第2話 思い込み
――人の心が読めればいいのに――
と考える人も多いかも知れないが、少なくとも同じくらいの人数の人が、
――人の心なんか読みたくない――
と思っているに違いない。
それは、自分が読んでいるのと同じように相手からも読まれているのではないかという疑心暗鬼な思いと、一度でも人の心を読んだことのある人は、きっと味をしめる形で、それ以降の人の心を読もうとする。それが相手に悟られて嫌われてしまうパターンと、何度も重ねているうちに、見たくもないものを見てしまったパターン、あるいは、勝手な思い込みから、相手のみならず、自分までもが信じられなくなり自己嫌悪に陥ってしまうパターンとあるのではないだろうか。
「俺はどれなんだろう?」
落合は、そんな思いを抱きながら最近は生活している。なるべく人の心を読まないように心がけているのに、気が付けば、相手の心を読もうとしている自分に気づく。人の心を読みたくない最大の理由は、
「後悔したくないから」
と思っているが、何が後悔に繋がるのか、具体的には分かっていない。
人の心を読み続けるということは、将来の自分の後悔に結びついてくるのだということを、落合は信じて疑わなかった。そのため、落合は人と話をしても、
「俺は人の心を読んでいるんじゃない」
と言い聞かせている。
あくまでも相手の言葉から、理論的に考えを推理しているだけだった。そのため、
「落合というやつは、どこか冷めたところがある」
と思われている。
久志も最初は同じことを感じたが、話をしてみると、そうでもなかった。久志も相手の気持ちを読もうとしているわけではないので、落合の気持ちが分かるのだろう。
「人の気持ちは読むものではなく、感じるものだ」
というのが久志の考えである。
落合のように推理するという考えとは掛け離れたところにあるように思えるが、考えようによっては同じである。人の心を読もうという気持ちは自分主導であり、人の気持ちを推理したり、感じたりしようとする人から見れば、
――相手の世界に入り込んでしまって、おこがましい考えだ――
と言えるのではないだろうか。
相手にだって、見られたくない部分もあるだろう。それがどういう部分なのかというのは、本人にしか分からない。その思いに近づけば近づくほど、相手は警戒する。
気持ちを読もうとする方は、コミュニケーションのためだと思っているので、相手が警戒する気持ちが分からない。その時点で、まわりから見ると、おこがましく感じられるのではないだろうか。分からないということはストレスに繋がり、お互いにすれ違った思いを元に戻すのは容易なことではないだろう。
そう思うと、相手の心を読むということは、すれ違いという危険が背中合わせであるということを分かっていなければならない。それでも、人の心を読もうとしている人はかなりの数いるだろう。本人にも無意識にである。人が相手の気持ちを読もうとするのは、ひょっとすると、本能からなのかも知れない。
ただ、人の心を読もうとしている人がすべて悪いというわけではない。美咲のように、過去の記憶の一部が欠落しているということを悟ることができるのだ。今回美咲の記憶が欠落していることに気づいた落合は、自分にハッとした。
――また、相手の心を読もうとしてしまったんだ――
と感じたからだ。
だが、そこで気が付いてよかった。相手にも自分にも疑心暗鬼を与えたり、お互いに信じられないような状態に陥ることがなかったからである。しかし、落合には分かっていた気がする、
――美咲には、俺が自分の心を読もうとしていたことが分かっていたんだろうな――
という思いだった。
久志はというと、落合の気持ちを読もうとしないかわりに、感じようとしている。何を感じたのか、久志は気が付けば、落合といつも一緒にいる。それが自然なことであり、自分の生活の一部でもあった。
久志は最初、落合が自分と同じ考えを持っていて、考えが噛み合っていることで、お互いに離れられないのだと思っていた。しかし、それは半分当たっていて、半分外れている。
久志と落合は、決して同じ考えを持っているわけではない。むしろ、話をすればするほど、考え方が違っている。相槌を打つ時は賛成意見を述べることもあるが、ほとんどは、久志は久志で自分の意見も付け加える。
ただ、人によっては、反対意見をいう人を受け付けない性格の人もいる。久志も落合もそんなことはない。まずは自分の意見を話して相手に分かってもらおうとする落合、そして、相手の気持ちを聞いて、自分の意見をあらためて言う久志と、お互いに噛み合っているというのはそういうところであった。
久志と落合が離れられないというのは、間違いのないことであるが、それは噛み合っているからだというわけではない。しいて言えばお互いに、
「気が付けば、すぐ隣にいる」
という関係からだろう。
まるで道端に落ちている石のように、そこにあっても不自然ではないことで、その存在すらうっすらとしか感じられない時がある。自分の影のように静かで、動かない。動かないというのは、自分から見て動かないという意味で、当然のことだが、自分から影というのは派生しているからだ。その思いを誰にも話をしたことはなかった。落合にもである。しかし、落合には分かっているような気がしていた。決して落合が同じ考えを持っているというわけではない。逆に違う考えを持っているから見えてくる部分もあるのだろう。人の心を読みたくないという考えの落合ならではのことなのだろうが、さすがに久志も落合がそこまで考えているということには気づいていないようだ。
久志は夢に見たことを、最近よく落合に話している。
「一緒に呑みに行こう」
と誘うと、
「また、何か夢でも見たか?」
と、いう返事が返ってくる。
それに対して苦笑いを浮かべながら無言でいると、落合も理解したと一礼すると、そこで夜の予定は決定する。
最初にいつも呑みにいくバーを見つけたのは久志だった。実はこの店を見るのは、久志にとって初めてではなかった。
というのも、久志が夢に見た店と同じ佇まいだったからである。しかも、その時落合からも、
「そういえば、どこかで見たことがある店だと思っている店があるんだ」
と聞かされたが、あまり意識していなかった。まったく関連性のない話だと思ったからである。
今から思えばその話をスルーしてしまったが、ひょっとすると、落合も同じように夢に見た店だったのかも知れない。
しかし、一度スルーしてしまうと、もう一度同じ話題を切り出す勇気が久志にはなかった。最初に聞いていれば別に何でもなかったような話題が、後になって聞くと、
――聞かなければよかった――
と感じるような話題になってしまわないか不安だったからだ。
この店を最初に見つけた時、久志は一人で入ってみた。バーというのは隠れ家的なところがあるので、一人で来るのが一番いいと思ったからだ。本当は、相手が落合であっても、他の誰にもこの店に連れてくるつもりはなかった。しかし、
「俺が行ってみたいバーがある」
と落合から言われて行ってみると、そこが久志が最初に見つけて、
――自分だけの隠れ家にしよう――
と思っていたところだったのだ。
落合に誘われるまま店に入ると、最初マスターは口を開きかけたが、久志の目配せで、口を噤んだ。きっと、久志が他の人を連れてきたことに対して一言言いたかったのだろうが、久志の目配せで、
――止めてよかった――
と思ったことだろう。
落合は、店に入ってカウンターの奥に腰かけたが、そこは本来なら久志の「指定席」だったのだ。
落合は久志に話しかける。
「実は俺、前からこの店のことが気になっていて、お前と一緒に来てみたかったんだ」
「何が気になったんだい?」
ひょっとすると、久志が中にいる時、店の外から久志が興味を持ってこちらを見ていたのではないかということを想像すると、ゾクゾクしたものを感じた。
「この店の佇まいは、前から知っていたと思っていた店なんだ」
それがまさか、以前にスルーしてしまった話に繋がってくるとは、久志はビックリだった。そう、
「そういえば、どこかで見たことがあると思っている店があるんだ」
と言っていたあの時である。
久志がこの店を、
――あの時、夢に見た店だと思ったことが、最初に入ってみようと感じた理由だったんだ――
というのを、その時思い出したのだ。
店を最初に見た時、夢に見た気になる店があったということは覚えていたが、まさかその店を目の前に見ることになるなど、思ってもいなかったからだ。当然、そんな店は存在するはずがないと思っていたからである。
そういえば、マスタ―と最初に話をした時、
「僕は、この店を最初に見た時、どこかで見たことがあるって思ったんですよ」
というと、マスターは
「夢で見たんでしょう?」
という答えが返ってきた。
「どうして分かったんです?」
「私も最初はそんなことないと思っていたんですが、今までにご来店いただいたお客様から同じようなお話を聞かされたことがありましてね。そう言っていただいたお客様は、結構常連さんになってくれているんですよ。逆に何も言わないお客様は、私と話をすることもなく、ほとんどが一度だけで、二度と来てはくれなかったんですよ。私はそれこそ夢ではないかと思いましたが、今ではそれならそれでいいような気がしています。バーというのは元々、隠れ家というイメージで利用していただければありがたいと思っているので、夢に見てくれたということは、それだけ印象が深かったということだと思っています」
「でも、私も今でも夢に違いないと思ってはいるんですが、一度実際に見たことを、夢で見たとして片づけなければいけない理由があるのだとすれば、それも理屈に合っているような気がするんですよ」
「自分の中で辻褄を合わせようとする理屈ですね。お客さんは、デジャブという言葉を聞いたことがありますか?」
「ええ、あります」
「デジャブというのも、以前に見たことがあるような気がするという思いを抱くことですが、それは自分の中で何かの辻褄を合わせようとする力が働いているという考えもあるようです。この場合の夢も、デジャブのように、自分の中で何かの辻褄を合わせようとしていることに繋がるんじゃないでしょうか?」
「きっと、そんな人って身近に結構いるのかも知れませんね。誰もが黙っているだけで、でも辻褄を合わせようとする自分に気づいた時、過去に感じたことがあるような何かを感じるというのもありかも知れません。理屈を逆にたどるという考えですかね」
この時は久志も饒舌だった。
その時から、久志とマスターは昵懇の中になり、久志の態度で、マスターは久志が言いたいことが分かるようになっていた。久志が落合と入ってきた時も、きっと分かったのだろう。久志も、
――マスターならきっと分かってくれる――
と思っていたに違いない。
店の名前はバー「クイックル」という。どうしてその名前にしたのか自分から聞かなかったが、マスター曰く、
「ただの思いつきですよ」
ということだった。
その時の苦笑いを見た時、
――この言葉にウソはないだろうが、マスターの心の奥に残っている何かがあるんだろうな――
と久志は感じた。
人の心を読むことをしない久志なので、それ以上は想像しなかったが、やはりバーにつける名前としては、マスターのイメージから見ても、どこか不自然だ。
――思いつきの中には、何か思い込みのようなものが潜んでいるのかも知れない――
これは久志の直感であり、すぐに抜けていった思いだった。そんな感覚は今までにも何度かあったが、それが自分の中でどういう意味を持つのか分からなかった。久志にとって思い付きは、
――思い込みを感じさせないようにするために、辻褄を合わせているようなものだ――
という考えに落ち着いているようだ。
もっとも、これもすぐに意識から外れ、記憶の奥に封印されているようだが、時々思い出すというのは忘れているわけではなく、記憶の奥の封印が解ける瞬間があるからだろう。その時に何を思い出すかは、その時でないと分からない。
大学の頃に好きになった女の子がいたが、どうしてその女の子を好きになったのかというと、彼女の方からアプローチしてきたからだ。いかにも好奇心を持っているような視線が眩しく、久志でなくともドキドキしてしまい、自分を見失ってしまうこともあるだろう。
実際に久志は自分を見失い、
――今の俺は、何をやっても成功するんだ――
と思い込んでいた。
彼女の好奇の視線を感じるようになってから、急に他の女の子から気にされるようになっていた。それまで、あまり存在感がなく、写真で中央近くにいても、誰からも気にされないような存在だったのは、自分が負のオーラをまき散らす存在だからだと思っていた。
――これって、モテキなのか?
人には思春期から少しの間、それまでまったくモテなかった人が、急にモテ始める時期があるというが、もし、それが本当のことだとすると、絶好の機会が訪れたと思えるだろう。
――このチャンスを逃してなるものか――
モテキというのは、知らずに通り過ぎてしまう人がほとんどだろう。今でこそ、モテキという言葉が一般的に言われるようになったが、昔のようにそんな言葉があることを誰も知らなかった時期は、もし急にモテ始めたとしても、それを気のせいだと思ってみたり、やっと自分の魅力に他の人が気が付いたというおめでたい考えに行き着く人もいることだろう。そう思うと、なまじモテキなどという言葉を知っていると、それをチャンスだと思い、自分にもその時期がやってくることを、ずっと待ちわびている人もいる。
久志は、モテキという言葉は知っていたが、半信半疑だった。むしろ、信じていなかったといった方がより近いかも知れない。しかし、好奇の目で自分を見つめている人が現れて、それから気が付けばまわりの人も自分に好奇の目を向けている。そんな状況に、それまで信じていなかった気持ちが揺らぐことになる。そしていったん揺らいだ気持ちは崩れるのも早いものだ。より取り見取りの状況に、
――誰を好きになればいいんだ?
とその状況に酔ってしまっていた。
本当は、最初に興味を持ってくれた女性だけを見ていればいいものを、まわりが気になって仕方がない。それまで女性と付き合ったことのなかった久志には、その状況を自分で整理することができなかったのだ。
自分を見失ってしまうと怖いもので、自分に自信を持つようになると、それまでうまく行かなかったこともうまく行くようになる。それこそ、自分の実力なのに、その実力が信じられないのだろう。まるで負け癖がついてしまったアスリートのように、どうしても、最初から負の状態からスタートしてしまうのだ。
実力を無意識にでも発揮できることは、自分の実力に伴う結果なのだから、うまく行って当然である。しかし、実力でもないことを実力のように思い込んでしまっているものは、すぐにメッキが剥げてしまって、
――なぜなんだ?
という疑問しか湧いてこない。
一時期に、有頂天になっても仕方のない状況と、自惚れからの薄っぺらい実力に裏付けられた状況が襲ってくると、普通ならパニックになってしまうだろう。
久志はそんなパニックな状況から、考えに考え抜いて、結果、内に籠る性格になってしまった。自分では考えて考え抜いているつもりなのだが、実際には同じところをグルグルと堂々巡りを繰り返しているだけの状況に錯乱させられているのだ。
しかし、久志は自分でそんな状況を分かっていたような気がする。分かってはいるが、どうしていいのか分からない。そんな生殺しのような状況は、まるで底なし沼に足を取られ、後はズルズルと引きこまれるのを待っているのを想像させる。
――底なし沼の中には何があるのだろう?
引き込まれることを前提に考える。
そこにはワニのような凶暴な動物がいて、食われてしまったり、河童のような妖怪がいて、足を引っ張っているかも知れない。河童は身体は人間に似ているので、余計に恐ろしい。相手は河童であっても、人間から沼に引き込まれている状況を想像するのは、これほど恐ろしいことはないような気がした。
しかし、そんな状況を救ってくれたのは、最初に久志に対し、好奇の目を向けていた女の子だった。沼に引き込まれている久志は、どこにも?まるものもなく、
――もうダメだ――
と思いながらも、抜けられなくなったその状況に諦めの心境でいながら、身体だけは抵抗を示していた。
――早く楽になりたい――
という気持ちが頭にはあるのに、どうして身体は抵抗を続けているのか苛立ちを覚えるくらいだった。
――どうせダメなら、あがいたって一緒なんだ。さっさと抵抗をやめて、楽になればいいのに――
と、頭の中では楽になることばかり考えている。
――そうか、このまま死んでしまうんだ――
という思いが久志の頭をよぎった。
人は死ぬと、肉体から魂が離れ、自分は魂だけの存在になる。それまでは、頭の指令を忠実に実行してきた身体が、初めて抗った。無意識に、
――身体は頭の指令に絶対だ――
と思ってきた法則が崩れたのだ。
もちろん、そんなことは初めてだった。その時、久志は身体と精神の関係について冷静に考えた。そして思い至ったのが、
――人は死ぬ時、身体と魂が分離する――
ということだった。
これは死に対しての前兆だと思うと、辻褄が合った。そう思うと、死を意識したのは、今回が初めてではないように思えてきた。辻褄合わせのための、デジャブのようではないだろうか。
最初はモテキがやってきたのだと、有頂天になった。しかし、それがあれよあれよという間に、何がどうなって、死を意識している自分がいるのだろう。負のオーラがたくさん掛け合わさって、大きな相乗効果と呼んだのか、一つの歯車がどこかで狂って、それまでいた自分の世界とは違う世界に入り込んでしまったのか、久志にはなかなか理解できなかった。
彼女が手を差し伸べてくれて何とか助かったが、今度はすっかり怯えが先に来るようになった久志には、疑心暗鬼と自己嫌悪から、彼女も俄かには信じられなかった。
そんな彼女は、変わり果ててしまった久志を見て、最初に見せたのと同じ表情をしていた。
――彼女は、今の俺を想像して、最初から見ていたんだろうか?
という憶測も現れてくる。
疑心暗鬼の自己嫌悪という最悪な状態なのに、彼女の視線を浴びている時は、安息の時間を感じることができた。
「久志さんは、今のままでいいんですよ」
と、何度も言ってくれたが、
「今のままって、どういうことなんだ?」
と、蚊の鳴くような声を出した。
それでも必死に出している声であり、自分には耳鳴りが残るほど大きな声を出しているという感覚が残っている。しかし、実際には蚊の鳴くような声であることは明らかで、ここでも自分の耳が信じられないという思いに襲われるのだった。
今のままでいいと言われると、本当に今のままでいようと思ってしまう。今の状態がいくら悪いことであるとしても、ここからどう変えればいいのか、変えてしまったことが今よりもさらに悪化した状態になれば、後悔するに決まっている。
――後悔?
いまさら後悔というのも、どうだというのだ。後悔できるくらいの方がよほどまともかも知れない。
「まともって、この場合はどういうことなんだ?」
と自分に問いただすが、返ってきた答えは、
「いかに人間らしいということだよ」
というセリフだった。
本当は、この質問を彼女にしたかたった。きっと彼女なら同じ答えを返してくれるに違いない。ただ、それも彼女が答えを返そうとする態度を取ればの話であり、その時の彼女からは、何か返事がもらえるような気がまったくしなかったのだ。
自分から返ってきた答えであるにも関わらず、人間らしいという言葉の意味が分からない。
――相手が質問してきたから、それに対して思っていることを返しただけだ――
という態度にしか思えない。
しかし、考えてみればこんな態度は久志ならではだと言える。人から質問されたり、相談されたりしたことでも、あまり深く考えることなく答えているのが自分だと思っていた。実際に相談されたりしたことはなかったが、相談された時の受け答えは自分ならそれ以外にはありえないと思っていた。そういう意味では、彼女は久志によく似たところがあるのだ。
モテキの泥沼から解放されると、久志はその時期がまるで夢だったかのように思えていた。
意識はだんだん薄れていき、記憶の奥に封印されたようだ。
――俺に女性からモテた時期なんて、今までにはなかったんだ――
それが本当のことのように真剣に感じられたから不思議だったのだ。
その時の彼女とは、それから仲が深まったということはなかった。久志はいつも一人でいたし、彼女も一人だった。相変わらず久志を好奇の目で見ていたのだが、今までの経緯から、彼女への思いはもはや芽生えることはなかった。
――この人も、一人が似合うんだ――
お互いに男女の違いこそあれ、本当に似た者同士なのかも知れない。似た者同士という意識が、彼女に好奇の目を向けさせるのかも知れない。
だが、久志が底なし沼に入り込む瞬間を助けたのは、紛れもなく彼女だったのだ。久志はそのことだけは忘れることはなかった。意識の中に持ち続け、記憶の奥に封印などさせなかった。
久志が、
――俺の記憶には欠落した部分がある――
と思うようになったのは、その頃からだった。
そのことを誰にも知られたくないとずっと思ってきて、学生時代、誰にも知られることもなくやり過ごせた。就職し、完全に環境も変わり、まわりは知らない人だらけ、やっと記憶の欠落について気が付く人などいないと思われた。
しかし、いとも簡単に落合から看過された。それもそのはず、落合は、
「人は誰でも、一生のうちに記憶を欠落させる瞬間を、何度か持っているものなんだ」
という信念を抱いていた。
――社会に出れば、学生時代に出会うことのなかったすごい人に出会うというのは、まんざらでもないんだ――
それが人の成長とともに、さらには環境の変化も伴って、今まで表に出ていなかった能力を、やっと発揮することができるようになる人が増えてくるのかも知れない。
久志はしばらくその彼女のことを忘れていた。
最初は記憶の欠落だったんだと思っていたが、記憶の奥に封印されていたと思った方が自然だった。そのため、
――途中から記憶の奥に封印されていたんだ――
と思っていたが、思い出したことが、何かの辻褄合わせであると思うようになると、今度は、
――やっぱり、記憶の欠落だったのかも?
と考えを元に戻した。
その話を落合とこの店でしたことがあった。
元々、この店に来るようになってから彼女のことを思い出すようになったのだから、この店に最初に来ていた落合に話をしてみたくなった心境は、何となく後から考えても分かる気がした。
――落合だったら、自分一人の考えに凝り固まっている部分があれば、解きほぐしてくれて、さらに新しい発見を与えてくれるかも知れない――
と感じたからだった。
また、なぜか落合も彼女のことを知っているのではないかという思いも頭をよぎった。落合と一緒にいると、想像がとどまるところを知らないように思えてならない。
ただ、それは彼女にも言えることだった。どれだけ自分が影響を受けやすいか、やっと最近自覚できるようになった。しかも、無意識にのことである。
落合に彼女のことを話すと、まるで分かっていたかのように何度も頷く落合を見ていると、
――この男は、どこまで俺に関わっているんだろう?
と思わせた。
自分の知らないところで、勝手に結び付いてくる。それは落合の意識の中にあることなのか分からない分、望む望まないにかかわらず絡みついてくる相手は、自力で払いのけることは不可能に思えた。
――ひょっとすると、お互いに共有できる何かを持っていて、三人だけの秘密の部屋が用意されていて、誰にも犯すことのできない世界がある。そしてその世界では、想像したことが目の前で繰り広げられる世界。ただし、実態のない掴もうとしても掴むことのできない世界が存在している――
という思いを抱くようになった。
そんな思いの行き着く先は決まっていた。夢の世界である。
久志が、夢の中で見た亜衣という淫靡な女性。いろいろ頭の中で想像や妄想を繰り返しているうちに、結局は元に戻ってきた。
――堂々巡り――
という一言で表されるのだろうか。迷ったうえで結局戻ってきたわけではない。そういう意味では、
――袋小路に迷い込んだ――
という発想とは明らかに違っている。
堂々巡りを繰り返すということは、それだけ人間の頭には明確な限界が存在しているということであろう。
落合は自分が思いつきで行動する人間だという意識を持っていた。久志もそのことは分かっている。
――自分にはできない――
できないことができる人は、それがいいことであれ、悪いことであれ、一定の評価を持っていた。いい悪いの評価を自分ができるなどと考えるのはおこがましい。何しろ自分にできないことができるのだから、それだけで尊敬に値すると思っていた。
もちろん、明らかに悪いこともあるだろう。法律に抵触すること、人道的に許されないと一般的に考えられることなど明らかに悪いことだと分かるが、それでも悪いことと分かっていてもしようとするのであれば、そこに何かの理由があるはずだと思う。久志は落合に対しては、
――疑ってみるよりも、まずは信じることから始めたい――
と思っている。
落合以外の人に対しては正反対だった。
まずは相手を疑ってみることから始める。どんなにもっともなことを言う人でも、人のために何かをしている人でも、その裏に何かが潜んでいるように思うからだ。
――昔は、っそんなことはなかったはずなのに。いつから変わってしまったのだろう?
記憶が欠落している部分に、何かがあったような気がする。
子供の頃には、
「まず人を信じることから始めなさい」
と学校の先生から言われて、それを忠実に守っていた。
逆らうよりも、忠実に守る方が楽である。大人のいう通りにしていれば褒められる。逆らえば怒られる。当然の摂理である。子供が抗うことをしないのは、逆らって怒られるのが怖いというよりも、怒られた後のことが怖いからではないだろうか。それを思うと、忠実に守っている方が怒られるどころか褒められる。しかも、そこにおだてが入るのだ。
必要以上なおだては、子供には嬉しい以外の何ものもない。子供の頃は、楽だという意識はないのだが、それは無意識に、
――楽だと思うのは、卑怯なことだ――
と思っていたからだろう。
大人の教えの中にも、教科書などのテキストにも、
「楽をして手に入れても、それは本当の力ではない」
と言わんばかりの教訓が含まれている。
子供の頃は、そういう教訓を素直に聞くのが本能のように思っているから、
「楽をするのは悪いことだ」
というのが、自他ともに暗黙の了解のように思うのではないだろうか。
――いつ頃から、楽をするのを覚えたのだろう?
一度身に付いたものは、なかなか抜けるものではない。特に楽をすることが悪いことではないという意識がいつからか芽生えてくることになろうなど、子供の頃に考えたこともなかったからだ。
気が付いたら、
「楽をして手に入れても、それは本当の力ではない」
という言葉が矛盾していたのだ。
それ以上に、楽をすることに対して別の考えが植え付けられるようになっていたからなのだが、それに気が付いたのが、受験勉強をしている時だった。
元々、勉強すること自体は嫌いではなかった。小学生の頃はテストも好きで、成績が上がることが楽しみだった。テストの点が上がること、全体的な順位が上がること、どちらも嬉しかった。本当は人との競争など嫌いだったはずなのに、テストに関しては、人より上に行くことが無類の喜びとなっていた。
小学生の頃は、テストの結果を楽しみに、勉強することも楽しかった。自分の実力を一番鮮明に表しているのがテストである。
テストはウソをつかない。おだても言わない。出てきた結果がすべてなのだ。これほどハッキリしていて、やりがいのあることはない。小学生の高学年の頃の久志は、勉強が三度の飯よりも好きになっていた。
そんな久志をまわりの子供は冷めた目で見ていたことだろう。きっと、
「わざとらしく勉強ばかりして、そんなに大人に褒めてもらいたいのか?」
と思っている連中、さらには、
「順位の低い連中を目下しているような目が気に入らない」
と陰口を叩かれていたが、それでもよかった。
「大人に褒められて何が悪い。結果がすべてだ。そして、同じように勉強する機会が与えられていて、同じように平等にテストを受けているんだから、順位が低い連中を見下して何が悪いというんだ」
と言いたかった。
理屈は、至極もっともである。力説すれば、相手の言い分は言い訳にしかならないだろう。
しかし久志はそんな言い合いをする気はなかった。低俗ななじり合いでしかないではないか。それを思うと、勘定をなるべく表に出さないようにして、クールに振舞うことが一番いいと思うようになっていた。
――これが子供の頃に考えていた自分の信念の発展形なのだろうか?
久志は、自問自答を繰り返したが、答えは出てこない。
確かにまわりに、自分が考えていることを悟られないようにしてきたので、久志が何を考えているか、まわりの人に分かる人はいないだろう。それが自分の望んだことでもあったはずなのに、どこか物足りなさを感じた。
次第に自分の考えが、内に籠ってきていることに気が付いた。その最初は、矛盾からだった。
――楽をする――
ということに対しての矛盾。受験勉強から感じたものだった。
高校受験の時に、鮮明に感じた。予備校に通うようになって一番感じたのだ。
予備校では、いかに労力を掛けずに暗記したり、簡単に回答を出せる公式を教えてくれたりした。
「たくさんのことをしなければいけないので、いかに効率よく勉強できるかが、合格の秘訣なんだ」
というのが先生の理屈だった。
確かに、その言葉に重みは感じられたし、当然のことを話しているのだろうと思った。もちろん、間違ったことを言っているわけではないし、至極当然のことである。
しかし、それは生徒全員に共通した意見であり、個別に対応しての意見ではない。マンツーマンではないので、個別な対応まではできないのだろうが、楽をすることをせずに、地道にゴールを目指すという考えを子供の頃に叩きこまれた久志には、矛盾でしかなかった。
元々の考えを叩きこんだのは、大人だった。今度は同じ大人が、少しでも楽をすることを奨励している。これを矛盾と言わずして何というのだ?
大人になってみれば、
「世の中、矛盾だらけだ」
ということが分かってくる。
それは自分が経験したことから学ぶことなのだが、中学生の子供に、そんな理屈が分かるはずはない。
いや、最初に感じる矛盾が、これからどんどん感じることになる矛盾の第一歩だと思えば、一つの試練として受け入れられるのだろうが、初めて感じた子供に分かるはずなどないだろう。
ちょうど、その頃というのは、いわゆる思春期でもある。精神的にも転換期になっているのだろうが、肉体的にも大きな転換期である。思春期というのは、精神的にも肉体的にも、
――大人になる――
という一つの段階なのだろうが、思春期以外にも大人になるための段階があるとすればそれがいつだったのか、久志は思いを抱くこともあった。
本人の意識としては、そんな段階が存在したという記憶はないのだ。
――これが欠落している記憶なんだろうか?
もし、そうだとすれば、それは実に肝心なところが欠落しているように思う。しかし、実際には本当に肝心なところなのだろうか? 自分の記憶の欠落している部分は一か所ではないと感じるようになったのも、その疑問があったからだ。
落合と知り合ったことも、その疑問を確信に変えた。
「人は誰でも、一生のうちに記憶を欠落させる瞬間を、何度か持っているものなんだ」
という思いがあったからだ。
だが、その思いを抱いたのと同時に、自分の記憶が欠落しているということを感じるようになったのが本当はいつだったのか、ハッキリとしない。中学時代だったような気もするし、中学時代に感じたというのは錯覚で、本当は大人になってからだと思うこともあった。その理由は、
――すべてが後になって考えるからだ――
という考えに基づいているのだった。
久志は、
――自分に思い込みが結構ある――
と思うようになってから、落合と知り合い、落合が、思い込みよりも、思い付きで行動するタイプだと分かると、
――ある程度、自分とは正反対の考えを持った人なんだ――
と思うようになった。
そう感じるようになってから、考えれば考えるほど、落合と自分とは正反対であるという思いが確信に変わってくる。落合もきっと同じことを思っているに違いないと感じているが、別に考えがすれ違ってるわけではない。
――うまく歯車が噛み合っている状態――
お互いに、そう思っているに違いないと、久志は感じていた。
だが最近は、
――思い込みと、思い付きというのは、正反対のものなのだろうか?
という疑問を感じるようになった。
思い込みの激しい人は、思い付きで行動することがないように思う。自分の信念を持っていて、それにともなって行動しているのだから、そこに思い付きが入り込む余地はないだろう。
逆に思い付きで行動する人は、猪突猛進に見えるが、元々自分の中に確固たる信念が存在しているのか疑問である。思い付きで行動する人には迷いはない。迷ってしまい、少しでも後ろを振り向くと、前を向くことが怖くなるからだ。
思い込みと思い付きの関係を、長所と短所の考え方になぞらえればどうであろうか?
長所と短所は、誰にでもあり、一人の人間の中で、一緒に表に出てくることはないことから、あいまみえることはないように思うが、よく言われることとして、
「長所と短所は紙一重」
であったり、
「長所と短所は背中合わせ」
だと言われるものだ。
それはまるで鏡に写った自分を見ているようではないか。動きはまったく正反対なのだが、同じ動きをしている。鏡の中の世界がまったくの別世界だという意識を持つことで、あいまみえることはないが、まったく別物だと言えなくないように思える。
鏡の中の自分、長所と短所、同じように、思い込みと思い付きも、
「切っても切り離せない関係」
と言えるのではないだろうか。
同じような関係は、今までにも久志は他の人であったことがあるような気がした。その時、自分以外の人が表に出ていて、自分は陰に隠れている。これは、同じ身体の中で繰り広げられていることではなく、れっきとした二人の人間でのことである。そのことで、影に隠れてしまっている時の自分の存在を意識させないようにしている何かが存在しているのだとすれば、その時に記憶が欠落していると考えると、辻褄も合っているのではないかと久志は考えるのだった。
突飛な考えだというのは分かっている。
しかし、発想が弾ける時というのは、突飛な発想だとして蓋をしてしまうと、二度と同じ発想を抱くことができなくなる。それは無意識に自分で自分を封印してしまうことになるからだ。
記憶が欠落しているという意味で、美咲が面白い話をしたではないか。
「私は、自分の欠落している部分の記憶に、他の人の記憶が入り込んでいるような気がして仕方がないんです。それは映し出しているだけで、リンクしていると言える発想ですね」
こんな発想は、久志の中にはなかったことだ。落合には似たような発想はあったが、そこまではしたことがなかった。結構近いところまで発想が行っていたのだが、ここからが遠い。
「近くて遠い」
それは、実際の距離だけではない。発想というのも、
「あと一歩発想できていれば」
ということが往々にしてあるもので、その一歩がどれほど遠いかを分かっている人も稀にいるかも知れないが、ほとんどの人は、その距離さえ考えることをしようとしないだろう。
久志にはなかったが、落合の中で、
――自分の記憶の中に、どうしても他人事としてしか感じることのできない部分がある――
と思っていた。
この発想は、言葉の使い方一つで、いろいろな解釈を相手に与えることになるだろう。
「俺は、時々、自分の中で何を考えていたのか分からなくなることがあるんだ」
という言葉を使って、久志に話をしたことがあった。
久志はそれを聞くと、
「それは、意識が朦朧としているから、分からなかったということなのかい?」
「そういうことではないんだが、どちらかというと、意識が飛んでいたというべきだろうか」
「俺には、その感覚が分からないんだ。俺もたまに、気が付けば全然知らないところにいたような気がすることがあるんだけど、そんな時は意識が朦朧としていて、夢を見ていたような感覚になるんだ。普通の夢ではなく、深いところで見ている夢なんだって思っているんだけどね」
久志の話を聞いて、落合は少し怖くなった。
――気を付けないと、夢の世界に入り込んで抜けられなくなるのでは?
と感じたが、そのことを久志に言おうかどうしようか迷っていた。
下手に話して、怖がらせるだけでは、却って久志を追い込むことになるのではないかと思ったからだ。
「医者に診てもらったこともあったんだけど、その時は、あまり深く考えないようにした方がいいって言われて、精神安定剤のようなものをもらって飲んでいると、それからは、意識が朦朧とすることも、深い夢に入り込んでしまったという感覚もなくなったんだ」
久志は、落合の危惧を察知していたようだ。
落合は、安堵で胸を撫で下ろしたが、久志が再度口を開いた。
「意識が朦朧としているわけではなければ、何か余計なことを考えてしまって、自分の頭の中で整理することができなくなったからなのかな?」
久志は、落合という男が、見た目よりも、一つのことに集中すると、まわりのことが見えなくなるほどの性格であることを知っていた。一途な性格とも言えるのだが、融通の利かない性格だとも言える。久志には落合の性格が難しいものであることを感じていた。
久志は、そんな一途な落合の性格が好きだった。
外面は品行方正で、まわりに気も遣う融通の利く男に見えるのだが、実際には一人でいることが好きで、一つのことに集中したり、コツコツ一人で仕事をこなすタイプだった。
最初は彼の品行方正さから、会社では営業部へ彼を配属させたが、なかなか成績が伸びず、せっかくの品行方正さが損なわれたのを見て、上層部は当てが外れたとガッカリしていたようだが、営業部内での資料作成に関しては、結構長けたところがあった。
それを見た上司が、
「落合君は、営業部というよりも、企画部か宣伝部の方がいいかも知れませんね」
と人事に推挙したことから、研修期間が終わってからの再配属で、今の企画部への転属になった。
最初から企画部にいた久志としては、後から来た落合を、最初は疎ましく思っていたのも事実だった。
見た目が品行方正なので、どうしても内に籠る久志は、一線を画して見てしまう。しかし、実際に付き合ってみると、
――なるほど、彼が営業部からこちらに転属になった理由も分かる気がするな――
久志は、人と接しながら相手を見ることはあまり得意ではなかったが、遠くから人を観察し、その人の性格を思い図ることには長けていた。冷静な目で見ることができるからだろう。
落合の性格を見抜いた久志は、だからといって、上から目線になることは決してなかった。どちらかというと落合の方が話も上手だし、話題性もあった。落合と付き合っていくことに久志は何ら抵抗を感じることはなかった。
品行方正に見える落合のまわりには、人が集まってきていたが、実際に気持ちを通じ合わせる相手というのは、一人もいなかった。
しいて言えば、久志だけであろう。久志は落合と話をするのが好きだった。話題も学生時代からしてみたかった話題が多く、時間を感じずに話すことができる数少ない人だろうと思った。
久志も落合も、自分の中の記憶が欠落していることを自覚していた。少なくとも久志は、そんなおかしな意識を持っているのは自分だけだろうと思っていたが、落合も同じことを感じているということが分かると、少し気が楽になった。
記憶が欠落していることを最初に指摘したのは落合の方からだった。そして、それを踏まえて、
「君もなんだろう?」
と、分かっていたかのようにしたり顔を見せながら、久志に問いかけた。
久志は、その表情に唖然としながら、
「ああ、そうなんだが、よく分かったね」
「俺も同じ気持ちでいるからね。君を見ていると、同じように記憶の欠落を感じているように見えたんだ」
というと、会話が少し続いた後、今度は久志が考えを話す番だった。
「さっき、落合君からその話を聞いて、俺はハッとしたんだ。俺だけではなかったんだってね。そこで今度はさらに考えたんだけど、ひょっとすると、俺たちのように、記憶の欠落している人って、結構いるんじゃないかな?」
それを聞いた落合は、目からウロコが落ちたかのように一瞬唖然としたが、次の瞬間、嬉しそうになると、堰を切ったかのように話し始めた。
「なるほど、なるほど。確かにそうだね。そう考えると、他にもいろいろな発想が思い浮かんでこないかい? 例えば、他の人も同じように記憶の欠落に関係があるとすれば、大きく三つに分けられると思うんだ」
「どういうことだい?」
「一つは、記憶が欠落していると思っていて、本当に欠落している人。二つ目は、記憶が欠落していると思っているけど、本当は記憶は欠落していない人、そして、三つ目は、記憶の欠落を意識することなく、記憶が欠落している人。もちろん、記憶の欠落とはまったく無縁な人もいるんだろうけどね。その人の割合がどれほどか分からないけど、俺はそれほどいないって思うんだ」
「理論的に考えればそうだね。ということは、俺たち二人は、一つ目か二つ目のどちらかだということになるね。俺はどっちなんだろう?」
久志がそういうと、
「俺は、今はずっと一つ目だと思っていたんだけど、こうやって話をしていると二つ目じゃないかって思うようになってきた」
「どういうことなんだい?」
「確かに記憶が欠落しているような意識はあるんだけど、でも、どこが欠落しているかって分からないんだ。記憶の中で辻褄の合わないところを探してみるんだけど、よく分からないんだ。でも、今考えていることは、さらに進んだ、いや、不可思議なことを考えていると言ってもいい」
「どういうことなんだい?」
「俺の欠落していると思っている記憶は、本当に俺の記憶なんだろうかって感じるんだ。何か映画やドラマで見た意識が自分の中の妄想と絡み合って、勝手な記憶として格納されてしまったんじゃないかっていうものなんだ」
「それはあるかも知れないね。実際にそれは俺にもあると思うんだ。だから、記憶が欠落しているのは自分だけではなく、他の人も結構いるんじゃないかって思ったのは、記憶の欠落を人に話せないことだと思いながらも、落合君に指摘された時、恥ずかしいという思いよりも、やっと分かってくれる人がいたんだという思いが先にあった。記憶の欠落というのは、ある意味、都合よく発想できるものではないかと思えたりもする。それが曖昧なことに辻褄を合わせようとする感覚なのかも知れないな」
久志は、自分の意見が、人に話をしながら、どんどん固まってくるのを感じた。この思いは誰にでもできるものではなく、相手が落合だからではないだろうか。落合と知り合えたことを本当によかったと感じる久志だった。
それを聞いた落合は、さらに自分の発想を話してくれた。
「久志君と話をしていると、俺はどんどん発想が豊かになる気がしているんだ。本当であれば、自分ならこんな発想絶対にしないと思っているようなことでも、久志君の話を聞いていると、打ち消そうとした思いも、本当はそうなのかも知れないと感じることができる。そういう意味で、本当の会話って素晴らしいと思うんだよ」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
「そこで、今も、少し突飛な発想が頭をよぎったんだ。俺は確かに記憶の欠落を意識しているが、本当は欠落なんかしていないって思っている。自分の中で矛盾が生じたわけだが、その解決法として、もう一つの発想が浮かんだんだ。それは、記憶が欠落しているのは本当で、記憶が繋がっているのも本当なんだ。でも、欠落したと思っている部分の記憶が果たして自分のものなのかと思うと、そこで不可思議な発想が浮かんでくる」
久志は、少し頭が混乱してくるのを感じた。
「ということは、君は自分の記憶の中に他人の記憶が含まれているということかい?」
「ああ、そうなんだ。最初はそれを自分の前世で起こったことの記憶だったり、幼少の頃の、本当なら覚えていないはずの記憶だったりが、欠落した部分に埋め込まれたんじゃないかって思ったんだけど、それだと、記憶の欠落という意識はあっても、記憶が繋がっているというのは不思議な気がするんだ。何しろ時系列が合っていないことになるからね」
「確かに、時系列というのは、記憶のつながりには必要なものだよね」
「でも、実際に記憶の中で、時系列が混乱しているものがあるのも事実なんだよ。でも、それってまるで夢の世界のようじゃないか。夢の世界の出来事は、ほぼほぼ時系列に合っていないという意識が強いからね」
「ということはどういうことなんだい?」
「夢を自分の記憶の中で混同はさせられないと思うんだ。夢の世界で起こったことを記憶として残してしまうと、夢の中が重複してしまいそうな気がするんだ。夢というのは、潜在意識が見せるものだっていうだろう? 俺もそう思うんだ。つまり、潜在意識の中には記憶というものがあって、限られた記憶の中から潜在意識がもっとも気になっていることを夢として見せる。もちろん、記憶の中には意識というのも含まれている。大きな意味での記憶は、現在意識している感覚と、記憶として格納されている潜在意識とでできているんじゃないかな? だから、俺は記憶の欠落と夢というものの共存はありえないと思うんだ」
なかなか、結論を言わない落合に、久志は少し苛立ちを感じていた。
「だから?」
少し、突っぱねるような言い方になったかも知れない。
「俺は自分の欠落した部分の記憶は、俺のものではない他人のものだって思う。それは前世であるはずはない。本当に他人のものなんだ」
「それこそ、奇抜な発想なんじゃないかい?」
「そうでもないと思うんだ。その証拠に、他人との夢の共有はありえないだろう? でも、完全にありえないわけではないと思う。夢を見ている人は意識していないだけで、自分の夢に出てきた人が、同じ夢を見ていないとは限らない。でも、夢の共有はありえないと思っている以上、違う時間の他人の夢と共有しているかも知れないと思うんだ。特に俺なんか、よく学生時代の夢を見るんだけど、俺はとっくに卒業しているという意識はあるのに、まだ学生なんだ。まわりの友達は皆卒業していて、自分だけがまだ学生をしている。そんなシチュエーションを当然のごとくに感じているから、まわりの友達も社会人なのに、キャンパス内を当たり前に歩いていることが違和感であるにも関わらず、感じているのは、まだ自分だけが学生だという後ろめたさなんだ。俺は実際には留年していないので、その夢を見たのは、卒業も就職も決まったあとだったんだ。その話を夢に出てきた友達に話すと、その友達は同じ夢を一年前に見たっていうんだ。だから俺だけが卒業できないんじゃないかって思っていたらしい」
久志は、その突飛な話に、
「君はその友達の話を信じているのかい? 君の話を聞いてその場で考えたシチュエーションかも知れないよ」
と久志に言われた落合は余裕の笑顔を浮かべて、
「俺も最初はそう思ったんだけど、実は友達と話をしたその夜、その夢の続きを見たんだ。内容は、友達が話したことをそのまま言われただけなんだけど、俺にとってそれが問題ではないんだ。普通なら、夢の続きなんて見ることはできないだろう? それなのに、夢の続きを見ることができたということは、その友達の話したことが本当のことだと思えたからなんだ」
久志は、少し分からなった。
「いや、夢の続きを見るということは、それだけその夢が印象深かったからなんじゃないのかい?」
「そうじゃないんだ。俺の場合は、気になれば気になるほど、同じ夢を見ることはできなくなると思っているんだ。それだけ、夢というものが、現実世界での意識が通用しない世界だと思っているし、夢の世界には、『都合のいい』という言葉は通じないと思うんだよ」
その思いは久志にもあった。
久志の場合は、その感覚を自分の中で抑えようとしている意識が働いていることを、いまさらながらに思い知った気がした。夢の世界が自分の都合でどうにもならないのは分かっているが、夢として見るのは、気になっていることばかりだった。そういう意味では、夢の世界というのは、現実世界での本音を忠実に表現してくれているものだと感じているのだった。
二人がそんな話をしているのを知ってか知らずか、目の前に現れた女性、美咲が言うには、
「私は、自分の欠落している部分の記憶に、他の人の記憶が入り込んでいるような気がして仕方がないんです。それは映し出しているだけで、リンクしていると言える発想ですね」
ということである。
忘れていたわけではなかったはずなのに、落合も久志もその話を聞いて、ほぼ同じ瞬間に、同じことを感じたはずだ。
――この思い、ごく最近、感じた気がする――
二人とも会話の内容を記憶の奥から引っ張り出した。そんな昔のことでもないのに、二人とも、なぜか記憶の奥に封印していたのだ。
美咲は二人に訊ねた。
「お二人は前世というのを信じますか?」
二人は顔を見合わせ、再度美咲を見ると、落合が代表して聞いた。
「どういう意味ですか?」
美咲が言いたいことは二人とも分かっているつもりだったが、念のために聞いてみた。こういう場合のように、二人の意見が暗黙の了解で一致している時は、代表して落合が口を開くことになっていた。それが二人の間の以前からのルールである。
「私は信じているんですよ。子供の頃から思いは変わらないつもりだったんですが、特に最近はその思いが強くなったんじゃないかって思うんです」
「それは何かの前兆のようなものがあってのことですか?」
今度は久志が口を開いた。
前世という発想に関しては、落合も久志も同じように思っているが、比較したことがないだけど、どちらかというと、久志の方が意識としては強かった。
「前兆というか、これは子供の頃から感じていたことでもあるんすが、大人になったある時から、前世という発想が、自分の中でリアルに感じられる時が来るのではないかと思っていたんです」
「それがどういうシチュエーションなのかというのは、子供の頃は分かっていなかった?」
「ええ、もちろん。子供の頃には分かっていませんでした」
「今は分かっているんですか?」
「分かりかけてきたんだと思います。気が付けば前世を感じていたということもありますし、今自分の中で理解できないようなことでも、前世の因縁という意識を持つことで、理解が繋がることもあるんですよ」
それを聞いて、今度は落合が口を開いた。
「確かに、よく分からないことであっても、何か超常的な発想をすることで、理解できてしまうこともありますね。でも、そればかりを意識してしまうと、すべて前世の因縁で解決してしまおうとしてしまって、少し危ない気もするんですが」
「私は、あまり社交的ではなく、人と話をすることもないので、いつも一人でいるタイプなんですよ。そういう意味でも今おっしゃったような危惧は抱いているつもりなんです。一応、意識はしていますよ」
「たぶん、意識さえできていれば大丈夫なんだと思いますけど、でも今日俺たちにこの話をしたというのは、何か気になることがあったからなんですよね?」
「ええ、普段は人と話もしないので、こんなお話はおろか、普通のお話もしません。私の中では、こういうお話ができる人を待っていたのかも知れないと思うんですよ」
「じゃあ、俺たちがそういう相手だと思われたわけですね? 確かにそういうお話をするにはバーカウンターというのは、シチュエーションとしては整っているのかも知れませんね」
「私がこのお店に来るようになったのも、前世への意識が強まってからだったんですよ。普段から一人でいることに慣れていたはずなのに、前世への意識が強まってくると、急に寂しくなったり人恋しくなったりしたんです。相手が女性に限らず男性であっても、自分の話を聞いてくれるような人がいればいいなって思いながらこのお店に入ったんですが、実際には、やっぱり一人でいて、でも同じ一人でいるのでも、他の場所にいるほど寂しさや人恋しさを感じなくなったんです。ここには私の居場所があって、そう感じるだけで、暖かな気分になれたんです」
「それはいいことだと思いますよ。俺たちも最初からこんな話ばかりしていたわけではなく、集団での行動が多かったんだけど、お互いにこういう話が好きだと知ってからは、皆といるよりも、二人でこうやって話をする時間の方が増えてきたんです。今では集団でいるよりも、二人でいるか一人の時の方がいいくらいですよ」
と落合がいうと、
「そうですね、彼のいう通りです。俺もこいつと一緒にいるようになってから、普段一人になってからも寂しさや人恋しさはなくなりました。元々、あまり寂しさを感じる方ではなかったので、本当の寂しさというのはよく分からないんです」
と久志がいうと、美咲は少し不思議そうな表情になった。
「そうなんですか? 私には寂しさというものを知っている人だって思えるんですけども」
と言われ、さらに落合からも、
「俺もそう思う。久志を見ていると、時々急に寂しそうな表情になるのを感じていたんだけど、そんな表情を見ると、俺は却って安心することがあったんだ。寂しさを見せる人間ではないと、なかなか腹を割って話ができる相手ではないと俺は思っていたからね」
「それは俺も落合に感じていたことだよ。今までこんな話をしなかったなんていまさらながらに不思議な感じだ」
美咲の出現は、落合と久志の関係にも少し影響を及ぼしてくるのではないかと久志は思った。腹を割って話をしていたつもりだったが、話の内容は理屈っぽいことばかりでお互いに話題を出しても、根本的な解決にはなっていなかったように思う。
根本的な解決になっていないということは、少なからずお互いに、相手の出した話題から逃げているのではないかと思えた。話を持ち出した方としても、本当に回答を求めていたのかどうかも不思議だった。
――相手から、自分に都合のいい解釈を言ってほしい――
という思いがある。
都合のいい解釈というのは、かくいう自分が最初から持っていたものだ。
つまりは、
――俺と同じ意見を信頼している相手から言われることでホッとした気分になれる――
ということであり、
――安心したい――
という「逃げ」に走っているだけのことだったのかも知れない。
それを感じた時、急に寂しくなったりする。落合が言っていた、
「急に寂しそうな表情をすることがある」
というのは、そんな心境に陥った時のことを言っているのだろう。
――それにしても相変わらず鋭いやつだ。俺の細かいところまでしっかりとチェックしていやがる――
と久志は感じ、思わず苦笑いをした。
久志も落合に対して同じように寂しそうな表情を感じたことがあったが、きっと自分と同じような感覚なんだろう。落合が今久志が気づいたようなことを自分で分かっているのか疑問だが、落合を見ていると、少なくとも自分よりも自己分析ができているように思うので、分かっていても不思議はないと思えた。
――分かっているからこそ、敢えて、俺が急に寂しくなることがあるなんてこと、話をしたのかも知れないな――
すべてを先読みして話をしていると思える落合のことを考えると、いまさらながらに恐ろしく感じられた。何でも見透かされているような気がして、それでもそんな相手がいてくれるのは、いないよりもずっといいことだと思えたのだ。
美咲が話を続けた。
「私はお二人を見ていると、以前、どこかでお会いしたことがあるような気がしてきたんです」
「ほう、それはいつ頃のことですか?」
落合がまず興味を持った。久志も不思議な気がして興味を抱いたが、それ以前に話の内容にピンとこなかった。まだ完全に美咲の話に自分が入り込めていないと思っていた。
「いつ頃のことなのか、それもよく分からないんです。私は記憶が欠落しているとおもっているので、過去のことを思い出そうとして思い出せない時は、それはそれで仕方がないんだって思って、執拗に思い出すことはしないんです」
「そうですね。思い出したとしても、自分の中で信憑性に欠けるものを感じていると、思い出すだけ無駄なのではないかって思えてくるんでしょうね」
「その通りなんです。特に昔になればなるほど、時系列の曖昧さが深くなってくる。それが本当に自分のことなのか疑問に感じることがあるんですよ」
「それがさっきの話の中にあった、人の記憶が入り込んでいるような気がするということなんですね」
「ええ、そうなんです。でも、それだけでは納得できないこともあって、そこで感じたのが、子供の頃から意識している前世への想いだったんですよ。納得できないことを前世の因縁で片づけると、たいていのことは解決できてしまうような気がする。でもそれをしてしまうと、今度はさらに疑問が生じた時、戻ることができないところまで来てしまったことを思い知らされるような気がして、それも怖いんです」
美咲の思いは久志には通じるものがあった。
落合もある程度までは理解できたが、どこか納得のいかないものを感じていた。理屈では理解できても、自分の中にある何かが受け付けないような気がしているからだ。
まず、久志が口を開いた。
「その気持ちは分かる気がしますね。確かに僕もデジャブのように、以前にもどこかで見たことがあるような景色だと思うこともありますが、過去の記憶、しかも欠落している部分の記憶だと思えば最初は納得できるんですが、すぐに行き詰ってしまう気がしてくるんです。そんな時、前世の因縁を考えてしまうこともあった。でも、それは『禁じ手』ではないかと思って、そこで思いとどまることが多かったですね」
すると、今度は落合が口を挟んだ。
「久志は、『禁じ手』だと思って思いとどまるんだ」
その言葉が少し高圧的なところがあるのにすぐに気づいた久志は、
――まずいことを言ってしまったのか?
と思ったが、下手な言い訳は却って相手を刺激するような気がしたので、口を開くことができなかった。
ただそれが認めたことにならないということを分かってくれる数少ない相手が落合であるということも分かっているので、このまま気まずい雰囲気になることはないと確信していた。
すると、落合もそれ以上は久志に何も言わず、美咲の方へ向き直って、
「デジャブというのは、自分の意識の中の何かの辻褄を合わせるためだって俺も久志も思っているんだけど、美咲さんはどうですか?」
「私が前世を感じようとするのは、ひょっとするとその辻褄合わせの感覚ではないかって今のお話を伺って感じました。記憶というのは薄れていって当然のものなので、過去になればなるほど、記憶の中の時系列が曖昧になってくるのは当然のことですよね。私はそれも辻褄を合わせるためだって感じました」
今、美咲が言った言葉、まさしく落合と久志が共有している意識と同じであった。
――これで、美咲とも意識を共有することができるんじゃないかな?
二人は共通の思いを抱きながら、うんうんと頷いていた。
美咲は続ける。
「今まで、前世で出会ったことのある人に、そのうちに出会えるんじゃないかって思っていたんですが、それって半分間違いなんじゃないかって思ったんです」
「というのは?」
「私は、きっと自分の方が前世で出会った人を見つけるものだって思っていたんですが、今は急に、相手が私を見つけてくれるものではないかって思うようになったんです。つまり前世を意識している人間には、前世で知っている人を、最初に自分から見つけることができるわけではなく、前世への意識がない人が、『この人と以前出会ったことがある』というようなデジャブを感じた時、その人が私に話しかけてくれて、初めて私はその人を前世で出会った人だって気づくような気がしているんです」
「つまりは、前世で知っている人と出会うには、段階が必要だと?」
「そういうことですね。どうしてこんな思いになったのかというと、お二人の話を聞いていて思ったんです。私は記憶の欠落を、自分だけのものだと思って、人に話しても信じてもらえないという意識から、誰にも言わなかったんですが、お二人の話を聞いていて、記憶の欠落は一人だけの問題ではないと言われて、目からウロコが落ちたような気がしたんです。そこから急に前世の発想から段階が必要だと思ったわけではないと思うんですよ。不思議ですよね」
「それはきっと、美咲さんが自分では意識していないけど、前世で知っている人と出会うには段階が必要だって思っていたからではないかな? もちろんここまで気持ちが固定していたとは思えないけど、そんな気がします」
と落合がいうと、
「美咲さんは自分の口から出てくることや、自分の意見として意識した時には、すべての理屈をある程度まで確定させていないとできない人に思えてきました」
と、今度は久志が言った。
「あっ、それはあるかも知れません。確かに無意識にですが、中途半端な気持ちを抱いたまま、そのまま放っておくことはしたくないし、表に出すこともできないと思っていましたからね」
美咲も、二人の話に自分の意識を重ねるかのように、一つ一つ噛みしめながら話を聞いていた。
「俺は前世を信じていると思う。でも、前世が今の俺に影響を与えているという意識はないかな?」
と、久志が言った。
「俺は、前世の因縁を感じることもあるよ。それがどんな影響を与えるかというところまではハッキリとはしないけどね」
と落合は言った。
「私は、意識はしているけど、信じているというところまではどうしてもいけない気がするの。そこには大きな壁のようなものがあるんだけど、半透明な壁なので、半分は見えるような気がするんだけど、却って中途半端で信じられないって思いが強いのかも知れないわ」
美咲はそう言って、俯いてしまった。
「俺は、美咲さんのように、前世で出会った人に出会えると思っているんだけど、俺も出会うとすれば、相手が気づいてくれる時だと思っていたんだ。美咲さんとの話を総合して普通に考えると、永遠に出会えないような気がするんだけど、逆に相手の素振りを見て、どこか気になるところがあれば、挙動が変わってくるよね。それに相手が気づいてくれるかどうかという、やはり段階的なものが必要だけど、それさえクリアできれば、前世の因縁を見つけることはできるような気がするんだ」
そう言ったのは落合だった。
落合には落合の考えがあるようだが、久志は少し違っていた。
「俺は、前世の因縁というのは分からなくもないと思うけど、因縁のある人とは出会うことができないような気がするんだ。それはいわゆる『タイムパラドックス』のようなものであり、因縁のある人と出会ってしまうと、過去の因縁まで変わってしまうような気がするんだ。あくまでも漠然とした考えなんだけど、前世という発想を誰もが信じていない時点で、何か信じられないと思わせる力が働いていて、その力の存在自体が『パラドックス』の証明ではないかって思うんだ」
「なるほど、君の意見にも一理ある気がするんだけど、でもそこまで君が言うんだから、漠然としていながらも、その『見えない力』が何なのか、分かっているつもりなんだろう? 君はまったく根拠のない意見を口にできる男ではないことは分かっているつもりなんだ。一体、何だと思っているんだい?」
久志は落合に言われて、
――さすがに、鋭いところをついてくる――
と感じた。
久志は苦笑いをしながら答えた。落合もその表情を見て、納得したような顔をしたのは、久志の口から何が出てくるのか、ある程度予想できていたからなのかも知れない。
「俺は、それを夢だと思っているんだ。夢の中では予期せぬ出来事が繰り広げられているように思えるけど、実際には自分が普段から気にしていることが夢の中で出てくる。逆にいうと、夢の中で展開されているのは、普段、信じられないと思っていることや、今までの経験の中で、『どうしてこんなことになってしまったのか?』と自分で納得できないことが夢の中に出てきて、夢の中では納得しているんだと思うんだ。ただ、そんな時は夢の内容を覚えていないことが多かったり、記憶していたとしても、肝心なところが抜けていたりする。そのために、まったく違った記憶として夢を意識しているんじゃないかって思うんだ」
「じゃあ、君は夢を覚えている時というのは、その内容を信じられないというのかい?」
落合は興奮したように、噛みついてきた。
「すべてがそうだとは言わないが、信じられないと思って考える方が、辻褄が合いそうな気がするんだ」
「確かに、信じられないと思って考えれば辻褄が合っているようなことって意外とするかも知れないな」
「どういう意味だい?」
「人間というのは、何でもかんでも辻褄を合わせようとしているところがあると思うんだ。辻褄が合っている方が安心できるからじゃないのかな? ということは、それだけ物事の流れを考えることが怖いとも言える。動けば動くほど不安や危険が増しているように思えるよね。ネガティブな考えだけど、ポジティブに考えようとしている人は、不安を払拭できるからポジティブに考えられるわけではない。不安を払拭したいと思うから、ポジティブに考えるんじゃないかな?」
「それこそ、ネガティブだね」
「そうじゃないんだ。俺は逆に人間の根本はポジティブなところにあると思うんだ。それは加算法か、減算法の違いに由来すると思うんだけど、最初にポジティブなところから始まるのは、百パーセントからの減算法であり、ネガティブなところから始まるのは、ゼロからの加算法だって思うんだよね。まぁ、加算法の場合、本当にゼロからとは限らないとは思うんだけどね」
「じゃあ、君は人間は最初は百パーセントで、減算法だっていうのかい?」
「俺はそう思う。将棋にしても、最初に並べた形が百だとすれば、動かすごとに隙ができていくだろう? 戦の陣地だって同じだって思うんだ。人間というのは、無意識に百の形を知っていて、そこからどんどんと形を崩していく。それが個性であったり、成長であったりする。でもどんな表現をしようとも、結局は減算でしかないと思うんだ。だから、個性や成長には不安がつきものだろう?」
お互いに前世の話から脱線してしまっていることに気づかない。話がヒートアップしてしまうと、まわりが見えなくなるのは二人に限ったことではない。しばらくの間、美咲は蚊帳の外に追いやられてしまった。
美咲は美咲で二人の話を聞きながら、自分の考えと照らし合わせていた。そして、美咲も二人の話に口を挟んできた。
「実は私も人間はポジティブなところからの減算法だっていう考えに賛成なんです。今までぼんやりと思っていたことだったんですが、実際に他人から悟らされたように話を聞かされると、それまでのハッキリしない考えが次第に固まってきたような気がします。やはり、夢というキーワードは大きいのかも知れませんね」
「欠落した記憶が、他人と関係しているとさっき言っていましたが、それが本当の他人なのか、それとも前世の自分が関わっていることなのか、人それぞれなのかも知れないけど、俺の場合は、本当の他人が関わっているような気がするんだ。つまりは今同じ時代を生きているまったくの他人ということだね」
落合はそう言った。
すると、すかさず久志は反対意見を持っているのか、質問してきた。
「その相手というのがまったく自分の知らない相手だということだけど、その人と、今後出会う可能性はあると思うのかい?」
「出会えることはないと思う。もし出会ってしまうと、それはパラドックスに抵触しそうで、許されないことだと思うんだ」
その言葉を聞いた久志は、少し怪訝な表情になった。まるで苦虫を噛み潰したようなやりきれないと言った表情である。
「どうも、君の話を聞いていると、パラドックスということに必要以上に過敏に反応しているような気がするんだ。俺も確かにパラドックスというのを信じていないわけではないけど、そこまで雁字搦めに考える必要はないんじゃないかって思うんだ」
と久志がいうと、美咲が割って入った。
「そうでしょうか? パラドックスという発想を思い浮かべた時点で、私は雁字搦めになっても仕方がないと思うんですよ。逆に言えば、パラドックスという発想を思い浮かべるためには、雁字搦めになってしまうことを覚悟しておかないと、パラドックスを自分に当て嵌めることはできないと思うんです」
いつになく口調が攻撃的な美咲の言葉に、久志は少し圧倒された。
美咲はその表情を見て、少し我に返って、さらに言葉を続けた。
「あ、いえ、パラドックスという発想を思い浮かべること自体が雁字搦めを覚悟しないといけないという意味ではなく、パラドックスを自分に当て嵌めた時点で、雁字搦めを覚悟しないといけないという意味なんですよ」
久志にも落合にもそれは分かっているかも知れないと思っていたが、言い訳をするにはこの表現しかなかった美咲だった。
すると、それを聞いて、今度は落合が冷静に答えた。
「美咲さんの発想は確かにその通りだと思うんだけど、でもね、パラドックスという発想を思い浮かべるということは、自分と照らし合わせるということとは切っても切り離せないことだと思うんですよ。もっと言えば、自分と照らし合わせないパラドックスの発想という方が難しい気がするんです。よほど冷静になって、すべてを他人事のように思えるような人でなければ、その境地に達するのは難しいことではないかって思うんですよ」
落合の意見を聞いて、久志も黙って頷いた。
正直、久志は落合の今の話を聞くまでは、美咲のように、パラドックスの発想と、パラドックスを自分に当て嵌めることとの間には段階があるものだと思っていた。しかし、落合に言われると、
――それももっともだ――
と思わせる説得力がある。
また、段階という言葉を発想したことで、
――待てよ――
と考えた。
先ほど、前世に因縁のある人に出会うまでには段階が必要だという発想が出てきたではないか。
考え方を変えるとすれば、
――前世に因縁のあった人に出会うにも、本当に段階が必要なのだろうか?
という思いである。
段階が必要だと思うのは、あくまでも前世の因縁にしても、パラドックスの発想にしても、すべてを、
――他人事だ――
と思うからなのかも知れない。
今まで、何でも他人事のように考えていた人が、この三人の中に一人いた。それは美咲だった。
美咲は、いつも自分ではいろいろな発想をするが、それも他人事だという思いが先に立っているからこそできるというもので、本人は他人事という自覚はなく、
――私は冷静に何事も判断して、考えることができるんだ――
と思っていたのだ。
美咲はこの発想を、
――自分だけのものだ――
と思い、立派な個性だと思っていた。
確かに個性ではあるが、美咲だけのものではない。美咲は自分だけのものだと思うことで、自分の冷静さが自分の一番の長所だと思っていた。もし、自分以外にも他に同じような発想を持った人がいることを思い知ると、きっとショックで寝込んでしまうくらいに違いない。
思い込みの激しさは、もろ刃の剣のようなもので、張りつめた緊張の糸が切れてしまうと、これほど脆いものはないと言わざるおえないくらいになってしまうことだろう。
そのことを知っている人は今まで美咲のまわりにはいなかった。
いや、本当はいたのだが、そのことを美咲が知るには、まだ少し早かった。
しかし、久志や落合と知り合ったことは、十分にそのきっかけになる。実際に美咲は漠然と、自分がいつも他人事のように物事を考えていたということに気づき始めていた。本当であれば、悪いことに気づいてしまったという罪悪感があるのだろうが、久志や落合と知り合って話をしていると、罪悪感を感じることなく、自然と受け入れることができるような気がしていた。
美咲は、自分がいつも何かあると、自分が知らず知らずのうちに他人事のように考えているという意識がなかった。しいて言えば、
――冷静に物事を見ることができる――
という都合のいい解釈であったのだ。
しかし、最近ではやっと自分が他人事のように考えているということが分かってきた。なぜ分かってきたのか、すぐには理解できなかったが、どうやら夢に見たことが影響しているようだった。
夢の内容までは覚えていないが、確かに怖い夢を見たという意識があるわけではないのに、汗をぐっしょりと掻いていて、むしろ悪い夢を見た時よりも、虚しさを感じていた。それは自己嫌悪を感じて言ったからで、自分の意識の中で恥ずかしいと思うような発想だったのだろう。
ウスウス他人事のように考えているのだと分かってきた頃だったので、そのことを夢に見たのだと、それほど間を置かずに気が付いた。怖い夢なら目が覚めても印象に深く残っているのだが、恥ずかしい夢であると、忘れてしまいたいという思いが強く、印象よりも夢を見たという意識の方が強く残っている。しかも思い出したくないという思いを抱いただけで、頬に紅潮を感じてしまう。それこそ恥じらいが自分の中に芽生えた証拠に違いなかった。
考えてみれば、夢の内容を覚えていないというのはおかしな話で、ひょっとすると、夢の内容を覚えていないのは、恥ずかしい内容を見ているからなのかも知れない。
夢の内容で覚えているのは怖い夢ばかりなので、覚えていない夢、つまりは、ちょうどいいところで目を覚ましたと考えている夢をいつも、
――楽しい夢だったんだ――
と感じていたが、本当は恥ずかしい夢も混じっているのではないだろうか?
途中までは普通の夢なのだが、ちょうどのところで恥ずかしい感情が表に出て、それが夢となって現れる。一種の欲求が夢の中で現れたのだと思えば辻褄も合うというものだ。
――忘れてしまいたいことだから、目を覚ましてしまう――
こちらの発想の方が、より自然ではないだろうか。
確かに楽しい夢を見ていて、ちょうどのところで現実に引き戻されるという発想も、間違いではないだろう。だが、そのことだけに凝り固まってしまうと、本当の自分が分からなくなってしまう。夢というものが、現実とは明らかに違い、結界まで存在するのだという思い込みをしている人がいるが、自然に考えれば、
――人間の中にある欲望が素直に顔を出した。その時に理性が働いて、夢という世界を作り出すことで、隔離しようとしてしまう――
この場合の夢というのは、普段見ている夢とは一線を画すべきなのだろうが、一緒に考えてしまう方が、理性の存在を確認するという意味では必要なことだと思う。その思いを抱き始めたのは美咲であり、久志や落合は、まだそこまで考えていなかった。
久志や落合は、自分たちの発想に美咲がついてこれるのかどうか危惧していたが、ある意味では美咲の方が先見の明があると言えるのかも知れない。
美咲はその時、二人の男性が自分に大いなる影響を及ぼすであろうことを予感していた。
密接に関わっている二人であるにも関わらず、どちらか一方が美咲に大いに関わってくることも分かった気がした。
だが美咲は、その後、二度と二人が一緒のところに出くわすことはなかったのである……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます