第3話 破滅の連鎖
レナが婚約を解消したという話が会社内でウワサになったのは、レナが会社を辞めて半年ほどが経った時であった。会社を辞める時のレナは、今にも結婚したいと言わんばかりに浮かれていたと思っていた人たちにとっては、青天の霹靂だった。だが、そんな中でもマミだけは冷静だった。マミだけがレナとずっと付き合いがあったからである。
レナが婚約を解消した理由はマミにあった。レナはマミを最初誘惑したのだが、本人としては、その日だけのアバンチュールのつもりだった。マミにずっと憧れていて、憧れたままマミと別れ、結婚するなどできないと思ったからだ。レナという女性は見た目はいい加減に見えるが、自分を納得させなければ気がすまないところは、マミよりも強いかも知れない。それだけに自分なりの決着をつけなければ我慢できない性格でもあったのだ。
レナにとってマミは憧れであり、
――自分もマミお姉さまのようになりたい――
という思いがあった。
その思いがいつしか淫らな気持ちになったのは、
――私には、到底マミお姉さまのようにはなれないんだわ――
という思いがあったからだ。
どんなに努力しても適わない相手というのは、誰にでも一人はいるもので、その人の存在を意識しているかどうかで、その人の目標も違ってくる。
「適わない相手だと思うから目標とするのに、相手にとって不足はないという思いにいたるんじゃないかしら?」
と言ったのは、他ならぬマミである。
そのマミのセリフをレナは日頃から忘れないようにしていた。そして適わない相手に対して一目置きながら、あわやくば適うことがどこかにないかを探っていたのだった。
レナはマミが考えているほど淫らな女性というわけではない。真面目さという意味ではマミと同等か、それ以上かも知れない。マミとすれば、自分よりも真面目な女性の存在を許せないところがあった。だからレナに対しては上から目線のところがあった。
――レナちゃんが後輩でよかったわ――
後輩であることで、上から目線が正当化され、相手に憧れを持たせることに成功した。憧れを持つことで、自分が相手よりも優位に立てることに安心感を持つことができるのだった。
レナの方とすれば、最初はマミのことを、
――普通の先輩――
としてしか見ていなかった。
元々、競争心の強いレナは、自分の中で「仮想敵」を作っておかなければ仕事に対してもやりがいがなく、まったくウやる気のない社員に成り下がってしまっていたことだろう。ただ、それもレナにとって無意識のことで、意識があれば「仮想敵」と言ってもいいのだろうが、無意識のために、ライバルとしてしか見えていなかった。
それでも、マミが自分よりも年上であることで、普段ならライバルとして見るのはおこがましいと思うはずなのに、敢えてライバルとまで感じたのは、マミの中に自分に似た何かを見たからなのかも知れない。
普通の先輩だったはずのマミをライバルとして見るようになると、
――自分が相手のマネをしているのか、相手が自分のマネをしているのか分からないわ――
と、自分と同じ行動パタンが気になってしまう。
――まるで自分の前を歩いているかのようだわ――
と考える時は、必ず自分が後ろでマミが前であった。
とにかく自分と同じところを一度見つけてしまうと、どうしても頭から離れなくなる。その思いを打ち消そうとしていた気持ちの表れが、マミへの誘惑だったのだ。
その感情は、誰にも知られるはずもないことだったはずだ。
しかし、その感情に気が付いた人がいた。その人は実はマミのことを知らない。レナのことだけを見ていて、
――何かおかしい――
と感じたのだ。
その人というのは、レナの婚約者で、名前を小林良治と言った。
彼は国立のK大学で研究員をしている学者のタマゴで、分野としては建設関係の研究だった。
「鉄筋コンクリートに代わる次世代の建築法についての研究をしているんだよ」
と彼はレナに説明したが、本当はもっといろいろ研究をしていて、それを一言で説明するのは無理なことだし、説明してもほとんど分かるはずもなかった。
彼の研究チームの研究の根幹が、鉄筋コンクリートに代わる次世代建築だということだったのだ。
彼の研究チームの教授は、元々心理学の研究にも長けていて、
「心理学も建築学も似たところがあるんだよ」
というのが口癖だった。
「それはどういうことですか?」
と研究員が聞くと、
「その答えを今研究しているんだよ。しいて言えば、『世の中に存在しているものは、必ず滅びる』ということかな?」
というだけだった。
要するに、教授が言いたいのは、自分もそこから出発して、ある程度までは来ていると思っているが、
「千里の道を歩くのに、九十九里をもって半ばとすという言葉があるが、まさにその通りで、今自分がいる場所もほとんど来たと思ったとしても、まだまだ半分くらいしか来ていないということさ」
ということだった。
「それでも君たちが目指すには私の到達しているところまで来るにはかなりの道のりだということを覚悟して置きたまえ」
と言われた。
相手が教授でなければ、少しイラッとくる言葉であろう。そこは尊敬する教授の言葉、別に腹を立てる必要もないだろう。
この言葉を聞いて、最初に感じるのは、
「目的地が見えている場所を目指し、一直線の道を歩いていくと、ほとんど来たを思って後ろを振り向いてみると、結構遠くに感じる。前を見ると、最初に比べてかなり近くに感じられることから、ほとんど来ていると思っているが、本当は半分も来ていないのかも知れない。それはきっと、自分が歩んできた道が実績があることであり、これからの道はまだ未知であることからどうしても軽く見てしまう」
という発想だった。
しかし、この言葉の本当の意味としては、
「物事は、終わりが近づいてくるにつれて、困難が増してくることから来ている言葉なんだ」
ということであり、感じていたこととは少し隔たりがある。
感じていたことは、自分にとって都合のいいことの解釈で、教授の言った言葉がこの意味に近いと感じることで、それ以上の発想が生まれてこなかった。だが、実際に教授が言った意味は自分に都合のいいことで間違いではなかった。教授はそこまで考えて、自分たち研究員に話をしたに違いない。
――これが教授の尊敬されるところなんだな――
教授が無意識にそんな言い方をするはずがない。
研究員のどれだけの人が教授の気持ちを分かっているのか分からないが、少なくとも研究員のほとんどは教授を尊敬している。一糸乱れぬ研究が繰り返されるのも、気持ちを分かっていなければ適わないことだいうことが分かっているので、研究員の気持ちを一つにするのは教授の手腕であることに違いないだろう。
小林がレナと知り合ったのは、大学の近くのバーでだった。
小林は時々、無性に一人になりたくなることがある。元々、躁鬱症なところがあるせいか、急に一人にならないと気がすまなくなるのだ。
それも鬱状態が近づいている時で、
――寂しい――
という感情が生まれる前に、一度でも一人になっておかなければいけないという気持ちがあったのだ。
普通の人なら、鬱状態の時は寂しさから、一人でいたくないと思うくせに、人と関わることが鬱陶しく感じられ、何をするにも億劫な自分をどうすることもできず、どうにも身動きができなくなってしまうのだ。
そんな状態を鬱状態なのだと小林は思っていた。そして、小林だけではなく、鬱状態に陥る人のほとんどは自分と同じ気持ちになると思っていた。しかし実際にはそこまで分かっている人は少ないのかも知れない。
――分かっていたとしても、どうすることもできない自分にやきもきするくらいなら、何も感じない方がいい――
と小林は思っていた。
ただ、小林は、
――自分は、躁鬱症の気があることで、研究員としての自分を見ることができるのかも知れない――
と感じていた。
そう思ってまわりの人を見てみると、何とも偏屈な考えを持った人が多いことか、ビックリさせられた。
まわりが受験に向かって誰もが寡黙で、何を考えているのか分からないといった高校時代から、開放的になった大学生を見た時に感じた、
――何と、こんなにもおかしな連中ばかりだったのか――
と感じさせられた時の感覚に似ていた。
開放感がこれほど人を爆発させる発想に導くものなのか、そして、受験というものが、そんな彼らを一気に狭い範囲に押し込めて、表に出すことをタブーとする世界だったのかということを思い知らされた気がした。
そんな大学入学当時の思いを、もう一度しようなどと思ってもみなかったので、研究員の皆を見た時、新鮮な気がした。
ただ、彼らはただの偏屈でもあった。奇抜な発想をすることもあるが、それ以外にも、急に内に篭ることがあり、ただ、それが受験時代の寡黙な人たちとは違っていた。
――もう二度とあんな時代に戻りたくない――
という思いがあった。
受験などというものがどうして存在するのか、嫌で嫌でたまらなかった。
皆が同じ目標を目指し、同じように勉強している。その中で優越を競うことになるわけだが、研究は違っている。
確かに同じ目標なのかも知れないが、発想は無限に広がっている。テキストがあって、試験範囲が決まっている中で勉強するわけではない。自分の信念の元、信じる答えを見つけ出すために、そして、これから先にテキストが出来上がるとすれば、その基礎を作っているのが自分たちなのだという意識を持つことで、陰湿な気持ちになることはなかった。
ただ、高校時代にはなかったプレッシャーがあるのは事実である。
お金をもらっての研究なので、中途半端なことはできない。だが、それも意識として他の社会人と別に違ったところはない。それでも、
――自分たちが先駆者となって、開拓していくんだ――
という思いがあるから、それがやりがいに繋がっている。
やりがいを目的としなければ、本当に高校時代と同じになってしまい、プレッシャーに押しつぶされるのは目に見えているようだ。
もし、小林は自分が他の人のように、普通に会社に就職していたとすれば、プレッシャーではなくストレスによって、潰れることになるという思いを抱いていたに違いない。
小林が一人になりたいと思うのは、研究員になっていなかった場合を想像した時が多かった。普段なら研究員以外のまわりの人が目に入ることはないのだが、急に目に入ってしまうことがある。
――俺って、本当は人間らしいところがあるのかな?
と思う。
普段は人間らしいところを感じないようにしているのは、我に返った時に思い出すのが、
――高校生の頃の受験時代――
だったからである。
そんな時に行く店は自分で決めていた。
あれは、研究員になってから二度目の、
――一人になりたい――
と感じた時であった。
真っ暗な通りを歩いていて、一筋の光を見た気がしたのだが、眩しいと思ったのは錯覚で、密かに光っている看板だった。まるで隠れ家のようなその店は、寂しさを癒してくれるような気がした。目に飛び込んできた紫色は、明るさを最大限に抑える色に見えて、妖艶さが彷徨う気持ちを彷彿させているようだった。
店に入ると、そこにはマスターが一人いるだけだった。
「いらっしゃい」
と元気のなさそうな声で言われて少しビックリしたが、
――いかにも隠れ家のような店らしいマスターだ――
と感じることで、別に嫌な気はしなかった。
カクテルと料理を頼み、少し佇んでいると、カウンターの奥に本が置いてあるのが見えた。
本の内容は心理学の本であり、思わず手に取ってみた。
「マスターこの本、見てもいいですか?」
というと、
「ええ、かまいませんよ。心理学に興味がおありかな?」
とマスターが言った。
「ええ、一応私も学者のタマゴなので、興味はあります。心理学とは関係のない研究ですけどね」
と言って苦笑いをしたが、マスターは相変わらずの無表情だった。
その表情を見ていると、ムッとしてしまう自分を感じる。だが、なぜか嫌ではなかったのだ。
「どんな研究なんですか?」
と聞かれたので、
「建築学です。鉄筋コンクリートに代わる次世代の研究をしています」
というと、
「なるほど、それはなかなかですね。大変な研究だと思いますが、頑張ってください」
マスターのセリフは、言葉をそのまま解釈すると、完全な他人事のように聞こえるだけだが、その内容の曖昧さに、小林は、
――言葉を額面通り受け止めていいんだろうか?
と考えてみた。
彼の躁鬱なところは疑り深いところを秘めていて、ついつい裏を読み取ろうとしてしまうところがある。
――だから、それが躁鬱を生むんだ――
と考えられなくもなく、そのために多くなっている気苦労なのだが、本人には自覚があまりなかった。
「実は私、脱サラしてこの店をやっているんですが、この店にはサラリーマンかOLしか常連さんになってくれる人はいないんです。元々、会社員以外がこの店に来ることがないのか、それとも会社員しか常連になってくれないのかの、どちらかなんですよ」
作っていた料理ができて、カウンターに並べる時、マスターはそういった。
さっきまであんなに他人事のように見えていたマスターが、どうした風の吹き回しなのだろう?
「類は友を呼ぶという言葉もありますし、マスターの雰囲気から出るオーラが、会社員を引き付けるんじゃないんですか?」
というと、
「そうなんでしょうか? 私は会社員をしていた時代、サラリーマンが嫌で嫌で仕方がなかったんです。元々、人から命令されるのが好きではなく、上司からの指示もあまり好きではありませんでした。明らかに間違っていると思っていることで、上司の命令であればしたがわなければいけないですよね。確かにその責任は上司にあるのだから、自業自得なのかも知れませんが、部下が間違った道を正そうとしているのに、上下関係の方が絶対だなんて、私には理不尽にしか思えないんです」
マスターが脱サラした理由のすべてが、今の言葉だけだとは思えないが、少なくともこの話がマスターの本音であることに間違いはない。
「我々、研究者の世界では、そこまでひどいことはないですね。もちろん、研究所によって差はあるんでしょうが、私の勤務している研究所では、教授の研究を皆で助けているというのはもちろんのこと、助手であったり、他の研究員の発想から、皆でその発想を証明しようとするものです。それぞれに個性もあれば、研究員としての実力もあるのだから、それは尊重されるべきだと思いますよ」
と小林がいうと、
「私もそんなところで働いてみたかったですね」
という言葉に、
「でも、きっと我々の責任は、民間企業よりもはるかに大きなものだと思っています。少なくとも国から多額の補助金が出ていますから、半分は税金を使っているようなものですからね。その分、精神的には大きなプレッシャーになっていますよ」
というと、
「なるほど、確かにそうでしょうね。だから逆にそのプレッシャーを皆が共有しているという意識を持つことで、上下関係よりも、個人尊重の意識になるんでしょうね」
というマスターの話を聞いて、
「そんな単純なものではないかも知れませんよ。確かに個人尊重という意識は全体で共有していると思います。でも、研究員の上下関係というのは、サラリーマンのそれよりも本当は厳しいんです。教授の発想はある意味絶対で、だからこそ、皆で証明しようということになるんです。もちろん、間違っているかも知れません。でも、教授の方も、自分が絶対的な立場でなければいけないという思いがあるので、よほどの自信がなければ研究を公表しようとは思わないんですよ。そうでなければ、研究員もしっかりとした証明ができないと思います。何しろ最終的には学会で報告して、最後には世間に公表することになるんですから、本当に責任は重大です」
「会社員の上司の責任なんかと、比べものにならないというわけですね」
「優劣の問題というよりも、次元が違うというべきか、違う土俵のものを比較するというのは、最初から無理があるということを言っているんですよ」
「そうですか。私もサラリーマンを辞める時は、結構いろいろありましたからね、精神的には複雑で、負のオーラが充満していたかも知れません。何から手を付けていいのかわからなくなってしまい、自分がどこにいるのか、急に分からなくなったり、何を考えていたのかという寸前のことすら忘れてしまうくらいでしたからね」
「分かりますよ。いろいろ気苦労や苦痛が重なると、ふと自分をどう納得させればいいのか分からなくなることがありますからね。まるで夢を見ているかのような錯覚に陥り、『夢なら早く覚めてほしい』と思うのかも知れません」
マスターは自分がサラリーマンを辞めたことだけではなく、他の理由も話したいのかも知れない。
小林がそう思っていると、
「私は、会社の上下関係で悩んでいた時、実はある女性と婚約していたんです。その人は私が悩んでいることも分かってくれていて、一緒に悩んでくれていたようなんです」
と、少しずつ話をしてくれ始めた。
「それはそれは」
相槌ともいえない言葉を返した小林だったが、マスターのような人が相手であれば、これくらいの方がいいのかも知れない。
「その婚約者なんですが、私が会社を辞めてしまったその時、彼女の方から婚約を解消しようと言ってきたんです。私は本当に青天の霹靂でした」
「会社を辞めたタイミングでですか、それはきつかったですよね。それまで彼女に会社を辞めたいなどと相談しなかったんですか?」
と、小林は当然のごとくの質問をした。
「ええ、もちろんしましたよ。彼女の方でも、『そんなひどい会社なら、辞めてしまえばいいのよ。失業中は私が食べさせてあげる』とまで言ってくれていたんです。私もさすがに辞める決心をした時は、それなりに蓄えがあったので、彼女に食べさせてもらおうなどとは思っていませんでしたが、その思いは嬉しかったんです。それで『君の気持だけで十分だよ』と答えたんですけどね」
というマスターに、
「マスターは計算高い人なんでしょうね。サラリーマンを辞めて婚約を解消されてもこのお店ができるくらいの蓄えを残していたということでしょうからね」
と小林は言ったが、それと同時に
――なるほど、時折見せる他人事のよういn見える態度は、ひょっとするとまだ未練のようなものがあり、心ここに非ずと言ったところなのかも知れないな――
と思ったのだった。
「そうかも知れませんね。でも、こんな時、計算高いと言われるのも、あまり嬉しいことではありません。それでも、こうやってお店ができるというのは、サラリーマンは辞めてよかったと思っていますよ」
そういうマスターの心境を思い図りながら、さっきカウンターの奥にあった心理学の本を見つめた。
小林は、別に心理学の本を見たいと思ったわけではない、さっきまでのようなマスターの暗い雰囲気の中で、いたたまれない雰囲気に陥った時、本を読むことで空気の圧力に負けないようにしようと思っただけだ。
小林は、マスターの話を聞きながら、自分の研究に置き換えて考えていた。人の話、特に悩み事を聞いている時、自分の心境に置き換えて聞くというのは、小林に限ったことではないだろう。
しかし、小林の研究は心理学のようなものではない。それでも、建築学を突き詰めていくと、
――どこか心理学にカブってしまっているところがないわけではない――
と感じた。
「心理学というのは、他の学問や研究を突き詰めていくと、そのうちにどこかで必ずカブってしまうところがある。その時に、カブっていることに気付くか気付かないかというのは、結構その研究に大きくかかわってくることになるんじゃないかって思うんだよ」
という話を、大学時代に心理学の講義を受けている時に聞いた気がした。
実際には自分の志す研究とはかけ離れているところがあると思っていた心理学なので、大学時代の講義のほとんどは忘れてしまっていたが、この言葉だけは、なぜか頭の中に残っていた。
「心理学が他の学問とカブっているという話は私もよく聞くが、建築学も同じことが言えると思っている。何かを研究するということは、その接点を見出して、そこから導き出される道を見つけることが、今まで見えていなかったものを見出すためには必要な真理ではないかと私は思っているんだよ」
というのが建築学研究所の教授の話だった。
「ところで、私の婚約者が婚約を解消した理由、彼女は何て言ったと思う?」
マスターがそう言った。
「マスターは聞かれたんですか?」
「私が聞いたというよりも、彼女の方が言ったんだよ。最初はかたくなに理由を言わなかったんだけど、私がある程度、自分の置かれている立場を受け入れられる精神状態になった時になんだよ」
「それって、一歩間違えれば、火に油を注いでしまって、大炎上する結果になるんじゃないですか?」
「ええ、実際に私の中では大炎上でした。何しろその理由というのが、好きな人ができたということだったんです」
――よくあることだ――
と小林は思ったが、それよりも、
「どうして、いまさら、つまりはマスターが立ち直ろうとしているその時に告げるんでしょうね。まるで傷口に塩を塗るようなものだ」
「ええ、そうなんですよ。しかも、その相手というのが男ではなく、女だっていうじゃないですか。これには開いた口が塞がりませんでした」
「えっ? そうなんですか? それはさらにショックですね」
「いえ、でもね、次第に自分の中でさめてくるのを感じました。そして、急に彼女が遠くに行ってしまったことを理解したんです。ある意味、彼女の言動のタイミングは、すべてにおいて計算され尽くしていて、私の中では、あっぱれだって思えてきたんですよ」
「そうかも知れませんね」
と言って、再度マスターを見た。
最初に感じた曖昧な雰囲気、そして心ここに非ずの態度に、どこか投げやりで他人事に見えた態度は、その時の後遺症があるからなのかも知れない。
「彼女は、私と付き合っている時、そんな素振りはなかったので、きっと会社の女性にたぶらかされたに決まっています」
「その人は会社の女性だったんですか?」
「ええ、婚約者は私とは違う会社だったので、彼女の会社の事情は分かりませんが、婚約解消を言われて、さすがに、『はい、そうですか』とは言えない私は、密かに彼女を探っていて分かったんです。だから彼女に告白されなくても分かっていたことではあったんです。でも、それだけに、彼女の口から本当のことを聞かされると、追い打ちをかけられたようで、さらなるショックを受け、トラウマになってしまいました」
「なるほど、完全にダメを押されたという感じなんでしょうね」
「ええ、その通りです。だから、本心では『余計なことをしやがって』と思ったのも事実だったんですよね」
「未練はなかったんですか?」
「ええ、彼女が会社の女性と仲良く歩きながら、ホテルに入っていくのを見た時、足元が急に割れて、そのまま地面に吸い込まれてしまう錯覚に陥りました。そして、そのあと、自分の感覚は自分が落ちた穴を表から見ている別人になったんです。すると、その穴はまるでビデオの逆再生のように、元通りになっていったんです。それこそ、昔見た特撮番組の一シーンのような感じでした」
マスターは、自分が見てきたことを、今見たことのように話した。
しかし、実際にその話がどこまで本当なのか小林は疑念を持っていた。目に見えていることに間違いはないだろうが、主観的にマスターが見ていることが果たして信憑性のあることなのか、疑問だったのだ。
「マスタ―はその時に何を感じましたか?」
本当であれば触れてはいけないことなのかも知れないが、マスター自身が自分から話を始めたのだ。小林にはこの話には触れてあげた方がいいのではないかと思うようになっていた。
「女性というものは怖いものだという意識は確かにありました。でもそれよりも自分の知らない世界が目の前で繰り広げられていることに興奮もしましたね」
「それは隠微なイメージと捉えてもいいんですか?」
「ええ、でもそれだけではないとは思っています、それが何かと言われると、どう答えていいのか分かりませんが、ただそれだけではないということだけは分かるとしか言えませんね」
「実は僕も以前、気になっていた女性からフラれたことがあったんですが、彼女とはそこまで仲良かったわけではないので、最初はフラれたという意識はなかったんですが、日を追うごとに気持ちが揺れ動いてしまって、何も手につかなくなったんですよ。そのせいもあってか、心理学を気にするようになっていったんですね」
「小林さんはその時、その女性を好きだったんだって後から感じたんですか?」
「ええ、なくなってしまって初めて気付くこともあるっていう話をよく聞いたことがあったんですが、まさか自分が人に対して、しかも女性に対してそんな感覚になるなど、思ってもみませんでしたね」
「確かになくなって初めて気付くというのはよく聞きますね。でも私にはそんな感覚を味わったことはないんです。なくなったものへの意識は最初からあることばかりなんですよ。そうじゃないと、きっと気付かない気がします」
「ということは、マスターには、自分で気付いていないこともたくさんあるのではないかと思っているんですか?」
「ええ、思っていますよ。でもそれが自分にとっていいことなのか悪いことなのかはその時々で違いますよね。知らぬが仏という言葉だってあるじゃないですか。何も知らずにやりす過ごす。ひょっとすると一番幸せなことなのかも知れませんね」
というマスターの言葉を聞いて、小林は少しさみしそうな表情になり、
「それって、少し寂しいですね」
「学者さんからすればそうかも知れませんね。学者さんというのは、誰も知らないことを研究して発見するものですよね。発見したことが必ず役に立つことだとお考えですか?」
とマスターが聞いてきたので、
「そんなことはありませんよ。むしろ、研究していて虚しいと思うことも少なくはないんですよ。何しろお金がかかっていることなので、個人の意見が通るわけでもないですよね。結局は金銭的な問題も、研究には欠かすことのできない大きな問題なんですよ」
「じゃあ、理不尽なことも多いんでしょうね」
「ええ、むしろ研究対象として大きな興味を持つことに対しては、どうしても生産性に関しては受け入れられないと思われることが多いんです。交差するジレンマは、どこの世界にも存在するものですよね」
と小林がいうと、
「だから、私もサラリーマンには未練がないんですよ。もちろん、自営業というのも難しいもので、サラリーマンよりも理不尽なことも多いですね」
「僕は、今の研究で、破壊することを前提としている内容の発想が膨らんできています。そこには世の中のものの限界を見つめることから始まる発想があるんですよ。建築に限らず、形のあるものは必ず滅びるというのは、避けては通れない発想であることに違いありませんからね」
と小林がいうと、
「なるほど、スポンサーからすれば、リスクの大きな発想なのかも知れませんね。いかに経費をかけずに延命を図ろうとするのが一般的な発想のように思えますからね」
マスターの意見は、小林の発想を確認し、裏付けるような意見であった、
「マスターの話には興味のある意見が満載な気がします。もう少しお話をしていたい気がするんですが、明日、早朝から会議なので、今日はこれくらいにして、また伺うことにしますね」
と言って小林は会計を済ませ、店を後にした。
――スナック「アルテミス」か――
入る時、店の名前を意識していなかったような気がした。最初はただ立ち寄っただけで、再度この店に来ていたいと思うことはないだろうと思っていたからだった。
店を出て看板に目を向けたのだが、看板から目を離して道に目をやると、
――おや?
と、なんとなくの違和感を覚えた。
――これって歩いてきた道だよな――
と感じたからだった。
来た道を帰ろうと思って振り返ってみると、確かに歩いてきた道に似てはいたが、どこかが違っているのを感じた。
――そういえば、こんなに暗かっただろうか?
歩いてきた時も暗かったという意識はあったが、店を出てから感じた暗さは、最初に感じていたよりもさらに暗いものだった、
すぐに街灯の存在を確認した。道には適度な距離に街灯が存在していて、ライトはすべてついている。一つ一つの明るさを見ると、暗いという雰囲気はなかった。
――どうしてこんな気持ちになったのだろう?
と考えたが、その理由はすぐに分かった。
――そうだ、自分が立っている場所が、ちょうど街灯の間に位置するんだ――
と気が付いた。
ちょうど今いる位置は、店を出てすぐの場所で、街灯は店のある場所には存在しておらず、当たり前のことだが、店を飛ばして存在している。暗く感じるのは当たり前のことだった。
――なるほど、そういうことか――
こんな簡単なことに気付かなかったということに、我ながら少し自分でもビックリしたが、少し冷静に考えると分かるのだから、それほど今の自分が冷静さを欠いているとは思えない。
小林は踵を返して来た道を歩いてみた。来る時とは明らかに精神的に違っていると感じたのは、来る時ほど帰りは、何も考えていないことだった、
何も考えていないことに気付いたのは、足元ばかり見て歩いていることに気付いたからだ、足元がずっと気になっている理由についてすぐに気付かなかったが、気付いてみるとそこにあったのが足元から伸びる自分の影であったのだ。
足元の影は街灯に照らされて、当然のごとく、足元から伸びている。そして街灯が複数存在していて、一つから遠ざかっているのであれば、もう一つには近づいていることになる。同じ距離で点在しているのだから当たり前のことなのだが、その影が複数存在していて、まるで放射状に円を描くように映し出されると、そこに芸術的な美しさを感じるのは、小林だけではないだろう。
ただ、その足元の影を、誰もが感じることができるかということだ。同じ環境であれば、誰もが経験することのできる光景であるが、果たして誰もが同じ感覚を味わうことができるというものだろうか。小林は少し考えてしまった。
足元から伸びる影は、一つが次第に明るくなり、さっきまで明るかった影は次第に衰退していく。共存しながら、片方は次第に成長していき、片方は衰退していく、つまりは、必ず途中に交わる交差が存在していることになるだろう。そう思うと、ニアミスを無意識に探しているのではないかという思いを、自分の中に感じることができるのだった。
どれくらいの間歩いたのであろうか、小林は目の前に見覚えがありそうなところに差し掛かった。
――どこかで見たことがあったような――
と感じたが、自分の確固とした意識の中では、
――初めて来たはずなのに――
と感じていた、
――いわゆるデジャブというやつか――
デジャブというのは、一度も見たり来たりしたことがないはずなのに、
――以前にも見たことがあったような気がする――
という感覚に陥ることであった。
デジャブという感覚は、ハッキリと科学的に証明されているわけではないが、学説としてはいくつか存在しているようだ。小林にはその中で少し気になっているものもあるようで、
――以前に見たことがあるというのは、どこか本や絵画で見たことがあるものを、自分の記憶との交差の中でなんとなくリアルに覚えていることが曖昧な状況にしておかないようにするために、意識的に「辻褄を合わせよう」とすることなのだ――
というのを、本で見たことがあったような気がした。
他にも意見はあるようだったが、小林の中で一番印象に残ったのは、この意見だったのだ。それを思うと、
――なるほど、デジャブというのは、辻褄合わせなんだから、本当の記憶ではない。ひょっとすると夢に見たことだったのかも知れないと思えることではないだろうか?
と感じていた。
目の前に広がっている光景は、妖艶なネオンサインに彩られた世界で、ただ光は控えめだった、
――ここって、ラブホテル街ではないか――
もちろん、小林はそれくらいのことは分かっている。今までにラブホテルに来たことがないわけではないからだ。
しかし、どうして見たような光景だと思ったのだろう。学生時代に入った時のホテルとは少し違っていた、あの時の光景は、瞼の裏に焼き付いている。ラブホテルに入ったのはその時が最初で最後、それ以降、その女性と別れてしまったので、入ることはなかった。
――ひょっとして、さっきのマスターの話を聞いたことで、勝手な想像が頭の中に浮かんだからなのかも知れないな――
と感じた。
マスターの話だけで浮かんできた光景は、自分が最初に入ったホテルのイメージだったはずだ、それ以外には想像の余地があるはずもなく、もちろん、想像していた光景に、違和感などなかったはずだ。
それなのに、今初めて見るはずの光景を、まるでデジャブのように感じるのはなぜなのだろう。最初は違和感を覚えていたはずなのに、次第にデジャブであることに違和感を覚えることはなくなっていた。
歩いているつもりだったが、気が付けば立ち止まっていた。
――こんなところで立ち止まっていたら、怪しい人間にしか見えないよなー―
と思ったが、考えてみれば、ここに佇んでいる間、この通りを歩いている人は一人もいないことに気が付いた。
確かにこんなところで人通りが多ければ、これほど異様な光景はないだろう。ただ、誰ともすれ違わないということを意識した時、
――僕はここにいつからいるんだろう?
と感じたのだ。
――五分、十分? いや、もっと長かったかも知れないし、短かったと言われてもそうかも知れないと思うだろう――
要するに、それをとっても違和感がないし、限りなく違和感に近い感覚ではあった。
一軒のホテルの前でずっと佇んでいる。どこを見ているのかというと、入り口をずっと見ているのは、そこから誰かが出てくるのを待っているかのように感じられる。
――自分のことなのに――
何を考えているのか分からない、
――誰かが出てくるのを待っているというよりも、誰かが入っていく場面を思い出しているかのようだ――
と思うと、またしてもマスターの話を思い出した。
――マスターは自分の婚約者が、他の女とホテルに消えていったというではないか?
ということを考えていると、その話を想像した自分が、勝手な妄想を抱き、入り口に消えていく女同士のカップルをどんな目で追っているのか、今度は自分を見ているもう一人の自分がそこに存在しているのを思い浮かべてしまう。
ここまでくれば、もはや想像ではなく、妄想でしかないだろう。
――マスターからさっきの話を聞かなければどうだったのだろう?
と思うと、なぜか小林は、浦島太郎のお話しに出てきた「玉手箱」の話を思い出していた。
「決して開けてはいけませんよ」
浦島太郎は、夢のような竜宮城から現実に引き戻されて、しかもその場所は、自分の知らない場所だったというものである。
その時の太郎の気持ちがどんなものだったのか、想像を絶するものなのかも知れないが、自分で受け入れられるものなのかどうか、本人でなければ分かるはずもない。
そういう意味では、引き戻された現実というのは、そのすべてに、
――本人でしか分からない――
という思いが存在しているだろう。
それは、自分が浦島太郎の発想をしたからであって、そんな発想ができるのも、小林自身、学者であることを再認識するものだった。
学者だからといって、堅物のようなイメージを持つのは、偏見というものである。学者ほど、
――夢多き人種――
は存在しないのではないかと思っている。
夢があるからこその探究心であり、その思いが研究熱心さにつながっていく。
「すべてを科学で証明されるものだ」
と考えるのが学者だと思っている人もいるかも知れないが、それこそ大きな偏見であり、自分の発想に限界を感じさせるに違いない確証だったのだ。
どれくらいの時間、その場所で佇んでいたというのだろう? 小林が一つの場所に留まって、何かを待っていることなどあまりないことだった。中学生の頃であれば、友達と待ち合わせをした時など、待ち合わせの時間よりも早く着いて、皆を待っていることが多かったので、
――人を待っている――
という意識はあったが、それはあくまでも相手が間違いなく来るという前提の元であった。どんなに遅れても待っていれば来ると分かっているのであるから、誰かが来るかも知れないという漠然とした感覚で待っているわけではないので、同じ待っているという状態でも、次元の違うものであった。
五分くらい過ぎてから、少し考えた。やっと自分の行動が漠然としていることに気付いたのだろうか、我に返ったといってもいいかも知れない。しかし、五分待ったことで、
――もう五分待ってみよう――
という意識に駆られたのも事実だ。
それはまるでギャンブルの感覚に似ている。
小林はパチンコを時々していたが、ある程度まで嵌ってしまったからと言って、他の台に移るということはあまりしなかった。
普通であれば、
「ここまで嵌って当たらないんだから、他の台に移った方がいいかも知れない」
と考えるのであろうが、彼の場合は、
「ここまで嵌ったのだから、そろそろ来るはずだ」
と考えるのだ。
パチンコには大当たり確率がある。嵌ったゲーム数が多ければ多いほど、その確率に近づいているのは間違いない。もし確率を超えているとすれば考えることは二つだった。
「大当たり確率を超えているのだから、ここで当たっても、次の大当たりまで、また同じくらい回さなければいけない」
と考えるか、
「確率を超えているんだから、いつ当たっても不思議ではない。一度嵌ってしまったら、今度は大連チャンしてもいいだろう」
と考えるかである。
前者はネガティブな考えで、後者はポジティブだとも言えるだろうが、前者が深い考えだとすれば、後者は楽天的とも言えなくもない。
ギャンブルにはどちらの性格がいいのか分からないが、要は気の持ちよう、子供の頃から小林は、後者の方だった。
ただ、本人は楽天的だとは思っていない。あくまでも、
――どちらを選択すれば、あとで後悔することがないか――
ということを考えて行動している。
ホテルの前で漠然と入り口を見ている時もそうだった。誰かが出てくるような予感がしていた。その思いはどんどん深くなっていき、マスターの話が頭の中でシンクロしていたのだ。
――あと五分だけ――
と思っていれば、その五分は次第に短く感じられるようになってくる。そのうちに、
――あと十五分――
というように、少しずつ時間の間隔が長くなってくる。それだけ小林はその場から立ち去ることができなくなっていたのだ。
待っていると、果たして中から出てきたのは、二人組の女性だった。一人が腰砕けになっているようで、一人がそれを支えている。その様子はいかにも異様であったが、マスターの話を思い出していると、なんとなく不思議には思えなくなってきた。
崩れ落ちる方の女性の雰囲気は、完全にズタズタで、ボロ雑巾のようになっていた。その女性を見ていると、小林は一つの仮説が頭に浮かんできた。
小林は崩れ落ちる方の女性にしか目線は行っていない。彼女の落ちぶれたとしか表現できないその姿は、まさに破壊され尽くし、立ち直りにはかなりの時間がかかるように思えた。
ただ、そばにいる女性が崩れ落ちている女性をいかに生かすかは、小林の想像の域を超えていたのだった。
小林の発想としては、崩れ落ちる女性がつい最近まで幸福の絶頂にいて、精神的にも有頂天であったことは想像できた。
「あ、髪の毛が」
少し離れた小林から見ていても、崩れ落ちている女性の髪の毛が、垂れ流し状態のようにどんどん抜けてきているのを感じた。
――きっと彼女はこの間まで、伸びきるところまで髪を伸ばしていたんだろうな――
と想像できた。
そして、彼女は髪の毛を伸ばせるだけ伸ばしたのは、自分の中のオカルトを信じていたのかも知れない。
――自分が幸運を確実に掴むまで、髪を切ることはしない――
と決意していたのかも知れない。
そして彼女は、幸運を掴んだ。絶頂は有頂天になって、怖いもの知らずだったに違いない。
しかし、元々怖いもの知らずなどではなく、幸運を手に入れると、その代償に何かを失うということを絶えず意識していた人間は、本当の絶頂に達すると、そのことを忘れてしまうのであろう。そうなることが、破滅への第一歩である。
――少しでも、有頂天の状態に精神的な危機感を持つことができていれば、破滅を食い止めることもできたかも知れないのに――
それは、完璧すぎる幸運を手に入れたからではないだろうか。
自分でコントロールできない精神状態を生むことになるなど、想像もしていないに違いない。
――完璧な幸運は、完璧な破滅へのスタートでしかすぎない――
これが、小林の研究の原点だった。
彼女の髪の毛が抜けるのは、その兆候であり、本人に最後の猶予として、気付かせるように身体が反応しているのであろうが、そんなことが完璧な絶頂を手に入れた人間に分かるはずもない。
建築学とは、心理学と表裏一体のものであり、絶頂が破滅の第一歩であるというテーマは、
「すべてを破壊しなければ、新しいものを生み出すことなんかできないんだ」
という理論を小林は抱いていた。
そこに至るまでの究極の破壊は、彼女とマスターを取り囲む人にいつの間にか忍び寄っていた。小林は自分がこれから出会うであろうたくさんの破滅の数だけ、研究が進んでいくことを知っていた。
時間は小林を絶頂から破滅へと導く瞬間に誘っているかのようだ。
――本当の破滅が自分に訪れる前に、研究が成就できればいいのにな――
と、ホテルのネオンサインで顔色が刻々と変わっていく自分を想像していた小林だった……。
( 完 )
完全なる破壊 森本 晃次 @kakku
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