第3話 欠落したはずの記憶
美咲は、自分が見たであろう恥ずかしい夢を思い浮かべてみた。たまに自分が恥ずかしい妄想が頭をよぎるのを感じたことがあったが、即座に否定していた。そのため、妄想はおろか、頭をよぎったことまで自分の中で否定しようとしていた。妄想であれば否定もできるが、頭をよぎったことを否定するのは難しい。なぜなら、否定するには、思い浮かべたことを忘れてしまってはいけないからだ。覚えていないことを否定するなどできるはずがない。美咲はそんな簡単な理屈が分かっていなかった。
それなのに、恥ずかしい夢をどうして否定できないのか不思議だった。夢に見たということを思い出して、恥ずかしい夢を見たということが頭をよぎったのだ。それを否定するには、恥ずかしい夢だということを自覚する必要がある。少なくとも頭をよぎったことを打ち消してしまった時点で、思い出すことができなくなっていた。
久志や落合と一緒に話をしていると、頭をよぎった恥ずかしい夢を思い出せそうな気がしたのだ。今まで男性と話をすることがほとんどなかった美咲にとって、落合や久志は自分が知っている男性とは違っていた。
――男性というのは、もっとギラギラしていて、女性を舐めるような視線で見つめるものだ――
という思い込みがあった。
実際に、会社で自分を見つめる男性社員の目にはギラギラしたものが感じられた。それは年齢に関係なく、上司であっても同じだった。
――奥さんがいるのに――
と、直属の上司である課長の視線が最近は一番気になっていた。
課長は、三十代後半で去年結婚したらしく、まだまだ新婚だった。美咲は昨年まで違う部署にいたので、今の課長のことを去年より前のことを知らなかった。ただ、課長が女性社員から人気があり、結婚が決まった時には、かなりの女性社員がショックを受けたという話を聞いた。
元々、社内恋愛はしたくないと思っていた美咲には興味のないことで、ショックを受けた女の子に対し、
――どれだけ狭い了見なのかしら?
と感じたほどだった。
美咲は入社して五年目である。短大を卒業してからの入社で、部署をいくつか経験していることもあり、会社では他の女性社員から一目置かれていた。
しかし、それだけに女性社員の間では浮いた存在でもあった。部署をいくつも経験させられるのは、それだけ会社からの期待が大きいということであり、そのことを男性社員は分かっているので、彼女は男性社員からも一目置かれている。そういう意味では、男性社員と女性社員の間に入ることも多く、仕事内容よりも、そちらの方が上司からの期待が大きかったのかも知れない。
そのため、会社ではどうしても孤独になってしまう。浮いた存在というオーラが表に出ているのを、他の社員も分かっている。女性社員よりも男性社員の方が敏感に感じていたようだが、相手が異性だと思うと、腫れ物に触るようなぎこちない態度が付きまとった。
そんな雰囲気は美咲には苦痛だった。人から気を遣われることのやりづらさは、高校時代からあった。学校では真面目な女子学生を演じていた。実際に真面目なところがあったのは事実だった。それだけに、融通が利かない性格で、真面目な態度を最初に演じてしまえば、他の態度を示すことができなくなっていた。先生からも期待されるようになり、学校の生徒会にも推挙されると、あれよあれよという間に、やらされる羽目に陥ってしまった。
それでも、美咲には逆らえなかった。人に逆らうということが分からなかったのだ。抗ってみても、どうにもならないという意識もあった。美咲にはその頃、他人の視線を意識するという気持ちはなかった。そのため、言い知れぬプレッシャーが襲ってきていて押しつぶされそうだったが、それがどこから来るのか分からなかった。
どうしても、まわりへ視線を向けるよりも、内に籠ってしまうからだ。
普通、内に籠る人は、他人からの視線に耐えられなかったり、自分を表に出そうとすると、打ち付けてくる杭の存在に気づいて、表に出られなくなるものだ。しかし、美咲の場合は視線を決して表に向けようとしない。そのため、まわりからの意見は受け入れるようにしていた。
よほど生理的に無理なこと以外は、無条件に受け入れてきた。生徒会へ推挙されることくらいは、別に問題ではなかった。生徒会と言っても、目の前にあることをこなせばいいだけだ。当たり前のことを当たり前にやっていれば、こなすことができ、しかも、それなりに褒められる。褒められて嬉しいという感情もさほどなかった。苦笑いを浮かべるだけだった。そんな美咲を見て、美咲を生徒会に推挙した先生は、
「やはり、あいつにやらせて正解だったな」
と言っていたようだ。
感情を表に出すことなく、ただ当たり前にこなしている態度は、先生からすれば、大役をこなすには適任だったように見えたのだろう。
確かに、他の人にやらせるよりはよかったのかも知れない。下手に感情を表に出しすぎる人は、イヤイヤやるだろうし、中にはストレスばかり溜まって、まともに生徒会の仕事をこなせないかも知れない。美咲にはそんなことはなかった。静かに冷静な態度や判断は誰よりも適任だったことを裏付けている。美咲の内に籠る性格を生かすことを覚えた瞬間だった。
就職してもその感覚は変わらなかった。静かに冷静に仕事をこなしていく。生徒会に推挙した先生よりも、会社の上司は冷静に美咲のことを見ていた。そういう意味では人事部長の見る目に間違いはなかったのだろう。
美咲は最初に配属になった部署の課長の視線に、ギラギラしたものを感じた。それまでは、学校の先生にも、同学年の男の子からも、一緒に入社した男性社員からも感じることのなかった視線だった。
年上の男性という意味では学校の先生もそうだったのだが、学校の先生と、会社の課長のどこに違いがあるのかということばかりを考えていた美咲には、ギラギラした視線の訳を理解できなかった。
しかし、自分が成長していることが男性の視線の違いであることに、美咲は気づかなかった。普段から内に籠る性格のくせに、自分のことが分からなかったのだ。内に籠るといっても、それは自分を見つめるということではなかった。本人は見つめているつもりだったのだが、自分の本質を見ることができない。自分の顔を見ようとすると、鏡のような媒体を通してでなければ見ることができないという基本的なことが分かっていなかったのだ。
いや、分かっていたのかも知れないが、そのことと、自分の本質を見るということが結びついてくることに気づかなかったのだ。個々については理解できても、それを結びつけることができない。それが内に籠る美咲の性格を表しているのかも知れない。
それがいいことなのか悪いことなのか分からないが、美咲にとって遅かれ早かれ転機が訪れるような気がしていたのだ。
いつやってくるか分からない転機を意識し始めると、毎日の仕事がマンネリ化していることに気が付いた。それでも、今自分にできることの最善を尽くしているつもりでいたので、別に今の考えを変える気はしなかった。
そんな時に、課長のギラギラした視線を感じたのだ。
美咲がその時初めて、自分が表に向かって感情を表したことに気づいていなかった。それまでの美咲は内に籠っていたために、まわりの人たちも美咲のことを必要以上に意識はしていない。ゼロに限りなく近いと言ってもいいだろう。
道に石が落ちていても、誰も気になどしない。
――あって当たり前――
そんな意識すらないのだ。
だが、課長はそんな美咲に初めて気づいた人ではなかっただろうか。道端に落ちている石の中から、一つだけ光っている石を見つけた感覚、それが課長のギラギラした視線、いわゆる「オトコの視線」である。
初めて感じたギラギラした視線。身体が宙に浮いているかのように感じ、風もないのに左右に揺られるのを感じる。ただ、痛いほどの視線ではなく、舐めるような視線だった。淫靡な感じに思えたが、美咲は嫌ではなかった。心地よさすら感じられるその視線に身を任せることの何がいけないのかと自問自答をしてみたが、返事があるわけでもなく、静かに時間だけが過ぎていた。
課長のそんな視線を感じ始めてから、少しして、まず課長が部署替えになった。部長代理の肩書が付き、出世したのだ。美咲もそれ以降、会社でその課長とは廊下でっすれ違う程度で、二度とあの時のギラギラした視線を感じることはなくなった。
その代わり、冷静な目が浮かんでいた。それは一番最初に配属になった時に感じた課長の目だった。
――これまで感じていた課長のギラギラした視線って何だったんだろう?
という思いである。
美咲はそれからいくつかの部署を経験したが、美咲に対してのギラギラとした視線を感じることはなかった。
それなのに、今の部署に移ってきて、最初に対面した時の課長に感じた思いは、ギラギラした視線を感じさせた課長との初対面を思い出させるものだった。
――まるで入社当時に戻ったようだわ――
と、その時の視線をそう感じた。
すると、次第に課長の視線が、ギラギラとしたものに変わっていき、その視線を浴びた美咲は、
――この人には逆らえない――
と感じるようになっていた。
仕事に関してはシビアではあったが、美咲のやりやすいようにやらせてくれる柔軟なところが彼にはあり、それが美咲にはありがたかった。自由奔放にさせてくれる方が実力が発揮できるということに、美咲自身もその時気が付いた。
元々、それが理想だったはずなのだが、
――会社というのは、そんなに甘いものではない――
と自分に言い聞かせ、
――仕事は自分の思い通りになるものではない――
と思わせた。
実際にその感覚がストレスに変わりつつあった。元々、自由というよりも、何もないところからどんどん作り上げていくことに造詣の深かった美咲にとって、自由にさせてくれるというのはやりがいがあった。しかし、裏を返せば、責任は自分にあるということでもあった。
それでも、やりがいの方がいいと思うようになったのは、学生時代に生徒会をやらされていた自分と本当に同一人物なのかという思いを抱かせるほどだった。
これが成長なのだとすると、本当なら喜ぶべきことなのだろうが、手放しに喜べないところもあった。
――冷静さが失われていないだろうか?
という危惧があったからだ。
やりがいを求め、責任を裏で感じているという思いは、冷静さが不可欠に思えた。しかし、冒険を犯すだけの気持ちの中には、熱いものも必要だと思うと、冷静さだけを求めるわけにもいかない。正反対の性格を同居させて、うまく調和させなければいけないこの状況は、表よりもむしろ籠ってしまうであろう内に、問題が含まれてるように思えてならなかった。
美咲は、今の課長のギラギラした視線に、初めて自分が「大人のオンナ」であるという自覚を持った気がした。最初の課長の視線を感じていた時は、ギラギラの中に、それほど淫靡なものを感じていたわけではないと感じていたのだ。「大人のオンナ」を意識するのであれば、淫靡なものを感じることを避けて通ることができないだろう。
――この人には奥さんがいるんだ――
という思いと、
――どうして、奥さんがいるのに、こんなに女性社員からモテるんだ?
という思いが頭の中で交錯する。
これを一つにして考えると、奥さんがいるからこそ、本当なら手に入らないもの、手に入れるということは、道義に反するということ。この二つを考えると、人間の本性としての、
「ないものねだり」
という発想が頭をよぎった。
美咲にも子供の頃に経験があった。友達が持っているものばかりほしくなるという感覚で、親にほしいものがあるとねだってみると、その理由を聞かれた。
「どうして、そんなにほしいの?」
その時、美咲は当たり前のことのように、
「だって、皆持っているんだもん」
と答えたが、母親は急にため息をついて、俯いていた顔を上げ、美咲に正対した。
「そんな気持ちだったら、余計に買ってあげられないわ」
意地悪をしているとしか思えない母親の態度に、号泣して訴える子供がそこにはいた。
「そんな、どうしてそんな意地悪なこというの?」
母親はそれには答えずに、
「ダメなものはダメなの」
今から思えば、ほしいと思っていることが自分の意志ではないことが問題だったのだろう。
美咲が高校時代くらいになるとその意味が分かってきた。そして得た結論が、
「自分の意志をしっかり持って、ほしいと思うことが大切なんだ」
という思いだった。
そこには、ほしいものを考える大前提として自分の意志が最初にくる。それが最優先されるのだ。だからないものねだりでも、悪いことではないと思う。ただ、人のものをほしがるという思いが今までの美咲にはなかったことに気が付いた。
「皆が持っているもん」
というのは、集団意識の表れであり、人が持っているものをほしがっているわけではなかった。
美咲は、集団意識と人が持っているものをほしがる意識を混乱して頭の中で整理していた。そのために、奥さんのいる課長がどうしてモテるのか、分からなかったのだ。
そんな課長から、最初に誘われた時のことだった。
その時は、前の課長が支店長になって転勤していくことと、新しく迎えた課長の歓送迎会の時のことだった。
課長の名前は黒沢課長。美咲は呑み会の途中、どこか上の空だった。自分が何を考えているのか、どこを見つめているのか分からない。
「美咲、どうしたの?」
と、同僚の女の子に言われて、
「あ、いや、何でもないわ」
と、自分が挙動不審であることを、人から指摘されるなど恥ずかしいことだと感じ、顔が真っ赤になるのを感じたが、そんな態度が表に出るわけではなかった。
「心ここにあらずって感じよ」
と、言われても、言い返す言葉が見つからなかった。
呑み会の時間があっという間に過ぎると、二次会に出掛ける人間と、帰る人の二手に分かれた。美咲は元々二次会に出るようなタイプではないので、誘われることもなかった。課長の方をちらりと見ると、いつものような涼しそうな表情で佇んでいるだけだった。
――課長は二次会に参加するようなタイプではなさそうだわ――
まわりの人も誘わない。特に女性社員から誘われるような雰囲気ではなかった。
――女性からモテるはずなのに――
と思っていたが、課長の方を見いていると、誘いにくそうなオーラが出ているのを感じた。そこには遠慮という言葉ではない単純に近寄りがたい雰囲気があった。会社では決して見せない課長の態度に、他の女性社員もとまどっているのだろう。
「では、一旦解散しましょう」
という幹事の声が響いた。
歓送迎会の人数は十数人くらいのものだったので、二次会には半数くらいの人が参加するようだった。特に美咲を除く他の女性社員はほとんど参加するようだった。帰宅組に声を掛けながら夜の街に消えていく二次会組は、どこか眩しく見えたが、夜の街に呑まれていくのを見ていると、眩しさが虚しさに感じられた自分の感覚が少し信じられなかった。
駅に向かって歩いていると、後ろから差すような視線を感じた。思わず振り返ってみると、そこには早歩きで近づいてくる黒沢課長が見えた。美咲は立ち止まって踵を返したが、その場から動くことはできなかった。
「どうしたんですか? 課長」
声が裏返っていたかも知れないと思うほど、虚勢を張りながら、声を掛けてみた。
「萩原君はこっちだったんだね」
いつも冷静な課長の声も心なしか裏返っているように思えた。
「ええ、課長も何ですか?」
「いや」
その言葉と同時に課長は歩みを止めた。美咲に最接近したからだ。
二人は無言のまましばし立ち尽くした。
「どうしたんですか? 課長。いつもの課長じゃないみたい」
先に口を開いたのは美咲だった。
美咲にしてみれば意外だったが、このような張りつめた緊張の中で先に口を開くというのは、それだけ落ち着きがないとも言える。そう思うと、意外でも何でもないに違いなかった。
「いつもの僕だと思うが? どこか違うかい?」
仕事中は厳しさが前面に出ていたが、その裏に潜む優しさも感じられた。他の人のようにまず自分のことを考えながら話をする人には感じられないものだった。その時の課長じゃ、仕事中の厳しさが取れた優しさだけに包まれたそんな雰囲気だった。
「いいえ、いつもの課長ですわ」
ただ、この雰囲気が女性にモテる雰囲気であるともいえる。このまま自分が口説かれてしまうのではないかと思うと、どうしても身構えてしまうのだろうが、課長を目の前にして見つめられると、身構えるよりも、この場の雰囲気に包まれている方がどれほどいいかと思うようになっていた。
――恥ずかしい――
目の前で見つめられると、すべてを見透かされているような気がしてそれが恥ずかしかった。ある意味全裸を見られるよりも恥ずかしいくらいだった。
全裸というのは、隠そうとすれば隠すことができるが、心の奥を見透かされてしまうと、隠すことはできない。実際にどこまで見えているかというのは相手にしか分からない。まるで目隠しプレイをしているような恥ずかしさだった。
美咲も人の心の奥を覗くことが時々あった。
それは、少なくとも相手が自分の心を覗こうとしていない相手でなければできないことだった。お互いの意志や視線がぶつかってしまうと、自分が負けるという意識が強かったからだ。相手との視線が接触することはおろか、相手がこちらを意識していることを感じた時、自分の視線に気づかれることを危惧していたのだ。
美咲は課長とその時視線を合わせるだけで、課長の心の奥を覗いてはいけないと感じた。しかし、それであれば、課長には自分の心の奥を覗いてもらいたいという意識があったのも事実である。
――私はあなたの視線を感じて、あなたの心の奥を覗くのをやめたのだから、あなたは私の心の奥を覗いてよ――
と、相手が誰であれ、今まではそう思っていた。
高飛車な発想を抱いているのは分かっていたが、今までの相手は、自分が思った通り、美咲の心の奥を覗こうとしていた。
美咲にはそれが分かっていた。そして人から自分の心の中を覗かれることが意外と快感であることも分かっていたのだ。それこそ、
――恥ずかしいことなのに、興奮する――
という発想だった。
男性からの舐めるような視線を感じたこともあった。
遊び慣れている男性は、露骨な視線を浴びせてくる。引っ込み思案な男性は、本当に舐めるような視線を浴びせてきて、どちらの視線も身体に心地よさを感じさせた。
しかし、課長の場合は少し違った。
ギラギラした視線ではあったが、露骨な視線でも、引っ込み思案な男性からのヲタクっぽい視線でもない。他の男性の視線が下から見上げるような視線であったとすれば、課長の視線は上からの視線だったのだ。
下から見上げられると、まるで自分が女王様になったような感覚に陥り、サディスティックな部分が表に出てきていた。しかし、そんな感情を相手に悟られないようにして、あくまでも、自分は清楚で恥ずかしがり屋な女性であることを自分なりに演出しているつもりだった。
今までは、そんな美咲の「おもて面」に誰もが「だまされて」きたのだ。そんな男性たちを見ながら、
――ふふふ、ちゃんと今の私を見なさい――
と、心の奥ではサディスティックな自分が表に出ている自分を操るようにまわりの男性を誘惑しているのだ。
美咲は、そんな自分の本性を、普段は意識していない。二重人格であるという自覚もなければ、自分に本性があるなど、考えたこともなかった。
――私は恥ずかしがり屋で、力強い男性に引っ張って行ってもらいたい――
と思いながらも、近づいてくる男性は、軟弱でオタクっぽい人が多かったりする。
それなのに、妥協して付き合い始めても、離れていくのは相手からの方だった。
元々、軟弱な男性たちなので、美咲から離れていく時も、なるべく波風を立てないように自然消滅を試みる。美咲もそのことが分かっているが、ここで騒ぎ立てるのは、自分のプライドが許さないと思っていた。引っ張って行ってもらいたい性格である反面、プライドだけは非常に高い。いや、そんな女性だからこそ、ある一線から先、許せない部分が存在しているのかも知れないと思っていた。
黒沢課長の視線が自分の中を覗こうとしているのを感じると、急に今まで表に出てきたことのなかったサディスティックな自分が顔を出してきた。
――あれ?
美咲はその時、自分がどうなってしまったのか、その状況を理解できないでいた。そんな戸惑いを見せている美咲に対し、黒沢課長はじっと見つめているその顔から唇が歪んで見えるのを感じた。
――淫靡な笑みだわ――
男性のこんな表情を初めて見たと思った美咲は、男性の本当に淫靡な表情がどんなものなのか、初めて知った気がした。最初は怖いと感じたが、次第に襲ってくる快感から、自分が逃れることができなくなってくることを予感するようになった。
――私はこのまま――
自分を包み込んでいるのは腕ではなかった。薄い膜のようなものに覆われて、その中でプカプカ浮いているような気がしていた。
――懐かしいわ――
それが母親の胎内の羊水だと感じるまで、さほど時間は掛からなかった。だが、不思議なことに、遠い過去の記憶ではない。まるで昨日感じたようなごく最近の感覚であったのだ。
――封印している記憶が意識の中に引き戻される時、時系列の感覚ってなくなるのかも知れない――
と前から感じていたが、きっと今それを感じているに違いない。
美咲は、黒沢課長に抱かれたことがあるような錯覚を覚えた。それは封印している記憶が意識の中に引き戻されたと思った時、最初に感じた自分を包み込んでいる羊水の感覚が、急に身体の局部に集中してくるのを感じたからだ。
体内のすべての血液が一か所に集まってくるような感覚。身体の奥が焼けるように熱くなっているにも関わらず、その部分は暖かさに包まれた心地よさがあった。
血が集まってくる部分が脈打っている。
――脈打っている部分がこんなにも気持ちいいなんて――
止めどもなく溢れてくる快感に身体中が水分になり、クラゲのように身体が透けて見えるような気がした。全裸どころではない。身体のすべてが透けて見えるのだ。一体どんな感覚になるというのだろう。
こんなに熱くなっている自分の中に、さらに熱いものが侵入してくることを、美咲は想像していた。
「早く来て」
淫らな肢体を隠そうともせず、あらわにする。
――これが本当の私なんだ――
美咲はそんなことを意識しながら、漏れてくる声を抑えることができなくなった。
今度は熱い腕は侵入してくる。抑えることができない声を、黒沢課長は唇で塞いできた。侵入してきた指や局部が灼熱のような熱さであったにも関わらず、唇は冷たかった。その分、濡れ方が半端ではなく、吸い付かれた唇から、身体全体が飲み込まれてしまいそうな感じになってきた。
――こんなの初めてだわ――
美咲は、これが前から自分が求めていたものなのかどうか分からなかったが、少なくとも今までにはない快感に襲われていることを自覚していた。
――これが大人のオトコなのかしら?
そう思うと、美咲は快感に身を委ねながら、頭の中に考えるだけの余裕が戻ってきたことを感じた。それは、自分に余裕ができてきたわけではなく、今まで考えることのできなかった領域に入り込んだからだと思えてきた。それを思い知らせてくれたのもこの快感である。やはり、大人というのはすごいものだと感じさせられていた。
これを妄想と言わずして何と言えばいいのだろう。確かに妄想を抱くことで快感を得てきた美咲だったが、それはいつも一人でいる時のことだった。表でまわりの目を気にしながら妄想に耽ってしまうなど、考えられないことだった。
まわりの目をあまり気にするタイプではない美咲だったが、それでも羞恥心がある限りはまわりの目を意識しないわけにはいかない。
――意識しないつもりで一番意識していたのは自分だったのかも知れない――
という思いに駆られた。
今まで感じたことのない「大人のオトコ」の視線を浴びることで、妄想の中だけで抑えていた淫靡な自分が顔を出したようだった。
――黒沢課長に抱かれたい――
いつもであれば、こんな発想をした自分の気持ちを打ち消そうとするはずなのに、この日は打ち消すどころか、自分の正当性を探している。
――たくさんの女性を相手にしてきた女性慣れしている男性――
そんな男性を毛嫌いしてきたはずなのに、敢えて意識してしまうと、今度は、
――自分は今まで課長が相手をしてきた他の女性たちとは違うんだ――
と思うことで、自分を正当化させようとする。
考えてみれば、他の女性も同じような「手口」で、課長の罠に堕ちたのかも知れない。だが、その時の美咲はそれを分かっていながら、さらにまわりへの敵対心を強めることで、自分を鼓舞しようと思っていた。これほどまわりを意識したことが今までの美咲にあっただろうか?
「他人は他人」
そう思うことが、自分にとっての人付き合いの最良の方法だった。それだけに、敵対心を抱くことは自分にとって罪悪であり、必要のないことだった。それなのに、どうして敵対心を抱いてまで課長を意識してしまうのか、言葉で説明のつくことではない。
今までの美咲には、言葉で表現できることが自分にとっての「正義」だったはずだ。言葉で表現できないことは夢であり幻であるかも知れない。寝ていて見る夢とは違う夢は、まさしく自分にとってありえない夢だったはずである。
「将来の夢」
などという目標を、「夢」という言葉で表すことは、美咲は嫌いだった。高校時代まではまわりの皆と同じように、将来の目標を夢という言葉で表していたが、急にいうのをやめた。理由は一口に言って、
「紛らわしいから」
ということだった。
夢というのは、眠っている時に見る漠然としたもので、潜在意識が見せるものである。しかし、現実世界で目標にしていることを、曖昧な言葉で表現することに美咲は嫌悪を感じた。
他の人はどうでも、自分では許せないと思ったのだ。
美咲が快感に身を委ねていることに、黒沢課長は気づき始めていた。
「僕は昨日夢を見たんだよ」
「えっ」
美咲は唐突にそう言われて、どう反応していいか分からなかった。
いや、唐突という言葉は性格ではない。予期していた言葉だったように思う。反応できなかったのは、あまりにも自分の考えていたことと同じことだったため、相手が口にした言葉というよりも、自分が本当に課長から、そう言われることを想像していたことにビックリしたのだ。確かに予知する力があるのではないかと最近感じ始めている美咲ではあったが、ズバリ的中してしまうと、まず自分を恐ろしく感じるのだった。
美咲にとって、人との接し方は、相手によって態度を変えられるほどっ器用な方ではないと思っていた。それは、自分にはできないと思うことを、できないのは、しようとしていることが、自分にとっての義ではないと思うことだった。冷静に考えれば逃げから来ているのではないかと思えるのだが、相手を目の前にすると、他の人と違う自分を見せることは演じることであり、失礼なことに当たると考えていたのだ。
「どんな夢だったんですか?」
と美咲が訊ねると、
「そこには一人の女性が出てきて、この僕を口説くんだよ。僕はあまり口説かれることには慣れていないので、少しビックリしたけどね」
そう言って笑った。
課長が本当のことを言っているのか、それともこれからの話の展開における「前置き」のつもりなのか定かではないが、ここで一旦話を区切ったということは、美咲には課長がまんざらウソを言っているのではないと思った。
ただ、それが本音からなのか、無意識の思いからなのか分からない。分からないだけに、もう少し話を聞いてみないと分からないと思った。しかし、今の段階で身体が反応しているのは事実だ。何度も話を区切られると、それは焦らされているのと同じ感覚になり、果たして自分が耐えられるかどうか気がかりだった。
課長は続ける。
「口説くと言っても、身を委ねるという素振りでもないし、性的な興奮をもたらすものではなかった。知らない人が見れば、恋人同士がいちゃついているのではないかと思うかも知れない。それだけ自然であったんだけど、僕は心の中では身構えていたんだよ」
何となく分かる気がした。
美咲は人を口説いたことも口説かれたこともない。そんな大それたことは、自分以外のどこかで起こっていることであり、それこそ他人事だった。それなのに何となく分かるというのは、欠落した記憶の中に存在しているものなのか、それとも一度夢に見たことだったが、目が覚めるにしたがって忘れてしまったと思っている記憶の奥に封印されてしまった意識なのだろうか。
大学時代は本が好きで、恋愛小説を何冊も読んだものだった。しかし、買って読んだ恋愛小説のほとんどは、ドロドロとした内容のものが多く、甘い戯言はすべてにウラが感じられた。
美咲は、本当はそんな恋愛小説を読みたいと思っていたわけではない。口説き文句にしても、その目的は完全に身体目的なのだ。主人公も三十代後半の主婦だったり、恋愛に憧れているが、キャリアウーマンとして立ち回っているため、なかなか本当の自分を表に出せず悶々とした生活を送っている女性だったりする。
本を読んでいると、主人公や登場人物に感情移入してしまうことが多いので、どうしてもドロドロした小説は、読んでいて気持ちが重くなってしまう。それでも恋愛小説から離れられないのは、いずれ自分がそうならないようにするための反面教師のつもりで読んでいるのだが、どうも最後には少し違った雰囲気になってしまう。
「課長なら、たくさん口説かれそうな気がしますけどね」
少しだけ話を戻した気がしたが、課長はそれを知ってか知らずか、話をスルーした。
「その口説いてきた女性を見ていると、最初は疑いの目でしか見ていなかったんだけど、そのうちに、違った感覚になってきたんだ」
「どんな感覚ですか?」
「哀れみのような感覚とでも言うんだろうか。僕を見上げる虚ろな目は、僕の目を捉えて離さない。だけど、もし僕が目の前にいなければ、その視線は果てしなく虚空を捉えていて、どこを捉えていいのか、自分でも迷っているような雰囲気を感じたんだ。その目を見ていると、初めて会ったような気がしなくなってきたんだよ」
「それは、以前にも会ったことがあるという意味ですか?」
「そういうことではないんだけど、その逆で、これからこの人と出会うんじゃないかって思うような感覚なんだ。その思いがあったからこそ、その時に、今見ているのが夢だって分かった気がするんだ」
「それは予知夢のようなものなんでしょうかね?」
「僕が聞いたことのある予知夢というのは、夢を見ている時は、それが予知夢だなんてまったく分からないらしいんだけど、現実世界で会った時、夢の中で出会ったとすぐに気づいて、それが予知夢だったで分かるという話だったんだ」
「そうですね。確かに現実世界で出会った時、その人のことを、どこかで見たけど思い出せないというのが普通なんですよね。でも、出会ってすぐに夢で見たと思うことって、本当にあるんでしょうか?」
「あるかも知れないね。でも、今回の僕の場合は、夢を見た時、もう一度、その人に会えると思ったんです。ただ、それが現実世界なのか、また夢の中の世界なのか分からない。でもどちらにしてもレアなケースだと思うんですよ。現実世界で出会うという考え方は、あまりにも非現実的すぎるし、夢でもう一度会うという感覚も、以前に一度見た夢の続きを見るというのって普通ではありえないでしょう? 夢というのが潜在意識のなせる業だと考えればね。でも、もう一つ考えられるのは、昨日見た夢とまったく同じ夢を、もう一度見るかも知れないということなんだ。これもかなりレアかも知れないけどね」
課長の話は信憑性もなければ説得力もない。しかし、聞いていて黙って無視できるほど単純な話ではないように思えた。美咲も時々、予知夢ということの信憑性について考えることがあった。しかし、考えれば考えるほど、低くなってくる信憑性に、いつもガッカリさせられる。
「ところで課長はどうしてこの話を私に?」
「実は、その夢の中に君も出てきたんだよ」
「えっ、私がですか?」
「ああ、といっても、君は登場人物というわけではなく、影から僕たち二人を見つめていたんだ。夢の中の君は、僕が気づいていることなど分かっていなかったようだけどね」
確かに夢を見ている本人が作り出した夢なのだから、幾分かは本人の都合よくストーリーが流れていて当然である。
「それで、課長は私の存在をかなり意識していたんですか?」
「君の存在に気が付いたのは、これが夢だということに気づいた後だったんだ。だから、気にはなったけd、『どうせ夢なんだ』という思いから、それほど意識を向けていたわけではないんだ」
「そうなんですね」
「だけど、最初に感じた君から一瞬目を離すと、君はそこにいなかった。そして、思わず当たりを見渡すと、かなり離れたところからやはりこちらを見つめている君がいたんだよ」
「私が瞬間で移動したということですか?」
「夢の中だからそれもありなんだろうけど、僕には少し違った解釈があったんだ」
「どういうことですか?」
「実は君は一人いただけではなく、最初にいたところから見えなくなったのは単純に後ろに身を引いたからで、見渡してから発見した君は、最初からそこにいたんじゃないかってね」
夢なら何でもありだと思うと、不思議のないことだった。
ただ、美咲にとってそれよりも、黒沢課長がいろいろ夢を見ながら考えているということに感嘆を覚えた。
――私だったら、そんなにいろいろな発想することなんでできないは、よほど頭がいいのか、それともよほどの天邪鬼なのかも知れないわ――
と感じた。
天邪鬼というのは、人に逆らうことなのだろうが、課長の場合はいろいろな発想を抱くことが自分の中の天邪鬼だと思っているのではないだろうか。課長は仕事をしていても、多数意見よりも少数意見の方にいつも耳を傾けている。
「多数派意見というのは、当たり前のことを当たり前に言っているだけで、僕には進歩がないような気がするんだ」
会議中にそんな話をしていた課長の言葉を思い出した。その時はあまり意識していなかったが、頭の中には残っていた。逆に他の人はその時、かなりの意識を植え付けられたが、ある一定の時期を過ぎると忘れてしまっている。
「人の噂も七十五日」
であったり、
「のど元過ぎれば熱さも忘れる」
という言葉が表す通りである。
しかし、今美咲は少し違う考えを持っている。
――あの時の課長はわざとそんなことを口にしたのではないだろうか――
と思った。
それは自分への意識を他に逸らすための高等テクニックではないだろうか。忘れてもらった方が都合のいい何かがあったのかも知れない。内輪の会議と言っても、それくらいのことは仕事をしていれば考えられることである。課長の頭がいいのではないかと思ったのもそこから来ている。
美咲は、それを意識した時から、課長に対して二つの感情を持っていた。
――この人は頭のいい人だ――
近づいていいかどうかは、これだけでは分からない。しかし、
――課長の頭のいい作戦は、果たして相手を見ながら行っていることなのだろうか?
という疑問が頭をもたげた。
つまり、作戦を考えるにしても何にしても相手があってのことである。相手によって臨機応変にやらなければうまく行くはずがない。しかし、課長を見ていると、相手はどうでもいいような気がする。
――相手が誰であれ、わが道を貫く――
という考えであり、それが課長の中に見え隠れしている天邪鬼の正体ではないかと思うのだった。
普段から抱いている課長へのイメージを裏付けるような話を今、課長の口から聞いているんだと思っていた。それも、夢の中に登場したのは、誰でもない自分だというのも、皮肉なことだと思った。
――それにしても、課長は私に何が言いたいのだろう?
疑問を呈しながらも、美咲の身体はまだまだ熱くなっていた。身体の奥から洩れてくるドロドロしたものを感じながら、美咲はもう一人の自分が姿を現すような気がして仕方がなかった。
課長を見つめる美咲の目が一瞬驚きに変わった。
――おや?
じっと自分を見つめていると思っていた課長の視線が、自分に向けられているわけではないことに気が付いた。
確かに、課長の視線の先には自分しかいない。だが、目線は美咲の目を見ているわけではない。しかも見つめていると、遠近感も違っているように思えてきた。
――まるで私の身体に穴が開いていて、そこから先を見つめているような気がして仕方がない――
と、美咲はそう思えて仕方がなかった。
その先というのを、美咲は分かるような気がしていた。まるで後ろに自分の目がついているような感じである。
――そういえば、誰かに背中を見つめられているような気がしていた――
さっきから気になり始めたのだが、それがどれくらい前なのか、気づいてしまうと分からない。
課長の視線は自分の背中を見つめている女性の方に向けられていたのだ。
ということは美咲は、自分の身体を挟んで、目の前の課長、そして後ろにいる人との間にいるということでり、どのような存在でいるのか分からなかった。
ただ、後ろに目が付いているかのように、そこにいるのが女性であることに気が付いた。その女性は美咲には見覚えはなかったが、課長には見覚えがあるようだった。
――夢で見たと言っていた人かしら?
ということは、今課長は、夢の話をしながら、会えるかも知れないと言っている人と、すでに会っているということになる。これだけの視線を浴びせているのに、見えていないということはないだろう。
美咲は、
――自分がその場から消えてなくなったら、どれほど気が楽だろう――
と感じていた。
見えているのに、見えていないかのように話をする課長は美咲に何をさせようとしているのか、そして、後ろに存在を感じるその女性は、いったい美咲に何を訴えようとしているのか、
――後ろに目があるかのように感じるのは、きっと彼女の力によるものに違いない――
美咲にはそう思えて仕方がなかった。
すると美咲は先ほどまで感じて言った黒沢課長に対する不安が次第に解消されてくるのを感じた。黒沢課長に対して委ねたくなるような気持ち、こんな気持ちになったのは久しぶりだった。
しかし、この気持ちはずっと自分が待ち望んでいたもののような気がしてきた。実際に今も待ち望んでいるもので、その思いを必死に押し殺そうとしている自分がいることに気が付いた。
――でも、これって本当に私の気持ち?
待ち望んでいる気持ちは確かに自分のものだという意識はあるが、押し殺そうとしている自分には気づかなかった。押し殺そうとしていることを意識していないのだから、その先にある待ち望んでいる気持ちがいくら自分のものであったとしても、意識の中にはなかったのだ。
――押し殺そうとする理由がどこにあるのかしら?
押し殺そうとしている自分にあるのか、それとも押し殺さなければいけない心境にさせる何かが自分の意識の外にあるということなのか、美咲には分からないことばかりであった。
美咲には、今付き合っている人はいない。学生時代には付き合っていた人もいたが、花が咲くことはなかった。元々、初恋の時からそうだった。確かに初恋は成就することのないものだと割り切ってしまえば、切ない思い出として自部運を納得させることができる。
しかし、美咲が今まで好きになった人がいても、付き合い始めるまでに行くことはほとんどなく、付き合い始めても、長く続くことはない。よほど自分が男性との付き合い方が悪いのか、それとも自分の気づかないところで相手に何か悪い印象を与えているのかも知れないと思っていた。
つまりは、自分で納得できない別れ方ばかりだったのだ。
付き合うようになるきっかけは、いつも相手からの告白だった。
「私のどこがそんなにいいの?」
さすがに何度も破局を迎えていると、最初からハッキリさせておかなければいけないことは聞いておこうと思うものだ。ただ、相手の方もいきなり聞かれて、
「漠然としてなんだけど、美咲さんの清楚なところが好きなんですよ」
ほとんどの人はそう答えてくれた。
そう言われて嫌な気がする女性はいないだろう。
――今度こそうまくいく――
美咲は、自分にそう言い聞かせてきた。男女の付き合いは、最初から腰を引いてしまってはうまくいくものもうまくいくはずはないと分かっているつもりだったが、子供の頃から引っ込み思案の美咲にとっては、どうしようもないことだと思っていた。
ただ、美咲はかなり後になって気づいたことであったが、美咲が今まで付き合ってきた男性は、ロクな男性ではなかった。いわゆる「女たらし」とでもいおうか、片っ端から女性に声を掛けて、
「下手な鉄砲、数打てば当たる」
とでもいうべきか、美咲は彼らにとっての「数」のうちの一人でしかなかったのだ。
女性の友達が少しでもいれば、忠告もしてくれたであろうし、ウワサ話としても出てくることだっただろう。
男性を見る目もまだまだだった美咲である。男性から見れば清楚という言葉が口説こうとする一つの理由だろう。それはいい意味ではなく、
「だましやすい」
という意味で、清楚に見える方がやりやすいと思えたのだろう。
中には美咲のことを、
――プライドの高い女――
と見ていたのかも知れない。
そんな女は最初におだてておけば、信頼を勝ち取ることくらいは簡単なことで、ここまでくれば、自分のいいなりにすることくらいは、さほど難しくないと思っていたに違いない。
実際に、美咲は最初は身持ちが硬かった。そんな美咲にプライドの高さを感じ、
「受け入れられない」
と離れていった男性もいただろう。
そんな男性の方が、まだマシだったかも知れない。
美咲にプライドの高さを最初から感じていた男性は、
「ほら、見たことか」
と、自らの洞察力にほくそ笑んだかも知れない。
その後は、美咲のプライドをさらに高めるようにして、梯子を掛けてやると、美咲はその梯子を喜んで昇っていくことだろう。
ここまでくれば、男性の方は慌てることはない。
今まではおだててきたが、今度は逆に少し冷たくする。軽く突き放したような感覚だ。連絡を取る間を少し長くしてみたりして、美咲の不安を駆り立てるのだ。
掛けた梯子を外されるかも知れないと感じた美咲は、きっと焦ることだろう。それこそが男性側の作戦であった。
「ここまでくれば、女性はいいなりだな」
完全に主導権は男性側が握ってしまう。
男性は決して謝ることはしなかったが、美咲に対して再度接近する。美咲は一旦安心を取り戻したことだろう。しかし、男性側からすれば、美咲が抱いた不安を解消させるつもりはない。絶えず不安を抱かせることで、美咲に危機感を与え、自分が男性の言いなりになっていることを意識させなくしているのだ。
男性とすれば、これほど都合のいい女性はいない。それなのに、なぜか美咲はしばらくすると、相手の男性から別れを告げられる。
美咲にとっては青天の霹靂だったはずだ。どうしていいのか分からない中で、男性側によりを戻すつもりはないことを自覚すると、完全に目を覚ました。自分が男性の言いなりになっていたことも気が付いてくる。
元々、プライドの高い美咲としては、別れることよりも、
――相手から別れを告げられた――
という事実に自分で納得がいかないのだ。
だが、不思議なことに、ほとぼりが冷めてくると、また同じことを繰り返してしまう。
「二度と同じ過ちは犯さない」
と自分に言い聞かせてきたにも関わらず、最後には、プライドが傷つけられて、終わってしまう恋に、自分が情けなくなる結末を迎えるのだった。
さすがに、二十代後半にもなれば、自分というものをわきまえてきたのか、同じような過ちは繰り返さないようになった。
プライドの高さは相変わらずで、その分、男性不信だけは強く頭の中に残っている。
美咲にとって、自分のことは二の次だった。
――自分を騙そうとする男性に引っかからないこと――
これが一番だったのだ。
自分の中に騙されそうなオーラが潜んでいるということを分かっていて、敢えてそのことを考えないようにしている。それこそ、美咲の中にあるプライドの高さがそうさせるのかも知れない。
黒沢課長に抱かれたいなんてどうしてそんなことを思ったのか、美咲は男性不信だったはずなのに、自分の心境がよく分からなかった。
黒沢課長が見たという夢は、自分を口説いている女性がいて、そんな二人を美咲が見ていたという。もし、美咲が本当にその場にいたら、どんなリアクションを取るだろう?
――私だったら、プライドが許さないだろうな。でも何とかその場から立ち去ろうとしながら、足が竦んでしまって動けないというのが真実かも知れない。でも足が竦んだというのは恐怖からというよりも、好奇心からと言った方がいいかも知れない。黒沢課長への視線ではなく、見つめているとすれば、その女性に対してかも知れないわ――
と感じた。
相手の女性を見つめるというのも、黒沢課長を意識するからである。男性不信の美咲にとって、直接、課長の表情を覗き込むだけの勇気がない。そこで相手の女性の顔を見ることで、課長がどんな表情、そして表情の裏側に秘められた感情すら感じ取ろうとするに違いない。
きっと黒沢課長のことだから戸惑っているに違いない。
会社で見る黒沢課長と、今の黒沢課長、まったくの別人に感じられる。
では、美咲は課長にとって、会社で見る美咲と今の美咲とを同じ人間として見ているのだろうか?
まずは夢の中で口説いてきた女性を見つめているという美咲の表情だ。
今の美咲は、課長の夢の中に出てきた自分が、まったくの無表情だったのではないかと思えた。幽霊のように顔色も悪かったように感じる。衣装も白装束を身に着けているのが一番似合っていそうな表情だ。
美咲は、もし自分がそんな表情をするとすれば、今まで付き合ってきた男性と、ふいに出会った時、まったくの無表情になるだろうと思っていた。それは感情を持たないというわけではなく、今まで見せたことのない自分を、相手に見せつけてやりたいという心境だった。
それもプライドの高さ所以であろう。
だが、美咲はプライドの高さというのを勘違いしていた。本当はプライドというのは自分に対して感じるもののはずなのに、相手に対してだけ意識して、自分に対して感じるプライドのことを忘れてしまっていた。これでは本当にプライドが高いとは言えないだろう。元々プライドが高いということが悪いことだとは思っていなかった美咲だったはずだ。それはプライドが自分に向けられるものだと分かっていたからだと思う。何がきっかけになってしまったのか分からないが、今の美咲は、プライドということに対して少なくとも、自分を見失っているということになるのかも知れない。
黒沢課長は、美咲の考えている横顔を見ながら、何も言わなかった。しかし、美咲が自分のプライドについて考え始めて、少し堂々巡りを繰り返し始めた頃、口を開いた。
「萩原君の横顔を見ていると、昨日の夢に出てきた僕を口説いていた女性の雰囲気に似てきた気がする」
「えっ」
課長の目が美咲をじっと見つめているうちに、昨日の女性の雰囲気に似てきたということなのか、それとも、課長が美咲の横顔を見ながら、昨日の女性を思い出そうとして、記憶が目の前の表情と重なってしまって、そんな思いになったのか、美咲にも課長本人にも分からなかった。
しかし、課長はそこまで言うと、一瞬しまったという表情になったが、ほんの一瞬で、そこから先はいつもにも増して、穏やかな表情になった。その表情はまるで父親が娘を見つめるような視線であり、包まれている美咲は悪い気がしなかった。
「どうして、課長は今、そんなことを言うんですか?」
美咲には、課長の心境よりも、どうしてタイミングが今なのかということの方が気になった。なぜなら、課長の表情を見ていると、考えて言った言葉のように見えなかったからだ。いつもはいろいろなことを考えながら発言している課長が、まるで衝動的に口走るなどというイメージはまったくなかったからだ。美咲にはその衝動性の方が気になったのだった。
「どうしてなんだろう? ひょっとすると、夢の中で自分を見つめていた女性は君で、しかもその後ろから覗いている君もいるということで、夢とは言え、同じ人が二人いたという思いが恐怖を呼んで、その思いを本人である君にも聞いてほしいと思ったからなのかも知れないな。もちろん、恐怖を伝えるのだから、君にとって悪いことをしていると思っているよ」
「そんなことはいいんです。ただ私は私の知っている課長と今の課長が違う人のように感じられて、それで聞いてみたくなったんです」
「君の知っている僕と、今の僕は違う僕ではないよ。でも、君が見て違うというのであれば、それも正解なのかも知れないな」
「どうしてですか?」
「本当の正解というのが存在するのかって思うし、もし正解があるのだとしても、それは一つだとは限らない気もするんだ。だから、君が思っていることも君の中では正解だと思うし、僕がそれを認められないと思えば、僕の中では正解ではない。つまり正解というのは、人それぞれで違っていてもいいんじゃないかな? むしろ同じだという方が、不自然な気がするくらいだ」
課長の話を聞いていると、少し思考のリズムが狂ってきそうな気がしてきた。ただ、それは美咲が今までに思ったことがあるもので、忘れていたのか、それとも記憶の奥に封印していたのか、思い出してみると、
――まるで昨日考えていたことのようだ――
と感じるのだった。
「ありがとうございます。私も少し変わったところがあるんですよね」
と言って笑って課長の顔を見た。
「それはお互い様かも知れないね。でも、人は大なり小なり、人に言えない、いや、自分だけの領域というのを持っているもので、それを個性という一言で片づけられるものなのかどうかは分からないけど、少なくとも、僕も君も同じ感覚であると分かっただけでも、僕には嬉しく思うんだ」
課長の表情は楽しそうだった。
「でも、私が課長を口説いているなんて、ちょっと想像がつきませんね」
「僕も最初はそう思ったよ。だから夢から覚めて思い出そうとした時に、そこにいたのが君だとは分からなかった。いや、後ろで見ていた君がいたので、そう思ったのかも知れないな。そういう意味では、君が僕を口説いているのではないと感じたいがために、僕は無意識に、後ろで見ている君を創造したのかも知れない。つまり、夢の中で意識することができたということを証明したような気もするんだ」
「それは今思い立ったことですか?」
「そうだね。こうやって話をしながら夢の中の自分の考えを、今の自分が納得させようとしたのかも知れないな」
課長はそう言って、頭を掻いて見せた。それは、まるでテレが感じられるようで、少し可愛らしく見えたのだった。
そこあで言った課長は、少し考え込んだ。
「いや、待てよ」
何か思いついたようだ。さっき納得したのは何だったのだろう?
「どうしたんですか?」
「今君と話をしながら夢を思い出していた時は、今話したことが夢の中での真実だと思っていただけど、どこかが違っているような気もしてきたんだ」
美咲は課長の顔を見ながら同じように首をかしげてみた。
「さっき、影から見つめている人が君だったって言っただろう? 冷静に思い出してみると、違う人だったようにも思えるんだ」
「じゃあ、目の前にいたのが私だったんだってこと?」
「それも今では少し曖昧なんだ。影から見ていた人も、目の前にいた人も君とは違う人で、しかも、その二人は同じ人だったような気がするんだ」
夢の記憶というのは曖昧なのだろうが、信憑性のないことを口にするようなことのないはずの課長が、
「君だ」
と言ったのだから、最初は自分の中でかなりの信憑性があったのかも知れない。
美咲は、課長の話を聞いているうちに自分のことが分からなくなってきた。
――さっきまで話をしていた課長とは違う人のようだわ――
と、目の前に見えている課長まで疑ってしまっている自分にハッとした。
もし、その時我に返らなければ、一体どこまで考えが及んでいたというのか、それもこれも課長がおかしなことを言いだしたからだと美咲は感じていた。
自分の目で見て触ってみて、これ以上の確かなことはないはずだ。それを認めないとするならば、美咲は自分が信じられないということになる。
中学、高校時代には、自分のことを信じられないと、ずっと思っていた。もちろん、人のことも信じられない。自分を信じられないのだから、人のことを信じられるはずもないだろう。
他の友達は、まず他人を信じられなくなり、次第に自分を信用できなくなったと言っていたが、美咲は反対だった。
「人のことはどうでもいいの。私自身が自分を信じられなくなったことで、すべてのことが信用できなくなったの。最終的には同じところに行きついても、私は皆と違うところから入ってきたのよね」
というと、
「よほど美咲って、自分が可愛いのかも知れないわね」
そう言われると、他の人なら否定したいところだろう。しかし、美咲は否定するどころか、
「まさしくその通りね。私は自分が本当に可愛いの。自分が信用できないのに、人のことが信用できるはずないと思っているのよ」
その話を聞いて友達は、
「美咲は大人なのかも知れないわね。私にはそこまで感じることはできない。自分を信用するというのが、実は一番難しいのかも知れないわ。私は自分が信用できないから、今いろいろ苦しんでいるのかも知れないわ」
中学時代の思春期には、ちょっとしたことでも気持ちが重たくなってしまうことが往々にしてある。壊れやすくなってきているとも言われるが、一番の原因は、
「何を信じていいのか分からない」
というのが本音だろう。
しかし、美咲はそれ以上に、
「最終的に自分が信じられなくなることが一番怖いことだ」
と思っていた。
誰もが自分が可愛いはずである。しかし、自分を犠牲にしてまでまわりのために尽くすことが美学のように言われているこの世界では、人間の本質を見失ってしまうのではないかと思えてきた。
確かに一人よがりではまずいこともあるだろう。だが、それと自分を大切にしたり、信じたりできる気持ちとは別物ではないかと思っている。
「自分で納得できないものを人に売ることはできないからね」
美咲は、就職してからセールスの先輩からそう教えられた。ごく当たり前のことを言っているのだが、その言葉の重みを考えずにスルーしてしまうと、それ以上何も考えられなくなる。いわゆるターニングポイントの一つではないだろうか。
物事には、考えなければいけない瞬間が存在する。その瞬間を考えることをしなければ、二度とそのことについて考えようとしない。人間とはそんなものではないだろうか。
美咲はそれが中学時代だった。
まだまだ考えが煮詰まっていない発展途上の時代なだけに、その時に感じたことの発展形が、本当に自分の進む道として正しいのかは分からない。しかし、その時に感じたというのは、それなりに意味があると思っている。つまりは、
――もし、あの時に感じなければ、それ以降、感じることはできなかったはず――
他の人も思春期の時期に感じるべきことだったのかも知れない。
その時に感じずに、そのままスルーした人が、少なくとも二十代後半の今になるまでに自分について考えた時、本当に何が大切なのか、自分のことが信用できるのかという考えから入っているわけではない。どうしても、まわりを意識してしまうことで、
「自分を犠牲にしても」
という考えが一番だと思ってしまう。
それを大人の考えだと思っているようだが、思春期に自分のことを考えた美咲から見れば、
――正しいかどうかは分からないけど、少なくとも、自分のことを信用できたとしても、それはまわりのことを気にしているような本当の自分ではない自分を信じているのかも知れないわ。それじゃあ、意味がないじゃない――
と思うようになっていた。
本当に自分を信用できて、大切にできる人が、その上で人に気を遣う時、相手に対して自分を隠すことなく接しているので、相手に安心感を与えるのではないだろうか。
今までの課長は、自分を大切にしている雰囲気よりも相手を思いやる雰囲気を醸し出していることで、部下や部下の女性から人気があった。美咲は、そんな課長にどこか信じられないものを感じていて、いつも一歩下がって課長を見つめていた。
しかし、その日の課長は、相手を思いやる態度というよりも、自分の気持ちを前面に押し出しているようだった。もちろん、大人としての対応は相変わらずであったが、そんな課長を見ていると、美咲の頭に少し、
――意地悪してみたい――
という衝動がよぎったのも事実だった。
課長の話を聞いていると、どうも自分を口説こうとしているように思えてならない。課長の話が信じられないわけではないが、美咲の知っている課長だったら、それくらいのことを言うだけの雰囲気があるからだ。
――口説かれてみるのも悪くない――
今までの美咲では考えられないような思いだった。
――嫌だわ――
と、心の中で感じながらも、身体は敏感に反応している。
そして、今までの自分からは信じられないような態度に出ようとしている自分を感じていた。
それは客観的に見ている自分だった。他人事のように冷めた目で見ていると言ってもいいだろう。
――上司に抱かれようと思っているなんて――
美咲は、高校時代に一度だけ、
――この人に抱かれてみたい――
と感じた相手がいた。
その人は、別に好きな相手ではなかった。ただ、一緒にいて、話が盛り上がって、怪しい雰囲気になったのは事実だったが、どうして抱かれたいなんて思ったのか、すぐには分からなかった。
しかし、それは簡単なことだった。
――私の身体が求めたんだわ――
身体の奥から湧き上がってくる快感は、美咲を濡らした。初めて自分の身体が大人になった気がした美咲は、恥ずかしさから顔が真っ赤になり、動悸の激しさから、呼吸困難に陥り、そのまま相手の男性にもたれかかった。
彼は優しく抱きしめてくれた。
その男性には、女性に対して軽いという悪しきウワサが流れていたのは知っていたが、美咲は彼がそんな人だとは思えなかった。自分が信じる相手と話をしていて、自分が相手を求めてしまったことに、ウワサが頭をもたげたが、身体が反応してしまった美咲には、もうそんなことはどうでもいいことだった。
その時は、それ以上は何もなかったが、美咲はその時の自分を封印することに決めた。
「どうかしていたんだわ」
もし、あの時、彼に抱かれていれば、そんなことは思わなかっただろう。もっと自分を表に出していたに違いない。そういう意味で、自分が変われるチャンスを棒に振ったとも言えなくはない。ただ、美咲はそれでもいいと思った。
――無理をしても、きっとろくなことにはならないわ――
と自分に言い聞かせた。
その時の自分が無理をしていたわけではないと分かっているくせに、自分を正当化させようとしたために、無理をしていると強引に自分に言い聞かせたのだ。
一度自分にウソをついてしまうと、いくら自分に自信を持とうとしても、最後には思いとどまってしまう。そんな美咲だったが、黒沢課長を目の前にした時、自分が解放されていくのを感じた。
「気持ちいい」
思わず、そう言ってしまいそうになる自分を抑えていた。
何が気持ちいいのか分からないが、高校時代に一線を越えられなかった自分を思い出していた。
――もう一度、やり直そうというの? あれから何年経っていると思うの?
もちろん、自問自答である。
それに対して自分は答えてくれない。ただ、今の自分の中に、もう一人、自分がいるのを感じたのだ。
――そういえば、あの時も、もう一人の自分を感じたんだっけ――
高校時代の一線を越えようとしていた時、もう一人の自分を感じていた。しかし、それを認めるということは、自分の行動を正当化しようとする言い訳にしか過ぎないということになるからだ。
課長は目配せをしてくる。相手は完全に大人の男性。自分は二十代後半の独身OL、
課長は独身なので、別に恋愛をしても問題はないのだが、このままいけば遠距離恋愛になってしまう。
美咲はそんな打算的な考えが頭をよぎったことを恥じた。かといって、このまま本能に身を任せるというのも、自分の気持ちが許さない。
――誰か、背中を押してくれれば――
と思った瞬間だった。
「どん」
後ろから、誰かが美咲の背中を押した。
「誰?」
思わず後ろを見返したが、そこにいたのは一人の女性だった。その唇は淫靡に歪み、ルージュが真っ赤に濡れていた。
――真っ赤なルージュが光っているのが、こんなに淫靡に感じるなんて――
そう思って、今度は課長の顔を見ると、さっきまでの課長の顔とは明らかに違っている。その表情は、待っていた人が現れて、安堵な表情を浮かべているように見えたのだ。
「やっと来てくれたね」
課長の唇が動き、何かを喋ったようなのだが、声にはなっていなかった。
しかし、美咲にはその唇の動きから、待ち人が来てくれた安堵感を表現したのだということに気が付いていた。
「課長」
声を掛けたが、課長には聞こえていないようだ。
そして、その視線は美咲に向けられたものではなかった。さっきまでずっと見つめてくれていた視線が違う人に向けられているのを感じると、美咲は不安に襲われてしまい、震えだしている自分に気がついた。
――一体、どうしたんだろう?
自分が自分ではないような気がしていたが、今度は課長が口を開いた。そして、さっきと違いハッキリとその声が聞こえてきた。
「大丈夫かい? そんなに震えて、何を怖がっているんだい?」
美咲の後ろにいる女性も震えているというのだろうか。
課長が見ているのは違う人だと思った美咲だったが、果たして本当に自分ではないのだろうかという疑問もあった。その場所にいるのは自分と課長だけで他に誰もいないのは明らかだった。課長が美咲を直視せず、そばにいる誰かを見つめていると思っているだけで、そこに本当の信憑性は存在するというのだろうか?
いつも自分のことを信用しようと心掛けている美咲だったが、普段から本当に自分を信用していたのか、疑問だったように思う。
自分のことが信じられないから、
「信じよう」
と思うのであって、そうでなければ、もっと自然に振舞っていてしかるべきなのではないだろうか。美咲は、
「信じるなら、まず自分」
とそう思っていただけなのではないだろうかと感じていた。
美咲はその日、黒崎課長に抱かれた。快感は本物だったし、自分から望んでのことだったはずなのに、美咲には大いなる後悔が襲った。自己嫌悪に襲われ、自分にとってその日が何だったのか、まったく理解できないでいた。そのせいで美咲はその日のことを忘れようと必死になっていた。
――忘れることなんかできないはずなのに――
と思っていたのも事実なのだが、そんな時の方が意外と忘れられるのかも知れない。
美咲がこの日のことを思い出すには、自分の中に設けたキーワードを設けていた。もちろん、キーワードを設けたことも忘れてしまっていたが、実際には記憶の奥に封印しているだけなので、キーワードが導き出す記憶が美咲にとって何を意味するのか、その時は知る由もなかった。
美咲は普段歩いたことのない道を歩いていた。その日は仕事にも集中できず、ずっと頭痛がしていた。定期的にズキズキ痛んだが、それ以外の時も、ムズムズするような痛みが頭を刺激していた。
そんな時、思考はほぼ停止している。仕事をしていても上の空で、気が付けばいつも頭を押さえていたので、無意識にしている時も、絶えず頭を押さえていたのかも知れない。
会社の人から見れば、生理痛ではないかと思ったことだろう。眉間にしわが寄っていたはずなので、下手に話しかけるとイライラをぶつけられそうで、静観しているしかなかったに違いない。それでも仕事は無難にこなしていたので、声を掛けるまでもなかった。気が付けば終業時間が近づいていて、
――あっという間だったわ――
と感じた。
生理痛の時は、意外と時間が過ぎてくれずに、座っているだけで苦しいという思いがあったが、その日は終業時間を感じると、それまでの頭痛が次第に引いてくるのを感じた。頭の感覚がマヒしてきたと言えばいいのか、美咲にとってはありがたかった。幸いにしてその時は急を要するような仕事もなかったので、普通に定時に退社することができた。
普段歩いたことのない道を歩いているのは、自分の意志からであった。頭痛がひいてきたと言っても、まだまだ頭が重たいと感じるのは無理もないことだった。風も適度に吹いていて、気分転換にはちょうどよかった。しかも歩いているうちに頭の重たさも次第に楽になり、やっと頭痛から解放された自分を感じると、軽くなった身体に吹いてくる風の心地よさが感じられた。
住宅街の路地を横に入ると、そこに一軒のバーを見つけた。
「バー『クイックル』」
それが店の名前だった。
「こんなところにバーがあるなんて」
紫色の看板は、怪しさを感じさせたが、その時の美咲には新鮮に感じられた。中に入ってみると、カウンターだけの席に二人の男性が座っていて、何やら激論を交わしているように思えた。
しかし、会話の内容はさることながら、白熱している会話のわりには、当の二人が落ち着いているのを見て、
――何に白熱を感じたのかしら?
と思うほどだった。
美咲は、少し立ちすくんでいたが、二人は美咲に気づかない。美咲にとって結構な時間だったような気がしたが、あっという間のことだったのだろう。二人が同時に振り向いて、一瞬驚きのような表情を見せたが、美咲が後ろにいたのを最初から分かっていたのではないかと思えるほどだった。
会話をしているうちに、美咲は二人に引き込まれてくるのを感じた。初対面である美咲の秘密を言い当てたりするものだから、美咲にはまるで神様ではないかと思えるほどの二人だったのだ。
話をしているうちに、
「話は戻るんだが、お前が夢に見たその山岸亜衣という女性なんだが、さっきの話ではお前が想像した淫靡なことをすべて分かっているようだったって言ったっけど、潜在意識の中にあっただけじゃないのか?」
――山岸亜衣?
美咲にはその名前に聞き覚えがあった。
――いつのことだったのか、私にはその名前に聞き覚えがある。確か、忘れてしまいたいって思った気がするわ。それもかなり前のこと――
美咲は頭の中の記憶を呼び起こそうとすると、山岸亜衣という女性はすでにこの世にはいないという結論しか出てこない。そして、そのことに自分が関係しているということも意識としてはある。だが、それがどうしてなのかまでは思い出せないでいた。
――私が何か悪いことをしたというの?
美咲は自分が悪いことをしたという意識しか残っていなかった。そこまで意識しているのなら、その先を知ってもいいはずではないか。自分の想定していること以上の事実がそこに含まれていて、無意識に記憶を封印してしまったのではないだろうか?
さっき、この二人の男性とも話をしたように、記憶の欠落というのは自分だけではなく、誰にでもあることだということも理解していた。最初こそ、
――自分だけだ――
と思っていたはずなのに、いつ頃からか、自分以外の人もたくさんの人が記憶の欠落を感じている。そして、そのことを誰にも言えずにいるのだ。
「亜衣という女性は、俺の言いなりだったんだ。俺が命令することは何でもしてくれる。思い出しただけでも身体が反応してしまう。そんなことってお前にはないか?」
と、久志は落合に聞いた。
「俺にはそんなことはないけど、それは、お前が心に望んだことを相手がしてくれるということなのか? それともお前が口に出して命令していることなのか?」
「俺は口に出しているという意識はない。思っていることを相手が察してくれて、俺を悦ばせてくれるんだ」
「それでは言いなりというのとは少し違うな。たぶん、お前の場合は表から見れば、相手の女に言いなり状態なのはお前の方なんだよ。実際に口に出して命令しているのであれば、相手はお前の言いなりだけどな」
「なるほど、俺はSMの?だというわけか。全然意識していなかった。俺はその時間、ずっとSだと思っていたからな」
「そうなんだよ。男と女の立場なんていうのは、紙一重なんじゃないかな? お前がまったく意識していなかったというだけで、お前はその女の掌の上で踊らされていたと言ってもいいかも知れないな」
久志は認めたくはなかったが、認めざるおえない自分に苦々しい思いを感じていた。
「だから夢なんじゃないかな? 夢というのは潜在意識が見せるものだという思いが強いと、どうしても都合のいいように見るのが夢だと思ってしまう。でも、考えてみれば、夢の内容を覚えていなかったり、いい夢悪い夢に限らず、ちょうどのところで目が覚めるという思いを何度もしたことがあったけど、それもどこまで都合がいいのか考えさせられてしまうよな」
「お前の夢の中に出てきた亜衣という女性、本当はお前の意識の中に最初からあったんじゃないか?」
落合がそういうと、
「そうでもないんだ。俺には山岸亜衣という名前にまったく憶えがないんだ。どうして急にその名前が出てきたのか分からない」
美咲は、亜衣がいつ自分と関わったのかを思い出そうとした。すると、ごく最近も亜衣という名前を思い出さなければいけないという思いに駆られたのを思い出した。その時には、
――亜衣という女性の正体を、今は思い出してはいけない――
と思い、封印した。
しかし、ここで再度その名前を思い出させることになるのであれば、それはまた違った意味で、美咲にとって、
「これでもか」
と言われているようで、これ以上、スルーすることはできないだろう。
美咲が最近その名前を聞いた時、一瞬ショックを感じた。
――どうして今女性の名前が出てくるの?
と感じたからだ。
それは、亜衣という名前というよりも、女性の名前が出てきたことが問題だった。なぜなら、その名前を発したのが黒沢課長で、課長は自分の腕の中に一糸纏わぬ状態の美咲を抱いていたからである。
快感に酔いしれながら、高まってくる気持ちを抑えようとしたのか、相手の女の名前を口走るということは大いにあることだ。それくらいのことは美咲にも分かっていた。
それが自分の名前なら、冥利に尽きるというものだが、こともあろうに口走った名前は他の女性の名前だった。
怒りというよりも、信じられないという思いが強かった。だが、課長の顔を見ると、酔いしれたまま我に返ることはなかった。
――それほど私と亜衣という女は同じなの?
と比較されたこと、そして相手と同じであることにショックが強かった。目の前にいて実際に抱かれている自分の方が有利なはずなのに、負けてしまっているような感覚におそわれたのは不思議だった。
しかし、それも分からなくもない。目の前にいる自分が変動的だ。今が最高潮であれば、それ以上はない。あるのはそれ以下だけだ。最高潮の状態で他の女を想像しているのだ。想像している女に変化はない。それ以上でもそれ以下でもない。つまりそれ以下に美咲がなった時点で「負け」なのである。これほどプレッシャーのかかる経験は初めてだった。
亜衣という名前が山岸亜衣に結びつくまでには少し時間が掛かった。
課長の愛撫に身を任せているうちに、次第に意識が薄れてきた美咲は、自分の中の最高潮が近づいているのを感じた。
「もうだめ」
と思った瞬間、大きく息を吸い込んだ美咲は、そこに鉄分を含んだ嫌な臭いを感じた。
――何、この臭い――
目の前のコンクリートがどす黒く濡れていた。
どんどん溢れてくるドロドロしたどす黒い液体、その先には一人の女性が倒れている。その向こうで、車がガードレールに激突して煙を上げているのが見えた。美咲は自分が小学生だという自覚があったが、目の前で繰り広げられているのが交通事故であることは一目瞭然だった。
――一体、どうしたの?
最初は状況が掴めず、ただ佇んでいるだけだったが、冷静に考えると、目の前に一人の女の子が倒れているのは、車に轢かれたからだった。そしてガードレールにぶつかっているのは、子供を轢いて車、避けたつもりで、そのままガードレールにぶつかったのだろう。それを見ただけでかなりのスピードだったことが見て取れる。
――死んじゃったのかしら?
と恐る恐る見てみると、微妙に動いていた。
「ううう……」
蚊の鳴くような声だったが、腹の奥まで響いてきそうなその声に恐怖以外の何も感じることができなかった。
本当であれば、
「大丈夫」
と声を掛けるべきなのだろうが、美咲はすぐにその場から逃げ出すことを考えた。
――一時だととも、この場にいたくない――
という思いがあるのに、足が竦んで動かない。それでも身体は逃げの態勢に入っているのだが、顔だけは、彼女の頭を見ていてそこから離れない。
すると彼女は顔を挙げた。その顔は血まみれになっていて、まさに断末魔だった。まるでお化け屋敷の幽霊のようなその雰囲気は、お化け屋敷の非ではない、何しろ本物の断末魔なのだからである。
「た・す・け・て」
声にならない声でそう叫んでいるのが、唇の動きから見て取れた。
すでに逃げの態勢に入っている美咲に、いまさらそんな表情をされても、どうしようもない。最後の力を振り絞って、
「断末魔の叫び」
を演じた彼女は力尽き、またしても顔からコンクリートに落ちていった。
美咲は金縛りから解放されたかのように、一目散で逃げ出した。
一体どこをどう通ったのだろう? 気が付けば家に帰っていた。服についているはずのない血が滲んでいるようで、すぐに部屋着に着替えると、洗濯機に着ていたものを放り込む。そのままシャワーを浴びたのだが、美咲は課長とホテルに入り、最初に浴びたシャワーの時間に、この時の恐怖に満ちた時間を思い出した。そして、恐怖が屈辱に変わった時、美咲は課長に抱かれることを抱かれている間に後悔するのではないかと感じた。
最初は抱かれること自体に後悔すると思ったが、課長の口から出てきた、
「亜衣」
という名前を聞いた時、
――このことだったのか?
と、自分が後悔することをどうして感じたのか、思い知った気がした。
亜衣という名前をすぐには思い出せなかったのは、思い出してしまうと、あの時の断末魔の表情や逃げ出してしまったという罪悪感にまたしても苛まれると分かったからだ。
子供の頃に、美咲が亜衣を見殺しにしたことは誰も知らない。しかし、
「もうちょっと発見が早ければ、死なずに済んだのに」
と、何も知らない他の人の噂を聞いてしまったことで、亜衣の中で永遠のトラウマになった。
――何も私に聞こえるように言わなくてもいいのに――
と、余計なことをいう大人が嫌いになったのは、その時が最初だった。
美咲の中の記憶が欠落している部分というのは、きっと亜衣のことではないだろうか?
亜衣とは別に親友だったというわけではないが、一時期だけ親密になったことがあった。その時の亜衣は、
「私、生まれ変わったらどんな人間になるかって、いつも考えているのよ」
と言っていた。
小学生の女の子が、そんなことを考えていたことが意外だったということも気になったが、
「どうして生まれ変わったらまた人間になれると思うの?」
ということの方が気になった。
「どうしてって、人間に生まれてきたら、その前世は人間で、また生まれ変われるとすれば、今度はまた人間なんじゃないかしら?」
美咲には、亜衣が単純にしか考えていないようにしか思えてならなかった。もっとも小学生の頃の発想で、生まれ変わりを考えるなどということの方が大それたことであり、子供らしくないと言われても仕方がないような気がした。
「今から生まれ変わりに思いを馳せていたら、本当に死んじゃうかも知れないじゃない」
と美咲がいうと、
「そうね。でも、私は生まれ変わった自分を想像できない方が、死を迎えるのが早い気がするの。生まれ変わった自分を今のうちから感じておかないと、大人になればなるほど、そんな思いはなくなってくると思うのよ」
「だからどうして、生まれ変わった自分を想像する必要があるの? 今という時間を大切にすればそれでいいんじゃないの?」
「じゃあ、美咲ちゃんは今という時間を大切にできていると思う? 漠然と生きているだけだったりしない?」
「そんなことはないわ。将来の夢とか考えたりするもん」
どこまで将来の夢を考えていたのかは子供の頃の記憶なので覚えていないが、ただ、その時は半分、売り言葉に買い言葉だったような気がする。
「将来の夢を考えるのも、生まれ変わった自分を想像してみるのも、どこに違いがあるというのかしら? どっちにしても将来のことだと思うんだけど」
屁理屈だと思ってみても、確かに亜衣のいう通りだった。
さすがにこれ以上話していては自分が不利だと思った美咲は、他に話題を振った。亜衣の方も相手に後ろを見せてしまった美咲に追い打ちをかけるかと思ったが、それ以上この話に言及することはなかった。そして、二度と亜衣とは生まれ変わりの話をすることはなかったのだ。
美咲が亜衣とのことを記憶の奥に封印してしまったのは、事故を目の前で見て、美咲を見殺しにしてしまったというよりも。二度と生まれ変わりの話をできなくなってしまったことへの後悔があったからかも知れない。
――もっと深く話をしてみたかった――
美咲は、亜衣とはどこまで行っても意見が合うとは思っていない。しかし、激論を戦わせることで見えてくるものがあったはずだと思っている。
最近になって美咲は、
――自分の中にもう一人いる――
という意識が強くなっていた。
それは鏡を見た時に感じることで、左右対称の鏡の世界の向こう側は、こちらの世界を忠実に映し出しているはずだった。しかし、ある時から、鏡の向こうに誰かがいるような気がしてくると、鏡を見つめている時だけ、後ろから熱い視線を感じていた。
「た・す・け・て」
蚊の鳴くような、それでいて断末魔の声を感じるのだが、金縛りに遭ってしまった美咲はそこから逃れることができなかった。
「亜衣」
美咲は、語り掛けるが返事はない。
今の自分が、子供の頃に想像していた、
「将来の自分」
と、かなり似通っていることに美咲は満足していた。
真面目で一途な性格は、何事も一生懸命にするという子供の頃の理想の大人になれたと思っていた。
だが、二十歳になった頃から、それまでまわりから受けていた視線が、急に変わってしまったのを感じていた。
――自覚している自分の性格に対して、まわりの態度はあまりにも冷たい――
と感じるようになった。
だが、本当は冷たいのは態度ではなかった。そのことに気が付いた時、初めて鏡の中で自分を見つめる誰かに気づき、金縛りに遭ってしまうようになった。最初は鏡を見るのが怖かったが、次第にその正体を突き止めたいという衝動に駆られるようになった。
――怖いことは大嫌いなはずなのに――
ということは、美咲の中では鏡の中にいる誰かを怖いと感じているわけではないということだった。
その頃には、まだ亜衣のことは記憶に封印されたままだった。子供の頃に怖い経験をしたという意識はあっても、それが何だったのか思い出せない。まるで怖い夢を見たのだけれど、怖い夢を見たという意識はあっても、思い出せないような感覚だ。
しかし、美咲の中では怖い夢ほど覚えていた。怖い夢を見たという時は、ほとんど夢を忘れることはなかった。この気持ちと意識の矛盾を感じた時、
――鏡の中にいるのが亜衣ではないか――
と感じるようになっていた。
それからの美咲は、自分の中にある淫靡な部分を意識するようになった。すると、まわりの視線を冷たいものだとは思わなくなった。まわりの視線を浴びることを敢えて全身で感じようと思ったのだ。全身で感じることが、それまで知らなかった快感を美咲に与えてくれた。
――こんな感覚、初めて――
それからの美咲は男から声を掛けられることも多くなり、その分、男性との付き合いも増えていった。
「楽しかったわ」
二年くらい前までは、美咲は自分の中の淫靡な部分をオーラとして発散させていたことで、たくさんの経験をした。男性がどういうものなのかも知ることができた。しかし、二年くらい前から、美咲は以前の美咲に戻ってしまった。自分の中にいたはずの亜衣を感じることができなくなった。
鏡を見ても、何も感じない。それまで快感だと思っていたことを、自分の身体が拒否するようになっていた。それまで付き合っていた男性とも別れた。別れを告げても、相手は美咲に固執することはなかった。
だから課長と関係ができてしまった自分が信じられなかった。自分の中に亜衣はいないはずなのに、どうして課長は自分を気にしてくれているのか分からなかったからだ。
課長に抱かれている時、亜衣が出てくることはなかった。それなのに、二人の時間は濃厚に過ぎていく。亜衣がいた時よりも、濃厚にである。
――これが本当の自分なのかしら?
と思うと、複雑な気持ちになる美咲だった。
課長は美咲と抱き合ったあと、実にクールだった。美咲もお互いに絶頂を迎えた後、イチャイチャすることに固執しているわけではなく、気だるい気持ちでベッドの中から、課長が鏡を見ながら、まるで朝の出勤の準備を急ぐような形式的に服を着ている姿をじっと見つめていたが、鏡の向こうに誰かがいるのを感じた。
――亜衣?
いや、その人は男性で、じっと見つめている姿はどこかで見たことがある人だった。
その人物が久志であることを美咲はすぐに分かったが、久志が現れるのであれば、そこにいるのは落合ではないかと思っていた。
すると、久志に寄りそうように後ろから抱きついている女性を鏡の中に見つけた。二人は目を合わせて目配せをしている。何も言わずとも分かり合えているようだ。
久志が亜衣の夢を見たと言って、バーで話をしているところに美咲が現れたのは偶然だったのだろうか?
亜衣は美咲の前から姿を消したのは、亜衣が美咲に直接干渉できる期間が決まっていて、誰かを介さなければ、美咲に出会うことはできない。そして、その相手が黒沢課長であり、久志だった。
亜衣は直接黒沢課長の鏡の中に出てくることはできなかった。鏡の中の人物は自分の分身であり、影なのだ。つまりは同性でなければいけない。
ただ、気になるのは、鏡の中にいる人間は、死んでいなければいけないと思っていた。死んだ人間が生まれ変わるために、影になっているもう一人の自分に関わることで、もう一度人間として生まれてくることができる。そして初めて、その人の影から卒業するのだ。
美咲にとって亜衣が、課長にとって久志がそうなのかも知れない。
亜衣と久志は生まれ変われば、きっと一緒になるのではないだろうか。久志が見たのは生まれ変わった自分の夢。美咲は亜衣がもう二度と自分の前に現れないことを分かっていた。
亜衣と久志は、美咲から卒業したこの瞬間、どこかで生まれ変わっているはずだ。それは赤ん坊からの生まれ変わりではない。ずっと美咲の中で美咲と一緒に成長してきた亜衣が久志と出会うのだ。
意識や記憶は完全ではないが残っている。いや、一部が欠落した状態だと言ってもいいだろう。
「記憶の欠落?」
美咲は思わず声に出してみた。
落合も、久志も記憶が欠落していると言っていた。
ということは、二人とも生まれ変わりだったのだろうか?
美咲は自分の記憶の欠落した部分が亜衣のことだとずっと思ってきたが、違っているように思えてきた。
課長が出て行って一人残ったホテルの一室で、さっきまで課長が見ていた鏡の奥を覗いてみた。
亜衣がいたはずのその場所に誰か男性が写っているのが見えた。
そこにいたのは、冷たい笑みを浮かべている落合だったのである……。
( 完 )
鏡の中に見えるもの 森本 晃次 @kakku
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