一日百時間

森本 晃次

第1話 百時間

 人間、生きていればいろいろなことに直面するものである。特に何かを目標に生きている人には「生きがい」という張り合いがある反面、壁にぶつかりやすいものである。

「出る杭は打たれる」

 というが、生きがいを持って前に進んでいると、どうしても自分の中で突出部が生まれてきて、知らず知らずに壁にぶつかってしまっていたりする。別にまわりと見ていないつもりはないのだが、まわりを見ていると、さらにそのまわりが気になってくるのも事実のようで、そうなればキリはない。そのため、敢えてまわりを気にしないようにしようと感じるのも無理もないことだ。それが意識的にであれ無意識にであれ、仕方のないことだと思ってしまうと、結果的に意識しなくなってしまうというものである。

 工藤香澄も生きがいを見つけるために一生懸命に生きてきて、曲がりなりにも生きがいに近づいたと思って喜んでいると、有頂天になった時期もあったが、短いそんな時期を通り過ぎると、気が付けば惰性になっていたようで、いつの間にか溜まっていないと思っていたストレスに圧し潰されそうになっている自分に気が付いたが、それが遅いのかどうかすら、自分では分からなかった。

 工藤香澄は今年で三十歳になった。学生時代からナースになるのが夢で、看護学校に進み、卒業後念願のナースになった。有頂天になったのはその時だったのだが、現実とはそんなに甘いものではない。しばらくして理想と現実のあまりにも開きのあることを思い知らされた香澄は、自分の感覚がマヒしてしまっていることに気づかないほど、憔悴していた時期があった。

 まわりから見れば、それほどショックに感じているようには見えなかったのだろう。本人は打ちひしがれそうな気持になっている時でも、まわりは容赦がない。

――この娘なら大丈夫だろう――

 という目で見られていたからで、本当なら喜ぶべきことなのだろうが、当の香澄にそこまで理解できるほどの余裕もなかった。

 元々、他人が考えていることを読むのは苦手だと思っていた。

「人の心を読むなんて、大それたこと」

 と思っていたのだ。

 ネガティブに考えていたと言ってもいいだろう。

 自分のことをまわりの人から比べれば、優秀であるはずがないという劣等感を持っていたからだ。だが、本人の意識としては、それが劣等感であるという思いはない。

――これは当たり前のことで、誰もが同じように思っていることなんだわ――

 と感じていたのだ。

 劣等感を持つ人間の方が少数派で、自分が正常なら、劣等感を持つ人は異常だと感じているほどだった。劣等感を抱いていないくせに、自分と他人を比べることは頭の中にあり、自分を正常だと考えて、さらにまわりがどうなのかを考えていたのだ。

 優秀ではないと言っても劣等ではないと思っているので、自分が正常だという意識を持っているに違いない。そういう意味では、

――まずは、否定から入る性格――

 と言えるのではないだろうか。

 否定から入ることは、物事を考える上で、結構気が楽だった。自分中心に考えていても、自分を肯定してしまうと、どうしても視野が狭くなってくるような気がする。それは、香澄が、肯定を真実だと思っているからだ。真実というのは唯一の事実であり、事実は一つなので、事実を否定すると、そこに残るのは、限りなく円に近い広がりを見せる扇のようなもので、その中から考えることができるというのは、自由な発想を得ることができると思っていた。

 しかし、そのうちに香澄は気が付いた。

――あまりにも広がりすぎた範囲からの選択は、よほど自分に自信がないとできるものではない――

 という発想である。

 それが二十代後半になってからのことで、最初はただ不安に苛まれるだけでよく分からなかった。

 考えてみれば、必要以上に範囲を広げすぎると、自分のキャパに沿わない広さに、不安が募ってくるのは当たり前というものだ。実力以上のものを求めても、そこにあるのは、虚空の世界であり、見つめたつもりで扉を開けても真っ暗であれば、一瞬の戸惑いの痕には不安しか残らないというものである。

 その理由に気が付いたのは最近になってからのこと、

――ネガティブに考えているからなんだわ――

 いつから自分がネガティブになったのか必死になって過去を遡って考えてみたが、香澄には見当がつかない。

――まさか、生まれてからずっと?

 そんなことはないのは分かっているつもりだった。しかし、過去を遡れば遡るほど、不安が募ってしまうのは、過去というものが、現在を起点にして遡ると、それこそ扇のように広がっていくものに見えてきたからである。その時初めて、

――広がり続けるということは、不安を募らせるだけなんだわ――

 と感じるようになったのだ。

 自分がネガティブだと思っていると、不思議とまわりに人は集まって来ないものである。学生時代には彼氏と言えるかも知れないと思えた人はいたが、今では彼氏もおらず、親しい女性の友達もいるわけではない。学生時代に付き合っていた彼氏とは、香澄自身は彼氏だと思っていたが、相手はそこまで感じていなかったようだ。どちらかという彼は女性誰にでも優しいところがあり、そんなところに惹かれた香澄だったが、誰にでも優しいということは自分以外の女性にも優しいということであり、そんな単純なことに気づかなった香澄は、気が付いてから一人で苦しんでいた。

 それが嫉妬だと気付くまでに、少し時間が掛かった。それよりも、

――どうして私だけがこんなにやきもきしなければいけないのか――

 という思いを抱えていて、誰にも言えず苦しんでいたのだが、

――誰かに言えれば、どれほど気が楽なものか――

 という悶々とした気持ちでいた。

 その思いが香澄の中で絶えず自問自答を繰り返すようになり、表に出すことのない自問自答のせいで、内に籠ることを覚えてしまった。内に籠ってしまうと、入り込んでしまった袋小路から抜けることができず、堂々巡りを繰り返してしまうだけだということに気づいているのに、どうすることもできない自分に苛立ちを覚えるのだった。

 ただ、それは誰が悪いというわけではない。しいて言えば悪いのは自分、堂々巡りを繰り返すのは、認めたくないという思いがそこにあるからだ。

 何を認めたくないというのかは分からない。認めてしまえば楽になれるような気もするが、認めることでさらに堂々巡りを繰り返すことになり、そのまま抜けられなくなることが怖かったのだ。

 そんな香澄なのに、ナースになりたいというのはどこか矛盾しているようではないか。ナースになりたいという気持ちが目標である間は、前だけを見ていたのでそれほど自分のネガティブな部分と結びついてくることはなかったが、実際にナースになってしまうと、今度はまた一からになってしまう。

――そんなことは分かり切っていたはずなのに――

 そんなことというのは、

――ナースになることがゴールではない――

 ということだった。

 目的を達成しても、それはただの通過点でしかなく、就職してからは誰もがスタートラインである。それはナースを志した時から同じことなのだが、違いがないわけではない。ナースになろうと志した時は、漠然としていた将来への思いに目標ができたという本当のスタートであり、何もないところからの出発点だった。

 しかし、試験に合格し、ナースの免許を得てから、看護学校も卒業し、晴れてナースとして就業できるようになったのは、喜びの痕の出発点だ。

 一度目標達成という満足感を味わってからのスタートは、よほど精神的にしっかりしていなければ我を忘れてしまう。

「いつまでも学生気分では困るの」

 就職した病院で見習いとして勤めるようになると、先輩ナースから言われる言葉だった。

 仕事の大変さは分かっていたことなので、そこまではなかったが、言葉にして表現されると、そこまではないと思っている肉体的な疲労が、気にしないようにしようと思っていても、言葉の威力によって、精神的に心のどこかに穴が開いてしまうのだろう。その穴に入り込んでくる風が容赦なく吹き荒れてしまい、小さな穴の内側から身体に侵入してくる疲労は、表から見ていては決して分かるものではなかったはずだ。自分でも大丈夫なのか自信がなくなり、気が付けば、また孤独に苛まれていた。

――孤独は慣れているはずなのに――

 自分が孤独なのは仕方のないことだと思っていた。

 別に望んだことではなかったが、抗う気持ちもなかった。それを運命のようなものだと受け入れる気持ちになれば、恒久的な孤独を耐えていける気がしたのだ。

――孤独というものは、本人の考え方によってどうにでもなるものだ――

 香澄はそう思ってきた。きっとこの先もそう思っていくことだろう。それに対して疑問を感じたことはない。

――孤独ではない状態って、どんな状態なの?

 と考えてみるが、ハッキリ見えてくるものではない。

 自分のまわりに友達がたくさんいることが孤独ではないと言えるのだろうか?

 学生時代には、女友達は確かに数人はいた。自分では親友だと思っていた人もいたのだが、彼女が他の友達と話をしているのを見ると、胸が痛むのを感じた。どうしてなのかを自問自答してみたが、分かるわけではなかった。

――彼女を独り占めしたいと思っていたからなのかしら?

 と思ったがそうではない。

 独り占めしたとすると、彼女も自分を独り占めしようとするだろう。それはそれで悪いことではないのだが、香澄の中の自分の領域にまで入ってこられるのではないかと思った時、それを許せるのかどうか、分からなかった。

――それなら孤独の方がいいのかしら?

 と、そんな思いが頭をよぎる。

 香澄はそんな時、自分のことをネガティブだと思うのだった。

 だが、自分の領域に誰も侵入させたくないという思いは自分だけではないはず。

――自分あっての友達――

 という気持ちもあり、まずは自分だった。

 自分の中でしっかりしたものを持っていなければ、相手に気持ちも伝わらないし、気持ちが伝わらなければ、友達として付き合っていくことはできないことも分かっていたつもりだった。

 大学時代に付き合っていた男性がいたが、友達には黙って付き合っていた。友達に話ができるほど、自分に自信がなかったのである。

――話をしてしまうと、別れがすぐにやってくるような気がする――

 という考えがあった。

 もっと言えば、

――別れというのは、彼とも別れというだけではなく、友達との別れでもある――

 というもので、彼との別れを取るか、友人との決別を取るかの選択を迫られる可能性を示唆していたのだ。

 もし、そんなことになれば、どちらを選ぶのか、香澄には想像がつかなかった。どちらを選んでいたとしても、後悔が残るのは分かっていた。 

 もちろん、しこりが残るからである。

 決別したとしても、まったく出会わないわけではない。目が合ってしまった時、間違いなく視線を先に逸らしてしまうのは自分だと分かっているからだ。そんな自分の態度を果たしてその時の自分が許すことができるのか、疑問だった。

 香澄は、今この瞬間の自分を自分だとハッキリ認識できるが、未来における自分が、本当に自分なのか疑問を持っていた。それは過去を思い起こせば分かることであって、

――果たして今の自分を、昔の自分が想像することができただろうか?

 という思いがあるからだ。

 数分前の自分であれば、今の自分が何を考えているのか分からないことは同然だと思うか、昔の自分が将来どんなことを考えているような自分になっているかということは考えたことがない。きっと、心の底で、

――今と変わりない――

 と思っているからなのかも知れないが、実際には違うことが多い。

 それは当然予期せぬ出来事が起こったことで、考えに変化が起こるのは当たり前のことだからだ。もっとも、将来に起こる出来事など千里眼でもなければ見通せるわけもなく、考えが変化するということは、考えてみれば当たり前のことなのだ。

 そんな自分を、今の自分と比較すると、本当に自分なのかと思いたくなるのも無理もないことなのかも知れない。

「何を当たり前のことを」

 と人にいうと、そう答えるだろう。

 それは香澄も分かっている。何がどうかわろうと自分は自分なのだ。だが、そんな自分を許せる自分が今存在しているかどうかが問題だった。だから、決別した相手と目が合った時、自分から目を逸らしてしまう自分がいることを分かっていながら、許せるかどうかを感じていたのだ。

 しかし、目を逸らすだろうと考えているのは、紛れもなく今の自分だった。未来の自分が自覚していることではなく、自分の想像力が生んだ「未来の自分」である。もし、その時許せないと思うのであれば、将来の自分がどう思おうが、今の自分にとっては許せないことなのだ。

 それも当たり前のことである。余計なことを考えて我に返ると、

――またバカなことを考えてしまったわ――

 と思うのは、ネガティブな自分がまたしても、思考の中で堂々巡りを繰り返してしまったのだということを感じているからだった。

 学生時代には、孤独という言葉が怖く、絶えず誰かが自分のそばにいてくれないと不安だった。

 彼氏がほしいと思っていたのもそのせいであり、友達と一緒にいて、明るい話をされているのをただ黙って聞いている時も、話の内容によっては、眩しすぎて耐えられないと思うような話も少なくはなかった。それが彼氏とののろけ話だったりすると、

――私にはそんなのろけ話のような態度は取れないわ――

 と感じさせられた。

 そう思うということは、

――私はあなたとは違う――

 と、友達に対して感じることであり、その感情は羨ましさからくるものだと思い込んでいたのだ。

 しかし実際には、人を羨むことはあまり好きではない。羨むということは、相手に近づきたいという気持ちの表れだと思っていたからだ。

 香澄は友達と一緒にいると言っても、相手とべたべたの関係になることを望んでいるわけではない。むしろ、適当な距離を保ったまま、お互いのいいところを吸収できればいいと思う程度のものだった。もちろん寂しさを紛らわせるためというのが本音ではあるが、それだけでは、いくらネガティブな考え方をしている香澄だとは言え、寂しすぎるというものだ。

 学生時代は、精神的にも余裕があったので、いろいろなことを考えることができたが、二十歳を過ぎる頃から、急に考えを改めなければいけなくなってきた。

 香澄はどこか呑気なところがあった。二十歳になって三年生になってくると、それまでとまわりの環境が次第に変わってきた。今までの学生気分から、次第に試験を目指す気分に変わっていかなければいけなくなったからだ。

 まわりの変化に、香澄は最初気づかなかった。どこか気ぜわしくなってきたまわりの雰囲気に気が付いてはいたが、気が付かないふりをしていたのだ。

 確かに勉強もしなければいけないのだが、それまで表面上だけかも知れないが友達付き合いをしてくれていた人たちが次第によそよそしくなり、話をしていても上の空だったり、まともに聞いていないように思え、煩わしさすら見えてくるのを感じた。

 それが次第に露骨に感じられるようになると、次第に自分の孤独さを感じるようになった。

 この時に感じた自分の孤独さには、どこか懐かしさがあり、決して嫌悪を感じることはなかった。むしろワクワクした気分にもなってきた。

――やっぱり自分なんだわ――

 自分は自分にウソをつかないという思いが懐かしさを感じさせるのだろう。

 ここでいうウソというのは、

――わざとらしさ――

 という意味である。

 人に対してはよそよそしくしていても、それをオブラートで包み込み、何とかごまかそうとする。そこに、

――私は悪くない――

 という気持ちが見え隠れしているのを感じると、香澄はわざとらしさが煩わしさに変わっていくのを感じたのだ。

――こんな思いをしてまで、人付き合いを続けていていいのだろうか?

 孤独に懐かしさを感じた香澄は、もはや友達というのは、自分が利用するだけのものだと思ってもいいのではないかと思えてきた。

 自分がそう思っているのだから、相手もそう思っているのではないかと思ってまわりを見てみると、今まで見えてこなかったことまで見えてくるような気がした。晴れてきた雲の向こうに見えるものが決して見たいものだと限らないことは分かっていたことだったっが、それなら見なければいいだけのことで、それを開き直りだというのであれば、

――開き直り、大いに結構――

 と感じるようになった。

 そう思うようになると、仕事での先輩から言われることも、気にしなければいいと思うようになり、説教も右から左だった。

 ただ、そんな態度は相手にも敏感に分かることのようで、香澄に対する先輩の評価は、あまりいいものではなかった。

「冷静というのか、冷めてるというのか。何を考えているのか、私には分からないわ」

 という意見だった。

「でも。学生気分の抜けない人よりもいいんじゃない?」

 という意見もあったが、

「そんなことはないわ。学生気分の抜けない人は抜いてやればいいのよ。でも、彼女のように内に籠ってしまっている人の気持ちをこじ開けるのは至難の業。本人が入り込んでいるんだから、無理にこじ開けるのは、却って意固地にしてしまうだけでしょう? かなり難しいんじゃないかしら?」

 先輩の考えは半分当たっていた。こじ開けるのは無理だが、入り込むことはできた。だが、仕事の先輩という立場では相手の気持ちに入り込むことはできないのだろう。そこが一番難しい問題だったのだ。

 香澄には今まで彼氏がいたことはない。

「付き合ってほしい」

 と告白されたことはあったが、なぜか付き合うまではいかなかった。香澄の中では付き合ってもよかったと思っているのに、付き合うことはできなかった。どこか舞い上がっているところがあり、それを自分の中で隠そうとしてしまうことが相手に誤解を与え、せっかく告白してきた相手としては、面目を潰された気分になったのだろう。

 そんなこととは知らない香澄は、

「告白してきたのは相手なのに、それ以上何もしてこないなんて、なんて中途半端なのかしら?」

 と、相手に責任を押し付けていた。

 相手主導から始まったのなら、最後まで相手主導でなければいけないという考えは、相手が女性であっても同じだった。元々ネガティブで引っ込み思案な香澄は、相手が衝動権を握ってくれるのであれば、その方がありがたかった。本当は主導権を握る方に権利は優先されるが、それと同時に責任も主導権を握った人にある。香澄は権利よりも責任を重視し、

――責任を負いたくない――

 という思いから、主導権を相手に握ってもらうことを願っていた。

 そんなオーラが香澄から出てくるのだろうか。主導権を握りたい人は、香澄の引っ込み思案な性格に目をつけて近づいてくる。

――この人になら、こっちが主導権を握ることができる――

 という思いで近づいてくるので、どっちもどっちなのだ。

 ただ、告白してきた相手が皆どっちもどっちと言える相手だったのかどうか、すべては香澄の思い込みだった。

 そんな状態で付き合いが成立するはずもなく、今まで彼氏がいたことはなかった。

 ネガティブな香澄だったが、初志貫徹の思いは結構強かった。学生時代にしっかり勉強し、念願のナースになれたのは、ひとえに香澄自身の努力のたまものである。そのことは自他ともに認めることで、初志貫徹できたことで、それまでネガティブな香澄を避けていた人たちも見直してくれる人もいたようだ。そんな状態で、

「有頂天になるな」

 というのは難しいことだろう。

 普段からネガティブな香澄は初志貫徹の思いを遂げたことで、これからの人生が変わることを望んだ。

 しかし、ここでも消極的な考えだった。せっかくナースになったのだから、積極的に自分を変える気持ちに少しでもなっていれば、将来は変わったかも知れない。だが、人生を変えるのではなく、変わることを望んだだけだった。他力本願の態度は表にも出るもので、先輩ナースから、

「学生気分が抜けていない」

 と言われて、ショックを受けてしまった。

 それまでであれば、

「言いたい人には言わせておけばいい」

 というくらいに思っていた。

 ナースになるという目標がしっかりと目の前にあったから、

「自分は自分」

 と、いい意味で割り切ることができた。

 しかし、ナースになるという夢は果たしてしまった。そこから先の成長についてまで、確固たる指針を持っていたわけではない。要するに気が抜けてしまっていたのだ。

 そんな状態で人から何か言われれば、脆くも崩れてしまう状態になるのは無理もないこと、しかも相手が憧れのナースの先輩である。いくら相手が自分のために言ってくれていると思っても、ショックは隠しきれない。そんなオーラを見た先輩は畳みかけるように罵声を浴びせてくる。

「これくらいでへこたれるようなら、一人前になんかなれないわよ。あなたの目標は何なの? ナースになること? それとも、患者さんのために尽くせるナースになること?」

 と、言われた。

 確かに、冷静に考えれば分かることなのに、この間までナースになったことで有頂天になっていた気分を、そう簡単に払しょくできるものではない。

「すみません」

 ただ謝るしかなかった。

 その態度に先輩はさらに怒りを増幅させていた。

「何、その取って付けたような謝り方は? 全然気持ちが入っていないじゃないの」

 と、それまでの態度に怒りが見えてきた。

「あなた、私をバカにしてるの?」

 さらに追い打ちをかける。

「いえ、そんなことは決して」

 完全に受け身態勢だ。

 受け身態勢になっているくせに、気持ちのどこかで反抗的になっているのだろう。言葉と気持ちのアンバランスを感じた香澄は、次第に自分ではどうにもならなくなっていた。――このまま黙ってやりすごそう――

 と思った。

 こんな時、ネガティブな性格が功を奏したのだろうか。やり過ごすことはどうやら、苦手ではないようだ。屈辱に真っ赤になった顔を下げたまま、何も言わない。先輩の興奮が収まるまでの我慢だと思った。

 そのうちに疲れてきた先輩は、

「今日はこれくらいにしておきましょう。でも、しっかりと考えなさいよ」

 と言われて、香澄もホッとして、

「はい」

 と、やっとの思いで返事をした。

 まわりの同僚が、心配して先輩がいなくなって声を掛けてくれる。

「大丈夫?」

「ええ、何とか」

 心が折れかかっている時に声を掛けられるのが心地よいことに、その時初めて気が付いた。今までであれば、叱責されても、自分には目標があると思って、心が折れる前にやり過ごすことはできていた。しかし、この時のように心が折れてしまうほど罵声を浴びせられるのは初めてだったこともあって、かなり精神的にも弱っていた。

 その時に考えていたのは、

――このまま時間が止まって、永遠に叱責が続いたらどうしよう――

 という思いだった。

 その時の香澄の気持ちは、

――何とか自分がキレる前に、終わってほしい――

 という思いだった。

 つまりは、時間との闘いだったのだ。

 今までに、これほど時間が止まってしまったという気持ちになったことはなかった。それはまるで目の前のすべてが凍り付いてしまったようで、目の前に見えているのは、モノクロームであった。

――白と黒だけの世界――

 それは、ドラマなどの中では、回想シーンによく用いられることだった。

――私の中で、何か過去を思い起こすものがあったということかしら?

 叱責を受けていた香澄は、過去の回想をしていたような気がした。いつ頃のことを回想していたのか覚えていない。しかし、懐かしさを感じることもない回想というのは初めてで、

――やはり叱責がそれほど自分の心を串刺しにしていたのか?

 と思うほど、過ぎてしまった時間が、自分にとって今までにない特異なものであったことの証明のように感じた。

 だが、落ち着いてくると、香澄の頭の中に、懐かしいと思える光景が浮かんできた。それがさっき感じたことであるかどうかハッキリとは言えないが、想像していることはモノクロームだった。

――でも、想像している時に、色を感じるということもないような気がするわ――

 とも思えてきた。

 確かに、見た夢を覚えている時もあるが、夢の中で色を感じたという意識は一度もない。すべてがモノクロームであり、

――そういう意味では、過去の思い出というのは、必ずモノクロームで格納されているものではないか?

 と思えてきた。

――モノクロームには、冷たさしか感じない――

 という思いが香澄にはあった。

 しかもモノクロームの幻想の中では、時間の概念が感じられない。あっという間に過ぎてしまったかも知れないことでも、永遠に続く思い出のように感じられた。

 例えば、モノクロームの写真を見た時、

――凍り付いているのではないか?

 という思いが頭をよぎるが、次の瞬間、

――人間には判断できないほどゆっくりと動いているのかも知れない――

 と感じさせられた。

 目を逸らして、かなり時間が経ってからもう一度見ると、まったく動いていない。しかし、じっと見つめていると、本当に微妙に動いているように思えてならない時がある。目の錯覚には違いないのだろうが、それだけで納得できるものではなかった。

――凍り付いた時間の世界というのがどこかに存在していて、誰も知らない間に少しずつ動いている――

 そんな世界を感じた香澄は、そのことに気づいていないふりをしていた。

――もし、誰かにこの思いを知られると、自分が凍り付いた世界に入り込んでしまって、抜けられなくなってしまう――

 という妄想に駆られてしまったからだ。

 最初にモノクロームの凍り付いた世界を意識したのは、子供の頃だったように思う。

 舗装もされていない道に、雨がしとしと降り続いていた。長屋のようなところが見えるが、それぞれの家には庭があって、木でできた塀が張り巡らされている。垣根を作っている家もあるが、すべての家が綺麗に並んでいるわけでもなく、中には突出した部分がある家もあった。つまりは、家の前の道は、道でありながら、ハッキリとした直線の道ではなかったのだ。

 もちろん、香澄の記憶の中にそんな光景の街が存在しているなどありえないことだ。情景としては、昭和でいえば、三十年代の世界であり、今から半世紀以上前のことだった。自分の両親というよりも、祖父母が見ていた世界ではないだろうか。なぜそんな世界を思い浮かべたのか、香澄には理解できなかった。

 そんな光景を見たのは一度ではなかった。二度、三度と見た記憶が残っている。

――きっと夢で見たんだろうな――

 という思いがあったが、

――同じ夢を見たという記憶をそんなに覚えているものだろうか?

 とも感じた。

 どちらにしても、その光景を思い浮かべて、

――懐かしい――

 と感じたわけではない。

 実際に自分が見た夢ではないのだから、当たり前のことなのだろうが、香澄には、

――モノクロームの自分が実際には見たことのない世界――

 というイメージが残っていた。

――私が実際に感じている時間よりも数倍の時間を過ごしているのだとすれば、ありえることなんだけどな――

 と、さらにありえないことを考えてしまう。

 どちらかというと天邪鬼なところがある香澄は、

――余計なことを考えるなら、誰も考えないような発想を思い浮かべる――

 という余計な癖があった。

 そんな思いが香澄の中で、発想の堂々巡りを繰り返させる。そこに袋小路が存在していたのか分からないが、もし袋小路があったのだとすれば、モノクロームの記憶の中に出てきた舗装していない半世紀前の街のイメージが香澄の頭を掠めた。

――そのまま前に進んでいれば、抜け出すことのできない迷路に入り込んでしまったことに気づいたかも知れない――

 と感じた。

 迷路を抜けるにはどうしたらいいか、その時の香澄は分からないと思っていたが、今となってみれば、

――もし、迷路を抜けることのできる発想ができたとすれば、最初に見た時だったのかも知れない――

 その時がターニングポイントで、もし、その時抜けることができなければ、永遠に堂々巡りを繰り返すことになる。しかし、どんな袋小路であっても、人生にはいくつものターニングポイントがある。そのタイミングで抜け出すことができるかも知れないと思っていたが、少なくとも今までにはそのターニングポイントは、残念ながら現れていない。

――現れれば、きっとすぐに分かるだろう――

 と香澄は思ったが、

――意外と近いのかも知れない――

 とも思った。

 きっかけは叱責を受けた時に、時間が凍り付いてしまった感覚に陥り、モノクロームの発想を感じたからだった。それがどのように自分に影響してくるのかすぐには分からなかったが、香澄には近い将来訪れる予感がかなりの確率で高くなっているのではないかと感じさせた。

 モノクロームの世界に、最初から入り込んでいたわけではない。最初は表から客観的に眺めていただけだった。見たことのないはずの光景を懐かしいと思う感覚、まるでデジャブを思わせたが、デジャブほど曖昧なものではなく、確かに意識が頭の中にはあった。

 ただ単に眺めているだけだったはずなのに、胸の鼓動は何を自分に語り掛けていたのだろう。

――色は感じないけど、臭いは感じられるような気がする――

 薬品の臭いに混じって、アスファルトの臭いが感じられた。最近は道路の補正でもしていない限り、どこでもアスファルトが張り巡らされているので、アスファルトを最初に敷き詰めた時のタールの臭いも、本当なら分からないはずだった。

――どうして、これがアスファルトの臭いだって分かったのだろう?

 しかも、この辺りにはアスファルトなど見当たらない。すべてが舗装もされていない道で、しかも、雨が降っていて、道はドロドロになっていた。

 アスファルトの臭いをどうして感じたのかというと、子供の頃の記憶を思い出せば、何となく分かるような気がする。子供の頃も、ほとんどアスファルトの臭いをあまり感じたことがなかったが、感じたとすれば、午前中に雨が降って、昼から晴れ上がった時、地面から立ち上がってくる臭いに、アスファルトの臭いを感じた。

 厳密にはアスファルトだけの臭いではなく、雨が流し込んだ埃が照り付ける太陽によって熱せられ、湧き上がってくる蒸気に乗って多種にわたる異様な臭いが複雑に絡み合っているのだ。

 その臭いに似たものを、モノクロームの世界は感じさせた。

 だが、アスファルトの臭いを感じる時、決まって身体にだるさを感じていた。咽喉がカラカラに乾いてきて、指先に痺れのようなものまで感じられると、脱水症状に似た感覚が襲ってくる。その状態は香澄にとって、自分の意志で身体を動かせるような感じではなかった。

――金縛りに遭ったこともあったような気がするわ――

 ハッキリと覚えていないが、子供の頃、時々金縛りに遭った気がしていたが、その時は金縛りが抜けた後、身体に言い知れぬ気だるさが感じられたのを覚えていた。

 その気だるさを今は感じない。金縛りにも遭うような気もしてこない。ただただ目の前で繰り広げられている懐かしさを感じるモノクロームの光景を眺めているだけだった。

 気が付けば雨がやんでいた。ただ、地面が濡れていたことに気を取られて、本当に降っていたのかどうか意識していなかった。実際に雨粒を見たわけではなく、思い込みがあったのも事実である。目の前に繰り広げられている光景には、多大な思い込みが含まれているのは否定できない。モノクロームで見せているのは、その証拠ではないだろうか。

 そう感じてくると、自分が夢を見ているのではないかと思えてきた。そう思えば目の前に繰り広げられている光景の説明がつく。いや、それ以外に説明のつけようがなく、自分で納得するには、夢だと思い込ませるのが一番手っ取り早いに違いない。

 頭の中で堂々巡りを繰り返していると、そのうちに出口が見えてきた気がした。長いトンネルを抜けると、差し込んでくるのは光である。ただ、それが太陽の光なのかどうか分からない。その時も白い閃光が目の前に広がったかと思うと、やはり目の前に見えたのは、自分の部屋の天井だった。

「やっぱり夢だったんだわ。でも、眠りに就いたという意識がなかったんだけど、どうしてなのかしら?」

 香澄は身体を起こそうとしたが、今度は金縛りに遭ってしまったかのように身体を起こすことができなかった。

「まさか、まだ夢の中にいるのかしら?」

 確かにそこは自分の部屋だった。真っ暗だったせいもあって、目が慣れるまでに少し時間が掛かった。目が慣れてきた時に感じたのは、

「こんなに広かったかしら?」

 というイメージだった。

 少し視界が開けてきたが、それは目が慣れてきたというだけであって、光が差し込んできたわけではない。それなのに、部屋の設置物の影を感じることができる。その影の存在が、部屋を広く感じさせるのだった。

 身体が固まっている割には、首を動かすことだけはできた。

 部屋の中を見渡してみると、今まで意識したことのないものを意識させられた。それは部屋の中央にあるテーブルの上に置いてある化粧を施す時などに使う鏡の存在だった。

「夜に見ると、こんなに気持ち悪いなんて」

 光がないはずの部屋の中にあって、鏡部分だけが光って見えているようだ。丸い輪郭がハッキリと分かり、普段見る鏡に比べて少し小さく感じられたのも、部屋を広く感じた理由なのかも知れない。

 鏡には何も映っていない。ただ光を反射させているだけだった。

――いや、反射させているというのがそもそもの勘違いでは?

 鏡自身が光を発しているという思いだった。そんなことあるはずはないと思いながら、真っ暗な部屋の中で鏡だけが光を発している状況を説明することができない。その鏡だけが特別なのか、鏡というものすべてが、真っ暗な中では光を発するものなのか、香澄には分からなかった。だが、鏡というものが、いつも正面で面を突き合わせている人の気持ちを表現できるものだとすれば、この鏡だけが特別だと言えるかも知れない。

――やっぱりこれは夢なんだ――

 今自分が考えていることは、完全に自分勝手な発想でありながら、状況をハッキリと説明できている。自分主導の世界であり、それこそ夢の中の世界だと言えるのではないだろうか。

 そんなことを考えていると、夢から次第に覚めてくるのを感じた。今度はまったくの無臭であり、夢から覚めてくる自分を感じていた。

 現実に引き戻されたというのが、その時の香澄の実感だった。本音とすれば、もう少し夢の世界の中にいたかったという思いがあった。現実の世界に戻るということは、ナースの仕事が待っているということであり、仕事をすることに抵抗はないのだが、ゴールだと思っていた地点を通り越して、今自分が成すべきことを見失っている香澄には、少し精神的な休息が必要な気がしていた。

 しかし現実世界ではそんな自分を誰も待ってはくれない。時間は本人の思いをよそに、勝手に進んでいくのだ。

 時は正確に刻んでいる。まるで胸の鼓動が規則的であるのと同じようにである。人の胸の鼓動には微妙な時間差があるが、時は一つなので、時に時間差はない。

――でも、時に時間差があったとすれば――

 香澄はそんなことを考えていた。

 香澄が、時の時間差を考えたのは今回が最初ではなかった。今までに何度か考えたことがあったのだが、その時々で考え方は違っている。きっと考えに至るまでの感情や感覚が違っているからなのかも知れない。

 その時々でそれなりの結論を得た気はするが、それがその後の自分の人生にどのような影響を与えたのか定かではなかった。なぜなら得たと思っている結論は、すぐに意識から離れてしまっていた。完全に忘れているわけではないだろうから、記憶の奥に封印されたに違いない。

 一番覚えているのは、ナースになるきっかけを感じた時だった。

 香澄がナースになろうと思ったのは、中学の時だった。同じクラスの男の子が病気がちで、出席日数も足りなくなるくらいだった。時々都会を離れ静養しないといけなかったようで、病気が器官系のものだったこともあり、運動も制限されていた。

 そんな彼を一番気にしていたのが香澄だった。

 中学に入って最初のクラスで、しかも席が隣り合わせ、病気と思えないほどの笑顔を見せた彼に対して、笑顔で返す自分をいじらしいと感じていた。病気だということを最初から知っていたわけではないが、誰に聞くまでもなく、見ていれば分かってきた。ただ、

――病気について触れてはいけないんだ――

 という思いに駆られ、次第に態度がぎこちなくなっていたようだ。

 そんな香澄の心境を知っていた彼は、表情に翳りが見え始めた。香澄はそんな彼の病気が進行してしまったのではないかと思い、不安になってきた。お互いに気持ちがすれ違っていたのだ。

 会話がなくなり、寂しい日々が続いた香澄だったが、最初に話しかけたのはどっちだったのだろう?

 きっと彼からだったように思う。こんなに大切なことを忘れてしまっているというのはどういうことなのだろう?

 彼から言われた言葉も曖昧だった。ただ、どうして覚えていないのかというと、そこに彼が病気であるという意識が香澄の中に大きくのしかかっていたことが原因だったように思う。

 相手が病気でなければ仲良くなることもなかった。そしてぎこちなくなることもない。そして仲直りの時の記憶もしっかりしているだろう。その時々で必ず病気を意識しなければならない彼に対し、自分が気にしている以上に心の奥に引っかかっているものがあったのは間違いない。

――彼が病気でなかったら、どうだったのだろう?

 この思いをずっと抱いたまま、中学を卒業した。

 中学卒業後に、彼とは会っていないのでそれからどうなったか分からない。中学三年間、ずっと彼だけを意識していたことで、それが自分の初恋だったことを意識した。しかし、何もできなかったことで、いつの間にか考え方が後ろ向きになっていることを感じ、自分がネガティブな性格であることを知ったのだ。

 香澄は、いつも頭の中で何かを考えているような女の子だった。それはその時々で違っていたが、一番多かったのは、数字について考えていることが多かったように思う。

 数字というのは、規則的に並んでいるもので、考え事をする題材としてはこれほどのものはない。ただ考えていたのは数学の公式ではなく、算数の考え方だった。数字の並びを頭の中で考えながら思い描いていると、そこに時計をイメージしている自分がいる。

 時計と言っても、それはデジタルではなくアナログの十二等分表示の時計だった。今までほとんどデジタルでの表記しか見たことのない香澄が時計にだけアナログをイメージしているのは自分でも不思議だったが、そのおかげか、アンティークなものにも興味を持った時期があり、時々起こるデジャブも、その時に感じていた意識の延長だと思うと納得がいった。だが、今回のように釈然としない時もあり、何か他に意識が潜在しているのではないかと感じる香澄だった。

 時計のイメージを頭に思い浮かべるようになり、年齢や時代までも時計でイメージするようになった。十代、二十代と、年齢を重ねるごとに針が少しずつ降りてくる。

「三十歳になれば、平行だわ」

 と感じていたが、実際に今まで過ごしてきた時間は、時計の針のように正確に時を刻んできたわけではなかった。

 中学時代の初恋だったと思っていた時期、淡い思い出にできればよかったのだが、香澄の中では、グレーな部分として残っている。

 自分が何を考えて、何をしたいと思ったのか、ハッキリとしないのだ。

 確かに彼への思いから、ナースになりたいという思いを抱いていたのは間違いのないことなのだが、本当に彼への思いだったのか、少し疑問にも思えてきた。

――ただの同情にすぎなかったのでは?

 考えてはいけないことを考えてしまい、自己嫌悪に陥ってしまったこともあった。

 しかし、彼に対しての本当の思いを思い出せないのも事実である。自ら封印してしまっているのだ。

――今思い返すからそう感じるのかも知れない――

 ネガティブになってしまった自分の性格、それだけに思い込んでしまうと、抜けることのできない感情が自分に襲い掛かる。

 抜けることができないと思うことこそが思い込みのはずなのに、そのことに気づかない。いや、分かっていて認めたくないのだろう。認めてしまうと自分が逃げてしまったという考えがネガティブな自分を後押しする。それが怖いのだ。

 香澄がナースになろうと思ったのは、彼への思いを吹っ切るためだったのかも知れない。本当であれば、

「彼のような病気の人を治したい」

 と思うのであろうが、香澄がおかしいのだろうか?

 だが、口では、

「病気の人を助けたい」

 と言いながらナースを目指したことを公然と口にしている人がいるが、香澄が聞くと、どこかうそ臭く感じられた。

――皆が皆、そうなんだろうか?

 と感じるからだ。

 確かにもっともらしい言葉ではあるが、取って付けたような言葉でもある。。もっと人に訴えられるような表現があってもいいのではないだろうか?

 そういう意味では、病気の前の誰かを目の前にして、意識してしまった自分を納得させるために、ナースを志すというのも一つの理由に思える。他の人が聞くと、

「そんな理由で?」

 というかも知れないが、取って付けたようなセリフを、いかにもという顔で堂々と言い放つ人よりもいいのではないかと思えた。

――真実は、その人それぞれにあっていい。そして、同じ人であっても一つだけとは限らないのではないか?

 とさえ思える香澄だった。

 それは、一人の人間の中にいくつかの時間が存在しているからではないかという思いがあるからで、簡単に言葉で言い表すことのできない発想でもあった。

――一日が二十四時間あるけど、これって長いのか短いのか、どっちなのだろう?

 まずは一日という単位を考えてみることにした。

 しかし、この思いが香澄の中で眠っていた何かを呼び起こすことになるかも知れないことを、まだ知らない香澄だったのだ。

 運命というものが本当にあるなど、それまで感じたことがなかった。言葉では聞いたことがあって、運命についておぼろげにどんなものか想像はついていても、それが自分に関係してくることだと思わなければ、それはあくまでも他人事でしかないのだ。

 香澄が初めて運命を感じたのは、彼女が勤めていた病院に一人の青年が入院きたことだった。その青年は交通事故に遭って、足の骨を折り、頭も打っていたが、幸い精密検査の結果、脳波に異常はなかった。青年の母親はホッと胸を撫で下ろし、安心していたようだ。しかし、香澄にはその家族に見覚えがあった。特に母親の表情に見覚えがあり、

――この人は、いつもこんな表情しかできない人だと思っていたような気がする――

 と感じた。

 そう思うと、その青年が誰であるか分かった気がしたが、引っ込み思案な香澄からその話題に触れることはなかった。

「あの、間違ったらごめんなさい。中学の時に一緒だった工藤香澄さんかな?」

「えっ?」

 香澄の想像していた通りの人で、しかも相手は香澄のことを覚えていた。その青年は、香澄が気になっていた病気で休みがちだった彼だった。

 彼の名前は、須崎正孝という名前だったはずだが、病室の札を見ると、久保正孝になっていたので、最初は分からなかった。

「須崎君ですよね?」

「ああ、僕の苗字が変わっているから違う人だと思っていたんだね? 実は両親が離婚して、今は母親方の苗字になったんだ」

「そうだったんだ」

 一体彼の両親に何があったというのだろう?

 子供が病気がちで、子供のことを一番心配していたのは母親だった。今回、交通事故に遭って入院した時に見せた母親の表情は、昔とまったく変わっていない。

――いつも息子のことを心配している母親――

 まさしくその表情だったのだ。

 もちろん、人の家庭のことをあれこれ聞いてはいけない。特に今は患者とナースの立場なのだ。そのあたりは、

――わきまえておかなければいけない――

 と思いながらも、必要以上のことを詮索できないやりきれなさは、今までにないほど大きかった。

 特に相手は中学時代の頃とはいえ三年間、ずっと気になっていた初恋の相手なのである。

「初恋は淡く切ない、成就しないもの」

 と言われるがまさしくそうだった。

 しかも、彼は香澄のネガティブな性格を自覚させる決定的な存在だっただけに、目の前からいなくなったことで、その答えを見つけることができず、まるで取り残された気分になったことで、その存在は、

「忘れてしまうことができない」

 とずっと思ってきたのだが、気が付けば忘れていた。

 それはある日突然のことだったのだろうが、本人には意識がないのだ。

――きっと、記憶の奥に封印されているに違いないんだわ――

 香澄は物事を完全に忘れてしまうことはないと思っている。忘れてしまったと思っていることは記憶の奥に格納されるものだと思っているのだが、それも限界がある。格納されている記憶は、その中で、

――どうしても忘れたくないもの――

 を除いては、自分の中から削除されてしまうのだろうが、忘れてしまいたくないもの、本当に忘れられないと思っているものに関しては、記憶の奥に、封印されるという形で残されるものだと思うようになった。

 彼の存在は、記憶の奥に封印された「意識」だったのだ。

 ただ、香澄の中で彼の存在は記憶の中でしか存在しえないもので、記憶の奥に封印してしまおうと考えた時、

――彼とは、きっともう会うことはできないだろう――

 と思っていたのだ。

 しかし、まさかのまさかの再会である。偶然などという言葉で片づけられるのだろうか?

 彼の前では、

「本当に偶然よね」

 と言って微笑んで見せたが、本心からではないことで自分がウソをついていると自覚している自分が情けなかった。

「偶然なんかじゃないさ。僕はずっと君に会ってみたいと思っていたんだ。願っていたことが叶ったことを偶然という言葉で僕は言い表したくないんだ」

 と、正面から真剣な眼差しで言われると、

「そうね。私もきっとあなたに会いたいって思っていたのよ。だから会うことができた。お互いに思っていないと、うまい具合に再会なんて果たせないと思うの」

 いつものネガティブな性格が彼との会話の中では表に出てくる気がしなかった。

――彼の前では、私は別人なのかしら?

 それとも、口から出てくる言葉は、彼を看病するナースとしての思いからなのかも知れないとも思ったが、それだとあまりにも寂しい気がした。やはり、ここは自分の気持ちに素直になるのが一番であろう。

「僕は、中学の頃、結構重い病気に罹っていたらしいんだけど、長い間の静養と、何度か施してもらった手術のおかげで普通に性格できるようになるまで回復したんだよ。これに関しては、両親に感謝だと思っているんだ」

「お父さんとは、時々会っているの?」

「ああ、親権は母親にあるというだけで、僕は自由に父親に会うことはできた。でも、母親の手前、そうしょっちゅうは会うことはできないけど、それでもお互いに満足できるくらいには会っているつもりだよ」

「それはよかった」

「それに、毎日一緒に暮らしていても、なかなか時間が合わずにすれ違いの毎日を過ごしていることを思えば、たまに会うという方が新鮮なのかも知れない。男と男の会話ができていると僕は思っているんだ」

 彼の表情は晴れやかだった。

――中学時代の彼も似たような表情だったわ――

 病気がちだったこともあって、どこか贔屓目に見ていた気はしたが、それでも、今の彼の表情を見て、

――懐かしい――

 と感じるのは、

――今も昔もこれが彼の顔なんだ――

 と思うからだった。

 彼が入院してから一週間が経った頃のことだった。

 朝の申し送りの時、婦長の隣には医局長がいた。

「三〇二号室に入院している久保正孝さんのことですが、当初、彼の入院は十日ほどのものだと判断していましたが、精密検査を続行する関係で、入院が一か月くらいになると思われます」

 という話だった。

 香澄は複雑な心境だった。

 正孝が中学時代に重い病気を患っていて、本人は今は、

「治った」

 と言っているが、本当にそうなのかと疑いたくなるような宣告だったからだ。

 だが、まだ彼が入院していてくれるという思いは、一緒にいられるという思いと同じに感じられ、まるで少女のような気持ちになっていた。

 香澄は申し送りの後、医局長に直接聞いてみた。香澄は正孝の担当ナースという立場から聞いてみたのだ。

「久保さんの状態、お悪いんですか?」

「いや、そんなに心配することはないと思うんだけど、少し彼と話をしていると気になることがあってね。ひょっとすると、記憶の一部を失っているのではないかと思ってね」

「えっ?」

「と言っても、それが直接普段の生活に影響してくるということはないので、そんなに心配することはないと思うんだけど、せっかく入院しているんだから、そのあたりの検査もしてみようということになったんだ」

「実は私、彼とは中学時代の同級生だったんです」

「そうだったんだね。じゃあ、彼が中学時代に思い病を患っていたことは知っているよね?」

「ええ、でも治ったと聞きました」

「うん、確かにその時の病は治っているので、よほどのことがない限り再発はないだろう。しかも、中学時代から何年も経っているんだ。まず再発はないと言ってもいい」

「それを聞いて安心しました。じゃあ記憶の一部を失っているというのは、今回の交通事故が原因ということなんでしょうか?」

「そこなんだよ。もし、交通事故が原因なら、そのうちに思い出すだろうし、それほど気にすることもないと思うんだけど、もし、交通事故の前から記憶が欠落させる何かの原因があったとすれば、僕はその方が気になるんだ」

 医局長はそう言って、カルテを眺めていたが、すぐに顔を挙げて、話を続けた。

「実は僕も久保さんから君が中学時代の同級生だって聞いていたので、ここまで話をしたんだけど、他の人には内緒だよ」

「もちろんです」

 香澄は、医局長に対し、それまでの不安そうな表情を払拭するかのように、キリッとした表情を見せた。

 香澄は医局長との会話を終わり、医局長室から出てきたが、その時には普段の表情に戻っていた。気にはなったが、医局長のいう通り、それほど気にすることもないのかも知れない。どうしても、相手が正孝だと、気になってしまうのは仕方のないことだった。

 香澄がその日、正孝の病室を訪ねた時、

――どんな顔をすればいいんだ――

 と、平常心でなければいけないのは分かっていたが、果たして本当に平常心でいられるか自信がなかった。

 しかし、病室に入ると、表情はナースに戻っていて、今まで通りの対応ができるようになっていた。

「本当だったらもうすぐ退院の予定だったんだけど、先生からもう少し調べたいって言われたんだ。もう少し、よろしくね」

 そう言って、ニコニコしていた。不安に思っている雰囲気は微塵も感じられない。

 本当であれば入院が伸びるような宣告を医者から受ければ、少なからずの心配が頭をよぎるはずである。しかし、彼にはそれがなかった。

――ということは、最初から自分でも分かっていたということかしら?

 と思えてならなかったのだ。

「ええ、よろしくお願いね」

 正孝の外傷は、かなり治ってきているようで、ひどかった足の方は、まだ包帯で巻かれていたが、腕の方は包帯が取れていた。だが、香澄には彼の左腕に巻かれているサポーターが気になっていた。少し長めのサポーターになっていて、左手だけというのも、どうしてなのかと思うのだった。

「そのサポーター、いつもしているんですか?」

「ああ、これね。普段はしていないけど、ここにいる時は汗を掻きそうなのでしているんだ」

「そうなんですね」

 少し腑に落ちなかったが、

――彼がいうのなら――

 ということで、それ以上言及しなかった。

 見舞いに来た母親も、彼の左腕を時々チラッと見ているようだったが何も言わない。そこには母親と息子の暗黙の了解が存在しているような気がした。

 正孝の検査が、それからまもなく始まった。

 香澄は担当ナースだったが、それはあくまでも病室内での担当というだけで、検査に関しては関わっていない。毎日数時間の検査がいくつか行われているようだったが、それがどんな検査でどのくらいの時間なのか、知らなかったのだ。

「どう? 検査の方、順調?」

 と香澄が話しかけると、、

「ああ、別に問題なく検査してもらっているよ。検査と一緒にカウンセリングもしてもらっているので、まるで人間ドックのような感じがして、まだ若いのにと思うと、複雑な気分だね」

 そう言って、おどけて見せた。

 香澄もその言葉を聞いて安心していたが、相変わらず左手首につけられているサポーターが気になっていた。

「僕は寂しがり屋というわけではないと思うんだけど、時々、急に寂しくて仕方がないと思うことがあるんだ。そんな時、まわりの空気に匂いが混じっているように思えてくると、目の前のものが急に黄色かかって見えてくるようになるんだ。不思議だよね」

「そんなことはないわ。私も急に寂しく感じることも結構あるもの。でも、私の場合は、寂しがり屋だということを自覚しているんですけどね」

 最初から自覚している人と、普段は自覚していない人が急に寂しさを感じる時の感情は、自覚していない人の方がショックは大きいのかも知れない。その心情を計り知ることのできない香澄は、彼のことを思うと胸の鼓動が激しくなるのを感じた。そして、

――どうして急に私に話をしてくれる気になったのだろうか?

 と不思議に思う。

 中学時代、彼のまわりに誰かがいたという意識を感じたことはない。今こうやって自分と正孝が一緒にいるのを、もう一人の自分が表から見ると、正孝に対してどんな思いがするだろう。相手が自分であるとしても、嫉妬を感じてしまうのではないだろうか。そんなことを考えていると、またしても自分だけの世界に入り込んでしまっている自分に気づく香澄だった。

 中学時代の正孝のことで、香澄の知らないことはかなりあった。今思い出しても、その時のことは思い出せる。裏を返せば、それほどにしか彼のことを知らなかったということにもなるのだ。

――クラスの中には、彼のことをもっと知っていた人もいるんだろうな――

 と香澄は思っていたが、今から思えば、すべてを知らなくてよかったようにも思えた。もちろん、知りたいという思いは人一倍だった。それは好奇心からというよりも、やはり初恋という思いがあったからかも知れない。意識まではしていなくても、青春時代には自分でも分からないうちに気になっていたということは往々にしてあるものだ。

 自分よりも彼のことを知っている人が少しだけしかいなければ、その人たちに嫉妬を感じたかも知れないが、たくさんいたのだから、嫉妬するほどではない。まわりに対しての嫉妬というよりも、知りたいと思いながらそれを行動に移すことのできなかった自分に対して、むしろ腹立たしい思いを抱いていたのだ。

 高校生になってから、ナースを志すようになってから、正孝のことを忘れることはなかったが、思い出すこともなくなってきた。高校時代になると、まわりが皆、敵に見えてくる衝動に駆られていた。

 学校では笑顔を見せても、きっとぎこちない笑顔だったに違いない。もし知らない人から、

「友達はいるの?」

 と聞かれると、戸惑いながらも、

「いるわよ」

 と答えていただろうが、友達と言えるであろう人との会話で見せる笑顔を見れば、

「本当に友達なの?」

 と思われるようなぎこちなさを見せていたに違いない。

 高校二年生の時だったか、友達と言えるかも知れないと思っていた人にちょっとした事件が起こった。彼女は、学校では真面目で、笑顔もかわいいので、男子生徒からも先生からも人気があり、誰からも好かれるタイプだったのだが、ある日、自宅で自殺を図ったのだ。

 手首を切り、洗面所で発見した母親が救急車を呼び、一命をとりとめた。その時、母親は半狂乱になったというが、誰からも、

「自殺なんて信じられない」

 と思われている人が、目の前で手首を切り、血の海に溺れていたのだから、すごいショックだったに違いない。しかも、そこに横たわっていたのは実の娘である。想像を絶するものがあった。

 しかし、香澄は母親のその時の心境を冷静に考えてみた。

――きっと、それが娘だとは思えなかったのではないだろうか。そこにいるのはまったく知らない人という思いを抱き、娘だということを認めたくない自分がいたのではないだろうか?

 と思えてならなかった。

 人間というのは、究極の現実を目の前にした時、どんなにショックなことが起こっている時でも、急に笑い出したりするという話を聞いたこともあれば、テレビドラマでそんなシチュエーションも見たことがあった。その時に、

――きっと、目の前の現実から逃げたい一心で、自分ではない自分を演じてしまう気持ちになっているんじゃないかしら? しかも無意識に――

 と、感じたものだった。

 香澄は、実際に自殺をしている場面を見たことはなかったが、血まみれの、虫の息になった状態の人が運ばれてくることで、緊迫とパニックの境目ギリギリの状態に、いつも身を置いていることを自覚していた。そういう意味では、実際の自殺の場面を見たことはなかったが、それに近い緊張は何度も体験している。場数を踏んでいるという意味では、成因的にはかなり図太くなっているように思う。それは自分が自ら望んでのことではないが、ナースを志した時点で、避けて通ることのできない道だということは覚悟していたつもりである。

 ただ、

――自殺をする人の心境が分からない――

 という思いはあった。

「死のうと思うくらいなら、死んだつもりになって頑張ればいいのに」

 と言っている他のナースの言葉を聞いて、

「まったくその通りね」

 と、賛同したものだった。

 考えてみれば、香澄は自殺したいと思うほどの精神状態になったことはなかった。

――死ぬということほど怖いものはない――

 という思いが前提としてあり、そういう意味では、死んだつもりになれば、何でもできるという人の言葉にも賛同できた。

 ネガティブな性格が、本当は功を奏していたのだが、本人にはその自覚がなかった。

「自覚というのは、本人がそうだと思い込むだけでは持つことはできない。何かプラスアルファが存在するんだ」

 看護学校の何かの授業で、そんな話をしている先生がいた。

 その先生は別に心理学が専攻ではなかった。もし、心理学の先生のいうことなら、それほど記憶の中に残ることはなかっただろう。心理学ではない先生の言葉だから心に残ったと言えるのは、普段から、自分のことを自覚が足りないと言い続けている人がいたからだった。

 口を酸っぱくして、そんなことを言っていたのは、母親だった。しかし、香澄には肝心なことが分かっていなかった。

――自覚って、いったい何の自覚なの?

 母親は、自覚の元については何も言わない。

 言わなくても分かっていると思っているのか、それとも言わずに、気づかせることが目的なのか。

 ただ、種類が分かっていないということは、気づく以前に、意識することができなかった。せっかくの母親の思いも、娘には通じなかったということであろう。

 どうして通じなかったのか、母親は分かっていたのだろうか?

「どうして、あなたはそんなにいつも一人になろうとするの?」

 と口にしていた。

 孤独を欲するということと、発想がネガティブになるということは、段階を追うことで因果関係を持つことができる。

「発想がネガティブだから、孤独を欲するのか、孤独を欲するから発想がネガティブになるのか、そのどちらもありえることだわ」

 香澄は、どちらかが「減算法」で、どちらかが「加算法」だと思っている。

 自分は加算法ではないかと思っている。本当であれば逆を思うのだろうが、ゼロから少しずつ積み重ねていくということは、発展性がある進歩的なことだと思いがちだが、どこに終点があるか分からないアリ地獄のようなものに思えてくる。これほどの不安はないと思うことが自分をネガティブにするのだと思う香澄は、発想がネガティブだという思いが根底にあり、その思いから、孤独を欲しているのだと思うようになった。

 香澄が今の正孝を見ていると、

――彼は私にないものを持っていて、私も彼にないものを持っているような気がする――

 その思いが、中学時代に彼のことが気になっていた理由だったのではないかと、無意識に感じるようになっていた。

 そう思いながら、彼の左腕のサポーターを見ていると、彼が隠そうとしているものが何なのか、分かってきたような気がしてきた。

 香澄はそれを確かめるため、直接先生に聞いてみることにした。先生とは、正孝が記憶の一部を失っているということを自分に告げてくれた先生のことである。

「先生は、久保さんの左腕のサポーターの下がどうなっているのか、ご存じなんでしょう?」

 いきなり聞いたので先生は戸惑っていた。いくら医者とナースの間でも、患者の秘密に対しては守秘義務があるだろうからである。

「どういうことなんだい? 僕が患者の秘密を話すと思っているのかい?」

 口調は少し強めだったが、顔は笑顔だった。

「すみません。そんなつもりではないんですが……」

 香澄は、そこまで聞くと、それ以上、先生に詰め寄るつもりはなかった。今の先生の言葉が、自分の想像の裏付けであったということが分かったからだ。

 もちろん確信とまでは行かないが、知りたいことのほとんどが分かった気がしたので、それで満足だった。

 先生もそのことが分かっていたのだろう。

「じゃあ、僕もこれ以上の話はしないね」

 と言ってくれたので、

「はい、ありがとうございます」

 お互いの以心伝心が通じ合った瞬間だった。

「それにしても、君も思い切ったことをしたものだ。そんなに彼のことが気になるのかい?」

「ええ、中学時代、彼が重い病気に罹っていて、治ったという話だったんですが、実は今でも少し気にはなっているんですよ」

 先生は少しその話を聞いて意外そうな気がしたようだったが、

「そうだったんだね。今の彼は記憶を失っているところがあるけど、それ以外は別に問題ないんじゃないかな?」

 と言っていた。

 その言葉をどこまで信じていいのか分からなかったが、とりあえず先生を信じることにした。

「まずは、彼の記憶が戻ることが先決なのかも知れないね」

 と、先生は言った。

「まるで段階があるような言い方に聞こえましたが、どういうことなんですか?」

「どの部分の記憶を失っているのかが分からないからそう言ったまでで、物事というのは、たった一つのことで元に戻るほど単純なことばかりではないということになるのかな?」

 曖昧な口調だったが、先生の話を聞いていると、まさしくその通りだという思いに駆られるのは自然な感覚だった。

 ただ、香澄の中で、

――本当にそうなのだろうか?

 と思うこともあった。

「でも先生、記憶喪失の人の記憶が戻る時というのは、ある一瞬をきっかけに戻ることも多いと聞いたことがありますが?」

「それは、そのある一瞬というのが、記憶を解くカギがその一瞬にある場合のことを言うんだと思うんだけど、その場合は、失った記憶が一種類の時だけのことだと思うんだ。一種類というのは、つながりのある記憶という意味で、もし彼の失われた記憶がすべて繋がっていることであれば、その『ある一瞬』で記憶を取り戻すことができると思うんだが、つながっていない記憶が存在するのであれば、中途半端な記憶の取り戻し方をすることはないはずなので、少し時間が掛かると思う。そういう時は、焦らずに長い目で見守ってあげるしかないんだよ。記憶を取り戻すということは、最後はすべて彼の問題なんだからね」

 なるほど、先生の話はよく分かった。

「一日が百時間あれば、彼の失われた記憶もゆっくり取り戻すことができるのかも知れませんね」

 香澄がなぜその時そんなことを口にしたのか、自分でも分からなかった。

 しかし、それを聞いた先生は実に興味深げに香澄を見つめていた。

「そうだよね。なかなか面白いことを言う。まさしくその通りだ」

 興奮気味になっている教授を見たのは、後にも先にもその時だけだった。

「一日が百時間あったら、人の寿命も延びるかも知れませんね」

 香澄は、自分が言ったにもかかわらず、まるで他人事のように話している。

 それを聞いた先生も少し不思議そうな表情になったが、すぐに元の顔に戻り、ニコニコしながら、香澄を見つめた。

「そうだね。でも、あまり寿命が延びるというのも、困ったことかも知れない」

「そうなんですか? だって、一人だけの寿命が増えるわけではなく、人間全体の寿命が増えるんだから、問題ないかも知れないですよ?」

「月日や時間という単位は、人間だけのものなのか、それとも他の動物にも言えることなのかによっても考え方は変わってくるよね。自然界の循環を考えると、人間だけの寿命が延びるということは、摂理的にも大きな問題だと言えるのではないかな?」

「でも、自然界全体が伸びれば、問題ないのでは?」

「どこまでその理屈が通用するかだよね。地球単位、宇宙単位と想像していくと、小さな問題なのかも知れないけど、バランスを崩すことになりかねないと思うんだ」

 香澄は先生の話を聞きながら、自分でも考えてみた。

 ただ、話が次第に大きくなってきたので、それ以上、この話題を続けるのは難しいと思った。

 どうやら先生も同じことを考えていたようで、すぐに、

「まあ、あまり深く考えてしまうと、眠れなくなりそうなので、この話はここまでにしておこう」

「分かりました。お話いただいてありがとうございました。では失礼します」

 と言って、先生の部屋を後にした。

 先生との話の中で、正孝の手首の正体が分かった気がし、そして会話の中で、急に百時間という発想が香澄の中に以前からあったような気がしていたという新しい発見をすることができた。

 香澄は、百時間の発想は、自分の中にあるネガティブな発想が影響しているのではないかと感じるようになった。百時間という発想が、それから事あるごとに香澄の中で思い立つことになるのだが、それはまだ少し後のことだった……。

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