(2)遠野鳴海

 黙って返答を待つ篤樹の目の前で、鳴海はしばらく頭の中で考えを巡らせていた。たばこを吸い始めたきっかけについて、いまこの場で彼に打ち明けたところで、それは彼にとって大した影響を与えるものでもなければ、それが原因で彼女自身の精神状態に異常をきたすわけでもなかった。それでも鳴海はなんとなくそれを話すことを躊躇していた。ただでさえ雨のひどい日なのに、暗い話をしてこれ以上湿っぽい空気にするのはあまり賢いとは思えなかったからだ。それにそれを彼に話すことで、その瞬間から自分が本来いるべきレールから外れてしまうような気がした。やらなくちゃいけないことは他にある。彼女は篤樹の同情を買いたいわけでもなければ、慰めてもらいたいわけでもなかった。とはいえ一度それについて考え込んでしまうと、嫌でも脳裏にあの頃の記憶が蘇った。何の素材で作られているのかもよくわからない頭上の半透明な屋根を激しく叩く雨音が、さらにその景色を鮮明に彩らせた。

 寂れた二階建てアパートの一〇三号室──。

 建てつけが悪く、木目調の塗装が剥がれた玄関ドア。玄関のすぐ横にある押し扉は小さな浴室とつながっており、脱衣所はなかった。いちおうその横に洗濯機置き場のような場所はあったのだが、まるで洗濯機の大きさを無視したかのような僅かなスペースしか確保されておらず、そこには結局大きめのゴミ箱をひとつ置いただけで埋まってしまった。そのため、洗い物は週に一度まとめて近くのコインランドリーまで持っていかなければいけなかった。

 クリーム色のタイルが貼られた壁と向き合うかたちで設置されたキッチンには、ガスコンロ横の作業スペースがほとんどなく、反対にシンクは無駄に広かった。隣には二段からなる白い冷蔵庫と、その天板の上に載せた電子レンジがあり、六帖のダイニングには透明のテーブルマットを敷いた四人掛けテーブルと壁付けの食器棚が置いてあった。そして奥には薄い壁で仕切られた和室が二つ並び、片方は居間として、もう片方は寝室として使っていた。鳴海はいつも二枚並べた敷布団の真ん中で、両親に挟まれながら眠っていた。

 鳴海の父親は寝室の窓際でよくたばこを吸っていた。外の景色をぼうっと眺めながら(といってもすぐ隣にアパートが建っていたせいで水色に塗装された外壁しか見えなかったのだが)、下唇を突き出し、前髪を息で持ち上げるように灰色の煙を吐いていた。毎回中度半端に中身を残した缶コーヒーを灰皿代わりに使い、いつもその飲み口からは萎れた吸殻が顔を出していた。夏になると彼は毎日のように白いノースリーブを着ていた。極度のなで肩で好き放題にぜい肉をつけた背中はだらしなく、脇毛は長年放置された雑草のように伸びきっていた。その下には緩めのボクサーパンツを穿き、こちらも処理しきれていない雑草を携えたふくらはぎが印象的だった。それが異性に好まれるような体型だったとはとうてい思えなかった。どうして母はこんな身なりの父のことを好きになったのだろうといつも思っていた。それでも何故か父は女によくモテた。隣町の繁華街でスナックを営んでいた母が家を空けている隙に、彼は母以外の女性と何度も枕を交わした。鳴海に少なくないお小遣いを与え、その代わり小一時間ほど家の外にいるように言い聞かせ、部屋の中に知らない女を連れ込んで時間いっぱいセックスをしていた。一人や二人じゃない。鳴海が把握していただけでも、九人もの違う顔が家を出入りしていた。その中には、当時、鳴海と同じクラスだった男の子の母親の姿もあった。

 それが母にバレたのは、鳴海が小学五年生になった頃だった。原因は父のケアレスミスだった。明らかに自分とは違う女の髪の毛が布団の上に落ちていたらしい。梅雨前線が日本列島の真上で停滞していると朝のニュースで連日報道されていたある日、いつものように寝室の窓際でたばこを吸っていた父のもとへ、母はこれ以上ないくらい険しい顔つきをして詰め寄った。そして父が言い訳する時間も与えず、力強く頬を張った。母は壁にひびが入ってしまうのではないかと心配するほど大きく甲高い声で泣き喚き、そこらじゅうにあった物を手当たり次第手に取っては父に向かってそれを投げつけ、息が途切れるまで繰り返し罵倒した。吸殻の溜まった缶コーヒーは畳の上で横たわり、中から真っ黒い液体がこぼれていたが、二人ともそれを拾おうとはしなかった。父の顔は水面に映っているかのように歪み、母の顔は燃えるように紅潮していた。

 窓の外からは激しい雨音が絶えず聞こえていた。それはきっと神様が気を利かせていたのかもしれない。母の割れるような怒鳴り声が外に漏れないように、そして父のみっともない不貞を外に漏らさないように、世界とのつながりを遮断してくれているのだと鳴海は思った。このことが外にバレなければ全てが丸く収まるのではないかと心のどこかで期待していた。おそらく当時まだ小学四年生だった彼女は、結婚という契りの絶対的効力を信じていたのかもしれない。それまで平穏で幸せだった日常をびりびりに引き裂くような光景を目の当たりにしてもなお、二人は絶対に離婚しないものだと思っていた。

 鳴海は世間一般的な常識というものをあまり知らなかった。一生を誓い合った夫婦が当たり前のように別れていく現実を知らなかった。芸能人同士の離婚報道は、中東で戦争が行われているのと同じくらい自分たちには関係のない外の世界での出来事だと思っていた。むしろ彼女の中で構築していた常識に従えば、生まれたときからずっとそばにいた両親がいきなり別々に暮らすことのほうがよっぽど非常識だった。単身赴任や死別でもしない限り、家族が離れ離れになるなんてありえない。ましてや、ほかの人たちは二人の間に亀裂が入ろうとしていることさえも知らないのだ。これまで通り何事もなかったかのように振る舞えば、周りに気付かれることもない。そもそも母が父の浮気を許してあげればいいだけの話なのだ。喧嘩をしたら仲直りしなさい、と日頃から口うるさく言い聞かせていたのは紛れもなくあなたたちの方ではないか。子供にできることが大人にできないわけがない。これしきのことでわざわざ離婚する必要はない。家族の絆というものはその程度のものではないはずだ。

 しかし間もなく二人は役所に離婚届を提出し、母は鳴海を連れてアパートを出ていった。娘が夏休みの間に母は各種必要な手続きを速やかに済ませ、スナックがある隣町に新しく家を借りた。

 それ以来、父とは一度も会っていない。いまとなっては彼の顔すらはっきりとは思い出せなくなっていた。


「まさか自分がたばこを吸うようになるなんて思ってなかったんだけどね」、鳴海はそう言って空に向かって細く長く煙を吐いた。「お母さんがこのこと知ったら、きっとこっぴどく怒られるんだろうなあ」

 篤樹はその言葉についてしばし考え込み、それから尋ねた。「吸ってること、遠野さんのお母さんはまだ知らないんですか?」

 鳴海は肯いた。「言ってないからね」、彼女はそう言ってたばこの吸い口に親指を添え、中腹より少し奥側を人差し指で軽くノックした。たばこは中指を支点にして、ししおどしのように前に傾いた。燃えかすとなった先端部分が力尽きた線香花火のようにぼてっと灰皿の上に落ちていった。「お母さん、死ぬほどたばこが嫌いだったから」

 篤樹は何も言わなかった。その間に鳴海は何度も天高く細く長い煙を吐き続けた。大学生になる前、過労死でこの世から突然いなくなった母を弔うように。わざわざ職場の後輩にそんなことを打ち明ける必要はない。

「よく吸えましたね」と篤樹は言った。

 鳴海はそれについて少し考えた。おそらく省略されているであろう文脈の前後を推測し、頭の中でそれに適当な言葉をつなぎ合わせた。すると途端に鳴海は自分が彼に軽蔑されているような気がしてきて、何故かそのことが可笑しくなり、ふっと口元から小さな笑い声が溢れた。

「どうしたんですか?」と篤樹は尋ねた。

 鳴海は首を振った。「なんでもないの。ただ自分が情けなくなっただけ」

「どういうことでしょう」

「残念なことに、私はどんなに足掻いたところで血は争えなかったみたいだから」

 篤樹はまたしても口を噤んでいた。そして頭の中で突然なにかに思い当たったように彼は何度か小さく肯いてみせ、それから持ち前の整った目鼻立ちをくしゃっと丸めたような可愛らしい笑みを浮かべた。「なんとなくその気持ちは理解できます」

 鳴海は篤樹の顔をじっと見つめた。その笑顔でこれまでいったい何人の女の子を落としてきたのだろう、と彼女は思った。これもきっと彼の親の血が混ざっているものなのかもしれない。鳴海は気になって彼に訊いた。「篤樹くんのご両親はどんな人だった?」

「ろくでもない人でしたよ」と篤樹はまるで他人事のように明るい声で言った。「それはもう血を恨むほどに」

 鳴海は彼の言葉を意外だと思いながら、口にくわえていたたばこを親指と人差し指でつまんだ。その一連の動きを頭上からずっと眺めていたもう一人の自分が、その姿を勝手に窓際で散々煙を吐いていた父と重ね合わせた。肉厚で長い指に挟まれたハイライト。ゆっくりと優しく吸うことで仄かな甘みとラム酒の香りが口内に広がっていく。ロックミュージシャンがよく好んで吸っていた。

 大学生の頃、鳴海は当時追っかけをしていたバンドマンの真似をしてそれと同じ銘柄に挑戦した。ちょうど母の葬式が終わった直後のことだった。彼女はいつかの父の姿を模倣するように寝室の窓際に立ち、ぼうっと空を眺めながらハイライトをくわえた。もとより、父がその銘柄を吸っていたことは知っていた。それにもかかわらず、どうしてそれと同じ銘柄を避けようとしなかったのかはわからない。両親が離婚して以来、父のことは心の底から軽蔑していた。少しでも父との記憶が蘇ると吐き気を催した。ハイライトをくわえるたびに父の姿が脳裏に浮かび、ひどい頭痛に襲われた。それでも彼女はなぜかハイライトをやめられなかった。きっと当時は母を失ったショックから、複雑で難しいことはあまり考えたくなかったのかもしれない。あるいは心のどこかで、まだのうのうと生きているであろう父の残り香を無意識のうちに強く求めていたのかもしれない。迷子になってしまった幼子が、泣きながらショッピングモールの中を彷徨っているのと同じように。いずれにせよ、ただの興味本位にしてはそれに対する執着が強かった。しかし彼女の肺ではその多量なタールの重さには耐えきれず、結局は一ヶ月ほどでピアニッシモに落ち着いた。どうやら初心者が気軽に手を出す銘柄ではなかったらしい。

「篤樹くんって恋人はいるの?」と鳴海は尋ねた。

「いませんけど」

「……ふうん」

「なんですかその反応」と篤樹は言って笑った。

「ううん、別に。ただ、いないんだなあって思っただけ」、鳴海はそう言ってしばらくたばこの煙に意識を向けた。右に左に小さく揺れながら立ちのぼっていく灰色の粒子は、ある一定の地点を越えていくと溶けるように消えていった。「やっぱりたばこを吸う女は嫌いなの?」

「なんですかいまさら」と篤樹は言った。彼は怪しむような眼差しで鳴海の様子を窺っていた。「別にそんなことはないですけどね。実際に一度だけ、たばこを吸う女性と付き合ったこともありますし」

「どういう人?」、鳴海は間髪入れずにそう尋ねていた。

 篤樹はその問いに対し、わずかに眉間に力を入れた。「そんな気になることですか?」

「いいから教えてよ」

「べつに遠野さんが気にするほどの人じゃありませんよ。遠野さんと比べたら顔もイマイチだし、中身も少し変です。なにしろ毎回のように自分の吐いた煙でむせるような人ですからね」と篤樹は言った。それから思い出したように「あ」と声を漏らし、若干嫌悪感の入り混じったような呆れた笑みを浮かべた。「あとは夜の、をやたらと求めてくる子でしたかね」

「ふうん」と鳴海は小さく肯きながら返事をした。どんなリアクションを示すことが、この場合における最も適切な反応なのかがわからなかった。鳴海は周囲を見回し、他の人の耳には届かないような囁き声で篤樹に尋ねた。「もしかして篤樹くんってセックス嫌いなの?」

 篤樹はそのオブラートに包まない鳴海の物言いに困惑の笑みを示したが、すぐに仕切り直して「そんなことはないですよ」と首を振った。「むしろ好きなくらいですから」

「でもさっきはすごく嫌そうな顔をしてた」と鳴海は指摘した。

「それはその人が、そういう行為を求めてくる割にすごく下手くそだったから」

 鳴海はその返答に対して何も言えなかった。きっと顔も引きつっていた。彼女は自分の不自然な反応を誤魔化すように、とっさに手に持っていたたばこをくわえて下を向いた。重力に耐えられなくなった先端部分の灰がぼろぼろと崩れ、やがて足元に落下した。鳴海はパンプスのつま先には小さな雨粒が点々と残っていることにふと気付いた。それをしばらく眺めているうちに、何の前触れもなく強烈な胸焼けが発作的に彼女を襲った。聞く必要のないことを聞いてしまったからなのかもしれない。しかしそれはすぐに治まった。それから彼女は何事もなかったようにパンプスに付着した雨粒を手で払い、顔を上げた。

「俺、遠野さんの彼氏になれる人は幸せ者だと思います」と篤樹は言って鳴海の頬に優しく触れるような柔和な目を浮かべた。「可愛いし、優しいし、面倒見がいいし、一緒にいて楽しそうだし」

「いきなりなによ、変なこと言わないで」、鳴海はそう言って目線を外した。

 それが軽口であることはもちろん理解していた。口が上手いのは篤樹の長所でもあった。それなのに自然と鳴海の顔は燃えるように熱くなった。顔のあらゆる筋肉が強張り、ねじれて、うまく表情が作れなくなった。どういうつもりでそういった言葉を発したのだろう。そうやって普段から女の子を落としているのだろうか。きっと彼に弄ばれている女の子たちもそれを本気だと捉え、まんまと引っかかってしまうに違いない。少しは自分の立場をわきまえて言動できないものだろうか。こっちの気も知らないで。

 鳴海はそれからしばらく篤樹の顔を直視できなかった。口にくわえていたたばこを外し、深く長く細い息を吐いた。取り乱してはいけない。軽く咳払いをしただけで、喉元に溜まっていた感情が一気に溢れ出してしまいそうになり、慌ててそれを飲み込んだ。

「どうかしましたか?」と篤樹は知らん顔で尋ねた。

「ううん、なんでもないよ」と鳴海は言って首を振った。こちらの感情を向こうに悟られてはいけない。彼女はその場で静かに深呼吸をし、半ば強引に気持ちを落ち着かせてから続けた。「けど仮にもし、私と篤樹くんが付き合えば、きみはきっとまたベッドの上で満足できないかもしれない。ほら、どちらかというと私もセックスが苦手な方だから、きっとあなたを幻滅させてしまうもの」

「そんなの気にしないでくださいよ。その時は俺が優しく教えてあげますから」と篤樹は言って軽く笑った。

「でも、そうはしなかったんでしょう?」

「そんなのは人によりけり、ですよ」

「まあ。ずいぶんとひどいことを言ったものね」、鳴海は動揺をかみ殺して灰皿の上でたばこを軽く叩いた。

「俺は遠野さんのことを褒めてるつもりなんですけど」と篤樹は弁明するかのように言った。

「どうだか」と鳴海は言った。それから目を細めて篤樹の顔を見た。

 ほどなくして二人の間には数秒の沈黙がおとずれた。それを頭上から覆い隠すように激しい雨音が降り注いだ。分厚い灰色の雲はまるで全国の喫煙者によって作り上げられた集合体のようだった。もしかすると雨を降らせているのは自分たちなのかもしれない、と鳴海は思った。そんなことはこの際どっちでもいい。雨の原因がなんにせよ、そのじめっとした空気を吸い続けたせいで肺の中に苔のような何かが生えてしまったような異物感を感じた。さっきから息がしづらいのはそのせいかもしれない。呼吸をするだけでも肩が上下に動いていた。

「さっきからずいぶんと顔が赤くなってますけど、もしかして照れてます?」とやけにニヤついた顔で篤樹は言った。

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