(3)渡邊篤樹

 特別扱いをされていることは自覚していた。普段から社内の人間とほとんど交流を持とうとしない鳴海が、なぜか篤樹ばかりを狙いすましたように喫煙所へ誘うのだ。彼がたばこを吸わないことを知った上でそのような行為に及ぶのだから、そこに何の思惑もなかったと考える方が不自然だった。鳴海は間違いなくを抱いていた。だからいつも決まって、仕事とは関係のないプライベートなこと(主に恋愛関連)ばかりズケズケと遠慮なく踏み入ってきたのだ。これまで一体どういう恋愛をしてきたのか、どんな子が好みか、反対にどんな子が苦手なのか、何人の女性と付き合ってきたのか、交際した女性とはいかにして出会ったのか、積極的にアプローチをかけるタイプなのか、浮気したことはあるか。質問攻めに遭うたびに篤樹は就職活動の圧迫面接を思い出した。鳴海は事前に入手していた篤樹に関する履歴書を眺めながら、そこに記載されている内容と実際の回答との間に齟齬がないかどうかをひとつひとつ真剣な眼差しで点検しているようだった。

 篤樹はその質問に嘘と本当を交えながら答えた。わざわざ職場の上司に自分にまつわるものをすべて正直にさらけ出す必要はないと思った。もちろん相手のことをより理解していた方が仕事が円滑に進むのかもしれない。しかし、ありのままの自分の姿を誰もが受け入れてくれるとは限らなかった。むしろ鳴海は間違いなくそれに失望してしまうような気がした。それなら無難な嘘を口にしてうまくやり過ごした方がましだと思った。正直になにもかもをさらけ出したからといって、相手に幻滅されないという保証はどこにもないのだ。最悪の場合、それがきっかけで仕事に悪影響を及ぼすことだってある。

 女性という生き物が基本的に減点方式でものを測っていく傾向にあることを、篤樹は自身の母親を見て学んでいた。彼女たちの頭の中にはあらかじめ自身の理想像に沿って作成されたチェックシートが用意され、それにチェックを入れながら相手のことをじっくりと見定めていくのだ。そして重要項目についてはそれぞれに個人差があった。たとえば、どんなに高給取りであろうと外見が悪ければ無慈悲に切り捨てる者もいれば、反対にどんなに悪人だろうと金さえ持っていればいくらでも愛を捧げられる者もいた。その点、母は若さに重きを置いていた。未成年は除いて、若ければ若いほど彼女の目の色は変わった。支配欲が人一倍つよかったのかもしれない。にもかかわらず飽き性だった彼女はことさら感情が冷めていくのが早かった。減点していく項目がいちいち細かいのだ。歩き方が少し内股気味だったからという理由で別れたこともあったくらいに。

 幸か不幸か、昔からそういった自己中心的にものを考える女性を間近で見てきたおかげで、篤樹は日常的に女性の行動の節々からその人が本能的に何を嫌い、何を好んでいるのかについて観察することが癖になっていた。その的中率においてはこれまで彼が歩んできた人生の実績が物語っていた。その気にさえなれば、どんな女性でも口説き落とすことができるという自負があった。発言のひとつひとつから相手がどんな人間なのかを慎重に見定め、その声色や表情から相手の感情を正確に読み取り、最終的にはいつだって相手が最も欲しがっている適切な言葉を導き出すことができた。それは篤樹にとって中学生レベルの数式を解くことよりも簡単なことだった。


「これ、わたしの親友の話なんだけどね」と鳴海は前置きをして煙を吐いた。

 連日の雨が嘘だったかのように晴れ渡った空の下、二人はいつもと同じように喫煙所で休憩していた。時刻は午後三時を少し過ぎたあたりのことだった。ちょうど各社の営業マン達が外回りを終えてひと段落する時間帯なのか、喫煙所は額に汗をかいたサラリーマンで渋滞していた。その多くが誰かと談笑しながら気を休めるようにたばこをくわえていた。膨らんだマチ付きの茶封筒を大事そうに抱えながら、強張った顔つきでたばこを吸っている者もいた。きっとこれから大きな商談を控えているのだろう。その他にも何かに追われるようにスマホをチェックしている者もいた。

「実は彼氏に浮気されてたみたいなの」と鳴海は言った。

「浮気、ですか」と篤樹は言った。とりあえず最後まで話を聞こう。意見するのはそれからでも遅くない。

 鳴海はたばこの灰を落とし、短くなったそれをまた口にくわえた。それから一度、左手首に巻いた腕時計に視線を落とし、時間の経過を確認した。その腕時計は篤樹も見覚えのある代物だった。つい最近よく街で見かけるというよりは、ずいぶんと昔からそれを知っているといった感覚に近かった。どこで見かけたんだろう。しばらく頭を巡らせたが思い出せなかった。あるいは、比較的飾り気のないシンプルなデザインが彼にそう思わせただけなのかもしれない。いずれにせよ篤樹はその腕時計からしばらく目が離せなかった。

「聞いてる?」という鳴海の声に篤樹は肯いた。彼女はどこか不満げな表情を浮かべて話を続けた。「二人は同棲しているんだけどね、あるときから彼の家での振る舞いに関して違和感を覚えるようになったの。態度があからさまにそっけなくなったり、帰りが遅くなることも増えた。キスもセックスもしてくれない。日が経つにつれてその不安は大きくなっていくばかり。だからついにその子は彼がお風呂に入っている隙にこっそりスマホをチェックするようになってしまった。まあ彼の方も馬鹿じゃなかったみたいだから、ラインの履歴なんかは抜け目なく消してたみたい。でも、文字を入力する際の予測変換機能までは気が回っていなかった。『あ』と入力しただけで、すぐに『会いたい』って言葉が出てきたの。その時点で怪しいと思った。とはいえ、それだけでは浮気されているという確証が得られなかった。だから他の文字も入力してみた。でも次の瞬間には愕然としてしまった。『エッチしたい』、『気持ちよかった?』、『興奮した』、『好きだよ』、『次はいつ空いてる?』なんて言葉が次々に出てきたんだからね。まるでバスツアーのガイドさんに『続いてはこちらです、その次はこちらです』って旗を振って導かれているかのようにね。しまいには女の子らしき名前が出てきた」

「予測変換機能ですか……」、篤樹はなるほどと思った。たしかにそこまで注意してみたことはなかった。あとから自分のスマホでも実際に試してみよう。女の子の名前が一人や二人は簡単に釣れるかもしれない。

 でさ、と鳴海は話を続けた。「今度はその女の子らしき名前を連絡先の中から探し当てるの。メール、電話番号、ライン、インスタ、ツイッター、その他SNSのすべてでその名前を検索すればきっとその中のどれかにはヒットするはず。そこからはもう強硬手段に出るしかない」

「キョウコウシュダン」と篤樹は復唱した。

 鳴海はゆっくりと深く肯いた。「まずはその女の子の連絡先を自分のスマホに転送させるの。それから自分のスマホでその女の子宛にメッセージを送る。『あなたがこの間セックスをした男は私の旦那です。あなたは不倫をしています。もし訴えられたくなければ、旦那との間で交わされたメッセージのやりとりをすべて写真に撮り、こちらに送りなさい。そして旦那との縁を切りなさい。理由はどうであれ、今後一切のメッセージのやりとりも許しません。さもなくば、ただちに訴訟を起こします。そしてあなたの職場や実家にこの事実を言いふらします』といった具合にね。まあ、実際に結婚はしてないんだけれど、それくらい言ったの方が相手の女性も罪の重さが感じられるから」

「ほとんど脅迫ですよね」と篤樹は言って顔をしかめた。「でも、そんな文面に引っかかる人っているんですか?」

「いたのよね」と鳴海は言って薄らと笑った。「しかもそれが一人じゃなかった。予測変換で女の子らしき名前が複数人でてきた時点で、なんとなく嫌な予感はしてたんだけど、彼は隠れて何人もの女性を股にかけていた。把握しているだけでも七人はいたかしらね」

 篤樹はしばらくそれについて考えた。そこまでの話の内容を聞いて、なんとなくそれは鳴海自身が経験した出来事だったのではないかと思い始めていた。彼女があらかじめ口にした「友達の話なんだけど」という前置きは、いまやこれから自分の抱えている問題について打ち明けるための定型文にもなりつつあった。篤樹はその真意について確かめてみたいという衝動に駆られていたが、とはいえわざわざ彼女に野暮なことを言わせるわけにもいかなかった。

「大変でしたね」と篤樹は言った。

「他人事みたいに言わないでよ」と鳴海は目を細めてから言った。みるみるうちにその表情がほどけていくのが手にとるようにわかった。真剣に相談したのが途端に馬鹿らしくなったと思われてしまったのかもしれない。やがて彼女は、その顔に安堵なのか諦観なのかよくわからない感情をまとわせた力のない笑みを浮かべた。

「ほんと酷いヤツですよ、そいつ」

「ほんとにそう思ってる? きみの言葉はあまり信用できないんだけど」

「本当に思ってるよ。当たり前じゃないか」と篤樹は言った。それまで敬語だった口調がつい砕けてしまう。同い年だから仕方ないと彼は開き直った。「そういう奴は一度、思い切りぶん殴られた方がいい」

「一発じゃ足りないよ」と鳴海は言って首を振った。

「じゃあ顔の原型がなくなるまで、っていうのはどう?」

「いいじゃん、それ。のった」、鳴海はそう言って手に持っていたたばこを口元に戻した。それから目を細くして篤樹の顔を見た。「そのときになって急に怖くなったから逃げ出す、とかナシだからね」

「わかってますよ」と篤樹は肯いた。

 鳴海はゆっくりとニコチンを肺に含み、灰色の煙を一気に吐き出した。「それにしても男って本当に馬鹿よね。浮気していることがすでにバレていることにすら気付いていないんだから。ほら、いかなる時も当事者意識を持たない人っているでしょう? 彼はきっとそういう人間なのよ。自分は誰も傷つけてないと本気で信じ込んでいる。本当に醜いと思わない? どうしてまたそういう人を好きになっちゃったのかしらね……」

 篤樹は何も言わなかった。鳴海の吐いた後悔を滲ませた煙がやがて、時間をかけながら空気中に薄く引き延ばされるように溶けていくのをじっと眺めていた。

「女って面倒くさい生き物よね。彼に浮気された事実は絶対に変わらないというのに、証拠だってすでに十分すぎるほど出揃っているのに、それを未だに嘘であって欲しいって本気で願ってるんだもの。ほんと馬鹿。冷静に考えれば小学生でもわかりそうなことなのにね」

「まだその人のことが好きなんですか?」と篤樹は尋ねた。

「どうだろう。正直、好きなのかどうかもよくわかんなくなってるんだと思う」と鳴海は言った。その声はずいぶんと重たかった。「そんなことよりもたぶん、これまでずっと騙されてきたことを認めたくないだけなんじゃないかな。ちゃんとそこに本物の愛が存在していたことを信じたいのよ。そうしないと、これから何を信じていいのかもわからなくなる。恋は盲目ってよく言うけど、場合によっては失恋した後に何も見えなくなってしまう恋だってある。いずれにせよ、何かを失うことにはそれ相応の覚悟が必要なの」

「じゃあいっそのこと、そういう面倒なことは何もかも忘れてみませんか」

「どういう意味?」と鳴海は言った。

「俺だったら、嫌なことをすべて忘れさせてあげられます。だからなんでも頼ってください」、篤樹はそう言って鳴海とのセックスを自然に頭の中で想像していた。どうしてそんなことが自分の身に起きていたのかはわからない。ともかく彼の潜在的な何かが、鳴海のことを強く求めていた。

 篤樹は緑黄色のワイドパンツや白い花柄のブラウスを脱がせているところを頭に思い浮かべた。ベッドの上で鳴海の凛とした強気な顔つきがくしゃくしゃに歪み、倫理観や理性を投げ捨てて快楽に溺れている姿を想像した。そのほどよい肉付きといい、服の上からでも見てとれる豊満な乳房といい、きっと二人の身体の相性は悪くないだろう。そこに競技性の上手い下手はあまり関係ない気がした。俺はこの人が渇望しているものを満たしてあげられる。締め付けるものすべてから解放してあげられる。それはほとんど確信に近い感覚だった。きっと彼女もそれを望んでいるに違いない。

「どうせわたし以外の女の子にもそうやって調子いいこと言ってるんでしょう?」、鳴海は目を細めて篤樹のことを疑うように尋ねた。

「そんなことないじゃないですか。こんなことは遠野さんにしか言いませんよ」

「ちょっと、急にそんな真剣な顔して言わないでよ」、鳴海は困惑した表情を顔に浮かべていた。明らかに彼女は篤樹の言葉をどのように受け止めるべきか混乱していた。

「すみません、急に変なこと言い出して」、篤樹はいちおう謝った。

「ううん。ちょっと色々とびっくりしただけだから気にしないで」と鳴海は言ってしばらく篤樹の顔をまっすぐに見つめた。その中に異物が混入していないかどうかを、念入りに点検している食品工場の管理責任者のような真剣な眼差しで。そして彼女は囁くような小さな声で恥ずかしそうに尋ねた。「じゃあ、そこまで言うんだったら、今日の仕事終わりなんてどうかしら? 少し付き合ってほしいんだけど」

「かまいません」

「お願いだから逃げ出さないでね」

「もちろんです」と篤樹は言った。

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