鏡の中に見えるもの
森本 晃次
第1話 久志の夢
遠山久志は、最近あまり熟睡することができなくて悩んでいた。元々眠りが深い方ではなかったので、たまに熟睡できればそれでよかったのだが、その熟睡がほとんどできなくなっていた。
――前に熟睡できたのはいつだったんだろう?
ベッドに入り、何度も寝返りを打つ、そうしなければ寝付けないからだ。
「寝返りを打っているうちにいつの間にか眠っている」
それが久志の睡眠だった。
目が覚めると、身体に汗を掻いている時は、ある程度の深さの睡眠を得られた時だ。覚えている覚えていないを別にして、夢を見たからだと本人は思っている。覚えていない方が多い夢だが、
――自分だけではないんだろうな――
と思っていた。
怖い夢ほど覚えていたりする。そのため子供の頃は、
――僕は怖い夢しか見ることができないんだ――
と真剣に悩んだものだ。
その頃から、眠ることに少し怖さを覚えるようになった。夢を見ると怖い夢しか見ないのだったら、眠ること自体に恐怖を感じる。だから、熟睡できなくなってしまったのかも知れない。
熟睡できなくなったのは突然ではない。元々眠ることが怖いという思いがあり、それが少しずつ蓄積していった結果が、熟睡できなくなってしまったということに繋がってくるのだとすると、物事には必ず結果というものがあれば、それに繋がる原因があってしかるべきなのだという理屈に行き着く。今の自分が熟睡できない原因は分かっている。しかし分かっていても解決方法があるわけではない。真剣、体調を崩す前に、神経内科にでも行ってみようかという思いが頭をよぎったのも事実だった。
久志は数少ない覚えている夢の中で、同じ夢を見たという意識もあるし、さらに、夢の続きを見ていたという意識もあった。中学の頃にその話を友達にすると、
「そんなこと、俺達にはないぞ」
と言われて、久志一人が他の人と違うと考えを持っているというレッテルを貼られるきっかけになった。
しかし、いつも見るのが怖い夢で、怖い夢こそもう一度見てしまうという話をすると、友達の中には、
「確かにそれは分かる気がする。怖いものほど気になってしまうものだから、もう一度見てしまうという理屈も一理ある気がするな」
と言ってくれる人もいた。
ただ、それはあくまでも少数派、久志の「変わり者」というレッテルを剥がすだけの理由にはならなかった。変わり者が久志だけではないというだけのことだからである。
久志が本当に熟睡できなくなったのは、三十歳を超えてくらいからだろうか。今は三十五歳になっているので、結構時間が経っているような気がするが、二十歳代に比べて三十歳代は驚くほど時間が経つのが早い。したがって気が付けば五年なんてあっという間だった。熟睡できなくなったのがまるでここ一か月くらいに思えるのは、そのせいなのかも知れない。
三十歳になる頃までは、ベッドに潜り込めば、いつの間にか寝ていたというのが普通だった。気が付けば朝になっていて、目覚めも悪くはなかった。一応アラームはセットしているが、アラームで起きることはあまりなかった。目覚めがいいのは、アラームで起きるからではなく、自然に起きるからだった。ただ、本当に熟睡できていたかどうかというのとは別問題である。果たして熟睡できていたのだろうか?
たまにアラームが鳴るまで眠り続けていることがある。アラームで強制的に起こされると、目覚めは最悪だ。頭痛がして、そのまま目が覚めても残ってしまい、会社に着く頃まで頭が痛かったりする。仕事が始まると頭の中を切り替えて集中するので頭痛は気が付けば引いているが、それまでの朝の時間は、頭痛のせいで最悪である。
ただ、その時が熟睡していた時だということに、久志は気づいていなかった。たまにしか熟睡したという意識がないのだから、頭痛がする時、まさか熟睡できているなどと思いもしない。人間の身体というのはつくづく神秘的だということに、その時の久志はまだ気づいていなかった。
理屈から考えればすぐに分かることだった。熟睡しているから強制的にしか目を覚ますことができない。それだけ深い眠りに就いているということだ。
しかし、深い眠りというのはどういうことなのだろう?
本当に夢の世界というものがあって、その世界に落ち込んでしまって、呼び戻されるまで気が付くことはない。つまりは自分の意志ではどうすることもできないということなのか。
夢というのは、潜在意識が見せるものだという。潜在意識は自分の意志とはまったく別の場所にあり、意志が働いている時には、潜在意識は読んで字のごとく、存在を心の内に潜めているものなのだろう。
逆に潜在意識が働いている時は、自分の意志はまったく働かない。だから、夢の世界は現実とはまったく違った次元のもので、目が覚めるにしたがって忘れてしまうのもとして頷けるというものだ。
久志は自分の夢の中で、
「今夢を見ているんだ」
と、感じたことが以前にあったような気がしている。
しかし、後になって夢というのが潜在意識のなせる業であり、自分の意志とは相まみれないものだということに気が付くと、感じたこと自体が、
「錯覚だったんだ」
と、自分に言い聞かせていた。
覚えている夢の中で、全体を覚えているような夢はほとんどなかった。
一番多いのは、最後の夢から覚める直前のことだ。怖い夢というのは、最後に強烈な恐怖を感じることで、一気に現実に引き戻される。いや、強烈な恐怖を感じることで、
「これは夢なんだ」
と、自分に言い聞かせることで、本当に夢だということを感じた瞬間、一気に目を覚ます。目を覚ました瞬間、夢の中でこれが夢だと感じたことは忘れてしまっている。目が覚めてから、
「夢でよかった」
という思いを思わず口にしている自分に気づき、身体の震えや、身体から溢れる大量の汗、そして極度の疲労感から今度は解放されたいと感じるのだ。
かと思えば、夢の最初の方を覚えていることもある。
もっとも、それは稀なことであり、圧倒的に目が覚める前の方が多いのだが、夢の最初の方を覚えている時、それが怖い夢だったのかどうか分からない。
――一気に目が覚めて、これだけ身体に疲労感が残っているのだから、怖い夢だったに違いない――
と自分で思っているだけだった。
夢の最初を覚えている時、夢のはじめにすべての謎が集約されているのかも知れないという考えに至ったのは、最近になってからのことだった。夢の最初を覚えている時の共通点として、いつも誰かが夢の最初に現れる。今までそれを確認することができなかったので、その人の存在自体、目が覚める時には覚えていない。ただ、夢の最初だけ、記憶として残っているというだけの感覚がずっと続いていたのだ。
夢の最後を覚えている、いわゆる「怖い夢」を見た時にも、誰かの存在を意識していた。その誰かというのは、最初から分かっていた。ここで敢えて「誰か」と表現したのは、自分の中で認めたくないという思いが強かったからだ。
――もう一人の自分――
認めたくない「誰か」というのは、もう一人の自分なのだ。
なぜ認めたくないかというと、
――もう一人の自分の存在ほど怖いものはない――
という意識があるからだ。
自分なので、何でもお見通しという意識と、
――まるで鏡を見ているようだ――
という思いがあるからで、鏡というものの恐怖を、久志は感じていたからだった。
鏡というものは、目の前のものをすべて映し出す。そこには死角もあるが、それ以外はすべてを映し出す。しかし、まったく同じというわけではない。左右対称という意味で、すでに同じではない。左右対称というだけでまったく同じだという意識を誰もが疑うこともなく信じているが、果たしてそうなのだろうか?
久志は鏡の中にも世界があり、その世界の中にいる自分こそ、本当のもう一人の自分であり、鏡という媒体があることで、いかにも同じだと思わせる世界を作り出していると思っている。
つまりは逆も真なりで、鏡の中の自分も、同じことを考えていて、こちらの世界の自分の存在を信じていないのかも知れない。鏡という媒体は、そういう意味では表と裏の世界に、それぞれまったく同じ左右対称だという虚偽の思いを抱かせて、錯覚を当たり前のことだと思い込ませる魔力を持ったものだと言えないだろうか。その魔力のせいで、もう一人の自分の存在を信じられないものだと感じさせてしまう。それが故意なのか、故意ではないのか、鏡にしか分からないことだった。
鏡の話について、この間、同僚の落合と話をしたことがあった。会社に入ってから二十歳代までの第一線で仕事をしている頃は、よく同僚数人と呑みに行くこともあったが、移動などでなかなか仲間で揃うことがなくなり、団体で呑みに行くということはなくなった。そのせいか、それまでグループ行動をしていたことで特にその中で仲が良いという相手をそれぞれに持つことはなかった。しかし、足並みが揃わなくなると、必然的にスケジュールが比較的合う相手と仲良くなるというもので、久志はその中で落合という同僚と仲良くなっていった。
皆で呑みに行く時は居酒屋が多かったのだが、落合と二人で行くようになると、バーがほとんどになった。元々馴染みのバーがあるという話は、皆と呑んでいる時に聞いていた。落合はいつも一人で行っていたということだが久志と仲良くなると、その店に久志を招いてくれるようになった。
「ここは今まで自分の隠れ家のようなイメージでいたんだけど、皆と呑むことがなくなるとやっぱり一人は寂しいものだよ」
と言って、落合は快く誘ってくれたのだ。
久志も、
「そういうことなら」
と、遠慮することもなく、招きに笑顔で応じた。
グループでずっと行動していたので、一人に思い入れることもなかったが、一人だけのことを友達だと思うようになると、今までグループとして友達だった相手とは、少し違っているように思えてきた。
――まったくの別人のように感じることもあるし、「やっぱりグループで一緒だった相手だ」と感じさせる時もある――
この思いは学生時代までにはなかった感覚だった。そして久志は、三十五歳になる今から会社に入った時の頃を思い出すと、あっという間だったような気がして仕方がない。
落合という男は、グループの中でも異質なタイプの人だった。
こちらから話しかけないと、相手から会話を仕掛けてくることはないタイプだった。久志もどちらかというと人から話しかけられて話題を振られる方が多かったので、落合のようなタイプは実は苦手だったのだ。
しかし、二人の都合が一番合うことが分かり、お互いに会うことを約束するようになってから、誘いをかけてくれるのは落合からで、話題の提供は久志の方からという、ある意味都合のいい付き合いだった。馴染みのバーに連れて行ってくれた時も久志は嬉々としていて、今までに見たこともないような楽しそうな表情をしていた。やはり二人きりで会うようになると、相手のことを集中しようとして見るからなのか、それまでに知らなかった新しい発見ができたようで、嬉しかった。
最初の頃は久志の方からの話題ばかりだったのだが、次第に落合の方からも話題を提供してくれるようになり、会話の幅が広がってきた。特に最近は、超常現象の話で盛り上がることが多くなり、鏡の話もその時に出たのだった。
久志は、その頃から落合という男が、自分の考えていることを一番分かってくれる人であり、話をすることで自分で理解できなかったことを理解できるようになるかも知れないと思うようになった。
鏡の話は久志の中で、目からウロコが落ちたような気分にさせられた。
自分の中で、
「鏡の中の世界は、左右対称という以外は、まったく同じなんだ」
ということに神秘性を感じていたが、その神秘性から一歩進んだ発想を生むことはできなかったが、落合と話すことで、
「鏡という媒体を通じて、もう一つの世界に、もう一人の自分がいて、それが夢の世界に感じるもう一人の自分と関連が」
という発想に行き着くことができた。
夢の世界で、もう一人の自分を感じることは何度もあった。怖い夢ばかり覚えているのが夢の中に出てくるもう一人の自分の存在が大きく影響してくるということも感じていた。
しかし、もう一人の自分の存在が、どうしても夢の世界から一歩進んだ世界を想像することができなかった。落合と話すことで、鏡の中の世界と一つに結びつくことができたのは、本当に、
「目からウロコが落ちた」
と言っていいだろう。
鏡の話をしたその日、久志は夢を見たはずだった。
その日に見た夢を、結局は覚えていないのだが、意識としては、
「怖い夢を見た」
と感じていた。
つまりは、その夢の中に「もう一人の自分」が出てきたということに他ならないはずである。それなのに、夢の内容を覚えていないというのは、今までの夢を見るパターンとしては稀なことであった。
ただ、夢を見たはずなのに、その内容を覚えていないことは今までにもあった。その時に、見た夢が怖い夢なのか、怖いと感じない夢なのか分からなかった。
――分からないから、考えようとしない――
この思いが久志の中の思いだった。
目が覚めてから、頭痛がするのを感じた。
それは目が覚める時、眠りが浅い時に感じる頭痛ではなく、頭の奥からつーんとくるような痛いであり、
「昨日、呑んだんだ」
と、昨日のことを少しずつ思い出されてきた。
そのせいで、夢の内容を思い出そうという意識はなくなり、昨日のバーでの会話を思い出そうとしていた。今までであれば、夢のことが気になっていれば、昨日呑んだという意識があっても、そのことを思い出すよりも、夢を思い出すことが最優先になっていたはずだった。
鏡の話をしたことはすぐに思い出した。
「鏡の話をし始めたのは、どっちからだっけ?」
この辺りから、記憶は曖昧だった。
どちらから話題を出したかなどということを、昨日の今日なのに、すぐに思い出せないというのは、思っているよりも、昨夜の記憶が、かなり奥深いところにある記憶を引っ張り出さなければいけないのではないかと感じるのだった。
「そうだ。話題を出したのは、落合の方だった」
最初から鏡の話題が出てきたわけではないのは覚えているが、どこから鏡の話題に繋がったのか覚えていない。いきなり話題として出てきたわけではないことは分かっている。唐突に出てきた話題であれば、こんなに記憶の奥深くに格納されているわけはないはずだからだ。自然に出てきた話題であるから、奥深くの意識はないのだ。
記憶と夢の関係が立体的に感じられるのは、記憶の奥深く格納されているものを引き出すのが、現実世界とでは隔たりがあるからに違いない。人間が毎日必ず眠るという現象が生理現象であるなら、覚えていないだけで、夢を見るという現象もセットだと思えなくもない。
ただ、夢というものが潜在意識が必ず関わっているという思いと、現実世界とは次元が違っているという思いから、
――夢は毎日見るものではない――
と、無意識に感じているのかも知れない。
覚えていないという意識を、疑っている疑っていないを別にして信じ込んでいるからではないだろうか。
落合と一緒に呑みに行って、落合が話題を出してくれた時、久志も饒舌になる。
最初は感じていなかったような思いが話をしているうちに、次第に想像力が膨らんでくるのか、自分の意見として、どんどん表に出てくるのだ。
「一足す一が三にも四にもなる」
と、いう拡散的な発想が二人の間にはあった。まるで扇を広げたような末広がりのような感覚である。
元々、久志は子供の頃から、いろいろ何かを考えているタイプだった。
鏡の話なども、子供の頃に考えた記憶がよみがえってきたという感覚があり、
――まるで子供の頃に戻ったかのようだ――
とも、感じるほどだった。
しかし、久志は子供の頃の自分があまり好きではない。いろいろなことを考えてはいたが、それが結びつくことはなかった。しかも、結びつけて考えようという考えも浮かんでこなかったのだ。
――どうして子供の頃にはそんな思いが浮かんでこなかったんだろう?
と思う。
それは発想するということを怖がっていた自分がいたからなのかも知れない。
――夢を見ると、覚えているのは怖いことしかない――
つまりは楽しい夢を本当に見ているのか、それとも、楽しい夢を現実世界に持ってくることは絶対にできないのか、どちらにしても、自分にとっては都合の悪いことが夢だということになるのだった。
発想するということを、夢の世界と結び付けて考えていた子供の頃、夢の世界が都合の悪いことばかりだと思うことで、発想することを怖がっている。奇抜な発想をしそうになると、潜在意識がストップをかけるのだ。それこそ久志が子供の頃から残っているトラウマの一つになっているのだった。
その日に見た夢は、朝には思い出せなかったのだが、不思議なことに、時間が経つにつれて、何となくだが思い出せるような気がしてきた。結論として思い出すことはできなかったのだが、ある程度まで思い出せた気がした。何よりも、思い出そうという意識を持っていたということ自体、久志には自分で信じられないことだったのだ。
――一度忘れてしまった夢は思い出すことはできない――
これを当たり前のこととして、言葉にはしないだけで、誰もが認識していることだろうと、久志は思っていた。そのため、
――思い出そうとすること自体が無駄なことで、余計な労力だ――
と思っていた。
ただ、少しでも記憶に残っている夢は、思い出そうとするのは無理のないことだと思っていた。実際に、思い出そうとして何とか思い出すことができた夢も少なくはなかった。それでも思い出した夢の寿命は本当に短く、気が付けば忘れてしまっている。そして、
――今度こそ、二度と思い出すことのできないところに封印されてしまったに違いない――
と感じるようになっていた。
だから、久志はどちらにしても思い出せないのなら、無理に思い出すことはないんだという意識が強く、覚えていることだけが意味のあることだと思うようにしている。
覚えている夢の共通点は、怖いということと、そこにもう一人の自分が関わっているということであった。
落合と一緒に呑むバーは、カウンター席しかない。椅子も六つしかなく、最高に客が入っても、八人が精いっぱいだろう。店も狭い路地の奥まったところにあり、いかにも隠れ家のようになっているため、なかなか初めての客が入ってくることはない。この店に初めて一人で入ってくる人は、口を揃えて言うそうだ。
「この店に呼ばれてきた。自分の意志ではない」
という言葉の裏には、本当はそんなオカルト的な発想は感じたくないという思いがあるように思えてならない。他ならぬ落合を見ていると、そう感じるからだ。
「この店は、常連になる人にしか、見えないらしいんだ」
マスターはそう言っていたが、その顔は笑っているわけではない。真剣にそう思っている顔だった。
「ほとんどのお客さんは、『初めて来たような気がしない』と言っているんだよ。間違いなく初めてのお客さんなのに。どうしてなのかと考えてみたけど、結論として感じることは、この店のことを夢で見たんじゃないかって思うんだ」
と、マスターは話してくれた。
落合もその話を目を瞑って聞きながら、いちいち頷いている。あまり人のいうことに関心を持つことのない落合も、もっともだと思って聞いているようだ。
今ではマスターと久志の話にだけしか興味を示さないようになっていた。
この店は落合のように導かれてきた人ばかりなので、ほとんど常連であるが、常連同士、仲がいいというわけではない。なるべく相手に絡まないようにしながらこの店では過ごしている。それでも共通の話題ができると、急に盛り上がるという。俗世間でのストレスや鬱憤を、この店で晴らそうとしている人が多いのか、それだけ俗世間ではここの常連は浮いた存在になっているようだ。
落合も、例外に漏れているわけではない。本人があまりまわりの人と関わろうとしないので、何を考えているか分からないところがあるため、誰も落合を相手にしないことで、浮いているというところまではないが、それは落合の中に、気配を消すことができる能力が備わっているからなのかも知れない。彼の中にあるストレスや鬱憤の存在を感じることができるのは、俗世間では久志だけなのだろう。
久志は、落合の存在を、
――鏡の中に写っている人――
と感じたことがあった。
それはもう一人の自分ではなく、こっちの世界にはいないのに、鏡の中にだけ、もう一人の自分の後ろに写っているようなそんな存在のように感じたことがあった。ひょっとすると、忘れてしまった夢の中にうっすらと残っている記憶が、醸し出しているものなのかも知れない。
落合とは、鏡の話で結構突っ込んだところまで入り込むことはあるが、さすがにこの発想だけは話したことがない。さすがに本人を目の前にして言える話ではないし、それよりも、
――落合自身が、そのことを自覚していたらどうしよう?
彼の方から、賛同するような話をされると、久志は、自分が何を信じていいのか分からなくなるような気がしてならなかったからだ。
「俺は昨日、少し変わった夢を見たんだ」
本当は落合に話すつもりはなかったのだが、鏡の話をしたことで、話さずにはいられない心境になった。この話が直接鏡の話に関係しているわけではないというのに、どうした心境なのだろう。
「どんな夢なんだい?」
落合も興味津々のようだ。
「妄想だと思うんだけど、夢の中に一人の女性が出てきたんだ」
「ほう。覚えているのかい?」
「顔までは覚えていないんだが、とにかく印象深かったんだ」
落合も久志が夢を見た時、ほとんど忘れてしまっているということは分かっていた。なぜなら、落合も久志と同じように、見た夢を覚えていないことが多い。しかも、覚えている夢は怖い夢だけで、覚えているとしても、漠然として覚えているというだけだった。
「それにしても、お前が自分の見た夢について語ることになるとは思わなかったな」
確かに夢というものについての話をすることはあっても、見た夢の話をすることは皆無だった。それは、落合が相手だからというわけではなく、誰にも話していない。むしろ、落合に話していないのだから、他の誰にも話すはずがないと言っても過言ではないくらいだ。
「その女というのは、かなりきわどい女性だったんだ」
「きわどいというと?」
「淫靡というか、俺を誘っているのが分かるんだ。身体のラインがそもそもいやらしく、俺の中の男としての欲望を満たしてくれるに十分だった。ただ、態度で誘ってくるわけではないんだ。不思議な感覚だった」
「態度で誘っていないというのは、どういうことなんだ?」
「夢の中に出てきた女は、どうやら俺が見えていないようなんだ。目の前に誰かがいるというのも分かっているのかどうか分からない。それなのに、誘われていると思ってしまった俺はやるせなさと自己嫌悪に陥ってしまったんだ。目の前にいて、手を伸ばせば届くはずなのに、手を伸ばすことを怖がっている自分。そんな自分にやるせなさと自己嫌悪を感じるんだ」
それを聞いた落合は、しばし腕を組んで考えていた。あっという間だったはずなのに、かなりの時間が経ったような気がした。落合が次に何というか、その返答を怖いと思っていたのだ。
微動だにしなかった落合が動き始めると、そのスピードはかなり遅かった。まるでスローモーションを見ているようで、さらに苛立ちが募ってくるのを感じた。落合の口に神経を集中させていたはずなのに、全体も見ることができているそんな自分が不思議でならなかった。落合と一緒にいる時は、今までにもこんな時間が何度かあった気がするが、そのたびに新鮮な感じがする。落合と一緒にいて、緊張する時間でもあったが、一番新鮮な時間でもあったのだ。
「俺も実は同じような思いをしたことがあるんだ。お前にも話したことがあると思うんだが、この感覚は感じたことのある人でなければ、どんなに口で説明しても分かってくれるはずはないと思う。だから、お前もその話を聞いたという意識はなかったんだろうな」
と言われて、久志はハッとした。
――言われてみれば、夢の中で初めてではないような感覚に陥ったような気がしたな――
と感じた。
その思いが、本当なら忘れてしまっているはずの夢を、記憶の奥に封印することなく、意識の段階で踏みとどまらせているのかも知れない。
落合と話をする時は、毎回何かに驚かされたり、目からウロコが落ちるような思いをさせられる。最近、いつも一人でいることが多い久志が、落合とだけは定期的に会っているのは、そのためだった。
――落合も同じなのかも知れないな――
落合には、自分と同じ匂いを感じる。それは孤独の匂いだった。
――孤独の匂いは、孤独な人間にしか分からない――
このことを落合と話をしたことはなかったが、話さなくとも暗黙の了解のように分かり合えているものだと確信していた。
「俺もお前もストイックなところがあるから、なかなか女性が近づいてくることはないと思っているんだが、実際はどうなんだい?」
久志は落合に聞いてみた。久志が自分をストイックだと思い始めたのは最近のことで、二十代前半までは、むしろ女性と仲良くなりたいと思っている方だった。二十代後半から孤独を意識するようになると、女性をあまり気にしなくなり、
――俺も結婚したいとか思う年齢を超えてしまったのかな?
と思うようになっていた。
大学を卒業してからは、特に結婚を意識するようになった。大学時代は恋愛までしか意識していなかったのに、社会人になると、恋愛もまともにしたことないくせに、結婚の二文字が頭をもたげてきたのだ。段階を追っての発想ではなく、年齢やまわりの環境からの発想であるため、自分の理想とは程遠い人生を歩んでいることを自覚していた。自己嫌悪に陥ったり、鬱状態に陥ったりもしたが、次第に孤独を意識するようになった。自己嫌悪や鬱状態は到底受け入れられるものではなかったが、孤独だけはすんなりと受け入れることができた。しかも、その孤独が自分の運命のように思えてきたのだ。今から思えば遠い過去である結婚を意識していた時期、かなり変わってしまったかのようにまわりから見れば見えるのかも知れないが、本人はいたって当然の流れに思えている。そしてそのことを分かってくれているのは、落合だけであろう。孤独が好きであっても落合と一緒にいるのは、そういう意識があるからだった。
「やっぱり淫靡な夢を見るというのは、潜在意識の中に自分のいやらしさが潜んでいるからなんだろうか?」
もちろん、そうに違いない。認めたくないわけではないが、実感が湧かないのだ。実感を湧かすためには人から言われるのが一番いい。その相手は落合しかいないではないか。しかも、自分と同じような夢を見たことがあると落合は言っている。落合は気を遣ってウソをつくようなそんな男ではない。その話は本当のことなのだろう。
落合も同じ夢を見たことがあるのだとすると、ここで一つの疑問が湧いてくる。
――落合以外の他の人も同じような夢を見たことがある人もいるんじゃないか?
それが少数派なのか、それとも、口には出さないだけで、他の人も皆同じような夢を見た経験を持っているのか、気になるところだ。
――こんな夢を見るのは俺一人だ――
普通なら、他の人も同じような恥ずかしいと思えるような、他の人には話せない夢を見たのだと分かれば、きっとホッとすることだろう。
しかし、久志はホッとすることはなかった。この夢が本当は自分だけのものであってほしいとさえ思ったくらいだ。せめて落合だけであるなら許すこともできるが、他の人も同じなら、ホッとするどころか、却って自己嫌悪や鬱状態に陥ったことだろう。それを思うと久志は、複雑な思いを抱くのだった。
しかし、久志の見た夢は、他に似たような夢を見たことがある人がいたとしても、きっと異色に違いないだろう。
「いやらしい気持ちは誰にだってある。でも、お前のは少し違うようだな」
落合は、決して久志が他の人と一緒だということは口にしない。それは久志の気持ちを分かっているからなのか、それとも落合自身も同じ考えで、自分の思いを久志にぶつけているだけなのかも知れないが、それでも久志は嬉しかった。
――やっぱり、落合と友達でよかった――
と思えるのだ。
「そうなんだ。今度の夢も、もし他の人も同じような夢を見ていたとしても、絶対に他の人の見る夢とは違っていると思うんだ」
「その根拠は?」
落合は、興味深く覗き込むように下から見上げるような視線を久志に送っていた。
「夢の中に出てきた女性の名前を憶えているんだよ」
落合は訝しそうな表情をして、
「それは、夢の中で女が口にしたということかい?」
「それがそうではないようなんだ。彼女が口を開いた記憶もなければ、声を覚えているわけでもない。だから、今でもどうして名前を憶えているのか自分でも分からない」
「それは何という名前だったんだ?」
「山岸亜衣という名前なんだ。亜衣の亜は、亜熱帯の亜、衣はころもという字なんだけどね」
「漢字まで分かっているんだな?」
「そうなんだ。だから、直接口で聞いたというわけでもない」
「ちなみに、君はその名前の女性に心当たりはないのかい?」
「それがないんだ。ひょっとすると似ている人が意識の中にあって、その人と夢の中でかぶってしまったんじゃないかって思ったんだけど、いくら思い出しても、山岸亜衣という名前は記憶の中にないんだ」
「俺もさっき、同じような夢を見たことがあったって言っただろう?」
「ああ」
「俺の場合は、その時の女性の名前はまったく分からない。お前とは夢の種類が違っているのかも知れないな」
という落合の言葉を聞いた時、久志はホッとした。やはり自分の見た夢は異色のもので、いくら似ている夢だとはいえ、絶対に近づくことのない結界が目の前に広がっていることを確信した。
落合は続けた。
「でも、夢に出てきた女性は、間違いなく俺に似た女性だって思うんだ。男性と女性の違いこそあれ、俺はその夢に出てきた女性が自分の分身のような気がして仕方がなかったんだ」
「それは、俺も同じだ。だけど、分身というところまではないんだ。きっと、相手の名前を聞いたからかも知れないな」
落合との夢の決定的な違いは、相手の女性を自分の分身と思えるか思えないかということだった。落合は分身のように思っているようだが、久志は名前を憶えていることで、その人が決して自分の分身ではありえないという意識を持ったのだ。
そのことはある意味、久志を安心させた。
自分がストイックであると思いながらも、その思いは淫靡でありたくないという思いを感じたくないという思いから、必要以上に、ストイックであり、孤独を愛する人間だと思い込みたいという意識が強いのであれば、それは自分の理想とは程遠い性格であることは明らかである。
落合と話をしながら、どこか迷走している気がしていた久志は、自分が今どこにいるのかを必死に模索していたのだろう。そのことを、落合が分かっているかどうか、久志には疑問だった。
「ところで、その女性のどんなところが淫靡だって思うんだ?」
「俺の妄想していることを、すべて知り尽くしていて、妄想通りに行動してくれるところかな?」
「それは夢なんだから、当然のことなんじゃないのか?」
落合のいう通りなのだが、久志には納得のいかないところがあった。
「確かにそうなんだけど、それはあくまでも性的な行為だけのことで、会話や普通の態度に関しては、まったく想像がつかないんだ」
「会話したのか?」
「覚えていないんだが、会話もしたようなんだ。そして、彼女は俺の意見とは違った考えを持っているようだった。でも、俺は正直ホッとしたんだ」
「俺もお前の立場だったら、ホッとしたと思う名。何から何まで一緒だったら、本当にもう一人の自分の存在を肯定しているようで恐ろしいからな」
落合も、もう一人の自分の存在について恐怖を感じている。そのことを分かったうえで、二人はいつも会話をしていた。
ただ、もう一人の自分の存在を信じていると言っても、まったく同じように考えているわけではない。
「俺は、夢の中だけにしか、もう一人の自分の存在はありえないと思っているんだ」
というのは、久志の考えで、
「そこが違うんだ。俺はもう一人の自分は同じ世界にいてこその、もう一人の自分だって思うんだ。そのうえで、もう一人の自分の存在を信じているんだから、きっとどこかにいるはずなんだ」
「じゃあ、いつか会うことになるということなのかい?」
「いや、それはないと思うんだ。同じ人間が同じ世界に存在するということはパラドックスの考え方からもありえないだろう? だから、俺はもう一人の自分の存在は信じていても、会うことはないと思っているんだ」
さすがにここまで来ると、久志も落合の考えについていけないと思っている。
確かにこの世で落合の考えに一番近い人間がいるとすれば自分だと思っているが、結界が存在することも事実であり、決して入り込むことのできない世界をそれぞれに意識している。親友と呼べるのは、そんな相手ではないかと思うようになっていた。
人間なんて、しょせんは孤独なもの。親友と言っても、本当に困った時に助けてくれる人間なんていやしない。その思いは二人とも持っていて、それなら考えがお互いに分かり合える相手を親友と呼ぶふさわしいと思うようになっていた。
落合には話そうかどうしようか迷っているが、夢の中に出てきた山岸亜衣という女、どこか落合に似たところがあった。覚えていない話の中に、共鳴できるところがあったからなのだろうが、だからこそ、覚えていないんじゃないかとも思えるのだった。
久志と落合は呑みながら冷静に話をしているようにまわりから見えているかも知れないが、実際には、まわりが見えているわけではない。自分たちの話に入り込み、まわりに何かがあっても、気が付かないことがあるくらいだった。きっと、二人は相手と話をしているというよりも、相手に話しかけながら、心の中の自分にも話しているのかも知れない。
言い聞かせているというよりも、心の中の声に耳を傾けていると言った方がいいのか。返事がないのを分かっていながらも、心の中の声に、絶えず耳を傾けているのだった。その思いは久志よりも落合の方が強かったが、久志自身は、自分の方が強いと思っているようだ。
久志と落合は気づいていなかったが、話に夢中になっているうちに、いつの間にか、もう一人客が増えていた。ほとんど気配を表に出さない人だったので、それも無理のないことだった。
その人は女性で、マスターはもちろん、その女性が入ってきたことは分かっていたのだが、二人の会話を邪魔しないように、声を立てることはしなかった。
シーンと静まり返った店の中で、二人は会話に熱中していたが、会話が白熱してきても、二人の声が店内に響くということはなかった。バーというところは、あまり店の特性上、声が響きわたるような仕掛けにはなっていない。それでもさらに声が通っていないのは、二人の声質が、元々響くようなものではないということであろう。
確かに声は重低音であり、重みを感じさせた。人によっては、耳に響く声なのだろうが、バーではちょうどいいくらいだろう。その女性は話を聞いていないようで、聞き耳を立てていた。彼女にとって興味のある話だったのだろうか?
二人の話が、また久志の夢の話に戻ってきた。
「その女性と、ひょっとするとまた会えるかも知れないな」
落合はそういった。
「夢の中でかい?」
「いや、実際に現実世界でさ。でも、お前は目の前に現れても、その時の女性だって気づくことができるのかな?」
「俺も分からない。正直、顔はハッキリと見たわけではないし、雰囲気も半分忘れかけているからね。でも、完全に忘れてしまうわけではないとすれば、会った瞬間に思い出すということもあるかも知れないからね」
「それはないとは言えないけど、かなり可能性は薄いと思うよ。分かっているだろう?」
「ああ、もちろん分かっているさ。でも、俺は夢で見た女性が目の前に現れると、分かるような気がするんだ。いつもというわけではなく、今回の夢に関してのことだけなんだけどね」
「よほど印象が深かったようだね」
「だけど、もし現実世界で会ったとすれば、夢に出てきたような雰囲気とはまったく違った雰囲気で現れると思うんだ。だけど、同じ人間であれば、どんなに雰囲気が違っていても、同じところがあるはずなんだ。俺はそれを見逃さないような気がするんだよ」
「かなり自信があるようだね」
「自信というわけではない。ある意味、願望が強いだけなのかも知れない」
「それも自信の一つなんじゃないか?」
「そうかも知れないな」
二人の会話は、そこで少し落ち着いた。その時になって、やっと落合の方が後から店に入ってきた女性に気が付き、気にし始めた。
久志も気が付いたが、直接気が付いたわけではない。彼女の存在に気が付いた落合を見て、そこに女性がいることに気が付いたのだ。
――今日の俺は、落合を通してからでなければ、他の人を感じることができないのかも知れない――
漠然とそんな風に感じた。きっと、夢の中に出てきた女性のイメージが頭の中に残っていて、他人に対して、直接感じることはできなくなっていると思っている。そういう意味では、落合が一緒にいてくれたのは、よかったと思っている。
落合という男性は、相手によって態度を変えるということはないが、久志と一緒にいる時だけは特別だった。これは久志も同じ考えなのだが、二人が共有している空間は、他の人とは共有できない空間だと思っている。
落合は、他人と接する時は、実に社交的だ。そのあたりは久志と違っている。久志は自分に合う人間を最初に選んでしまって、それ以外の人とはいつも距離を置いてしまう。今では自分に合う人間は落合だけなので、落合以外とは、距離があるのだ。そのことは皆分かっていることなので、誰も何も言わない。
その点、落合には相手が誰であっても、距離に変わりはない。それは久志とて例外ではないが、久志との間には二人だけの特別に共有できる空間があるので、そういう意味では他の人と違うのだ。
元々、二人だけの特別な空間を作り出したのは、落合だった。落合という男は、本当に自分と共有できる相手であれば、特別な空間を作ることができる特異な体質だった。だから、世の中で特別な空間を作ることができる。
今までにそんな相手は久志しかいなかった。最近では、
――この空間を作ることのできる相手は、この世で久志だけなのかも知れない――
と思うようになったのも事実である。
高校時代に、自分の特異な体質に気づいた落合は、それから、自分と共有できる空間を作ることのできる相手をずっと探していた。特に高校時代が一番その思いが強く、大学に入った頃には、少しトーンダウンしていた。
――いないならいないで別にいいやーー
という思いもあったくらいで、久志に出会うまでは、普通の大学生活を送るものだと思っていた。
久志と出会った時、最初に何かを感じたのは、久志の方だった。
落合を見つめる久志の目は、他の人とは違い、ビックリした落合が、
「あの、何か」
と、おそるおそる声を掛けたくらいだ。
もし、この時おそるおそるでも声を掛けなければ、そのまま二人はすれ違っていたかも知れない。そういう意味では、衝撃的な出会いだった。
しかし、二人は出会いをそこまで衝撃的なものだとは思っていない。なぜなら、
――出会うべくして出会った相手――
だと思っているからだ。
だから、今でも出会いの話をあまりすることはない。そもそも、二人が過去の話をするということは珍しかったからだ。
だが、大学を卒業してから、就職した時、二人はそれぞれ鬱状態に陥っていた。その内容は、微妙に違っていたが、二人は根底にあるのは同じところだと思っている。
久志が落合を見つめたのはそんな時だった。落合が少しビビッてしまったのも分からなくはない。今から思い出しても、その時の久志の表情は、普通ではなかったように思う。いや、今から思えば、あれが久志の「普通」なのかも知れない。長く付き合ってきた二人であっても、まだ根本で分からないところは存在する。
それを分かっていて、二人は相手の奥深くまで見ようとはしない。
――入り込んではいけない領域――
というのが、人には必ずあるはずだ。
普通なら入り込むことはできないのだろうが、二人の間では入り込むことができる。だからと言って入り込んでしまっては、タブーを犯したことになる。それは、まるでおとぎ話などで、
「開けてはいけません」
という箱や障子を開けてしまったために、悲劇に見舞われるのを同じことなのではないだろうか。
二人はそのあたりはわきまえている。おとぎ話の話も二人の間で交わされたことがあった。お互いに分かっている暗黙の了解だった。
そんな二人が、話を盛り上げて自分たちだけの特殊な空間を作ってしまうと、まわりが見えなくなるのは今に始まったことではない。手前のカウンターに女性が座ったとしても分からなくて当然だった。
しかし、落合だけだけは少し頭をかしげていた。
――この人の存在に気づかなかったなんて――
その思いは、高校時代に最初に感じた自分の特異な体質の相手を探した時、感じていたような相手だったからだ。
いくら、久志と長い付き合いで、誰にも犯すことのできない空間を作っていたとしても、まったく気づかないというのは、落合にとってはショックだった。もちろん、久志にはそんな顔はまったく見せなかったが、久志も何かを感じたのかも知れない。他の人に気さくなはずの落合が、彼女を気にしているにも関わらず、声を掛けないからだ。
それよりも落合は、
――今の話を彼女がどこから聞いていたんだろう?
という思いが強かった。
別に聞かれても問題のない話だったはずなのに、落合はどこかびくびくしている。久志はそんな落合を横目に見ながら、何が落合をそんなにびくびくさせるのか、正直分からなかった。
しかし、落合を見ていて、他人事のように思えないのも事実だった。じっと見ていると久志はハッと感じた。
――これは昨日の夢の中の自分と同じではないか?
という思いである。
夢の中に出てきた淫靡な女性、彼女に対して何もできなかった自分がいたことを思い出した。落合にはそこまでハッキリと何もできなかったことを言ってはいなかったが、お間の落合は、ハッキリと金縛りに遭っているかのようだった。
――ということは、昨日の俺も、夢の中で金縛りに遭っていたということか?
夢の中で金縛りに遭っていたという記憶は、今までに何度かあったが、今回とは少し違っている。誰かに見つめられて金縛りに遭っていたという記憶は初めてだったからだ。落合を見ていると昨日の自分の様子を思い出せるような気がして、じっと落合を見ていた。実際に見つめられている女性は、見つめられていることを分かっていながら、気にしていないようだが、そんな様子のどこに落合に金縛りを掛ける力があるというのだろう?
久志は他人が金縛りに遭っているのを見るのは初めてだった。自分が金縛りに遭ったことは何度かあったが、いつも誰も見ていないところで金縛りに遭っていた。
――金縛りに遭うというのは、誰にも見られない状態でしかありえないことなのかも知れない――
と感じていたのも事実で、金縛りの話は落合を含めて誰ともしたことはなかった。
きっと、この時の様子も、落合と話すことはないだろう。もちろん、落合は自分が金縛りに遭っていることは分かっているはずだ。落合という男の性格からして、自分が何もできないところを他人に見られていたら、そのことを話題にするなどありえないことだからである。
落合という男のことは誰よりも分かっているつもりだったが、この時の金縛りを見てしまうと、
――本当にそうなのだろうか?
と思えてくる。
自分の慢心なのか、それとも自信過剰なのか、どちらにしても、落合に対して感じることとしては、あまりいいことではないように思える。そして、落合を金縛りにした目の前の女性の存在も、久志にとっては無視できない相手になるであろうと思えた。今後の展開はまったく読めないが、この時、別に新しい特別な共有空間が生まれたような気がしてならなかった。
三すくみの話を思い浮かべた久志だったが、じゃんけんであっても、ヘビとカエルとナメクジであっても、どこから始まっても、結論が出ることはない。自然界の摂理と言ってしまえばそれまでなのだろうが、
――タマゴが先か、ニワトリが先か――
という話にも繋がってきて、久志の頭の中に、パラドックスという文字がちらついてくるのを感じた。
――ということは、彼女は、俺には弱いということか?
と勝手な想像が頭をめぐる。
しかし、一度感じてしまうと、その思いを断ち切るのは難しい。それは金縛りに遭っている落合も同じであろうし、目の前の女性にも言えることではないだろうか。
よく見ていると、彼女は落合を意識しているわけではない。落合が金縛りに遭っているのでそう思っていたのだが、彼女の意識は落合というよりも、むしろ久志に向けられているようだ。
久志は彼女の視線を浴びても、落合のように金縛りに遭ったりはしない。どちらかというと、久志にとって意識させるような気配を感じさせない相手に思えてくるのだ。
久志が彼女の視線に気が付くと、今まで金縛りに遭っていた落合が解放された。身体を動かすことができるようになったようで、手足を動かしてみて、動くかどうか確認しているようだ。
そんな落合を横目に見ながら、久志は彼女の視線を敢えて浴びていた。落合がかかったような金縛りを感じることはない。別に熱い視線を感じるわけではなかったからだ。
しばし三人の間に共有していた空間に歪が生じた。歪を引き起こしたのは、久志のようだったが、彼女は相変わらず気配を感じさせないように、久志を見つめている。この場で様子が変わったのは落合だけで、その落合も。落ち着いてくるにしたがって、
「何が起こったんだろう?」
と言わんばかりにきょとんとしていた。
――こんな落合は初めて見たな――
自分にないものを持っている落合を、絶えず尊敬していた久志は、自分が落合を見る視線が他の人と違っていることは意識していた。その時も、尊敬している気持ちに変わりはないはずなのに、他の人に見せる視線と、あまり変わらない気がしていた。それを感じた時、少しの間自己嫌悪に陥った久志だったが、いつ自分も落合と同じような状況に陥るか分からないと思うと、自己嫌悪に陥る必要はないと感じた。
――それも近い将来――
そう感じると、その時の落合の様子を、記憶しておかなければいけないと思うようになった。完全に記憶できるわけはないが、何かの拍子に思い出すと、記憶の奥から湧き出してくる意識は今の状態に限りなく近いことを感じていた。
そこまで感じていると、彼女の方からこちらに近づいてくるのを感じた。落合は、すでに金縛りから完全に解放されていて、別に変わった様子はなかった。
「あなた、私の夢に出てきた人に似ているわ」
そう言って、見つめた相手は久志だった。
「君はその夢を覚えているの?」
「ええ、半分は忘れているんだけど、半分だけでも覚えているだけ、すごいと思うの」
「でも、よく半分だって分かったね。ひょっとしたら、それがすべてかも知れないのに」
「目が覚める瞬間を覚えているからですね」
久志は、その言葉を聞いて納得した。
その話を聞いていて、落合は黙って頷いている。時々目を瞑っては瞑想にふけっているようだが、そのことに、久志は気づいていなかった。
二人の話はそれほど時間が掛かったものではなかったが、落合には結構時間経っているように思えてならなかった。もし、他にその場に人がいたとしても、この時間を長く感じたのは落合だけだっただろう。落合は、二人の会話を、自分なりの世界に入り込んで見ていたのだ。
落合は、美咲を見つめていた。美咲はその視線を意識はしていないようだったが、分からないはずはない。それなのに意識していないように振舞えるのは、よほど落ち着いているからなのか、それとも、同じような状況を今までにも何度も切り抜けてくることができたからではないだろうか。もし、後者だとすれば、人の視線を絶えず浴びているということになるが、少なくともこの場で二人は、美咲に対してそこまでの意識はない。それだけ美咲のまわりには、同じような人が群がっているということで、久志も落合も、そのグループには含まれないだろう。
――どっちが、普通なんだろうか?
この思いは、当事者の誰も感じていないはずだった。
当事者三人には、「普通」という概念がない。しいて言えば、自分と同じ考えの人が他の人が考える「普通」なのではないだろうか。何が普通なのか、ノーマル、アブノーマルという感覚でいえば、久志も落合も、自分も含めてお互いに、アブノーマルだと思っている。他の人には話せないような話を二人だけでする時点で、すでにノーマルではないと言えよう。
落合の視線に、美咲は気づいている。気づいていながら気づかないようにしているのは、落ち着いているからでも、今までに同じような経験を重ねてきたからでもない。落ち着いているという方が近いのかも知れないが、美咲は自分の世界を作ることで、他人の視線を浴びても、意識しないように相手に見せる態度が取れるようになった。
ただ、それは本人が望んでできるようになったわけではなく、むしろ、相手に気づかれたいくらいであった。無意識とはいえ、相手の視線を無視することは、相手に対して失礼だという思いはある。
落合は、美咲への視線を彼女が気づかないふりをしていることは分かっていた。それも意識的にではなく、無意識にだということを分かっている。それは以前、似たようなことがあったからだ。
落合の大学時代、知り合った女の子が同じような感じだった。
彼女は記憶が一部欠落していた。子供の頃の一部の記憶がスッポリと抜け落ちているのだ。
本人は、最初そのことを負い目のように感じていた。ずっとそのことを気にしながら大学生になるまで友達もできずに、一人孤独な状態が続いていた。
それは、彼女のことを気にして見つめていても、彼女からの反応がまったくないことで、誰もが気持ち悪がって、近づくことがなかったからだった。
「私はそんなつもりはないのに、どうしてもまわりが分かってくれないの」
彼女は、何とか分かってもらおうと努力はしたようだが、最初に無視された方の心の傷は思ったよりも深いようで、特に思春期の男の子が異性からそんな仕打ちを受ければ、大きなショックとともに、トラウマも目覚めてしまうだろう。気持ち悪さだけではなく、次第に彼女に対しての嫌悪が芽生えても不思議はなかった。
「私が悪いんだろうけど、私だって、本当は皆と仲良くなりたかったのよ」
知り合った頃の彼女は、落合の前で愚痴ばかり零していた。
もし、短気な男だったら、彼女を見放していたかも知れない。しかし、落合は彼女が視線に気づかなくても、ショックを受けることもなかった。すぐに彼女が、こちらの視線に本当に気づいていないと悟ると、自分から声を掛けたのだった。
どう言って声を掛けたのか、覚えていない。落合としても、緊張しながら声を掛けたからである。いくら、彼女から無視されたことが、彼女の意志ではないと思っていても、声を掛けて、しかとされれば、落合自身、ショックを受けるのは必至だったからだ。そんなリスクを負ってまで声を掛けることを戸惑うのは当たり前だったが、声を掛けた時、自分に勢いがあったのも分かっていた。
――この人でなければ、こんな勢いが生まれることはないだろうな――
と感じたのだ。
話を重ねてみて、彼女の記憶が欠落していることに気が付いてきた。彼女は自分の記憶が欠落していることを、なるべくなら悟られたくないと思っていたようだ。それだけに、会話も最初からぎこちなく、すぐに話題が途切れてしまうこともしばしばだった。
さすがに落合も最初から彼女の記憶が欠落していることに気づくはずもなく、
――どうしてこの人はこんなにビクビクしながら話をするんだろう?
と思っていた。
彼女が過去のことを話したがらないと思った時、何となく分かってきたが、会話に違和感はなかったので、本当に記憶がないのかどうか疑問だった。少しずつ会話を絞り込んでいくうちに、次第に落合にも彼女の記憶が中学時代のあたりで曖昧なことに気が付いたのだ。
「私、どうしても、中学の時の記憶が、繋がらないの」
彼女は、記憶が繋がらないことを気にしていたのだ。その時は記憶が欠落しているという意識は彼女にはなかった。
もっとも、自分の記憶が欠落していることを一番意識できないのは、本人なのではないだろうか。自分の顔を、鏡のような媒体がなければ確認することができない感覚に似ている。
落合はそのことを彼女に教えてあげるかどうか迷った。教えてあげるにしても、どのように教えてあげればいいのか分からなかったからだ。
そのためには、なるべく彼女に覚えていることを話させるのが一番だった。しかし、なかなか彼女は臆病になっていて、口を開いてくれない。あまり強引にしてしまっては、彼女の中にトラウマを植え付けたまま別れるという最悪の結末を迎えるような気がしたからだ。
何とか話をしてみたが、分かったことは中学時代のある時期の記憶だということだ。欠落した部分にあるのは、底なしの断崖なのか、それとも大きく立ちふさがっている結界のようなものなのか、本人に意識できないのだから、他人にできるはずもない。あくまでも想像でしかなかった。
彼女の場合は底なしの断崖だった。彼女の目はその時、絶えず下を向いている。決して上を見ようとはしない。上を見るようとすると、下が気になって仕方がないようだったからだ。
もし結界であれば、足元はまったく気にならないはずだ。絶えず上ばかりを気にしていて、
――どうすれば、飛び越えられる?
と思うからで、すぐに結界はどうすることもできないことに気が付いた。
断崖であれば、恐怖に打ち勝って、飛び越えるだけの力があれば、できなくもない。たくさんの段階を踏む必要はあるが、結界のように、見た瞬間、諦めることはないからだった。
落合は、その時の彼女とは、しばらくしてから別れた。皮肉なことに、彼女の欠落した記憶がよみがえってから、すぐに別れがやってきたのだ。
どちらから別れを告げたというわけではない。まるで自然消滅のように消えていた。落合からすれば、
――彼女の記憶が戻ったことで、俺の役目も終わったんだ――
という達成感が、彼女への想いを断ち切らせることになった。
彼女の方からすれば、
――今まで、私は何を考えていたんだろう?
記憶が戻ったせいで、それまで育んできた人生の歯車やバランスが崩れた。そういう意味では、落合は開けてはいけない「パンドラの匣」を開けてしまったのだろう。
もし、落合の中で、役目という意識がなければ、彼女を追いかけただろうか?
それもなかったような気がする。
我に返った彼女に対して、それまで張りつめていた気持ち、つまりは緊張の糸がプッツリと切れてしまったのだ。いまさら、彼女を追いかける気など、サラサラないというのが本音だったに違いない。
その時の彼女の記憶は、落合の中から次第に消えていた。ふとしたことで思い出すこともあるが、思い出そうとして思い出せるものではなかった。そういう意味では、
――彼女と付き合っていた――
という意識は落合にはない。きっと彼女にもないだろう。親友としてならうまく行くかも知れないが、落合の中に、
――男と女の間に、親友関係は存在しない――
という思いがあった。
落合は今までに女性と付き合ったという記憶はない。落合の方から女性に声を掛けることはないからだ。
久志から見ても落ち着いて見えて、口数が少ない落合は、まわりからは、
「冷めた男」
として見られたようだ。
クールという意味での冷めたということではない。何事にも興味を示さない流されるだけの性格に見えていたことだろう。実際に、久志も落合と知り合った時、
――何て暗い男なんだ――
と感じたほどだ。
しかし、彼の中に自分と離れられない何かがあるように思えて仕方がなかった。その思いが二人を親友ならしめたのかも知れない。
学生時代の友達にはいなかったタイプで、お互いに惹かれるものを感じたタイミングも同じだった。感じ方はそれぞれ違っていたのだろうが、惹き合うには、それなりに根拠のある理由がなければいけないように思えたのだ。
お互いに尊敬しているところはあるわけではない。絶対にあいまみれないものがあることは分かっているが、それを他の人に感じたことはない。他の人との間で譲れないことがあるとしても、それはあいまみれてこそ感じることであり、最初から諦めるようなものではないはずだ。
落合の大学時代の経験を久志は知らない。久志も落合には話していないことはいくつもある。
――いずれは話すこともあるかも知れない――
という程度で二人とも頭の中に置いている。その意識が二人の間の結界を見せているのかも知れない。
一口に結界と言っているが、結界だと思っているのは久志の方で、落合の方では結界だとは思っていない。何とか乗り越えられると思っている分だけ、落合の方が、二人の関係について考えが甘いのかも知れない。
しかし、二人の関係をより理解しているのは落合の方だった。そういう意味で二人がうまく行っているのは、相互関係がうまく行っているからなのかも知れない。
落合は、さっきまで久志と二人きりだった空気の中に、美咲が入り込んできたことを知った。
「申し遅れました。私は萩原美咲といいます。このお店には時々来ているので、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ、僕たちは会社の同僚で、俺は遠山久志、こっちは落合和彦です」
そう言って、久志が代表して話をした。今までなら落合の方が適任だったのに、この日は久志の方が饒舌である。いつも社交的な落合が、今日は逆の落合になっていた。
ただ、美咲が気にしているのは落合の方だった。そのことは久志も落合も分かっている。今までなら、落合に興味のある女の子だったら、素直に身を引く久志なのに、その日はいつになく積極的だった。
「美咲さんですね。どうも俺は美咲さんとお会いするのは、今日が初めてではないような気がするんですよ」
黙って聞いていれば、口説き文句のようにも聞こえるので、久志はそんなベタなセリフを口にする男ではなかったはずなのに、自分でもビックリだった。しかし、それを聞いていた落合は別に驚いている雰囲気ではない。むしろ、久志の言葉に納得しているくらいだった。
今まで知っている女性だったら、
「あら、いやだわ。どこかでお会いしましたっけ?」
と、まんざらでもない様子を見せながら、それでいて、相手の様子を伺っているかのような態度に、いい気はしないが、嫌ではなかった。どこかくすぐったい気分にさせられ、わざとらしいにも関わらず、どこか新鮮だったのだ。
それなのに、美咲はそんな素振りは一切見せない。
「そうなんですね。私はそんな意識はまったくないんですよ」
つっけんどんな様子に、
――怒らせてしまったか?
と、少し腰を引いてしまいそうになるところだが、あまりいい気分がしないせいか、なるべく平常心をさらに抑えるような表情をしようと思った。平常心だけでは、わざとらしさがあるので、平常心の中に、気持ちをさらに抑えるようにすれば、相手の態度に渡り合える気がしたからだった。このお店でなければできない態度だったのではないだろうか。
落合を見ると、その視線は美咲を捉えて離さない。美咲はヘビに睨まれたカエル同然だったが、それを見て、久志はこの状況が三すくみであると実感したのだった。
今度は落合が口を開いた。
「美咲さんは、記憶の一部が欠落しているという自覚はないですか?」
あまりにも唐突な質問に、美咲は驚きもせず、ただ下を向いた。
「ええ、その通りですわ」
どうして分かったのかということを聞こうとはしなかった。普通なら、自分のことを相手に看過されてしまったら、相手がどうして気づいたのか気になって仕方がないはずだ。しかも、相手が初対面ならなおさらのこと、
――ひょっとして、この二人、面識があるのでは?
と、思い込んだ久志だった。
「実は、俺も昔の記憶で欠落しているところがあると思っているんですよ」
落合はそう言って、二人のどちらを見るともなくそう呟いた。話の内容からは想像できないようだが、話したというよりも、呟いたと言った方がいいくらい、声のトーンは低かった。
久志は、今まで落合からそんな話を聞いたことはなかった。いきなりの告白で、しかも相手が自分だけではないということが気になったが、だからこそ、美咲を見て、記憶が欠落しているということを看過できたのかも知れない。
「今の落合さんを見ていると、確かにそうかも知れないと思うのは、私も記憶の一部が欠落しているからかしら?」
「いや、そうじゃないんだ。欠落していることに対して自覚しているかどうかということが重要なんだ」
落合は、今度はハッキリと美咲を見つめながら話した。しかし、久志を意識もしている。チラチラと、落合の視線を感じたからだ。
「どういうことなんだい?」
久志は訊ねた。
記憶が欠落しているだけではダメで、さらにそのことを自覚していなければならないというのは、進んだ考え方のように思えた。それを平然と話ができる落合は、何かを悟っているのかも知れないと久志には思えてならなかった。
「俺は、前から自分の記憶が欠落しているという意識はあったんだ。それも子供の頃の記憶なんだけど、この思いは俺だけではないと思うんだが、中学生の頃の記憶よりも、小学生の頃の記憶の方が近い過去のような気がしないかい?」
少し的外れな話を落合は始めた。しかし、この話が前兆となって、肝心な話になってくるはずなので、話が繋がってくることを、密かに久志は楽しみにしていた。
すると、久志が答えるよりも先に、美咲の方が答えた。
「ええ、おっしゃる通り、私にも同じ考えがありました。特に最近は、その思いが強く、記憶の欠落への自覚と同じように、このことも自覚できていたと思います」
「ねっ、このことを自覚している人は結構いると思うんだけど、人には話さないし、話題にすることはないでしょう? 考えられることとしては、このことを当たり前な話なので、いちいち話題にすることはないという思い。そしてもう一つは、考えることはできても、自覚するところまではいかない。つまり、すぐに頭の中で否定してしまうということですね。考えてすぐに否定してしまったことは、よほどのことがない限り、思い出すことはできても、二度と自覚することはできない。結局は堂々巡りを繰り返すということになると思うんですよね」
落合の話はもっともなことに思えてきた。意識と自覚は違うもので、意識は誰にでもできるが、自覚まではなかなかできないということを言っているようだった。
「今の話の中で、後者はありえることだと思うんだけど、前者を感じる人っているんだろうか?」
「中にはいると思いますよ」
落合よりも先に美咲が口を開いた。
「美咲さんは前者なんですか?」
「いいえ、私ではありません。同じような考え方ができる人を知っているという意味なんです」
「その人は女性なんですか?」
今度は落合が聞いた。
「ええ、そうですが?」
「俺は、自覚していることをまわりも当たり前だと感じるような人は、女性に多いと思っているんですよ」
「それはどういうことですか?」
「あまりいい意味ではありませんが。自分が自覚していることをまわりが当たり前だと思っているということは、自分に自信があるくせに、自信を持つということ自体に自信が持てないという中途半端な考えですね。そんな考えをする人は女性に多いと思うのは、そこに女性ホルモンが関係しているように思えるんですよ。すみません、ハッキリとした根拠はないので、他の人には言えないんですが、美咲さんと久志が相手なら、言える気がするんです」
ここまでの話で、落合は根拠がないと言っていたが、久志には十分な説得力を感じた。それはいつものように自分一人だけで聞いているわけではなく、一緒に聞いてくれている人がいて、さらにはその人が女性であり、しかも、落合の想像しているような女性であるということから、久志が感じたことだった。
「僕は、その女性にも興味がありますね」
と、落合が言って、少し唇が歪んだのを感じた。
そこに淫靡なものを感じると、久志は背筋が冷たくなるのを感じた。
夢に見た女性を思い出したからだ。山岸亜衣と言ったその女性。さっき、落合に話したばかりの女を今一瞬思い出した。
しかも、落合と似たところがあると思っていた。曖昧な意識だったが、今目の前で、淫靡な表情を浮かべた落合の表情を見て、曖昧な意識が何となく繋がった気がしたのだ。
美咲は、また話を始めた。
「実はその女性、私も実際にあったという意識はあるんですが、記憶としては曖昧なんです。意識があるのに記憶にない。そんなに昔のことではない最近のことなのに、我ながらどうしてしまったんだろうって思ってしまいます」
美咲の話は要領を得なかった。
「お友達というわけではないんですか?」
「ええ、友達だったという意識はあるんですが、ごく最近会っていないだけなのに、どんどん記憶から消えていくんですよ」
「記憶から消えていくのは、彼女のことだけなんですか?」
「ええ、そうなんです。私の中ではかなりインパクトの強い女性なので、そんなに簡単に忘れていくわけはないと思っていたんですが、他のことの記憶の欠落は感じないのに、その人だけの記憶が薄れていくのを感じるようになったからなんでしょうね。昔の自分の記憶の一部が欠落しているということに気が付いたんです」
美咲は、そう言って項垂れていた。
「その人の存在があったから、自分の記憶が欠落していることを自覚することができた。ということは、あなたにとってその人は、重要な意識を与えてくれた大切な人だということにもなりますね」
落合はそう言った。そして、落合は続ける。
「実は、僕の考えとしては、記憶の欠落は誰にでもあるものだって思っているんです。忘却の彼方に追いやられたというよりも、記憶の奥に封印されたという意識の方が強いでしょう。確かに、記憶の奥に封印されていることが大多数なんでしょうが、中には記憶が本当に欠落してしまっている部分もある。『木を隠すなら、森の中』という言葉があるでしょう? まさにその通り、まるで保護色のように、当たり前だと思っていることにすべて目を奪われてしまい、肝心なことを考える余地がなくなっているのかも知れませんね」
「それはまた斬新な考えだな」
久志は、少し呆れたような言い方をしたが、実際には、その話を聞いて、またしても、背筋に冷たいものを感じた。話をしていて、本当に怖いと感じたのだ。呆れたような言い方は、怖いと感じた自分を悟られないようにした態度であり、そのことも、落合になら簡単に見抜かれているだろうと久志は思った。
考え方は人それぞれ、十人十色と言われるが、そんな中でも落合は限りなく自分に近い考えを持った相手だと思っていたはずなのに、この時は、今までで一番遠くに感じられたと言っても過言ではないだろう。
「落合さんの考え方、私には共感できます。でも、どうしても理解できないところもあるとは思っているんですよ」
美咲はそう言った。
「それはどういうところだい?」
「私の友達だった、記憶が欠落してしまった人ならきっと共感できるだろうと思うところがあれば、その部分は、私には共感できないって思うんです。今、その人がいないので、それがどの部分なのか分かりませんが」
「ということは、君の考えは、その女性によって決まるということを意味していると考えていいのかい?」
「ええ、一部はそうかも知れません。もちろん、私には私の考えがありますから、私の考えとしては、落合さんに近いところがあると思うんですよ。でも、私の中にもう一人の自分がいるような気がして、それが、友達と今でもダブってしまうんですよ」
「本当は、友達に対しての記憶は完全に消えているかも知れませんね」
「えっ?」
落合の言葉に美咲は、驚愕したようだった。
「一部残っているという記憶は本当は友達のものではなく、自分の中に存在しているもう一人の自分かも知れないということですよ」
という落合の言葉を聞いて、美咲は微笑んだ。
今の美咲が見せた驚きの表情は、驚愕によるものではなく、落合に今の言葉を引き出すための作戦だったのではないかと、久志には思えた。落合もそのことを分かっていて、わざとらしく「どや顔」を示し、大げさに振舞って見せたに違いない。
「意識していることを誰もが当たり前のことだと思っているという意識は、実は子供の頃の自分にあったんです。だから、その友達が同じ考えを今持っていると聞いて、きっと隠れていたもう一人の自分が表に出てきたのかも知れません。覚えていないと思っているのは、相手をしていたのが今の自分ではなく、もう一人の自分だったことで、なぜかホッとした気分になったのを思い出すことができそうです」
美咲は、ここで二人と話をするまで、どこまでの自覚があったのだろうか?
元々、最初二人だけで呑んでいたはずだったのに、いつの間にかやってきていて、いくら話に夢中になっているからと言って、ここまで意識がないというのも不思議な感じがする。
マスターも美咲が入ってきた時に声を掛けた様子もないし、まるで止まってしまった時間の中で、動いていたのが美咲だけ、その間に席に着いて、誰もが不思議に感じないような空間を作り上げたのではないかと思うと、美咲という女性の奥深さがどこまでのものなのか、分からなくなってきた。
それにしても、ここまでの想像力の発展は、誰に分かるというのだろう。いや、想像力ではない。美咲にしても、落合にしても、それは意識の問題に過ぎないのだ。それを想像力という言葉にしてしまうのは、二人に対して失礼に当たる。そんなことは落合と二人で話をしている時に分かっていたはずなのに、今ここでもう一人加わることで再認識する久志だった。
「美咲さんが友達だと思っている人と、お会いしてみたいですね」
落合が口を開いた。
「でも、俺はその人を知っているような気がしているんだけど、ここまで来ると、想像の域を出ないかも知れないな」
久志はそう言った。
知っていると口にしたはいいが、さすがに追及されることに恐れを感じ、つい想像という言葉を口にしてしまった。
「想像、大いに結構。想像から、記憶を掘り下げることに繋がることだってあるんだと思うよ」
と、落合は口にした。
さっきまでの落合とは違い、少し声のトーンが高く感じられた。きっとさっきまでと違った感情が含まれているのだろう。そこにはさっきまでとの温度差が感じられ、感覚の違いがこの温度差にあるのだと思うようになった。
久志が美咲の友達を知っていると言った言葉、半分は間違っていなかった。久志はそれを山岸亜衣だと思っている。そういう意味では間違ってはいないのだが、
「知っている」
と口にできるほど、記憶は定かではないことで、
「半分間違っていなかった」
と言えるのではないだろうか。
それにしても、夢の中での山岸亜衣は、いかにも夢でしか会うことのできないような女性だった。もし、現実にそんな女性がいるのだとすると、それは久志が出会うことなどない、まったく違った世界に生きている人ではないかと思えるのだった。
もし、見かけることがあったとしても、決して目を合わせることはない。目が合ったとしても、どちらからともなく目を逸らすに違いない。そして目を逸らすとすれば、十中八九相手からではないかと思っていた。
だが、夢の中で出会ったのが美咲だったらどうだろう?
美咲の方から目線を切るなどということは信じられない。そんなことのできる女性ではないというイメージと、彼女は、一度捉えた視線の相手から、納得できるまで目線を逸らすことはないように思えたからだ。ただ、何を持って捉えたというのかは分からない。それこそ、久志の独りよがりな発想でしかないのかも知れない。
亜衣のことを久志は思い出していた。思い出せば思い出すほど、淫靡なイメージしか湧いてこない。しかし、淫靡ではありながら、神聖さは醸し出されている。
「まるで、『天女の羽衣』だ」
と言わんばかりのイメージが頭をよぎる。
見えそうで見えないエロさが醸し出されているにも関わらず、そこには触れてはいけない神聖さが背中合わせになっている。
神聖さが表に出ているのが、天女の羽衣なら、淫靡さが表に出ているのが亜衣である。つまりは、亜衣に対しての久志の思いは、裏側にある神聖さを認めていながら、表に出ている淫靡さに心を奪われてしまっているということだ。完全に、愛の術中に嵌っていると言ってもいいだろう。
亜衣のことを思い出せば思い出すほど、顔はハッキリとはしてこないのだが、シルエットに浮かんだ姿は、天女の羽衣か、あるいは、古代ギリシャの女神かを思わせた。そういえば、ギリシャ神話にもローマ神話にも、エロスの神様は美しいイメージとして頭の中に残っている。
美咲は二人と話をしながら、最初に二人の話に耳を傾けた時のことを、思い出していた。
美咲は二人が話をしているのは、自分の話だということにすぐに気が付いた。ただ、美咲には耳を傾ける前の記憶がなかった。記憶がなかったというよりも、
――確か、私は寝ていたはずでは?
と思っていたからだ。
寝ていた場所も今から思い出そうとすると思い出せない。どこかで寝ていたという意識があるだけで、それが夜中に自分の部屋のベッドで寝ていたのか、それともどこかで打とうとしていたのかということも思い出せない。
美咲は、時々気が付けばどこかでうとうとしていることに気づくことがあった。眠りに就いた時の前後の意識がほとんどない状態で目が覚めたことを表していたが、眠りに就いたという意識すらないこともあった。
――気が付けば死んでいた――
という事実を、死んでから、死の世界で自覚したような状態である。きっと、死の瞬間の意識は、その瞬間はあったとしても、死の世界では意識できるものではない。ひょっとすると何かを意識する時、一番短い瞬間というのは、死の瞬間なのかも知れない。
死というのは突然やってくる。交通事故などで、突然訪れる死もそうなのだが、死を宣告された患者としても、死を意識はしていても、死の瞬間を想像することはできない。死は怖いものであって、怖いものはそう簡単に想像できるものではないのだ。
したがって、死を覚悟している人も、本当の死は突然やってくるものだと思っていたに違いない。同じ突然でも、交通事故などの突然とは、ニュアンスは違っている。それは精神的なもので、
「どうせ死ぬなら、意識しないで済むように、交通事故のような突然の死がいいかも知れないな」
という話をしている人がいたが、その話を聞いて、美咲も、
――当然のことだわーー
と感じたものだ。
しかし、死を覚悟するということは、最初覚悟するまでには、かなりの体力を使うことになるが、一旦覚悟してしまうと、そこから先は、それほどきつくなく、気を楽に持てる者なのかも知れない。しかし、実際に身体は迫りくる死の恐怖を無視することはできない。死というものを一番実感できるのは、身体だからである。
次第に身体が精神についていけなくなり、無意識に精神と身体のバランスが崩れてしまい、自分では意識していないところで、かなりの労力を消費することになる。そういう意味で、
「気が付いたら死んでいた」
というのは、本当は不謹慎なのだろうが、死の世界にも精神は続いていくのだと思うと、おろそかにできるものではなかった。
死の世界までは、肉体を持っていくことはできない。精神だけは持っていけるが、この世の精神と、死の世界での精神とは同じものなのだろうか?
この世の精神は、
――肉体ありきの精神――
と考えることもできる。
あの世には肉体はないのだから、同じ精神では死の世界では通用しないのではないだろうか。
美咲は、自分の精神と同じものが、死の世界にも広がるものだと思っていた。その考えを変えた時期がどこかに存在したわけだが、それがいつだったのか分からない。
美咲とは少し違うが、落合も似たような考えを持っていた。
死の世界に存在する精神と、この世での精神に違いがあるという意識は、むしろ美咲よりも落合の方が強かった。そもそも、死の世界のことを考えるなど不謹慎であり、非現実的な考えに、落合は頭を巡らせることはないはずだった。
しかし、これもある時を境に、考えが変わったような気がした。その時というのは、夢に見たことが影響していたようだが、どんな夢を見たのか、すぐには思い出せなかった。
落合は、その夢の中に一人の女性が出てきたのを覚えている。それが美咲に似ている女性のように思えたが、そう感じたのは、たった今、美咲を前にしたからである。
最初に感じた相手は、淫靡な女性の雰囲気だった。落合はそんな女性を意識しているうちに、今日久志から亜衣の話を聞かされた。だから、
――以前から意識していた女性の夢を、久志が見たんだ――
と思った。
しかし、考えてみれば、これは少し強引だった。
――久志の話を聞いていて、淫靡な女性の強烈なイメージを頭に描いたことで、以前から意識していたと思っていた――
と感じるようになった。
そう思う方が、自分の考えに合わせるかのように夢を見て、その話を久志がしたんだと思うよりも、十分自然ではないだろうか。それがすぐにはできなかったのは、自分が淫靡な女性のイメージを思い浮かべていたということを、自分の中で自己嫌悪を感じさせるからに違いない。
人の話にあまり耳を傾けることをしない落合は、自分の考えや信念に他の人の考えの影響が及ぶのを恐れていた。人から振り回される人生は、自分で迷って、人に相談したり、それでさらに間違った選択をしてしまうことで後悔することを一番怖かったのだ。
落合は、なるべく人から影響を受けたくないという思いから、友達は極端に少なかった。人から影響を受けたくないというだけの理由では、久志も同じであり、落合と久志の間に立ちふさがっている結界の正体は、このあたりにあるのかも知れない。
落合はそのことを意識していた。久志も同じように結界の存在を意識しているようだが、久志が感じている結界とは、正体が違っているのではないかと思っている。
落合は、
「気が付いたら死んでいた」
という思いを、
――まるでパラドックスのようだ――
と思っている。
逆説として、
「逆も真なり」
という言葉があるように、あいまみれないものも考え方によっては辻褄として考えないのであれば、理解できないこともないという考え方である。
落合は、
――パラドックスと呼ばれるものは、どこにでも存在している――
と思っている。
それはまるで、鏡の向こうに世界があるかのような考えで、鏡を通して見えるものは、鏡の広さを限界としているものだけである。しかし、その向こうに別の世界が広がっているとすれば、見えない死角になった部分が存在し、むしろ死角の方が広いくらいである。向こうの世界に蠢いているもの。誰も想像できるはずのないものである。想像すること自体、暗黙の了解でタブーとされている。それを話すことは、「パンドラの匣」を開けることであり、昔話の、
「開けてはいけません」
というくだりは、まさにその戒めに違いないのだろう。
「気が付いたら死んでいた」
というのも、
「気が付いた時は、すでに死の世界にいることになる。死んでしまったということを誰に話すというのだろう。死の世界の人は皆それを超えてきている人だ。その人に話しても、『いまさら何を』と言われるだけだ」
という理屈になるのではないだろうか。
つまり、死んでいたということを大げさに問題にできないということである。
もし、死んでいたということを気が付いたとすれば、それは本当は死ぬ前の瞬間で、まさに自分の魂が死の世界に入り込んでしまったその時のことをいうのだろう。
だから、本当は死んでいたということは嘘であり、
「死を迎えようとしている」
というのが、本当の理屈であろう。
ただ、死というのは、本当に一瞬のことで、どこからが死というものなのかということを考えると、
――もう、どんなに再生しようとしても、不可能な段階に行った時ではないか?
と思えるが、しかし、本当にそうだろうか?
再生しようとする力はその人の力によるものだが、まわりから、助けようとする努力がある。その努力は、再生を受ける人それぞれでも違ってくるし、または治療する方からしても、違ってくる。その時々の状況に応じて、いくつもの選択肢があったりもする。再生が不可能になるかどうかは、個人差でいろいろなパターンがあるだろう。
それぞれのパターンを考えると、死を目前にして、本当に死んでしまうまでの差は歴然としている。本人の意識が混沌としてしまうと、そこから先がどこの世界にその人がいるのか、疑問でもあった。
「混沌としている時間も、本当は死んでいるのかも知れない」
どんなに治療を施しても治る見込みのない状態だけが、本当に死をまたいだと言えるのかというのは、大きな問題である。
意識が朦朧としている時は、まだこっちの世界に帰ってくることができる状態なのかも知れない。しかし、朦朧が混沌に変わり、こちらからどんなに刺激しても、反応が返ってこない場合は、肉体が抜け殻になっている可能性が高いのではないだろうか。
そもそも、人は死ぬと、魂だけの存在になり、肉体と切り離されるという考え方は、この発想から来ているのかも知れないと、落合は思っていた。
生きている時は魂と肉体の意識など普段からしている人はそんなにいないだろう。しかし、死が近づいてくると、いやが上にもその意識が高まってくるのではないかと思う。
そのことを意識させるために、誰かが死の世界から使わされたと考えるのは考えすぎだろうか。古来より、さらには全世界的にも、死神という考え方は人の気持ちの根底にあり、死を迎えるということは、その死神を自分が引き寄せてしまうからだと思っている人も少なくはない。
本当は誰もがそんなことは思いたくはないだろう。死をまったく意識していない人にとって、死神という考え方はまったくとは縁遠いことであり、考えるまでもないと思っているに違いない。
しかし、死神を意識し始めると、死神はその気配を感じ取って、その人に近づいてくる。
子供の頃のホラー漫画で、死神というものにはノルマがあって、一か月に何人の魂を迎え入れなければいけないかが決まっているという話があった。そのため、死人が少なかった地域を受け持った死神が、ノルマ達成のために、人を殺すという話である。ありえない話に思えるが、他の「ありえない話」に比べれば、信憑性は高いのではないだろうか。
だが、落合は死神に対して独自の考え方を持っていた。
それは、
「死神というのは、一人に対して一人だけいるものだ」
という考えである。
守護霊などは、その人の先祖が複数存在してもいいことだが、死神は違っている。そう思うと今度は、守護霊というものに対して辻褄が合わない発想に行き着いてしまった。辻褄が合わないというよりも、
――考えれば考えるほど深みに嵌り、底なし沼の様相を呈してくる――
と思えることだった。
というのも、守護霊というのは、その人のご先祖様が、この世に戻って自分を守ってくれているという発想である。
つまりはご先祖様にとって時間は立体的なものだと言えるのではないだろうか。
現在生きている人は、今がその瞬間であり、あくまでも時間を立体的に見ることはできない。ご先祖様は死んでいるのに、子孫のために現れるというのであれば、かなり昔のご先祖様にとって、それ以降の子孫は、時間を超越して、すべて守るべき相手だということになる。
しかし、一体誰を守ればいいというのだろう。
ご先祖様が選べるのか、それとも、誰かの指示によっていつの時代の誰を守るかが決まっているということなのだろうか? 今の瞬間を生きている本人には、想像もできない発想に違いない。考えたこともないことが想像を逸脱しているとは一概には言えないだろうが、この場合は言い切れるように思えた。
「気が付いたら死んでいた」
という発想からも言えることだが、やはり現実の世界からだけでは理解できない世界が、過去からずっと結びついていて、今現在という発想ではない世界が広がっているということを示唆していた。
落合は、記憶の欠落と、死の世界との発想を、どうしても切り離して考えることができなかった。
――見つかるはずのない答えを探し求めているようなものだ――
と思っていたが、記憶の欠落も死の世界も、この世の世界の発想とは違う世界のものであり、本当は発想してはいけないものではないかと思っていた。
下手に触れようとしてしまうと、そのまま迷走を繰り返し、二度と迷走を繰り返した考えに戻ることはできない。つまり、迷走を始めた時に感じたことや、迷走を始めたということすれ意識から消えてしまうのではないかと思うのだった。
「私は、自分の欠落している部分の記憶に、他の人の記憶が入り込んでいるような気がして仕方がないんです。それは映し出しているだけで、リンクしていると言える発想ですね」
美咲はそう言って微笑んだが、美咲自身も話したはいいが、今の自分の心境をどう表現していいのか、考えているのだった。
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