではない。妄想から目が覚めていくにつれ、不安となって自分の中に残っていく。しかし、完全に目が覚めてしまうと、
――自分を納得させている――
という思いだけが残ってしまい、不安は払拭されている。そんな自分は、妄想から覚めてくるにしたがってなぜ不安になるのか、分かっていたような気がする。
――絵の世界から、本当に抜けることができるのかしら?
と、感じたことがあった。
それは、妄想するということは、自分が絵の世界の中に入りこんでいて、そこから抜けることができなくなってしまったことを感じているからではないだろうか。絵の世界を意識するようになって、
――妄想は、自分を納得させるために見るものだ――
という考えが、頭の中に残るようになっていた。妄想自体は残っているわけではなく、自分を納得させたことが頭の中に残っている。だからこそ、
――夢とは明らかに違っている――
と、感じさせるのだった。
――夢は潜在意識が見せるものであって、妄想は絵の中の自分が抱くものである――
その考えは、ある程度的を得ているような気がするが、どうしても漠然とした気持ちから離れることはできない。
クラシック喫茶で瞑想していた時を思い出していた。
あの時は、今から思えば、
――至福の刻――
を過ごしていたような気がする。
確かに、妖怪少年をイメージしたりして、いいことばかりを想像していたわけではなかった。そこが妄想と違うところである。
香澄が思っている、いわゆる「瞑想」は、いいことばかりではなかった。それでも妄想だけを抱いている時とは、感覚的に違っている。
そのことは、クラシック喫茶で瞑想に耽っている時には分かっていなかった。いつ頃から分かるようになったのかというのは、今はハッキリと分かっていないが、それがハッキリと分かってくるようになると、自分を納得させるということの意味が分かってくるようになることだろう。
妄想も瞑想も、自分の都合のいい想像であることには違いない。しかし、どこが違うかというと、外部からの影響を受けやすいのは、妄想よりもむしろ瞑想の方だった。妄想は夢の世界と同じで、あくまでも潜在意識が中心になってくる。そこに自分の意志がどこまで働いているのかは分からないが、ほとんど働いていないように思える。そういう意味で瞑想というのは、ある程度自分の意志が働いているように思える。
たとえばクラシック喫茶のように、耳から入ってくる感覚が、自分の想像力に大きな力を与える。それが瞑想であった。
香澄は、自分がいつもしていたのを妄想だと思っていたが、それが瞑想であることを悟ると、初めてそこで、
――想像力は、自分を納得させることができる唯一のものだ――
ということに気が付いた。
現実の世界では、なかなか自分を納得させることは難しい。なぜなら、自分がいくら臨もうとも、まわりの影響が絶対であるため、必ずしも自分の納得のいく結論が生まれるわけではない。一つのことに納得がいっても、他のことで納得がいかなければ、そこから続いていく現実を自分に納得させることなどできないからである。
香澄は、クラシック喫茶で瞑想に耽りながら、至福の刻を繰り返していたはずなのに、覚えていることの中に、妖怪少年のイメージが残っている。
しかも、そのイメージは自分の中で一番大きなものだった。一番現実味を帯びていないのに、どうしても頭から離れてくれない。その思いがどこから来るものなのか分からなかったが、妄想と瞑想の違いに気付くようになった頃から、分かってきたような気がしていた。
やはり、瞑想と妄想の違いについて分かってきたのが、いつものことであるかということは、香澄にとって重要なことであるのに、変わりはないようだ。
妖怪少年のイメージが頭から離れないのは、忘れられない妖怪少年のイメージを思い出す時に一緒に耳に響いているクラシックの音楽があるからだった。だからこそ、瞑想は自分の都合のいいように想像力を働かせるということを悟ったのだが、もう一つ、目を瞑って聞こえてくるクラシック以外にも、瞼の裏に浮かんでくる光景があった。
それは、妖怪少年の姿が、平面でしか見えてこないということだ。しかも、妖怪少年のその顔を最初は確認できないのに、次第にその顔が自分の顔だということに気が付いてくると、いつの間にか自分と妖怪少年が入れ替わっていることに気付かされる。
「あなたは、私の代わりに、このまま誰かがやってきて入れ替わってくれるまで、永遠に続く孤独を味わうことになるの」
と告げている。
その表情は、それまで味わっていた孤独から逃れられることへの歓喜の表情ではなかった。むしろ、怯えに近いものだった。
「どうして? あなたはここに本当はいたいんじゃないの?」
香澄は、自分と入れ替わった相手の顔を見ると、思わず諭すような言い方になっていたのに、ビックリしていた。
相手の気持ちを分かっているように思えたにも関わらず、実際には、
――自分が逃れたい一心――
でしかないようにしか相手に伝わっていないであろうことを、情けなく感じていた。
もちろん、そんな自分を納得させられるわけもない。それを何とか自分の中で辻褄を合わせようとする感情が、
――妖怪少年との出会いは、絵の中でだけのことなんだ――
としてしか、感じさせられない。
絵の中は孤独な世界である。
――妖怪少年が一人孤独に、誰かがくるまで永遠待ち続けなければいけない――
そんなシチュエーションは、架空の話としてしか存在しえないことだということは、分かっているはずなのに、それをまるで現実の世界でも可能にできる力は、
――絵の中と行き来することができるのではないか――
という、常軌を逸した発想であるこの感覚と対でなければ、生まれてくるものではないと思えた。
ただ、なぜそれを悟ったのが、
――今日という日だったのか?
ということは、香澄の知るところではなかった。
香澄は、恐怖の中で目を覚ました。
目を覚ましたということは、瞑想していたわけではなく、妄想していたのかも知れない。しかも、その妄想は最初から自分の意識の中にあったもので、子供の頃の記憶だったことに気が付いた。その日は厳格な父親がいつになく饒舌で、今までのようなピンと張りつめた空気が、その日はなかった。
空気が甘い香りを含んでいて、まるで金木犀の香りが漂っているかのようだった。もっとも、それが金木犀の香りだということを知ったのはかなり後のことで、甘い匂いを嗅いでいるうちに、気が付けば、空気に色を感じている自分に気が付いた。
――何となく、黄色い色を感じる――
甘い色というと、イチゴに代表されるようなピンク色を思い浮かべるものだと思っていたのに、黄色が思い浮かぶのは少し意外だった。黄色というと、レモンのような柑橘系の香りで、酸っぱさを思わせるはずなのに、おかしなものだった。
限りなく透明に近い黄色というのは、思ったよりも暖かみを感じさせ、暖かみは十分に高い密度から、重たさも感じさせるものだと思っていたが、却って軽い空気を感じさせた。
「今日は、久しぶりに骨董屋さんに寄ってきて、いい絵を見つけたんだ」
学生時代には絵を描いていたことがあるという話を、父親本人から聞いたことがある。母親は彫刻の方に造詣が深く、お互いに同じ大学の美術部に所属していたことからの付き合いから、そのまま結婚したのだという。結婚の話をしてくれたのは、母親の方だったが、別に純愛ロマンスを聞かされたわけではなく、なるべく部員には知られないように付き合っていたということだが、本当にまわりが知らなかったのかどうか、香澄には分からなかった。
しかし、結婚してからは、二人は美術に関しての共通点を忘れてしまっているようだった。
「同じ美術部で活動している時、要するにお付き合いしている時は、お互いに感性の話をしたりしたものよ」
と、母親が話してくれたことがあった。
その時には、それ以外にも話をしてくれたはずなのに覚えているのは、この言葉だけである。
それだけ、他の話が興味を引くものではなかったのか、それとも、他の話も突き詰めれば、最後には「感性」という話に落ち着くことで、覚えていることは、この話だけになったということなのだろうか。
香澄は、絵だけに限らず、芸術的なことに興味を示すことはなかった。
それは、厳格な父親への反動のようなものだったのだが、同じ芸術でも、音楽鑑賞に関しては、興味を持っていた。
大学時代に立ち寄ったクラシック喫茶との出会いが、香澄の感性を呼び起こしたといってもいいかも知れない。
空気に色や重さ、そして暖かさを感じるなど、他の人にはないことだろう。もしあったとしても、それはあっという間に駆け抜けてしまう時間の中で、すぐに忘れられてしまうものに違いない。
饒舌になっていた父親に対して、嬉しいという気持ちがありながら、あまりにも変わり方が急激で、豹変した姿が、不自然に感じられたほどだった。
――まるで人が変わったかのようだわ――
と感じながら、父親とは、
――つかず離れず――
適当な距離を保って、話を合わせていくことを考えた。
父親は、確かに饒舌だったが、香澄が適度な距離を保っていることに、あまりいい気はしていなかった。一歩間違えば一触即発と言ってもいいほど、二人の間の距離は微妙なところにあったのだ。
ただ、それでもせっかくの雰囲気を崩してはいけないと思っていたのだろう。ぎこちない顔色ではあったが、
――なるべく怒らないようにしよう――
という意識が芽生えているのか、必要以上なことは言わないようにしていた。
しかし、そんな緊張の糸が脆くも崩れたのは、それからすぐのことだった。
「香澄が余計なことを言うから」
と、後になって母親に言われたが、その時、自分が一体父親のどこの癇に障ったのか、まったく分からなかった。
その瞬間はいきなりだった。
それまで、恐る恐るだった雰囲気が、一気に噴火を起こし、何をどう対処していいのか分からない。その場の雰囲気を甘んじて受け入れるしかなかったのだ。
その時にキレた父親がどのような言葉を発したのか、ハッキリと覚えていない。かなり露骨な言葉を吐き出したに違いない。ただ、香澄はその言葉自体にショックを覚えたわけではない。
――やっぱり思っていた通りになってしまった――
と、自分の悪い方の予感が的中してしまったことにショックを受けたのだ。
ただ、一言だけ覚えている父親の言葉が、
「入れ替わったというのはどういうことだ?」
という言葉だった。
前後の内容を覚えていないので、入れ替わったというのがどういうことなのか、よく分かっていない。父親の言葉尻から考えると、最初にその話題に触れたのは香澄であって、どうやら触れてはいけない部分に触れてしまったことにより、父親は堪忍袋の緒を切ってしまったに違いない。
その日、それから父親は気分を害してしまったことで、自分が爆発してしまうことを分かっていたのか、そのまま外出して行った。結局その日は深夜になって帰ってきたようだが、皆が寝静まっているのに気を遣ってか、静かに寝てしまったようだった。
次の日になって、少しぎこちない朝を迎えたが、父は何も言わなかった。いつもの朝がいつものように訪れただけで、前の日が一体何だったのか、香澄にはそれ以上何も考える気にはなれなかった。
ただ、不思議なのは、朝になっても、前の日の空気は残っていた。
最初に感じたのは暖かさだった。
――あれ? この感覚は?
最初に暖かさを感じたことで、すぐにはそれが昨日の空気と同じであるということに気付かなかった。
暖かい空気は次に色を感じさせた。もし暖かさを感じなくとも、色を感じたことは間違いない。単純に順番の問題だった。
だが、昨日は暖かさを感じたのは一番最後だったはずだ。ということは、色を感じることさえできれば、暖かさを感じることもできるということである。色を感じるタイミングにも幾種類かあり、
――そのうちの二種類を、昨夜と今朝で感じたんだわ――
ということなのだろう。
香澄は、昨日言われた、
「入れ替わったというのはどういうことだ?」
という言葉が頭を離れなかった。
自分が言ったに違いなのだろうが、その言葉の意味を思い出すことができるのかどうか、正直分からなかった。
だが、このまま忘れてしまうことはできないだろう。意識することは今はないとしても、記憶の奥に封印することで、いずれ何かの弾みに思い出すことになるかも知れない。ただ、その弾みというのは、自分にとって大切な場面である可能性はかなり高いように思えた。――まるで人生のターニングポイントのようだわ――
大げさではあるが、その思いは間違っていないだろう。そうでなければ、記憶の奥に封印したことは、近い将来に思い出すことになるだろうが、思い出したタイミングでは、それが人生のターニングポイントだということに気付かず、そのままスルーしてしまうだろう。
――簡単にスル―するような内容であれば、人生のターニングポイントでなどあるはずもない――
そう思うと、思い出すタイミングが重要であり、それは自分が意識して思い出すことではないように思えた。
自分の意志に関係なく思い出した時が、人生のターニングポイントであり、そのことに対して、その時どれだけ自分が意識して対応できるかということが、重要なのだろう。その時の香澄は、そのことを分かっていたつもりだったが、いつの間にか忘れてしまっていた。
入れ替わりという言葉だけ、ずっと頭に引っかかっていた。まさか、その思いがクラシック喫茶で瞑想している時に感じた妖怪少年の話に結びついてくるなど、思ってもいなかった。
妖怪少年の話を想像している時、
――入れ替わり――
というキーワードを感じながら、
――いつの頃だったか、この言葉に大きな意識が働いている気がしている――
と分かっていたが、この二つが結びつくことはなかった。
思い出すタイミングに少しでもずれがあれば、この二つが結びつくことは、まずないに違いない。それぞれのその先に見えているものに違いがあればあるほど、まったく違った方向を見ているからである。それは、平面と立体くらいの違いがある。それぞれに平面と立体という意識がなければ、すれ違ったまま、交わることはない。
――平面から立体を見た時の『メビウスの輪』が、存在しているからに違いない――
ということではないだろうか。
それにしても、父親が「入れ替わり」という言葉を聞いて、何を思い浮かべたというのだろう?
しかも、香澄は自分が口から発した言葉であるにも関わらず、どうしてそんな言葉を口走ったのか、さらにはそもそも、本当に口走ったのかということすら、自覚していないのだ。父親から罵声を浴びて気が付いた。その時の心境は、本当に自分の意識によるものなのか、覚えていないということは、夢の世界に近いイメージだったということなのだろうか。もし、それが夢の世界に近いものであるとするなら、悪い方向のものではない。なぜなら、夢というものは、楽しい夢ほど、覚えていないものだからである。
厳格な父親は嫌いだったが、さらに嫌いだったのは、そんな父親に抗うこともなく、自分を殺してまで父親についているのは、まるで奴隷のように見えて、情けなく思えて仕方がなかったからだ。
そんな母親が、
「誰かと入れ替わりたい」
と言っていたことを思い出した。
「入れ替わった」
という言葉に反応した父親は、母親が感じている思いを察知しているのかも知れない。ひょっとすると、そのことを分かっている父親は、入れ替わりたいと思っている母親に対して強硬な態度を取ることができない自分に対して苛立ちを感じているのだろう。お互いに牽制し合って生活しているようで、傍目から見ていると、実に焦れったく感じられる。特にお互いに相手のことを分かっていて、どうすることもできずに地団駄を踏んでいるような感覚に、見ている方も耐えられない状況に追い込まれる。それがずっと一緒に暮らしてきた相手だけに、ここから先、どのように対処して過ごしていけばいいのか、分からなくなっていた。
ただ、母親が呟いた言葉と、父親が気にしている言葉とでは、声に出して言ってみれば同じ言葉ではあるが、意味としてはまったく違ったことなのかも知れない。人の数だけ考え方があるとすれば、自分のことだけを考えているとするなら、逆に相手もこちらのことを気にしていると考える人と、まったく考えない人がいても不思議ではない。母親はきっと自分のことしか考えていない。父親は逆に相手の考えていることを気にするタイプであろう。香澄は考え方としては、父親に近いのかも知れない。そう思うと、「入れ替わり」という言葉の意味に、香澄が感じているのと同じ発想が浮かんでいるのかも知れない。そう、今だから感じることができる「妖怪少年」の発想である。
まさか、父親がまったく同じ発想をしているとは思えなかったが、それは、香澄が先に感じたことを、父親が後から感じるのであれば、考えにくいことだが、実際には、父親が「入れ替わり」を意識したのは、香澄が妖怪少年を意識する前だったのだ。
ただ、その頃にはすでに妖怪少年の話を夢に見ていたのかも知れないと思うと、父が意識している妖怪少年のイメージも、父親の夢の中に出てきたものなのかも知れないと感じた。
妖怪少年の発想はあくまでも子供の発想だった。つまりは、子供の頃に聞いた話を大人になって思い出すきっかけが生まれ、そのきっかけも、その時の自分の発想が、子供の発想でなければ、いくらきっかけが生まれたとしても、妖怪少年を発想することはないだろう。
しかも、大人になって急に思い出すのだから、一度思い出してしまうと、今度はなかなか頭から離れることはない。香澄は、そのことが自分の中でトラウマになってきているのを感じていた。
――あの時の父も、入れ替わりという言葉がトラウマだったのかも知れないわ――
それが、香澄が感じているような妖怪少年全体に対してのものだけなのではないような気がしていた。
父は確かに厳格であったため、近づきにくいところがあったが、たまに、自分の方から歩み寄ってくることがあった。そんな時は、優しく声を掛けてくれる父に対し、
――誰かと入れ替わっているんじゃないかしら?
と思ったことがあったほどで、ここで感じた入れ替わりという発想は、すぐに打ち消した。
――入れ替わった相手が妖怪少年だったら、どうしよう――
という思いがあったからだ。
そんな優しい一面を見せていた父だが、
「私が学生時代に絵を描いていたというのを話したことがあっただろう?」
「はい」
「でもな、ある時、急に絵を描くのが怖くなってやめてしまったんだよ」
と言われて、本当は理由を聞きたかったが、聞くに忍びない気持ちになり、結局はその理由を父は話してくれなかった。
だが、香澄はその時父親が何も言わなかったのは、香澄のためだったのではないかと思うと、それ以上言及することはできなかった。
厳格な父親を見てきたこともあってか、他の人を見る時に、親しみやすさを感じていたが、その反対に、
――あまり近づいてはいけない――
と、感じさせるものがあった。
根拠があるわけではないが、父を見たその目で他の人を見ると、
――自分のことしか考えていないんだ――
としか、見えてこなかった。
自分のことしか考えていない人に深入りすることなど、危険極まりないことである。それから他の人とは一定の距離を保つようになった。それは同じ一定の距離を保っている父親とは違う感覚で、父親に対しては近づきにくいという相手のオーラによるもので、他の人に対しては、自分から近づこうとしない境界線を、自分で保つようになったのだ。
妖怪少年に対してはどうだろう?
そのどちらでもないが、どちらでもある距離に位置している。ちょうど二つの間の中間と言ってもいいだろう。
香澄は、自分が本当の父親を見ていないような気がしてきた。それに比べて、母親に対しては、本当の母親を見ているような気がしている。
かといって、本当の父親は、表に出ている父親の影に隠れているような感じではない。お互いに見え隠れしている。厳格な父親のイメージが強すぎることで、本当の父親を見たことがなかっただけで、逆に母親は本当の父親を知っているのだろう。
だから、父親に逆らおうとしないのかも知れない。逆らったとしても、本当の父親に対してではないことで、まるで、
――暖簾に腕押し――
のような頼りない力でしかないことを知っているのだろう。
母親のことを好きになれないのは、厳格な父親に逆らえない情けなさからだと思っていたのに、それが違う観点から見ていたことだったことに気が付いたのだが、その本当の理由に気が付いたのは、だいぶ後になってからのことだった。
――母を嫌いになった理由は、私自身に似ているからだ――
自分の中で嫌いな部分というのは、誰にでもいくつかはあるものだが、数え上げればその中のほとんどが、母親と似ているところだった。
――遺伝なのかしら?
もし、そうであるなら、自分の嫌いな部分は、自分のせいではないと思えてくる。誰かに責任転嫁できるのであれば、したいと思っているところに、遺伝だと分かれば、責任転嫁の相手は、おのずと決まってくる。
――そういえば、私も反発心が強くなればなるほど、自分のせいではないことを他人に押し付けようとするところがある――
と思っていた。
――自分で意識していないところで敵を作ってしまっているに違いない――
人に当たったり、人のせいにすることを、香澄は悪いことではないように思っていた。それで敵ができてしまったのなら、仕方がないとも思う。敵を作らないようにするために、自分で納得できないことを、強引にでも納得させようと意地を張ったとしても、どちらにしても考えは、
――自己満足――
にしか落ち着かないのである。
もう一つ母を嫌いになった理由は、父の香澄に対しての目を知っていながら、無視していることだった。
父は香澄に対して、娘以上の感情を持っているようだった。それは女として見ている目であり、
「お前は昔のお母さんに似ている」
と、まだ子供の香澄に呟いた時、香澄は金縛りに遭ってしまったかのように動けなくなってしまった。
――子供だから、分からないと思ったのかしら?
香澄は、後になってそう思ったが、思うよりも前に身体が反応し、父に対して抵抗作用が働いた。反応した身体は、萎縮して震えている。
――厳格な父親には逆らえない――
と感じたのは、その思いを隠すためのカモフラージュだったのだ。
母を憎んだのは、そんな香澄に気付いていながら、何もできないことを、自分の中で悩みとして感じていることだった。
――何もできないのなら、悩む必要もないのに、まるで当てつけのようだわ――
という思いを抱いたのだった。
その頃から小説を書くようになった香澄は、メモとして残したネタ帳を結びつけていくと、そこに形となってできてきたのが、妖怪少年の話だった。妖怪少年の話は、香澄の想像の中だけのものではなく、文章にして、小説として香澄は形にしていたのだ。
だが、それを公開するという意志はなく、ただ、
――メモを一つの形にした――
というだけだった。
逆に香澄は、メモを形にまでしてしまったことを後悔している。メモにまでしていた分には問題なかったのだが、形にしてしまったことで、余計に鮮明な形として香澄の記憶の中に残してしまった。
――形にさえしなければ、トラウマにまでなることはなかったのに――
と思った。
トラウマになってしまった理由の一つに、高校時代に、父親が死んでしまったことだった。
「お前は、お母さんに似ている」
と言われた言葉が父親に対して、一つ引っかかっていた。本当は、ずっとその言葉の意味を確かめたかった、その理由の一つに、
――父は、そのことを私に分かってほしいと思っていたに違いない――
と感じていたからである。
父は病気で死んだのだが、病院のベッドで、まだ元気だった頃、香澄に何かを伝えようとしていたことは分かっていた。
「香澄、実は」
と言いかけて、香澄も思わず身構えてしまう。
「えっ、何?」
父が何か重要なことを言おうとしているのが分かったが、何が言いたいのか、その時は分からなかった。だが、それ以上、父の口から発せられる言葉はなく、そんなことが何度かあった。
それはまるでデジャブのようだった。
シチュエーションもまったく同じベッドの中から声を掛けられるというもので、その瞬間だけ、香澄は時間が逆行してしまったのではないかと思ったほどだ。さすがに同じシチュエーションを繰り返していると、相手の言いたいことが分かってくるような気になるのだが、最後の詰めが甘いのか、霧に包まれたようで見えてこない。
ただ、思い出すのは、妖怪少年を見た時のことだった。
ベッドの中で横になっていて動けない父は、ずっと前から何かを言おうと心に決めていたにも関わらず、言えなかった。それは誰かが来るまで、その場所から逃れることのできないもどかしさを感じている妖怪少年のようではないか。
香澄は、自分のメモを一つに纏めた話を思い出していると、父親と妖怪少年がかぶって見えてきたのだ。
――近づいてはいけない――
近づいて、手を握りでもしたら、そのまま二人の立場は逆転してしまい、自分はそこから逃れられなくなってしまう。そんな錯覚を覚えていた。
そして、父が何を言いたいのか分からないまま、いよいよ最後の時を迎えた。
「ご家族や親せきの方を集めておいてください」
医者からの最後通告であった。
香澄もその言葉の意味が分かっていた。
それから香澄も学校どころではなくなり、病院につめていることが多くなった。父親もいよいよという時になって、
――人間って、最後はこんなにも弱くなってしまうんだ――
と、感じるほど、あれだけ厳格だった父の見る影はなかった。
「ほら、お父さんの手を握っておあげ」
と、母から言われてハッとした。
震える手を恐る恐る父に差し出すと、父は待ってましたとばかりに、最後の力を振り絞って、握り返してきた。
――どこにこんな力が?
そう思うと恐ろしくなり、その時の香澄は恐怖に歪んだ顔をしていたに違いない。
そんな香澄に父は今までにないほど穏やかで優しい顔をした。ただ、それが最後の顔になってしまった。
香澄は何とも言えない気持ちになった。
――そんな顔になるのなら、最後くらいは、笑ってあげればよかった――
という思いと、
――私の恐怖の顔を見ながら、どうして最後はあんな表情ができたのかしら?
という思いとが交錯していた。
どちらにしても、父の表情は香澄の中で記憶となって残ってしまった。封印してしまいたい記憶であったが、事あるごとに思い出すことになる記憶だった。
「お前は、お母さんに似ている」
と言っていた言葉の理由を確認できなかったことは悔いが残った。しかし、父がそのことを言おうとしていたことも後から思うと感じることができる。
――香澄にとって父親の死というのは、どのような影響を及ぼすというのだろうか?
今でも、分からないでいるのだった。
父親が死んだことは、正直、あまり香澄に影響を及ぼしていなかった。
ただ、父親が死んだことで、母親が変わったのは事実だった。香澄が成長期に父親が死んだことで、しっかりしなければいけない部分は増えたのだが、母親は性格的にも明るくなった。
それでも、母親と話をすることはなかった。元々ほとんど話をすることはなかったので、そのこともあってか、香澄が家にいることは少なくなっていた。
父親が死んでから、しばらくの間、妖怪少年のことを忘れていた。
香澄が思い出したのは、父親が買ってきた絵が、玄関にまだ掛かっていることで、たまに家に帰ってきた時、玄関先で見ていることがあったが、実際に意識して見ているということはなかった。
――でも、どうしてこの絵だけ、ここにあるのだろう?
父が亡くなってから、父のものは、ほとんど、処分したか、物置の中に収納しているようだった。この絵は父が買って来たというだけで、別に父親の持ち物ではないという感覚なのだろうか。香澄にしても、別に絵が掛かっているだけで、ずっと意識することもなかったのだから、今さら意識することもないだろうと思っていた。
ただ、父親が買ってきた絵だけは、瞼の裏に残っていた。その絵を見ていると、引きこまれるような気がするからだった。
香澄が、絵を意識し始めてからだっただろうか、それから少しして、絵が玄関先からなくなっていた。
「お母さん、玄関先の絵、どうしたの?」
と聞くと、炊事をしながらこちらを振り向くこともなく母親は、淡々と答えた。
「あの絵は、お父さんの他の遺品と一緒に、物置に収納したわよ。あなた、あの絵が気になるの?」
最初は、それならそれでもいいと思っていたが、
「しまってあるのなら、私にもらえる?」
すると、今度は母親はこちらを振り向き、
「別に構わないけど、自分の部屋に飾るつもりなの?」
「いいえ、元あった玄関先に飾るつもり」
と答えた。
母親は、何も言わずに頷いただけだったが、
「どうしてあの絵に、そんなにこだわるの?」
と聞かれ、
「意味はないけど、なぜかあの絵の中から、何かに呼ばれるような気がするのよ」
と、適当なことを言い訳にした。
「そう……」
と、母親は、どこか落胆したような表情になったが、その理由を香澄は聞こうとはしなかった。
「もし、またしまいたくなったら、私に何も言わずに、しまっていいわよ」
と、落胆している母親にいうと、
「分かった」
落胆したまま母親は答えたが、最後まで、表情は変わらなかった。落胆してはいたが、無表情だったのだ。そんな母親を今までに見たことはなかったので、少し気にはなっていたが、それ以上のことは何も言わなかった。
香澄が言い訳のように言ったのは、意味はなかったが、実際に何かに呼ばれたような気がしたのも気のせいではなかった。
――妖怪少年だったりして――
と、自分の妄想が何も考えていないようでも、言動に影響したのは事実である。なまじウソでもなさそうだ。
子供の頃を思い出すようになると、妖怪少年の発想がどうしてもよみがえってくる。自分がメモして残しておいた内容が、今、壁に掛かった絵が気になる喫茶店に来ることで、思い出したクラシック喫茶の思い出がフラッシュバックしてくる。父親の死を思い出したことで、父親が買ってきた絵のイメージがさらにクラシック喫茶や今壁に掛かっている絵を見ている自分とが、重なっているかのように感じられた。絵の世界から逃げられないような気がしてきたのは、気のせいであろうか……。
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