たばこ(No.13)

ユザ

(1)渡邊篤樹

 下向きの矢印が黄色く光ってエレベーターのホームドアが開いた。中には誰も乗っていない。渡邊篤樹あつきは左手で扉を押さえ、先に上司の遠野鳴海とおのなるみを中へ促し、自分はボタンの前に立った。紺色のフェイスタオルを小脇に抱えていた鳴海は背面の鏡の前に立ち、前髪を直しはじめた。

 昨夜から続く大雨の影響で、全館空調のビルとはいえ普段よりもいくらか湿度が高い。篤樹はしばらく鳴海の様子を見ているうちに、冷えと湿気は女性にとって天敵なのです、とテレビで誰かが言っていたことを思い出した。たしかに彼女の茶色い前髪は、小学生が画用紙に描いたわかめのようにうねっていた。

 不意に彼女の視線が鏡越しにぶつかる。

「どうかした?」と鳴海は柔らかい声で尋ねた。

「いえ、なんでも」、篤樹はそう言って首を振った。

 とっさに目を逸らした先にアメンボのような小さい虫を見つけ、篤樹はなんとなくそいつに向かって軽く息を吹きかけた。気味が悪かったわけでもなければ、殺す気もなかった。ただの暇つぶしだ。極細の身体は簡単にその風で吹き飛ばされそうになるものの、なんとかそれを必死に耐え凌いでいた。その様子は、この時期から全国ニュースでもよく見かける、沖縄に直撃した大型台風で激しく枝葉を揺らすリュウキュウマツを連想させた。

「っていうか、無理やり連れ出しちゃってごめんね。さっきまで営業資料作ってたでしょう」、いつの間にか隣に並んでいた鳴海は、ホームドアの上部で点滅している階数表示灯を見上げながらそう言った。「どう、仕事にはもう慣れた?」

「そうですね。いまのところ目立って難しい作業はないので」

「お、さすが元商社マン。仕事覚えるの早いね」

「どうも」、篤樹はそう言って『ひらく』ボタンに人差し指を置いた。やがてどこからともなくオーブントースターのようなベルが鳴り、エレベーターが一階へ到着したことを知らせた。「どうぞ」

「さすがは元商社マン」と鳴海は言って先に降りた。

「茶化さないでください」と篤樹は言って彼女のあとを追った。

 篤樹が半年前まで勤めていた商社は規模の小さな会社だった。年収はそこら辺のサラリーマンと大差ない。その割に仕事量は多かった。みなし残業をいいことに、遅いときは日を跨ぐまで社内に残されたこともあった。単に人手不足だっただけなのか、あるいは最初から労働基準法など守る気がなかったのか、とにかく彼は『商社マン』という響きの良いステータスを手放したくないがために、そんな劣悪な環境の中に四年間も身を置いていた。とりあえず三年は働いたほうがいい、というどこの誰が口にした言葉なのかもよくわからない助言を忠実に守ったかたちだ。その後、篤樹は二ヶ月ほどの無職期間を経て、新宿の真ん中にある高層ビルに事務所を構えた、設立してまだ八年と日が浅いコンサルティング会社に転職した。

 エレベーターを出てすぐ横の案内板に記載されている会社は、どこも二十年以上の歴史をもつ中堅企業ばかりで、最上階には時価総額がウン兆円にも及ぶ大手企業の名前が記載されていた。その並びを見るたびに、篤樹は自分の将来を明るく見通すことができた。いずれは自分たちも──という意欲が自然とわいてくる。まだ従業員が総勢百人規模の小さな会社だからこそ役員だって狙える。取締役だって夢じゃないかもしれない。そうなれば何かしらの縁で芸能人と付き合い、結婚することだってありえないことではなかった。女優やタレントがどこかのよくわからない社長と籍を入れるといった報道はこれまでにいくらでも見てきた。彼女たちにとっての『一般男性』とは、芸能界に属さず、それでいてある程度の社会的地位と億近い収入のある男性のことを指している。決して中小企業の『商社マン』なんかでは満足しなかった。理想は誰もが知る国民的女優と付き合ってみたかった。朝ドラのヒロインを務めた女優だったらなお良い。あるいは、大学生の頃から応援している人気アイドルグループの中心メンバー。ともかく篤樹は誰もが羨むような恋人の隣を歩いてみたかった。妄想はとどまるところを知らずに膨らんでいく。

「さっきから何ニヤついてんの?」、体ひとつぶん前を歩いていた鳴海は後ろを振り返ってそう言った。「思い出し笑い? さては変態だな」

「違いますから。勝手に変なレッテル貼らないでくださいよ」と篤樹は言って苦笑いを浮かべた。

 二人はビル正面にある自動扉の出入口ではなく、脇にある回転扉の通用口から外に出た。相変わらず空は灰色の分厚い雲に覆われていた。やがて鳴海の声がほとんど聞こえなくなる。いまどき誰かがブラウン管テレビでモノクロの砂嵐映像を垂れ流しているのかと錯覚してしまうほど、激しい雨音が大音量で二人の会話の邪魔をした。篤樹は前方を指差す鳴海の案内に従い、屋根付きの屋外喫煙所まで走って向かった。扁平なパンプスを履いていた彼女は持参していたフェイスタオルを傘代わりにするように頭上に広げ、軽快な足取りで水溜りを左右によけながら進んでいく。何の用意もしていなかった篤樹は無謀にもからだ一つで雨の中へと突っ込み、案の定たった数秒間雨に打たれただけで着ていたシャツは下着が透けるほどに濡れてしまった。それだけでなく、頭上にばかり気を取られていたせいで足元に広がっていた水溜りに気付くことができず、勢いよく跳ねあがった雨水はスライムを壁に思い切り投げつけるように、スラックスをふくらはぎにべったりと貼り付けた。靴下も爪先までぐっしょりと濡れている。控えめに言っても最悪の気分だった。どうして傘を持ってこなかったんだろう。

 篤樹はそのときになってようやく根本的な問題について振り返った。事務所を出る直前に鳴海が口にした、「屋外って言ってもすぐそこだから、かえって邪魔になると思うよ」という言葉を鵜呑みにしたのがいけなかった。当の本人は軽く濡れただけの白いブラウスの袖を手で払いながら、びしょ濡れになった篤樹の姿を見て呑気に笑っていた。

「ごめんごめん。傘、やっぱり必要だったね」と鳴海は軽い口調で謝った。

「いや、ほんとですよ」と篤樹は言って濡れた頭を両手でくしゃくしゃとやりながら乾かした。そしてわざとっぽく目を細めて鳴海のことを見た。「笑ってる場合じゃないですからね?」

 二人は煙で顔を覆われているサラリーマンの間を縫って場所を移動し、比較的空いていたスタンド灰皿の前で立ち止まった。その間も篤樹は他のサラリーマンたちから、なにごとかといった視線を次々に向けられ、要らない注目を浴びた。コンクリートの地面には彼の歩いた道筋を記すように、滴る雨水の痕が残っていた。鳴海は雨除けに使ったフェイスタオルで自らの腕を拭き、それからそのタオルを篤樹に貸した。それはすでに若干濡れていたが、ないよりはマシだった。

「ごめんってば。あとでコンビニで何か奢ってあげるから許してよ」

「コンビニくらいで済まそうとしないでくださいよ」と篤樹は言って、渡されたタオルで顔と腕を拭いた。シャツとスラックスについては自然に乾くのを待つことにした。「六本木の焼肉くらい連れて行ってもらわないと許しませんから」

「はあん?」と鳴海は言って眉間に深々としわを寄せ、不慣れで不自然な関西弁を駆使してそのあとを続けた。「後輩だからってあんま調子乗ってると、あとでド突き回したるからな」

「遠野さん、そういうのは似合わないんでやめた方がいいですよ。聞いてるこっちが恥ずかしくなるんで」

「なんだと、こるぁあ」、鳴海はぎこちない巻き舌を使ってわざとらしく顎をしゃくった。

「そういうのが恥ずかしいって言ってるんですけど」と篤樹は言った。「もう俺たち今年で二十七ですよ」

 鳴海は篤樹と同い年の上司だった。

「べつにいいじゃない。こう見えてもヤンキー漫画が大好きなのよ」

「だからって影響受けすぎでしょ」

「そういうこと言う人ってつまんないと思う」、鳴海はそう言って頬を膨らませた。突き出した唇はきれいな桃色をしていて、潤いとハリがあった。つぶらな瞳は篤樹の顔をまっすぐに見つめている。それからしばらくして彼女はピンと張った糸をぷつんと切るように柔らかい笑みをこぼし、黒いスラックスのポケットに手を突っ込んだ。

 ポケットの中から出てきたのは白いキャラメル箱と安っぽいライターだった。その可愛らしいデザインのパッケージを一目見た瞬間に篤樹はそれがピアニッシモだと認識する。そのことをわざわざ口には出さずとも、彼は心のどこかでその銘柄を吸っている鳴海に対して馴染み深い感覚を抱いていた。

「あれ、篤樹くんは吸わないの?」と彼女は尋ねた。

 篤樹は苦い表情を浮かべながら小さく肯いた。「そうっすね。吸わないって決めてるんで」

「そうだったんだ。じゃあ、なおさら悪いことしちゃったね」と鳴海は言って一瞬だけ申し訳なさそうな顔をしたが、すぐに気持ちを切り替えた。「でもまあ、こういうのもたまにはいいじゃない。先輩の吐いた煙を吸った後輩はよく育つ、って言うでしょ?」

「そんな格言聞いたことないんですけど」

「はいはい、そういう細かいことはいいから」と鳴海は言って、箱から抜いたたばこを篤樹に見せつけるように口にくわえた。そして彼女はおもむろに手に持っていたライターを無言で篤樹に差し出した。鳴海は後輩に向かって何か電波信号を送るように右目でウインクをし、くわえた紙巻の先端を器用に上下に動かした。

「え、なんですか?」と篤樹は尋ねた。

「先輩のたばこに火をつけることも後輩の務めでしょ」、鳴海はもごもごとした口調で命令した。「ヤンキー漫画でそう言ってた」

「ええ……」、篤樹が露骨に嫌な顔をすると、それを見た鳴海はやけに嬉しそうに笑った。

「いいじゃない。一度でいいからこういうのやってみたかったんだよ」

「他の人にやってもらえばいいのに」

「篤樹くんが相手だからやりたいんだよ」と鳴海は言った。「もしかして、たばこの煙が苦手だったりする?」

「いえ、べつに苦手じゃないですけど」と篤樹は言って首を振った。嘘ではない。むしろ彼はその匂いに慣れていた。「でもなんか屈辱的ですよね」

「きみみたいな人間はもっとたくさん屈辱を味わうべきだよ」

「なんすかそれ」

 篤樹は仕方なく鳴海からライターを受け取り、小さく揺れる炎の横に左手を添え、筋の通った綺麗な鼻に火先があたらないよう注意を払いながら、言われた通り彼女がくわえていたたばこに火をつけた。

 一瞬だけ赤く灯った先端は、瞬く間に灰となって枯れていく。鳴海は篤樹の顔にわざと煙を吹きかけ、それに篤樹が顔をしかめると、彼女はまたしても嬉しそうに微笑んだ。人が嫌がるようなことを平気でするような女は嫌われますよ、と彼は言ってやった。篤樹くんよりはマシだから、と彼女は鼻で笑った。

「遠野さんっていつ頃から吸ってるんですか?」

 篤樹はライターを鳴海の手に返した。

「初めてたばこを吸ったのは大学生の頃かな」と鳴海は答えた。それから新品のピアニッシモを一本抜き取り、それを篤樹の顔の前で軽く揺らしてみせた。「せっかくだから、この際に篤樹くんも吸ってみなよ。美味しいよ?」

「やめときます」と篤樹は言って鳴海の提案を即刻で断り、目の前にぶら下がっていたたばこを手で押し返した。

 篤樹は昔から身体の中に自らすすんで毒を混入している喫煙者の心理があまり理解できなかった。どうしてわざわざ寿命を縮めるようなことをするのだろう。ストレスを発散させる方法なんて、その他にいくらでもあるはずなのに。自然と母親の顔が脳裏にちらついた。若い頃から水商売の世界に染まっていた影響なのか、篤樹が物心ついたときにはすでにヘビースモーカーと化していた彼女は、そのせいで若くして肺がんを患い、まだ当時中学二年生だった息子をこの世に残して天国へと先立った。

 篤樹は母の葬式でおよそ三年ぶりに再会した父親に引き取られた。彼は母よりも一回り歳上の五十代半ばの女性と再婚を果たし、まだ一歳にも満たない双子の娘と四人で幸せそうに暮らしていた。彼らの住んでいた5LDKの一軒家は、それまで篤樹が母と二人で住んでいた家賃四万円の小さなアパートとは比べものにならないぐらい立派で、初めてその家を目の当たりにしたときには思わず笑いがこみ上げてきた。離婚したあとも懲りずに色んな若い男に大金をつぎ込んでいた母とは違い、父は一歩一歩着実に勤めていた会社の役員にまで上り詰めていた。ぜったいに母のようにはなるまい、と決意したのはその時だった。頑なにたばこを吸おうとしなかったのは、その頃の決意が篤樹の中で強く影響していたからなのかもしれない。

 それでも川の水が行き着く先は必ず海であるように、何もせずとも必然的に、篤樹の自我は歳を重ねるにつれて在るべき方向へと流され始めた。そのたびに彼は何度も何度もオールを漕ぎ、その流れに逆らおうとした。しかし結果は同じだった。それはほとんどランニングマシンの上を走っているのと変わらなかった。時間と体力だけが消耗していった。いつまでたってもあの人の面影を振り切ることなんてできやしない。どんなに気を張っていても結局はいつもどこかの瞬間でその糸は途切れ、手を伸ばせば容易に掴めそうな誘惑に気を取られ、つまずき、転び、流され、諦め、そしていつも次の日の朝がくれば開き直った。

 いずれにせよ、それはさながら海に浮かぶ浮島のように、倫理観や葛藤を含むすべてのしがらみから切り離された精神的浮遊感のようなものを彼に植え付けた。その感覚は当人さえ気づかないうちにいつの間にか全身に根を張り、あらゆる神経の領域を蝕んだ。いつからだろう。難しいことは極力考えず、面倒なことになると善悪の判断さえ省略してしまうようになったのは──。

「たばこを始めたきっかけってなんだったんですか?」と篤樹は尋ねた。

 鳴海はそれに何も答えず、自分の吐いた煙をじっと見つめながらしばらく何かを考えていた。屋根を叩く雨音と周りにいたサラリーマンの話し声だけが、篤樹に時間の経過を教えてくれていた。

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