水の輪廻
十井 風
水の神と少年
「君、大丈夫? 名前は?」
こんなスラム街のゴミ捨て場に倒れている孤児に名前などないだろうと少年は思い、腫れた瞼に力を込めて開けて声の主を見ようとした。しかし、切れた瞼から流れる血が目に入って思うように開かない。
大人の男に散々殴られた彼の全身は痣だらけで、呼吸するだけでも激痛が走る。歯は何本か欠け、鼻からは血が滝のように流れていた。
「う······」
返事をしようにも声にならない呻きが出るだけだ。
「それにしても酷い怪我だな。何があったんだろう」
声の主は一体自分に何のようだと少年は思ったが、痛みが強すぎるせいで深くは考えられなかった。
「そうだ、申し遅れたね。私はこの砂漠の地シャモアを統べる水の神だよ。君、神の弟子になる気はない? 弟子になれば衣食住付きだよ」
衣食住付きという言葉に少年は反応する。
この自称・神の胡散臭い怪しげな人物がとてつもなく悪い人間だったとしても、衣食住付きであればどんな悪い道でも付いていくつもりだ。
「うん、君の意志は伝わったよ。じゃあ、早速私の家に行こう!」
少年の沈黙を肯定だと受け取ったのか、本当に意志を読み取ったのかは分からないが、自称・神はとても楽しそうに声を張り上げ、手を高く上げた。
そして、自称・神が指を鳴らすと暖かな光が少年を包み込む。あまりにも心地良くて少年は光に意識を手放した。
次に気がついた時は、今まで見たことがない景色が視界に入ってきた。
瑞々しい葉をつける木々がそびえ、美しい花が咲き誇る。流れる川の水はとても透明度が高くて川底がしっかりと見えた。動物たちはのびのびと暮らしていて、少年を見ても逃げることがない。
それに何より驚いたのは、怪我が治っていることだ。あれだけ痛かったのに今は何ともない。欠けた歯だって元通りになっている。
「びっくりした? ここは私達神が住む世界なんだよ。素敵でしょう」
隣に立った自称から真正になった神は少年を横目で見ながら微笑む。
腫れてない目で神を見ると不思議だった。とても端正な顔立ちをしているが、男か女か分からない見た目をしていて、藍色の長髪から覗く鹿のような角が生えていた。
少年が不思議に思っていると、彼の視線に気がついたのか神は照れくさそうに笑った。
「角が気になる? 水神は角が生えるんだよね。ちなみに年に1回生え変わるんだよ。生え変わりの時は根本が痒くてたまらないんだよね」
生え変わる時はいきなり角が落ちるから本当にびっくりするし、と神は笑った。
「ところで君はいくつ? 名前は?」
「年は5、名前はない······です」
「えぇっ!? 5歳で天涯孤独だったの!? 私、悲しくて泣いちゃいそうだよ」
神は水色の瞳にうるうると雫を浮かべる。
「じゃあ、弟子になった君にまずは名を与えよう! そうだなぁ、ディー君と呼ぼう! 今日から君の名前はディーだ!」
「ディー······」
神に与えられた名前を噛みしめるように彼は呟く。
「私の事はティティ先生と呼んで! 真名は長いから今は覚えられないし、そのうち分かるから」
ティティはそう言うと自身の額をディーにくっつける。
「君には水神の治癒の力をあげたんだ。ほら、怪我だって綺麗に治ったろ? 水神は水を操るだけじゃなくて癒やしの力も持ってるんだ。これから君には5年ごとに神の力を分け与えるよ。それまでは力を受け取れる器を作るために修業に励むんだ。もし、怠ったりしたら·····」
「どうなる······のですか?」
「···········私がとっても悲しくなる! だから弟子として頑張っておくれ」
ティティはにっこりと笑う。こうして、水神ティティの弟子になった孤児の少年ディーの修業の日々が始まった。
それからティティはディーに読み書きを教えた。読み書きが出来るようになるとたくさん本を読みなさいと告げた。どうしてですかとディーが聞くとティティは微笑んで「君の中の世界が広がるからだよ」と答えた。
ティティはディーに狩りを教えた。生き物の命を奪うのは悲しかったが、自分たちが生きるため。いただいた命に感謝して血肉を食べるんだよ、とティティは教えた。獲物の肉に塩と胡椒を振り焚き火で焼き上げたものは、とても美味しくて何度と食べたいとティティにねだったこともある。こんな美味しいもの食べたことがないと毎日でも思った。
ディーは孤児だった頃を思い出した。毎日残飯をあさり、食べられそうなものはどんなものでも食べた。時には人の吐瀉物をネズミやカラスと喧嘩しながら食べたこともある。
それをティティに話すと、神は鼻水が出るまで号泣して「とっても苦労してきたんだねぇ、もう大丈夫だから」とディーを抱きしめた。
ディーは初めて他人の温もりを知った。抱き締められるのは気恥ずかしいが、不快とは思わない。むしろ、こうしていたいという気持ちがあった。
「ねぇ、ディー君。君は幾つになった?」
「10です」
力を受け取れる状態になったとティティは言った。
「君には水神の知恵を分け与えるよ。人のために使うんだ」
水神の知恵を受け取ったディーは水を操る術を覚えた。川の水を使って動物たちを形作るとティティはとても喜んでくれる。ディーは修業の日々を楽しく感じていた。
それからも修業の日々は続く。ティティと下界に行き、シャモアの現状を見ることがあった。
シャモアは砂漠の国で作物は育たず、鉱石も取れない為、国が貧しかった。唯一、砂漠でも生きられる砂漠ヤギを使った酪農があるくらいだ。
ディーが育ったスラム街に行くと、現状は酷くなっていた。やせ細った人々が横たわり、その中には死人もいる。誰も埋葬なんてしないから死体にはうじが湧き、ハエが常に飛んでいた。
「シャモアがいつも貧しいのは厳しい砂漠の国だからという理由だけではないんだ。国王が民を思わず、自分の私腹を肥やすことだけを考えた政治をしているから」
「でもティティ先生はシャモアを統べる神なんですよね。干渉は出来ないんですか?」
ティティはディーの疑問に首を横に振る。
「出来ないんだよ。神という存在は天気と同じ。お互い干渉は出来ないが、影響はし合う。それ以外でも以上でもないからね。神にとって統べるというのは、政権を握るとかじゃなくて、その国の信仰を集める神であるだけなんだよ」
「何のために水神の知恵を人々に使うんですか?」
「神は人々の信仰心で出来ているからだよ。その力を自分のために使えるようには作られていないんだ」
ディーは納得したようなしていないような複雑な思いを抱えながら、自分が育ったスラム街を眺める。
「ねぇ、ディー君。君は世界を恨んでた?」
ティティは水色の瞳をディーへと向ける。目が合った神は、少し老いている気がした。
「恨んではいません。恨んでも何かが変わるわけでもないし、生きるのに必死で恨む余裕なんて無かったですし」
そう答えると神は悲しげにそっかと返答する。
「まぁ今は孤児だったからティティ先生に会えたって思っています」
恥ずかしそうに言うディーにティティはとても喜んだ。ぎゅぅっと彼に抱き着くとティティは笑う。
「私の弟子はなんてかわいいんだ!」
「離してください·······首が絞まってます先生······」
◆◇◆◇
「ねぇ、ディー君。君は幾つになった?」
「15です」
「あれから5年かぁ、時の流れは早いものだよ」
ティティは自身の背丈と同じくらい成長したディーを感慨深そうに見つめて言った。
ディーは頭を撫でてくるティティを見て、初めて出会った時に比べて老いてきたと感じた。美しい藍色の髪には白髪が混ざり、ごわついている。痩せてきて、力も弱まってきているようだった。
「君に水神の心を与えよう。心であり記憶。神という生き物をより理解出来るだろう。だが同時に人であった部分も残しておくんだよ」
ティティはディーの手を握る。力強かった手は、今は痩せ細って骨ばっている。ティティの老いを実感してしまったディーは、胸がぎゅうっと締め付けられるような気がした。
目を瞑るよう言われ、瞼を閉じる。暖かな力の流れがティティからディーへと向かっていく。
(これは······)
ディーの頭の中に入ってきた記憶。彼の記憶ではなく、ティティの記憶だ。
神が住まう世界へヴェナで生まれたティティ。初めは人の姿をしていなかった。頭に鹿のような角が生えた細長い小さな生き物。周りには誰もおらず、いつもずっと1人でいた。成長して動き回れるようになると、へヴェナにある図書塔で本を読むのが好きになった。
一番好きな物語は一人ぼっちの狼に鳥の友達が出来る話だった。2人は種族の垣根を越えて親友になる。そのページを何度も繰り返し読んだ。いつかそんな存在と出会えることを夢見ながら。
ディーは目を開けた。眼の前には老いたティティがいる。そっと手を握り、視線を合わせて言った。
「ティティ先生、僕はずっと先生の側にいますから」
ティティは驚いて目を見開く。
「え、ちょっとディー君、私の記憶見ちゃったの? え〜恥ずかしいからやめて欲しいなぁ」
口ではそう言いながらティティはどこか嬉しそうに破顔する。
ディーはそんな神を大切に思っていた。
◆◇◆◇
シャモアに降り立ったディーは、その惨状に思わず顔をしかめた。雨季すら来なくなったシャモアは、照りつける太陽で乾ききっている。
飲水が確保できず、砂漠ヤギはおろか、人もばたばたと死んでいく。スラム街から離れた交易の街は活気がなく、閉まっている店がほとんどであった。
「あぁ、水神様。どうか雨のお恵みを······」
ディーの耳に入ってきたのは老婆の祈りだった。目をやると、空に向かって何度も頭を垂れている。何回かそうした後、頭を垂れたまま動かなくなった。事切れたようだった。
彼は苦虫を噛み潰したような顔になる。それからへヴェナへと戻り、ティティの元へと向かった。
「ねぇ······ディー君。君は······幾つになった?」
戻ってきたディーに気付いたのか、ティティは弱々しく尋ねた。老いたティティは、もう人型を保つ余力もなく、元の水龍の姿でいる。顔を持ち上げる元気もないようで瞼を開けてディーを見るので精一杯だ。
「20です」
「あれから······5年かぁ············時の流れは······早いなぁ·····神の時間でも······早く感じるから······人の一生は······あっという間なんだろうな······」
「先生······」
ディーは苦しそうに呼ぶ。ティティが自分から離れていきそうなのを痛いほど感じているからだ。
「君に······水神の力を······与えるよ······私の代わりに······雨季を呼ぶんだよ······」
ティティは目を瞑る。ディーはティティの顔に額をつけた。ティティから流れる力は暖かく弱々しい。ディーへと移っていく間、ティティは嬉しそうに言った。
「私ね······君と過ごした15年が······一生のうちで一番楽しかったんだ······」
「先生、僕もです。先生に拾ってもらえなかったら今頃、死んでいたかもしれません」
「······水神はね、力を次代に分け与えて成り立っているんだよ。初めは悲しい一生だ······って思ったけど、ディー君に出会えて良かった」
ディーは歯を食いしばる。そうしなければ、溢れてくる涙を止められそうになかった。
ティティは優しい声で言う。
「ディー君······また、会えると良いね」
「先生!」
ディーの呼びかけにティティは答えなかった。幸せそうに笑って目を瞑っている。まるで眠っているかのように。
シャモアに数年ぶりの雨が降った。天から降り注ぐ雨は乾ききったシャモアを潤す。人々は歓喜した。
「あぁ、水神ティティウスタヴァディー様のお力だ! 我々の願いが届いたんだ!」
大人達はあまりの嬉しさに雨に打たれながら踊る。
少女はそんな様子を見ながら天を見た。なぜだか悲しい気持ちになった。まるで空が泣いているかのように雨が降っている。
水の輪廻 十井 風 @hahaha-
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