第4話 タイムアップ・リベンジ

 バーチャルの世界は、実体のないもの。実体のない世界だから、見たり聞いたり体験したものは、すべてが架空だという発想は性急すぎる。

 亜季とのことは、ずっとショックだったが、ショックから立ち直ってみると、架空の世界にいた自分を想像してしまう。つまりは、あの時の自分は存在しなかったという発想になり、本当に他人事にしか思えないのだ。それからの俊治は、バーチャルはおろか、現実世界ですら、すべてを架空のことのように思えている。孤独は感じるが、寂しさは感じないというのは、そういう意識から生まれたものなのかも知れない。

 そんな俊治が、この五年間、静香と一緒に暮らしてきた。寂しさは感じなかったが、相変わらず孤独であることには変わりなかった。静香とは同居人という意識が強く、感情を表に出してはいけないという思いが強かった。

 自分の年齢が二十五歳から動いていないと思っていたのは、亜季とのことが自分のことではないという意識があってのことでもあるが、やはり、幹江や加奈との別れが俊治にとって大きな影響を与えていたのは間違いのないことだった。

 自分の人生の中でバーチャルな世界が存在したのは間違いのないことだった。バーチャルな世界を味わったからであろうか、

――限りのないものなど、存在しない――

 という考えが、頭の中で芽生えてきているようだった。ハッキリとした認識があったわけではないが、現実とバーチャルの区別がつかない時が、自分の中で確かに幸せだった時期として存在していたのだ。

 静香と一緒にいると、加奈とのことは結構思い出すのに、幹江とのことはあまり記憶から引き出すことはできない。確かに覚えているはずだという意識はあるのだが、いざ思い出そうとすると、真っ白な霧に包まれたような感覚になる。まるで一部だけ記憶喪失になったかのようだ。

――きっと幹江とのことを思い出せないから、静香と一緒にいることができるんだろうな――

 幹江に対して、何か後ろめたさがあるわけではない。思い出せないのが後ろめたさのためではないことは分かっているつもりだ。ただ、加奈と付き合っている時、幹江に対しても自分の気持ちが靡いた時があった。それを幹江が意識していたのを、俊治は分かっていた。

 加奈は俊治と別れてから、本当に結婚したようだ。時期から考えると、俊治は二股を掛けられていたことになる。どう考えても俊治には自分が二股掛けられていたなどという意識はない。ある意味、

――おめでたい性格――

 だと言えるだろう。

 だが、それからすぐに離婚したと聞いた。噂だから何ともいえないが、そのおかげで、少しだけでも溜飲が下がったと言えるだろう。

 もし、加奈が幸せな結婚生活を送っていれば、加奈のことを記憶の奥に封印して、記憶として表に出すのは、幹江のことだったかも知れない。さらに、ネットに嵌ってから付き合うことになる相手は、亜季ではなかっただろう。きっと主婦だと思った時、近づくような真似はしないからである。いくら結婚生活に疲れ果てている亜季とは言え、少しでも家庭の味を知っている人を好きになったりなどしないと思ったからだ。

 静香と一緒に暮らすようになって早五年、相変わらず毎日を無為に過ごしていたが、ある日、俊治に対して熱い視線を感じた。その視線は、その時が初めてではない。今までに何度も感じたことのあるものだ。その視線はいつも同じ方向から当たるもので、振り返ってみると、そこに視線を浴びせているような人はいなかった。

 同じ方向とは、右斜め後ろである。しかも、振り返ったところは、人がいることができないような場所で、視線を浴びるなど考えられることではなかった。

――でも、この角度からのこの視線、どこか懐かしさを感じるな――

 と思った。

 その視線を感じたのが、何年前のことだったのか、すぐには思い出せなかったが、よく考えてみると、一度や二度ではない。数年間にわたって、何度も感じていたことだった。

 想像するに、その相手は幹江だった。今まで自分と関わった人を消去法で考えていけば、行きつく先は、幹江しかなかった。

 実際に視線を感じるほど印象的な人というと、さほどいない。幹江のように、記憶としては鮮明に思い出せるわけではないが、印象が深かった人は今までにいなかった。

 それだけ加奈の印象が深かったというわけではない。しいて言えば、加奈と幹江とでは、完全に正反対だったというべきであろうか?

 性格が正反対だったというよりも、鏡に写った左右対称のイメージが強い。右手を挙げれば、相手は左手を挙げている。これは、運命というよりも、宿命とでも言った方がいいのかも知れない。

 性格という意味では、どこか似たところがあった。

 ただ、それは俊治の方から見たからであって、他の人が見ると、正反対に見えるかも知れない。

――それだけ見る位置が違っているということだ――

 幹江は、いつも同じ方向から自分を見ていた。それが斜め後ろからだったということを、加奈のことを思い出しながら考えると、分かってきたのだ。

――幹江のことを思い出そうとするには、加奈のことを思い出さなければいけないのだろうか?

 二十五年前には、明らかに二人はそれぞれの特徴を俊治に見せていた。俊治も二人の性格を感じながら、自分に照らし合わせてみたものだ。

 だが、二十五年が経って、当時を思い出すと、

――加奈と幹江、自分の中では二人合わせて一人のような気がする――

 と感じるのだった。

 それはまるで、一人が光で一人が影のようであり、しかも、その光と影が時々入れ替わっていたかのような感じである。その時々で入れ替われる光と影は、二人に接点があったわけではない。あくまでも、俊治を通して二人は同じ視界の中に入れるのだった。

 だから、今は加奈のことが思い出されて、幹江のことを記憶が封印している状態だが、何かが変われば、逆になるということもありえる。ひょっとすると、俊治が記憶している二人自体が、記憶の中で入れ替わっているのかも知れない。

 そんな時に感じた俊治の斜め後ろからの視線。それは幹江のものだった。それまでその姿を見ることができなかったが、今回は、その姿を見ることができた。

「幹江」

 思わず声を掛けたが、そこに立っていたのは、俊治の記憶の中にある幹江だった。

 つまりは、二十五歳の幹江であり、俊治が知っている幹江であるはずはなかった。

「俊治さん」

 彼女の口は、確かにそう動いた。

 彼女は和服を着ていた。その姿は自分が知っている時代の服装ではない。昭和初期くらいの姿と言ってもいいだろうか? そう感じるだけでも幹江ではない。

「君は一体誰なんだ?」

「私よ。山田幹江。あなたの知っている私でしょう?」

「確かにそうだけど、服装といい、今の君の年齢といい、どう考えても僕が知っている幹江ではないんだ」

「そうかも知れないわね。私もあなたの前で和服を着たことなんかなかったし、あなたは今五十歳。私は二十五歳。どうしてなのかしらね?」

 そう言って、幹江は笑っている。

 俊治はとても、この状態で笑うことなどできるはずもない。幹江だけを見ているつもりだったが、よく見てみると、まわりは二十五年前の風景に変わっていた。背中から差し込んでくるような夕日は、今と変わらないはずなのに、背中が熱いほど痛さを感じる。

「どうして、こんなに痛いんだろう?」

「それはね、あなたが今まで何も感じないようにしようとして生きてきたからなのよ」

 俊治は、痛いという感情を口に出したという意識はない。

「えっ、どうして僕が痛いという思いが分かったんだい?」

「私には分かるのよ。だって、ここはあなたの頭の中の世界だから、あなたのことを少しでも考えれば、私には手に取るように伝わってくるものがあるの」

 幹江にそう言われて、初めてハッとした。

――そうか、これは夢の世界なんだ――

 夢の世界だというと、

――何でもあり――

 というイメージがあったが、不思議なことは起こっても、それは潜在意識の中にあることだけである。しかも、俊治は普段から、あまり何かを意識しようとしているわけではないので、潜在意識も自分の想像というよりも妄想の方が強く描かれている。

――ということは、今までの斜め後ろからの視線の正体は、夢の中の幹江だった――

 ということであろうか?

 俊治は、自分の夢の中で幹江を見ていたことになるのだが、今までにも同じような夢を見たことがあったような気がした。

 あの時の続きを今日見たのだったが、果たして夢の続きというのを自分の夢の中で見ることができるものなのだろうか?

 そう考えてみると、以前に見た夢だと思っているもの、それは夢は夢でも自分の夢ではなく、

――幹江の夢の中に入りこんだ――

 いわゆる「他人の夢」だったのではないだろうか?

 普通なら、そんなことができるはずもない。ただ、それも、

――できるはずがない――

 と思っているからできないのであって、できるかも知れないと思うことでできるのかも知れないと思うと、何を根拠にそう思えるのだろうか?

 俊治は、三十歳代に感じていたバーチャルな世界を思い出していた。

――亜季に感じた短かったが恋愛感情は、嘘ではなかったんだ――

 という思いが渦巻いている。

 バーチャルな世界を今思い起すと、それは、

――繋がりのある世界――

 というイメージだったのだ。

 チャットというよりもメッセンジャーを使って、初めてボイスをした時に感じたことだった。

 最初のボイス機能では、まるでトランシーバーのように、こちらが話をする時、相手が話すことはできない。片方だけしか話すことができないだけに、

――繋がりが大切だ――

 と感じたのだ。

 片方だけしか話せないというイメージを繋がりとして感じたのは、夢を感じていたからだ。

 最初に見た幹江の夢をずっと自分の中の夢だと思っていた。

 それは当たり前のことであり、人の夢に入り込むことなどできないという発想があったからだ。

 しかし、夢を見ている自分は、最初に見た夢では、普段だとできないだろうと思うことでもこなすことができた。

――夢というのは潜在意識が見せるもの――

 という思いがあることで、

――夢であっても、必ず限界があるものだ――

 と感じたことだ。

 だが、幹江の夢の中では限界というものが感じられない。そこが自分の世界ではない証拠だからだ。

 もちろん、限界がないわけではないはずだ。ただ、その人の夢だけに、限界が分からないのだ。それはとても恐ろしいことで、真っ暗な中を何があるか分からない状態で、放置されているのと同じ気持ちだ。

――限界がないということは、これほど恐ろしいことだったなんて――

 と、俊治は考えるようになっていた。

 そう思うと、自分の夢の中に出てきている人たち、それは本当に自分が想像した人たちなのだろうか? 中にはその人が自分の中から抜け出して、俊治の夢の中に入りこんでいるのかも知れない。俊治のように感じられなかった限界を薄氷を踏む思いで、その世界に存在していたのではないだろうか。そう思っていると、夢を見るのも怖い気がしてきた。

 その日の夢は、明らかに限界があった。すなわち自分の夢である。

「私は、俊治さんと話がしてみたくて、ここに来たの」

「何を今さら話すことなんかあるんだい?」

「あなたは、私がどうして二十五歳なのか不思議に思わないの?」

「それは思うさ。夢の中の世界であっても、君が僕の作った夢の中だけに存在する幹江ではないということを感じるからね」

「私は、二十五歳から、年を取らないの」

「えっ?」

 これは、ずっと俊治が自分で感じていたことではないか。今までの人生の半分は、無為に過ごしてきて、二十五歳から年を取っていないと思うことが、そんな自分を納得させる唯一の考えだと思っていたからだ。

「不思議でしょう? でも、これは事実なの。どうしてかというと、私はこの世にもういないからなの」

「じゃあ、霊として彷徨っているということかい?」

「そういうことになるわね。でも、別に人生に未練があったわけでもないし、行き先がないわけでもないの。どちらかというと、私には時間がないと言うべきなのかしらね」

「時間がない?」

「ええ、時間がないという意味をきっとあなたには分からないと思うの。もし分かる時が来るとすれば、その時はあなたが死ぬ時なんじゃないかって思うの」

「それは、限界という言葉がキーワードになっているの?」

「ええ、そこから考えるのが一番の近道なのかも知れないわね。時間と限界というのは、まったく関係がないように見えるけど、密接に繋がっているものなのよ」

 幹江の話を聞いていると、頭が混乱してくるが、ここが自分の頭の中の世界であることから、話が繋がってくるような気がする。幹江がわざわざここに来たのは、それを言いたいからなのだろうか?

「人は、一生に一度、誰かから大切なことを教えてもらうことになってるの。あなたにとって、今のこの瞬間が、そうなのかも知れないわね」

「それは、君には分からないのかい?」

「ええ、これだけは、その人にしか分からない。しかも、いつ分かることになるかということも、簡単に判断できることではないの」

「でも、死んでしまった君が、どうして彷徨っているのか、知りたい気がする」

「実は私もハッキリとは分からないの。ただ……」

「ただ、何だい?」

「ただ、言えることは、何かのリベンジを果たそうとしていることは確かなようね。きっと他の人はそれを『やり残したこと』っていうのかも知れないわ」

「確かに、霊がこの世を彷徨う時というのは、この世に何か未練を残している時だと聞くけど、君もそうなのかい?」

「ええ、そのようなの。人生に未練はないつもりんだんだけどね」

 人生に未練がなく、この世に未練があるというのも不思議な気もした。

 俊治は、この状況に慣れてきた。

 最初は、信じられないという思いから、言い知れぬ不気味さを感じ、身体が震えていた。しかし、それは怖さがあったわけではない。怖さというよりも懐かしさだろう。しかし、その懐かしさは、本当は感じてはいけないものだということに気付くと、震えは次第に止まってきた。

 しかし、今度は怖さがこみ上げてきた。この状況を理解したというのだろうか。その時には震えは止まっていたが、指先が痺れていて、喉がカラカラに乾いていた。

 怖さは震えをもたらすわけではなく、指先に痺れや喉の渇きをもたらす。それが次第に身体に震えをもたらすから、

――怖い時に、身体が震えるのだ――

 と感じるのだろう。

 俊治の場合は逆だった。

 いや、俊治の場合も今までは怖い時に身体が震えると思っていた。しかし、その時だけは特別で、それがなぜなのか、すぐには理解できなかったが、理由は二つあるような気がした。

 一つは、本当に怖いからで、もう一つは、時間がゆっくり流れているからではないかと思えるからだった。

 理由が二つあると言っても、考えてみれば、その原点は一つなのかも知れない。本当に怖いと思っているから、時間がゆっくり流れているのかも知れない。

 いや、逆に時間がゆっくり流れているように感じるほど、恐ろしい思いをしているとも考えられる。

 ただ、時間がゆっくり流れているという感覚は、すべての時間がゆっくりと流れているように感じられがちだが、俊治の場合、少し違っていた。

 時間がゆっくりだと感じたのは、最初と最後の一点を取って、

――全体的な時間が長い――

 と感じたからだ。

 実際にピンポイントで時間を考えると、絶えず時間がゆっくり進んでいるわけではなく、進んでいる時間は普段と変わりない。ということは、時間が途中で止まってしまった瞬間があるということになる。

――そんなことがありうるのか?

 自分に納得できない現象が起こると、それが恐怖に繋がるというのは当然のことだろう。今がその時であって、俊治にはその理由が目の前に鎮座している幹江にあるのだということは当然分かっている。

――この俺を納得させてくれよ――

 と、心の奥で考えていたが、どうやら、そんなことは目の前にいる幹江には分かっていることのようだ。

――私は何でも分かるのよ――

 と言わんばかりに、時々ほくそ笑んでいるのが分かるが、しかし、ほとんどは何かに怯えているように見える。

――何を不安に感じているんだろう?

 と思うと、自分がこの状況に納得することなど、どうでもいいように思えてきた。すると喉の渇きは相変わらずだったが、指先の痺れはなくなってきた。どうやら、この状況に慣れてきたのだということに身体が気付いたようだ。

――だから、相手の気持ちが分かるのかな?

 普段は相手の気持ちがこんなに簡単に分かるなどということはなかった。なぜなら、相手は自分に悟られないようにしているからだ。しかし、目の前にいる幹江は自分の考えていることを隠そうなどとしていない。そういう概念がないのかも知れない。それよりも、

――あなたに分かってほしい――

 というオーラを感じるくらい、考えていることが、自然と伝わってくるような気がするのだ。

――この感覚、今までにも感じたことがあったような気がするな――

 それは、幹江に感じたわけではない。しばらく考えていたが、

――そうだ、静香に感じたんだ――

 ただ、それは出会った日ではなかった。一度だけこんな感覚になったことがあったが、それは別に何か特別な日だったというわけではない。だからこそ、今まで忘れていたのだった。

――きっと思い出すことになるだろうと、思っていたような気がする――

 この思いは思い出して感じたことだった。

 その時の静香は、他の時と格別何かが違っていたというわけではない。ただ、

――少し何か他のことを考えているのではないか?

 と感じただけで、それも、何かを思い出そうとしている前兆のようなものだと思えば、別に不思議に感じることでもなかった。

 静香は、何かを俊治に伝えたいのではないかと思ったが、敢えてそのことに俊治は触れなかった。

――言いたくなれば、静香は自分の口から言うに違いない――

 と感じたからだ。

 だが、そのことを感じたのは、静香が初めてではなかったように思えた。

――そうだ、感じたとすれば、幹江にだったような気がする――

 加奈とはお互いに言いたいことをぶつけ合っていた。それは隠し事が嫌だったからだというよりも、言いたいことを言わないと気が済まないという感情が一番最初に来ていたからだ。

――まだ、それだけ若かったからなのか――

 とも思えることだが、若さゆえではなかったような気がする。お互いに気持ちをぶつけ合うということが、恋愛には必要だったということを、地で行っていたと言ってもいいだろう。

 逆に幹江に対してはお互いに遠慮があった。その時の俊治は、

――大人の付き合いだ――

 と思っていたが、その思いに間違いはないだろう。

 大人の付き合いには、気持ちに余裕が必要だ。気持ちに余裕を作るには、時間的な余裕が不可欠なことであることも分かっていたつもりである。

 静香に対しても、この五年間、同じ思いで接してきた。

――二十五年前の自分とは違うんだ――

 と感じていたからだ。

 昔の自分なら、すぐに静香を抱こうと思ったに違いない。確かに今の自分では年齢差もあることで、いきなりということは考えにくいが、若い頃の俊治は、結構勢いに任せての行動が多かった。

 それでも何とかなってきたのが若い頃だったが、最後には悲惨な別れを迎えたことを思えば、

――ひょっとすると、若い頃はその強い押しが、ツケとなって最後に回ってきたのかも知れない――

 と感じるようになっていた。

――今と若い頃の違いって、何なんだろう?

 若い頃は、一日一日があっという間に過ぎていたように思っていたのに比べて、今は長いスパンで考えた時の時間があっという間だった。

 それは点と点を結ぶと遠く感じるのだが、線で見ると、本当に短く感じてしまうという意識であった。

――五年前のことを思い出そうとすると、結構前のことに思えるのに、五年間という感覚で考えると、あっという間だったような気がする――

 つまりは、それだけポイントポイントでは印象が深いことはあったとしても、その間というのは、まったく何も考えていないかのように、流れるように過ぎていっただけのことになるのだ。

 確かに毎日をただやり過ごすだけの毎日だったような気がする。若い頃には、

――何か目標を持たなければいけない――

 という意識があり、先を絶えず見ていたものだ。

 しかし、年を取るごとに、先を見るというよりも、その時々が暮らしていければそれでいいという感覚に変わってきた。変化を求めるわけではなく、平穏無事を求めて毎日をやり過ごしているという感覚である。

――そんな俺に対して、静香はどんな目で見ていたのだろう?

 何かを求めることもなく、まるで俊治の夫になったかのように、身の回りの世話を、嫌な顔を一つもせず面倒を見てくれる。俊治にとっては、これ以上ありがたうことはない。

 しかし、時々不安になることがあった。

 すでに静香のいない生活が考えられなくなっていた。

――いて当然――

 という考えが、俊治の中で充満して、溢れかえっているようだった。

 そのことを、静香も感じているのだろう。そのくせ何も言わないのは、時々何を考えているのか分からないと感じ、不安になることもあった。

 だが、静香は顔色一つ変えることはない。却って気持ち悪いくらいだ。若い頃のことだったとはいえ、毎日のように加奈と喧嘩をしていたことが嫌でも思い出される。今さらではあるが、

――やっぱり、俺は加奈を愛していたんだ――

 と思っている。

 幹江を愛していなかったというわけではない。だが、

「幹江と加奈のどちらを本当に愛していたのか?」

 と聞かれれば、

「加奈の方だ」

 と、答えることだろう。

 その根拠は、やはり毎日のように喧嘩していたということが一番大きな理由だったに違いない。

――喧嘩するほど仲がいい――

 と言われるが、その意味が今になって分かってきた気がする。

 ただ、言葉で説明することは困難だった。どちらかというと、観念の中で感じていることであって、もし、言葉にして説明できる人がいたとしても、それを聞いて果たしてどれだけの人が感じることができるだろうか。

 喧嘩するのも体力がいる。そういう意味で、若いうちにしかできないものだろう。喧嘩するということは、気持ちに余裕がなくなっていくことであり、知らず知らずのうちに自分を頑なにしてしまう。喧嘩は一日経てば、気持ちのほとぼりを冷まさせてくれるが、自分を頑なにしてしまった感情は、元に戻ることはない。したがって喧嘩するごとに、それは蓄積されていって、疲れるという感覚は、蓄積がもたらすものではないだろうか。

 そんな疲れを維持できたのは、幹江がいてくれたからなのかも知れない。

――俺にとって幹江というのは、自分を癒してくれるための大切な人だったんだ――

 と感じた。

 幹江は俊治にとってなくてはならない女性であった。俊治は、なるべくそんな幹江に自分の弱さを見せたくないと思った。本当はすべてを曝け出して甘えたい気分なのだが、

――加奈との喧嘩で疲れた自分を癒してほしい――

 などと口が裂けても言えるはずもなく、態度に出してはいけないとも感じていた。

 そのことを幹江は分かっていたのかも知れないが、そこまで感じる余裕がその時の俊治にはなかった。

――何とか、その時の問題を解決させることに集中しないと……

 と、やはりその時も見ているのは、目の前のことだけだった。

 それでも、今の自分とは、だいぶ違っていただろう。若さのエネルギーというべきであろうか、俊治は自分の中にあったエネルギーを今なら思い出せるような気がした。というのは、

――今だから――

 というわけではなく、

――静香がいてくれるからだ――

 という思いが強いに違いない。

 静香を見ていると、雰囲気は幹江を彷彿させるように思っていたが、一緒にいると、少し違っているような気がしていた。

 確かに幹江のイメージがないわけではない。しかし、それよりも加奈のイメージの方が強かった。

 二十五歳の時の幹江が、今俊治の前に現れた。これが何を意味することなのか、俊治にはまだよく分かっていない。

 幹江は、すでに自分は死んでいて、その時から年を取っていないと言った。しかも、

――時間がない――

 と言った。

 それがどういう意味なのか、よく分からないが、俊治には何かのデジャブがあるように思えてならなかった。

 そのデジャブが、すでに起こっていることなのか、それともこれから起こることなのか、すぐには分からなかったが、少なくとも今はデジャブという感覚はあっても、ハッキリとしたものを感じることはできなかった。

 静香を見ていると、やはり意識してしまうのは、加奈のことだった。

 考えてみれば、俊治にはその時幹江という女性がいたから、何とか加奈と付き合うことができた。加奈もかなり疲れていたはずなのに、それでも俊治と別れようとはしなかった。その思いは俊治と同じように、

――私が愛しているのは彼だけだわ――

 と思ってくれていたのかも知れない。

 ただ、そうなれば、

――加奈はストレスをどうやって解消していたのだろうか?

 と考えるようになった。

 俊治が知っている限りでは、加奈にそんな人が回りにいたようには思えない。もし、そうであれば、加奈と喧嘩している時に、ウスウス感じるに違いないからだ。

――加奈は、俺に幹江という女性が後ろにいたことを知っていたのだろうか?

 と考えていた。

――そういえば、幹江はいつも自分の右斜め後ろにばかりいてくれたような気がするな――

 いつも俊治の前では控えめな態度を取っていた幹江だったが、俊治にとって幹江は、なくてはならない存在だった。それは分かっていることなのだが、

――幹江にとって俺は一体どんな存在だったのだろう?

 と思うようになった。

 加奈と別れて、俊治は幹江と真剣に付き合おうと思っていた。

 幹江に告白すると、幹江は断ることはなかった。しかし、完全に承諾したという雰囲気でもなかった。付き合ったという意識は確かに俊治の中にあったが、幹江の中にも同じようなものがあったのかというと、ハッキリと断言することはできない。きっと、あの時の幹江にも断言できるほどのものはなかったのではないだろうか?

 幹江は、俊治が付き合っていると思っていた時、今までの幹江ではなかったことを俊治は何となく気付いていた。しかし、別に嫌がっているわけではないことから、そのことに目を瞑っていた自分がいたことを、なるべく自分でも信じようとはしていなかったのは事実だった。

「幹江は俺と一緒にいて、楽しくないのかい?」

 と声を掛けたことがあった。何となく、俊治を見る目が自信なさそうに感じられたからだ。

「そんなことはないわ。ただ……」

「ただ?」

「ただ、俊治が前の俊治ではないような気がして」

「俺は変わってないよ」

 と言ってみたが、それは本心ではなかった。本当は、

「前のように、加奈に対しての想いがすべて君に向けられているからさ」

 と言いたかった。

 しかし、それが相手に対して言っていいことのようには思えなかったからだ。

 まるで加奈のことを「ダシ」にして、幹江の気持ちを自分に引き付けようとしているように感じたからだ。

――そんな姑息なことはしたくない――

 という思いと、本当はそれよりも、

――加奈のことで相談していた時の俺とは違うというよりも、幹江の方が違っているのでは?

 と感じたからだ。

――まさか、俺にとって幹江という女性の存在価値は、加奈とのストレスを解消してもらうためにあった?

 そんなバカなことはない。幹江とはずっと以前からの知り合いで、気心も知れていた。ただ、それも、

――相手に対して感情的な思いを持っていなかったからこそ、長く付き合っていられるのかも知れない――

 と、考えられないこともない。

 実際に俊治は加奈と付き合っていて、完全に疲れ果てていた。そんな自分を幹江が癒してくれなければ、どうなっていたかと思うと、少し怖い気がした。

――幹江には悪いことをした――

 幹江と別れた時に、そう感じた。加奈と別れた時とは正反対の感情があったと言っても過言ではない。

 静香が俊治と暮らし始めて五年が経っていたが、その間に何度か、

「俊治さんは、私と一緒にいて、よかったと思ってくれる?」

 と聞かれたことがあった。

「思っているさ。お互いに遠慮して気を遣っているのかも知れないけど、君は俺にそんな思いを感じさせない存在だからね」

「ありがとう。そう言ってくれると嬉しい。ねえ、これからも一緒にいていいの?」

「ああ、いいよ。親子のようで楽しいじゃないか」

「そうね、お父さんと娘だもんね」

 と言って、ニッコリと笑っていた静香だったが、その表情は寂しさというよりも、もっと違ったものを瞬時に与えた。

「こんなに大人っぽかったんだ」

 という感情である。

 初めて会ったのが十八歳の時、あどけなさが残る中で、どこか大人っぽさを感じた。しかしその大人っぽさは今から思えば、

――緊張だったのではないか?

 と感じられる。

 緊張だと思うと、数日で静香のイメージから、大人っぽさは消えていた。つまりは、

――緊張から来る大人っぽさなんて、本当の表情じゃない――

 と思ったからだ。

 静香を見ていると、加奈を思い出してくる。

――どこが似ているんだ?

 といろいろパーツを思い出してみるが、よく分からない。二十五年という歳月が経っているというのもあるが、それでも、好きになった女の印象はなかなか忘れるものではなかった。

 ただ、全体的な雰囲気も似ているというわけではなかった。しいて言えば、

――出会った時に感じた印象が、二十五年前とソックリなんだ――

 という思いであった。

 ということは、

――俺が人を好きになるというのは、相手の顔や雰囲気というよりも、出会った時の印象だったり、付き合っている時に感じる相手の見せる雰囲気だったりすることなのかも知れない――

 と、思えてきた。

 そんな感情で人を好きになるというのは、悪いことではないのだろうが、好きになった相手に対して失礼なのではないかと思う。しかし、逆に言えば、それが本当の感情で、今まで自分が違う考えを持っていたのかも知れない。

 いや、それが自分だけではなく、他の人も同じであって、本当の感覚を今、俊治だけが気が付いたのかも知れないと思うと、不思議な感覚だった。

――まさか、幹江はそのことを知っていたのだろうか?

 今の俊治の前に現れたのは、そのことを今の俊治なら分かるだろうと思い、現れたのであれば、その思いはまんまと成功したことになるだろう。

 しかし、これはあまりにも都合のいい考えだったが、ただ、これが一部のことであって、他にももっと気付くことがあり、それを気付かせようと、敢えて、幹江は俊治の前に姿を現したのかも知れない。

 もし、神様がいて、死んだ人間が生きている人間と交わってはいけないというルールを決めているのだとすれば、それはお互いの世界を脅かすことを恐れたからであろう。それはお互いに触れあいたいのに触れ合うことができないことで、余計な傷を残すことになるからだ。しかし、この時の俊治と幹江に関してはそんなことはなかった。逆にこの二人のように、お互いの気持ちを確かなものにして、それぞれの生活のためになることであれば、それは大切なことだとして、神様も特例を設けているのかも知れないと感じた。

 考えてみれば、俊治は幹江から、

――私は死んでいるの――

 と言われても、ビックリすることはなかった。簡単に受け入れることができている自分に不思議な感覚を抱きながらも、来てくれた幹江に感謝している。

「ありがとう」

 この一言で、二人の間に隔たりはなくなった。そして、この言葉が幹江の中にどれほどの救いを作ったのか、当の本人である幹江にも想像がつくものではなかった。

「二人だけの秘密よ」

 幹江にそう言われた俊治は、ニッコリ笑って頷いた。きっと俊治は幹江のことを誰にも話すことはないだろう。幹江も俊治もそのことだけは確信していた。

 ただ、俊治の中で、幹江のことを理解できるのであれば、この五年間、どうして静香と一緒にいることができたのか理解できるような気がしていた。

 五年間、余計なことを考えずに静香と一緒に暮らした毎日だったが、自分の中でこの状況を理解していたわけではない。

 理解をしていたわけではなかったが、理解できないまでも、この状況を楽しむことはできた。

――楽しければそれでいい――

 どこか投げやりに聞こえるが、決してそんなことはない。この思いこそ紛れもない思いであり、静香と、この状況を理解できない自分を納得させるために大切な感情だったのだ。

 俊治は、今さらのように思い出しているのは、加奈とはあれだけ喧嘩したが、その後には身体を貪り合っていたのを思い出した。それは、喧嘩したことでお互いに心が離れないように必死に繋ぎとめようとしていたのかも知れない。

 幹江に対しては、まったく気持ちは逆だった。

 ただ、今気になっているのは、

――俺は幹江を恐れていたような気がする――

 何を恐れていたというのだろう? 加奈とは喧嘩することでお互いの気持ちを確かめ合っていたように思うのに、幹江とは喧嘩などすることはなかった。お互いに、

――大人の関係――

 だと思っていた。

 大人の関係だからこそ、幹江に対して恐れを抱いていたのだ。加奈のことは、行動パターンが分かっていた。喧嘩することでお互いにくせも分かっていたのだろう。しかし、幹江に対しては、相手がどのように出るか分からなかったことで、恐る恐るの態度だったのかも知れない。

――付き合いは長かったはずなのに――

 それだけ、失いたくないという思いが強かったのだろうか。しかし、そのわりには、気を遣い合っているという意識はなかったのだ。

――幹江は俊治に対してではなく、加奈に対して気を遣っていたのかも知れないな――

 女として女心が分かるということなのだろうか。俊治には分からない感覚だったが、幹江との違いを考えているうちに分かってくるようになっていた。

 幹江は、もうこの世にいないのに、俊治の前に現れた。

「俊治さん、私はあなただけのためにこの世に戻ってきたわけではないの。だから時間がないというのは、そういうことなの。でも、これは私にとってのリベンジ。それはあなたと本当はやり直したいという気持ちが心のどこかにあったからなのかも知れないわね。でもその気持ちをすぐには表に出すことはできなかったの。でもあなたのそばにいたいというのは正直な気持ちなのよ。だから、これは私の『タイムアップリベンジ』、つまりは時間制限のあるリベンジなの。でも、私は時間制限になんかこだわりたくない。だから、静香をあなたのそばに連れてきたの」

「静香というのは、一体誰なんだい?」

「静香は、本当なら私とあなたの間に生まれるはずの娘だったのよ。でも、あなたが加奈さんを好きになって、喧嘩別れして私と本当は一緒になるはずだった。でも、そのタイミングが崩れたことで、私は死ぬことになったの。でも、静香は他の人の間に生まれた。でも、彼女は私の想いを残して生まれてきたので、不遇の人生を歩んできたの。だから、私はあなたに、静香を返さなければいけないと思って、私のリベンジを静香に任せることにしたの」

「じゃあ、静香は君のリベンジになるのかい?」

「半分はそうなのかも知れないわね。私の想いが静香には入っているはずだからね。だから、静香はあなたの娘としての気持ちと、あなたを愛する一人の女性としての気持ちを両方持っているの。だから、あなたには、二重人格に見えたかも知れないわ」

「いや、俺には二重人格には見えなかったけど」

 というと、幹江は少し考えていた。

「それは、やっぱり、タイムアップが原因なのかもね」

「タイムアップというのは?」

「私がこの世にできることは限られているの。それは力もそうなんだけど、時間的にも限られているのよね。でも、私一人なら限られた時間なんだけど、静香は限られていないの。だって、静香は生きているんですからね。でも、私があなたの前に現れる時間は限られているの。だから、現れるタイミングも難しいの。今まで五年間、静香があなたのそばにいて、私が現れなかったのは、そういうことなのよ。今のあなただから、私は現れたの」

 今の俊治に一体どういうポイントがあるというのだろう。

――そうか、幹江は今なら、自分の言うことを俺が信じてくれると思ったんだ。いきなりだと絶対に俺が信じないと思ったんだろうな。確かに今なら幹江のことも、静香のことも分かる気がする。やっぱり、幹江は俺のことを一番よく分かっているんだ――

 と感じた。

「分かった。静香は俺がずっとそばにいてあげることにする。でも、結婚したいなんて言われたら、俺、どうなっちゃんだろうな?」

「心配いらないわよ。私が今、あなたの目の前に現れたのは、あなたの気持ちが一番充実していると思ったからなのよ。今のあなたに私の気持ちを伝えれば、きっと静香にも伝わるだろうし、あなたも後悔することなんかないわ。そして、静香は私たちが思っているよりも、本当にしっかりした娘だって私は感じている。あの子には、私のタイムアップリベンジを超えてほしいの」

 幹江の話を聞いていると、最初からすべて分かっていたような気がしてくるからふしふぃだった。

「静香のことは俺に任せればいいよ」

 というと、満足したかのように、静香は、俊治の前から消えていった。

 それから数日して静香は、俊治に初めて抱かれた。

 最初は、

――本当にいいんだろうか?

 と思ったが、何の心配をすることもなかった。その前の日、静香は俊治を引っ張るようにして、ある墓地に連れていった。そこで、手を合わせる静香。

「これ、私のお母さんのお墓なの」

 その墓碑銘には、

「山田幹江」

 と書かれていた。

 そして、その横にひっそりと咲いている花を見かけた静香は、墓前にその花を添えた。そして一言口にした。

「これが、私のお父さんなの。いつ来ても、ここで摘んで花を手向けても、また次の時に来ると、花が咲いているのよ。私のお父さんは、ずっとここにいるの」

 その言葉を聞いた時、俊治は、静香を愛おしくてたまらなくなったのだった……。


                 (  完  )

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タイムアップ・リベンジ 森本 晃次 @kakku

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