第2話 夢の中の夢
香澄は先生との話が終わった後で、一番聞きたかったことが自分の想像していたことだったという確信めいたものを得ることができた。
――やっぱり彼は、自殺未遂をしたんだ――
彼の中のどこに、自殺する雰囲気があったのか分からないが、
――あの人なら、自殺しても不思議ではない――
という思いがいまさらのようにあった。
それは先生と話をするまでは、半信半疑だったはずの思いが、いつの間にか確信だったような気がしていたからだ。
先生の話に説得力があったのか、それとも彼の記憶が欠落していることと、中学時代の重い病というキーワードが、香澄の中で、
――少々のことなら驚かない――
という思いを感じさせたからに違いない。
正孝の記憶が欠落しているのに、自分のことを覚えてくれていたことは嬉しかった。記憶が欠落しているのは、消したいと思っている記憶があるからで、その記憶を完全に消すためには、思い出したくない記憶に関わるすべてのことを意識しないようにしようとするだろう。そう思うと、香澄には彼が消したいと思っている記憶について、知る由もないはずだ。
――彼には、私の知らない過去が、まだまだたくさんあるんだ――
と思うと、
――その記憶を知りたい――
という思いと、
――消したいと考えているほどひどい記憶を、知るのは怖い――
という気持ちの両方があった。
以前なら、怖い方が強烈で、知りたいと思うことすらなかったはずなのに、今知りたいと思うのは、単純な好奇心からではなく、それだけ彼に対して思っているよりも感情が深いものであるに違いない。
香澄は、仕事柄、自殺しようとして運ばれてきた救急患者を何度も見たことがあった。真っ青な顔で虫の息になっている。緊急には慣れているつもりでも、自分よりも若い女の子が瀕死の状態で運ばれてきて、自殺未遂だと聞かされると、どうしても感情移入してしまいそうな気がしてくる。
――どうして自殺なんて――
自分がその娘くらいの頃、自殺なんて考えたことはなかった。普段からネガティブで、逃げの姿勢を取ったまま過ごしていると、えてして、そこまで思い詰めることはない。
思い詰めたとしても、衝動的に自殺を考えるような精神状態になることはない。普段から、
――自殺を考えるなんて、逃げている証拠だわ――
と、自分の姿勢を顧みることもなく感じるというのは、
――自殺を試みる人たちとは、しょせん分かり合えるわけはないんだわ――
と思っているからだった。
自殺を試みるのは、女性ばかりではない。もちろん男性もたくさんいる。年齢的には自分よりも年を取っている人が多いが、たまに学生の男の子もいた。
見るからに、
――この人なら自殺をしても不思議のない雰囲気だわ――
と思わせるような男の子で、きっと学校では、「パシリ」をさせられているに違いない。
苛めをする方は苛められる側の気持ちを分からないと思っていたが、本当にそうだろうか?
香澄は学生時代までは分からないものだと思っていたが、実際に病院に勤め出して、救急の患者を見続けてくると、それまでの考えを変えて見てみようという思いが募ってくるのを感じていた。
苛めにしても、苛める側の人たちにも、苛められる人の気持ちが分かっているから、苛めを繰り返している人もいるのではないだろうか。
――苛めなければ、自分が苛められる――
まるで弱肉強食の世界に身を置いている感覚で、苛められる人の気持ちが分かるからこそ、
――苛められたくない――
と思うのだ。
香澄は、あまり人と馴染んだりしたくなかった。自分は目立たず、一人蚊帳の外にさえいれば、苛める側にも苛められる側にもなることなく、すべてを「中立」という立場の下で平穏に過ごしていけると思っていた。
精神的にはストレスが溜まっていくが、苛めに関わるよりもマシである。その思いがネガティブな発想を生むのか、ネガティブな発想があるから、どちらも自分にとってマイナスになることであれば、よりマシな方を選択するという当たり前のことを意識しないつもりで、本当は一番意識しているのだった。
そんな発想が普段から身についているので、自殺などという思いが浮かんでくることはなかった。
――人と関わるから、自殺なんて思いになるんだわ――
自殺を考える人は、少しでも今の状況からよくなろうという思いで必死にもがいているに違いない。
確かに、今がどん底の状態で、それを乗り切れば、幸せが待っているという発想を抱き続けていれば、自殺なんて思わないだろう。しかし、どん底の状態から、耐えられなくなった時に感じるのは、
――このまま、永遠にどん底の状態が続いていく――
という思いだった。
そう思うと、生まれてくる発想は、どん底以上でもどん底以下でもない。つまりは、逃げることのできない現状に、自分が嵌ってしまったという現実に直面してしまったということだ。
そこまで来ると、死を選ぶという発想が生まれるのも無理はない。
――この現状から逃げるには、もう死ぬしかないんだわ――
放っておいても、じわじわ苦しんで死んでいくだけだという思いが頭をよぎる。それならば、
――一気に楽になりたい――
と感じるのも無理もないことだ。
そこに苛めが絡んでいて、苛める方にも、
――殺らなければ、殺られてしまう――
という思いがあり、心を鬼にしてでもやらなければいけないというジレンマに襲われる。
自分が原因で自殺した人がいたとしても、その人に対して、
「悪いことをした」
と、思わないように必死になっているかも知れない。
そこで認めてしまっては、今度は自分が同じ運命をたどることになるかも知れない。やりきれない気持ちが襲ってきて、それから自分がどうすればいいのか分からずに、そのまま存在が薄れていってしまうことだろう。
香澄のまわりにも、同じように苛められているクラスメイトが自殺して、苛めが問題になったが、調査の結果、ハッキリとした証拠が出てくることもなく、限りなく怪しさだけを残した消化不良の状態が、やりきれなさの中に消えていった。そのうちに苛めをしていたであろう女の子たちは、そのまま存在が薄れていき、気が付けば学校にも来なくなり、誰も噂もしなくなった。
噂をすることがタブーでもあった。そのうちに、そんな子たちがいたことも記憶から消えていき、自殺未遂があったことも、誰も何も言わない暗黙の了解から、誰もが記憶から自殺未遂の事実も消え去っていくようであった。
正孝の自殺未遂の原因が、苛めによるものだとは言えない。もっと他に死にたくなるようなことがあったのかも知れないが、香澄には想像がつかなかった。ただ、頭の中に引っかかっていたのは、
「重い病を患っている」
ということであり、
「治った」
とは聞かされたが、それからすぐに香澄の前から姿を消したのは、まるで香澄に、
「僕のことを記憶から消してくれ」
とでも言っているかのように感じたのだった。
確かに、彼が忽然と姿を消したことで、しばらくの間、彼のことが記憶から消えていたように思えたのも事実で、思い出すことがあったとしても、すぐにまた忘れてしまっていた。
――記憶は幻だったのかしら?
という思いがよぎり、また忘れていく。
その繰り返しがしばらくあって、本当に思い出すこともなくなっていた。
「どうして、ナースになろうと思ったの?」
と、看護学校時代に聞かれた時も、ハッキリと答えられなかった。
「重い病の友達が中学時代にいたから」
という思いを口にするだけだが、説得力も何もあったものではない。
なぜなら、香澄の中で感じているのは、それ以上でもそれ以下でもないということだったからだ。
「それだけ?」
と言われてしまえば、どう答えていいのだろう?
きっと聞きたいのは、その人との関係や、その後、その人がどうなったのかということを聞きたいのだろう。しかし、香澄には彼との関係について言葉にできることはないにもない。しかも、その後どうなったのかというのも分からない。つまりは、何をどう答えていいのか分からないのだ。
親友相手であれば、
「うん、それだけ。それ以上のことは私も知らないのよ」
と平気で言えるのだろうが、
「なあんだ、それだけなんだ」
と言われた時、香澄の中で、
――正直に答えなければよかった――
という後悔が襲ってくるのが分かったからだ。
その時の言葉の抑揚がどれほど冷たいものか、想像がつかなかった。ただ、苛めに遭っているかのような感覚が湧いてくるように思えてならない。
久保正孝がそれから少しして、急に病院からいなくなったのは、病院でもかなりショックな出来事だった。もちろん、警察には家族の方から捜索願が出された。とりあえず、見つかれば病院にも連絡が来ることになっていたが、何ら便りが届くことはなかった。
そのうちに誰も正孝の話をする人もいなくなり、存在が薄く感じられるようになった。
彼のことを話題にしないのは、「暗黙の了解」というわけではない。本当に話題にしなくなったのだ。
彼の存在自体が皆の意識の中からいなくなり、記憶の中に移ったというわけでもなかった。
――存在自体がなかったかのように思えてきたのではないかしら?
当の香澄自身も、
――本当に中学時代に気になっていた正孝君なのかしら?
と、入院していた男性と正孝の間に接点がないように思えてきたのだ。
香澄は、それでも久保正孝が入院していた時期のことが、あっという間だったような気がしていた。
むしろ、正孝と一緒にいる時間は、本当にこの世のものと言える時間だったのかということを感じてさえいた。
――一回の夢の中に凝縮されていた記憶なのかも知れないわ――
と感じたのは、
「夢というのは、目が覚める一瞬で見るものらしいんだよ」
という話を聞かされたからだった。
現実の世界と夢の世界では、流れている時間の違いが一番の大きな違いに思えてくる。その裏付けになるのが、
――目が覚めるにしたがって、夢を忘れていく――
という感覚だ。
夢の中では、逆に現実世界を意識してしまっているので、夢を見ているという感覚がない。どう考えても現実とは思えないことでも夢だとは思えないのは、それだけ現実世界に引き戻された時、夢を忘れてしまおうという意識が働くからではないだろうか。
――夢と現実の間には、超えることのできない結界がある――
そんなことを感じる香澄だった。
香澄は無意識に、この間までいた正孝と、中学時代の正孝を比較してみた。すると二人の間には、時系列が存在していないことをいまさらながらに思い知らされた。
――中学時代の彼の方が、近い過去のように思える――
ついこの間までここにいた正孝が遠い存在に感じられるのか、それとも、ここにいたのが正孝だという思い込みの強さが、昔の正孝を近い存在に思わせるのか、どちらにしても、片方の正孝を思い浮かべる時、もう一人を感じずにはいられない。二人の間に結界があると思っているはずなのに、矛盾を感じさせるのは、香澄自身が中学時代と変わってしまったということを表しているのかも知れない。
正孝が病院からいなくなった理由について考えたことはなかったが、その理由の一つに香澄の存在があるのではないかと思うのは、思い上がりだろうか。それだけ正孝が香澄のことを意識していたということになるのだが、入院している時には、そんな雰囲気を感じることはなかった。
――彼が一人になった時、私を感じた?
だから、病院からいなくなったと考えるのは思い上がりもいいところだ。入院を抜け出してまで、できることではないだろう。
――私は何を考えているんだろう?
香澄は、引っ込み思案で、とてもそんな大それたことを考えることのできない女性だった。ネガティブになったのも、元々は彼のことを気にしてだったではないか、いくら時間が経っているからといって、ネガティブになった原因の相手に対して、そんな大それたことを考えるなど、ありえないことだった。
正孝の行方は、警察が捜索してくれたが、忽然と消えてしまってから、その消息は途絶えてしまったかのようだった。病院の方では一週間も経つと、次第に彼のことを話題にする人もいなくなり、あっという間に彼がこの病院にいたという存在自体が、消えていくのを感じていた。
それはどうしようもないことだった。一つのことにこだわっているほど、時間は固まっているわけではない。しかし、香澄の中では彼がいなくなった時から、時計が止まってしまったようだった。
――前にも同じような思いをしたことがあった――
そう、それも彼と合わなくなった中学を卒業してからのことだった。
あの時は、時間が止まったという意識はなかった。彼への感情以外の時間は間違いなく動いていたからだ。今回も彼がいなくなったこと以外、時間は間違いなく動いているはずなのに、彼のことに関しては時間が止まったという自覚は確かにあった。
凍り付いてしまいそうな時間は、一人になった時に孤独とともに襲ってくる。前から一人になった時に襲ってくる孤独を感じてはいたが、孤独を嫌だとは思ったことなどなかった。一人でいる時の方が気が楽で、それだけ仕事がハードで、一人の時間がどれだけ大切なのかということに気が付いたからだと思っていた。
どちらにしても、今までの香澄の人生に、正孝という男の影響が本人が思っていた以上に大きな影響を与えているのだった。
香澄が、一日を長く感じられるようになったのは、この時からだった。
いつもいつも長いと感じているわけではない。
――気が付けば、一日が長いと思う瞬間に突入していた――
と思っていたのだ。
そんな日は、朝起きて昼くらいまでは普段と変わらない。しかし、昼過ぎて昼食を摂った後に、急に睡魔に襲われることがあった。
――別に前の日に夜更かしをしたわけではないのに――
と思ったが、それだけ疲れが溜まっている証拠なのかも知れないと感じた。
疲れの蓄積は、いつから始まっていつ終わるのか、香澄には分からなかった。疲れの中にストレスも含まれるのかどうか、それも問題だと思ったのだ。疲れていると絶対に眠くなるというわけではなかった。却って目が冴えてしまって眠れないこともあった。精神的に気になることがあれば眠れなくなるもので、それがストレスに繋がっているのであれば、疲れと眠気は絶対に対になるものだとは限らないだろう。
香澄は、昼過ぎて睡魔に襲われる感覚が短くなってきた。
学生時代には結構あったのに、病院に勤め始めると、眠くなっている場合ではなくなっていたのだ。
覚えることはたくさんある。眠気など催していては、先輩や上司から叱責を受けることは明らかだった。自分でもそんな調子ではナースなどやっていけないという自覚はあったので、余計に気を張りつめていた。
そんな時は、一日の時間はあっという間に過ぎていた。しかし、それが一週間だったり、一か月の単位になると、結構長く感じられるのだ。逆に一日の時間が長く感じられる時は、一週間などあっという間のことだった。
それも分からなくはない。あくまでも最小単位は一日なのだ。
その一日を長く感じられると、一週間も当然長く感じられると思うことだろう。しかし、実際には普通の長さなのだ。だから、自分が感じているよりも、短く感じられ、最初から一週間を考えていたわけではないので、余計にあっという間に感じられるというわけだった。
一日の中で夜睡眠を摂るのは当たり前のことであり、それ以外の時間に眠くなるというのは、やはり肉体的なことなのか、精神的なことなのか、どこかに無理をきたしているからではないだろうか。
香澄は昼食を病院の食堂で摂っていた。たまに同僚と摂ることもあったが、どうしても時間が合わなかったりして、一人で摂ることがほとんどだった。
最初は寂しいと思いながらも、そんな表情を表に出すこともなく、淡々と食事を摂っていたことだろう。しかし、そのうちに一人でいることが気楽だということを思い出し、表情にも無理がなくなってきたようだ。
一人で食事をしていると、まわりの喧騒とした雰囲気が気になってきた。噂話など、聞きたくもないことが耳に飛び込んでくるのだ。
そのほとんどが患者さんの噂だったが、そんな時、正孝の話が聞こえてきた。
それは、正孝がいなくなってから三週間が経っていた。彼がいたという存在すら薄れていた時期であり、香澄自身も、
――早く私も自分を取り戻さなければいけないわ――
と感じるようになっていた頃だった。
「この間、交通事故に遭ったと言って入院していた人がいたでしょう?」
「ああ、確か病院からいなくなって警察が捜索しているけど、消息がつかめないって言っていた人でしょう?」
「ええ、その人なんだけど、私、この間見ちゃったのよ」
「えっ、どこで?」
「電車に乗ってどこかに行く途中だったみたいなんだけど、その時女の人と一緒だったのよ。ちょっとビックリしたわ」
「それで?」
「入院していたのがウソのように楽しそうな表情をしていたのよ。病院にいた時には想像ができないほどの笑顔だったわ。だから、私もよく彼に気が付いたって思ったほどなのよ」
香澄は不思議に感じた。
警察が必死に消息を探しているのに、本人は女性と二人で、電車に乗っていたなんて、俄かには信じられることではなかった。街の真ん中で堂々と生活しているのに、どうして警察が消息を掴めないのか不思議だった。
――きっと彼女が見たというのは、他人の空似なのよ――
と香澄が思ったその時、話し始めた彼女も、
「まあ、あくまでもちょっと離れたところから見ただけなので、本当に本人なのかどうなのか怪しいものなんだけどね」
「なあんだ、ちょっとした話題を提供してくれただけなのね」
と言われて、最初に話し始めた彼女はニコニコしながらも、相手の目をじっと見つめていて、含み笑いに見えた。相手もそれが分かったのか、それ以上何も言わなかったのだ。
しかし、香澄の中ではそのことが気になってしまった。まさか、彼女が香澄が聞いているのを見越して、急にそんな話をしたとは考えにくいが、元々しなくてもいいような話題提供だったと思うと、香澄を意識していたとは一概に否定もできないというものだ。
香澄が睡魔に襲われたのはちょうどその時だった。
――このままでは眠ってしまう――
と感じ、何とか気持ちを持たせようと必死になっていたが、襲ってくる睡魔に勝てそうにはなかった。
心地よさに身を任せるようにしながら椅子にもたれていると、意識が次第に遠くなってくるのを感じた。
まわりの喧騒とした音が次第に遠ざかっていく。それが合図だったのか、香澄はそのまま眠ってしまったようだ。
――私は夢を見ているのかしら?
確かに睡魔に襲われ、眠ってしまったはずだった。
現実世界と同じ場所の夢を見るというのは、毎日夜寝る自分の部屋であればありえることだが、職場の食堂で起こることだとは思ってもみなかった。夢の中での自分が何を意識しているのか分からなかったが、同じ場所でも明らかに違っているのは、眠りに就く時、最後に感じた消え行く部屋の喧騒とした雰囲気が、夢の中ではまったく感じられない。
食堂にいるのは香澄一人であり、まわりには誰もいなかった。それだけでも、自分が夢の中にいるということが分かったと言ってもいい。
「大丈夫なのかしら?」
香澄は、声に出して言ってみた。
どうせ誰もいないのだから、聞かれることもないのだが、その時に声に出してみたのは、本当に自分が声を発することができるかということを確かめたかったからだった。
「やっぱり、声になっていない」
喧騒としているわけではなく、誰もいない空間で感じる騒然とした自然な音の中に、自分の発したはずの声が吸い込まれてしまったかのように思えた。
声が響けば、そこは夢の世界ではないと思ったのだが、どうやら、その時に見ていた香澄の夢は、
「何も起こらない世界」
だったようである。
そして、
「誰もいない世界。騒然とした空気が自然に流れていて、空気が流れているはずなのに、風らしきものは一切感じない世界」
そんな感覚を持っていたのだ。
もう一つ言えることがあった。これは夢の世界では共通していることなのかも知れないが、
「この空間だけに時間が流れていて、夢の世界としては、時間が流れているわけではない」
というものだった。
空気が流れているのに、風がないという発想と類似のものである。香澄は吸い込まれそうになっている騒然とした雰囲気に、自分の時間が支配されていて、本当は見えないだけで同じ空間にいるはずの人を意識できないのは、
「それぞれの夢の中で、違った長さの時間が流れているからだ」
と思っていた。
もし同じ時間を一瞬でも共有できれば、そこにいる人を意識できるのかも知れない。夢の世界に偶然など存在しないと思っていたが、信じてみたいと思ったのは、
――一人だと思っている世界に誰かの存在を感じてみたい――
と、感じたからだった。
香澄が時々言い知れぬ睡魔に襲われ、そして落ち込んでしまった夢の世界では、いつも同じことを考えている。
なぜなら、夢のシチュエーションがいつも同じで、夢から覚めると考えることは、
――夢の世界でも違う時間が存在するのなら、現実世界にも存在するかも知れない――
というもので、学生時代に読んだSF小説に載っていた「パラレルワールド」という言葉を思い出さずにはいられなかった。
「パラレルワールド」というのは、
「人には、無限の可能性が存在していて、次の瞬間自分に起こっているのはその一部にしか過ぎない。末広がりのように四方八方に広がっていく世界も存在するのではないだろうか? そんな世界がネズミ算式に増えていくと、可能性は本当に限りなく無限に近づいてしまう」
香澄は、それを半分信じているが、半分は信じられないと思っている。信じられないということも疑わしいというわけではなく、疑う以前に、信じようと思わないのだ。
「何かを疑うということは、一度は信じてみて、そのことを考えた上で、結局信じられないという結論を得た時に考えることだ」
と思っていた。
香澄は寝ている時間のことを考えていた。
眠りから覚めると、数時間経っているが、夢を見ていない時も夢を見たと思っている時も、その時間に変わりはない。
――夢というのは、本当は毎回見ていて、眠りから覚めてから、覚えているか覚えていないかだというだけのことではないか?
と思ったこともあった。
しかし、今ではハッキリと夢を見ていない眠りが存在しているということを感じることができる。そんな時は、決まって目覚めがよかったのだ。
ただ、目覚めがいいというのは、すぐに目が覚めるという意味ではなかった。むしろ、目覚めの心地よさをしばらくの間味わっていたいという思いを抱いた時だったのだ。
冬であれば、暖かさから布団から出たくないという思いに至るのだが、その感覚に似たものがあった。
――このままじっとしていると、二度寝してしまう――
という気持ちから、
「目を覚まさなきゃ」
と自分に言い聞かせるのだが、なかなか身体が素早く反応してくれない。
身体が反応してくれないと、頭でいくら考えてもどうしようもない。頭で出した指令に従って動くのが身体だからだ。
身体が頭の指令に背く時というのは、睡魔が襲ってきている時だった。
睡魔は身体に痺れを与え、睡魔を必要以上に意識させることで、身体の動きをマヒさせる。
身体がマヒしてしまうと、それに連動して、今度は頭もマヒしてしまう。
そこにどんな力が働いているのか分からないが、香澄にとって身体のマヒは、頭のマヒから避けて通ることのできないものだと思っていた。
――このまま眠ってしまわないように、身体を起こさないと――
何とか身体を起こすことが今まではできていたが、次第にそれも難しくなってきた。
やはり知らない何かの力が働いているからに違いない。
一度香澄は、最高にいい目覚めを経験したことがあった。
だが、それほどハッキリとした気分のいい目覚めは初めてだったはずなのに、
――以前にもどこかで――
というようなデジャブを感じさせるものだった。
どんなにいい目覚めをしたとしても、目の前に見えている光景を、実際に自分が見ているという意識にならないのである。それがいつも寝起きしている自分の部屋であっても同じこと、逆に自分の部屋であるからこそ、そんな風に感じるのだ。
香澄は自分がデジャブを感じた時に最初に思うのは、
――前に見たと感じたのは、夢の中のことではないだろうか?
という感覚だった。
何か自分の予期していない想定外の出来事が起こった時、それが夢のせいだと思うのは、普通のことだと香澄は思っていた。自分だけではない誰もが感じることなので、それがいい悪いの問題になるのだとは思ってもいなかった。
しかし、そのことが自分の中で逃げに繋がっているということを分かっていながら、認めたくないと思わせたのは、ナースになってからのことだった。自分がネガティブな考えをする人間だという自覚を持ち始めた頃だったが、入院患者から言われたことがあった。
「看護婦さんは、何か楽しいことをしていますか?」
その人は初老の男性で、病気の程度は、それほど悪いわけではなかった。
元々は検査的な入院だったのだが、その時に見つかった腫瘍の切除を、せっかくだからこの機会にしておこうということで、入院が少し伸びていたのだ。
「最初は、すぐに退院するものだと思っていたので、腫瘍が見つかって、切除するかどうか医者から聞かれた時、結構迷ったけど、せっかくだからって思ったんだよね」
「はい、そう聞いています」
「それでね。二、三日で退院するつもりだったから、それからの入院生活がどうにもウソっぽく感じられるようになったんだよ。本当なら退院して、仕事復帰もしているはずだからね」
「これを機会に、ゆっくりされたらいいと思いますよ」
香澄は片手間でその人の話を聞いていたせいか、どこか上の空で話を聞いてしまっていた。本当なら、かなり失礼なことであるが、ナースの仕事をしている最中なので、仕方ないところだった。
彼もそのあたりはわきまえていて、仕事の邪魔をいないように、さりげなく話をしていた。
「でね、入院しているうちに一日一日が、まるで同じ日のように思えてきたんだよ。毎日ベッドの上で何もすることがなくて、テレビを見たりしている程度だろう。見舞いに来る人もいないし」
確かに、この人を見舞いに来た人に出会ったことはなかった。普通なら家族か会社の人が訪れてもいいはずだ。
彼は続けた。
「私は、妻には先立たれ、子供たちも独立したので、一人きりなんだよ。最初は検査のための数日間の入院だけのはずだったので、誰にも言っていなかったんだけどね」
「会社の方は?」
「私の部署は、私一人がいなくても、別に問題はないからね。入院が延びたと言えば、そうですかと言われただけだったよ」
香澄は、彼の立場になって想像してみた。あまりにも寂しくて、背筋に冷たいものを感じた。
――こんな風にはなりたくない――
と、まるで他人事のように感じたが、今のまま行けば、自分も同じ運命かも知れないと、急に感じ、それが背筋を冷たくしたのだろう。
「私がついてますよ」
思わず、口からそんな言葉が漏れた。
――相手に同情したのかしら?
たとえ同情したとしても、いきなりそんな言葉を口走るなど、今までの香澄には想像できないことだった。
ただ、もしそれが同情だったとすれば、すぐに我に返り、そんな言葉を口にした自分が恥ずかしくて、顔を真っ赤にさせているに違いない。しかし、その時の香澄は、自分の口から出てしまった言葉を否定する気もないし、恥ずかしく感じることもなかった。
「僕が今看護婦さんに話しかけたのは、僕が今感じていることを看護婦さんに聞いてもらいたいと思ったからなんだ」
「えっ?」
香澄は少し驚いて、彼の顔を直視した。鏡が目の前にあれば、きっと今の彼の目の開き方と同じくらい広く、目が開いているかも知れない。
「さっきも言ったように、毎日が平凡に過ぎていくと、その日がいつだったのかということすら分からなくなることってあるでしょう? 例えば、何かがあったとして、それが昨日のことだったのか、おとといのことだったのか、ひょっとすると今日のことでも分からないかも知れない」
香澄も、かつてそんな思いをしたことがあった。たぶん、高校時代だったように思う。
高校に入学してからの三年間のほとんどは、看護学校に入学するための勉強に時間を費やしていたと思う。
まわりの友達は、恋やスポーツにと、香澄から見れば、無駄なエネルギーの消費をしているように思えた。そのおかげで、自分は勉強に集中でき、まわりの人たちに対して、先に進むことができると思ったのだ。
だが、勉強だけをしていると、そのうちに毎日が平凡でしかなくなってきて、勉強は前に進んでいるのだから、確実に自分がステップアップできているという自覚があるのに、何か大切なものを忘れていっているように思えてならなかった。
それが一体何なのか想像もつかなかったが、それが、自分の性格にネガティブな部分があるということを自覚させることになろうとは、思ってもいなかった。
高校を卒業するまでに、自分がネガティブであるということは分かっていたが、それが今に始まったことなのか、以前からのものなのかが分からなかった。
――そんなことにこだわること自体、ネガティブな証拠だ――
と思ってもみたが、元凶がどこにあるのかを知りたいと思うのも仕方のないことだ。だから自分の中でこだわっていたのだ。
高校時代の三年間、勉強は進んだが、毎日が充実していたかと言われれば疑問が残る。
――自己満足で終わってしまったのではないだろうか?
と感じたが、考えれば考えるほど、その思いが確かなものになってきていた。
老人の話を聞きながらそんなことを思っていたが、彼も今、似たようなことを感じているのだろうか?
「その感覚って、今までにもあったんですか?」
と香澄は聞いてみた。
「あったような気もするけど、曖昧なんだ。曖昧だってことは、なかったんじゃないかって今では思っているけどね」
この辺りが香澄と考え方の違うところだった。
香澄の場合は、曖昧な考えが頭に浮かべば、まずはそれを信じてみるところから始める。初めては見るが、考えれば考えるほど、信じられなくなってきて、結局は信じられない方に考えが向いていることが多かった。
――これこそ、頭の中が減点法になっているじゃないのかしら?
ネガティブな考えの一番の原因は、この減点法にあるのではないかと、最近香澄は感じるようになった。そういう意味では、この老人もネガティブな考えをする人なのかも知れないと思うようになり、香澄が話を聞いてあげることが一番彼の気持ちを分かってあげられると思ったのだ。
しかし、考え方が偏ってしまうという危惧も拭い去ることはできない。適当ではいけないのだろうが、あまり思い入れを激しくするのはまずいと思っていた。
「毎日が平凡なのは、本当に悪いことなんでしょうか?」
というと、彼は少し訝しげな表情になり、
「というと?」
と聞き返してきた。
「毎日にいろいろな変化を望んでいる人もいますけど、私は、平凡に暮らすことが一番難しいのではないかと思っているんですよ。悪いことではないと思いますよ」
「僕は別に平凡に暮らすことが悪いことだとは言っていないんだよ。ただ、毎日に変化がないと、自分が生きているということを感じられなくなりそうな気もしているんだ」
「でも、毎日を普通に過ごしていて、自分が生きているんだって自覚をいちいち感じたりしますか?」
「それはいちいち感じることはないよ。でも、ふとしたことで感じることがあるんだ。その時に、いつもなら自分が生きていると実感できるはずのものを感じているのに、急に感じられなくなった時、どんな風に感じるか、それが僕には不安なんだよ」
「不安というのは、いつも感じているような気がするんですが、どこから来るものなのか分からないですよね。だから、不安についてまだ感じていないのに、あれこれ考えるのはいかがなものなのかって思いますよ」
と言ったところで、
――あれ?
と香澄は感じた。
こんなポジティブな言葉が香澄自身の口から、しかも、無意識に出てくるなど、自分でも想像できなかった。
――相手が自分よりネガティブな人だからかな?
とも感じたが、見ている限りでは、自分ほどネガティブには思えない。自分に話をしてくれているのも、香澄が自分よりもネガティブな考えを持っているのが分かったからではないかと感じていた。
老人は話を続けた。
「僕は退屈な毎日を過ごしていたんだけど、それも次第に慣れてきた。元々一人だったので、退屈な時間は、他の人ほど苦痛ではないからね。だって、最初から苦痛だという意識があったわけではないんだ。ただ、不安だけは他の人と同じようにあるんだよ。苦痛のない不安というのも、あまり考えられないことだろう?」
「確かにそうかも知れませんね。でも私も似たような気分になったことはありますよ。そんな時、なぜか、このまま同じ日が続けばいいなんて、今では考えられないようなことが頭をよぎったりしたんですよ」
と香澄がいうと、彼は興奮して、
「そ、そうなんですよ。僕が言いたいのは、まさしくそのことで、やっぱり看護婦さんなら僕の話が分かってくれそうだ」
と、鬼気迫る表情を浮かべて、自分だけが盛り上がっているようで、香澄は唖然としていた。
「どうしたんですか?」
彼が何を言いたいのか、さっぱり分からないという表情を浮かべたが、本当は何となくだが分かっていた。他人から見れば、その場で興奮しているのは彼だけのようであるが、実際には、香澄自身もかなり興奮を覚えていたのだ。
――もし、今胸を触られても、感じないかも知れない――
と思うほど、感覚的に興奮していた。肉体の感覚がマヒするほど感覚的に興奮するなど、今までにはなかったことだった。
――きっとこれからもないかも知れない――
これが一生で一度のことかも知れないと思った。
――もし、一生のうちで誰もが一度だけ経験することであれば、今感じたのはいいことなんだろうか?
またしても、香澄の奇妙な仮定が始まった。何か気になることがあれば、自分で勝手に仮定してみて、想像することの楽しみを覚えたのはいつからだっただろう。
「いや、まさに僕も同じように、今、同じ日を繰り返しているんじゃないかって思う時があるんだ。毎日の病院での規則正しい生活、入院患者が見舞いに来る人も決まっていて、話題を聞いているわけではないので、来た時間と帰った時間しか分からないが、それがまったく前の日と同じ時がある。それを感じた時、この日が前の日の繰り返しだって思ってしまうと、もう疑うことができなくなってしまうんですよ」
ここまで言うと、彼は興奮状態から覚めたようだ。急に脱力感が感じられ、スーッと背中から蒸気のような白い煙が抜けていくのが見えた気がした。
――魂が抜けていくのって、こんな感じなのかしら?
と思わせるような情景で、ぐったりとなった彼が頭を上げるまで、少し時間が掛かったように感じた。
しばらくすると、まるでスローモーションを見ているかのように、実にゆっくりと彼が顔を上げた。その表情はまるで魂が抜けているようで、香澄はドキッとした。そして、彼が口を開くのを待った。香澄はすでに金縛りに遭ってしまっていた。
「同じ日を繰り返しているのって、私なんですよ」
静かに口を開いた。
「あなたは、誰なんですか?」
「別人というわけではないです。ただ、彼がいつも押さえつけている自分なんですよ。驚かせてすみません。でも、あなたの中にも僕と同じような存在の人がいますよ。あなただけではなく、誰にでもね」
そう言われると、少し気が楽になった。そして彼は続ける。
「同じ日を繰り返すというのは妄想ではなく、誰にでも起こっていることであって、自覚しているかしていないかだけのことなんです。中には自覚していて、先に進みたくないと感じる人もいるようですよ」
「私には信じられません。同じ日を繰り返しているということを想像しただけで、まるで真綿で首を絞められているような不思議な気分にさせられます」
「彼も最初そうだったんですよ。だから誰かに話したいと思ったんでしょうね。でも、皆同じことを思いながら、人に話すことを嫌うんです。それは自分の中にいる僕のような影の存在に、無意識に怯えているからなんですよ。きっとあなたも同じだと思っていますよ」
どこから声がしているのか、唇が動いているようには見えなかった。
夢を見ているようだというのは、まさしくこのことなんだろう。夢だという思いを抱いていても、その確信がほしい気がした。
香澄は自分が夢を見ていたと確信できる瞬間があった。それは目が覚めたという自覚を感じる時だった。
眠りから覚めて、目を開けた瞬間というのは、まだまだ頭がボーっとしていて、完全に目を覚ますまでには少し時間が掛かる。それは香澄に限ったことではないだろう。目を瞬かせて、瞼を活性化させることで目覚めを誘発している。目覚めというのは、目を開けてから完全に目を覚ますまでのことをいうのであれば、その時間は人によって異なるが、すぐに目が覚めてしまうような人はいないはずだ。
「あ、夢だったんだ」
と感じた時、それが、目覚めの中でのどの段階なのかによって、夢を見ていたと確信できる時がある。
夢を見ていたという意識があるのだから、確信なのだろうと思うのは性急である。心のどこかで、
――本当に夢だったんだろうか?
という思いがあったり、
――本当に今日見た夢だったのだろうか?
という思いもあったりと、確信できないことで、次にはその理由を模索しようと試みるのだ。
だが、本当に夢だったと確信できた時は、そこからの完全な目覚めにはそれほど時間が掛かることはない。つまりは、目覚めに掛かる時間というのは、その時々でまちまちなのだ。
夢を見ていない時は一定しているのかも知れないが、夢を見ていた時は、その夢の印象によって、変わってくるのかも知れない。
あっという間に目が覚めたと思うこともあった。
そんな時は夢の内容が頭の奥で燻っている時だった。そんな時に見る夢というのは、怖い夢を見た時だと香澄は感じていたが、覚えている夢の中でも、怖いと感じられないような夢も含まれている。
――夢を覚えている時というのは、本当に怖い夢を見た時だけなのだろうか?
という思いと、
――それとも、本当は自分にとって怖いはずの夢なのに、目が覚めてから思い出すと、怖いという感覚ではない夢なのだろうか?
と感じた。
後者は、夢を見ている時と、目が覚めてからでは、自分の感じ方に違いがあるということを示しているが、それもあながちあり得ることではないかと思っている。潜在意識と現実での意識とが、まったく同じであるなどということは最初から思っていない。
――目を開けてから、本当に目覚めるまでというのは、まだ夢の中の世界なのではないのかしら?
と感じたこともあった。
完全に目を覚ましてから、その時間を考えることはほとんどないが、もし考えたとすれば、おぼろげな記憶しかなく、そこには意識は存在していないのかも知れない。それは何かの力が働いているからではないかという思いすらあり、その力というのは、他ならぬ自分の中から滲み出てくるものだったりするのではないだろうか。
そんなことを考えていると、目を開けてから完全に目が覚めるまでに時間が掛かるというのは、誰にでもあることだという考えも、怪しく思えてきた。
――自分がそうなのだから――
という思いは両面から考えることができる。
言葉のニュアンスとしては、自分中心の考えに思えるが、香澄はそうは思っていない。むしろ、
――まわりがそうなのだから、自分もそうなのだ――
という考えの方が強いだろう。
だが、それを認めようとしないところが香澄にはあった。
ネガティブなところがありながら、どこか意固地なところがあって、それを自分では精いっぱいのネガティブな性格に対する自分なりの抵抗のように思っていた。
香澄は、決して自分が気が強い方だとは思っていないが、
――私は他の人と考えていることが違うんだ――
と、心の奥では思っている。
ネガティブになるのは、そんな思いが自分を内に閉じ込めておこうとする衝動に駆られているのだろう。
それでも、どこか、他の人と同じではないと安心できない自分がいることを無意識に感じている。それが自分なりの抵抗を生む状況に自分を置いているのかも知れない。
香澄は、目覚めの時間を時々夢の延長に思える時がある。
基本的には現実世界のものだという思いなのだが、夢の内容によってなのか、目覚めの時に、どうしてもそれだけでは自分を納得させることができないことがあった。
「夢というのは潜在意識が見せるものだ」
という話をよく聞くが本当だろうか。
香澄は高校時代までは、その言葉を真剣に信じて疑わなかった。今でも基本はその考えに違いない。しかし、どこかそれだけでは説明できないことがある。それは香澄自身が、夢というものがどこまでで、どこからが現実世界なのかということをしっかり把握していないからだろう。
――だけど、本当にそんな私が考えているようなことを考えているような人って他にはいないわよね――
と、またしても、他人と比較してしまう自分がいる。
自分でもハッキリとした結論を得ることができないものを人の考えを想像して比較するなど、そう簡単にできることではないはずだ。
香澄はその日の夢をいろいろ思い出す時間が、目覚めの時間ではないかと感じたことがあった。
そんなことをすれば、ずっと目覚めないままになるように思えるが、実際は逆なのだと思っている。
一度夢をハッキリと思い出してしまえば、その夢は中途半端な状態ではなく、完璧な状態として記憶の奥に封印されるように思うからだ。
封印された時の夢は色褪せることはない。なぜなら、夢というものに、時系列という概念がないと思うからだった。
記憶が薄れてしまうのは、時間が経ってしまうからだというのがすべてではないだろうが、その思いが大きく影響しているのは事実であった。
香澄は、封印している記憶の中で、完璧に覚えている記憶は存在していると信じている。その思いが、
「本当は初めてのはずなのに、過去にも一度……」
というデジャブを思い起こすのかも知れない。
確かに、今まで目が覚めるにしたがって忘れてしまいそうになる夢を必死になって思い出そうとしたことがあった。それがどんな夢だったのか覚えていないが、怖い夢だったのは間違いないようだ。
本当ならそのまま忘れてしまいたいと思うはずなのに、必死で思い出そうとしたのは、その時おぼろげに残った記憶が、実際の夢よりも恐ろしいものだったからに違いない。だから中途半端な状態で夢が格納されてしまうのを嫌ったのだ。
中途半端な夢というのは、記憶の奥でも、封印される場所とは違うところだと思っている。
――封印されるところではなく、格納されるだけのところなんだわ――
と思うと、いつ思い出すか分かったものではない。
その時に自分がその中途半端な記憶を感じ、何を思うのかを考えると、それが恐ろしいのだった。
夢を見てすぐの時でさえ恐ろしく思うのに、その恐ろしい夢を何の前兆もなく思い出すというのは、これほど恐ろしいものはない。下手をすると、しばらく意識から消すことができず、何も手につかなくなるかも知れない。それこそ、自分にとっての死活問題になりかねないと思った。
――災いの種は早いうちに――
という思いから、一度ハッキリと思い出すことで、格納される場所ではなく、封印される場所に置いておきたかった。
しかも一度完璧に記憶してしまえば、余計な気を遣う必要もない。中途半端な状態で思い出すから、対応するすべを知らずに、どうしていいか悩む結果になってしまうのだ。
そんな夢を香澄は最近見た。
その時の夢には、正孝が出てきた。
記憶を失った正孝が必死になって自分の記憶を探していた。
それを香澄は遠くから眺めていたのだ。
決して近寄ることのできない距離にいる香澄、彼が彷徨っているのをどうすることもできずに、香澄自身もやきもきしていた。
正孝は彷徨っているというよりも、もがいているようにも見えた。まるで水槽の中にいるかのように、空気抵抗にしては動きが鈍い。必死になって空間を泳ごうとしているのだが、見えない壁を意識しているのか、ひたすらパントマイムのように、目の前の空気をまさぐっている。
香澄は、それが彼が失った記憶の中のできごとであることに気づいた。
――この人は、自分が探そうとしているものの中で、蠢いているんだ――
つまりは、いくら探しても見つかるはずのないものだということを示している。
香澄は、小さな檻の中に入れられているハツカネズミを思い出していた。
中にあるのはハツカネズミの使うおもちゃで、絶えず走り続けるための小さな丸いジャングルジムのようなものだった。
――ハツカネズミは永遠に走り続けるおもちゃに乗って何を考えているんだろう?
香澄は、子供の頃、ペットショップに立ち寄った時、ハツカネズミの檻を見て、走り続けるハツカネズミから目が離せなくなったことがあった。最初は、いつ休憩するのかが見たくてじっと見ていたのだが、なかなか休憩する気配がない。そのうちに意地でも見たくなって目が離せなくなったのだが、今から思えば、本当に休憩するところが見たいだけで、あんなに必死になって見ていたのかということが疑問に感じるようになっていた。
――ハツカネズミは、どうしてあんなに必死に前に進んでいるわけではないあの場所で走り続けるんだろう? ストレスはたまらないのかしら?
と感じた。
人間だったら、耐えられないことだ。きっと理性があるからだろうが、それだけ理性というものはもろ刃の剣のように、危なっかしいものなのかも知れない。
もし、ハツカネズミをストレスなくつき進めているものがあるのだとすれば、本能なのだろう。
本能というのは人間にもあるものだが、人間の場合は、本能を抑えるために理性が存在する。脆弱なものではあるのだが、人間には必要なものなのだ。
そういう意味では、
「治す力はないが、他の病気を併発させないためには絶対必要だ」
と言われる抗生物質に似ているのかも知れない。
薬をイメージしてしまうと、
――副作用というのはないのかしら?
と感じたが、理性と本能の間での確執のようなものすべてが副作用に匹敵するものではないかと思えてきた。やはり、何か役立つと考えられるものには、何かウラがあっても仕方がないと思うのも仕方のないことなのだろう。
――彼の記憶が一部喪失しているというのも、何かの副作用なのかも知れない――
香澄は少し感じたことがあった。
副作用というよりも、普通に考えると、
「交通事故に遭った時、人には分からないような何かショックを受けて、それで記憶を失ったのかも知れないわね」
確かに、交通事故に遭った人が記憶を失うというのはないことではないが、彼の場合は普通に過ごしている。記憶の喪失を気にすることもなく、
「記憶なんて別にいいんだ。何かのショックで失くしたとしても、その記憶はその時になくなる運命だったのだとすれば、それはそれで受け入れればいいことだからね」
と言っていた。
何とも潔い考えだが、そんなに簡単でいいのだろうか。ひょっとすると、本人の中で失いたい記憶の一つだったことで、なくなってしまった記憶の片鱗は意識の中にあって、自分に、
「これでいいんだ」
と言い聞かせていたのかも知れない。
失っていい記憶が本当に存在するのかどうか、香澄には分からない。しかし、記憶を失ったことでその人にはよかったと思えるのであれば、それでいいのではないだろうか。
――私にもそんな記憶があるのかしら?
と考えたが、もう一歩進んで、
――本当は失った記憶があるんだけどお、記憶を失ったということ自体、自覚がないだけなのかも知れない――
とも考えられた。
あまり深く考えてしまうと、堂々巡りを繰り返してしまいそうで必要以上な考えはしないようにしようと思った。無理をすると必ずどこかで立ち行かなくなることもあるというのは当然のこと、どこからが無理なことなのか、しっかり見極めることが大切だと思う。
――ネガティブにしか考えられない私がこんなことを思うなんて――
本当はネガティブではないのか、それとも、ネガティブだから考えることなのか、香澄には分からなかった。
ただ、何かをいつも考えている香澄は、そんな自分が嫌いではない。少なくともそこから生まれてくるものはあるのだと思っているからだった。
香澄は、彷徨っている正孝を見ながら、他人事のように思っている自分を感じた。しかし、自分にも彷徨っている人を見ると、身体が反応してしまう癖があった。それが癖であるということに気づいたのは、今回ではないだろう。
そう思うと、
――これは前にも見た夢なのかも知れない――
と感じた。
ただ、これがその時の夢の続きなのか、前に見たことを繰り返して見ていることなのか、自分でもハッキリとしない。もし、繰り返しているのであれば、これからも同じ夢を見続ける可能性がある。しかし、これが夢の続きなのであれば、今日完結してしまうと、もう同じ夢を見ることはなくなるような気がしていた。
――私にはどっちらがいいんだろう?
と香澄は考えたが、彷徨っている人を見ているのは見るに堪えない光景なので、こんな夢は見たくないと思った。
だが、二度とこの夢を見れないと思うと、今度は違う発想が生まれてくる。それは、
――二度と自分の夢に正孝が出てくることはない――
という思いだった。
「夢なら覚めないで」
と思えるような楽しい夢をほとんど見たことのない香澄は、見るに堪えない夢であっても、それでも正孝が夢に出てきてくれることは嬉しかった。
もっともこの思いは、夢の中のことだからであろう。夢の中での出来事でなければ、そこまで正孝のことを気にしている自分ではないと思っているからだ。
ここも、夢というのが潜在意識の見せるものだという発想を疑問に感じるゆえんでもあった。
夢を見ているという感覚を感じるのは、今回が初めてではないはずなのに、どうしていつも目が覚めると忘れてしまうのか、単純に香澄は疑問だった。現実世界のつもりで見ていたものが夢だったということを感じてしまうと、夢の世界から抜けられず、目を覚ますことができなくなるから、目が覚めるにしたがって忘れてしまうということが起きるのだと思っていた。
しかし、中には覚えている夢もある。そんな夢は決まって怖い夢だったりする。
――忘れずに覚えているのは、同じ夢を何度も見ているからではないだろうか?
と感じたこともあった。
夢の世界だと思っているが、実際には現実世界を覚えている頭が、気になっていることを、夢の中で再現させたり、はたまた実現できそうもないことを、実現させたいという思いが夢を介して、見させるのかも知れない。
実現させることを夢はできるのだが、今度は現実に戻った時、夢の世界のできごとだという思いに戻らせないと、本当に実現もしていないことのために、高揚した気分になったままでは、いずれ辛くなるkとは目に見えている。そんな思いが自分の中で夢だと納得させるのだろう。
実に都合のいい発想だが、そう考えれば、不思議に思っていたことを納得できたり、頭の中で繋がっていなかったことが繋がってみたりするものだ。
香澄は、ナースの仕事をしながら、やりがいとは別に、現実と憧れの違いを思い知らされていた。
「何もそこまで言われなくても」
と感じたことが何度あっただろう。
すぐに思っていることが顔に出る香澄に対して、
「何よ、その目は」
と、敵対意識むんむんで睨んでくる先輩もいる。
確かに先輩の言っていることは正論で、自分がしている仕事の重要性を考えれば、先輩の言っていることも分かる。
しかし、言い方があるのではないだろうか。
いかにも敵対意識剥き出しで迫ってくる相手に、こちらも臆することなく対応するには、こちらも意識をハッキリさせなければいけない。相手のペースに呑まれてしまうと、何を聞いても上の空で、ネガティブな性格の香澄には、落ち込んでしまったら、奈落の底が見えてくるのだった。
奈落の底など見たことはない。そこが底なし沼のようなものなのか、アリジゴクに嵌り込んでしまったようなものなのか、想像するに、落ち込んでしまうと、そこの主に食われてしまうという結末しか想像できなかった。
――決して這い上がることが不可能な状態に陥ってしまうと、人って何を
考えるのだろう?
明らかに待っているのは、「死」しかないのだ。確定している死に対して限られた時間で何かを考えるなどできるのだろうか?
きっと考えようとすると、限られた時間がどれほどなのか分かっていないだけに、
――何を考えたって、すべてが中途半端に終わってしまう――
と思うと、何も考えないようにしようとするに違いない。
今までの香澄は、何も考えていない時間など存在しなかった。現実世界に限ってのことだが、夢の中でも同じなのではないだろうかと思うのだった。
――じゃあ、夢の中では?
と考えると、すべてが受け身になっている状態であるが、考える環境としては、これほど楽なものはない。夢だと自覚した時点で、
――どうせ現実世界とは切り離された世界なのだから――
と思うことで、何かを考えようと頭を切り替えることができる。
それからの香澄は、夢の中にいる自分は他人事だった。
夢から覚めて、内容を覚えていないのは、すべてを他人事だと思っているからではないだろうか。
今までに見た夢の中で一番怖いと感じたのは、
――自分が出てくる夢。つまりはもう一人の自分を感じた時――
だったはずだ。
そんな香澄は、夢の中の自分を他人事だと思いながらも、怖い夢だとは思っていない。なぜなら、夢の中の自分が、考え事をしている自分に絡んでくることはないし、考え事をしている自分も、夢の中の自分とは一線を画している。つまり、まったくの別人という意識なのだ。
その思いがあるから、夢を見ている香澄は、そこが夢の世界であることを分かっているのだろう。
しかし、夢の中の世界としては、夢を見ている人に、夢の中の世界のことをあまり知られたくないと思っているのかも知れない。だから、夢から覚めるにしたがって、夢の内容を忘れていくのではないかという仮説も成り立つように思えてきた。
こんなことを考えたのは、実は夢を見ている時だった。
この思いだけは夢から覚めても忘れることはなかった。ただし、これを感じたのは夢の中ではなく、現実世界だと香澄は思っていた。ある意味、夢の中で考え事をしている香澄と、現実世界の香澄とでは、さほど感覚的に差はないのかも知れない。
そこまで考えられたのは、夢の中に正孝が出てきた時だ。
香澄は目の前にいる正孝を見ながらハツカネズミを思い浮かべた。そして、実はその時、ハツカネズミを見ながら、檻の中で果てしなく走っているのが自分ではないかという思いに駆られていた。
ハツカネズミがまるで現実世界の自分のようで、一度袋恋路に入り込んでしまうと、抜けることはできないという思い、実にネガティブな性格である香澄らしいではないか。
だが、香澄はその時、自分が夢を見ていたと思っていたことを分かっているのに、そんな自分を信じられなくなる瞬間が訪れることに、気づいていなかった。夢と現実の違いについて理解したつもりでいて、そのことは間違いではないはずだということが証明されたはずなのに、どこか納得のいかない思いに駆られていた。
ここまでくれば、香澄と夢というものの戦いになってきた。
香澄は夢と現実について自分なりに納得し、感じたことを、目が覚めてから現実世界に引き戻される時に感じていたことだと思っている。いつもなら、早く意識をしっかりさせて現実世界に立ち戻らなければいけないと思ったが、その時だけは、
――いくら時間が掛かってもいいんだ――
と思っていた。
実際に、そのことを考えている時は、時間の感覚がなかった。
――感覚がマヒしていた――
と言ってもいいだろう。
その時香澄は、時間に対しての感覚だけがマヒしていると思っていたが、実際にはそうではなかった。
香澄が感じるすべての感覚がマヒしていたのだ。それを感じさせないのは、香澄がまだ目を覚ましていないだけだと思っていた。しかし、実際に香澄はまだその時、夢の中にいたのだ。
「まさか」
と思った。
目はパッチリと開いているはずなのに、目を開けようとしている自分を感じたのだ。
――どういうことなの?
すぐに理解できるはずはない。
さっき、間違いなく目を開けて、夢の世界から帰ってきたはずなのだ。それなのに、もう一度目を開けようとしているのは、まだ自分が夢の中にいた証拠ではないか。
――夢から覚めて、その後いろいろと考えていたという夢を見ていたということ?
そうとしか考えられなかった。
夢の中で、考え事をするということは香澄の専売特許なので、別に不思議なことではないが、問題は、
――夢の中で夢を見ていた――
ということである。
――今ここで目を開けて、目覚めたすれば、目覚めた世界は本当に現実世界なんだろうか?
という思い、そして、
――目を開けたら、本当にそこは香澄の現実世界なんだろうか?
というもう一つの疑問。
どっちであっても、恐ろしいことだった。
袋小路に入り込んで抜けられない世界。自分の中の世界に入り込んで抜けられない思いは、まるで夢に見たハツカネズミのようではないか。この思いをハツカネズミは彷彿とさせていたのかも知れない。
また香澄以外の現実世界だとすれば、一体誰の世界なのだろう?
今までの自分は香澄として生きてきた人生から、違った人生が生まれてくるような気がした。その人が知っている人であるか、まったく知らない人であるかということでも、違ってくるような気がしてきた。
知っている人であれば、その人がどういう人なのかある程度知っている。しかし、相手も自分のことを知っているわけで、どのように自分のことを見ていたのか、知りたくないことまで知ってしまうような気がして仕方がなかった。
では、まったく知らない人ならどうだろう?
それは自分がその人になって生まれ変わったということになるのか、あるいは生き直していることになるのかのどちらかのように思える。ただ、香澄はその時、香澄としての記憶はまったく消えてしまっているのではないかと思った。自分の記憶を持ったまま、人の生まれ変わりなどできるはずなどないからだ。
どちらにしても、自分は一度死んでしまうことになるような気がして、こちらの方が香澄にとって、深刻な気がして仕方がない。
考えてみれば、夢というのは潜在意識が見せるものだと言われているが、たまに、明らかに自分の意識や記憶しているものではないように思えてくるものがあった。
――きっと、記憶の中の封印していることなんだろう――
と思っていた。
今でも間違いではないと思っている。
しかし、それは自分が誰かの生まれ変わりだったり生き直しだったりするものだと考えるならば、自然と納得できるものではないだろうか。
ただ、その思いも、生まれ変わりだとすれば、同じ空間で存在している人ではないと思うのはそれほど無理なことではない。つまりは、前世の存在である。
香澄は、前世の存在を信じている。自分が誰かの生まれ変わりだというのも分かっている気がするのだが、いわゆる前世というのは、
「前世は人間だったとは限らない」
という人もいるが、香澄はそう思っていない。
――人間は人間にしか生まれ変われないんだ――
という思いである。
それは、人間でなければ、生まれ変わった時、前世の癖が残ってしまうのではないかと思うからだ。ただ、肉体と精神はまったく違うものだと考えれば納得できないことではない。
――再生できるのは精神だけで、肉体の再利用は――
という考えだ。
それでも香澄は、
――人間は人間でしかない――
と考えていて、
人間だけが、他の動物とは別格なのだと思ってもいた。
――他の動物は、どんな夢を見るんだろう?
弱肉強食の世界の中にいる動物の中には、夢など見ている場合ではない動物もいるかも知れないが、そう思うと夢を見ることのできる動物は、幸せなのかも知れないと感じていた。
香澄は、正孝が病院からいなくなった日のことを思い出していた。
あの日は、別に何もなかったはずである。いつものように定期的な時間に検診や検温を行い、検査もそれほど長い時間ではなかった。同じ病室の患者さんの様子にも何ら変わりはなかった。香澄もその日は、いつもと同じように患者さんの前では真面目を基本に、話によってはおどけて見せたりしていた。患者もそんな香澄をいつものようにからかいながら、時間だけが過ぎていった。
正孝が病院を抜け出したとすれば、夜だったに違いない。病院の消灯は早く、午後九時には見舞いも終わる。午後十時を回れば、病院では真夜中になっていく。起きて巡回しているナースも、慣れているとはいいながら、静寂の中で懐中電灯を片手の見回りは、気持ち悪いものがあった。
見回りと言っても定期的な時間であり、病室から抜け出すことはできても、表に出るには、管理人室を通らなければならない。
しかし、ここは救急病院も兼ねているので、深夜の出入り口は基本的に開いている。抜け出すことは、その気になればいくらでもできたのだ。
「彼はどうしていなくなったのかしら?」
ナースはいろいろな噂を立てていた。
「お金がないのかも知れないわ」
という意見や、
「何か問題があって、病院にいられなくなったのかしらね」
あるいは、
「見つかってはいけない誰かに見つかってしまった?」
最後の意見は、まるで彼が何かの犯罪に巻き込まれているかのような話で、それこそミステリアスな話だった。
どれも信憑性に欠けるが、彼がいなくなったのは事実。どこかに原因があるはずなのだが、想像の域を超えることはできない。香澄は、
「想定外のことが彼に起こったに違いない」
と思っていた。
彼が記憶の一部を失っているというのも気になるところだ。もっとも彼が記憶の一部を失っているということは、一部の人しか知らない。知らなければ普通に記憶があるものだと感じるほど、普通の雰囲気だったからだ。
だが、彼が病院から突如いなくなったとすれば話は別だ。警察には彼が記憶の一部を失っていることを話したが、病院では相変わらず知っているのは一部の人たちだけだった。
「いまさらいなくなった人のことをあれこれ話しても仕方がない」
というのが、医師団と病院スタッフの考えのようだが、もう一つ気になるのは、腫瘍の方だった。
今すぐに悪化するということはないだろうが、無理なことをすれば、悪化しないとも限らない。彼は自分の身体に爆弾を抱えていることを分かっていて、それでも敢えていなくなったのだ。
警察の方では、彼が誰かに唆されて、病院から抜け出したのではないかという考えもあった。特に記憶が欠落している相手に、過去のことを話せば、動揺した本人としては、病院を抜け出したくなるのも無理もないことだ。彼が今どこにいるのかも心配だが、もし彼の逃走を後押しした人がいて、その人たちが本当に信用できるのかどうかが、香澄には心配だった。
香澄が彼の夢を見たのは、そんな時だった。
それは香澄が、
「夢を見ているという夢を見た」
という日から少し後のことだった。
それ以来、夢らしい夢は見たことがなかった。
――このまま私は夢を見ることがなくなったりしないだろうか?
という思いがよぎった。
この場合の、
――夢を見ることがなくなる――
というのは、実際には夢を見ていて、目が覚めるにしたがって忘れてしまうということではなく、本当に夢自体を見なくなるということであった。
夢というものが潜在意識が見せるものだということに、この間の夢で疑問を感じるようになった香澄は、そう考えることで、夢を見ることができなくなるかも知れないと思うようになっていた。
事実、目が覚めてから、夢を見ていたという意識がまったくない。むしろ、現実世界の方が夢のような気がしてくるくらいだったからだ。
あの夢を見てからというもの、香澄は現実世界が次第に他人事のように思えてきたのだった。
毎日が規則正しく時間に支配されているという感覚に陥り、時間という枠から外れることは絶対にできないのだと、再認識した気がした。
元々、時間という枠から逃れることなどできないことは、最初から分かっていたはずなのだが、それを当たり前のことのように思い、まるで路傍の石のように、
――あって当然――
という意識を持っていた。
心臓の鼓動も同じである。
本人は意識も何もしていないのに、心臓は止まることはない。夢も同じように意識していないはずなのに、勝手に寝ていて見せられて、目が覚めるにしたがって、勝手に忘れていくのである。
――それなら、最初から見せなければいいのに――
と思うが、それでも見せられるのは、
――夢を見ることに何か必然的な理由が存在しているからに違いない――
と感じた。
その理由は、分かってはいけないものなのだろう。ひょっとすると、考えることすらいけないことなのかも知れない。そう考えると、そんな余計な夢を見てしまった自分が、これから夢を見ることができなくなるかも知れないと感じるのも、無理もないことだと言えないだろうか。
そんな時だった。急に彼の夢を見たのだ。
正孝が出てきた時点で、
――これは夢なんだ――
と香澄は感じた。
彼が実際に自分の目の前に二度と姿を現すことはないという思いが香澄の頭の中にはあった。もちろん、何の根拠もないものなのだが、香澄は頑なに信じていた。
だから、今見ているものが夢だと直感したのだが、その時には、自分が夢を見ることは二度とないかも知れないという思いを感じていることを忘れていた。
いや、忘れていたというよりも、意識の奥に封印していたのだ。わざと意識しないようにしていることを知っているのは、本当は香澄本人にしか分からないことのはずなのに……。
「君が中学時代の同級生だったなんて、気が付かなかったな」
と彼が言ったが、香澄は彼に自分が中学時代の同級生だったということを話していなかった。
それはわざとであり、話をすることが最初は恥ずかしかったという思いと、もし、彼に話をしてしまうと、いろいろ聞かれるのが辛かったというのもあった。
香澄は彼にずっと好意を持っていた。それを知られるのが恥ずかしいという思いが最初だったのだが、彼が記憶を失っているということを先生に聞かされて、
――やっぱり、同級生であると言わなくてよかった――
と感じた。
それは彼にあれこれ聞かれるのが辛かったからだ。
香澄はその頃から性格的にはネガティブで、しかも暗かった。いつも何かを不安に思っていて、彼のことを気になっている自分を絶えず不安だと思っていたのだ。
そのため、
――本当はいろいろ知りたいのに、知るのが怖い――
とも感じていた。
つまり、彼のことを知っているつもりで、本当は何も知らないのだ。
いつもただ遠くから見つめているだけの女の子をよく青春物の恋愛ドラマで見かけるが、まさしく香澄はそんな女の子だったのだ。
今でも彼のことを好きだと思っている香澄は、
「昔の俺ってどうだったんだい?」
と聞かれても、遠くから見ていた印象しか言葉にできるわけはなかった。
もちろん、ウソをつくわけにはいかないし、答えられないことで、
「なんだ。その程度の仲だったんだ」
という言葉が彼の口から出てくるのが怖かった。
本当は彼の担当ナースになって嬉しいという思いがありながら、心の奥では不安に苛まれる自分もいた。
そして今では、
――もう、夢の中でしか会うことはできないんだ――
と思うようになっていた。
――自分の夢なんだから、自分の都合のいい彼でいてほしい――
と思ったが、実際には逆だった。
香澄の潜在意識は、やはり彼に対しては不安がどうしても頭にきてしまう。不安を払拭することはできるかも知れないが、その思いを込めてしまうと、夢に出てきた正孝は、香澄の知っている正孝ではなくなってしまうだろう。
香澄はそんなジレンマを感じながら、じっと耐えていた。
――これは夢なんだ――
と感じたのも、彼と現実世界で会う勇気がなくなってしまったからなのかも知れない。
そういう意味では彼がいなくなったのは、香澄にとって好都合だったと言えなくもないだろう。いや、それが本心に違いない。
「香澄ちゃんは、僕のことなら何でも知っているよね?」
香澄は身構えた。
――そら来た――
と思ったが、これが夢であることも、確定したような気がした。
なぜなら、彼が香澄のことを、
「香澄ちゃん」
などという言い方をするはずがなかったからだ。
「工藤さん」
という苗字で呼んでくれるのが正孝だと思っていたからだ。
夢の中の正孝は、明らかに自分の知っている正孝ではなかった。
香澄が答えないでいると、正孝は、ニコニコした笑顔を浮かべながら、香澄に顔を近づけてきた。
――私は、もう彼の表情を、目の前でしている顔以外、思い出すことができない――
と感じた。
香澄も自分が、夢の中で、まったく表情を変えていないのに気づいていた。ニコニコしているのか、それとも怯えの表情なのか分からない。
「顔の表情は、気持ちを表している」
と言われるが、読んで字のごとし、
「おもてに出たなさけ。つまりは表情だ」
ということなのだろう。
その時の香澄は、夢の中ということもあってか、自分が何を考えているのか分からなかった。その気持ちを顔が表しているはずだと思っていたので、表情がどんな感じなのか、想像もつかなかった。
何しろ、夢の中では感情以外の肉体的な感覚はない。痛いや痒いなど、まったく感じないのだ。
だから、どんな表情をしているのか分からない。もし、それを分かるとすれば、夢の中にもう一人の自分が出てきた時だろう。
――そういえば、一番怖い夢を見たのは、もうひとりの自分が出てきた夢だったわ――
ということを思い出したが、その感覚がどこから来るのか、今なら分かる気がしてきた。
――自分の表情を感じてしまったんだ――
ということは、感じたくない自分のその時の感情を見てしまったからだ。その時に微笑んでいたり、怒りの形相を浮かべていたとしても、どんな顔をしていようが、香澄はこれ以上なく恐ろしいものを見たと感じることだろう。
しかも、それが自分の顔なのだ。これほど怖い夢もないと感じるのも無理もないことだろう。
その時の彼の表情は、まるで自分の顔を見た時のような驚愕を感じさせるものだった。
――そんなことってないわ――
それはまるで彼が、自分の夢に土足で入ってきたような気持ちだった。そこにいるのは夢の世界の彼ではなく、実際の彼だという思いがあったのは、リアルに感情を捉えていたからだった。
香澄は、彼の表情が自分を見ているのではなく、彼本人の表情を感じているようで不気味だったのだ。
香澄が見ている彼のニコニコした表情。本当はまったく違った心境だったのかも知れない。その気持ちを表したのが、その時の香澄の表情だとすると、
――今日ほど、もう一人の自分が出てきてほしいと思ったことはなかったわ――
と感じた。
もう一人の自分が助けてくれると思ったからだ。
――ひょっとすると、もう一人の自分を怖がっているけど、本当は守護霊のようなものなのかも知れないわ――
と感じた。
今まで怖がっていたことを後悔したほどである。
怖いと思っているはずの夢なのに、香澄は正孝に話しかけた。それも自分の感情をぶつけるように出た言葉に、自分でビックリしている香澄だった。
「あなた、今まで一体どこにいたんですか? 皆心配しているんですよ」
感情がこもっているわりには、言葉の内容は自分の気持ちからではない。心配しているのは皆であり、自分は二の次だと言っているのだ。本心は一番心配していたのが自分であるということを知ってもらいたいのだ。それなのに、心にもないことを言ってしまった自分にビックリして、次第に腹が立ってきた。
「どこにいたんだって、僕は自分の家に少し帰っていただけだよ。許可は取っているはずだけど?」
「何言っているのよ。あなたがいなくなったって、病院では大騒ぎよ。警察にも届けたりして、それでもまったく行方が分からなくなっていて、大変だったのよ」
「三日ほど家にいただけじゃないか。警察に届けたって言ってたけど、僕の家に来てくれればいたはずなんだけど?」
彼の落ち着いた雰囲気からは、とてもウソをついているようには思えない。香澄も彼の言葉を聞いて、彼を疑う気持ちは失せてきた。それなのに、事実とはまったく違っていることで、香澄は今度は自分が信じられなくなってきた。
「三日? あなたがいなくなってから、一か月は経つのよ。しかも、警察に届けた時に、当然あなたの自宅も行ってみたらしいんだけど、誰もいなかったっていう話だったわ」
「そんなことはないだろう。だって僕がいなくても、母親がいたはずだよ」
「いいえ、誰もいなかったって聞いたわ。もちろん、訪れたのは一度だけではなく、何度も行ったらしいんだけど、それでも誰もいなかったって言ってたわ。一体、どういうことなの?」
香澄はまるでキツネにつままれたような気持ちだった。
正孝の表情を見る限り、それほど驚いたような様子はない。一人取り乱している香澄だったが、正孝の表情を見ていると、香澄も次第に冷静さを取り戻してきた。
「香澄ちゃんは、僕のことなら何でも知っているよね?」
さっき聞いた言葉だったが、遠い記憶を思い出したような感覚だった。
それは香澄が正孝のことなら何でも知りたいと思っている時期が中学時代にあったからだ。
香澄が正孝と再会して、一番不安に感じたのは、二人が会っていなかった期間の長さだった。中学時代から考えると、そろそろ十五年が経とうかという時期だったが、その間に香澄は自分が変わったと思っていた。
ただ、性格的にはまったく変わっていないはずだ。もっとも、変わっていないと思えるのは、正孝と会わなくなってからだ。今の性格の形成に、少なからず正孝の存在があったからだ。
それも一緒にいる時に感じた性格の形成ではない。正孝がいなくなってから、彼を思いながら形成された性格だったからだ。
「香澄ちゃんとは、本当に久しぶりなんだけど、香澄ちゃんが考えているよりも、僕はそんなに久しぶりだって感覚ではないんだ。僕にとっての香澄ちゃんはまったく変わっていないし、香澄ちゃんにとっての僕も変わっていないんじゃないかって思うんだ」
「そんなことはないわ。私は変わったわ」
という言葉を、香澄は自分で呑み込んだ。
せっかく彼が、
「変わっていない」
と言ってくれているのだから、素直にそう思えばいいのに、否定したい気持ちは本心だった。しかし、それを口にしようとする自分の気持ちとは裏腹に、言葉を発することはできなかった。その代わり、
「でも、どうしてあなたはそんなにハッキリと、自分の方が久しぶりではないと言い切れるの?」
「僕は、君とは違う世界にいるんだよ。そう、僕は帰ってきたと言っても、もう君たちとは同じ世界の人間じゃないんだ。本当はこんな風に話すこともできないんだけど、夢の中でなら話ができると思ってね」
「どういうことなの? さっきは三日家に帰っていただけって言っていたじゃない」
「そうだよ。僕は確かに三日だけ家に一時帰宅したんだよ。そして三日が過ぎると、病院にも帰ってきた。でも、それからしばらく入院をしていたんだけど、容体が急変して、僕はそのまま死んでしまったんだ」
「えっ」
夢であるという思いを感じていながら、彼の言葉に不安と恐怖を覚えた。いくら夢の中であっても、死んでしまった人から、
「自分は死んだんだ」
という言葉を聞かされると、これほど恐ろしいものはない。
もう一人の自分が夢に出てきた時と同じような恐怖だった。なぜならその時の彼の表情は、今まで夢の中に出てきた自分と同じ表情をしていたからだ。
――まるで自分ではないようだ――
顔を照らす光のせいで、その表情には凹凸が生まれ、男なのか女なのか分からない表情だった。その時の正孝の顔を見て、まるで自分のように感じたのも無理もないことではなかったか。
「でも、どうして、死んだはずのあなたが私のところに?」
「お別れを言いにきたんだけど、実際の僕、つまりは現実世界の僕はまだ生きているんだよ。僕の心残りは、死ぬ前に、気になっている人たちにお別れを言えなかったことだったので、今、こうして夢に出てきているというわけさ。でも、夢とはいえ、僕が入り込める相手は限られているらしくて、相手は君だけだったんだ。これって運命なのかも知れないって思ったよ」
「どうして、私だけなんだろう?」
「僕も最初は分からなかったんだけど、その理由は君にあるんだよ」
「どういうこと?」
「君は、自分の時間、いや、自分だけの時間帯を持っているんだ。独自の時間感と言ってもいいかも知れない。もちろん、君には自覚はあるかも知れないけど、おぼろげにしか感じていないはずなんだ。願望がそのまま自分の世界観だという人もたくさんいる。君もその一人でもあるんだよ」
「私の時間が他の人と違うから、あなたには私のところに来ることができたというの?」
「そうだよ。でも、君は現実世界で、自分の時間をあまり気にしない方がいいかも知れないね」
「よく分からないんだけど」
「気にしすぎると、無駄に時間を使ってしまうということだよ。その無駄というのは、他の人に比べると、結構深いものになるので、気を付けた方がいいよ」
「忠告ありがとう」
訳は分からないかったが、素直にお礼をいうしかなかった。そこに皮肉がないことを彼が分かってくれているのは、彼の余裕のある表情を見れば分かる。
彼が香澄に対して、自分のことなら何でも分かると言っていたが、本当は彼の方が香澄のことなら何でも分かっているようだ。さっきの彼の言葉は、そのことを匂わせるための言葉だったのかも知れない。
「あなたが私の前に現れてくれて、私は嬉しい。でも、私はあなたが死ぬことを知っていて、これからどう気持ちを整理していけばいいの?」
「心配はいらないよ。ここは夢の世界さ。君が目を覚ました時、ここで僕と話をしたことは忘れているんだからね」
夢に見たことは忘れてしまうのではなく、記憶の奥に封印されるものだと思っている香澄は、彼の言っている言葉が信じられなかった。
「君は、忘れないと思っているようだけど、僕には君の記憶を消去する力があるんだ。だから、君は僕とここで話したことを忘れることになるんだよ」
「ちょっと待って」
香澄は少し混乱していた。
夢を忘れないということは、彼がこのまま死んでしまうことを知りながら、生きなければいけないということだ。到底耐えられるものではないと思う。
しかし、知らずにいれば、ネガティブな性格の香澄にとって、彼のことを真剣に考えても、行動に移せるかどうか不安である。今は死ぬと分かっている相手なので、何とかしないといけないと思うだろうが、何も知らないと後悔してしまうのではないかと不安に感じた。
「やっぱり、消去して」
香澄は思い切ってそういった。
香澄自身、彼が死ぬと分かっていて、それで一体自分に何ができるのかということを考えると、結論など出るはずはないと思えた。結局、考えても堂々巡りを繰り返して、無駄な時間を過ごすことになるからだ。
――さっきの彼の言葉にもあったじゃない――
無駄な時間という言葉が頭に浮かんだ時点で、香澄は記憶の消去を望んだのだ。
そう思うと、夢を覚えていない理由が分かるような気がしてきた。
夢を見て、それが将来に起こることだと思えることであっても、堂々巡りを繰り返してしまい、無駄な時間を使うことを、潜在意識が否定しているのだ。
香澄の中には、自分の時間に対しての考えが違っていることを意識している何かが存在した。それを正孝が夢の中で引っ張り出してきたのだと思うと、正孝が自分に別れを告げに来た理由も分からなくもなかった。
「これからも、夢の中でなら、あなたに会えるんじゃないんですか?」
というと、
「できなくもないけど、それをするには、今日のこの記憶を消去はできないんだよ。君はこの記憶の消去を願った。もし、夢の中でこれからも会うことができると分かれば、君は今の夢の記憶の消去を願うかい?」
またしても、難問にぶつかってしまった気がした。
「正直、それを今結論を出せと言われても、難しいわ。でも、今出さなければいけないんですよね?」
「そんなことはない。でも、今度僕が君の夢に出てくるのはいつになるか分からないんだよ。その間、君はずっと前に進むことができずに、堂々巡りを繰り返し、無駄な時間を使ってしまう。それでもいいのかい?」
話せば話すほど、自分の首を絞めているような気がした。まわりを包囲されてしまって、逃げ道が限られてくるのだが、その逃げ道に入り込んでしまったら最後、抜けられなくなりそうに思えてならなかった。
――追い詰められていくというのは、こういう気分なんだわ――
現実世界でも、追い詰められることは多かったが、夢の中で追い詰められるというのは、また違った恐怖がある。現実世界では、追い詰められれば、その後ろに壁を感じることができるのだが、夢の世界では後ろに壁は感じない。それなのに追い詰められた感覚になってしまうのはどうしてなのか、分からないところが一番怖く感じられるのだった。
「そろそろ時間が近づいてきたかな?」
彼は、そういって、香澄を見つめた。
もちろん、香澄に気持ちが決まっているわけはなく、何も答えられずにいると、自分が夢から覚めていくのを感じていた。
――夢から覚めるのって、こんな感じなんだ――
と感じていたが、夢の世界が完全に消えてしまったにもかかわらず、現実世界がまだ表れてこない。
今までにもこんな感覚を味わったことがあると思ったが、すぐに忘れてしまった。
なぜこんな瞬間が存在するのか考えてみたが、どうやら、目を開ける自分に戸惑いがあることに気が付いた。
――このまま目を開けると、完全に夢から覚めてしまう――
それを嫌がっている自分がいたのだ。
夢の世界が急に目の前から消えてしまった感覚が残っていて、なぜ急に消えてしまったのかを考えていると、目を開けるのが怖かったのだ。急に消えてしまった理由が分からないまま目を覚ますのが怖いのだ。
香澄は、夢の中のことを思い出した。
「このまま忘れてしまえば、彼が死んでしまうことも知らずにいることができる。彼の死を私は受け入れる自信があるのかしら?」
そんなものが存在するはずもない。ナースになって人の死に対して感覚がマヒしてくると思っている人もいるかも知れないが、却って人の死にナイーブになったりするものだ。しかも、相手が自分の気になっている相手、二度と会うことができなくなることが確定しているのだと思うと、耐えることができるのだろうか。
「忘れなければ、夢の中で彼に会うことができる。でも、話ができるだけで触れることも暖かさを感じることもできない。そんな中途半端な状態を堪えられるのかしら?」
この思いも十分にあった。
やはり、香澄はこのまま忘れてしまうことを願った。彼は、自分が香澄の記憶を消去すると言った。香澄の中から消えてしまうのだ。香澄はそこまで考えると、急に考えてはいけないと思うようなことが頭をよぎった。
「どうせなら、彼の存在自体を、私の記憶から消してくれないかしら?」
そうすれば、彼の死に対しても気を病むことはない。
「本当にそれでいいの?」
姿が見えないが、どこかから声が聞こえる。
その声は彼の声ではなかった。ただ、誰かの声であるか分かっている。ただ自分が知っている声に比べると少し高い声に感じられた。
――抑揚のない澄んだ声――
それはまさしく香澄自身の声だった。
――でも、私がこんな声だったなんて――
と思ったのも事実だ。
いつも自分が出している声とは明らかに違っている。その声は暗闇の中で無限に響いていくようだった。
夢の内容を忘れてしまいたいという思いと、忘れてしまうと彼のことも忘れてしまいそうで、簡単には忘れてしまいたくないという思いとがジレンマとなって、香澄に襲い掛かった。
――目が覚める瞬間というのは、いつもこんなにジレンマに包まれているのだろうか?
意識が薄れていく中で香澄が感じたことだった。すでに薄れていく意識の中では、もはや夢の内容を覚えていようと忘れてしまおうと、どちらでもよく感じられるようになってきた。
目が覚めた時、香澄の目の前に一瞬正孝の影を感じたが、すぐに消えてしまったことだけは、覚えていたのだった。
その時の顔には安どの表情が現れていて、このまま死にゆく人の表情には思えなかった。香澄は安心したように、一度目を覚ましたのだが、そのままもう一度睡魔に襲われた。その先に何があるのか、香澄には分からなかったのだ。
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