(4)遠野鳴海

 終業時刻が近づくにつれて、事務所内には慌ただしさが駆け込み乗車をするように舞い込んでいた。そんなせかせかとした雰囲気の中で、鳴海は今日中に終わらせなければならなかったタスクを早々に放り出し、会社からほど近い場所にある和食居酒屋に電話をかけていた。彼女にとってそれは仕事よりも優先すべき重要事項だった。

「あ、はい。いちおう予約は遠野でお願いします。はい、二名です。できれば個室でお願いしたいんですけど……はい、はい、あ、じゃあその掘りごたつの部屋で。あの、ちなみにそこの店って喫煙は可能ですか? あ、ほんとですか。はい、はい、じゃあそれでお願いします。失礼します」、事務所の窓際で通話していた鳴海はガラス越しに見える隣のビルに向かって何度か軽く頭を下げ、向こうから通話が切れるのをしばらく待った。やがて耳元でツーツーツーという断続音が聞こえ、彼女はスマホを緑黄色のワイドパンツにしまった。

「大丈夫そうですか?」

「わっ」、突然後ろから聞こえてきた声に驚いた鳴海は、とっさに手足を甲羅の中に収納する亀のように身体を縮こめた。「なんだ篤樹くんか、びっくりさせないでよ」

「すみません、驚かすつもりはなかったんですけど」、後ろに立っていた篤樹は鳴海の驚く反応を見て笑った。

「仕事は終わったの?」と鳴海は尋ねた。

「まあ、一通りは」と篤樹は返事をした。

 鳴海は篤樹が手に提げていた黒いレザーのトートバッグを遠目に覗いた。その中にはすでに電源を落としたノートパソコンが収納されていた。準備万端、といったところか。あるいは楽しみで待ちきれない、といったあどけなさがその様子からは窺えた。とはいえ定刻まではあと十分ほど残っている。彼の上司としては何もせずにぼうっとしている部下をそのままにしておくわけにはいかなかった。

「営業資料の印刷頼んでもいい?」

「それはかまいませんけど、時間的に間に合うんですか?」と篤樹は心配した顔で尋ねた。

 鳴海は左手首に巻いた腕時計に目を落とした。いつも見慣れたダニエルウェリントンのクラシックペティートのメルローズ。ローズゴールドのメッシュベルトとシンプルなデザインのホワイトの文字盤は汎用性があり、どんなシーンにも馴染んだ。それは大学時代に出会った親友とお揃いで買ったものだった。鳴海は多くのものを彼女とお揃いにした。洋服、靴、バッグ、ネックレス、好きなバンドマン、集めているヤンキー漫画、それからたばこの銘柄まで。彼女は鳴海以上に肺が弱かった。たばこもきっと無理をして吸っていたに違いない。彼女は自分の吐いた煙でむせるような人だった。

「大丈夫だよ」と鳴海は言って肯いた。時計の針は六時二十一分を指している。予約した店はここから歩いて十五分ほどで着く場所にあった。「七時半に予約してあるから、少し残業したくらいじゃ遅れない」

「それならいいですけど」と篤樹は言って早速印刷に取り掛かった。

 彼は近くのフリーデスクの椅子に提げていたトートバッグを置き、中からノートパソコンを取り出した。営業資料のデータは社内の共有フォルダの中に保存されている。それをA4紙に出力し、ホッチキスで留め、透明なファイルに入れるまでが一連の流れだった。そのすべての作業が完了するまでに、おおよそ五分はかかる。鳴海はその間にもう一本電話をかけた。


 二人は七時を過ぎた頃に会社のビルを出た。

 外はまだいくらか明るかった。日が経つにつれて夜の時間がだんだん短くなっているように思えた。あるいは、立ち並ぶ家電量販店や飲食店の照明がそうさせているのかもしれない。生ぬるいビル風は二人を繁華街へといざなった。新宿歌舞伎町の入口付近にその店はあった。ぎりぎり夜の街には侵食されていないところに。

 店の前に着くと鳴海は篤樹に尋ねた。「いまさら訊くけど、篤樹くんって一人暮らし?」

 彼はしばらく間を空け、一人ではないです、と答えた。

「実家?」

「まあそんなところですね」、篤樹は若干申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「気にしないで」と鳴海は言って首を振った。「でも大丈夫? もしかして夜ご飯とか用意されてたんじゃない?」

 平気ですよ、と篤樹は言って笑った。「最近はまっすぐ家に帰ることの方が少ないですし、それにうちに帰ってもまずい料理を食わされるだけなんで」

「……へえ、そっか。そりゃ可哀想だ」

「でしょう」と篤樹は言った。「それよりも早く店の中に入りませんか?」

「あと少しだけ待って。もうすぐ来ると思うから」

 篤樹はしばらくそれについて考えていた。まるで頭の中で違う国の言語を翻訳しているみたいに、険しい顔つきで口を結んでいた。

「あれれ、もしかして言ってなかったっけ?」と鳴海はとぼけた顔で尋ねた。

「言ってないですよ。俺は遠野さんと二人きりでご飯食べるのかと思ってたんですから」

 鳴海は首を振った。

「ちょっと待ってくださいよお」と篤樹は言った。その声には決して小さくはない落胆が滲んでいた。「俺は遠野さんが付き合って欲しいっていうからついてきたのに」

 がっかりしたように肩を落とした彼に鳴海はすかさず朗報を告げた。「心配しないで。これから来てくれるのは私がこの世で一番可愛いと思ってる女の子だから。その子を是非とも篤樹くんに紹介したいのよ」

「ほんとに可愛いんですか?」と篤樹は言って疑うような目で鳴海の顔を見た。それから彼は自嘲するようにふんっと鼻を鳴らし、罪を白状するように小さな声でぶつぶつと言った。「てっきり、遠野さんは俺のことを狙ってるんだと思ってましたよ」

「そんなわけないじゃん」、鳴海はそう言って首を振った。「私、こう見えても嘘つきは嫌いなんだから」

 篤樹は深いため息をついた。「どういう意味っすか、それ」

 鳴海はそれ以上何も言わなかった。やがて遠くから二人のもとへ近づいてくる一人の女性の姿に気付き、彼女に向かって大きく手を振った。その様子を隣で見ていた篤樹は前かがみになり、その女性の姿を捉えようと目を凝らした。はっと息を呑むような音が耳元で聞こえたのは、その直後のことだった。みるみるうちに緊張感のなかった彼の顔には細い糸が巻き付けられていくみたいに、口元がおかしな方向へと曲がり、まぶたが絶えず痙攣し、頬が石のように強張っていくのが手に取るようにわかった。動揺を隠せない様子の篤樹を横目に、鳴海はすぐ目の前で立ち止まった親友に向かって優しく微笑みかけた。

「おまたせ」と親友は篤樹に向かって言った。「ごめんね、私が鳴海に無理言って頼んだことなのよ」

 いきなりその場から走って逃げ出そうとした篤樹の腕を、鳴海はとっさに掴んで絶対に離さなかった。

「逃げ出さないで、って約束したじゃない」

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たばこ(No.13) ユザ @yuza____desu

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