第3話 自殺
二度目の睡眠では、夢を見ることはなかった。安心した睡眠では夢を見ることはないのか、それとも見た夢を覚えていないだけなのか、またしても、この思いが目覚めとともに襲ってきた。この前の睡眠で見た夢が、遥か昔に見た夢に思えて、夢に出てきた正孝のことは覚えているのに、正孝が死んでしまうということへの信憑性は、まったくなくなっていた。
ただ、その日の目覚めは明らかにいつもと違っていた。
いや、目覚めが違っていただけで、感じていることは昨日と同じではないかと思えたのだ。
昨日の目覚めも、夢を見ていたはずなのに、その夢がかなり昔に見た夢だったように思え、
――同じ夢をかなり時間が経ってから、また見たというの?
という疑念が残ったのだ。
その思いが残ったまま、昨日また夢を見たことで、同じような発想になったのかも知れない。
しかし、夢への印象は昨夜見た夢よりも、今日の方がはるかに印象的だった。それは正孝が出てきたということである。彼が死という言葉を口にした時、ショックは計り知れないものだったにも関わらず、どこか他人事のように思えたのは、彼が死んでしまうということを自分で分かっていたからではないかと思った。
医者からも言われていたではないか、
「彼は何度か自殺未遂をしているようだ。手首には無数に躊躇い傷はあった」
と言っていたが、その次の先生の言葉にさらに驚かされた。
「でも、彼は自分が自殺をしようとしたという意識はないようなんだ。その記憶をなくしてしまったからなのかと思ったけど、どうもそうではないようだ。神経内科の先生によると、彼の自殺は衝動的なもので、自分でもどうして自殺を図ろうとしたのか分からないということなんだ。僕も裏付けがほしくて、彼が自殺未遂をした時の病院を探して訊ねてみたんだが、彼はその時に、自分が自殺しようとしたことを信じられないようなきょとんとした表情だったらしいんだ。私も彼に自殺のことに触れてみたけど、彼の表情からは、まったく自殺についての感情は生まれてこなかった。彼が死に対して、どんな思いを抱いているのか、聞いてみたいものだ」
その話を聞いて、香澄はインパクトを受けた。
その時のインパクトの強さが、今回の夢を見させたのではないかと思えたが、その話を聞いてからかなり時間も経っていた。いまさらインパクトだけで見る夢ではないと思えた。
――でも、彼が自分から死について語るなど信じられないわ。やっぱり夢の中だったかしら――
そう思った香澄は、二度目の安心した睡眠を思い出した。
時間的には短い睡眠だった。爆睡に近い睡眠だったので、もっと長いものだと思ったが、爆睡状態であれば、少々短い睡眠でも、睡眠としての効力は十分に発揮されているに違いない。
ただ、何に安心して爆睡状態になったのか、自分でも分からない。前の睡眠から一度目を覚ました時、目の前に一瞬、正孝が現れたのは覚えている。しかし、睡眠から睡眠までの間があまりにも短かったことで、一瞬感じた正孝は、どちらかの睡眠で見た夢の中に出てきたものではないかという疑念を拭い去ることはできなかった。
ただ、どうしてもあの時に見た一瞬の正孝は、夢の中ではないと思えて仕方がない。最初の睡眠で正孝の夢を見たことは覚えている。しかし、その内容は、今のことではなく、過去の正孝だったのだ。
しかも、自分の知っている正孝ではなく、中学時代に別れてから再会するまでの間の、香澄が知る由もない時代の正孝だった。
――だって、私の知っている正孝さんではないもの――
香澄は、満面の笑みを見せた正孝が、自分が知っている正孝ではないことに複雑な心境に陥っていた。
中学時代の正孝も、再会してからの正孝も、どちらも危なっかしさを秘めていた。その後ろに「死」というものが見え隠れしていたことに気づいたのはいつだったのか。少なくとも、中学時代に危なっかしさを感じてはいたが、「死」という文字が背中合わせだったなどとは思ってもみなかった。
そこまで感じてくると、最初の夢に出てきた正孝は、香澄の知っている正孝ではないように思えてきた。
再会した時には、
――この人、変わっていない――
と思える部分と、
――すっかり変わってしまった――
と感じる部分とが合わさっていたが、「死」を感じさせるのは一体どっちだったのだろう?
夢の中に出てきた正孝は、実に冷静だった。
――死を覚悟していた?
と感じさせる部分もあったが、それよりも香澄と彼との間には、大人と子供ほどの隔たりがあるのが感じられた。
だが、彼の冷静さが大人だからと言って、香澄は彼のようになりたいとは思わなかった。子供の頃に、
――大人になんかなりたくない――
という思いを抱いたことがあったが、その時に感じた大人の雰囲気を、夢の中の正孝には感じたのだ。
香澄が感じている大人というのは、当たり前のことを当たり前にしか言わない人で、人に逆らうことを知らず、自分の意見は持っていても、相手に合わせてしまって、自分から行動することをしない。
そして、何かが起これば、すべてを相手のせいにして、自分は逃げてしまうのだ。
そんな時に限って、相手をおだて、すかしたりして、持ち上げた後で、都合が悪くなると梯子を外して、一人に責任を押し付け、人身御供にしてしまう。
香澄はそんなイメージを「大人」に対して持っていた。
――私は、決してそんな大人になんかなりたくない――
と思っていたのだが、同じ思いを持っていたであろう人が、他ならぬ正孝だったのだ。
香澄は正孝が、
――大人になることを頑なに否定していた――
という思いを一番持っていた人だと分かっていた。
その理由は、正孝が自殺しようとしているのを、垣間見てしまったからだった。
香澄が、その時正孝が自殺しようとしていたのかどうか分かっているのかを、正孝は分からなかった。
――見られてしまった――
正孝は、誰かに見られることを一番嫌っていた。
自殺に成功して、魂が身体から抜けてしまってから、自殺したのだということを悟られるのには抵抗はなかった。しかし、自殺の瞬間を見られることは耐えがたいことで、その時に、きっと死を断念したのかも知れない。
少なくとも、その時の彼の手首は綺麗だった。躊躇い傷などどこにもなく、自殺しようとしたのはそれが最初だと分かった。
しかし、香澄はその時、
――この人、また自殺を繰り返すんじゃないかしら?
と感じていた。
そう思うと、彼の手首に躊躇い傷が無数にあった事実を見ても、別にビックリはしなかったが、その時、彼が自殺をしようとした時のことを思い出すことはできなかった。
おぼろげな記憶だけはあったのだが、鮮明に思い出すことはできない。中途半端にしか思い出すことができないものであるなら、香澄はそれ以上思い出そうとはしない。
躊躇い傷というのは、時間が経つにつれて、次第に消えていくものなのだろうが、彼の場合には永遠に消えない傷として残っているのではないかと香澄は思った。
その思いがあったから、正孝が死について感じているという夢を見たのかも知れない。
香澄は、今まで自分が死について考えたことはないと思っていた。
いや、考えたことがないというのはウソであるが、死にたいと思うことはなかったというべきであろう。あくまでも死というのは他人事であり、しかもナースをしていると、死に対して他人事のように思うほど、感覚がマヒしているのかも知れない。
元々ナースになろうと思ったきっかけは、正孝だった。
彼が重い病に罹っていて、その病気に対して自分も一緒に立ち向かいたいという思いがあったことからだった。もちろん、自分がナースになるのは、それから数年も経ってからのことなので、正孝のために自分が役立てるという可能性はあまりにも低かった。
それなのに、ナースになりたいと思ったことを自分でウソにしたくないという思いから、一生懸命に勉強し、何とかナースになることができた。目的があって目指したナースへの道、達成してしまうと、拍子抜けしてしまったのも事実で、結果としてネガティブな性格に輪をかけることになってしまった。
香澄も、中学時代から紆余曲折があって今の自分があるのだ。中学時代と今の自分だけしか知らない人は、きっと香澄のほとんど何も分からないに違いない。それほど香澄の紆余曲折は、左右に大きく揺さぶられたものだったのだ。
香澄が正孝を夢で見たということは、その紆余曲折を思い出せることにはならないだろうか。左右に揺さぶられたという意識はあるが、右の時にはどんな心境を抱いていて、左の時にはどんな心境を描いていたのか分かっているような気がする。何度も訪れる左右の頂点、時間はまったく違っているので、環境が違うはずなのに思い出せるのだ。
どこか一つの突出だけを捉えて、右だ左だと言っているわけではない。明らかに、右の時と左の時には、れっきとした考えを抱いていたのだ。
香澄は正孝の腕にあった躊躇い傷を思い出していた。
最初に見た時は、それほど大きなショックはなかったはずなのに、今は大きなショックに襲われているのを感じた。
しかも初めて感じたはずなのに、
――前にも感じたことがある思いだわ――
中学時代に見た彼の自殺、その時に感じた思いとも違っていた。
――最近感じたことなのか、前に感じたことなのか分からない――
そう思っていると、香澄は自分が感じたことの時系列への感覚がマヒしてきていることに気が付いた。
――昨日のことがかなり前のことのように感じ、かなり前のことだったはずのことを、まるで昨日のことのように感じる――
というものだった。
感じている内容にはハッキリとした時期が存在した。
――中学時代の思い出――
あるいは、
――ナースになってからのこと――
と、自分ではハッキリと分かっている。
ハッキリと分かっていることに限って、時系列がマヒして感じるのだ。
もっとも、時期がハッキリとしないものに、マヒする感覚が存在するのかどうかも疑わしいものだ。ただ、香澄は自分の中で今までに感じたことのないことを感じるようになったのは事実であり、それが以前のこととの比較であることが多いように思えてきていた。
――それだけ年を取ったという証拠かしら?
と感じたが、まだまだ老け込む年ではない。
ナースとしてもまだまだで、発展途上だと思っている。
香澄は、正孝の躊躇い傷を思い出していると、
――彼が今まで生きてきたのは、私が最初に発見したのと同じことが、彼の方で繰り返されたのかも知れない――
と感じた。
正孝は、それ以降の自殺を志した。そこに本当の自殺の意志が存在していたのかは、香澄には疑問だったが、そのたびに誰かに見つかってしまい、結局躊躇い傷だけで終わってしまったのではないだろうか?
そう思うと、彼には自殺をする勇気など、最初からなかったのではないかと思う。だからこそ、彼が本当に自殺を考えていたのかどうかが疑問なのだ。
彼を知らない人がこの事実だけを知っていたとすれば、
「なんて中途半端な勇気しか持っていないの。自殺もできないのなら、死のうなんて思わなければいいのよ」
と思うことだろう。
香澄も彼のことを今ほど知らなければ、同じことを思うだろう。そんなことを考える自分に対してやりきれない気持ちになる香澄だった。
正孝にとって香澄は、どんな存在なのか、香澄は気になっていた。それを知らない限り、自分が正孝にどんな感情を抱いていたのか、本当のところを思い出せない気がしていた。
――彼は私の知らない私を知っているのかも知れない――
と感じた。
ますます彼を知る必要があるのだと思えてきたのだ。
正孝の最後の躊躇い傷は、不倫が泥沼に入り込み、抜けられなくなったからだった。
最初に正孝に近づいたのは彼女の方だった。結婚してから二年が経っていたが、旦那も不倫をしているということに気づいた彼女は、正孝に相談したのだ。彼女とは仕事場で一緒で、彼女の方が年上だったが、正孝を兄のように慕っていて、年上に慕われることの心地よさに酔っているところがあった。
彼女の名前は遠藤恵美と言った。結婚してから、高橋恵美に変わったが、正孝はずっと、遠藤さんと呼んでいた。
恵美が結婚しても、正孝は二人きりで会っていた。一番の話し相手であり、相談相手と自負していた正孝は、恵美を恋愛対象として見ているわけではなかった。
もちろん、二人きりで会っているからと言って、肉体関係に陥ることはなかった。恵美の方では、最初は正孝を男性として意識していたが、彼を相談相手として割り切ることが一番気が楽であると気付いてから、今の旦那とすぐに知り合った。正孝に好意を持っていたため、そのオーラが表にまともに出ていたことで、男性を寄せ付けることはなかったのだ。
恵美が正孝に男性として見切りをつけると、まわりに対してのオーラが消えたことで、恵美本来のオーラが発散されるようになった。元々、女性としての魅力に溢れていた恵美は、男性の注目を浴びるようになった。それだけ恵美は無意識にまわりに対して感情を正直に表現するタイプだったのだ。
恵美が今まで自分の中に作っていた結界が解けてしまうと、まわりの男性が今度は放っておくことはなかった。いきなり声を掛けられることが多くなり、最初は戸惑っていた恵美も、女性として男性から声を掛けられて嫌な気がするわけもない。最初からまわりに女性としてのオーラを発散させていなかっただけに、急に現れた魅力的な女性ということで、一部の男性を虜にしたのだった。
しかし、恵美の理想は高かった。
簡単に声を掛けてくるような軽薄な男性を相手にすることもなく、しばらくは彼氏ができる様子もなかったが、今の旦那が声を掛けてきた時、初めて恵美はときめいたのだ。
「こんな感覚初めてだわ」
その思いを、恵美は正孝に相談した。元々、好きだった相手に相談するなど、今までの恵美には考えられないことだった。
――どうしたのかしら?
自分でも不思議に感じていた恵美だったが、正孝への想いとは別に、
――慕いたい――
という感情を持っていた。
恵美は、その感情を自分が彼を好きだと思っていた感情だと思った。本当は別のものであるのに、同じだと思ったことが、まず最初の躓きだったと言ってもいいかも知れない。
恵美は、正孝のことを吹っ切れると思った。旦那になる相手を気にし始めると、最初のときめきがどんどん気持ち的に変わっていくものだと思っていたのに、変わることはなかった。
それなのに、どんどん彼のことが気になってくる。この感情は次第に抑えることのできない思いに繋がり、
――結婚したい――
と思うようになるまでに、それほど時間は掛からなかった。
時を同じくして、彼からプロポーズを受けたのだから、断る理由などあるはずはない。それでも、
「少し考えさせて」
と返事を渋ったのは、どうしてだろう?
「いいよ。ゆっくり考えればいい」
彼は余裕を見せていた。
――どうしてそんなに余裕があるの?
恵美には分からなかった。
その余裕を見ていると憎らしいくらいだったが、それだけ彼の器が大きいという思いと、自分に対しての揺るぎない想いへの裏返しだと思うことで、恵美にとって彼は、切っても切り離せない仲になっていったのだ。
結婚まではあっという間の出来事だった。
決めてしまえばあとはダラダラするのが嫌いな恵美は、結婚までの段取りの主導権を握っていた。
彼が決して優柔不断というわけではない。相手に任せることのできるタイプの男性で、それだけ気持ちに余裕があり、それは時々恵美からして憎らしさを感じさせるものだったのだ。
「結婚するんだ」
正孝は、もっと他人事のように言うだろうと思った恵美は、少し拍子抜けした。
しみじみと語るその雰囲気には寂しさが感じられ、
――何よ。いまさら――
と、恵美は初めて結婚を決めたことに対して、少し後悔の念を感じた。
しかし、こんなことで結婚を中止する気にはならない。歯車は動き始めたのだ。動き始めた歯車は、もう恵美一人の感情で止めることはできない。それは恵美が一番よく分かっていることだった。
「おめでとうと言えばいいのかな?」
恵美は、正孝がこんなに煮え切らない性格だとは思わなかった。今まで慕ってきた思いが一気に冷めてしまうような気がしたが、ここで冷めてしまうと、せっかく決めた結婚が正孝への当てつけに思えてきて、それだけは考えてはいけないことだと思うのだった。
「ええ、こういう時は、『おめでとう』というものよ」
と、恵美は答えた。
その時の正孝は、何とも言えないような表情で、無表情と言えば無表情だが、その表情からは何を考えているのか分からなかった。
逆に言えば、
――何を考えていたとしても、不思議のない表情――
と言えばいいのだろうか。それだけ感情を表に出さない表情をしていたのだ。
恵美は、正孝のそんな表情を見た時、
――何よ、何なのよ――
と、戸惑いを隠せなかった。
まるで、
「何でもお見通しさ」
とでも言わんばかりに思えて、悔しさが込み上げてきた。
もっともその時の正孝は本当に何も考えていなかった。それを恵美は勝手にいろいろ想像し、結局、想像は一つの形を作ることができなかった。それも、恵美と正孝にとっての悲劇の始まりだったのかも知れない。
その時の正孝は、自分の気持ちに正直になれないだけだった。恵美が思っているような余裕など、正孝にはなかったのだ。
だが、正孝からすれば恵美に対してだけは、
――自分の優越感を感じることができる相手だ――
という意識があった。
恵美も同じで、
――この人を慕っていれば、心地いい。それは間違いのないことなんだ――
と思っていた。
お互いに思いは一方に向かって向いていたので、一番うまくいく関係だと言ってもいい。しかし、何か信教の変化が起こったり、相手に少しでも今までと違った動きが見えた時、これ以上不安に感じることはない。恵美はその思いを感じながら紆余曲折の動きの中で、結婚という道を選んだのだ。
正孝の方とすれば、恵美の結婚に反対するつもりはない。祝福してあげられる気持ちの余裕は十分にあった。
――結婚しても、二人の関係は変わることは何もない――
という思いが正孝にあったからで、結婚してしまっても、恵美の自分への気持ちに変化はないとタカをくくっていたのだ。
結婚してしばらくはそれでよかった。恵美の方も、新婚生活を満喫していて、十分に気持ちの余裕を感じていた。それは正孝を慕う気持ちに勝るとも劣らない思いが家庭にはあったからだ。だが、その想いが家庭にあるだけで、結婚相手にあると思っていたのは間違いだったようだ。
旦那の浮気に気が付いたのは、結婚してからちょうど一年が過ぎた頃くらいだっただろうか。
急に帰宅が遅くなり、別に言い訳をするわけでもない彼に、不安が募ってきた。
実は旦那の浮気相手というのは、結婚前から付き合っている相手であり、恵美は彼から二股を掛けられていたのだ。
相手の女性は、彼が結婚していても、別にかまわないというタイプの女性で、
「不倫なんてバレなければいいんだわ」
と思っているようなしたたかな女性だった。
彼は悪い男だった。心の中で、
「この女と結婚していたら、恵美とは別れなければいけなくなるだろう。だが、恵美と結婚しても、この女は俺と続けることに何ら抵抗はないようだ。それなら、恵美と結婚するしかないじゃないか」
と思い、ほくそ笑んでいたのだ。
男も男、女も女である。
恵美はしばらく知らないふりをしていたが、それは事を荒立てて、自分のバカさ加減を相手に露呈させ、相手が開き直って、
「離婚だ」
と言い始めるのが怖かったのだ。
悪いのは間違いなく相手のはずなのに、それを言及する勇気はなかった。
もちろん、家庭を壊したくないという思いが強いのも事実だが、
――過ちをただすなら、早い方がいい――
という思いも確かにあった。
それでも、離婚に踏み切らなかったのは勇気がなかったからというよりも、頭の中に正孝という男性の影があったからだ。
「そら見たことか」
と言われるのが怖かった。
本当は正孝が自分を女として見てくれなかったことで踏み切った結婚なのに、どうして彼を意識しなければいけないのか、自分でもその矛盾が分からなかった。ただこの想いは理屈ではなく、感じていることがすべてだったのだ。
恵美は自分が完全に孤立してしまったことを感じた。いまさら正孝に頼れないという気持ちもあった。正孝との距離も次第に深まっていき、正孝からも連絡がこなくなった。
「しょうがないわ」
自分が望んだはずなのに、寂しさはどうしようもなかった。
だが、そのうちに慣れてくるだろうと思っていたところに、正孝から不意に連絡があった。
「呑みに行こう」
という誘いだった。
恵美は複雑な心境だった。このまま正孝と会ってもいいのかを自問自答してみた。理性は、彼と会うことを否定する。しかし、理性よりも強い形で、恵美の背中を押してくるのは、本能である。
「自分の気持ちに逆らって、後悔しない?」
本能にそう言われれば、本能に従うしかなかった。ただそれも、自分の気持ちに対して正当性を証明したいだけのことだったのかも知れない。
「やあ、久しぶり」
久しぶりに会った正孝は今までにも増して大人に見えた。
「こちらこそ、ご無沙汰してしまって」
と、恵美はなるべく余裕を見せるように言ったが、動揺は隠しきれるものではない。正孝にもすぐに分かった。
他愛もない会話がしばらく続いたが、普段呑めないくせにかなり呑んでしまった恵美を、今までなら止めていた正孝だったはずなのに、暖かい目で見つめるだけだった。恵美もその視線には最初から気づいていた。気づいていたからこそ、アルコールを口にできたのだ。
――この人に抱かれたい――
と恵美は初めて思った。
男女の関係になってしまうと、今までの心地よい気持ちになることはできないという思いを、恵美は結婚前から感じていた。
正孝の気持ちが恵美に対して変わったのは、その時だった。
恵美の酒に酔った潤んだ目は、今までに感じたことのない淫靡な視線で、
――このオンナ……
正孝は、完全に自分の理性を抑えることができなくなっていた。
恵美にも、正孝のギラギラとした視線を感じることができた。
――そう、その目を待っていたのよ――
ここまでくれば、気持ちを抑えることなどお互いにできるはずなどない。本当なら恵美が結婚する前、さらに言えば、旦那と知り合う前になっていなければならない関係に、やっと今、二人とも気が付いたのだ。
恵美は、旦那への憎しみと、自分の情けなさへの感情。正孝はずっと抑えてきた恵美への想いと、今までずっと蓄積してきた寂しさが、一緒に一気に爆発してしまったのだ。
正孝が蓄積してきた寂しさがいつの頃からのものなのか分からないが、恵美と知り合う前からのものだった。
ひょっとすると、香澄と離れることになったあの頃にも寂しさを感じていたのかも知れない。正孝自身は、小学生の頃に感じた寂しさが、自分の中での寂しさだと思っているので、その頃からの思いだったのかも知れない。
正孝は恵美に嵌っていった。
――絶対に嵌ることなんかないわ――
と感じていたのは、むしろ恵美の方だった。
彼が自分に対して冷静でいてくれることが恵美の望みだったはずなので、次第に自分に嵌っていく正孝を見ていて一番戸惑っていたのは、実は恵美自身だったのかも知れない。
もちろん、当の本人である正孝も戸惑っていた。当然自分にも恵美に嵌ることはないという自負があったからだ。一体恵美のどこに嵌ったというのか。身体に嵌ったのか、それとも情が移ってしまったのか、それとも、そのどちらもなのかである。
どちらにも嵌ってしまったのであれば、泥沼に落ち込んでしまいそうな気がするが、実際にはその逆だった。正孝は両方に嵌らないようにしようと自分で必死に抑えていたが、確かにその時点で正孝は、両方に嵌っているわけではなかった。
正孝自身、自覚がハッキリとあったわけではないが、両方に嵌らないようにしようという意識は非常に強く、それは逆に、
――どちらかであれば、それはまだ許容の範囲内のことだ――
と思っていた。
しばらくしても、自分が彼女のどちらに嵌っているのか分からなかった。それが正孝を泥沼に入り込む一歩手前で立ち往生させている原因であり、泥沼に嵌り込まないかわりに、戻ることもできなくなっていた。身動きが取れなくなっていたのである。
そのことを、恵美は分かっていたのだろうか?
恵美も正孝が自分に嵌ってきていることを分かっていながら、戸惑っていたのだ。その様子を見る正孝は、余計に不安に駆られてしまった。
正孝の不安が、恵美に嵌ることになった本当の原因だということに、正孝は気づかなかった。
最初に正孝が感じた不安は、恵美が自分と一緒にいる時、たまに上の空になることだった。
――旦那のことを考えているのかな?
最初はそれでもよかったのだが、相談相手を自負している正孝としては、旦那のことを考えて上の空になる相手に、
――本当に自分が相談相手になどなれるのだろうか?
という思いに駆られたからだ。
――俺は何をやっているんだろう?
無駄なことをしているのかも知れないと思うと、急に気持ちが冷めてくる自分を感じた。正孝が感じた不安は、無駄なことをしていることに対してではない。自分の気持ちが訳も分からずに冷めてきていることに対してだった。
理由が分かっていれば、ここまで不安に陥ることなどないはずだ。言い知れぬ不安というものがここまで自分の中で大きくなってくるなど、想像もしていなかった。
そんな正孝を見ていて恵美が感じたことは、
――この人は、他の人とは違う時間に生きている人なんじゃないかしら?
という思いだった。
もし、これが恵美でなければ、正孝から離れることを考えたかも知れない。しかし、恵美は離れるという選択肢を持っていなかった。むしろ、彼が違う時間にいるのであれば、自分もその場所に飛び込めるようになろうと考える方だった。
――彼をこちらの時間に引き戻そう――
とは考えない。
彼に自分を引っ張って行ってもらいたいと思った時から、
――彼がいる場所が自分の居場所――
と感じてきたからだった。
ただ、正孝がいると思われる世界は、恵美の想像を超えるものだった。正孝のことを見つめれば見つめるほど、彼のまわりが見えなくなる。彼がいる世界を見つめようとすると彼を見失ってしまう気がするからだった。
かといって、彼だけを見ていると、まわりが見えなくなる。彼の世界なので、恵美には分からない世界。彼に引っ張ってもらわなければ、一歩として動くことのできない世界だった。
――私はどうすればいいんだろう?
恵美は悩んでいた。
そんな様子を正孝は冷静に見ていたのだが、恵美が正孝が自分とは違う世界にいて、その世界を模索していると感じた時から、正孝の中で恵美への燃える想いが生まれてきたのだった。
――俺はどうしてしまったのだろう?
お互いに正孝の世界の中で紆余曲折を繰り返している。相手のことばかりを見ていることで、自分を見失っていることを分かっての上のことだった。
しかし、それも仕方のないことだと思っている。お互いに違う世界にいるのだから、感情を共有しようとするならば、そこにリスクは伴って当然だと思うのだった。
恵美と正孝はそれぞれに悩んでいた。
そのことを二人は隠そうとしない。むしろ相手に曝け出すことが必要だと思っているほどだった。ただ不安に感じるのは、
――相手に勘違いされたらどうしよう――
という思いだった。
それぞれに不安を曝け出しているが、不安というものは漠然としたもので、相手の感じ方一つでまったく違ったものになってしまう。
ましてや、二人は各々で悩んでいるのである。きっと自分に置き換えて考えることだろう。
二人の悩みは、次元の違うところでの悩みなので、最初から共有できるはずのものではない。それだけに自分に置き換えてしまうと、勘違いする確率はかなり大きくなってしまうに違いない。
実際に正孝の方が勘違いをしていたようだ。恵美も最初は自分が勘違いしていることに気づいた。何とか軌道修正ができたのだが、この時の二人のようにお互いに同じことを考えているのではなく感じているという場合は、片方が我に返れば、相手の方が我に返る可能性はグンと減ってしまう。そういう意味でも恵美が我に返ったことで、正孝が我に返れることは事実上なくなってしまったと言ってもよかった。
正孝が恵美に嵌ってしまい、抜けられない状況になってしまったのはその頃からのことだった。まるで薬物患者のように、普段は冷静であっても、急に態度が一変する時があった。
――まるで禁断症状だわ――
恵美はそう感じていたが、どうすることもできない。
そんな時の正孝は、自分が知っている正孝ではなく、まったくの別人に変わってしまっていたのだ。
だが、恵美はこうも考えている。
――別の世界に住んでいる彼が、こちらの世界に入ってくると、今のような禁断症状を起こすのかも知れないわ――
と思うと、余計に自分が彼の世界の中に飛び込んでいくしかないという思いに駆られるのだった。
それは、自分が今の世界と決別することを意味していた。どんなにこの世界と違っているかということは、正孝の禁断症状を見れば一目瞭然だった。だから、彼の世界に入り込むにはそれなりの覚悟が必要だった。
――私にその覚悟があるのかしら?
確かに、彼には自分の悩みを聞いてもらい、本当の恋というものを教えてもらったという思いはあった。しかし、このまま彼no
世界に入り込むことは果たして自分にとってどうなのだろう?
だが、彼が今のような禁断症状に陥ったりする原因を作ったのは自分だ。それに対しての後ろめたさと責任を感じないわけにはいかない。彼が今、自分の世界とこちらの世界の間に嵌り込み、抜けられなくなってもがいている姿が目に見えるようだ。
お互いに感じている不安、そこから先に我に返った恵美には、これからの二人を冷静に見ることができていた。
――まるで立場が入れ替わってしまったようだわ――
彼を何とかしなければいけないという思いはやまやまだったが、下手に自分が何も用意せずに助けに行っても、二人して泥沼に嵌るばかりだった。恵美には彼から離れるという選択肢が今一度頭をよぎった。
禁断症状の彼の姿など、見ていられるものではないという思いを強く持ち、自分だけでも引き込まれないようにしておかなければ、ズルズルと入ってしまうことは目に見えていた。
恵美は、正孝と抱き合っている時、乱れることはなくなった。それまで我を忘れて自我の境地に入り込んでいた恵美だったが、彼に抱かれていても、
――心ここにあらず――
と言ったところだった。
だが、そんな恵美を見ても、正孝の様子は今までと変わらない。必死に恵美に貪りついて、相手を感じさせようとする。
――私がこんなに冷めているのに――
彼の必死さは、まるでわざとらしさしか感じなかった。
というよりも、
「俺がこれだけ必死になっているのに、この女はなぜ感じないんだ? 意地でも感じさせてやる」
とムキになっているように思えてならなかった。
そんな姿に、もはや慕いたいと感じたあの頃は、すでに昔になり果てていた。
恵美はその時、気づいた気がした。
――この人の時間は、まったく進んでいないんだ――
恵美と一緒にいない時間までは分からないが、恵美と一緒にいる時は、彼の時間は止まっていて、今の恵美を抱いている時でも、彼の止まった時間にいる恵美を抱いているのではないだろうか。
――彼が抱いているのは、私であって私ではないんだ――
この思いは、恵美に屈辱感を感じさせた。
もし、相手が別のオンナなら、嫉妬心を抱くことで、自分の自尊心を奮い立たせることもできるが、相手が自分ということになれば、嫉妬心を掻き立てることも自尊心を奮い立たせることもない。
――まるで真綿で首を絞められているような気分だわ――
こんなに気持ちの悪いことはなかった。
恵美は、もう迷うことはなかった。
――この人から一刻も早く離れなければ、私もダメになってしまう――
という衝動に駆られていた。
恵美は、正孝から離れることを決心すると、正孝は恵美の前から姿を消した。それは恵美にとっても驚きであり、
「向こうからいなくなってくれて助かったわ」
という思いとは裏腹に、何かよからぬ胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
だが、恵美の中で、
――この人とは、もう二度と出会うことはない――
という思いが強いのもあった。その思いがあるだけに、
――でも、もし再会したらどんな顔をすればいいのかしら?
という不安も消えていない。
スッキリしないまでも、会って別れを告げていないことが心残りだった。なぜなら、今回の別れに対して、まったく自分で納得できていないからだった。
彼と別れることになったが、冷静になってもう一度考えてみると、
――あの人の魅力が色褪せてしまったわけではないんだわ――
という思いがあった。
彼の魅力を今となっては過去の人になってしまった相手に感じるということは難しかった。もし再会したとして、元々感じていた彼の魅力がなんだったのか、思い出すことができないと思ったからだ。
恵美と別れてから、いや、恵美の前から姿を消した正孝がどうなったのか、正孝本人も覚えていない。
「記憶の一部が欠落している」
というのは、この部分だったのだ。
今の正孝なら本当は恵美とのことも記憶から消してしまいたいことだったのかも知れないが、消すことはできなかった。本人の意志とは裏腹に、消してはいけないという思いがどこかに存在していたのかも知れない。それが恵美の本能から感じたことなのか、それとも潜在意識がそうさせたのか分からない。恵美とのことが頭の中から消えない正孝を、香澄は分かっていなかった。
――彼の中には、忘れられない誰かがいる――
という意識はあったが、それがどんな人なのか、想像もできない香澄だったのだ。
正孝の手首にある躊躇い傷のいくつかは、この時についたもののようだ。正孝はその時の記憶はあるが、自分がどんな精神状態だったのかを思い出すことはできない。
ただ感じていることとしては、
――自分が中途半端な気持ちの中で恵美と接したことが、手首を切って自殺しようなどと考えた原因だった――
ということは自覚していた。
――自殺するということに対して、怖いと感じたことはない――
と思っていて、さらに、
――本当に怖いのは、自殺をした時のシチュエーションは鮮明に覚えているのに、その時どうして自殺を企てたのかというような精神的なことを思い出すことができないということだ――
と思っていた。
正孝が自殺を試みたことで、二人の間は本当に終わってしまった。
中途半端だったには正孝だけではない。恵美の中にも中途半端な気持ちは燻っていて、心のどこかで、
――あの人がいなくなってくれればいいのに――
と感じていたことも事実だった。
その思いがトラウマになるほど、恵美の心に燻っていた。正孝は一命を取り留めたが、
――私が余計なことさえ考えなければ、あの人は死のうなんて考えることはなかったんだわ――
と感じていた。
このまま正孝のそばにいることはできないと判断した恵美は、正孝の前から姿を消すことを決心した。男に比べて女性の方が、思い立ったら迷うことなく行動するもののようで、後ろを振り向くことはなかった。
恵美が思い立ったことで、それまで中途半端な気持ちだった正孝も、思い切ることができた。恵美と別れる決意を固め、二人はそれぞれに覚悟を持って別れることになった。
紆余曲折を繰り返しながら、最後はお互いに覚悟を決めることができた。最悪な中でも別れ方としては、不幸中の幸いだったのかも知れない。
恵美は元の鞘に収まり、何とか夫婦関係も修復できたようだが、正孝が立ち直るまでには少し時間が掛かっただろう。彼の記憶が失われた原因の一つに、恵美とのことが大きく影響していた。
香澄の前に現れた正孝は、恵美のことをほとんど意識していなかった。別れに際して、かなり精神的に無理をしたのだろうが、完全に忘れることができなかったのは、当たり前のことだろう。
それでも、彼は立ち直ろうとした態度は健気と言えるだろう。
「まだまだ若いのだから、いくらでもやり直しができる」
というセリフは、あまりにも当たり前のこと過ぎて、言葉に重みは感じられない。その思いは、正孝も香澄も同じだった。
特に月並みなセリフに対して、何ら感じないのは香澄の方だった。
「こんなセリフ、説得力も何も感じないわ」
つまりは、
「そんなことは自分にだって分かっている。分かっていることを改まって言われても、何の感動もしないし、特にどや顔で言われるなど、嫌悪しか感じない」
と思っていたのだ。
香澄の父親は、特に月並みなセリフが多かった。母親も父親に習って、同じようなことしか言わない。しかも、父親に従属しているかのように、
「お父さんになんて言われるか」
というように、自分の意見よりも、父親の言葉に香澄がビビるとでも思っていたようだ。
実際には、香澄というよりも父親の言葉に一番ビビっていたのは母親だった。香澄の前では二人は言い争いもしていないようだが、父親が見る目は、完全に上から目線で、逆らうことは許されない。まるで封建的な考え方に、香澄は子供心に家庭に対して疑問以外の何ものも抱いていなかった。
その頃、香澄は、
「一日が百時間に感じられる」
と思うようになっていた。
なぜそんなことを思ったのかというと、
――いずれやってくるであろう大人になんかなりたくない――
という思いからだった。
一日百時間もあれば、大人になるまでにかなり時間が掛かる。ただ大人になってからのことを考えていたわけではないので、大人になってからも百時間だったら、嫌な時間が長く続くという発想はその時にはなかった。ただ漠然と、
――大人になんかなりたくない――
と感じていたのだ。
それは、もちろん両親を見ていたからである。
大人というのが皆あんな大人ばかりではないと思いながらも、自分から見ての大人というのは、親であり、学校の先生だった。
元々、学校の先生は当然のことを当然のごとくいうだけだった。公務員なので当たり前なのだが、教育指針に乗っ取って、どの子供に差別することもなく同じように教育するのが基本であれば、それも当然のことだろう。
まわりの同級生の中で、大人にあからさまに反抗している人を見ていたが、横目に見るだけで、香澄は思っていることを心の内に隠し持って、あまり自分を表に出すことはなかった。
表に出してしまうと、きっと両親のように、月並みのセリフを語るしかなくなってしまう。それ以外の言葉を知らないと言ってもいい。一番嫌いな言葉を口にしなければいけないくらいなら、黙っておくしかないと思ったのだ。なるべく目立たないようにすることが、自分の存在意義だと思うのは、情けないと思いながらも、それしかない自分を責めることはできなかった。
やるせないくせに自分を責めることができないという心境は、次第に快感に変わってきた。
快感を最高にまで高めた上で、寸止めを食わされた心境とでもいうべきであろうか。やるせなさが堂々巡りを繰り返しているくせに、堂々巡りが同じ一日を長くしている感覚に似ていた。
――一日が百時間だったら――
という思いを感じるようになったのも、そんな思いからだった。
あれは小学三年生の頃だっただろうか。同じ一日なのに、長さにかなりの差を感じるようになった時期があった。普段と変わらない二十四時間の時もあれば、あっという間に過ぎてしまうこともあった。そして、本当に百時間あったのではないかと思うほど長く感じられた時もあり、そんな時は、
――同じ日を繰り返しているんじゃないかしら?
と、次の日が同じ日に感じられたが、実際には同じ日だったことで、
――これは錯覚なんだわ――
と思うようになった。
同じ日を繰り返しているという感覚は、もっと大人になって感じたことがあった。
その時には、小学三年生の時に感じた、同じ日だったのだという思いを忘れていたようだ。単純に同じ日を繰り返しているという思い以外には考えられないという思いを持っていて、その感覚が、
――大人になるにしたがって、平凡なことしか考えられないようになるんだわ――
という思いを証明していることに、すぐには気づかなかった。
平凡なことしか考えられないというよりも、視野が狭くなると言った方がいいのではないか。
「二十歳過ぎればただの人」
という言葉があるが、まさしくその通りだった。
大人になるにつれて、成長しているというよりも、一つの考えに凝り固まってしまっているというのが、香澄の考えだった。
そういう意味で、子供の頃に感じた、
「大人になんかなりたくない」
という思いは間違いではなかったと思っている。
子供の頃にはたくさんの夢を見る。その中から一つに絞って夢を叶えようとするが、それは一つの成長に思える。しかし、たくさんの可能性の中から一つを絞るのだから、相当考える必要があるのだろう。
しかし、実際には現実と照らし合わせての消去法がほとんどではないだろうか。
「自分に何ができるか?」
ということを考えるということは、逆に言えば、
「自分にできることは何か?」
ということであり、ひょっとすると、何もできないということで、すべての夢をあきらめることになるかも知れない。いや、ほとんどの人がそうなのではないだろうか。
ただ、
「夢というのは叶えるためにあるんだろうけど、本当は叶えようとする気持ちが大切なのかも知れないな」
という先生がいたが、大人になり、ナースになるという夢を叶えた香澄とすれば、その時の言葉が身に染みているような気がしていた。
実際にはナースになることがゴールではなく、本当の意味では、そこが出発点なのだ。
――一つの夢を達成すれば、新たな夢が生まれてくるのは必然――
という当たり前のことを忘れていた。
忘れていたというよりも意識していて、考えないようにしていたのかも知れないとも感じたことがあった。しかし、それを認めてしまうと、夢に向かって頑張っていた自分を否定することになりそうでそれだけはできないと思った。
香澄がナースを目指そうとした理由の一つは、正孝の病を知った時だったが、本当はそれだけではなかったのかも知れない。
夢を持たなければいけないという意識は漠然と持っていて、自分の中で模索していた時期でもあったのだが、なかなか見つかるものではなかった。
その頃までは、さほどネガティブな考えを持っていたわけではない香澄だったが、その代わり、反抗心だけは大きかった。
何に対しての反抗かと言えば、言わずと知れた両親に対してだった。
当たり前のことを当たり前にしか言わない両親、いつも判で押したような言葉を繰り返すだけで、説得力がなくなることを本当に分かっているのだろうか?
そんなことを考えていると、両親は自分たちが上から目線で見ることしかできない人なんだと思うようになった。つまりは上の人には何ら反抗することはできないくせに少し下だと思うと、ここぞとばかりに攻撃する。
「弱者に強く、強者には弱い」
本当に最低の人間だった。
香澄はそんな両親を、
――反面教師――
として見ていた。
そうでもしなければ、親だとは認めたくないという思いがあり、親というものは自分に対して優越を持っているものではないとしか思えなかったのだ。
親に対しての反面教師を感じたことで、香澄は自分がナースになるという意識が芽生えた気がした。両親への思いのどこからナースという発想が出てきたのか自分でも分からなかったが、夢を持つということに両親の存在が不可欠であったことだけは自覚していた。夢というものが達成できるかできないか、問題はそれよりも、プロセスにあるんだということを自覚したこと自体が、両親を反面教師として見ていた証拠ではないかと感じるのだった。
香澄は夢を見ることが、
「本当は、目が覚める瞬間のどこかで一瞬見るものらしい」
という話を聞いたことがあった。
最初は信じられない思いだったが、考えてみれば、夢というのは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだということと一緒に考えると、その話にも一理あるように感じた。「まんざら信憑性のないことではないわね」
と思うと、寝て見る夢についても考え直さなければいけないような気がしてきた。
そもそも、起きている時に自分が達成しようと思うことを夢というのに対して、眠っていて見る出来事も同じ「夢」という言葉を使うのだろう? 別に同じでなければいけない理由があるというのだろうか?
ややこしいという思いが先に来てしまうと、その理由に辿り着くことは不可能だと思えたが、ややこしいという思いを抱かずにこの二つのことを考えようとするのは、まず最初から間違っているような気もした。
考え方の中に、ジレンマが存在しているのである。
それを理解しようとする時、香澄は、
――一日が百時間だったら――
という思いが頭を掠めるのを感じた。
寝て見る夢というのが、現実の世界でいう一瞬の出来事だという発想を聞かなければ、一日が百時間だなどという発想も生まれるはずがなかっただろう。
確かに寝て見る夢の内容には、起きている時に感じる時系列とは別のものが存在しているような気がする。
思い立った順番がそのまま時系列になるのだが、それでも夢の世界ではまったく矛盾を感じない。現実世界で発想する内容も、頭の中で巡っている時に決して時系列ではないだろう。それでも、
「過去のことを思い出している」
という記憶の奥から引っ張り出したという意識があるから、時系列を正常に感じることができるのだ。
夢の中では記憶というものが存在していない。思い立ったことがそのまま夢の中で生まれたことなのだ。夢の中でも確かに、
――前に感じたこと――
という意識はあるが、それが記憶から引っ張り出したという意識ではなく、前に感じたことを、新たに作り上げたような気持ちになっているのだろう。だから時系列を感じることがないのだ。
そういう意味で一瞬の出来事でも、過去に遡ることはなく、夢の中の世界は独立した生成する世界なのだ。
これが香澄の発想であり、
「こんな発想を持っている人は、他に誰もいないだろう」
と思っていたが、どうやらそうでもないようだった。
入院してきた正孝と一緒にいると、
――この人、私と同じところがある――
と感じた。
最初は分からなかったが、それが夢に対しての時間的な感覚であることに気づいていた。気づいてはいたが認めるわけにはいかないという思いもあり、それが香澄の中でジレンマとなっていたのも事実だった。
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